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「亦」について・2

(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その2。)

前エントリーの続きです。

(4)文子曰:“吾聞之也,国有道,則賢人興焉,中人用焉,百姓帰焉。若吾子之語審茂,則一諸侯之相也,未逢明君也。”(《大戴礼記・衛将軍文子》)
(▼文子曰はく:“吾之を聞くなり,国に道有れば,則ち賢人興り,中人用ゐられ,百姓帰す。吾子の語審茂なるがごときは,則ち一に諸侯の相なり,[亦]未だ明君に逢はざるなり。”と。
 ▽文子が「私はこのことを聞いています,国に道があれば,賢人が起こり,並の人が用いられ,人民が帰服します。あなたの言葉がとても盛んであることは、ひとえにみな諸侯にふさわしい相です。[亦]まだ明君には巡り会っていないのでしょう。」と言った。)

この例にも背景があります。
衛将軍文子が、孔子の高弟の子貢に、孔子の弟子70余人の中で誰が賢であるかという質問をしました。
これに対して、子貢は賢を知るということは難しいことであって、自分はわからないと答えます。
文子はなおも食い下がって、「あなたは自ら孔子の門に学んだのだから、あえて質問するのです」と迫ります。
弟子にも色々あって全てを知っているわけではないと渋る子貢に、文子は「あなたの知り得る限りでよいから、どうかその人物の行いを聞かせてほしい」と粘ります。
そこで子貢は、孔子の弟子たち、すなわち顔淵、冉雍、子路、冉求、公西赤、曾参、子張、子夏、澹台滅明、子游、南宮括、高柴、12人について、彼らがいかに優れ、孔子が高く評価していたかを述べます。
そして、「これが私が自分で見たことです。あなたが質問されたから言ったのであって、私自身は賢を見極めることはできません」と答えるのです。

例文はその直後、文子が述べた言葉になります。
子貢が顔淵について述べた際、「故国一逢有徳之君、世受顕命、不失厥名、以御于天子以申之。」(ですから、国にひとたび徳のある君に巡り会えれば、世々君の信頼を承け、その名誉を失わず、天子に侍してその名誉を重ねることになる。)と指摘しています。
しかし実際には顔淵はそのような立場にたつことはありませんでした。
子貢が自分の見た事績を話した12人は、いずれも優れた君主に巡り会えば、才能を発揮できるだけのものをもっていたわけです。
ところが、実際にはそうはなっていない。
その事実が、文子に「未逢明君也」と言わせたのです。
これは「ただまだ明君に巡り会っていないのだ」という意味でしょうか?
私は、文子が子貢の話を聞いて、「明君による政治のもとには賢人は用いられるものだが」という思いから、「やはりまだ明君に巡り会っていないのだ」と判断し、自分の出した結論として述べたのだと思います。

(5)今是人之口腹,安知礼義? 安知辞譲? 安知廉恥隅積? 呥呥而嚼、郷郷而飽已矣。(《荀子・栄辱》)
(▼今是の人の口腹,安くんぞ礼義を知らん,安くんぞ辞譲を知らん,安くんぞ廉恥隅積を知らん。[亦]呥呥として嚼み,郷郷として飽くのみ。
 ▽今あの人の口と腹は,どうして秩序や道を知ろう,どうして譲り合いを知ろう,どうして恥じる心や道理を知ろう。[亦]むしゃむしゃと噛み,ひたすら満腹するだけである。)

この例も「亦」が文末の語気詞「已矣」と呼応して限定を表すとみなされています。
この文だけを見れば確かにそのようにも見えるわけですが。
しかし、この場合もどのような文脈でこの「亦」が用いられているのかという検証が必要です。

この例文に先行する内容は次の通りです。

全て人間には共通点があって、空腹なら食べ物を求め、寒ければ暖を求め、疲労すれば休息を求めるもので、これらは後天的なものではなく、生まれつきもっているものである。
尭舜も生まれながら聖人としての性質を備えていたわけではなく、本性を改善し修養に努力して初めて聖人となったのである。
だから、小人は、修養を積んだ君子に導かれて善になるしかない。

このくだりで先の口腹の例が来るのです。
人の口腹はまさに人の喩えであって、本来の性質は道理を理解するものではない。
食べるものがあれば、人が「空腹なら食べ物を求め、寒ければ暖を求め、疲労すれば休息を求める」ように、「むしゃむしゃと噛み、ひたすら満腹するばかり」です。
つまり、人がそうであるように、口腹「もやはり」です。
この例文が限定の意味を表すのは、語気詞「已矣」の働きであって、「亦」は合説「もやはり」でしょう。

