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韓愈『雑説』馬説 さらなる疑問「且」の意味は?

(内容:韓愈の『雑説』に見られる「且欲与常馬等不可得」という句の「且」の意味について考察する。)

韓愈の「雑説」四、馬説について、さらにもう一つ疑問が生まれました。
また例の同僚から、また「ほんとに些細なことなんですけど…」と質問を受けたのが、「且」の用法です。

欲与常馬等不可得。

この部分の「且」の意味について、同僚が見た指導書には、次のように述べられています。

「まあ、せめては…」の意。いったん譲歩して、そのような条件下で考えてみるものの、それさえできないということ。

これが気になられたわけです。
というよりも、私もあまり深く考えていた部分ではなかったので、正直驚きました。
恥を隠さずに告白すると、単純に「その上」とか「さらに」の意だと思い込んでいたのです。

それにしても、この指導書はそう書いただけで、その解釈の根拠が一切明示されていないわけですが、どうせ何かタネ本があるのだろうと、いくつか解説書をあたってみました。
すると、明治書院の『研究資料漢文学6 文』に、

○且 まあまあ、せめては……。いったん譲歩して、そのような条件下で「まあせめて……(だが)それさえ(できない)」意。

と書かれていました。おそらくこれですね。
ほとんど同じなので、指導書の記述は、この書によるか、もしくはこの書が元にした参考書に基づくものと思われます。

この「まあ」が気になります。
教科書や参考書の類いであまり用いない、くだけた表現なので、これもきっともっと古い時代に元になったものがありそうに思いました。

そこで汲古書院の『漢語文典叢書』を探してみると、荻生徂徠『訓訳示蒙・巻四』の「苟 聊 薄 且 姑 蹔 頃 少」の項に次のように記されていました。

「且」ハ「マア」ト譯ス.「借曰(シヤエツ/カリイフ)之辭」ト云フモ.「未定辭」ト云フモ.此譯ニテ通ズ.又.「ソノウヘ」ト訓ズルコトアリ.訓ノ通リナリ.但シ.屹トシタル詞ノ.「ソノウヘ」ニ非ズ.只.詞ノツギメニオク.「ソノウヘ」ナリ.カウシタ道理ガ有テ.ソノウヘカウシタ道理モアルト云フ時ナドノ.「ソノウヘ」ナリ.又.「スラ」ノ假名ヲ.上ノ句ノ末ニ置クトキ.此ノ字ヲ.下ノ句ニ.ヲクコトアリ.「且」ノ字バカリモ.「猶且」ト連續シテモ.「猶」ノ字バカリモ.ヲクナリ.皆同ジコトナリ.又.「行且歌(アリキナガラウタフ)」「且歌(ウタヒナガラ)」「且行(アリキナガラ)」ナドト使フトキハ.「ナガラ」ト云フホドノ意ナリ.アリキテハ.マアアリキサヒテ歌ヒ.歌ヒテハマア.ウタヒサヒテ行ク意ニテ.「マア」ト且ノ字ヲ用フルナリ.

また、「將 且 行 往 看」の項には、

「且」ハ「將」ノ字ト同ジ訓ニ用フルコトアリ.詩經ニ「我且往見(ワレマサニユイテミントス)」トアル類ナリ.文選賦ニ「且千(チヂバカリ)」トアルモ「且千(マサニ―ナラントス」ト云フ意ナリ.コレモ「ヤガテ」ノ譯ナリ.元來「マア」ト譯スルガ正譯ナリ.「マア」トハ末ヲノコス詞ナル間.スヘニカウセウト云フ意ヲ.モツテヲルナリ.故ニ「將」ノ字ト通ズ.

