エントリー
カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。
(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その2。)
私がかつて『孟子』の「是亦羿有罪焉」の「亦」を、「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると誤った結論付けを下した材料として、当時、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を引用して次のように書いています。
「虚詞詞典を開いてみると、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)に、次のような記述がありました。
⑧副词 就,便。和“则”条⑳项差不多。
(副詞 就,便。“則”の条⑳項とほぼ同じ。)
として、3例が挙げられている中に、3例目に次のようなものがありました。
荘子儀曰:“吾君王殺我而不辜,死人毋知亦已,死人有知,不出三年,必使吾君知之。”(《墨子・明鬼》)…原文簡体字
――庄子仪说:“我的国君杀我,而我是没有有罪的,如果死人没有知觉就算了,死人如果有知觉,不出三年,一定要使我的国君知道这事(是要报应的)。”
(荘子儀が“わが君は私を殺すが、私は無実である、もし死人に知覚がないならそれまでのこと、死人にもし知覚があるなら、三年経たないうちに、きっとわが君にこのこと(が報いを受けなければならないということ)を思い知らせてやる”と言った。)
この例について、尹君が補足しています。
按:例3,就在同篇文中:“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”文意句式完全相同,而用“则”字,可见两字义通。
(按ずるに、例3は、同篇の文中に、“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”の例がある。文意も構文も完全に同じで、“則”の字が用いられている、二つの字義が通じることがわかる。)
つまり、尹君は『墨子』の用例を根拠に、「亦」の字が「則」に通じることを指摘しているのです。
ただこの説明は、前句に述べられた条件のもとに後句で結果を示す、いわば連詞の働きをする「則」とみるべきです。
しかし、『古今説海』本は、「是」の字を欠き「果如是、亦羿有罪焉。」に作るため、これに該当してしまうことになります。」
この尹君の説明について、『墨子』同篇に見られる2つの酷似した文の「文意も構文も完全に同じ」という説得力のある内容から、この「亦」が「則」の意味で用いられている可能性を認めたのでした。
しかし、この記述を鵜呑みにしての判断に、もう一度本当にそう言えるのかという検証の必要性を感じます。
『墨子』明鬼篇は、上中下の3篇からなるものの、現存しているのは下篇のみです。
そもそも「明鬼」とは「鬼を明らかにす」の意で、鬼の実在を明らかにすることを目的とした篇になります。
鬼とは、死霊、霊魂です。
「子墨子言曰」(墨先生がおっしゃるには)から始まり、鬼神の存在の是非は大多数の者が実際に耳や目でその存在を確認したことを基準としなければならぬと説き、実際に多くのものが共に見聞きした例が挙げられていきます。
その最初の例として、墨子は次のように述べています。
・若以衆之所同見、与衆之所同聞、則若昔者杜伯是也。周宣王殺其臣杜伯而不辜。杜伯曰、「吾君殺我而不辜。若以死者為無知則止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。」其三年、周宣王合諸侯而田於圃、田車数百乗、従数千、人満野。日中、杜伯乗白馬素車、朱衣冠、執朱弓、挾朱矢、追周宣王、射之車上、中心折脊、殪車中、伏弢而死。当是之時、周人従者莫不見、遠者莫不聞。(墨子・明鬼下)
(▼若し衆の同(とも)に見る所と、衆の同に聞く所を以てすれば、昔者の杜伯のごときは是れなり。周の宣王其の臣杜伯を殺すも辜(つみ)あらず。杜伯曰はく、「吾が君吾を殺すも辜あらず。若し死者を以て知無しと為せば則ち止まん、若し死して知有れば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知らしめん。」と。其の三年、周の宣王諸侯を合して圃に田し、田車数百乗、従数千、人野に満つ。日中、杜伯白馬素車に乗り、朱衣冠にして、朱弓を執り、朱矢を挟み、周の宣王を追ひ、之を車上に射、心(むね)に中(あ)て脊を折り、車中に殪(たふ)れ、弢(ゆみぶくろ)に伏して死す。是の時に当たり、周人の従ふ者見ざるは莫く、遠き者聞かざるは莫し。
▽もし多くの人がともに見たこと、多くの人がともに聞いたことを例に挙げるなら、昔の杜伯のごときがそれだ。周の宣王がその家臣の杜伯を殺したが(杜伯に)罪はなかった。杜伯は「わが君は私を殺すが(私に)罪はない。もし死者を知がないとするならばそれまでだ、もし死んでも知があるなら、三年以内に、必ず我が君に思い知らせてやろう。」と言った。その後三年、周の宣王が諸侯を集めて圃田で狩りをし、狩りの車数百台、従者数千人で、人が野に満ちた。日中、杜伯が白い馬、白木の車に乗り、朱色の衣冠を身につけ、朱色の弓を手にとり、朱色の矢をはさんで(現れ)、周の宣王を追いかけ、これを車上に射て、(宣王の)心臓に当て背骨を折り、(宣王は)車中に絶命し、弓袋に伏して死んだ。この時、周のともに従う者は(杜伯を)見ないものはなく、遠くにいた者はその騒動を聞かないものはなかった。)
この無実にして殺された杜伯の話の次に、100字余りの鄭の穆公(秦の穆公の誤りとされる)の短いエピソードを挟んで、次に燕の簡公がやはり無実の臣である荘子儀を殺した話が入ります。
これが尹君が引用した例になります。
・昔者、燕簡公殺其臣荘子儀而不辜。荘子儀曰、「吾君王殺我而不辜。死人毋知亦已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。」期年、燕将馳祖。燕之有祖、当斉之有社稷、宋之有桑林、楚之有雲夢也。此男女之所属而観也。日中、燕簡公方将馳於祖塗。荘子儀荷朱杖而撃之、殪之車上。当是時、燕人從者莫不見、遠者莫不聞。(墨子・明鬼下)
(▼昔者、燕の簡公其の臣荘子儀を殺すも辜(つみ)あらず。荘子儀曰はく、「吾が君王我を殺すも辜あらず。死人知毋ければ[亦]已まん、死人知有れば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知らしめん。」と。期年にして、燕将に祖に馳せんとす。燕の祖有るは、斉の社稷有り、宋の桑林有る、楚の雲夢有るに当たる。此れ男女の属して観る所なり。日中、燕の簡公方に将に祖の塗(みち)に馳せんとす。荘子儀朱杖を荷(ふる)ひて之を撃ち、之を車上に殪(たふ)す。是の時に当たり、燕人の従ふ者見ざるは莫く、遠き者聞かざるは莫し。
▽昔、燕の簡公がその家臣の荘子儀を殺したが、(荘子儀に)罪はなかった。荘子儀は「わが君王は私を殺すが、(私に)罪はない。死人に知がなければ[亦]それまでだ、死人に知があれば、三年以内に、必ず我が君に思い知らせてやろう。」と言った。一年経って、燕(公)は祖の祭りに行こうと車を馳せていた。燕国に祖の祭りがあるのは、斉国に社稷の祭りがあり、宋国に桑林の祭りがあり、楚国に雲夢の祭りがあるのと同じである。これは男女が連なり出かけ観るものである。真昼に、燕の簡公がちょうど祖の祭りへの道に車を走らせていた。荘子儀が朱杖をふるってこれを撃ち、簡公を車上で殺した。この時、燕のともに従う者は(荘子儀を)見ないものはなく、遠くにいた者はその騒動を聞かないものはなかった。)
この文を先の杜伯の例と見比べれば一目瞭然ですが、ほとんど同じ構成になっています。
これが尹君が「文意も構文も完全に同じ」として、荘子儀の例の「亦」の位置に、杜伯の例では「則」が置かれ、「二つの字義が通じることがわかる」と指摘した事情になります。
すなわち、
・若以死者為無知則止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。(杜伯の例)
・死人毋知亦已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。(荘子儀の例)
です。
表現は微妙に異なりますが、尹君が指摘しているように、文意は同じと考えてよいでしょう。
したがって、同じ位置に「則」と「亦」が置かれているのだから、「則」と「亦」の字義は通じるという判断がなされたのです。
しかし、それは本当に妥当でしょうか。
ここからは臆断になりますが…
この2つの話は、同じ語り手である墨子による表現です。
しかも極めて近接した位置にあり、杜伯の事件を述べた後、わずか100字余りで荘子儀の事件を述べ始めています。
これが地の文であれば、墨子の意識として、「前の杜伯と同じように荘子儀もまた」あるいは、「荘子儀もやはり」と解してよいと思います。
ですが、「死人毋知亦已」は荘子儀の言葉そのものです。
常識的には、以前の別の例を念頭に置いて「やはり」とは表現できないところです。
また、色々と評価の考えられる中で、荘子儀がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものとも考えにくいでしょう。
しかし、荘子儀の言葉は、彼が自ら語ったものではなく、墨子の口を借りて表現された、あるいはこの『明鬼下』を記録した記録者の筆を借りて表現されたものです。
杜伯の事件を述べた後、ほとんど離れぬ位置にあって、さらにほぼ同じ内容の荘子儀の事件を表現するにあたり、前項の内容が念頭に残っていて、「前に述べたのと同じようにやはり」と表現した可能性はないでしょうか。
つまり、「死人に知がなければ、杜伯がそう言ったのと同様、これもまたそれまでのこと」です。
尹君が「文意も構文も完全に同じ」ことを理由に「則」と「亦」の字義が通じると論じた、まったく同じ事情から、2つの文が「文意も構文も完全に同じ」で近接した位置で述べられているからこそ、前者でなく後者の方で「亦」が用いられているのではないだろうかと、私には思えるのです。
まさに臆説というべきかもしれませんが。
(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その1。)
3年前のエントリーになりますが、「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」という記事を書きました。
今、「亦」の字の働きを考えていくことを通して、明らかにその当時の記事に考察の誤りや不備があることに気づきましたので、改めて書き直してみたいと思います。
問題の論点は、『東田文集』所載の『中山狼伝』の最終場面で、東郭先生に助けを求められた老人が、狼の言い分も聞いた上で、
・果如是、是羿亦有罪焉。
と明言しますが、この表現が、もとになった『孟子』の文と「亦」の字の位置が異なるところにあります。
老人の言葉は「果たして是(か)くのごとくんば、是れ羿にも亦た罪有り」と読み、「本当にもしそうなら、これは羿にも罪がある」という意味になります。
ところが、もとになった『孟子』には、
・逢蒙学射於羿、尽羿之道、思天下惟羿為愈己、於是殺羿。孟子曰、「是亦羿有罪焉。」
(▽逢蒙が射術を羿に学び、羿の射術を極め尽くして、天下にただ羿だけが自分より勝ると思い、そこで羿を殺した。孟子は「是亦羿有罪焉。」と言った。)
とあり、『中山狼伝』の「羿亦」が、『孟子』では「亦羿」になっています。
是羿亦有罪焉。(東田文集)
是亦羿有罪焉。(孟子・離婁下)
この異同がなぜ起こったのかと、「亦」の字の位置により、どのように意味が異なるのかについて考察したのが前エントリーでした。
その折、次のように書きました。
「そもそも「亦」の位置が入れ替わることにより、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。
一般に高等学校の漢文では「亦」は、「~もまた」と読み、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す字と取り扱います。
それに従えば、『東田文集』の「是羿亦有罪焉」は、羿にもまた罪がある、つまり、「狼に罪があるが、東郭先生にも罪がある」と、事情が同じであることを示すことになります。」
これは、「則」の「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)、「AはBする・AはBである」という分説の対極にある、「亦」の合説の用法になります。
つまり、「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)、「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表します。
すなわち、
・狼有罪、東郭先生亦有罪。
(狼に罪があり、東郭先生にも罪がある。)
