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カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。

『人面桃花』に見られる「莫知所答」の「莫」の意味は?

(内容:『本事詩』の「人面桃花」に見られる「護驚起、莫知所答」の「莫」の意味について考察する。)

これまで、「莫」は「不」と同じか?という問題について、より慎重に判断すべきだと、文意から合理的に解釈することの危険性を、何度も指摘してきました。

無指代詞とされるにもかかわらず、「莫~者」という用例が多々みられること。
また、「諸将皆莫信」(諸将皆信ずる莫し)のような文の「莫」が「不」に同じで、「諸将皆不信」の意味だと中国の虚詞詞典や語法書に述べられていることなど。
一概に「莫」を無指代詞で片付けることの問題点は確かにあります。
しかし、「莫」の働きを、「不定のある人(もの)が~することがない」という意味を表すと位置づけて、その働きで説明できないかと考えることは「莫」の用法を考える時の基本的な姿勢であろうかと思います。

しかし、一方で、強引に「莫」を、何が何でも「不定のある人(もの)が~することがない」の意だと決めつけることも、また危険な態度であろうかなとも思います。
合理的に解釈しようとすることが危険であるように、また、強引にこじつけることも十分に危険なことだと思うからです。
以前にも述べたように、「莫」は「日が草に隠れて見えなくなる」が原義の字で、人や事物の存在を否定する用法は、そこからの引申義ともいい、また、音を借りたものともいいます。
その意味で、用法が無指代詞に限定されるとは限らず、また、「無」と「莫」は上古音が近く、「莫」が「無」の意味で用いられることもあったのではないかとも思うからでもあります。

とはいえ、「不」で解釈されそうな「莫」の諸例は、実は多くが「不定のある人(もの)が~することがない」で説明できるのではないかと考えてきました。

ところが、つい先日のこと、若い同僚の先生から、「莫」が用いられた文をうまく説明できないので教えてほしいと質問されたのです。
常々、授業ノートにびっしりと書き込みをして勉強をする、とても熱心な先生です。
私なんぞは今年度末で定年、再雇用であと数年もすれば退職する老年ですが、こういう若い努力家がいれば、安心して後を任せられるなと思えます。

彼が示した文例は『本事詩』のいわゆる「人面桃花」の一節です。

・有老父出曰、「君非崔護邪。」曰、「是也。」又哭曰、「君殺吾女。」護驚起、莫知所答(本事詩・情感)
(▼老父有り出でて曰はく、「君は崔護に非ずや。」と。曰はく、「是なり。」と。又た哭して曰はく、「君は吾が女(むすめ)を殺せり。」と。護驚き起ち、答ふる所を知る莫し。)

この「莫」をどう解釈するかは、確かに難しいと思います。
同僚が教示を求めてきたのは、この「莫」が無指代詞として説明しにくいからでした。

さて、この「人面桃花」のお話、該当箇所までの概略は次の通りです。

1年前の清明の日にたまたま立ち寄った家の娘に、崔護は酒で喉が渇いたからと水を求め、それを機にしとやかな娘の気を引こうとするが、娘もまんざらでもない様子で彼を見つめる。
崔護は後ろ髪をひかれつつ別れを告げたきり、そのまま再訪することもなかったが、翌年の清明の日に思い出して、気持ちを抑えきれず、また娘の家を訪れてみると、門が閉ざされていた。
そこで、昨年桃花と娘はともに美しかったが、娘はどこに行ったか、桃の花だけが変わらず風に吹かれて咲いていると、崔護は扉に詩を書き付けて去る。
そして数日後、もう一度娘の家を訪れてみると、家の中から哭声が聞こえてくるので、門を叩いて事情を聞いてみると…
と、例文に続くわけです。

「あなたは崔護ではないか」という老父の問いに、「そうです」と答えると、老父は大声で泣きながら「あなたは私の娘を殺した」と言う。
崔護は驚いて立ち上がり(『太平広記』は「驚起」を「驚怛」に作っており、それだと「驚き悲しんで」)、「莫知所答」
この「莫知所答」が、意味的に、「何と答えればよいかわからなかった」という内容であることはほぼ間違いがありません。

まず、この箇所の「所」はここでは後にとる「答」の生産性の客体を表しています。
「ソレを答えるソレ」あるいは「ソレと答えるソレ」、つまり「答える何かしらの言葉」の意です。
「答える方法」の意味ではありません。
ソレは「答」の生産性の客体ですから、「方法を答える」など、あり得ないからです。
もし「答える方法」の意味なら、「所以答」です。
つまり、「ソレによって答えるソレ」です。
「知所答」とは、「ソレを答えるソレを知る」、つまり「答える言葉を知る」「答える言葉がわかる・言葉を思いつく」の意です。
何であれ生み出される応答の言葉を指していて、それと1つに限定できるものではありません。

さて、次は「莫」なのだが…と、最近語法解説に明るい教科書会社の指導書の「人面桃花」の部分を見てみると、次のように述べられています。

莫知所答 どう答えたらよいかわからなかった。「莫~」は、ここでは「不~」と同じ用法。訓読上「莫知」を「知る莫し」と読むが、「知らない(=わからない)」と訳してよい。「所」は、後に続く動作を表す語句を「~するもの・こと」の意で名詞句化する用法。「所答」は、「答えること(=答えるべき内容)」の意を表す。全体では「答えるべき内容をわからなかった」となるので、「どう答えたらよいかわからなかった」意になる。

「所」についての説明は、じゃっかんたどたどしいところがありますが、まあ妥当な説明だと思います。
そして、やはり、この「莫」を「不」と同じ用法とみなしています。
これはこれで、中国の語法学を踏まえた最新の解釈であり、この教科書会社の漢文解釈の基本姿勢のひとつです。

しかし、素朴な疑問なのですが、もし「何と答えてよいかわからない」なら、「不知所答」(答ふる所を知らず)と表現すればいいことです。
なぜ「莫知所答」と表現する必要があるのでしょうか?
そのことの方に、むしろ生徒は疑問を感じるのではないでしょうか?

もしや文字の異同はないか?と調べてみましたが、どうもないようです。
『太平広記』に載せられている話も、同じ「莫知所答」です。

普通に「何と答えればよいかわからない」なら「不知所答」であるのに、あえてそう表現せずに「莫知所答」と「莫」を用いている。
これをどう考えればよいのでしょうか。

まず、このような「莫」は「不」と同じ用法であるとする説について考えてみましょう。

日本で一番よく参照されていると思われる商務印書館の『古代漢語虚詞詞典』には、意外にもこの用法については触れられていません。
また、解恵全等の『古書虚詞通解』(中華書局2008)も、『詞詮』や『古書虚字集釈』の「莫」を「不」と解する記述を引用してはいますが、積極的に肯定せず、慎重な姿勢をとっています。

前々エントリーで引用した何楽士の『古代漢語虚詞詞典』の記述を再引用します。

(二)表示一般的否定。可译为“不”、“不能”等。
((二)一般的な否定を表す。「~しない」、「~できない」などと訳せる。)

確かに何楽士は「一般的な否定を表す」と述べていますし、「不」「不能」などと訳すことができるとしています。
ですが、現代中国語で、そう解釈できる、そう訳せるということと、「莫」と「不」が同じ機能をもつということとは全く別の問題です。
もし現代語からの類推で、合理的解釈、自然な解釈として通るから、同じ意味を表すのだというのなら、それはとても危険な立ち位置ではないでしょうか。

「莫」も「不」も、春秋時代から常用される語であって、どちらかが淘汰されずにともに用いられてきたということは、本質的な機能が異なるものだからでしょう。
藤堂明保氏によれば、古代漢語の「不」は声母が〔p-〕類の破裂音、「莫」は〔m-〕類の鼻音と推定されるそうです。
系統の異なる音の2語が、同じ機能をするとは考えにくいことです。

「不」は動作や状況などを打ち消す働きをしますが、同時に表現者の意思がこもる語だと思います。
その意味で、客観的な事実の存在を打ち消す「無」とは本質的に異なるものだと以前述べました。
古代音に微妙な違いがあるとはいえ、「莫」と「無」は同じ〔m-〕類の鼻音に属します。
後の時代の用いられ方の変化はいざ知らず、もともとの「莫」の機能が別の語に近いとすれば、「不」よりはむしろ「無」というべきでしょう。

