ユーティリティ

プロフィール

管理者へメール

過去ログ

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

エントリー

「寧A、無B」の「無」について

(内容:「寧A、無B」の形で用いられる「無」の働きと意味について考察する。)

「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」という先のエントリーで、「無」が存在文や所有文の謂語動詞ではない時、副詞として謂語を連用修飾して「~しない」という意味を表すと説明することがあることについて触れました。

そのため、「無」の後に動詞が置かれて「無A」の形を取るとき、私的にはむしろ「Aすることがない」と訳すべきだと思うのに、ことさらに「Aしない」と訳し、「不A」に同じと説明されることがあります。
それは中国の語法学で説かれる説であり、学問上の一つの考え方として捉えることはできます。
そして、私がこの考え方を是としないことについては、前エントリー「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」で述べました。

しかし、そのこととは別に動詞Aが「無」の後に置かれ、「無A」の形をとった時、それを「Aしない」という意味だと言えない形があります。
たとえば、

・寧信度、無自信。(韓・外儲説左上)
(▼寧ろ度を信ずとも、自ら信ずる無し。)
(▽寸法書きを信じる方がよく、自ら信じるということはない。)

の例は、これを「自ら信じない」と訳すことはできません。
この「無」はあくまで「無」であって、「不」とは働きが異なるからです。

本題に入る前に、「寧A、無B。」の形について述べておきます。
これは、古来「むしロAストモ、Bスルコトなカレ」、「むしロAストモ、Bスルコトなシ」と読み慣わされていて、それぞれ「いっそAしても、Bしてはいけない」、「いっそAしても、Bすることはない」などと訳されています。

実はこの日本語訳自体があやしくて、「寧」の字は「安寧」が原義で、そこからの引申義で願わしい選択、すなわち「(…するよりも)、~するほうがよい」とか「~するほうがよく、(…はしない・~することはない)」という意味を表す連詞として用いられるようになりました。
従来の「いっそ~しても」という日本語訳は、「いっそ」にいかにも投げやりな調子が感じられますが、あくまで二者を比較した上で、望ましい方を選択する意味を表すのです。

さて、そのことはさておき、この「無B」が語法的にどう説明されるかが問題です。

楚永安『文言复式虚词』(中華人民大学出版社 1986)には、次のように書かれています。

这是个表示取舍关系的格式。在其所关联的两个并列的小句中,用“宁”表示选取,用“无”表示舍弃。相当于“宁肯……也不”。
(これは取捨関係を表す形式である。その関連する二つの並列した小句において、“寧”を用いて選択を表し、“無”を用いて捨てることを表す。“宁肯……也不(……しても、~しない)”に相当する。)

これだけを読めば、なるほどと納得してしまいますが、用例に照らし合わせながら読み直すとあることに気づきます。

①进之!宁我薄人、无人薄我。(《左传・宣公十二年》)
  ――前进!宁肯我们逼近敌人,也不让敌人迫近我们。
(進め!我々が敵に迫っても,敵に我々に迫らせない。)

②臣闻鄙语曰:“宁为鸡口,无为牛后。”今大王西面交臂而臣事秦,何以异于牛后乎?(《战国策・韩策一》)
 ――我听俗语说:“宁肯做鸡嘴,也不做牛尾巴。”现在大王您面西拱手象臣子那样事奉秦国,这与做牛尾巴有什么不同?
(私は次のようにいう俗語を聞いております、“鶏のくちばしになっても、牛のしっぽにならない。”今大王様は西面拱手して家臣のように秦国に仕えておられますが、これは牛のしっぽになるのとどんな違いがありますか?)

③人曰:“何不试之以足?”曰:“宁信度,无自信也。”(《韩非子・外储说左上》)
 ――有人说:“为什么不用脚试一试鞋呢?”那个郑人说:“宁肯相信尺码,也不相信自己的脚。”
(ある人が言う、「なぜ足で靴を試さないのか?」その鄭国の人は言った、「寸法書きを信じても、自分の足を信じない。」)

③の用例はまさにここで問題としているものそのものであり、その訳も「也不相信自己的脚」なのですから、やはり「無」を「~しない」と訳してもいいではないかと思えるのですが、実はそう簡単にはいきません。