です。
この東郭先生を孟子の言葉を借りて「羿」に置き換えているわけです。
さて、おかしくなってくるのが、次のくだりからです。
「しかし、孟子の本文は「是亦羿有罪焉」であって、もし「亦」の働きが前述のものであるならば、「羿にも罪がある」という意味にはなり得ません。
なぜなら、「亦」がこの位置に置かれるということは、「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味にならざるを得ないからです。
『孟子』の本文を見る限り、他に羿の罪と判断できる事件はありません。
とすれば、「亦」の働きは「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」と考えるわけにはいかなくなります。」
当時私は、「亦」の働きを「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」とのみ考えていたために、このようなおかしなことを書くことになったわけですが、孟子の言葉は、もちろん「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味ではありません。
この後、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を手がかりに、「亦」が「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると結論付け、「教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をとったこと、その点をもって、師の羿にこそ罪がある」と述べたのが孟子の趣旨だとしました。
しかし、孟子の言葉はそのような意味ではなく、教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をもった羿について色々と評価の考えられる中で、孟子がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものでしょう。
つまり、「是亦羿有罪焉。」とは、「これはやはり羿に罪があるのだ」です。
明治書院『新釈漢文大系4 孟子』は「これは羿にもやはり罪がある。」と訳していますが、「羿にも」の意味ではないと思います。
さらに私は次のように述べています。
「「亦」を「(~も)また」と読むからといって、あるいはそう読まれているからといって、日本語通りの意味だと思い込むのは極めて危険な判断です。
「亦」には、一般にあまり知られていない意味がいくつもあります。
たとえば、『孟子・梁恵王上』の有名な一文、
亦有仁義而已矣。
「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。」
これがもはや私の中で否定されていることは、前エントリーで述べました。
中国の虚詞詞典や、岩波文庫『孟子』の記述を鵜呑みにして自分で検証しようともせず、そういう働きがあるのだと思い込んだ「極めて危険な判断」だったかもしれません。
我ながら情けない恥ずかしい判断だったと今は思います。
前エントリーで私が最終的な判断を下した材料として、尹君『文言虚词通释』の説明を採用したのですが、そのことについても今はどうだろうか…と思えてきます。
それについては、項を改めて書いてみたいと思います。
(内容:かつて論じた「使役文は兼語文か?」について、「隗より始めよ」の例文から再論する。)
昨秋、「使役文は兼語文か?」というエントリーを4回にわたって書きました。
「A使BC」(A BをしてCせしむ)という使役文が、「ABを使す」と「BCす」の2文が1文化したものとする通説に、疑問を呈したものです。
とはいえ、その後も疑問を感じるものの授業では通説に従い、この形式を兼語文として教えてきました。
しかし、どこかで「使」は「して」(~に)であって「しむ」(~させる)ではないのではないか?という意識が働いていました。
そしてこの夏、教職大学院実習で1年生の漢文の授業を担当してもらうことにし、いわゆる『十八史略』の「先づ隗より始めよ」を教材としました。
この作品は抑揚の形を学ぶ教材として強く意識されていたのですが、実習生の指導案を見ながら、おや?と思いました。
・古之君有以千金使涓人求千里馬者。
(▼古の君に千金を以つて涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。
▽昔の君主に、涓人に千金で千里の馬を買いに行かせた者がいた。)
この文が、いわゆる存在文と使役文からなるものなので、実習生はそれを理解しやすくなるようにそれぞれ分けて説明しようとしていたのですが、使役文として取り出した文が次の形になっていることに、ちょっと衝撃を受けました。
・以千金使涓人求千里馬。
(▼千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむ。)
これが、あれ?と思わせたのです。
『十八史略』のこの文は、その元になった『戦国策』では、次のようになっています。
・古之君人、有以千金求千里馬者、三年不能得。涓人言於君曰、「請求之。」(戦国策・燕一)
(▼古の君人に、千金を以て千里の馬を求むる者有り、三年得る能はず。涓人君に言ひて曰はく、「請ふ之を求めん。」と。
▽昔の君主に、千金で千里の馬を求めるものがいたが、三年手に入れられなかった。涓人が君に「どうかこれを探させて下さい。」と。)
同じ劉向の『新序』では、
・古人之君、有以千金求千里馬者、三年不能得、馬已死、買其骨五百金、反以報君。(新序・雑事三)
(▼古人の君に、千金を以て千里の馬を求むる者有り、三年得る能はず、馬已に死し、其の骨を五百金に買ひ、反りて以て君に報ず。
▽昔の人の君主に、千金で千里の馬を求めるものがいたが、三年手に入れられなかった、馬はすでに死んでいたが、その骨を五百金で買い、戻ってそれを君に報告した。)
となっており、話の設定が『戦国策』とは少し異なります。
あるいは、三年得られなかった段階で、涓人が「私が探します」と申し出た話が割愛されているのかもしれません。
ともあれ、『戦国策』も『新序』も、この箇所は使役の形をとっていません。
おかしいので、もしやと思い、『資治通鑑』を開いてみると、次のようになっています。
・古之人君有以千金使涓人求千里馬者、馬已死、買其首五百金而返。(資治通鑑・周紀三)
(▼古の人君に千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り、馬已に死し、其の首を五百金に買ひて返る。
▽昔の君主に千金で涓人に千里の馬を求めさせるものがいた、馬はすでに死んでいて、その首を五百金で買って帰ってきた。)
曾先之が何をもとにしてこの話を書いたのかは判然としませんが、『資治通鑑』が明確に使役の形をとっているところを見ると、あるいはこれが元だったのかもしれません。
私が何に驚いたのかというと、もしもこの使役文が兼語文だとすると、次の2文から構成されることになることです。
・(古之君)以千金使涓人。
・涓人求千里馬。
後文は「涓人が千里の馬を求める」で、何ら問題はありません。
しかし、前文は構造的に「(昔の君主が)千金で涓人を使役する」になってしまいます。
千金は涓人を使役するために用いたのではなく、あくまで千里の馬を購入するための資金です。
おかしいのではありませんか?
「千金で千里の馬を求めさせる」なら、次のようにならなければなりません。
・(古之君)使涓人。(昔の君主が涓人を使役する。)
・涓人以千金求千里馬。(涓人が千金で千里の馬を求める。)
この2文が兼語「涓人」を介して1文化し、
・(古之君)使涓人以千金求千里馬。
(▼(古の君)涓人をして千金を以て千里の馬を求めしむ。
▽(昔の君主が)涓人に千金で千里の馬を求めさせた。)
となる。
これが、兼語文の構造のはずではないでしょうか。
それなのに、「以千金」が「使」の前に置かれていることをどう説明すればよいのでしょう。
「使」を飛び越えて、「求」を修飾しているのだというのは、構造的に説明がつかないと、私には思えるのです。
北宋の司馬光が「以千金使涓人求千里馬」と書き、宋末元初の曾先之がそのままその表現を受け継いだ。
少なくともこの時代、この使役構造を兼語文のようには理解していなかったのかもしれません。
1例をもって決めつける愚は避けねばなりませんが、私にはやはり「使」は「して」であって、「使涓人」(涓人に)によって、後の「求」が使動態になっているのではないかと思えてきます。
使役文を兼語文とみなしておられる方々は、これをどのように説明されるのでしょうか。
(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その3。)
前エントリーまで、「亦」が限定を表すかという問題について論じてきました。
次に私が学生時代に読み、なるほど「亦~而已矣」の「亦」は「たダ」と読んで限定を表すのだと知って驚いた岩波文庫『孟子』の、小林勝人氏の記述について考えてみたいと思います。
氏は「梁恵王章句上」の「亦有仁義而已矣。」の部分に、次のように注しています。
亦の字、趙岐は亦惟をもってこれを釈き、群書治要は惟を唯に作っておる。亦の字は普通は上文を承けて「も亦」とよまれるが、ここでは上文を承けていない独立の助字と見なして、本書の旧版(昭和十一年刊行)においてはじめて「ただ」と訓じておいた。なお、滕文公上篇第四章の「亦不用於耕耳」および告子下篇第二章の「爰有於是、亦為之而已矣」・同篇第六章の「君子亦仁而已矣」などの亦の字も、同じくまた「ただ」とよむのがよい。
「はじめて『ただ』と訓じておいた」というくだりに、氏の自分が初めてそれを論じたのだといわんばかりの口吻を感じるし、この勢いに押されてそうなのかと思ってしまいそうな気もするのですが。
まず、趙岐の注を見ましょう。
『十三経注疏校勘記』によれば、諸本文字異同があるようで、
・「亦有仁義之道」,閩、監、毛本同,宋本「亦」下有「惟」字,廖本、岳本「道」下有「者」字,孔本、韓本、考文古本作「亦惟有仁義之道者」。
との記載に従えば、小林氏が見たのは宋本ということになるのですが、そうすると、趙岐の注は次のようになります。
・孟子知王欲以富国強兵為利、故曰、王何以利為名乎、亦惟有仁義之道可以為名。
(▼孟子王の富国強兵を以て利と為すを知り、故に曰はく、王何ぞ利を以て名と為すや、[亦]惟だ仁義の道以て名と成すべき有るのみと。
▽孟子は王が富国強兵を利としているのを知ったから、王はなぜ利を名分とするのか、[亦]ただ仁義の道を名分とすべきことあるのみですと言った。)
小林氏は『孟子』本文が「亦有仁義而已矣」とある部分が、趙岐の注では「亦」が「亦惟」となっているから、「亦」を「ただ」とよむのがよいと主張しているわけです。
しかし、「而已矣」に呼応しているのは「惟」であって、「亦」は「やはり」と解すればよいのではないでしょうか。
つまり、「やはりただ仁義があるのみです」です。
趙岐は「而已矣」による限定の文意を明確にするために「惟」を補ったのでしょう。
「亦」が「惟」の意だと考えていたなら、「惟有仁義之道可以為名」と書き換えていたはずです。
氏が指摘する『群書治要』には、次のようになっています。
・亦惟有仁義之道可以為名耳。(群書治要・巻37)
先の趙岐の注に見られない「耳」が文末に置かれ、「唯」が「惟」になっていますが、これも「亦」が置き換えられたわけではありません。
「亦」は「亦」として機能しているからこそ、「唯」や「惟」単独に置き換えられていないのではないでしょうか。
失礼ながら、これだけでは小林氏の主張は成立しないと考えます。
「亦」が限定の意味を表すかという考察の最後に、解恵全 等による『古書虚詞通解』の記述を引用します。
此项诸例“亦”句句末大多有表示限止的语气词“耳”“已”“而已”,其实“亦”还是也,虽说可以译为只、特、但、不过,那也是受句意和句尾语气词的影响所致。
(この項の諸例は“亦”句の句末にほぼ限定を表す語気詞“耳”“已”“而已”があり、実際のところ“亦”はやはりである、只、特、但(ただ)、不過(過ぎない)と訳せるとはいえ、それらは句意や句末の語気詞の影響によるものである。)
私の出した結論と同じですね。
次に、検証すべきは、予期と逆になることを表し「かえって」などと訳されるとする「亦」です。
虚詞詞典、たとえば『古代漢語虚詞詞典』(中国社会科学院語言研究所古代漢語研究室編、商務印書館2012)に示されている例を1つ挙げると、次の通りです。
・上帝不神、祝亦無益。(晏子春秋・内篇諫上)
(▼上帝神ならずんば、祈るも亦た益無し。)
これを「天帝が神明でないならば、祈ってもかえって無益である。」と解するわけですね。
これも例文だけを見れば、なるほど「亦」は「かえって」という意味なのか…と納得してしまいそうです。
限定の例の場合と同じく、虚詞詞典を見た学生や先生方が、そうなのだと信じてしまう記述になっています。
はたしてどうでしょうか?