とはいえ、「莫知所答」を「不知所答」と同義として、「答える言葉を知らなかった」と解すればわかりやすいことは事実です。

次に、「莫」と古代音の近い「無」と同じ機能をしていると考えるのはどうでしょうか。
つまり、「無知所答」です。

先にも述べたように、「不」は表現者の意思がこもる語であるのに対して、「無」は客観的に事実の存在を打ち消す語であり、「~しない」と訳して意味が通るからといって、同じだと論じるのは、危険極まりない考え方です。
「不知所答」は「答える言葉を知らない」であり、「無知所答」はそれとは違って「答える言葉を知ることがない」です。
あくまで客観的に表現されているのです。

この場合、「護驚起、莫知所答」ですから、「無」に置き換えると「崔護無知所答」となるわけですが、「崔護は答える言葉を知ることがなかった」となるのでしょうか。
それなら、「崔護無所答」として、「崔護には答える言葉がなかった」とするほうが自然なようには思えますが、それを言ってしまっては始まらないし、「崔護無知所答」でもそれなりに意味が通らないわけではありません。
「莫」を「無」の意味に用いているのだとしても、説明がつかないわけではないように思います。
しかし、なんだか釈然としません。

最後に、「莫知所答」は、やはり「不知所答」でもなければ「無知所答」でもなく、あくまで「莫知所答」なのだと、少しこだわって考えてみたいと思います。

「莫」が無指代詞だとすれば、「崔護莫知所答」をどう解釈すればいいのか、首をかしげてしまいます。
これが崔護のように個人に特定される語が主語ではなくて、たとえば「人」だとか「諸将」であれば、説明は可能になります。
たとえば、「人莫知所答」なら、「人々は、だれも答える言葉を知らなかった」、つまり「人々は、誰も何と答えればよいかわからなかった」と解することができます。

しかし、この形式は、「莫知所答」の部分が、主語「人」に対して主謂謂語になるのが普通です。
つまり、「人は、その中の存在しないものが答える言葉を知る」です。

・尺地非其有也、一民非其臣。(孟子・公孫丑上)
(わずかな土地もその領土でない所はなく、一人の民もその臣下でないものはいない。)

この例のように、「莫」が判断文の主語の場合もあって、必ずしも施事主語になるとは限らないのですが、無指代詞として説明される「莫」は主語として位置づけられるのが基本です。
そうなると、「崔護莫知所答」は、「崔護は、存在しないものが答える言葉を知る」となってしまって、意味が通らなくなってしまいます。
なぜなら、「莫」は崔護に含まれるものでなければならないからです。
ですが、崔護は1人の個人に過ぎません。
同僚が説明できないと思ったのは、この部分でしょう。

たとえば、「崔護は、その中の何ものも答える言葉を知らなかった」と解してみてはどうでしょう。
崔護の中に何人もの彼がいて、その誰もが答えられなかったと解釈するわけですが、それはいかにもで、文学的表現としてはおもしろいかもしれませんが、語法的にはいかがなものでしょうか。

あるいは、「崔護は、いかなる部分についても、答える言葉を知らなかった」と解したら?
しかし、「莫」は、このような用いられ方で、崔護とは別の主題主語として機能するでしょうか?

このように考えてくると、やはりこの「莫知所答」は、「不知所答」または「無知所答」の意味で用いられていると考えるしかしかたがなくなります。

ここで1つの仮説を述べてみたいと思います。

先にも触れましたが、「莫」が「毋或」や「無或」の合音ではなかったかというのは、釈大典の見解に着目した鈴木直治氏の説です。(「古代漢語における否定詞について」(金沢大学教養部論集・人文科学篇1976))
氏はそれこそが「否定詞として用いられる『莫』の本質であると見るべきもののように考えられる」と述べています。
そして、

それでは,この「無或」の結合したものとしての「莫」の機能をどのようにとらえるべきであろうか。まず,「無或」は「無有」に通じて用いられることが多いものであることに注意しなければならない。「有」(ĥïuəg)と「或」(ĥuək)とは,その字音がきわめて近かったものであって,「或」は,よく「有」の意味に用いられているものである。それで,「無」と「或」との結合による「莫」も,当然,「無有」の意味にも用いられるようになっているわけである。(中略)
「無」と「無有」との相違は,(中略)単に「無」といっているものよりも,「無有」といっているものの方が,もちろん,より強い言いかたであったにちがいない。してみれば,「無或」の結合としての「莫」も,やはり通常の「無」よりも,より強い言いかたであったものにちがいない。

「莫」が「無」による禁止よりも、より強い言いかたであることを述べるくだりでの説明です。

「莫」がもし「無或」「無有」であるならば、「莫知所答」は、「無或知所答」もしくは「無有知所答」となります。
この「無或知所答」から、「不定のあるものが答える言葉を知ることがない」という無指代詞として働きが生まれると考えるわけですが、「無有知所答」として「無」よりも強い言い方で、「答えることばを知ることがあるということがない」という理解はできないでしょうか。

つまり、突然老父から、娘の死と、それが「君が私の娘を殺した」という思いもよらぬことを言われ、茫然とする崔護の態度として、「答える言葉がわからない・思いつかない」という以上に、「答える言葉がわかる・思いつくこと自体があるということがない」と客観的に表現されたものではないか。
そんなふうにも思うのです。
もちろん、これが冒頭で述べた強引な解釈になるかもしれないというのはあるのですが。

仮にそのような「莫」の用法があるとしても、『本事詩』は晩唐の伝奇小説であり、古代の「莫」の働きのままに用いられているなどと軽率に考えるわけにはいきません。
「莫」を「無有」で解し、私の仮説のように説明できたとしても、それが適切とは言いにくいでしょう。

「莫」の用法については、さらに慎重な調査研究を待ちたいと思います。

「莫」は「不」と同じか?

(内容:現在主流の古典中国語文法で、「莫」が「不」と同じ働きをすることがあると説かれることについて、疑問を呈する。)

拙著の改訂に伴い、生徒向けにいわゆる「ためぐち」で書いた『ためぐち漢文』の改訂も進めています。
最初に書いたのは、もういつだったか…と思うほど昔で、読み返してみれば、あちこち今の自分の考え方や、納得のいく説明とは食い違っています。
拙著『真に理解する漢文法』の後記にも述べたように、「いわば熱病のように古典中国語文法を独学し」た時期に書いたものですから、中国の語法学の受け売りであったわけです。
ですが、同じ後記に続いて述べているように、「熱病が覚めゆくにつれ、旧著の内容に疑問を感じたり、明らかに誤ったものに気づきもした」という今の自分から見れば、中国の定説も、もはや鵜呑みにすることはなくなり、まずは疑ってみるようになりました。
必然的に、自分が書いたものでも、おかしいと思ったものは、そのまま放置できず、訂正しようという思いに駆られます。

読んで頂く方からすれば、記述に責任をもたない無責任な態度に思われるかもしれず、申し訳ないのですが、学び続ける姿勢としては間違っているとは思いません。
ネットを通じて、おかしなことを書いているぞと指摘していただくこともあり、感謝の念に堪えません。
私にはそれは決して批判には思えない、ありがたいご教示だと思わずにはいられません。
真実を追いかけていくことは、本当に楽しいことですから。

さて、前置きが長くなりましたが、その『ためぐち漢文』を改訂していて、あれ?と思った記述があります。
否定副詞のくだりで、「莫」が「不」と同じ働きをすることがあるという説明です。
「莫」が本来無指代詞であるということを述べた後に、次のように書いています。

諸将皆莫信。
▼諸将皆信ずる莫し。
▽諸将はみな信じなかった。

この「莫」が無指の代詞ではないってのがわかるかい? だって、「皆」は範囲副詞で述語を連用修飾するんだぜ。とすれば、「莫信」を修飾してるって考えるのが自然じゃないか。つまり「諸将はみんな信じなかった」ってことであって、「莫」は「皆」とともに述語の中心語「信」を修飾する(=「信」を打ち消す)働きをしてるんだよ。無指の代詞というよりは、「不」に近い働きの副詞として機能してるってことだな。

自分で書いたものでありながら、これが「あれ?」と思わせたわけです。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、「莫」の代詞の項とは別に副詞の項を設け、さらに禁止とは別に否定の副詞として次のように述べられています。

