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「則」と「即」について・2

(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その2。)

前エントリーで、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』が挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の例を紹介しました。
あらためて全ての例を示します。

(1)於是至囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)

(2)項王受璧,置之坐上。亜父受玉斗,置之地,抜剣撞而破之。(《史記・項羽本紀》)
――项王接受了璧玉,把它放在坐位上。亚父接过玉斗,把它搁在地上,拔出剑把它击碎了。
(項王はすぐに璧玉を受け取って,それを座席の上に置いた。亜父は玉斗を受け取って,それを地面の上に置き,剣を抜いてそれを打ち砕いた。)

(3)湯、周武王広大其徳行,六七百歳而弗失;秦王治天下十余歳大敗。(《漢書・賈誼伝》)
――商汤、周武王广泛地施行他们的德行,相继六七百年而没有失国;秦始皇治天下只十多年便败亡了。
(商の湯王、周の武王は幅広く彼らの徳行を施し,六七百年相続いて国を失わなかった。秦の始皇は天下をただ十数年治めただけですぐ滅亡してしまった。)

(4)高帝問群臣、群臣皆山東人、爭言周王数百年、秦二世則亡、不如都周。(漢書・婁敬伝)
――汉高祖问群臣(建都的事),群臣都是山东人,争先恐后地说周朝称王几百年之久,秦朝刚传了两代亡了,不如在周朝原先的都城(洛阳)建都。
(漢の高祖が群臣に(都建設のことを)下問したが,群臣たちはみな山東(出身)の人で,遅れまいと先を争って,周王朝は数百年の長きにわたって王と称したが,秦王朝はわずか二代続いただけですぐに滅んでしまった,周王朝の初めの都(洛陽)に都を建設した方がよいと言った。)

(1)(2)の例はひとまず措きます。

(3)は、「秦王治天下十余歳大敗」の部分が、先行する『大戴礼記・礼察』に、

・秦王亦欲至是、而不能持天下十餘年、大敗之。
(秦王もここ(=湯王や武王のような五百年の治世)に至ろうとしたが、天下を保つことが出来ず十年あまりで、[即ち]滅亡してしまった。)

とあり、「則」を「即」に作っています。

(4)は、『漢書』の記述のもとになった『史記・劉敬叔孫通列伝』に、

・高帝問群臣、群臣皆山東人、争言周王数百年、秦二世亡、不如都周。

とあり、やはり「則」が「即」になっています。

これらの「即」は確かに「すぐ・ただちに」と解せるもので、それを「則」に置き換えた以上、「則」も同義に解し得るということになるのでしょう。
あるいは何楽士もその根拠に基づいて、「則」を時間副詞「すぐに」の意で立項したのかもしれません、あくまで想像ですが。

しかし、こういう思考が実に危ないところで、この考え方は、「すぐに」の意の「即」が同文または同内容の文で「則」に置き換えられているから、「則」にも即時の意味があるという判断に基づくものですが、これにはその元の文の「即」が確かに即時の意味で用いられていると限定される条件が必要です。

前エントリーで述べたように、「即」の字は接着を基本義とします。
「秦王亦欲至是、而不能持天下十餘年、大敗之」の「即」は、確かに時間的な接着から「すぐに」と解し得るものです。
しかし一方で「十数年天下をたもつことができない」という事実が「大敗之」に接着するともいえます。
つまり、「十数年天下をたもつことができず、とりもなおさず滅びてしまった」です。
前に述べた条件で必ず次のことが起きる必定を表す「即」の字の機能です。
この機能が、「則」の法則を原義とする機能と似ているわけです。
「十数年天下をたもつことができない」結果として必然的に「滅びる」が、「十数年天下をたもつことができない」という場合は「滅びる」ことになるに通じるのです。
仮にもとの文の「即」が即時の意味で用いられていたとしても、それを「則」で置き換えて同じ即時の意だとすることも、もう少し慎重であってよいかと思います。

「周王数百年、秦二世亡」の「即」ももちろん即時で解釈することができますが、これも「秦二世とりもなおさず滅ぶ」、すなわち「秦二世=滅ぶ」で解釈できないことはありません。