原典にあたってみましょう。
斉の景公が皮膚のかゆくなる病気にかかり、あわせて瘧(熱病)にもかかって、一年経っても良くなりませんでした。
景公は史官と、主人のために幸いを祈る祝官に山川宗廟を祀らせ、平癒を祈らせましたが、治るどころか悪化するばかり。
景公は史官と祝官を殺して上帝に申し開きをしようと考え、晏子に意見を聞きます。
すると晏子は「祈ることに益があるとお考えでしょうか?」と言うので、景公はそう思うと答えます。
晏子は「祈ることに益する力があるなら、呪うことにも害を与える力があるはずです。主君が家臣を疎んじ遠ざければ、誰も諫言をしなくなります。そもそも国民の多くが政治を恨んでいるのに、あの2人が祈るだけでは呪いに勝てません。そのうえ祈りの際に、本当のことを言えば主君を誹ることになり、過ちを隠せば上帝を欺くことになります。上帝が神明であれば欺くことはできないし、…」
この晏子の言葉の続きが例文「上帝不神、祝亦無益」です。
話の流れからもう明らかなように、「祝亦無益」は「祈ってもやはり益がない」です。
つまり、「上帝が神明であれば、祈りの嘘がばれて、益がない」という条件文に対して、別の条件の場合でも同じ結果になることを示す「亦」(~もやはり)の用法です。
別に転じた事情になるわけではなく、「無益」という同じ結果になるわけです。
長々と論じてきましたが、虚詞に限らず、字の意味や機能を考えるとき、合理的に説明がつくからこの字にその意味や機能があると考えることは、大変危険なことです。
それはそう解する方がわかりやすいということから起きるのだと思いますが、字の働きや意味を、その字本来の働きや意味から離れて、文脈から合理的に解釈しようということに対する危険性の指摘です。
そして大いに矛盾したことを言うようですが、同時に文脈から字の働きや意味を冷静に分析することも重要だと思うのです。
中国の虚詞詞典に載せられている例文は、複数の書において同例であることが極めて多いのですが、一つひとつ丹念に例として妥当であるかどうかを、執筆者が確認せずに引き写していることもあるのではないかと懸念します。
しかし、そのことは同時に私自身への戒めでもあります。
過去のエントリーやページエントリーに、誤りはたくさんあるはずです。
恥をさらしても、誤りは正し、そのことを皆さんに報告しなければならないと考えます。
「則」字についての「『鴻門の会』・語法注解」の誤り、「亦」字についての過去エントリー「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」の誤りは、近々訂正したいと思います。
(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その2。)
前エントリーの続きです。
(4)文子曰:“吾聞之也,国有道,則賢人興焉,中人用焉,百姓帰焉。若吾子之語審茂,則一諸侯之相也,亦未逢明君也。”(《大戴礼記・衛将軍文子》)
(▼文子曰はく:“吾之を聞くなり,国に道有れば,則ち賢人興り,中人用ゐられ,百姓帰す。吾子の語審茂なるがごときは,則ち一に諸侯の相なり,[亦]未だ明君に逢はざるなり。”と。
▽文子が「私はこのことを聞いています,国に道があれば,賢人が起こり,並の人が用いられ,人民が帰服します。あなたの言葉がとても盛んであることは、ひとえにみな諸侯にふさわしい相です。[亦]まだ明君には巡り会っていないのでしょう。」と言った。)
この例にも背景があります。
衛将軍文子が、孔子の高弟の子貢に、孔子の弟子70余人の中で誰が賢であるかという質問をしました。
これに対して、子貢は賢を知るということは難しいことであって、自分はわからないと答えます。
文子はなおも食い下がって、「あなたは自ら孔子の門に学んだのだから、あえて質問するのです」と迫ります。
弟子にも色々あって全てを知っているわけではないと渋る子貢に、文子は「あなたの知り得る限りでよいから、どうかその人物の行いを聞かせてほしい」と粘ります。
そこで子貢は、孔子の弟子たち、すなわち顔淵、冉雍、子路、冉求、公西赤、曾参、子張、子夏、澹台滅明、子游、南宮括、高柴、12人について、彼らがいかに優れ、孔子が高く評価していたかを述べます。
そして、「これが私が自分で見たことです。あなたが質問されたから言ったのであって、私自身は賢を見極めることはできません」と答えるのです。
例文はその直後、文子が述べた言葉になります。
子貢が顔淵について述べた際、「故国一逢有徳之君、世受顕命、不失厥名、以御于天子以申之。」(ですから、国にひとたび徳のある君に巡り会えれば、世々君の信頼を承け、その名誉を失わず、天子に侍してその名誉を重ねることになる。)と指摘しています。
しかし実際には顔淵はそのような立場にたつことはありませんでした。
子貢が自分の見た事績を話した12人は、いずれも優れた君主に巡り会えば、才能を発揮できるだけのものをもっていたわけです。
ところが、実際にはそうはなっていない。
その事実が、文子に「亦未逢明君也」と言わせたのです。
これは「ただまだ明君に巡り会っていないのだ」という意味でしょうか?
私は、文子が子貢の話を聞いて、「明君による政治のもとには賢人は用いられるものだが」という思いから、「やはりまだ明君に巡り会っていないのだ」と判断し、自分の出した結論として述べたのだと思います。
(5)今是人之口腹,安知礼義? 安知辞譲? 安知廉恥隅積? 亦呥呥而嚼、郷郷而飽已矣。(《荀子・栄辱》)
(▼今是の人の口腹,安くんぞ礼義を知らん,安くんぞ辞譲を知らん,安くんぞ廉恥隅積を知らん。[亦]呥呥として嚼み,郷郷として飽くのみ。
▽今あの人の口と腹は,どうして秩序や道を知ろう,どうして譲り合いを知ろう,どうして恥じる心や道理を知ろう。[亦]むしゃむしゃと噛み,ひたすら満腹するだけである。)
この例も「亦」が文末の語気詞「已矣」と呼応して限定を表すとみなされています。
この文だけを見れば確かにそのようにも見えるわけですが。
しかし、この場合もどのような文脈でこの「亦」が用いられているのかという検証が必要です。
この例文に先行する内容は次の通りです。
全て人間には共通点があって、空腹なら食べ物を求め、寒ければ暖を求め、疲労すれば休息を求めるもので、これらは後天的なものではなく、生まれつきもっているものである。
尭舜も生まれながら聖人としての性質を備えていたわけではなく、本性を改善し修養に努力して初めて聖人となったのである。
だから、小人は、修養を積んだ君子に導かれて善になるしかない。
このくだりで先の口腹の例が来るのです。
人の口腹はまさに人の喩えであって、本来の性質は道理を理解するものではない。
食べるものがあれば、人が「空腹なら食べ物を求め、寒ければ暖を求め、疲労すれば休息を求める」ように、「むしゃむしゃと噛み、ひたすら満腹するばかり」です。
つまり、人がそうであるように、口腹「もやはり」です。
この例文が限定の意味を表すのは、語気詞「已矣」の働きであって、「亦」は合説「もやはり」でしょう。
(6)臣聞之,亦有君之不能耳,士無弊者。(《韓非子・難二》)
(▼臣之を聞く、[亦]君の能くせざる有るのみ、士に弊(つか)るる者無し。
▽私はこのことを聞いています、[亦]君のおできにならないということがあるだけです、兵士に疲れている者はおりません。)
まず、この例の先頭「臣聞之」は、この位置では意味をなさず、注釈書で「士無弊者。」の後に置かれるべきだと指摘されています。
そのことはともかくとして、これに先行する部分では、次のような内容になっています。
晋の趙簡子が衛の都を包囲した時のこと、簡子が盾に囲まれ矢石の届かない所に立って、攻め太鼓を打つも、兵士が奮い立ちませんでした。
簡子が太鼓のばちを投げ捨てて言う、「ああ、我が兵士は疲れ果ててしまった」。
すると賓客をつかさどる役の燭過というものが、かぶとを脱いで答えます。
このあと、例文が来るのです。
この場合、君ができないことがあるという話が先行箇所にはありません。
したがってこの「亦」は合説の用法ではあり得ません。
「亦~耳」と呼応しているために、「亦」を限定の副詞とする説の有力な例とも言えそうです。
ただ、この続きの中で、燭過は、先君の献公が多くの国を併合服従させ、12回も戦争に勝利したのは同じ民を用いてのことだとし、その次の恵公は暗愚で美女に溺れ、秦に攻め込まれたけれども、それも同じ民を用いてのことだと言います。
その箇所は「亦是人之用也」(亦た是の人を之れ用ゐるなり)と表現されています。
さらに、次の文公は武勲をあげ、名を天下に響かせたが、それもやはり同じ民を用いてのことだとし、「亦此人之用也」(亦た此の人を之れ用ゐるなり)と表現しています。
この2つの表現は合説です。
そしてその直後、また「亦有君不能耳」(亦た君の能くせざる有るのみ)と述べています。
わずかの範囲で「亦」が4回用いられ、そのうち2つは限定だが、2つは「もやはり」の意味の合説だというのはおかしくはないでしょうか。
文章の用字としても誤解をふせぐべく、限定なら「唯」などを用いて、区別するのが自然ではないでしょうか。
最初に紹介した「范増論」の「亦」を想起します。