(二)表示一般的否定。可译为“不”、“不能”等。如:
 (1)令其裨将传飧,曰:“今日破赵会食!”诸将皆莫信,佯应曰:“诺。”
――(韩信)令他的副将通知部队先稍微吃些食物,说:“今天打垮了赵军再会餐!”将领们都不相信,假意答应道:“好!”
((二)一般的な否定を表す。「~しない」、「~できない」などと訳せる。たとえば:
 (1)彼の副将たちに部隊はまず少しばかり食事をとるように伝えさせ、「今日、趙を破って改めて会食しよう」と言った。将校たちはみな信じず、偽って「はい」と答えた。)

これに先行する韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』にも同様の記述と例があります。

しかし、今あらためて自分の書いたことを読み返してみると、やはりおかしなことを書いていると思えてきます。

問題を感じる点は2つあって、まず1つは「皆」の説明です。
「『皆』は範囲副詞で述語を連用修飾するんだぜ。とすれば、「莫信」を修飾してるって考えるのが自然じゃないか」のくだりです。
理屈の上では、通常副詞は謂語を連用修飾するので、これでもいいように見えますが、「皆」という副詞の独特の働きを度外視しています。

西田太一郎氏の『漢文の語法』(角川書店1980)に、副詞「皆・尽・悉・独」の項として、興味深いことが書かれています。

ここでは副詞の働きのいささか特徴的なものについて述べる。どのようなことを問題にするかというと、日本語でたとえば「これらの生徒がみな饅頭を食べてしまった」とあると、「生徒がみな」か「饅頭をみな」かわかりにくい場合があり、それと同様の現象が漢文にも見られることである。

として、「皆」が、「行為者の主語に関係している」場合と、「行為の賓語(目的語)に関係している」場合の2つがあることを例を挙げて説明しています。
「諸将皆莫信」の場合、「諸将はみな」すなわち「全部の諸将が」と、行為の主語に関係している例になり、よもや賓語に関係して「全てのことを信じる」の意味ではないでしょう。
してみると、「ためぐち」の「つまり『諸将はみんな信じなかった』ってことであって、『莫』は『皆』とともに述語の中心語『信』を修飾する(=「信」を打ち消す)働きをしてるんだよ。」という記述は、誤解を招く表現だというより、そもそも当時の私が強引に論じたか、わかっていなかったかのどちらかであったろうと思うのです。
これは「諸将皆」であっても、あくまでも意味的に「諸将のすべてが」だからです。

次に、「無指の代詞というよりは、『不』に近い働きの副詞として機能してるってことだな」の部分です。
今あらためて「諸将皆莫信」について考えをめぐらすと、おや?と思えてきます。
有名な次の一節、

・左右皆泣、莫能仰視。(史記・項羽本紀)
(▼左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。
 ▽側近達はみな泣いて、誰も仰ぎ見ることができなかった)

この例は、中国の主流の語法学や、それにもとづく日本の辞書、語法書は「莫」を無指代詞とするのでしょうか?それとも否定副詞「不」に同じとするのでしょうか?
おそらく無指代詞と解するのだと思いますが、それではこの文を次のように書き改めて、

・左右皆莫能仰視。

とすれば、とたんに否定副詞「不」と同じになるのでしょうか?
この文は「諸将皆莫信」とほぼ同じと考えてよいと思うのですが。
「天下」を限定された話題の内容である主語、すなわち主題主語として、その中に属する(存在しないのですが)「莫」を主語とする主謂構造(主述構造)が謂語(述語)になるという点では、この文も変わらないと思います。

つまり、「左右のみな」を主題主語として、その中に属する「莫」を主語として、「存在しない人が仰ぎ見ることができる」という主謂謂語だと説明されるなら、「諸将のみな」を主題主語として、その中に属する「莫」を主語として「存在しないひとが信じる」と説明して、何の矛盾も起こりません。

「諸将皆莫信」は、「諸将のみなは、存在しない人が信じる」すなわち「諸将のみなは、誰も信じなかった」で、何かおかしいのでしょうか?

「天下莫能当也」の「莫」は無指代詞、「左右皆泣、莫能仰視」の「莫」も無指代詞だが、「左右皆莫能仰視」の「莫」は否定副詞「不」、「諸将皆莫信」も否定副詞「不」だというのなら、いったいどうやって区別すればいいんだ!と叫びたくなります。

というよりも、私にはこれらの「莫」はみな同じであって、「不」と同じとする説の方が疑わしく思えます。

以前のエントリーで、「莫」がもともと「毋或」「無或」の2音の合音であることに、その本質があるとする鈴木直治氏の見解を紹介しました。(「古代漢語における否定詞について」1975)
「天下莫能当也」は、「天下に、[不定のある者が対抗できること]がない」から「誰も対抗できない」の意になるのでしょうし、「諸将皆莫信」は、「諸将のみなに、[不定のある者が信じること]がない」から「誰も信じない」という意味になるのだと思います。

「莫」を「不」と同じと説明するのは、またぞろ状況から合理的に説明できるからという危険な行為のように思えてきます。

「ためぐち漢文」の該当箇所は、一応「莫」を無指代詞とする説に従って、次のように書き改めたいと思います。

この「莫」が無指の代詞とすると、ちょっとアレ?って思うだろ?
これは「諸将はみんな信じなかった」ってことだよな?
つまり意味的に「諸将皆不信」と考えて、現在主流の古典中国語文法ではこういう「莫」は「不」と同じ否定副詞だと説くんだよ。
日本の漢和辞典にもそう書いてるのがある。
あるいは正しい説明なのかもしれんが、最近ためぐち先生は、ちょっと懐疑的だ。
その方が説明しやすいからという合理的な解釈のような気がするんだよ。
そこでひとつ私見を述べておくことにしようかな。
「皆」が主語に関係することがあるというのは前に述べたよね、この「諸将皆~」は、「みなの諸将が」ってことさ。
「莫信」は、「存在しない人が信じる」つまり「誰も信じない」ってことだろ?
だったら、「諸将はみな、誰も信じなかった」で、別にいいんじゃない?
わざわざ「莫」を「不」と同じと論じる必要があるのかね。
と、まあ、そんなふうに思うわけだ。
ただ、現在の学説がそういう方向にあることは示しておくよ。

一度書いたことと、180度違うことを書く、こういうのを無責任というのかもしれませんが、やはり改めたいと思います。

「目眦尽く裂く」の「尽」の意味は?

(内容:『史記』鴻門の会に見られる樊噌の「目眦尽裂」について、「尽」の意味を考察する。)

『史記・項羽本紀』のいわゆる「鴻門の会」について、色々と語義を確認していると、あれ?と思うことに出会いました。

・噲遂入、披帷西嚮立、瞋目視項王。頭髪上指、目眦尽裂
(▼噲遂に入り、帷を披きて西嚮して立ち、目を瞋らして項王を視る。頭髪上指し、目眦(もくし)(ことごと)く裂く。
 ▽樊噲はそのまま中に入り、とばりを開いて西に向いて立ち、目をいからせて項王を見た。髪の毛が逆立ち、まなじりは裂けんばかりである。)

いうまでもなく、主人沛公の危機を救うべく、参乗の樊噲が宴会場に乗り込んだ場面です。
今使っている教科書では「目眦」とありますが、『会注考証』では「目眥」に作り、水沢利忠の「校補」にも異同は示されておらず、どのテキストを底本としたのかは不明です。
別の教科書では「目眥」となっています。

さて、私があれ?と思ったのは、その「目眦尽裂」の説明です。

まなじりは裂けんばかりである。「目眦」は、まなじり(目の外側の端)。「尽」は、ここでは「裂」を強調する用法。

まあまさか本当にまなじりが裂けるわけがなく、「頭髪上指」と共に誇張表現であることは言うまでもないのですが、「目眦尽裂」は「まなじりは裂けんばかりである」という意味でしょうか?

