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「亦」について・1

(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その1。)

前エントリーまで、「則」の字の機能について考えてきましたが、その過程で「亦」の字が「則」の対極にあるものという認識を新たにしました。

つまり、「A則B」(Aすれば則ちBす)は「Aする場合はBする」の意の条件文で、「則」が「その場合」という意味を表します。
一方、「A亦B」(Aするも亦たBす)は「AしてもBする」で、別の条件の場合でも同じ結果になることを示し、「亦」が「~もやはり」という意味を表すことになります。
これは条件文における「則」と「亦」の対です。

さらに、「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)は、「AはBする・AはBである」という分説で、Aが他の場合とは異なることを表し、「則」がいわば「は」に相当します。
一方「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)は合説で「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表して、「亦」は「~もやはり」の意で対になります。

ですから、概ね学校現場では読み通り「~もまた」と訳せばよいで済まされていることが多いのでは?と推察します。

ですが、「亦」の字の働きは意外に難しい面があるように思います。
なぜなら、「~もまた」と訳すと、意味が通らないことが往々にしてあるからです。
たとえば『標準漢文法』(紀元社1927)に例として挙げられている次の文は、「~もまた」と訳すと意味不明になります。

・雖然増高帝之所畏也。増不去、項羽不亡。嗚呼増人傑也哉。(蘇軾「范増論」)
(▼然りと雖も増は高帝の畏るる所なり。増去らざれば、項羽亡びず。嗚呼増亦た人傑なるかな。
 ▽そうではあるが范増は高帝(劉邦)の恐れたひとであった。范増が(項羽のもとを)去らなければ、項羽は滅びなかった。ああ范増はやはり人傑であるなあ。)

この例などは「范増もまた人傑であるなあ」と訳すと、意味が通らなくなります。
他の人傑を述べたくだりで「范増も」という場面ではないからです。
これについて松下大三郎氏は、非常に鋭い説明をしています。

「亦」は本副詞にもなる。日本語の「も」は助辭であるが之と似た意味の語を副詞に求めれば「やはり」である。「亦」が接續詞である場合は「…も、やはり」の意であるが、本副詞の場合は「も」と伴はない「…やはり」である。

として、『論語・学而』の「子曰学而時習之。不亦説乎。…」や「范増論」を含めたいくつかの例を挙げた上で、

の「亦」の類で、これは形式副詞ではなく本副詞である。色々考へてその適當なるものを求める語で「やはり」の意である。「不亦説乎」は、悦ばしくないか否矢張悦ばしい」の意、「亦人傑也哉」は「人傑ではないか、矢張人傑だ」の意である。されば「増亦人傑也哉」を「増も亦…」と讀むと「亦」が接續詞の「亦」になるから「嗚呼、増は亦人傑なるかな」と讀むべきである。

と説明しています。
(最近、この『標準漢文法』を引用して説明することが多くて恐縮ですが、実際その分析力の鋭さには敬服するばかりです。もちろんその後100年の語法研究によりさらに新たに解明されたことも多いと思いますが、もっと読まれて然るべき書だというのが私の実感です。)

さて、この「色々考へてその適當なるものを求める」というのは、氏の別の表現では「種々に考へられる中の一つの考に就いてその考の様に矢張といふのである」となります。
自分があれこれ考えるいくつかの選択肢の中から、1つを取りだして「やはり~だ」と述べるのです。
「亦」のこのような機能については、従来あまり語られてこなかったのではないでしょうか。

そんなことを思いながら、虚詞詞典の「亦」に関する記述を見てみると、気になることが書かれています。
「~もまた」が載っているのは当然のこととして、それ以外にも「ただ」の意を表すとか「かえって」などの意味を表すとか、色々な意味が書かれています。

まずその限定を表すということについては、複数の虚詞詞典に取り上げられ、日本でもかなり以前から説かれています。
学生時代に岩波文庫『孟子』(1968)を読んだ時、「王何必曰利。有仁義而已矣。」を、小林勝人氏が「王何ぞ必ずしも利を曰はん。亦(ただ)仁義あるのみ。」と、「亦」を「ただ」と読んでいたのに驚いたことを思い出します。