『孟子・梁恵王上』冒頭の次の有名な文にも似たような表現があります。
・孟子見梁恵王。王曰、「叟不遠千里而来。亦将有以利吾国乎。」孟子対曰、「王何必曰利。亦有仁義而已矣。」
(▼孟子梁の恵王に見ゆ。王曰はく、「叟千里を遠しとせずして来たる。亦た将に以て吾が国を利する有らんとするか。」と。孟子対へて曰はく、「王何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。」と。
▽孟子が梁の恵王に目通りした。王が「先生は千里の道を遠いと思わずにいらっしゃった。やはり我が国を利してくださるおつもりですか。」と言うと、孟子は「王様はどうして利とおっしゃる必要がありましょうや。やはり仁義があるのみです。」とお答えした。)
この例もなにしろ章の初めの冒頭の一節ですから、先行する部分などはありません。
しかし、登場する2つの「亦」について、たとえば『新釈漢文大系4 孟子』(明治書院1962)は次のように解しています。
亦将有以利吾国乎
→それは、先生もまた他の人のように、わが梁の国を強くし、ひろげ、富まそうとして下さるのでありましょうか。
亦有仁義而已矣
→(利などということより、昔の聖賢のように、)王もまたやはり仁義をおこなうということがあるだけです。
この2つめの例を、岩波文庫『孟子』が「たダ」と読んでいることは前述しました。
しかし、教科書などでもよくとられるこの箇所は、概ね前者の「亦」を「他の遊説者と同じようにあなたもまた」、後者の「亦」を「古の聖賢のように、王もまた」と解していると思います。
本文に一言も書かれていない内容を補って合説に解しているわけです。
一方で、この2つめの例は「亦」は限定の範囲副詞だとする解釈が最近の主流になりつつあり、私なんぞも3年前のエントリー「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」で、拙速にも
「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。
などと述べています。
まだ中国の語法解釈に熱を上げていた頃のもので、それを検証もせずに鵜呑みにした記述だなあと恥ずかしくなり、過去記事といえども改めなければという気になります。
この例について、先に引用した『標準漢文法』には興味深い指摘があります。
亦将有以利吾国乎
→矢張私の想像通り
亦有仁義而已矣
→私は利以外に仁義が有ると思ふ其の私の考通り
このように解して、
これらも種々に考へられる中の一つの考に就いてその考の樣に矢張といふのである。本副詞であるから「も」の意味はない。
と述べています。
この松下氏の説明を鵜呑みにしてしまっては、また同じ轍を踏むことになるのですが、私は「ただ」と解釈した方が意味が通るとか、「而已矣」や「耳」などの語気詞と呼応しているから「ただ」の意だとして済ませてしまうのは、どこか危険な気がしてならないのです。
「亦将有以利吾国乎」の「矢張私の想像通り」というのは、多くの遊説者に接してきた可能性の高い梁の恵王が、どの遊説者も登用してもらおうと思って、私なら貴国に利益を与えられますと自己アピールしてきた経験から、おおかたこの孟子も同様に利益を与えると言うのであろうと予期していたことを背景にしています。
ですから、「先生もまた他の人のように」という解釈と、少なくとも指す事実については大きなズレはありません。
「亦有仁義而已矣」の「私は利以外に仁義が有ると思ふ其の私の考通り」は、従来にはなかった(というより、はるか100年前に述べられていたのですが顧みられなかったというべきでしょうか)解釈です。
しかし、あれこれ考え得る中で、やはりこうだと思う自分の考えの通り「やはり」とするこの「亦」の解釈は、「亦」の本来の働きに基づきつつ、先行する部分に同様の内容がない場合に、うまく説明できる解釈だと思います。
先の例の「亦有君之不能耳、士無弊者。」も、同様の例を背景にするものではなく、燭過が己の判断の中でこれだと思うものを示して「やはり君のおできにならないということがあるだけです」と述べているのではないでしょうか。
(7)子撃因問曰:“富貴者驕人乎? 且貧賤者驕人乎?”子方曰:“亦貧賤者驕人耳。”(《史記・魏世家》)
(▼子撃因りて問ひて曰はく:“富貴なる者人に驕るか,且た貧賤なる者人に驕るか。”と。子方曰はく:“[亦]貧賤なる者人に驕るのみ。”と。
▽子撃はそこで「富貴な人が人に驕り高ぶるのでしょうか,それとも貧賤な人が人に驕り高ぶるのでしょうか。」と質問した。田子方は「[亦]貧賤な人が人に驕り高ぶるのだ。」と言った。)
魏の文侯の子の子撃が、父の師である田子方に出会い、車を避けて謁見の礼をとったのに、田子方が答礼しなかったことに対して、おそらく感情を害したのか、問いかけた質問です。
富貴な人と貧賤な人と、どちらが人に対して驕り高ぶるのかという問いに対して、田子方は「亦貧賤者驕人耳」と答えるわけですが、これは「ただ貧賤の者だけが」という意味ではないでしょう。
二者選択を迫る問いに対する答えは1つです。
どちらかを答えればよいわけですから、「亦」を限定の副詞と解する必要はありません。
どうであろうかと自分で考え、「やはり」貧賤な者が人に驕り高ぶるのだと答えたのだと思います。
ちなみに、田子方は、富貴の者が驕り高ぶれば、国や家を失うことになるが、貧賤の者の場合は、君主と合わず、意見が用いられなければさっさと他国へ行ってしまう、もともと同日には論じられない問題だと言います。
(8)捲簾唯白水,隠几亦青山。(《杜工部集・悶》)
(▼簾を捲けば唯だ白水,几に隠(よ)れば[亦]青山。
▽簾を巻き上げればただ白く光る川の水,脇息に寄りかかれば[亦]青い山。)
南方にあって長く故郷に帰ることのできない杜甫の憂鬱を詠じた詩です。
「捲簾唯白水」は、簾を巻き上げて見えるのはただ白水のみという意味です。
この「唯」と同じ位置に置かれているから「隠几亦青山」も「几に寄りかかって見えるのはただ青い山々だけ」と解釈したわけでしょう。
しかし、この「亦」は別の条件の場合と同じ結果になることを示しているのです。
「几に寄りかかってもやはり見えるのは青山だけ」というわけで、別に「亦」が限定を表しているわけではないでしょう。
以上、『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)が「亦」を「限定を表す」とし、「人、事物や動作、行為の対象がある範囲に限られることを表す」と説明する用法の例文を検証しました。
総じて言えることは、前エントリーにも述べたように、例文単独では「亦」が「唯」のように限定の副詞であるかのように見えても、例文の背景を丹念に探れば、「亦」本来の義で十分解釈できるということです。
喩えに不適切かもしれませんが、「信じられるのは、やはり君だけだ」という文があったとして、この「やはり」は限定を表しているでしょうか?
(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その1。)
前エントリーまで、「則」の字の機能について考えてきましたが、その過程で「亦」の字が「則」の対極にあるものという認識を新たにしました。
つまり、「A則B」(Aすれば則ちBす)は「Aする場合はBする」の意の条件文で、「則」が「その場合」という意味を表します。
一方、「A亦B」(Aするも亦たBす)は「AしてもBする」で、別の条件の場合でも同じ結果になることを示し、「亦」が「~もやはり」という意味を表すことになります。
これは条件文における「則」と「亦」の対です。
さらに、「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)は、「AはBする・AはBである」という分説で、Aが他の場合とは異なることを表し、「則」がいわば「は」に相当します。
一方「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)は合説で「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表して、「亦」は「~もやはり」の意で対になります。
ですから、概ね学校現場では読み通り「~もまた」と訳せばよいで済まされていることが多いのでは?と推察します。
ですが、「亦」の字の働きは意外に難しい面があるように思います。
なぜなら、「~もまた」と訳すと、意味が通らないことが往々にしてあるからです。
たとえば『標準漢文法』(紀元社1927)に例として挙げられている次の文は、「~もまた」と訳すと意味不明になります。
・雖然増高帝之所畏也。増不去、項羽不亡。嗚呼増亦人傑也哉。(蘇軾「范増論」)
(▼然りと雖も増は高帝の畏るる所なり。増去らざれば、項羽亡びず。嗚呼増亦た人傑なるかな。
▽そうではあるが范増は高帝(劉邦)の恐れたひとであった。范増が(項羽のもとを)去らなければ、項羽は滅びなかった。ああ范増はやはり人傑であるなあ。)
この例などは「范増もまた人傑であるなあ」と訳すと、意味が通らなくなります。
他の人傑を述べたくだりで「范増も」という場面ではないからです。