私自身、特にこの箇所を語義的に疑問に感じたことがなく、以前このブログにも載せた『鴻門の会・語法注解』では、「頭髪が逆立ち、まなじりがすっかり裂けていた」と訳し、次のように説明しています。

「目眥尽裂」は、まなじりがすっかり裂ける。
「尽」は範囲副詞、すべての意。
「頭髪上指」「目眥尽裂」はいずれも誇張表現だが、現実に即して意訳するよりはそのまま解する方が味わいがあってよい。

つまり私は単純に「尽」を「すべて」の意で解したわけです。
しかし、「『尽』は、ここでは『裂』を強調する用法」などと説明するからには、よるところが必ずあるはずです。

そこで『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)を開いてみました。
すると次のように書かれています。

五、用在形容词谓语前,表示谓语所指处于顶端状态。可译为“十分”、“至”、“极(其)”等。
(五、形容詞謂語の前で用いられ,謂語が指すものが頂点の状態にあることを表す。“十分(十分に・非常に)”、“至(極めて・もっとも)”、“極(其)(極めて)”などと訳せる。)

そして、その例文として、次のものが示されていました。

・子謂韶、尽美矣、又尽善也。(論語・八佾)

「尽」を「きわめて・非常に」と訳すとすると、「先生が韶についておっしゃる、きわめて美で、またきわめて前だ」となるでしょうか。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)にも同じ例が挙げられて、次のように説明されています。

二、程度副词
(一)用于形容词或动词谓语前作状语,表示状态或动作行为程度极深。
(二、程度副詞
 (一)形容詞や動詞謂語の前で用いられて状語(連用修飾語)となり、状態や動作行為の程度が極めて深いことを表す。)

・及死之日,天下知与不知,皆為哀。(史記・李将軍列伝)
(亡くなった日、世の知る者も知らない者も、みな彼のために非常に悲しんだ。)

この例は、上記2冊がともに例として引用しているものですが、何楽士の解釈に従う限りは、「哀」は形容詞というよりはやはり動詞、もしくは形容詞が動詞のように働いている語ということになるのでしょう。
つまりは、動詞といっても、ものの状態や形容を表す性質を強くもつ語の場合にこの用法が適用されるのだと思います。

ところで、「尽(盡)」は、「皿の中の拭除される意」(加藤常賢『漢字の起源』)、「食い尽くして,皿中に点々と小間切れのみが残ること」(藤堂明保『漢字語源辞典』)、「器中に洗滌のための細い棒(聿)を入れ、水を加えて器中を洗う意で、器を洗い尽すことをいう」(白川静『字統』)などと原義に諸説あるものの、『説文解字』の「器中空也」の解釈が妥当で、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義の字です。
これの引申義が「ことごとく」で、「全て」「全部」の意になるわけです。
だから、『史記・項羽本紀』の「珍宝尽有之」も、「珍宝については、ことごとく(=残すところなくすべて)これを有した」の意であって、謂語動詞の表す意味や文脈によって「全部」「すべて」「みな」などと訳し分けたり、「完全に」と訳すこともあるけれども、基本は「残すところなくすべて」の意であろうと思うのです。

形容詞謂語の前に置かれる「尽」の例として諸本が引用している次の例、

・子謂韶、「美矣、又善也。」謂武、「美矣、未善也」。(論語・八佾)
(▼子韶を謂ふ、「美を尽くせり、又た善を尽くすなり。」と。武を謂ふ、「美を尽くせり、未だ善を尽くさざるなり。」と。)

これは美や善について、孔子が「何ひとつ欠けることがない」と評しているのであって、むしろ「完全に美である、また完全に善である」と訳すべきではないでしょうか。
「尽善也」を「きわめて善である」と解して、「未尽善也」の形で打ち消せば、当然「まだそれほど善であるわけではない」となりますが、これはそういう意味でしょうか?
やはり「まだ完全に善であるとはいえない」という意味ではないでしょうか?
その意味で、商務印書館『古代漢語虚詞詞典』が『論語』の例文を、初めの部分だけ引用しているのは、ご都合主義だなと思えてきます。

商務印書館『古代漢語虚詞詞典』がこの用法の例として挙げているものは他にもあります。

(2)善挟治之謂神。(荀子・儒效)

これは「尽く善にして挟(あまね)く治むるを之れ神と謂ふ」と読んで、「欠けるところなく善であって広く治まっているのを神という」の意でしょう。
明らかに「尽」は「挟」(あまねし)と対になっていて、すみずみまで行き渡ることを表していると思います。
「きわめて」とか「とても」という意味ではないでしょう。

(3)及死之日、天下知与不知、皆為哀。(史記・李将軍列伝)

先にも取りあげたこの例は、何楽士に従い、「哀」を動詞、または動詞のように働いている語として説明しましたが、あるいは名詞かもしれません。
なんであれ、「皆」は「人々はみな」の意、「尽」は「哀」(かなしむ)ことについて欠けることがないことを表しているのでしょう。
「哀」を名詞とすれば、「尽」は副詞ではなく動詞で、悲しみの限りを尽くすことを表すことになります。
案外、その方が妥当な解釈かもしれません。

(4)先生見諸葛亮連弩曰、「巧則巧矣、未善也。」(三国志・魏書・杜夔伝・注)

これは『杜夔伝』に裴松之がつけた注の一節です。
「先生諸葛亮の連弩を見て曰はく、『巧なるは則ち巧なり、未だ善を尽くさざるなり』と。」と読み、「先生(馬鈞)が諸葛亮の連弩を見て『巧みなのは巧みである、(だが)まだ完全に善いとはいえないぞ』と言った」という意味でしょう。
「それほど善くはない」の意味ではないと思います。

(5)杜詩最多、可伝者千余首、至於貫穿今古、覼縷格律、善、又過於李。(白氏長慶集・与元九書)

これは、「杜詩最も多く、伝ふべき者千余首、今古を貫穿し、格律に覼縷(らる)なるに至り、工を尽くし善を尽くし、又た李に過ぐ。」と読み、「杜甫の詩は最も多く、伝えるべきものは千余首もあり、古今の詩に通じ、詩の格律に詳細であり、完璧なまでに巧みであり完璧なまでに善く、また李白にも勝る。」という意味でしょうか。
「尽工尽善」の部分、「尽」を副詞として解しましたが、これもあるいは「工を尽くし善を尽くし」と解した方がよいのかもしれません。
訓読で動詞で読むというのでなく、もともとが「尽」は「尽きる」の意なのですから、「巧みの限りを尽くし、善美の限りを尽くす」と解しておかしいとは思いません。
これを「非常に巧みで非常に善である」と解することもできるけれども、それは意訳でしょう。

(6)美固揚、片善亦不遏。(孟東野詩集・投所知詩)

最後の例は「美を尽くすは固より揚ぐるも、片善も亦た遏(とど)めず。」と読んで、「完全に美であるものは、当然賞賛するも、一部の良さも遮らない。」という意味だと思います。
これが「極めて美である」とするよりも「完全に美である」と解する方が妥当なのは、「片」と「尽」が対になっていることから明らかでしょう。

こうして見てくると、「尽」を「きわめて・非常に」などと解するのは、本来は「欠けるところがない」「余すところがない」という意味からの意訳であろうと思えてきます。
「欠けるところがない」からこそ「きわめて・非常に」と言えるのであって、つまりは「余すところがなく」「欠けるところがない」のです。
たとえば「尽美」をかりに「非常に美である」と解したとしても、「甚美」(甚だ美なり)とは違う表現だと思います。
「甚」は程度副詞ですが、「尽」が近い意味で用いられているとしても、あくまで範囲副詞としての用法でしょう。

さて、最初に戻って、「尽」が「裂」を強調する用法という説を、どう考えるべきでしょうか。
この解釈を踏まえた口語訳が示されていないので、なんともいえないのですが、かりに「まなじりはとても裂けていた」と解したとしても、それは「欠けるところなく裂けていた」からの意訳になるわけで、私が「語法注解」で示した「まなじりがすっかり裂けていた」という訳に他ならないではありませんか。
もともと「尽」は「尽きる」からの引申義で「すべて」の意味の副詞なのですから、これを「裂」を強調する用法と言われても、そうなのかな?と思えてしまいます。

私は普通に「まなじりはすっかり裂けていた」と解したいと思います。
現実的にはありえない誇張表現だからといって、「まなじりは裂けんばかりである」と訳してしまっては、せっかくの司馬遷の表現が台無しになってしまう気がします。

「所謂」について

(内容:「所謂」について、結構助詞「所」の用法に基づき考察する。)