中国で説かれ、日本でもこのような書物がある関係で、私もそのまま鵜呑みにして、「亦」には限定の範囲副詞の機能があると説きもし、数年前の過去エントリーでも同『孟子』の文を引用して「亦」を限定の範囲副詞だと述べたことがあります。
自分で検証した結果ではなく、いわば受け売りで書いたものですから、今読み返して冷や汗をかく思いをするのですが、その件については後で述べたいと思います。

『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)には、次のように書かれています。

一、表限止。表示人、事物或动作、行为的对象只限于某个范围。句末常有语气词“也”、“耳”等与之相呼应。可译为“只是”、“只不过”、“仅仅”等。
(一、限定を表す。人、事物や動作、行為の対象がある範囲に限られることを表す。句末に常に語気詞“也”、“耳”などを伴い、これと呼応する。“只是(ただ~だけだ)”、“只不过(ただ~にすぎない)”、“仅仅(わずかに~だけだ)”と訳せる。)

そして8つの例が挙げられていますので、1つずつ妥当であるか検証してみたいと思います。
なお、この虚詞詞典は原文(簡体字)が挙げられているだけなので、便宜上日本の漢字に改め、私的に読みと訳をつけておきます。

(1)寡人之従君而西也,晋之妖夢是践,豈敢以至?(《左伝・僖公十五年》)
(▼寡人の君に従ひて西するや,[亦]晋の妖夢を是れ践む、豈に敢へて以て至らん。
 ▽私(=秦の穆公)が君(=晋の恵公)に従って西に向かうのは、[亦]晋の怪しい夢をおさえるのであり、どうして無理をしたりしようか。)

この話には、晋の恵公が、秦の穆公の後援を得て晋に帰国し即位できたにもかかわらず、その際領土を割譲するという約束を守らず、また飢饉の折に秦に支援を求め、秦が快く大量の食糧を送ってくれたのに、秦が飢饉で晋に救援を求めた時には、助けようともしなかったという背景があります。
この5年前に恵公は、死んだ兄の申生を改葬し、それを無礼として申生の霊が現れ、晋を滅ぼすと言った事件がありましたが、秦の穆公はそれを妖夢と言い、晋の乱政を招いている原因であるとして、その妖夢を押さえつけて晋を正しい道に戻らせようとしたのです。
『古代漢語虚詞詞典』は、この「晋之妖夢是践」を「ただ晋の妖夢を押さえつけるだけだ・押さえつけようとしたに過ぎない」と解しているわけで、確かにそう解釈するとわかりやすくはなります。
しかし、この「亦」を無理に限定を表すとしなくても、穆公が非礼を重ねる晋の恵公に対して怒り、晋を攻めたのも「晋之妖夢是践」であり、こうして恵公を捕らえ秦に連れ帰るのも「晋之妖夢是践」であるという意味で、「これもやはり晋の怪しい夢をおさえるためである」と、合説で解釈できると思います。

(2)尭舜之治天下,豈無所用其心哉? 不用於耕耳。(《孟子・滕文公上》)
(▼尭舜の天下を治むるや,豈に其の心を用ゐる所無からんや。[亦]耕すことに用ゐざるのみ。
 ▽尭舜が天下を治めるにあたり、どうして其の心を用いる部分がなかっただろうか。[亦]耕作に(心を)用いなかっただけである。)

この2例目の話にも背景があります。
もと儒者の陳相というものが滕の国にあって、神農の説を説く許行という者に感化されました。
陳相は孟子に面会し、許行の生活態度を踏まえながら、滕の文公の政治を批判します。
「滕文公は賢君ではあるが、古代の聖王の道を聞いていない。真の賢君は人民と共に耕作し、自ら炊事を行って、なおかつ政治を行うものである。滕の国庫には穀物や財貨が満ちているが、それらは文公が自ら耕作して手に入れたものではなく、人民から租税をとって得られたものである。これでは真の賢君とはいえない」と。

