「則」と「即」について・3
- 2021/06/02 07:38
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その3。)
何楽士が『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の次の例をどう考えればいいでしょうか。
(1)於是至則囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到就包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)
例文より前の部分を補います。
・項羽已殺卿子冠軍、威震楚国、名聞諸侯。乃遣当陽君・蒲将軍将卒二万渡河、救鉅鹿。戦少利。陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河、皆沈船、破釜甑、焼廬舎、持三日糧、以示士卒必死、無一還心。於是至則囲王離、与秦軍遇、九戦、絶其甬道、大破之、殺蘇角、虜王離。
(▼項羽已に卿子冠軍を殺し、威楚国に震い、名諸侯に聞こゆ。乃ち当陽君・蒲将軍を遣はし、卒二万を将(ひき)ゐて河を渡り、鉅鹿を救はしむ。戦ひ利少なし。陳餘復た兵を請ふ。項羽乃ち悉く兵を引き河を渡り、皆船を沈め、釜甑を破り、廬舎を焼き、三日の糧を持し、以て士卒に死を必し、一の還る心無きを示す。是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九たび戦ひ、其の甬道を絶ち、大いに之を破り、蘇角を殺し、王離を虜にす。
▽項羽が卿子冠軍宋義を殺してから、威は楚国にふるい、名は諸侯に聞こえた。そこで当陽君と蒲将軍を派遣して、兵卒二万人を率いて河を渡り、(趙の)鉅鹿を救わせた。戦いは利が少なかった。(趙の将軍)陳餘がまた援軍を要請した。項羽はそこでことごとく兵を率いて河を渡り、すべての船を沈め、釜や甑(=炊事道具)をこわし、軍営の施設を焼き、三日分の食糧を持ち、そうすることで士卒に死ぬ覚悟で、まったく生還する意志がないことを示した。そこで(鉅鹿に)至ると[則ち]王離(の軍)を包囲し、秦軍と出会い、九回戦い、その甬道を絶って、おおいにこれを打ち破り、蘇角を殺し、王離を捕虜にした。)
この「則」は確かに「すぐに」と訳しても意味が通ります。
生還しない必死の覚悟で鉅鹿に攻め寄せた以上、項羽がぐずぐずするとは思えず、ただちに王離の軍を包囲するのは当然の行動ですから。
しかし、それは前後の事情からそうなるのであって、「則」の字自体に即時の意味があると断ずることとは別になるでしょう。
前エントリーで紹介した釈大典の『文語解』の「則」の条には次のように述べられています。(原文漢字片仮名表記ですが、平仮名に改め、「」などを加えて読みやすくしてあります。)
上をうけ下へつづける辞にして、その意さまざまあり
・壮士、賜之卮酒。則與斗卮酒。賜之彘肩。則與一生彘肩。(項羽紀)
・項王聞龍且軍破、則恐、使盱夷人武渉往説淮陰侯。(仝)
・居無何、則致貲累巨萬。(越世家)
これ其の時にあたりての事をいふ辞。俚語の「そこで」といふが如し。
・漢王則引兵渡河。(項羽紀)
・項王則夜起飲帳中。(仝)
・荘則入爲壽。(仝)
楊升庵評に「則の字の文法周書より来たる」と。これ金縢の「禾則盡起。歳則大熟。」の語をさす。皆死字の下に用ゆ。然も上段の文を承来る意あり。
この「楊升庵評」というのが楊慎のどの書なのかを突き止めきれないのですが…
ですが、要するに、「則」は前の内容を後に続ける働きがあるとするわけです。
たとえば項王が卮酒を賜えと命じたから、「其の時にあたり」つまり「そこで」斗卮酒を与えたとなります。
しかし、釈大典の「俚語の『そこで』といふが如し」という「そこで」は、あくまで法則にのっとったものでなければならず、通常「そこで」と訳すことが多い「乃」(すなはチ)とは違います。
「乃」は前を受け、おおかたの予想に対して、それがどうなるか、どうするかを示すもので、松下大三郎氏の表現を借りれば、この字自体は「そこでどうなるかというと」という意味を表すものです。