「所」字の用法について、以前のエントリーでかなり考えました。
それなりの理解はできたと思っていましたが、つい先日、この9月に改訂したばかりの拙著の記述を見ていて、あれ?と感じることがありました。
「いわゆる」(所謂)は、どんな意味?」と題した「所」字のコラムについてです。

「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、「世間で言われている」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、構造助詞「所」を前にとり「所謂」(謂フ所)の形で、「ソレをいうソレそのもの」から「いうこと」という意味の名詞句になる。これが「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になることは、前に述べた。

まずこのくだりです。
この説明はおかしいのではないか?と、感じたのです。
「A所謂B」(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、「AがいうB」という意味になるという部分が、現在の私の理解と異なるように思えたのです、自分で書いたものなのですが…

「A所謂B」を「Aの謂ふ所のB」と読めば、「所」字の働きからすれば、「Aの、ソレを言うソレであるB」と解することになりますが、「Aの言うことであるB」という意味で「所謂」は用いられているだろうか?と疑問に思ったのです。

実際、この「A所謂B」の形は多くの例が見られますが、普通は次のように読まれています。

・子曰、「何哉、爾所謂達者。」(論語・顔淵)
(▼子曰はく、「何ぞや、爾(なんぢ)の所謂(いはゆる)達なる者は。」)

「所謂」を「いはゆる」と熟して読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなるのですが、これを「いはゆる」と熟さずに読んであるものを探してみました。
すると、『新釈漢文大系 論語』(明治書院1960)では次のように読まれています。

子曰く、何ぞや爾が謂ふ所の達とはと。

「お前のいう達とは、一体どんなことを考えているのか」と訳されています。
つまり、この書は、「爾所謂達」を「爾が謂ふ所の達」と読み、「お前のいう達」と解しているわけです。
「爾が謂ふ所の達」とは「爾の謂ふ所の達」と同じと考えてよいでしょう。

同様の読み方をしたものを探してみると、『新編漢文選1 呂氏春秋 上』(明治書院1996)に次のような例がありました。

・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾が謂ふ所の道に非ざるなり。
 ▽これは我々の考える正道にはずれている。)

読みと訳は同書によりますが、これも「吾が謂ふ所の道」と読まれています。

我々の日常会話でも、ちょっと固い表現になると、「君が言うところの問題点というのは、一体何なんだ?」と言ったりします。

この「A所謂B」の形を違う読み方をしている例がないか調べると、『新釈漢文大系 史記8』(明治書院1990)に、次の例を見つけました。

・晏子伏荘公尸、哭之成礼、然後去、豈所謂見義不為無勇者邪。(史記・管晏列伝)
(▼晏子、荘公の尸に伏し、之に哭し礼を成し、然る後に去るは、豈に義を見て為さざるは勇無しと謂ふ所の者か。
 ▽晏子が、荘公の殺されたときその屍に枕して、身の危険をも顧みず哭の礼をきちんとして、それから立ち去ったのは、丁度「義を見てなさざるは勇無し」という言葉通りのものではないか。)

また、『新編漢文選8 晏子春秋 下』(明治書院2001)には、次の例があります。

・君所謂可、而有否焉、臣献其否、以成其可。君所謂否、而有可焉、臣獻其可、以去其否。(晏子春秋・外篇七)
(▼君の可と謂ふ所にして、否なること有れば、臣其の否なることを献じて、以て其の可を成す。君の否と謂ふ所にして、可なること有れば、臣其の可を献じて、以て其の否を去る。
 ▽君主が可とすることでも、過ちがあれば、臣下はその過ちを指摘して、君主の可を実現するもの。君主が否とすることでも、よいところがあれば、臣下はそのよさを指摘して、君主の否とする考えを除くものです。)

いずれも、読みと訳はその書のものです。
「豈所謂見義不為無勇者邪」は、言葉を補えば、「豈孔子所謂見義不為無勇者邪」だと思いますが、これを「豈に(孔子の)所謂(いはゆる)『義を見て為さざるは勇無し』なる者なるか」と読んでしまえば、語法的にはよくわからなくなります。
しかし、「豈に孔子の謂ふ所の『義を見て為さざるは勇無し』なる者か」と読むのと、「豈に孔子の『義を見て為さざるは勇無し』と謂ふ所の者か」では、随分違うように思います。
また、「君所謂可」も、「君の謂ふ所の可」と「君の可と謂ふ所」では全く違うようにも思えます。

私は拙著でうかつにも「『A所謂B』(Aノ謂フ所ノB)の形をとれば、『AがいうB』という意味になる」などと述べてしまったのですが、前の例の「君所謂可」は「君がいう可」ではまさかないでしょう。
これは、「君の、ソレを可というソレ」のはずで、『新編漢文選8 晏子春秋 下』が「君主が可とすること」と訳しているのが、まさに正しい解釈のはずです。
また、「豈所謂見義不為無勇者邪」も、「どうであろう、(孔子の)ソレを『義を見て為さざる者は勇無し』というソレであろうか。」が、本来の意味ではないでしょうか。

先の『新編漢文選1 呂氏春秋 上』の例も、次のように読み、解釈するべきだと思います。

・此非吾所謂道也。(呂氏春秋・季冬紀)
(▼此れ吾の道と謂ふ所に非ざるなり。
 ▽これは我々が道とするものではないのだ。)

つまり、「これは、我々の、ソレを道というソレではないのだ」です。

また、先の『論語』の例も、

・子曰、「何哉、爾所謂達者。」
(▼子曰はく、「何ぞや、爾の達と謂ふ所の者は。」と。
 ▽先生が「何か、お前が達というものは」とおっしゃった。)

と読み、解するべきでは?
「お前の、ソレを達というソレ」で、厳密には「お前のいう達」ではない。

してみると、拙著のコラムで述べたことは、松下氏の用語を用いて説明するなら、次のように訂正しなければなりません。

「いわゆる~」という日本語がある。「世間で言われている~」「俗に言う~」という意味だ。これを漢字で書くと「所謂」になる。実は漢文でもこの「所謂」は多用されるが、語法的には少し違い、「世間が~と言うこと」の意味になる。また、「世間が」以外の意味でも用いられる。
「(人や物事を評価・評論して)言う」という意味の動詞「謂」は、「~を言う」という他動性の客体をとる性質と、「~と言う」という生産性の客体をとる性質がある。したがって、構造助詞「所」を用いて、「A所謂B」(AノBと謂フ所)の形をとれば、「所」は生産性の客体を表して「Aの、ソレをBというソレ」から、「AがBと言う(評する)こと」という意味になる。

さらに拙著ではいくつか例を挙げて説明しているのですが、たとえば、

吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の謂ふ所の時は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
 ▽私がいう時とは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)

この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がいうB」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前述したB」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私がいう『時』とは」と述べた形。

という記述は、次のように訂正しなければなりません。

吾所謂時者、非時日也。人固有利不利時。(史記・韓世家)
(▼吾の時と謂ふ所の者は、時日に非ざるなり。人には固より利不利の時有り。
 ▽私が時というものは、時日ではない。人にはもともと有利不利の時機がある。)

この例は、「A所謂B」のAが一人称代詞「吾」である。したがって「私がBというもの」の意味になる。Bにあたる内容を前に述べていて、「私が前にBと述べたこと」という意味を表すことが多い。この例、実は先行する部分で「昭侯はこの門を出ないだろう、なぜか。時ではないからだ」とある。それを踏まえて「私が『時』といったものは」と述べた形。「吾の所謂(いはゆる)時とは」と読まれることも多い。

さらに、次の例、

管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の謂ふ所の賢臣なり、然るに孔子は之を小とす。
 ▽管仲は世がいう賢臣である、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)

日本で用いられる「いわゆる」(所謂)は、この例のように「世がいう」→「世間で言われている」の意味で用いている。漢文でもこの意味で用いられることはあるのだ。

このように、漢文で用いられる「所謂」は、「世間で言われている」より、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。

上記は次のように改めなければなりません。

管仲世所謂賢臣、然孔子小之。(史記・管晏列伝)
(▼管仲は世の賢臣と謂ふ所なり、然るに孔子は之を小とす。
 ▽管仲は世が賢臣というものである、しかし孔子は彼を度量が狭いと評した。)

日本で用いられる「いわゆる」(所謂)に近い用法。「世間が~ということ・もの」の意だ。

このように、漢文で用いられる「所謂」は、日本の「いわゆる」よりも、もっと多彩に用いられる。場合によっては「謂」の主体Aが省略されている場合もあるので、それが誰もしくは何なのかを見極めなければならない。


この「A所謂B」(AのBと謂ふ所)は、「A謂之B」(A之をBと謂ふ)の「之」が「所」で表現されたものだと思います。
つまり、「Aが之をBという」の場合、「之」は直接賓語、「B」は間接賓語になりますが、先の説明で言い換えれば、「之」は他動性の客体、「B」は生産性の客体です。
「所」は他動性の客体を表し、名詞性連語を構成して、文の主語や述語、目的語という成分を受け持つことになるのです。

拙著の誤りは、近日中に訂正したいと思います。

『馬童面之』は顔を背けたのか?