これについて松下大三郎氏は、非常に鋭い説明をしています。
「亦」は本副詞にもなる。日本語の「も」は助辭であるが之と似た意味の語を副詞に求めれば「やはり」である。「亦」が接續詞である場合は「…も、やはり」の意であるが、本副詞の場合は「も」と伴はない「…やはり」である。
として、『論語・学而』の「子曰学而時習之。不亦説乎。…」や「范増論」を含めたいくつかの例を挙げた上で、
の「亦」の類で、これは形式副詞ではなく本副詞である。色々考へてその適當なるものを求める語で「やはり」の意である。「不亦説乎」は、悦ばしくないか否矢張悦ばしい」の意、「亦人傑也哉」は「人傑ではないか、矢張人傑だ」の意である。されば「増亦人傑也哉」を「増も亦…」と讀むと「亦」が接續詞の「亦」になるから「嗚呼、増は亦人傑なるかな」と讀むべきである。
と説明しています。
(最近、この『標準漢文法』を引用して説明することが多くて恐縮ですが、実際その分析力の鋭さには敬服するばかりです。もちろんその後100年の語法研究によりさらに新たに解明されたことも多いと思いますが、もっと読まれて然るべき書だというのが私の実感です。)
さて、この「色々考へてその適當なるものを求める」というのは、氏の別の表現では「種々に考へられる中の一つの考に就いてその考の様に矢張といふのである」となります。
自分があれこれ考えるいくつかの選択肢の中から、1つを取りだして「やはり~だ」と述べるのです。
「亦」のこのような機能については、従来あまり語られてこなかったのではないでしょうか。
そんなことを思いながら、虚詞詞典の「亦」に関する記述を見てみると、気になることが書かれています。
「~もまた」が載っているのは当然のこととして、それ以外にも「ただ」の意を表すとか「かえって」などの意味を表すとか、色々な意味が書かれています。
まずその限定を表すということについては、複数の虚詞詞典に取り上げられ、日本でもかなり以前から説かれています。
学生時代に岩波文庫『孟子』(1968)を読んだ時、「王何必曰利。亦有仁義而已矣。」を、小林勝人氏が「王何ぞ必ずしも利を曰はん。亦(ただ)仁義あるのみ。」と、「亦」を「ただ」と読んでいたのに驚いたことを思い出します。
中国で説かれ、日本でもこのような書物がある関係で、私もそのまま鵜呑みにして、「亦」には限定の範囲副詞の機能があると説きもし、数年前の過去エントリーでも同『孟子』の文を引用して「亦」を限定の範囲副詞だと述べたことがあります。
自分で検証した結果ではなく、いわば受け売りで書いたものですから、今読み返して冷や汗をかく思いをするのですが、その件については後で述べたいと思います。
『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)には、次のように書かれています。
一、表限止。表示人、事物或动作、行为的对象只限于某个范围。句末常有语气词“也”、“耳”等与之相呼应。可译为“只是”、“只不过”、“仅仅”等。
(一、限定を表す。人、事物や動作、行為の対象がある範囲に限られることを表す。句末に常に語気詞“也”、“耳”などを伴い、これと呼応する。“只是(ただ~だけだ)”、“只不过(ただ~にすぎない)”、“仅仅(わずかに~だけだ)”と訳せる。)
そして8つの例が挙げられていますので、1つずつ妥当であるか検証してみたいと思います。
なお、この虚詞詞典は原文(簡体字)が挙げられているだけなので、便宜上日本の漢字に改め、私的に読みと訳をつけておきます。
(1)寡人之従君而西也,亦晋之妖夢是践,豈敢以至?(《左伝・僖公十五年》)
(▼寡人の君に従ひて西するや,[亦]晋の妖夢を是れ践む、豈に敢へて以て至らん。
▽私(=秦の穆公)が君(=晋の恵公)に従って西に向かうのは、[亦]晋の怪しい夢をおさえるのであり、どうして無理をしたりしようか。)
この話には、晋の恵公が、秦の穆公の後援を得て晋に帰国し即位できたにもかかわらず、その際領土を割譲するという約束を守らず、また飢饉の折に秦に支援を求め、秦が快く大量の食糧を送ってくれたのに、秦が飢饉で晋に救援を求めた時には、助けようともしなかったという背景があります。
この5年前に恵公は、死んだ兄の申生を改葬し、それを無礼として申生の霊が現れ、晋を滅ぼすと言った事件がありましたが、秦の穆公はそれを妖夢と言い、晋の乱政を招いている原因であるとして、その妖夢を押さえつけて晋を正しい道に戻らせようとしたのです。
『古代漢語虚詞詞典』は、この「亦晋之妖夢是践」を「ただ晋の妖夢を押さえつけるだけだ・押さえつけようとしたに過ぎない」と解しているわけで、確かにそう解釈するとわかりやすくはなります。
しかし、この「亦」を無理に限定を表すとしなくても、穆公が非礼を重ねる晋の恵公に対して怒り、晋を攻めたのも「晋之妖夢是践」であり、こうして恵公を捕らえ秦に連れ帰るのも「晋之妖夢是践」であるという意味で、「これもやはり晋の怪しい夢をおさえるためである」と、合説で解釈できると思います。
(2)尭舜之治天下,豈無所用其心哉? 亦不用於耕耳。(《孟子・滕文公上》)
(▼尭舜の天下を治むるや,豈に其の心を用ゐる所無からんや。[亦]耕すことに用ゐざるのみ。
▽尭舜が天下を治めるにあたり、どうして其の心を用いる部分がなかっただろうか。[亦]耕作に(心を)用いなかっただけである。)
この2例目の話にも背景があります。
もと儒者の陳相というものが滕の国にあって、神農の説を説く許行という者に感化されました。
陳相は孟子に面会し、許行の生活態度を踏まえながら、滕の文公の政治を批判します。
「滕文公は賢君ではあるが、古代の聖王の道を聞いていない。真の賢君は人民と共に耕作し、自ら炊事を行って、なおかつ政治を行うものである。滕の国庫には穀物や財貨が満ちているが、それらは文公が自ら耕作して手に入れたものではなく、人民から租税をとって得られたものである。これでは真の賢君とはいえない」と。
これに対して、孟子は、陳相が師と仰ぐ許行が自分で耕作していることを確認した上で、冠や釜や農具も自分で作るのかと問い詰めます。
「いちいち自分で作っていては耕作のじゃまになるので、作った穀物と物々交換する」のだという説明に、孟子は政治も同じで分業が必要で、文公が自ら耕作をしていなくても何ら不都合はなく、それをもって賢君の資格がないとはいえないと指摘します。
尭帝の時、洪水により天下中に草木が生い茂り禽獣が増え、五穀は実らず禽獣が人を襲うという事態で、天下は平穏ではなかったが、尭帝は舜に混乱を治めさせ、禹に治水を命じました。
禹は洪水をおさめるため八年もの間、外にあり、自分の家の前を通り過ぎても門内に入ることはありませんでした。
自分で耕したいと思っても、耕す暇などありません。
尭帝はさらに后稷に命じて、人民に農業を教え、契に命じて人民を教育して人倫を学ばせました。
このように聖王が人民の安寧を案じ憂えることは大変なことなのであって、同時に自分で耕す暇などなかったのです。
尭帝は舜のような賢臣を得ないことを、舜帝は禹や皐陶のような賢者を得ないことを、自分自身の憂いとし、彼らに政治を委ねながら、自身は直接政事にはあたりませんでした。
そしてそのくだりで、「尭舜之治天下、豈無所用其心哉。亦不用於耕耳。」の表現が出てきます。
この「亦不用於耕耳」を『古代漢語虚詞詞典』は限定を表す例として示しているのですが、これに先行する「禹八年於外、三過其門而不入。雖欲耕、得乎。」(禹は外に八年いて、三たびその門に通りがかっても入らなかった。耕したいと思っても、得られただろうか。)、そして尭の腐心に対して「聖人之憂民如此。而暇耕乎。」(聖人が民のことを憂えるのはこのようであった。それなのに耕す暇などあったであろうか。)の2文を踏まえたのが、例の「亦不用於耕耳」だと思います。
前2者が耕す暇などなかったのだと述べられたことを踏まえ、2例と同じく「これもやはり耕作に(心を)用いなかっただけである」と表現されたものだと思います。
つまり「亦」の合説の用法です。
あえて「亦」を限定の意に解釈する必要があるでしょうか。
(3)王亦不好士也,何患無士?(《戦国策・斉策四》)
(▼王[亦]士を好まざるなり、何ぞ士無きを患へん。
▽王は[亦]士を好まれないのです、どうして士がいないことを悩まれる必要がありましょうか。)
さて、この例も背景を見てみましょう。
斉の宣王に目通りした王斗という者が、宣王の先君である桓公は好んだものが5つあったが、宣王にはそのうち4つがあると言います。
桓公は馬を好み、犬を好み、酒を好み、色を好んだが、この4つについては宣王も好んでいるが、桓公が士を好んだのに対して、宣王は士を好まないと。
これに対して、宣王は「今の世には士がいないのだから、私が好みようもない」と答えます。
王斗は次のように言います。
「世に騏驎や騄耳のような駿馬がいなくても、王の四頭立て馬車はすでに備わっています。世に東郭俊や盧氏の犬がいなくても、王の猟犬はすでに備わっています。世に毛嬙や西施のような美女がいなくても、王の後宮には美女で満ちています。」
そしてこの後に「王亦不好士也、何患無士。」が続くのです。
果たして「王はただ士を好まないのだ」という意味でしょうか?