たとえば、「此桃甘。乃食之。」なら、「この桃は甘い」そこでどうするかというと「これを食べる」となります。
ですが、「此桃甘。乃不食。」という場合も当然あり得るわけで、これは「この桃は甘い」そこでどうするかというと「食べない」となる。
これが「乃」に「かえって」とか「意外にも」などの前後の逆接を表すと説明される事情です。
桃が甘いことに対して、それを食べる、食べないはどちらも成立する予想で、そのどちらであるかを「乃」は「そこでどうするかというと」と導くのです。
つまり、「乃」の字自体に「かえって」「意外にも・なんと」などの意味があるというよりは、前後の事情によりどうなるか、どうするかの関係が多義語であるように見せているのだと思います。
それに対して、「則」を「そこで」と訳すのは、どうなるかというとと示すのではなく、前の内容を受けて、後に続ける働きであって、前の内容を踏まえれば、こうなると法則の働きで示すのです。
項王に卮酒を賜えと命じられ、その場合当然のこととして斗卮酒を与えることになります。
それを「そこで」と訳すことになるわけですね。
「於是至則囲王離」の場合、項羽は前段に述べられた決死の覚悟をもって鉅鹿に攻め寄せています。
その前提である以上、法則として必然的に王離の軍を包囲することになります。
したがって、「(そのような事情をうけ)到着すると、そこで王離を包囲した」の意でしょう。
これを文意から「すぐに」と訳すとより自然に思えるだけで、「則」が「即」の即時の意に通じて「すぐに」という意味を表しているわけではないと思います。
そして、「則」の最初の疑問に立ち返って、「荘則入為寿」は、項荘が范増に沛公暗殺を命じられ、沛公を斬らなければ一族はみな捕虜になるぞと脅された以上、そのような状況である場合、項荘は必然的に言われたとおりに行動することになるのであって、これは法則に基づくものです。
つまり、「項荘はそこで(宴会場に)入り長寿の祝いをした」の意で、釈大典が例として示している通り、「則」は死字(実字)の「荘」の後に置かれていますが、あくまで前段を受けて後へ続ける働きをしていると思います。
おそらく「すぐに」の意味ではないのでは?と考えます。
拙「『鴻門の会』・語法注解」の記述は改めたいと思います。
何楽士が『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の次の例をどう考えればいいでしょうか。
(1)於是至則囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到就包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)
例文より前の部分を補います。
・項羽已殺卿子冠軍、威震楚国、名聞諸侯。乃遣当陽君・蒲将軍将卒二万渡河、救鉅鹿。戦少利。陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河、皆沈船、破釜甑、焼廬舎、持三日糧、以示士卒必死、無一還心。於是至則囲王離、与秦軍遇、九戦、絶其甬道、大破之、殺蘇角、虜王離。
(▼項羽已に卿子冠軍を殺し、威楚国に震い、名諸侯に聞こゆ。乃ち当陽君・蒲将軍を遣はし、卒二万を将(ひき)ゐて河を渡り、鉅鹿を救はしむ。戦ひ利少なし。陳餘復た兵を請ふ。項羽乃ち悉く兵を引き河を渡り、皆船を沈め、釜甑を破り、廬舎を焼き、三日の糧を持し、以て士卒に死を必し、一の還る心無きを示す。是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九たび戦ひ、其の甬道を絶ち、大いに之を破り、蘇角を殺し、王離を虜にす。
▽項羽が卿子冠軍宋義を殺してから、威は楚国にふるい、名は諸侯に聞こえた。そこで当陽君と蒲将軍を派遣して、兵卒二万人を率いて河を渡り、(趙の)鉅鹿を救わせた。戦いは利が少なかった。(趙の将軍)陳餘がまた援軍を要請した。項羽はそこでことごとく兵を率いて河を渡り、すべての船を沈め、釜や甑(=炊事道具)をこわし、軍営の施設を焼き、三日分の食糧を持ち、そうすることで士卒に死ぬ覚悟で、まったく生還する意志がないことを示した。そこで(鉅鹿に)至ると[則ち]王離(の軍)を包囲し、秦軍と出会い、九回戦い、その甬道を絶って、おおいにこれを打ち破り、蘇角を殺し、王離を捕虜にした。)