(内容:『史記』項羽本紀のいわゆる「項王の最期」で「馬童面之」とあり、呂馬童は「顔をそむけた」と解されているが、これは反訓で解するべきか考察する。)

『史記・項羽本紀』のいわゆる「項王の最期」は、「鴻門の会」や「四面楚歌」と並んで、必ず教科書にもとられている定番教材です。
ですから、2年生の古典を受け持てば、必ず扱うことになるのですが、依然としてまだよくわからないことはたくさんあります。
その中で、今年気になったことの一つ、「馬童面之」を取り上げてみましょう。
調べていてわかったことを述べるだけで、自分が何か発見したり解明できたわけではありません。
それでも、何かの参考になればと思って書いてみます。

・顧見漢騎司馬呂馬童曰、「若非吾故人乎。」馬童面之、指王翳曰、「此項王也。」
(▼顧みて漢の騎司馬呂馬童を見て曰はく、「若(なんぢ)は吾が故人に非ずや。」と。馬童之に面し、王翳に指(さ)して曰はく、「此れ項王なり。」と。
 ▽振り返って漢の騎兵部隊の長・呂馬童を見て言うことには、「お前は私の旧友ではないか。」と。呂馬童はこれに[面]し、(味方の)王翳に指さして言うことには、「これが項王だ」と。)

この「馬童面之」が問題で、どの会社の教科書も「馬童は顔を背け」と訳しています。
ある指導書に丁寧に説明してありました。

「面」はここでは、顔を背けるの意。「顔」「向かう」の意の「面」を「そむく」と読むのは反訓による。反訓とは「乱」を「治」、「廃」を「置」、「離」を「着」のように、文字を本義とは正反対の意味に用いる漢文のレトリックの一つ。項羽から「お前は昔なじみじゃないか」と言われて、漢の追っ手であった呂馬童もさすがに恥じ、顔を背けたのであろうと解釈するわけである。しかしこれには異説もあり、人情の自然から言えば顔を背けてしかるべきところを、そうしないで向かっていった呂馬童の厚顔ぶりを皮肉ろうとしている表現とも読める。会注考証には、集解に「面、不正視」とあるほかは、全て「面と向かう」意味の用例をあげている。

「面」を「背く」とするのは反訓だと、きちんと説明されています。

別の指導書には、「異説」として、

「顔を背ける」と注したのは伝統的な注の一つである『史記集解』の説による。「若は吾が故人に非ずや」と項羽が思わず言ったように、呂馬童は項羽と旧知の関係であるがゆえに正視して斬りかかることができず、顔をそむけたととる。一方、『史記会注考証』に引く劉攽(りゅうはん)洪頤煊(こういけん)の説では「向かう」の意とし、顔をそむけず直視する解をとる。洪頤煊は直視して項羽だと知ったがゆえに王翳に指さして項羽だと知らせたのだという。伝統的解釈に従ったが、最近では後者の説も有力である。

と説明されています。
「面」をなぜ「背く」の意に解するのかは直接的に述べられていませんが、「伝統的な注」の説によったとしたわけです。

先の指導書にある「反訓」は、別に創案ではなく、『史記』の参考書に書かれていることです。
ですが、「面」を反訓と片付けるのは、本当にそれでいいのだろうかという気がしてきます。

そもそも1つの言葉が、どんな事情があるにせよ、その正反対の意味を表したのでは、明らかに困る事態だと思うのです。
それがコミュニケーション上のことならなおさらです。
「私は桃を食べる」と言ったのに、実は「私は桃を食べない」という意味なのだとなれば、もう大混乱です。
まあ、確かに、「私はまだまだ何もわかっていない」というのは、わかっていると思い込んでいる人よりも「わかっている」という自負を背景にすることもあるので、人の感覚としてはあるかもしれない表現ではあるのですが。
嫌い嫌いも好きのうちなんてのもありますね。
しかし、感覚としてそのように受け取ることもできることでも、客観的に書かれた文章に、そのような正反対の意味で表現することはやはり不適切であろうと思うのです。

反訓の代表例として挙げられる「乱」は、「乱れる・乱す」という意味と、その真逆の「治まる・治める」という意味の2つをもっています。

・武王曰、「予有乱臣十人。」(論語・泰伯)
(▼武王曰はく、「予に乱臣十人有り。」と。
 ▽武王が「私には治めてくれる十人の家臣がいる。」と言った。

この例は、前後の文意から功臣を指しており、いわゆる「乱臣」の意味では解し得ませえん。
武王の言葉は『尚書・泰誓中』にある同文を引用したもので、そうでなければ『論語』に「治めてくれる家臣」の意味で「乱臣」は用いられなかったはずです。
というのは、「乱」が「治」の意味で用いられるのは、西周時代に多く見られる用法だからです。

この反訓については、樋口靖氏の論文『いわゆる“反訓”について』(駒澤大学紀要)に分析されているので、詳しくはそちらを参照していただくとして、その由来を大雑把にいえば、原義と派生義の関係から反訓が起こるという説や、本来別の語が仮借によってたまたま同じ文字で表記されたとするもの、字義の相反する二字からなる語句があるが、そうなり得なかったものが一字で相反する意味をもつようになったとする説など、歴史的にさまざまな考え方があったことが紹介されています。
そして東晋の郭璞に始まる反訓説について、反訓と認められた例が、本当に反訓といえるものであるかどうかは疑わしいとしています。

「乱」の話に戻れば、これがなにゆえ「治」の意味を表すのかについては諸説があります。
たとえば、白川静氏は、旧字「亂」は、その左側の部分「𤔔」(らん)と右側の部分「乙」(いつ)から成り、

旧字は亂に作り、𤔔(らん)+乙(いつ)。𤔔は糸かせの上下に手を加えている形で、もつれた糸、すなわち乱れる意。乙は骨べら。これでもつれを解くので、亂はおさめる意。「亂(をさ)む」とよむべき字である。〔説文〕十四下に「治むるなり。乙に從ふ。乙は之れを治むるなり」という。〔段注〕にその文を誤りとし、紊乱の字であるから「治まらざるなり」と改むべしとする。字形からいえば、𤔔が乱れる、亂が治める意の字。のち亂に𤔔の訓を加え、「乱る」「治む」の両義があり、反訓の字とする説を生じたが、一つの文字が、同時に正反の二訓をもつということはない。(『字通』平凡社)

と述べています。
これによれば「乱」の2義を反訓とすること自体おかしいということになります。

また、藤堂明保氏も、𤔔を「もつれる」の意と解し、

乱の字は,右側に乙印をそえているが,これは軋アツと同義で,上からジッと抑える意味を表す。つまり,もつれをおさえて解決する意を加えたもので、<説文>がこの字を「治なり」と解したのは正しい。(『漢字語源辞典』學燈社)

と説明して、基本的には白川氏と同様の解釈です。

一方、黄生の『義府』巻下・面縛の条では、「古治字本作乿」(古は「治」の字はもと「乿」に作った)として、いわゆる反訓による解釈を「此蓋昧於字義之俗説」(これは思うに字義に暗い俗説である)としています。
そもそも字が違うというわけです。

このように諸説あり、反訓の代表例とされる「乱(亂)」自体が、果たして本当に反訓なのか疑わしくなります。

さて、本題に戻って、項羽本紀の「馬童面之」について考えてみましょう。
そもそも「面」を「顔を背ける」と解するのは、『史記集解』に引用する次の説によります。

・張晏曰、「以故人故、難視斫之、故背之。」如淳曰、「面、不正視也。」
(▼張晏曰はく、「故人の故を以て、之を視斫し難く、故に之に背く。」と。
 ▽張晏は「旧友であるために、見て斬りにくい、ゆえにこれに背を向けた。」という。如淳は「面とは、正視しないのである」という。)