とあります。

古くより「且」は「まあ」と解されていたことがわかります。
確かにこうすると決まっている、もしくは決めているのではなく、とりあえずしばらくはこうしようという意味がこもる字であり、「末を残す詞」、つまり今はこうしておくが、いずれはこうしようという意味だというのです。
『研究資料漢文学』の「まあまあ、せめては……。」云々の記述は、こういった日本古来の理解の延長線上にあるものだと考えてよいでしょうし、例の指導書もそれをそのまま孫引きしたということになるでしょうか。


さて、問題は古漢語語法で、この箇所の「且」の字がどう説明されるかです。
浅学にしてよく知らなかったのですが、「且」にはさまざまな用法があるようです。

まず、手元の漢和辞典を引いてみました。
すると、概ね次のような用法が指摘されています。

①「まさニ~セントす」と読んで、今にも~しそうである・~しようとしているの意。
 →これは将来を表す時間副詞としての用法ですね。

②「A且B。」(Aすら且つBす。)AでさえBするの意。
 →これはいわゆる抑揚表現で、複文の前句に用いられるものですね。後に「況C乎。」(況んやCをや。)などが続き、「ましてCはなおさらだ。」と訳すのが通例です。

③「且つ~」と読み、「その上」「さらに」などと訳す。
 →これは内容の深まりを表す用法ですね。

他に、「且」には仮設連詞の働きがあるという中国の虚詞詞典の記述を踏まえて、「もシ」と読む用法を載せている漢和辞典もあります。

まず、ざっとこんなところが検討対象になりそうです。

殷孟倫/楊慧文『韓愈散文選注』(上海古籍出版社 1986)を見ると、「且欲与常馬等不可得」の「且」の注には、

且――副词,表示“将要”。
(且――副詞。“まもなく~しようとする”(の意)を表す。)

とあります。
つまり、「且欲与常馬等不可得」は「(他の)普通の馬と等しくあることを求めようとするができない」という意味になります。
これは先の①にあたります。

手元に他の中国の解説書はないので、Web上でどのように解釈されているかを調べてみました。

1.想要和一般的马一样尚且办不到,又怎么能要求它日行千里呢?
(一般の馬と同等でありたいと思うことさえできないのに、どうして彼に一日千里走ることを要求できるだろうか。)

2.想要它和平常的马一样尚且做不到,怎么可能要求它日行千里呢?
(彼が平常の馬と同等でありたいと思うことさえできないのに、どうして彼に一日千里走ることを要求できるだろうか。)

3.让千里马在吃不饱的情况下和平常的马跑的一样快是做不到的,又怎么能够希望它日行千里呢。
(千里の馬に十分食べられない状況で平常の馬が走るのと同等であらせることがとても無理なのに、どうして彼に一日千里走ることを希望することができるだろうか。)

4.况且想要跟普通的马等同还办不到,又怎么能要求它日行千里呢?
(その上普通の馬と同じでありたいと思っても無理なのだから、どうして彼に一日千里走ることを要求できるだろうか。)

4の「況且」は、前に述べたことにさらに踏み込んで理由を述べる表現になり、「それに」「その上」と解釈できるもので、先の③にあたります。

3については、「让」の用法が「且」に直接結びつく解釈ではないように思います。

多く見られる解釈は1,2の「尚且」で、②にあたります。

『研究資料漢文学』や例の指導書が用いてる「いったん譲歩して、そのような条件下で」でという表現は、「縦」や「雖」などの譲歩連詞の働きを想像させます。

「且」が仮定の内容を表すというのは、いわゆる仮設連詞としての働きで、この譲歩連詞とは別で、

欲覇王、非管夷吾不可。(史記・斉世家)
(わが君がもし覇王になることをお望みなら、管仲でなければ無理です。)

のような用法にあたります。

では、「且」の「縦」や「雖」のような譲歩連詞としての働きについてはどうかと虚詞詞典を調べてみると、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)に次のような説明があり、馬説の例も引かれていました。

⑫连词 让步连词。可译为“虽然”、“即使”。
(⑫連詞 譲歩連詞。“雖然(ではあるが)”、“即使(たとえ~としても)”と訳すことができる。)

 今君与廉颇同列,廉君宣恶言,而君畏疑之,恐惧殊甚。庸人尚羞之,况于将相乎!(《史记・廉颇蔺相如列传》)
 ――现今你和廉颇官职相当,廉颇口出恶言,而你畏惧躲避他,害怕得特别厉害。即使普通庸人也认为羞辱,何况是将相呢!
(今あなたと廉頗は官職が同じなのに、廉頗は悪口を言い、あなたは恐れて彼から逃げ隠れして、格別にひどく恐れていらっしゃる。たとえ普通の凡人であっても恥だと思うのに、まして将相ではなおさらです!)