しかしそのこととは別に、「周王数百年、秦二世亡」は、「即」とは違う「則」本来の機能できちんと説明できます。
前エントリーで紹介した松下大三郎氏の指摘に、

「則」には日本の「は」又は「ば」の意味が有るが「即」は平説であつてそんな意味がない。

というのがありましたが、この「は」というのは氏のいう「分説的用法」で、「則」の基本的機能です。
氏は、

・謂虞仲夷逸。隠居放言、身中清廃中権。我則異於是、無可無不可。(論語・微子)
(▼虞仲・夷逸を謂ふ、隠居して放言し、身は清に中(あ)たり廃は権に中たる。我は則ち是に異なり、可無く不可無しと。
 ▽(孔子が)虞仲・夷逸を批評した、「隠居して放言し、身を清くして、世を捨て流れのままにした。私はこれとは違う、可もないし不可もない」)

などのいくつかの例を挙げて、次のように述べています。

の「則」は分説的用法で日本の助辭の「は」の意のある所に用ゐられてゐる。日本の「は」は事情の異なるものを分けていふもので之を分説と云ひ、「も」は事情の似てゐるものを合せていふもので、之を合説といふ。「夏は暑く冬は寒い」と云へば夏と冬を分けていつたので分説だが、「昨日も今日も大變に寒い」と云へば昨日と今日を合せて云つたので合説だ。漢文では「夏則熱、冬則寒」といふ風に「則」を用ゐれば分説で「昨日亦寒、今日亦寒」といふ風に「亦」を用ゐれば合説だ。唯「は」は助辭であつて凡そ物の異を分つ場合には一々「は」を附けるが、「則」は副詞であるから一々附けては煩はしい。特に異を分つ必要のある時だけ使ふ。それだけ「は」よりは意味が重い。「夏則暑」と云へば「夏はそれは暑い」といふ意である。「すなはち」は「それは」と同様なのである。

つまり、先の『論語』の例なら、孔子は虞仲・夷逸を批評した上で、「我異於是」すなわち「私これとは違う」と言った、「則」は虞仲・夷逸とは「事情の異なるものを分けて」「は」の働き、分説の働きをしているのです。

この「則」の分説の機能は、松下氏に限らず、他にも指摘されています。
釈大典の『文語解』には、

コノ字上ノ語ヲ分解スルニ用ユ。此ニ「コトハ」ト云ト「トキハ」ト云トノ別アリ。

と述べられています。
また、牛島徳次氏の『漢語文法論(古代編)』(大修館書店1967)は、「則」の字の働きとして次のように述べています。

「則」は,他の場合と対照的に,「Sの場合は,Pだ。」という限定を表す。
例:「秦人諺曰:力則任鄙,智則樗里。」
(秦の人々の諺に「力なら任鄙,ちえなら樗里。」というのがある。)
 :「項王則受璧,置之坐上;亞父受玉斗,……」
(項羽は璧を受けとると,それを座席に置いた。亜父は玉のさかずきを受けとると,……)

これらは表現こそ異なりますが、同じことを述べたものです。
そして、最後の『漢語文法論』の2例目は、私が拙「『鴻門の会』・語法注解」で迂闊にも「動作行為が近接して行われることを表す。すぐに。」と述べたもので、何楽士も即時の意に解したものです。
ですが、あらためて見直してみると、「項王はすぐに璧を受けとると」の意味であるなら「項王即受璧」と表現すべきであって、亜父の行為との対比で「則」が用いられていて、「則」本来の機能で説明できるのに、あえて即時と解するべきなのだろうかと思います。

先の「周王数百年、秦二世亡」も、もとの「周王数百年、秦二世亡」が「秦王朝二代とりもなおさず滅んだ」でなく、「秦王朝二代すぐに滅んだ」という即時の意味であったとしても、「秦二世亡」と「則」の字に改まっている以上、「周王朝は数百年王と称したが、秦王朝二代滅んだ」と、周王朝とは事情を異にすることを示して「秦王朝二代の場合は」と、「則」の字の分説の機能として解してよいのではないかと思うのです。

さて、もう一つの問題は、(1)の「於是至則囲王離」と、そもそもの疑問「荘則入為寿」の「則」をどう解するかですが、それはもう少し考えたいと思います。

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