この「則」は確かに「すぐに」と訳しても意味が通ります。
生還しない必死の覚悟で鉅鹿に攻め寄せた以上、項羽がぐずぐずするとは思えず、ただちに王離の軍を包囲するのは当然の行動ですから。
しかし、それは前後の事情からそうなるのであって、「則」の字自体に即時の意味があると断ずることとは別になるでしょう。
前エントリーで紹介した釈大典の『文語解』の「則」の条には次のように述べられています。(原文漢字片仮名表記ですが、平仮名に改め、「」などを加えて読みやすくしてあります。)
上をうけ下へつづける辞にして、その意さまざまあり
・壮士、賜之卮酒。則與斗卮酒。賜之彘肩。則與一生彘肩。(項羽紀)
・項王聞龍且軍破、則恐、使盱夷人武渉往説淮陰侯。(仝)
・居無何、則致貲累巨萬。(越世家)
これ其の時にあたりての事をいふ辞。俚語の「そこで」といふが如し。
・漢王則引兵渡河。(項羽紀)
・項王則夜起飲帳中。(仝)
・荘則入爲壽。(仝)
楊升庵評に「則の字の文法周書より来たる」と。これ金縢の「禾則盡起。歳則大熟。」の語をさす。皆死字の下に用ゆ。然も上段の文を承来る意あり。
この「楊升庵評」というのが楊慎のどの書なのかを突き止めきれないのですが…
ですが、要するに、「則」は前の内容を後に続ける働きがあるとするわけです。
たとえば項王が卮酒を賜えと命じたから、「其の時にあたり」つまり「そこで」斗卮酒を与えたとなります。
しかし、釈大典の「俚語の『そこで』といふが如し」という「そこで」は、あくまで法則にのっとったものでなければならず、通常「そこで」と訳すことが多い「乃」(すなはチ)とは違います。
「乃」は前を受け、おおかたの予想に対して、それがどうなるか、どうするかを示すもので、松下大三郎氏の表現を借りれば、この字自体は「そこでどうなるかというと」という意味を表すものです。
たとえば、「此桃甘。乃食之。」なら、「この桃は甘い」そこでどうするかというと「これを食べる」となります。
ですが、「此桃甘。乃不食。」という場合も当然あり得るわけで、これは「この桃は甘い」そこでどうするかというと「食べない」となる。
これが「乃」に「かえって」とか「意外にも」などの前後の逆接を表すと説明される事情です。
桃が甘いことに対して、それを食べる、食べないはどちらも成立する予想で、そのどちらであるかを「乃」は「そこでどうするかというと」と導くのです。
つまり、「乃」の字自体に「かえって」「意外にも・なんと」などの意味があるというよりは、前後の事情によりどうなるか、どうするかの関係が多義語であるように見せているのだと思います。
それに対して、「則」を「そこで」と訳すのは、どうなるかというとと示すのではなく、前の内容を受けて、後に続ける働きであって、前の内容を踏まえれば、こうなると法則の働きで示すのです。
項王に卮酒を賜えと命じられ、その場合当然のこととして斗卮酒を与えることになります。
それを「そこで」と訳すことになるわけですね。
「於是至則囲王離」の場合、項羽は前段に述べられた決死の覚悟をもって鉅鹿に攻め寄せています。
その前提である以上、法則として必然的に王離の軍を包囲することになります。
したがって、「(そのような事情をうけ)到着すると、そこで王離を包囲した」の意でしょう。
これを文意から「すぐに」と訳すとより自然に思えるだけで、「則」が「即」の即時の意に通じて「すぐに」という意味を表しているわけではないと思います。
そして、「則」の最初の疑問に立ち返って、「荘則入為寿」は、項荘が范増に沛公暗殺を命じられ、沛公を斬らなければ一族はみな捕虜になるぞと脅された以上、そのような状況である場合、項荘は必然的に言われたとおりに行動することになるのであって、これは法則に基づくものです。
つまり、「項荘はそこで(宴会場に)入り長寿の祝いをした」の意で、釈大典が例として示している通り、「則」は死字(実字)の「荘」の後に置かれていますが、あくまで前段を受けて後へ続ける働きをしていると思います。
おそらく「すぐに」の意味ではないのでは?と考えます。
拙「『鴻門の会』・語法注解」の記述は改めたいと思います。