 微君之命命之也、臣固且有效于君。(《战国策・赵策・三》)
 ――即使没有你命令指示我,我原本也将对你有所效劳的。
(たとえあなたが私に命令して指図することがなくても、私はもともとあなたに力を尽くすつもりでした。)

 欲与常马等不可得,安求其能千里也?(韩愈《杂说・四》)
 ――即使想和普通马相等都不可能,怎么能要求它日行千里呢?
(たとえ普通の馬と等しくありたいと思ってもまったく無理であるのに、どうして彼に一日に千里走ることを要求できるだろうか。)

尹君の解釈が先の②「~でさえ」、すなわち「尚且」ではないことは、その次の項目⑬がそれであることからも明らかです。

⑬连词 让步连词。用在两事相比的复句的前一分句中,先提出程度更甚的事例为比,后一分句便对程度有差的事物作出肯定的论断,可译为“尚且”。
(連詞 譲歩連詞。二つのことが比較される複文の前句で用いて、先に程度がさらに甚だしい事例を示して比較し、後句で程度の異なる事物に対して肯定的な断定を行い、“尚且(でさえ)”と訳すことができる。)

 死马买之五百金,况生马乎?(《战国策・燕策・一》)
 ――死马尚且用五百金买它,何况活马呢?
(死んだ馬でさえ五百金でそれを買うのに、まして生きた馬はなおさらではないか?)

 臣死不避,卮酒安足辞?(《史记・项羽本纪》)
 ――我死尚且不怕,一杯酒哪值得推辞呢?
(私は死さえ恐れないのに,一杯の酒はどうして辞退するに値しましょうか?)

 管仲犹不可召,而况不为管仲乎?(《孟子・公孙丑・下》)
 ――管仲尚且还不能召见,又何况不屑做管仲的人呢?
(管仲でさえ召し出すことができないのに、まして管仲たることを潔しとしない人はなおさらではないか?)

つまり、尹君は「且欲与常馬等不可得」の「且」の用法を、「尚且」とは明確に区別して、同じ譲歩連詞としながらも、「たとえ~ても」の意としたことになります。

また、韩峥嵘『古汉语虚词手册』(吉林人民出版社1984)においても、

八、连词,表示假设或让步,用偏句的开头或主语后面,可译为“如果”、“假使”或“即使”、“就是”。
(八、連詞。仮定や譲歩を表し、偏句(偏正複文の主句に対する句)の句頭か主語の後で用い、“如果(もし)”、“仮使(もし)”や“即使(たとえ~ても)”、“就是(たとえ~ても)”と訳すことができる。)

と説明され、尹君が引用した『史記・廉頗藺相如列伝』の例やこの馬説の例が引用されています。
ちなみに、訳は次のようになっています。

即使想要〔它〕跟普通马一样〔都〕不可能,怎么要求它日行千里呢?
(たとえ〔彼が〕普通の馬と同じであることを求めたくてもできないのに、どうして彼が一日に千里走ることを要求しようか?)

要するに韩峥嵘の「且」に対する理解は尹君と同じです。
ただ、諸本のこの箇所に対する訳からは、動詞「欲」の主体が飼い主なのか千里馬なのかで揺れているようで、それはそれで別の問題として、ここでは触れないことにします。

さて、ここでもう一つ非常に興味深い解説を発見しました。
叶圣陶/吕淑湘『大师教语文』(广西师范大学出版社 2015)に収録されている「韩愈《马说》讲解」に、次のように述べられています。

[且欲与常马等不可得] “且”不是则,也不是承接连词。是副词,犹、尚且的意思。一般用法,像这句,放在“不可得”前面,作“欲与常马等且不可得”。韩集朱熹《考异》:“今按:且字恐当在等字下。”这是就一般用法说的。古籍中作犹、尚且讲的副词的“且”字有放在分句开头的。举先于韩文的例同这句比较:

兽相食,且○人恶之;为民父母行政不免于率兽而食人,恶△在其为民父母也?(《孟子・梁惠王上》)

……且○欲与常马等不可得,安△求其能千里也?