これに対して、孟子は、陳相が師と仰ぐ許行が自分で耕作していることを確認した上で、冠や釜や農具も自分で作るのかと問い詰めます。
「いちいち自分で作っていては耕作のじゃまになるので、作った穀物と物々交換する」のだという説明に、孟子は政治も同じで分業が必要で、文公が自ら耕作をしていなくても何ら不都合はなく、それをもって賢君の資格がないとはいえないと指摘します。
尭帝の時、洪水により天下中に草木が生い茂り禽獣が増え、五穀は実らず禽獣が人を襲うという事態で、天下は平穏ではなかったが、尭帝は舜に混乱を治めさせ、禹に治水を命じました。
禹は洪水をおさめるため八年もの間、外にあり、自分の家の前を通り過ぎても門内に入ることはありませんでした。
自分で耕したいと思っても、耕す暇などありません。
尭帝はさらに后稷に命じて、人民に農業を教え、契に命じて人民を教育して人倫を学ばせました。
このように聖王が人民の安寧を案じ憂えることは大変なことなのであって、同時に自分で耕す暇などなかったのです。
尭帝は舜のような賢臣を得ないことを、舜帝は禹や皐陶のような賢者を得ないことを、自分自身の憂いとし、彼らに政治を委ねながら、自身は直接政事にはあたりませんでした。

そしてそのくだりで、「尭舜之治天下、豈無所用其心哉。不用於耕耳。」の表現が出てきます。
この「亦不用於耕耳」を『古代漢語虚詞詞典』は限定を表す例として示しているのですが、これに先行する「禹八年於外、三過其門而不入。雖欲耕、得乎。」(禹は外に八年いて、三たびその門に通りがかっても入らなかった。耕したいと思っても、得られただろうか。)、そして尭の腐心に対して「聖人之憂民如此。而暇耕乎。」(聖人が民のことを憂えるのはこのようであった。それなのに耕す暇などあったであろうか。)の2文を踏まえたのが、例の「亦不用於耕耳」だと思います。
前2者が耕す暇などなかったのだと述べられたことを踏まえ、2例と同じく「これもやはり耕作に(心を)用いなかっただけである」と表現されたものだと思います。
つまり「亦」の合説の用法です。
あえて「亦」を限定の意に解釈する必要があるでしょうか。

(3)王不好士也,何患無士?(《戦国策・斉策四》)
(▼王[亦]士を好まざるなり、何ぞ士無きを患へん。
 ▽王は[亦]士を好まれないのです、どうして士がいないことを悩まれる必要がありましょうか。)

さて、この例も背景を見てみましょう。
斉の宣王に目通りした王斗という者が、宣王の先君である桓公は好んだものが5つあったが、宣王にはそのうち4つがあると言います。
桓公は馬を好み、犬を好み、酒を好み、色を好んだが、この4つについては宣王も好んでいるが、桓公が士を好んだのに対して、宣王は士を好まないと。

これに対して、宣王は「今の世には士がいないのだから、私が好みようもない」と答えます。

王斗は次のように言います。
「世に騏驎や騄耳のような駿馬がいなくても、王の四頭立て馬車はすでに備わっています。世に東郭俊や盧氏の犬がいなくても、王の猟犬はすでに備わっています。世に毛嬙や西施のような美女がいなくても、王の後宮には美女で満ちています。」

そしてこの後に「王不好士也、何患無士。」が続くのです。
果たして「王はただ士を好まないのだ」という意味でしょうか?

「王亦不好士也」に先行する王斗の言葉は、世に極めて優れたものがいなくても、王の現状には十分に備わっている」という意味で、まったく存在しないわけではないという内容です。
だとすれば、これに続く内容は、「極めて優れた士がいなくても、王の現状には十分に備わっている」でなければなりません。
したがって、「王不好士也」は、「王はやはり(私が前に言ったとおり)士を好まれないのです」が妥当で、「亦」が限定を表しているとは思えません。

この3つの検証からはっきりすることがあります。
語法の例文というものは、その例だけを見れば、その用法に用いられているように見えますが、用例の背景まで見れば必ずしもその例にあたらないことが多いように思います。
虚詞について論じる時は、それが用いられている背景をよく観察して、真に例外的な用法といえるかどうかを慎重に見極めなければなりません。

長くなりますので、続きは次回のエントリーにします。

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