「王亦不好士也」に先行する王斗の言葉は、世に極めて優れたものがいなくても、王の現状には十分に備わっている」という意味で、まったく存在しないわけではないという内容です。
だとすれば、これに続く内容は、「極めて優れた士がいなくても、王の現状には十分に備わっている」でなければなりません。
したがって、「王亦不好士也」は、「王はやはり(私が前に言ったとおり)士を好まれないのです」が妥当で、「亦」が限定を表しているとは思えません。
この3つの検証からはっきりすることがあります。
語法の例文というものは、その例だけを見れば、その用法に用いられているように見えますが、用例の背景まで見れば必ずしもその例にあたらないことが多いように思います。
虚詞について論じる時は、それが用いられている背景をよく観察して、真に例外的な用法といえるかどうかを慎重に見極めなければなりません。
長くなりますので、続きは次回のエントリーにします。
(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その3。)
何楽士が『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の次の例をどう考えればいいでしょうか。
(1)於是至則囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到就包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)
例文より前の部分を補います。
・項羽已殺卿子冠軍、威震楚国、名聞諸侯。乃遣当陽君・蒲将軍将卒二万渡河、救鉅鹿。戦少利。陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河、皆沈船、破釜甑、焼廬舎、持三日糧、以示士卒必死、無一還心。於是至則囲王離、与秦軍遇、九戦、絶其甬道、大破之、殺蘇角、虜王離。
(▼項羽已に卿子冠軍を殺し、威楚国に震い、名諸侯に聞こゆ。乃ち当陽君・蒲将軍を遣はし、卒二万を将(ひき)ゐて河を渡り、鉅鹿を救はしむ。戦ひ利少なし。陳餘復た兵を請ふ。項羽乃ち悉く兵を引き河を渡り、皆船を沈め、釜甑を破り、廬舎を焼き、三日の糧を持し、以て士卒に死を必し、一の還る心無きを示す。是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九たび戦ひ、其の甬道を絶ち、大いに之を破り、蘇角を殺し、王離を虜にす。
▽項羽が卿子冠軍宋義を殺してから、威は楚国にふるい、名は諸侯に聞こえた。そこで当陽君と蒲将軍を派遣して、兵卒二万人を率いて河を渡り、(趙の)鉅鹿を救わせた。戦いは利が少なかった。(趙の将軍)陳餘がまた援軍を要請した。項羽はそこでことごとく兵を率いて河を渡り、すべての船を沈め、釜や甑(=炊事道具)をこわし、軍営の施設を焼き、三日分の食糧を持ち、そうすることで士卒に死ぬ覚悟で、まったく生還する意志がないことを示した。そこで(鉅鹿に)至ると[則ち]王離(の軍)を包囲し、秦軍と出会い、九回戦い、その甬道を絶って、おおいにこれを打ち破り、蘇角を殺し、王離を捕虜にした。)
この「則」は確かに「すぐに」と訳しても意味が通ります。
生還しない必死の覚悟で鉅鹿に攻め寄せた以上、項羽がぐずぐずするとは思えず、ただちに王離の軍を包囲するのは当然の行動ですから。
しかし、それは前後の事情からそうなるのであって、「則」の字自体に即時の意味があると断ずることとは別になるでしょう。
前エントリーで紹介した釈大典の『文語解』の「則」の条には次のように述べられています。(原文漢字片仮名表記ですが、平仮名に改め、「」などを加えて読みやすくしてあります。)
上をうけ下へつづける辞にして、その意さまざまあり
・壮士、賜之卮酒。則與斗卮酒。賜之彘肩。則與一生彘肩。(項羽紀)
・項王聞龍且軍破、則恐、使盱夷人武渉往説淮陰侯。(仝)
・居無何、則致貲累巨萬。(越世家)
これ其の時にあたりての事をいふ辞。俚語の「そこで」といふが如し。
・漢王則引兵渡河。(項羽紀)
・項王則夜起飲帳中。(仝)
・荘則入爲壽。(仝)
楊升庵評に「則の字の文法周書より来たる」と。これ金縢の「禾則盡起。歳則大熟。」の語をさす。皆死字の下に用ゆ。然も上段の文を承来る意あり。
この「楊升庵評」というのが楊慎のどの書なのかを突き止めきれないのですが…
ですが、要するに、「則」は前の内容を後に続ける働きがあるとするわけです。
たとえば項王が卮酒を賜えと命じたから、「其の時にあたり」つまり「そこで」斗卮酒を与えたとなります。
しかし、釈大典の「俚語の『そこで』といふが如し」という「そこで」は、あくまで法則にのっとったものでなければならず、通常「そこで」と訳すことが多い「乃」(すなはチ)とは違います。
「乃」は前を受け、おおかたの予想に対して、それがどうなるか、どうするかを示すもので、松下大三郎氏の表現を借りれば、この字自体は「そこでどうなるかというと」という意味を表すものです。
たとえば、「此桃甘。乃食之。」なら、「この桃は甘い」そこでどうするかというと「これを食べる」となります。
ですが、「此桃甘。乃不食。」という場合も当然あり得るわけで、これは「この桃は甘い」そこでどうするかというと「食べない」となる。
これが「乃」に「かえって」とか「意外にも」などの前後の逆接を表すと説明される事情です。
桃が甘いことに対して、それを食べる、食べないはどちらも成立する予想で、そのどちらであるかを「乃」は「そこでどうするかというと」と導くのです。
つまり、「乃」の字自体に「かえって」「意外にも・なんと」などの意味があるというよりは、前後の事情によりどうなるか、どうするかの関係が多義語であるように見せているのだと思います。
それに対して、「則」を「そこで」と訳すのは、どうなるかというとと示すのではなく、前の内容を受けて、後に続ける働きであって、前の内容を踏まえれば、こうなると法則の働きで示すのです。
項王に卮酒を賜えと命じられ、その場合当然のこととして斗卮酒を与えることになります。
それを「そこで」と訳すことになるわけですね。
「於是至則囲王離」の場合、項羽は前段に述べられた決死の覚悟をもって鉅鹿に攻め寄せています。
その前提である以上、法則として必然的に王離の軍を包囲することになります。
したがって、「(そのような事情をうけ)到着すると、そこで王離を包囲した」の意でしょう。
これを文意から「すぐに」と訳すとより自然に思えるだけで、「則」が「即」の即時の意に通じて「すぐに」という意味を表しているわけではないと思います。
そして、「則」の最初の疑問に立ち返って、「荘則入為寿」は、項荘が范増に沛公暗殺を命じられ、沛公を斬らなければ一族はみな捕虜になるぞと脅された以上、そのような状況である場合、項荘は必然的に言われたとおりに行動することになるのであって、これは法則に基づくものです。
つまり、「項荘はそこで(宴会場に)入り長寿の祝いをした」の意で、釈大典が例として示している通り、「則」は死字(実字)の「荘」の後に置かれていますが、あくまで前段を受けて後へ続ける働きをしていると思います。
おそらく「すぐに」の意味ではないのでは?と考えます。
拙「『鴻門の会』・語法注解」の記述は改めたいと思います。
(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その2。)
前エントリーで、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』が挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の例を紹介しました。
あらためて全ての例を示します。
(1)於是至則囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到就包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)
(2)項王則受璧,置之坐上。亜父受玉斗,置之地,抜剣撞而破之。(《史記・項羽本紀》)
――项王就接受了璧玉,把它放在坐位上。亚父接过玉斗,把它搁在地上,拔出剑把它击碎了。
(項王はすぐに璧玉を受け取って,それを座席の上に置いた。亜父は玉斗を受け取って,それを地面の上に置き,剣を抜いてそれを打ち砕いた。)
(3)湯、周武王広大其徳行,六七百歳而弗失;秦王治天下十余歳則大敗。(《漢書・賈誼伝》)
――商汤、周武王广泛地施行他们的德行,相继六七百年而没有失国;秦始皇治天下只十多年便败亡了。
(商の湯王、周の武王は幅広く彼らの徳行を施し,六七百年相続いて国を失わなかった。秦の始皇は天下をただ十数年治めただけですぐ滅亡してしまった。)
(4)高帝問群臣、群臣皆山東人、爭言周王数百年、秦二世則亡、不如都周。(漢書・婁敬伝)
――汉高祖问群臣(建都的事),群臣都是山东人,争先恐后地说周朝称王几百年之久,秦朝刚传了两代就亡了,不如在周朝原先的都城(洛阳)建都。
(漢の高祖が群臣に(都建設のことを)下問したが,群臣たちはみな山東(出身)の人で,遅れまいと先を争って,周王朝は数百年の長きにわたって王と称したが,秦王朝はわずか二代続いただけですぐに滅んでしまった,周王朝の初めの都(洛陽)に都を建設した方がよいと言った。)
(1)(2)の例はひとまず措きます。
(3)は、「秦王治天下十余歳則大敗」の部分が、先行する『大戴礼記・礼察』に、
・秦王亦欲至是、而不能持天下十餘年、即大敗之。
(秦王もここ(=湯王や武王のような五百年の治世)に至ろうとしたが、天下を保つことが出来ず十年あまりで、[即ち]滅亡してしまった。)
とあり、「則」を「即」に作っています。
(4)は、『漢書』の記述のもとになった『史記・劉敬叔孫通列伝』に、
・高帝問群臣、群臣皆山東人、争言周王数百年、秦二世即亡、不如都周。
とあり、やはり「則」が「即」になっています。
これらの「即」は確かに「すぐ・ただちに」と解せるもので、それを「則」に置き換えた以上、「則」も同義に解し得るということになるのでしょう。
あるいは何楽士もその根拠に基づいて、「則」を時間副詞「すぐに」の意で立項したのかもしれません、あくまで想像ですが。
しかし、こういう思考が実に危ないところで、この考え方は、「すぐに」の意の「即」が同文または同内容の文で「則」に置き換えられているから、「則」にも即時の意味があるという判断に基づくものですが、これにはその元の文の「即」が確かに即時の意味で用いられていると限定される条件が必要です。
前エントリーで述べたように、「即」の字は接着を基本義とします。
「秦王亦欲至是、而不能持天下十餘年、即大敗之」の「即」は、確かに時間的な接着から「すぐに」と解し得るものです。
しかし一方で「十数年天下をたもつことができない」という事実が「大敗之」に接着するともいえます。
つまり、「十数年天下をたもつことができず、とりもなおさず滅びてしまった」です。
前に述べた条件で必ず次のことが起きる必定を表す「即」の字の機能です。
この機能が、「則」の法則を原義とする機能と似ているわけです。
「十数年天下をたもつことができない」結果として必然的に「滅びる」が、「十数年天下をたもつことができない」という場合は「滅びる」ことになるに通じるのです。
仮にもとの文の「即」が即時の意味で用いられていたとしても、それを「則」で置き換えて同じ即時の意だとすることも、もう少し慎重であってよいかと思います。