(6)臣聞之,有君之不能耳,士無弊者。(《韓非子・難二》)
(▼臣之を聞く、[亦]君の能くせざる有るのみ、士に弊(つか)るる者無し。
 ▽私はこのことを聞いています、[亦]君のおできにならないということがあるだけです、兵士に疲れている者はおりません。)

まず、この例の先頭「臣聞之」は、この位置では意味をなさず、注釈書で「士無弊者。」の後に置かれるべきだと指摘されています。
そのことはともかくとして、これに先行する部分では、次のような内容になっています。

晋の趙簡子が衛の都を包囲した時のこと、簡子が盾に囲まれ矢石の届かない所に立って、攻め太鼓を打つも、兵士が奮い立ちませんでした。
簡子が太鼓のばちを投げ捨てて言う、「ああ、我が兵士は疲れ果ててしまった」。
すると賓客をつかさどる役の燭過というものが、かぶとを脱いで答えます。

このあと、例文が来るのです。
この場合、君ができないことがあるという話が先行箇所にはありません。
したがってこの「亦」は合説の用法ではあり得ません。
「亦~耳」と呼応しているために、「亦」を限定の副詞とする説の有力な例とも言えそうです。

ただ、この続きの中で、燭過は、先君の献公が多くの国を併合服従させ、12回も戦争に勝利したのは同じ民を用いてのことだとし、その次の恵公は暗愚で美女に溺れ、秦に攻め込まれたけれども、それも同じ民を用いてのことだと言います。
その箇所は「是人之用也」(亦た是の人を之れ用ゐるなり)と表現されています。
さらに、次の文公は武勲をあげ、名を天下に響かせたが、それもやはり同じ民を用いてのことだとし、「此人之用也」(亦た此の人を之れ用ゐるなり)と表現しています。
この2つの表現は合説です。
そしてその直後、また「有君不能耳」(亦た君の能くせざる有るのみ)と述べています。

わずかの範囲で「亦」が4回用いられ、そのうち2つは限定だが、2つは「もやはり」の意味の合説だというのはおかしくはないでしょうか。
文章の用字としても誤解をふせぐべく、限定なら「唯」などを用いて、区別するのが自然ではないでしょうか。
最初に紹介した「范増論」の「亦」を想起します。

『孟子・梁恵王上』冒頭の次の有名な文にも似たような表現があります。

・孟子見梁恵王。王曰、「叟不遠千里而来。将有以利吾国乎。」孟子対曰、「王何必曰利。有仁義而已矣。」
(▼孟子梁の恵王に見ゆ。王曰はく、「叟千里を遠しとせずして来たる。亦た将に以て吾が国を利する有らんとするか。」と。孟子対へて曰はく、「王何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。」と。
 ▽孟子が梁の恵王に目通りした。王が「先生は千里の道を遠いと思わずにいらっしゃった。やはり我が国を利してくださるおつもりですか。」と言うと、孟子は「王様はどうして利とおっしゃる必要がありましょうや。やはり仁義があるのみです。」とお答えした。)

この例もなにしろ章の初めの冒頭の一節ですから、先行する部分などはありません。
しかし、登場する2つの「亦」について、たとえば『新釈漢文大系4 孟子』(明治書院1962)は次のように解しています。

亦将有以利吾国乎
→それは、先生もまた他の人のように、わが梁の国を強くし、ひろげ、富まそうとして下さるのでありましょうか。

亦有仁義而已矣
→(利などということより、昔の聖賢のように、)王もまたやはり仁義をおこなうということがあるだけです。

この2つめの例を、岩波文庫『孟子』が「たダ」と読んでいることは前述しました。
しかし、教科書などでもよくとられるこの箇所は、概ね前者の「亦」を「他の遊説者と同じようにあなたもまた」、後者の「亦」を「古の聖賢のように、王もまた」と解していると思います。
本文に一言も書かれていない内容を補って合説に解しているわけです。

一方で、この2つめの例は「亦」は限定の範囲副詞だとする解釈が最近の主流になりつつあり、私なんぞも3年前のエントリー「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」で、拙速にも

「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。

などと述べています。
まだ中国の語法解釈に熱を上げていた頃のもので、それを検証もせずに鵜呑みにした記述だなあと恥ずかしくなり、過去記事といえども改めなければという気になります。