①の用例「無人薄我」は、楚永安の説明に従えば、「無」を用いて「人薄我」を捨てることを意味することになります。
つまり「人薄我」(敵が我が軍に迫る)を捨てるわけです。
ここが注意すべきところで、「敵が我が軍に迫らない」のではなく、「敵が我が軍に迫る」ことがないのです。
そうでなければ、「人薄我」という選択を捨てたことにはなりません。
言い換えれば、「人」は「無」の主語ではないということです。

もう少し他の例を見てみましょう。
「鶏口牛後」が人口に膾炙しているために、たくさん用例が見つかりそうに思えたのですが、それほど多いわけではありません。
まして、「寧A、無B」複文の後句、すなわち「無B」の部分が主謂構造になっているものは、手元のデータでは次の二例しか見つけられませんでした。

寧我負卿、無卿負我。(東坡志林・卷五)
(私があなたにそむいても、あなたが私にそむくことはない。)

この例は、「あなたが私に背かない」のではなく、「あなたが私に背くことはない」の意です。
つまり、捨てられた選択は「卿負我」(あなたが私にそむく)なのです。

帝不悦曰、「兵寧拙速、無工遲。」(新唐書・韋挺列伝)
(主上は不快げに、「軍隊は行動が緩やかであっても、糧食の運搬が遅れてはならない。」と言った。)

この例も「糧食の運搬が遅れない」のではなく、「糧食の運搬が遅れることはない」の意で、捨てられた選択は「工遲」(糧食の運搬が遅れる)です。

こうして見てくると、「無」以下が主謂構造をとる時、その主語が「無」の前に来ることはないことがわかります。
つまり、「寧A、[主語]無B」の形をとることはないということです。

つまり、先の『韓非子』の例は、「寧信度、無自信。」ですが、この後句にもし主語「我」を補うとすれば、次のようになるはずです。

寧信度、無[我]自信。

「自」があるので、内容の重複する「我」を入れてくることはないはずですが、入れるとすればこの位置になる。
「無」が捨てる選択は「自信」すなわち「私が自分を信じること」なのです。

そうであるとすれば、このような「無」を述語の行為や状態を否定する働きとみなすことはできません。
「我無信。」(私は信じない。)ではないからです。

『文言复式虚词』には、次のようにも書かれています。

 这个格式中的“无”,可同“毋”字替换,作“宁……毋”。
(この形式の“無”は、“毋”の字と換えて、“寧……毋”とすることができる。)

また、

“宁”也常与“不”相配合,组成“宁……不……”的格式,表示取舍。
(“寧”は“不”と組み合わされて、“寧……不……”の形式をとることもあり、取捨を表す。)

先の「寧我負卿、無卿負我。」によく似た例に、次のものがあります。

a.寧人負我、不我負人。(北斉書・文襄帝紀)
(人が私にそむくことがあっても、私が人にそむくことはない。)

b.寧我負人、不人負我。(南史・柳元景列伝)
(私が人にそむくことがあっても、ひとが私にそむくことはない。)

例aは別に「寧人負我、無我負人。」の形の例が見られ、例bは「寧我負人、無人負我。」の例が見られ、同じ意味で用いられていると思います。

「寧A、不B」の形のすべてがBの選択を捨てる働きを「不」がとっているとは思いません。
たとえば、

・寧使人負我、我不忍負人也。(資治通鑑・晋紀三十一)
(ひとに私にそむかせても、私は人にそむくことはできない。)

のような例も見られることから、「不」が単純に以下の選択を捨てる働きをしているとはいえず、謂語動詞の動作行為を打ち消すことも多いと思われ、むしろ「不」の場合は、その方が多い印象を受けます。
漢の劉邦の有名な言葉、「吾寧闘智、不能闘力。」(史記・項羽本紀)は、やはり「私は智を闘わせても、力を闘わせることはできない。」という意味で、もし強引に後句に主語「我」を入れれば、やはり「我不能闘力。」になるでしょう。

ただ、結論としてはっきり言えることは、「寧~、無AB。」「寧~、不AB。」の形をとってABが主語と謂語の関係の時、「無」や「不」は謂語Bを否定修飾するのではなく、あくまで「AがBする」ことの選択を捨てる働きをしているのです。

したがって、「無自信」の「無」は、「自分を信じない」ではなく、あくまで「自分を信じる」ことを捨てる、つまり「自分を信じることはない」の意なのです。

ページ移動