「周王数百年、秦二世即亡」の「即」ももちろん即時で解釈することができますが、これも「秦二世とりもなおさず滅ぶ」、すなわち「秦二世=滅ぶ」で解釈できないことはありません。
しかしそのこととは別に、「周王数百年、秦二世則亡」は、「即」とは違う「則」本来の機能できちんと説明できます。
前エントリーで紹介した松下大三郎氏の指摘に、
「則」には日本の「は」又は「ば」の意味が有るが「即」は平説であつてそんな意味がない。
というのがありましたが、この「は」というのは氏のいう「分説的用法」で、「則」の基本的機能です。
氏は、
・謂虞仲夷逸。隠居放言、身中清廃中権。我則異於是、無可無不可。(論語・微子)
(▼虞仲・夷逸を謂ふ、隠居して放言し、身は清に中(あ)たり廃は権に中たる。我は則ち是に異なり、可無く不可無しと。
▽(孔子が)虞仲・夷逸を批評した、「隠居して放言し、身を清くして、世を捨て流れのままにした。私はこれとは違う、可もないし不可もない」)
などのいくつかの例を挙げて、次のように述べています。
の「則」は分説的用法で日本の助辭の「は」の意のある所に用ゐられてゐる。日本の「は」は事情の異なるものを分けていふもので之を分説と云ひ、「も」は事情の似てゐるものを合せていふもので、之を合説といふ。「夏は暑く冬は寒い」と云へば夏と冬を分けていつたので分説だが、「昨日も今日も大變に寒い」と云へば昨日と今日を合せて云つたので合説だ。漢文では「夏則熱、冬則寒」といふ風に「則」を用ゐれば分説で「昨日亦寒、今日亦寒」といふ風に「亦」を用ゐれば合説だ。唯「は」は助辭であつて凡そ物の異を分つ場合には一々「は」を附けるが、「則」は副詞であるから一々附けては煩はしい。特に異を分つ必要のある時だけ使ふ。それだけ「は」よりは意味が重い。「夏則暑」と云へば「夏はそれは暑い」といふ意である。「すなはち」は「それは」と同様なのである。
つまり、先の『論語』の例なら、孔子は虞仲・夷逸を批評した上で、「我則異於是」すなわち「私はこれとは違う」と言った、「則」は虞仲・夷逸とは「事情の異なるものを分けて」「は」の働き、分説の働きをしているのです。
この「則」の分説の機能は、松下氏に限らず、他にも指摘されています。
釈大典の『文語解』には、
コノ字上ノ語ヲ分解スルニ用ユ。此ニ「コトハ」ト云ト「トキハ」ト云トノ別アリ。
と述べられています。
また、牛島徳次氏の『漢語文法論(古代編)』(大修館書店1967)は、「則」の字の働きとして次のように述べています。
「則」は,他の場合と対照的に,「Sの場合は,Pだ。」という限定を表す。
例:「秦人諺曰:力則任鄙,智則樗里。」
(秦の人々の諺に「力なら任鄙,ちえなら樗里。」というのがある。)
:「項王則受璧,置之坐上;亞父受玉斗,……」
(項羽は璧を受けとると,それを座席に置いた。亜父は玉のさかずきを受けとると,……)
これらは表現こそ異なりますが、同じことを述べたものです。
そして、最後の『漢語文法論』の2例目は、私が拙「『鴻門の会』・語法注解」で迂闊にも「動作行為が近接して行われることを表す。すぐに。」と述べたもので、何楽士も即時の意に解したものです。
ですが、あらためて見直してみると、「項王はすぐに璧を受けとると」の意味であるなら「項王即受璧」と表現すべきであって、亜父の行為との対比で「則」が用いられていて、「則」本来の機能で説明できるのに、あえて即時と解するべきなのだろうかと思います。
先の「周王数百年、秦二世則亡」も、もとの「周王数百年、秦二世即亡」が「秦王朝二代とりもなおさず滅んだ」でなく、「秦王朝二代すぐに滅んだ」という即時の意味であったとしても、「秦二世則亡」と「則」の字に改まっている以上、「周王朝は数百年王と称したが、秦王朝二代は滅んだ」と、周王朝とは事情を異にすることを示して「秦王朝二代の場合は」と、「則」の字の分説の機能として解してよいのではないかと思うのです。
さて、もう一つの問題は、(1)の「於是至則囲王離」と、そもそもの疑問「荘則入為寿」の「則」をどう解するかですが、それはもう少し考えたいと思います。
(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その1。)
ひとしく「すなはち」と読む「則」と「即」がどのように意味が異なるのか、最近なかなか解決のつかない問題として頭を悩ませています。
このブログのページエントリーで、「『鴻門の会』・語法注解」を公開していますが、その中の一節、
・范増起、出召項荘、謂曰、「君王為人不忍、若入前為寿、寿畢、請以剣舞、因撃沛公於坐、殺之。不者、若属皆且為所虜。」荘則入為寿、寿畢、曰、「君王与沛公飲、軍中無以為楽、請以剣舞。」
(▼范増起ち、出でて項荘を召し、謂ひて曰はく、「君王人と為り忍びず、若入り前(すす)みて寿を為し、寿畢(を)はらば、剣を以て舞はんことを請ひ、因りて沛公を坐に撃ち、之を殺せ。不(しから)ずんば、若が属皆且(まさ)に虜とする所と為らんとす」と。荘則ち入りて寿を為し、寿畢はりて、曰はく、「君王沛公と飲むも、軍中に以て楽を為す無し、請ふ剣を以て舞はん」と。
▽范増は立ち上がり、(宴会場を)出て項荘を呼び寄せ、(彼に)告げて、「君王(=項王)は人柄が無慈悲ではない、お前が(中に)入り進み出て長寿の祝いをし、長寿の祝いが終わったら、剣で舞うことを求め、その機に沛公を席上に斬りつけ、彼を殺せ。そうしなければ、お前たちはみな捕虜になるであろう」と言った。項荘はすぐに(会場に)入り長寿の祝いをし、祝いが終わると、「君王は沛公と飲んでいらっしゃるが、軍中には音楽をなす手立てがありませんので、どうか剣で舞わせてください」と言った。)
この場面で、「荘則入為寿」の「則」について、
「則」は、即時を表す時間副詞。「即」に通じる。すぐに。
と注をつけました。
しかし、今読み返すと、不用意な注に思えます。
「則」が「即」に通じるというのは、各種虚詞詞典にも見られるものですが、しかし、ここの「則」は、本当に「すぐに」の意であったでしょうか。
たとえば、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、「則」の副詞の用法として、次のように記載されています。
时间副词。用在后一动词谓语之前作状语,表示与前面的动作行为时间相距很近。可译为“就”、“便”等。
(時間副詞。後の動詞謂語の前で用いられて状語となり,前の動作行為と時間がとても接近していることを表す。“就”、“便”(すぐに・ただちに)などと訳せる。)
そしていくつか例が挙がっている中に、次の例がありました。
(1)於是至則囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(史記・項羽本紀)
(▼是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九戦し、……大いに之を破る。
▽そこで(鉅鹿に)至るとすぐに王離の軍を包囲し,秦軍とあって,九回戦い,……大いにこれを打ち破った。)
(2)項王則受璧,置之坐上。亜父受玉斗,置之地,抜剣撞而破之。(史記・項羽本紀)
(▼項王則ち璧を受け,之を坐上に置く。亜父玉斗を受け,之を地に置き,剣を抜き撞きて之を破る。
▽項王はすぐに璧を受け,それを座のそばに置いた。亜父は玉斗を受け、それを地に置き、剣を抜き突いてそれを壊した。)
この(2)の「項王則受璧」についても、拙「語法注解」では、
「則」は、時間副詞。前に述べられたことと、動作行為が近接して行われることを表す。すぐに。張良の話を聞き終わり、すぐに受け取ったということ。次の范増とは異なり、こだわりなくすぐに受け取ったわけである。
などと述べてしまったのですが…
しかし、この「項王則受璧」の「則」も、本当に「即」に通じて「すぐに」という意味を表しているのでしょうか。
参考書を開いてみると、「則」の働きとしてさまざまなものが挙げてあります。
「ただ」と範囲を限定する働きだとか、強意の用法だとか、「即」に通じて「すぐに」の意味を表すだとか。
中国の各種虚詞詞典にも同様の記述が見られます。
まず、最初の範囲副詞としての働きですが、
・口耳之間則四寸耳。(荀・勧学)
(▼口耳の間は則ち四寸のみ。)
この例は何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に示されているものですが、範囲を限定しているのは、語気詞「耳」の働きではないでしょうか。
このような語気詞が伴わず、「則」だけで範囲を表す例を示さない限り、「則」が範囲副詞として機能していることを証明し得ないでしょう。
さて、最近は中国の虚詞詞典に書かれているからといって、それを鵜呑みにはできないという思いを強くしています。
前後の文脈からそのように解釈すれば、合理的に説明できるわけですが、それはその字の真の働きとは限らないでしょう。
そういうふうに自分を戒め、安易な判断はしないでおこうと心していたのですが、拙「『鴻門の会』・語法注解」では、うっかりそれをやってしまったわけです。
もう一度考え直しです。
「則」と「即」が相通じるという話でよく例に出されるのが、次の文です。
・先即制人、後則為人所制。(史記・項羽本紀)
普通は「先んずれば即ち人を制し、後(おく)るれば則ち人の制する所と為る。」と読まれています。
「後則為人所制」は、「人より遅れれば人に支配される」の意で、「則」は本来の働き「その場合は」という意味を表しています。
それの対になっているから「先即制人」は「人より先に動けば人を支配する」と解して、この「即」は「則」と同義で用いられているとされるわけです。
また、同じ字を重ねて用いることを避けるために、「即」と「則」を用いたとも説明されることがあります。
そのように説明されれば、なるほどと思ってしまうわけですが…
しかし、たとえば「すぐに」の意味で本来「即」を用いるべき箇所で、あえて「則」を用いる理由はなぜでしょうか。
「荘則入為寿」や「項王則受璧、置之坐上」の「則」は、「即」との重複を避けるために用いられているわけではありません。
前後の文脈上、もし「則」を「即」の意に解すれば、「すぐに」という解釈が可能になりますが、「則」の字そのものの機能として検討するという過程が必要なのではないでしょうか。
「則」の字は、その成り立ちが、「刀で傷つける」意とも「基準に照らして器の肉を切り分ける」意とも「器に刀を添える」意ともいわれます。
転じて「法則」「規則」の意に用いられます。
その原義が、虚詞「則」の働きに通じているはずです。
「A則B」(AすればBする)は、「Aする場合はBする」との法則に基づくもので、「則」本来の機能として納得いくものです。
「後則為人所制」は、「遅れる場合→人に支配される」の構造になっているわけで、「則」の機能からずれるものではありません。
一方、「即」の字は、「食卓につく」が原義の字で、接着が基本義です。
時間的な接着を表せば、「すぐに」という意味になるわけです。
Aは接着してB、つまり「A即B」(A即ちBなり)の形で判断を表して「AはつまりBである」「AはとりもなおさずBである」という意味を表すこともあります。
また、Aすることに接着してBすることが起きる場合なら、前に述べた条件で必ず次の事が起きる必定を表すことになります。
これらはいずれも接着を基本義とする「即」の字本来の機能です。
この最後の用法が、「法則」を原義とする「則」に似ているわけです。
しかし、同じでしょうか?
つまり、「先即制人」と「後則為人所制」は、同じ関係なのでしょうか?