この張晏の説が「背く」の根拠となるわけですが、「面」を「背く」と解する根拠は示されてはいません。
ちなみに、王叔岷は『史記斠證』で、この張晏の注が、『太平御覧』巻87で「難親斫之」(みずからこれを斬りにくく)になっていることを指摘し、字形が似ているために、後の如淳の注の「視」につられて誤ったものと解しています。
『漢書』注に顔師古が引用した張晏の注も「親」に作っています。
「見て斬る」ではなく、「自分で斬る」の意だったというわけですね。

顔師古は、張晏と如淳の注に対して、次のように評しています。

・如説非也、面謂背之、不面向也。面縛亦謂反偝而縛之。杜元凱以為但見其面、非也。
(▼如の説は非なり、面とは之に背くを謂ひ、面向せざるなり。面縛も亦た反偝して之を縛る。杜元凱以て但だ其の面を見ると為す、非なり。
 ▽如淳の説は誤っている、面とはこれに背くことをいい、面と向かわないのである。面縛も背いて縛る。杜元凱はただその顔を見るとするが、誤っている。)

面縛というのは投降儀礼で、勝利者に降伏して、後ろ手に縛って顔だけを見せる行為ですから、この顔師古の注は誤っていると思います。
この「面」は顔の意で、背くの意ではないでしょう。

しかしそうなると、「馬童面之」の「面」を「背く」と解するのは根拠の示されない張晏の説だけとなってしまいます。

事実として、王先謙は『漢書補注』で次のように注しています。

・劉攽曰、「面之、直面向之耳。」沈欽韓曰、「劉説是。少儀云『遇於道、見則面』。鄭注『可以隠則隠』、則謂面為向也、亦作偭。説文『偭、郷也』。少儀『尊壺者偭其鼻』。」
(▼劉攽曰はく、「之に面すとは、直だ之に向かふのみ。」と。沈欽韓曰はく、「劉の説は是なり。少儀に『道に遇ひ、見れば則ち面す』と云ふ。鄭注の『以て隠るべければ隠る』は、則ち面を謂ひて向かふと為すなり、亦た偭に作る。説文に『偭は、郷かふなり』と。少儀に『尊壺は其の鼻を面にす』と。」
(▽劉攽は、「これに面すとは、ただこれに向かうである。」という。沈欽韓は、「劉攽の説は正しい。礼記・少儀に『道で(尊長に)会い、(尊長が自分を)見れば面とむかって挨拶をする』といい、鄭玄が『隠れることができるなら隠れる』と注しているのは、面を向かうとするのである、また偭にも作る。説文解字に『偭は、郷(む)かうである』とある。礼記・少儀に『酒樽と酒壺はその鼻を前に向ける」』とある。」という。)

劉攽は北宋、沈欽韓は清の人です。
また、瀧川資言の『史記会注考証』は、清の洪頤煊の説を引用しています。

・洪頤煊曰、「面、向也。謂向視之、審知為項王、因以指王翳。礼記玉藻『唯君面尊』、鄭注『面猶郷也』。田完世家『淳于髠説畢、趨出至門、而面其僕』、面即郷也。」
(▼洪頤煊曰はく、「面とは、向かふなり。向かひて之を視て、審らかに項王たるを知り、因りて以て王翳に指すを謂ふ。礼記玉藻に『唯だ君のみ尊に面す』と、鄭注『面とは猶ほ郷かふがごときなり』と。田完世家に、『淳于髠説き畢はり、趨り出で門に至りて、其の僕に面す』と、面とは即ち郷かふなり。」と。
 ▽洪頤煊は「面とは、向かうである。向かってこれを見て、はっきり項王であることを知り、そこで王翳に指さしたというのである。礼記・玉藻に『ただ君だけが酒樽に面と向かう』とあり、鄭玄は『面は郷と同じである』と注している。史記・田完世家に「淳于髠は説き終わり、走り出て門に至って、その僕に向かった」とある。面とはつまり郷(む)かうである。)

これらの説はみな「面」を反訓とせず、「向かう」の意としています。
王叔岷は『史記斠證』で、「面」を「向かう」の意とする諸説を紹介し、最後に歴史学者の陳槃(槃庵)の説を引用しています。

・槃庵兄云:『黄生義府:「詳上下文語意,項王此時雖在囲中,然去馬童尚遠,故曰『顧見』云云。時項王一行,尚有二十余騎,先尚未弁孰為項王,因其呼而諦視之,然後指示王翳云云。『面之,』即諦視之謂。
(槃庵氏はいう、『黄生の義府:「上下の文の語意を詳らかにするに、項王はこの時、包囲の中にいたが、馬童からまだ遠く離れていたので、『顧見(振り返り見る)』云々という。時に項王たちは、なお二十数騎おり、まだどれが項王であるかは見分けられず、その呼ぶ声によってはっきりこれを見て、その後王翳に指示する云々である。『面之』とは諦視する(はっきり見る)ことをいう。

これは、陳槃が『義府』を引用したもので、馬童が離れた項王から呼びかけられ、間違いなく項王だと確認するために、直視したと解したものです。
さらに『義府』の説明は続きます。

或謂古人多反語,故謂背為面,如治之為乱,馴之為擾,香之為臭,其例可見。此蓋昧於字義之俗説。古治字本作乿,馴擾之字本作㹛,臭為香気之総名,其臭腐之字本作殠。後人伝写訛謬如此,豈古人之意哉!若面之訓背,乃偭耳。且此時漢視羽如几肉矣,尚何所諱而背之言乎?」(巻下面縛條。)
あるいは、古人は反訓が多いので、背を面というのは、治を乱とし、馴を擾とし、香を臭というように、その例は見られるともいう。これはおそらく字義に暗い俗説である。古は治の字はもと乿に作り、馴擾の字はもと㹛に作り、臭は香気の総称であり、その腐った臭いは殠に作る。後の人がこのように誤って書き伝えたが、どうして古人の意図であったろうか。もし面を背と読むなら、偭である。さらにこの時漢は項羽を台の上の肉のように見ていた,なおどこにはばかって背くなどと言おうか。」(義府・巻下・面縛の條)

これは『義府』による反訓そのものの否定です。
背くの意は「偭」であって、「面」ではないという指摘がありますが、これについては、後で触れたいと思います。
これらについて、陳槃は次のように述べています。

槃案礼少儀:「尊壺者面其鼻。」鄭注:「鼻在面中,言郷人也。」正義:「尊与壺悉有面,面有鼻,鼻宜嚮於尊者,故言面其鼻也。」面之訓嚮,此類亦是也。又通作偭,則段氏説文注亦詳之矣。至羽紀此文,則訓嚮似于義較長。
私が礼記・少儀を案ずるに、「酒樽と酒壺はその鼻を前に向ける」とあり、鄭玄の注に「鼻は面の中にあり、人に向かうをいうのだ」とあり、正義に「酒樽と酒壺にはみな面があり、面には鼻がある、鼻は尊者に向けるのがよく、ゆえにその鼻を前に向けるというのだ」とある。面を向かうと読むのは、これらもそれである。また通じて偭に作るのは、段氏の説文注にも詳しく述べられている。項羽本紀のこの文については、向かうと読むのはより適切な解釈である。』)

『礼記』の例を引いて、「面」はやはり「背く」の意ではなく、「向かう」の意であろうと結論づけています。

このように「面之」を「これに向かう」と解する方がよいとする説を見てくると、「背く」の意の反訓で済ませることには問題を感じてきます。

ところで、『義府』に指摘されていた「偭」の字について、加藤常賢氏の『漢字の起源』(角川書店)で、興味深いことが述べられています。
「面」の字が「背」の意に使われるのは「偭」がその意の本字であると言われているのを踏まえ、『説文解字』に「偭、郷也」とあるのに対して、次のように述べています。

根本的に言って、説文の「郷」(嚮)の上に脱字があると思う。私は「面の声」は「臱(へん)」の意を表わしていると思う。「臱」の音は「傍」あるいは「左右両側」の意を表すと思う。