この例について、先に引用した『標準漢文法』には興味深い指摘があります。

亦将有以利吾国乎
→矢張私の想像通り

亦有仁義而已矣
→私は利以外に仁義が有ると思ふ其の私の考通り

このように解して、

これらも種々に考へられる中の一つの考に就いてその考の樣に矢張といふのである。本副詞であるから「も」の意味はない。

と述べています。

この松下氏の説明を鵜呑みにしてしまっては、また同じ轍を踏むことになるのですが、私は「ただ」と解釈した方が意味が通るとか、「而已矣」や「耳」などの語気詞と呼応しているから「ただ」の意だとして済ませてしまうのは、どこか危険な気がしてならないのです。

将有以利吾国乎」の「矢張私の想像通り」というのは、多くの遊説者に接してきた可能性の高い梁の恵王が、どの遊説者も登用してもらおうと思って、私なら貴国に利益を与えられますと自己アピールしてきた経験から、おおかたこの孟子も同様に利益を与えると言うのであろうと予期していたことを背景にしています。
ですから、「先生もまた他の人のように」という解釈と、少なくとも指す事実については大きなズレはありません。

有仁義而已矣」の「私は利以外に仁義が有ると思ふ其の私の考通り」は、従来にはなかった(というより、はるか100年前に述べられていたのですが顧みられなかったというべきでしょうか)解釈です。
しかし、あれこれ考え得る中で、やはりこうだと思う自分の考えの通り「やはり」とするこの「亦」の解釈は、「亦」の本来の働きに基づきつつ、先行する部分に同様の内容がない場合に、うまく説明できる解釈だと思います。

先の例の「有君之不能耳、士無弊者。」も、同様の例を背景にするものではなく、燭過が己の判断の中でこれだと思うものを示して「やはり君のおできにならないということがあるだけです」と述べているのではないでしょうか。

(7)子撃因問曰:“富貴者驕人乎? 且貧賤者驕人乎?”子方曰:“貧賤者驕人耳。”(《史記・魏世家》)
(▼子撃因りて問ひて曰はく:“富貴なる者人に驕るか,且た貧賤なる者人に驕るか。”と。子方曰はく:“[亦]貧賤なる者人に驕るのみ。”と。
 ▽子撃はそこで「富貴な人が人に驕り高ぶるのでしょうか,それとも貧賤な人が人に驕り高ぶるのでしょうか。」と質問した。田子方は「[亦]貧賤な人が人に驕り高ぶるのだ。」と言った。)

魏の文侯の子の子撃が、父の師である田子方に出会い、車を避けて謁見の礼をとったのに、田子方が答礼しなかったことに対して、おそらく感情を害したのか、問いかけた質問です。
富貴な人と貧賤な人と、どちらが人に対して驕り高ぶるのかという問いに対して、田子方は「貧賤者驕人耳」と答えるわけですが、これは「ただ貧賤の者だけが」という意味ではないでしょう。
二者選択を迫る問いに対する答えは1つです。
どちらかを答えればよいわけですから、「亦」を限定の副詞と解する必要はありません。
どうであろうかと自分で考え、「やはり」貧賤な者が人に驕り高ぶるのだと答えたのだと思います。
ちなみに、田子方は、富貴の者が驕り高ぶれば、国や家を失うことになるが、貧賤の者の場合は、君主と合わず、意見が用いられなければさっさと他国へ行ってしまう、もともと同日には論じられない問題だと言います。

(8)捲簾唯白水,隠几青山。(《杜工部集・悶》)
(▼簾を捲けば唯だ白水,几に隠(よ)れば[亦]青山。
 ▽簾を巻き上げればただ白く光る川の水,脇息に寄りかかれば[亦]青い山。)

南方にあって長く故郷に帰ることのできない杜甫の憂鬱を詠じた詩です。
「捲簾唯白水」は、簾を巻き上げて見えるのはただ白水のみという意味です。
この「唯」と同じ位置に置かれているから「隠几青山」も「几に寄りかかって見えるのはただ青い山々だけ」と解釈したわけでしょう。

しかし、この「亦」は別の条件の場合と同じ結果になることを示しているのです。
「几に寄りかかってもやはり見えるのは青山だけ」というわけで、別に「亦」が限定を表しているわけではないでしょう。

以上、『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)が「亦」を「限定を表す」とし、「人、事物や動作、行為の対象がある範囲に限られることを表す」と説明する用法の例文を検証しました。
総じて言えることは、前エントリーにも述べたように、例文単独では「亦」が「唯」のように限定の副詞であるかのように見えても、例文の背景を丹念に探れば、「亦」本来の義で十分解釈できるということです。
喩えに不適切かもしれませんが、「信じられるのは、やはり君だけだ」という文があったとして、この「やはり」は限定を表しているでしょうか?

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