私には、「先んずる」ことがそのまま「人を支配する」ことに接着するのであって、「先んずる」場合は「人を支配する」というのとは違うように思えるのです。
このことについて、松下大三郎氏は『標準漢文法』で次にように述べています。
「則」には日本の「は」又は「ば」の意味が有るが「即」は平説であつてそんな意味がない。
先ンズル即制人、後ルレバ則為人所制。
(2例省略)
これらの「即」は「則」を代入することが出來るから「即」と「則」が相通ずる樣だが、併し「即」には「は」の意義がない。「則」と「即」とを區別して讀めば
先則制人……先んずれば則ち人を制す
先即制人……先んずる即ち人を制す
(2例省略)
の如くいふべきである。
氏の「先んずる即ち人を制す」をきちんと理解できているかどうか自信はありませんが、少なくとも私も「先則制人」と「先即制人」は違うように思えるのです。
直接読んだわけではないので不適切かもしれませんが、古人が同じ字を重ねて用いることを避けるということについて、鮑善淳氏の『漢文をどう読みこなすか』(日中出版1986)に、そのような記述があるそうです。
しかし、私がつくったデータベースで検索をかけると、同じ「則」を連続して用いる例は山のようにヒットします。
たとえば、
・利則進、不利則退。(史記・匈奴列伝)
(▼利なれば則ち進み、利ならざれば則ち退く。
▽有利であれば進み、不利であれば退却する。)
・諸侯而驕人則失其国、大夫而驕人則失其家。(史記・魏世家)
(▼諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。
▽諸侯で人に傲慢であればその国を失い、大夫で人に傲慢であればその家を失う。)
・富貴則親戚畏懼之、貧賤則軽易之。(史記・蘇秦列伝)
(▼富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賤なれば則ち之を軽易す。
▽富貴であれば親戚もこれを恐れ、貧賤であればこれを侮る。)
『史記』だけでも多く見られる用例の中から3例ほど示しました。
まして他の文献の用例となると膨大な量になります。
同じ字を重ねて用いることを避けるということはあるかもしれませんが、必ずしもそうとも限らないのはこれで明らかです。
つまり、「先即制人、後則為人所制」を、「先則制人、後則為人所制」と表現することは十分可能だったはずですが、会稽守の殷通は俚諺として「先即制人、後則為人所制」と聞き伝え、司馬遷も「先即制人、後則為人所制」と表現したのです。
私は「先即制人、後則為人所制」は、「人より先に動くことがとりもなおさず人を支配する、(ところが)人より遅れれば人に支配される」という意味ではないかと思います。
いったんここでお時間をいただいて、次は「項王則受璧」などについて考察してみたいと思います。
(内容:孟子の湍水の説に見られる「今夫水搏而躍之」の「今夫」の意味について考察する。)
3年生の古典で思想を扱おうとして、まずは教科書の孟子を読んでいました。
その代表的な思想「性善説」がいわゆる「湍水の説」で、以前のエントリーにも述べたように、これは孟子の詭弁ですから、どうだかなあという思いは拭えません。
なぜ「四端の説」ではないのだろうと思うのですが。
そんなふうに思っていると、若い同僚から質問を受けました。
・今夫水搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
(▼今夫(そ)れ水は搏(う)ちて之を躍らさば、顙(ひたひ)を過ごさしむべく、激して之を行(や)らば、山に在らしむべし。
▽[今夫]水を手でたたいて跳ね上げれば、額(の高さ)を越えさせることができ、強い力を加えて逆流させれば、山(の頂)に登らせることもできる。)
この「今夫」はどういう意味なのですか?という質問です。
私は、これについて考えたことがなく、「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」だと思っていたのですが、同僚は自分なりに色々調べたものの考えあぐねて質問してこられたのでしょう。
調べたらどう書いてあったのか?と問うと、ある書に「今夫」は「今かりに」という意味だと書いてあったそうです。
「夫」は文頭に置く強意の助字だとのこと。
「今」が仮定を表すというのはともかくとして、「夫」についての記述は、なにかタネ本がありそうな気がします。
いつもなら、まずそれをつきとめることから始めるのですが、残念ながら本校はこの春から全面改築工事に突入し、ほとんどすべての書籍が段ボールの中で、参照することができません。
タネ本がつきとめられないのは残念ですが、要するにこの「今夫」を「今かりに」と解釈して、「夫」の働きは文意を強めるものとして、解釈には反映させていません。
しかし、これには私の方が首をかしげてしまいました。
そもそも「夫」という字は「大」に簪(かんざし)を意味する「一」を加えたもので、「成年男子・一人前の男子」を指すのが本義です。
この字の音が三人称代詞や指示代詞の音に近かったため、借用されて「夫」が「彼・彼ら」「あの・この」の意味で用いられるようになったのだと思われます。
発語の辞としての「夫」は、この代詞の働き「あの」の意味が虚化して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものでしょう。
ですから、議論開始の語気を表す「夫」も、指示代詞としての働きを残している場合があると思います。
私が「今夫」の意味を「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」の意だと考えていたと書いたのは、前者は「今夫(そ)レ」、後者は「今夫(か)ノ」と読み分けるにせよ、根は同じだと思っていたからです。
ところが、文頭に置いて文意を強める助字で済まされてしまうと、またぞろ怪しげに思えてくるのです。
何楽士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)には、文頭で用いられる「夫」について、次のように述べられています。
语首助词。常用于句首,表示一种要作出判断或抒发议论的语气。“夫”位于被判断或被议论的对象(人、事、物或动作行为)前头,对这一对象起标志作用,强调这一对象的概括性和普遍性,对它的判断和议论也常带规律性和概括性。同时也有引出下文的语气和作用。表判断或议论的部分常有语气词“也”、“者也”(有时有“矣”、“乎”等)位于末尾,与句首的“夫”配合呼应,形成一个整体。不必具体译出。
(語首助詞。多く文頭に用いられ,一種の、判断や議論を述べる語気を作り出したいことを表す。“夫”が判断されたり議論されたりする対象(人、事、物や動作行為)の前にあるとき、この一対象に対して標識の働きをし、この一対象の概括性や普遍性を強調し、その判断と議論も常に規律性と概括性を帯びる。同時に下文を引き出す語気と働きもある。判断や議論を表す部分には多く語気詞“也”、“者也”(“矣”、“乎”の場合もある)が末尾に置かれ、文頭の“夫”と組み合わさり呼応して、一つの全体形式を構成する。具体的に訳出する必要はない。)
ここに確かに「強調」という文字は出てくるのですが、「夫」の後の語句の概括性や普遍性を強めているとして、「文意を強める」と述べているわけではありません。
湍水の説も、外的力を加えられた水がどうなるかについての一般的な状況を概括的、普遍的に述べているのであって、「夫」があることで、文意が強まっているとはとても思えません。
ここで文法について考える時、最近必ず参照する松下大三郎氏の『標準漢文法』の記述を紹介します。
夫 「夫」は「それ」と読む。これから自分が言はうと思ふことを提出して之を豫示する語である。日本語で言へば「いや何だよ」位な意だ。文の途中にも使ふが往々劈頭に用ゐる。(例文略)断句の始で「夫」だけならば「いや何だよ」と解し、「且夫」は「其れに何だよ」と解すれば善い。日本語で「何だよ」と云ふのはこれから云はうとする所のものを暗示するのである。
氏は語気という言い方はされていませんが、これから自分が言おうと思うことを提出するときに用いる語として、さしずめ日本語なら「いや何だよ」に相当するものとして示したのです。
私も文意を強める語ではなく、議論提出の際に用いる語だと思います。
そしてそれは前述したように、もともと指示代詞としての働きから転じたものでしょう。
さて、「今夫」の「今」については、虚詞詞典ではよく「今かりに」と仮定を表すとされるのですが、要するに仮定で用いられる連詞とみなす考え方です。
私などは、「今」はやはり今であって、働きに応じて副詞だとか連詞だとか品詞まで分けて考えることはないだろうと思うのですが。
いくつか参考書を見ると、「今」の意味として、「今~ならば」という仮定の用法や、「ところが今」などの現状が異なることを示す働きなどが紹介されています。
日本語にその「今かりに」とか「ところが今」という言葉があるように、「今現在もしこのような状況であるとすれば」、あるいは、「ところが今現在こうなっている」という文脈上のつながりというのは、古典中国語の「今」にも見られるというだけのことではないでしょうか。
「今」はやはり現時点を指す今であって、それが文脈上、副詞的に用いられたり、連詞的に用いられたりもすると考えてはいけないものでしょうか。
ところで、同僚が調べた結果では、この「湍水の説」の「今」を「今かりに」と解していたということでは、私はどうだかなと思います。
「今かりに」ではなく、あえて言うなら「ところが今」でしょう。
孟子は、水の本来の性質として、上から下へと流れるものであるとして、次のように述べています。
・水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。
(▼水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごときなり。人善ならざるもの有ること無く、水下らざるもの有ること無し。
通常、このように読まれていますが、私の読みと解釈なら、次のようになります。
▼水は信に東西に分かるること無きも、上下に分かるること無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。
▽水は確かに東西に分かれることはないが、上下に分かれることはないだろうか。人の性質が善であるのは、水が下へと流れるのに似ているのだ。人は善でないということがあることなどなく、水は下へ流れないということがあることなどない。
いずれにしても、孟子はここで水の本来の性質を上から下へ流れるものと示したのです。
その直後に「今夫」が置かれ、水に外的な力を加えると、下から上へ流れることもあるということが述べられるのです。
「今かりに」でしょうか?
私はやはり「ところが今」だと思います。
そして、その「ところが」は「今」がもつ意味ではなく、「今」が用いられる状況から生まれてくる文脈上補われる意味だと思うのです。
今ひとつ、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)には、「今夫」の項目において、次のように述べられています。
句首语气词的连用形式。“今”本来是时间名词,“夫”本来是指示代词,可是当其结合起来用于句首的时候,一般则虚化为语气词。
(文頭の語気詞の連続して用いる形式。“今”はもともと時間名詞であり,“夫”はもともと指示代詞であるが,それらが結合して文頭で用いられる時,一般には虚化して語気詞となる。)
“今夫”一般用于一段话的开头,表示要发表议论。
(“今夫”は一般に一つの話の最初で用いられ,議論を発表したいことを表す。)
如果它后面紧跟的是名词,“夫”字还带有轻微的指代意味。
(もしそのすぐ後が名詞であれば、“夫”字はなお軽微な指示代詞の意味を帯びる。)
从前后文的关系来看,“今夫”所引出的话有时带有进层的性质,有时带有举例的性质,有时带有转折的性质,有时表示列举,等等。
(前後の文の関係から見ると,“今夫”が引き出す話は、進層的な性質を帯びたり、例を挙げる性質を帯びたり、逆接の性質を帯びたり、列挙を表示したりする、等々。)
概ね、私の考えと一致しています。
・もともとの成り立ちが時間名詞と指示代詞であったということ
・文頭で用いられて、議論を発表する語気を表すこと
・時として「夫」が直後の名詞に対して、指示代詞の働きを残しているということ
・前後の文脈からいくつかの性質を帯びること
ですから、「今かりに」という意味を表したり、「ところが今」という意味を表したりすると見られるものも、あくまで文脈上そう解釈し得る、そう解釈した方がすんなり理解できるということであって、「今」そのものが仮定や逆接の意味を有しているわけではないでしょう。
あくまで使い方の問題なのではないでしょうか。
また、「夫」は語気詞として「そもそも」などと訳したりもしますが、楚永安が指摘しているように、指示代詞としての機能はやはり残っていて、「今夫水」が「今あの水(は)」という意味を表すことも十分考えられます。
通常の場合、「水は下へ流れないということがあることなどない」と、強く言い切った後の文脈での「今夫水~」は、「今あの水は」と来る文の流れは、「今かりに水は」が自然でしょうか?
文脈からなら逆接で、「ところが今そもそもその水も」ぐらいの感じでしょうか。
私には、「湍水の説」の「今夫」は、「今かりに」の意で「夫」が文意を強めているというふうには思えません。
「今」はあくまで今であって、文脈から「ところが今」、「夫」は指示代詞の働きを残しつつ、これから議論を述べる語気を表しているものだと思います。
それこそ松下氏の表現を借りれば、「しかし今、何だよ、水は手で打って跳ね上がらせれば…」と、通常とは逆のことを言おうとした状況ではないでしょうか。