“且人恶之”就是“人且恶之”,“且欲与常马等不可得”就是“欲与常马等且不可得”。而且两句都是“……且……,恶(安)……也?”的句式。“且”同“恶(安)”密切相关。“且”字不是承接连词是很清楚的。这句用今语表达,就么是:要同常马一样尚且办不到,怎么要求它能行千里呢。

([且欲与常马等不可得]“且”は「則」でもなく、承接連詞でもない。副詞であり、「猶」「尚且」の意味である。一般用法は、たとえばこの句は、「不可得」の前に置き、“欲与常馬等且不可得”とする。韓昌黎集の朱熹の《考異》に、「今考えるに、『且』の字はおそらく『等』の下にあるべきだろう。」とある。これは一般的な用法を説明したものである。古籍の中で「猶」「尚且」として述べられる副詞の「且」の字は分句の初めに置くことがある。韓愈の文章より先の例を挙げてこの句と比較してみると、

獣相食,且○人悪之;為民父母行政不免于率獣而食人,悪△在其為民父母也?(《孟子・梁恵王上》)

……且○欲与常馬等不可得,安△求其能千里也?

「且人悪之」は「人且悪之」であり、「且欲与常馬等不可得」は「欲与常馬等且不可得」である。かつ、両句はどちらも「……且……,悪(安)……也?」の句式である。「且」は「悪(安)」と密接に関わっている。「且」の字が承接連詞ではないことがはっきりしている。この句は現代語で表現すると、「常の馬と同じであることを求めることすらできないのに、どうして彼が千里走れることを要求するのか?」となる。)

この説明では明らかに「且」を「猶」「尚且」の意であると断定しています。
私見では、「獣相食,且人悪之」と「且欲与常馬等不可得」が本当に同じ構造であろうかと疑問を感じないではありません。
「且人悪之」が「人且悪之」と同じだというのは、「人でさえそれを憎む」と解していることになり、それでは「人」と「民の父母」とを比べたことになってしまうからです。
「獣が食べ合うことさえ」というのとは解釈が異なってしまいます。

となると、『大师教语文』が馬説と同じく「且」が分句の先頭に置かれる同様の例として引用した『孟子』の例は、実は同じでないことになってしまい、他に妥当な例証がない限り、妥当な語法解説ではないことになってしまいます。
もう少し慎重な用例探しが必要な気がします。

それはさておき、韓愈の「且欲与常馬等不可得」の「且」をめぐっては、複数の解釈が成り立つことがわかりました。
どうも、私が浅学にもそうだと思い込んでいた「その上」「さらに」とする解釈は立場が弱いようですが、中国でもないわけではなく、また譲歩を表して「たとえ~ても」と解釈するものもあれば、「~でさえ」と解するものもあり、さらには、「~しようとする」と解するものもないわけではない。
そして現在の中国では、「~でさえ」とするのが目立つようです。

さまざまに解されるこの「且」の本当のところは一体どんな意味なのでしょうか。

比較的時代の近い朱熹は「~でさえ」と解しているようです。
しかし、『大师教语文』にも引用されているように、朱熹が「且字恐当在等字下。」(「且」の字は「等」の下にあるべきだろう)と注しているのは、「且」の置かれている位置が不自然だからでしょう。
だから、「欲与常馬等不可得」を「欲与常馬等不可得」とすべきだと注した。
それは「且」の位置を入れ替えることで「尚且」(~でさえ)の意味で解釈できるようにする提案です。
私はどうもそのあたりが気になります。
韓愈は「尚且」の意味のつもりではなかったのかもしれません。
ここまで調べてきて、個人的には、「且」の置かれた位置から、進展を表す連詞「その上、さらに」、または譲歩連詞「たとえ~ても」の意味ではないだろうかという気がしています。
「~でさえ」と解するには、やはり「且」があるべき位置にないような気がするのです。
ただし、何の確証もありません。

韓愈が「且」の字をどの意味で用いる傾向にあるのか、たとえば『韓昌黎集』から調べあげてもおもしろいかもしれませんね。

結局結論は出ませんでしたが、少なくともはっきりいえることがあります。
例の指導書は参考書によって、「『まあ、せめては…』の意。いったん譲歩して、そのような条件下で考えてみるものの、それさえできないということ。」と言い切っているのですが、そのように簡単なものではなく、実はさまざまな解釈があるのです。
そして、我が愛すべき同僚の「些細なことですが…」は、決して些細なことではなかったのです。

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