とした上で、「偭」の字義を次のように述べています。

「人」の意符と「面」の音の表わす「旁」あるいは「左右両側」の意味を加えると、「人体の旁」、あるいは「人体の両側」の意味である。これを項羽列伝の「馬童面之」と言うことばに当てはめると、「馬童が体を傍に向けた」という意味になり、「面縛」と言うことばに当てはめると、「体の両側に手を縛してぐるぐる巻きにする」という意味になる。手を両側で縛れば、璧を手に持って献ずることができないから「面縛銜璧(面縛セラレテ璧ヲ銜ム)」と言うことになるのである。
「偭」字の意味が以上誤りないとすれば、前に挙げた史記・漢書の「偭」字の解釈のうち、如淳の
  面謂不正視也。(面ハ正視セザルヲ謂フなり。)
と言うのが正しく、「背」と解する張晏・顔師古説は、体を傍に向けた意味を強く解釈して「背を向けた」と解釈したにすぎない。
以上の考察に誤りがなければ、説文の解釈は「傍郷(嚮)」とあるべきであると思う。「旁」音と「面」音は声転にすぎない。

これは「面」は「偭」であるという条件と、「偭、郷也」という説文の説明を「偭、傍郷也」の脱字であるという条件の2つをクリアしない限り、あくまで仮説の域を出ないものだと思いますが、興味深いものではあります。

そもそも、「馬童面之」を、「馬童は顔を背け」と解するのは、先の指導書にもあるように、「項羽から『お前は昔なじみじゃないか』と言われて、漢の追っ手であった呂馬童もさすがに恥じ、顔を背けたのであろうと解釈」したものでしょう。
集解が引く張晏や如淳の解釈は、その延長上にあり、いわば馬童の気持ちを推し量ったものです。
つまり、文脈上、あるいは場面の状況から、そう解釈した方が自然に思われるからです。
しかし、実際馬童がそんな気持ちを抱いた証拠はどこにもありません。
司馬遷は「面之」と表現したのです。
「面」は対面する、向かうという意味なのに、馬童の気持ちを忖度して、それをわざわざ真逆の意味で解した張晏の説を根拠づけるために、反訓という根拠の疑わしいレトリックを持ち出した。
しかも、私の知る限り、「面」を明確に背くの意で解する例はないのにです。
顔師古の注も加藤常賢氏の仮説が成立しない以上は、有効な説明にはなっていません。

私としては、今のところ、この「馬童面之」の「面」は、文字通り「向かう」の意だと思います。
文脈から強引に字義を論じたり、文法を論じるのは、やはり危険なことではないでしょうか。

「豈若~哉」はどういう意味か?

(内容:柳宗元『捕蛇者説』に見られる「豈若吾郷隣之旦旦有是哉」は「あに~ごとくならんや」と読まれているが、「あに~しかんや」と読んではいけないのか?違いはあるのか考察する。)

柳宗元の『捕蛇者説』にある、一つの表現について同僚から質問を受けました。

・豈若吾郷隣之旦旦有是哉。

この文を教科書では「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るがごとくならんや。」と読んであるのですが、なぜ「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若(し)かんや。」ではないのかという問いかけです。
指導書にはどう説明してあるのかと思ってみると、数研出版の教科書だったので(本校では毎年教科書会社を変えています)、なんと書いたのは私でした。
もう随分前のことになるのですが、このように記しています。

どうして私の村の隣人たちが毎日この死の危険があるのと同じであろうか(いや、同じではない)。「豈若~哉」は意味的に「不若~」と同じになり、したがって本文は「不若吾郷隣之旦旦有是」(私の村の隣人が毎日これがあるのと同じではない)と内容的に同じになる。「若~」(~のようである)の形は、ここでは「~と同じである」と訳した。「是」の指示内容は、死の危険を冒すことを指す。蔣氏の場合は蛇捕りによる危険だが、ここでは村人の租税を納めるための過酷な労働と飢餓による死の危険を冒すことをいう。

古典中国語文法を本格的に学び始めた比較的初期の頃の記述ですが、あえてその立場を抑えて書いていた記憶があります。
しかし、「豈に~に若かんや」という読みについては言及していません。

この教科書では先行する『論語』教材に、微子篇の長沮と桀溺の話を取り上げていて、その中に、

・而与其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉。
(▼而(なんぢ)其の人を辟(さ)くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや。
 ▽お前も、つまらぬ人を避けて立派な人を選んで仕えようとする人に従うより、俗世を避けて隠棲する人に従う方がよい。)
 …読みと訳は数研出版『改訂版 古典B 漢文編』による

という文が出てきて、「与其A、豈若B哉」(其のA(せ)んよりは、豈にB(する)に若かんや)の形を、「A(する)よりも、B(する)方がよい。」と「句法」「選択」として取り上げているのですから、『捕蛇者説』で同じ「豈若~哉」の形が出てきて、違う訳をしているのを「あれ?」と思う先生方があったとして当然です。
それなのに、それについて何も触れないでいたというのは、書き手の私自身が大いに反省しなければならないことでした。

ただ、同僚の質問を受けながら、しかし「若」を「ごとシ」と読むか「しク」と読むかは、日本人がそう読み分けているだけで、それほど違いがあるだろうかという思いをもっていました。
また、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」は「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若かんや。」ではないのかという同僚の疑問は、「豈若~哉」が「豈に~に若かんや」に傾く用法ではないのかという先入観があって、「豈に~のごとくならんや」の読みに違和感を感じられたものなのではという気もしました。

「若」は「如」と字義の通じる字で、「しなやかで、言いつけに従順である」が原義の字です。
言いつけ通りにすることから、「似る」という意味が生まれたものだと思います。
また、さらにその似た状態に及ぶという意味から、「及ぶ」という意味をもつものだと考えられます。
この「似る」の方を「ごとシ」、「及ぶ」の方を「しク」と訓読したわけです。
「A若B」(A Bのごとし)は、「AはBのようである」とか「AはBと同じである」とか訳しますが、「AがBの状態に及ぶ」と捉え直してみれば、「似る」と「及ぶ」が実は根を同じにしているのがわかると思うのです。
つまり、「AがBに似た状態に及ぶ」です。

ですから、これを打ち消した表現「A不若B」(A Bに若かず)は、「AはBに及ばない」と訳して、比較を表す形として教えますが、これとて、「AはBの状態に似ない」ことから、そこまで及ばないという意味を表すわけです。

また、「A不若B」のABが動詞の場合、「AするはBするに若かず」と読んで、「AするよりBする方がよい」とか「Bする方がましだ」とか訳して、選択の形として、これまた別扱いをしますが、本来はやはり「AすることはBすることに及ばない」で、Aする行為の妥当性がBする行為の妥当性に似た状態に至らないことを表す表現だと思います。

しかし、たとえば次の例、

・棄身不如棄酒。(説苑・敬慎)
(▼身を棄つるは酒を棄つるに如かず。)

を、「身を棄てるのは酒を棄てるのに及ばない」と訳すと、何だかよくわからない訳になります。
斉の桓公が、大臣管仲のために酒宴を用意し、正午を約束の時刻としたのに、管仲が遅刻しました。
桓公は杯を挙げて酒を飲ませましたが、管仲はそれを半分で棄ててしまう。
桓公が「約束して遅刻し、飲んで酒を棄てるというのは、礼において許されるのか」と詰問すると、管仲は「酒が入ればおしゃべりになり、おしゃべりになれば失言をし、失言すれば身は破滅です」とした上で、言った言葉がこの「棄身不如棄酒」です。

実は、この『説苑』の文章は、以前どこかの大学の入試に出題されていて、

[ A ]不如[ B ]。

と空欄になっていて、ABにあてはまる語句を選ばせる問題になっていました。
これをかつて200人ほどいた生徒たちに入れさせてみると、半分ほどの生徒が逆に答えてしまったのです。
つまり、「棄酒不如棄身」が正しいと思ったわけですね。
確かに、「A不如B」を「AすることはBすることに及ばない」と訳すと、酒を棄てることと身を棄てることを、重大性の観点から比較すれば、身を棄てることの方が上ですから、このように間違ってしまうわけです。
これを妥当性の観点から比較すれば、酒を棄てる方が妥当だとすぐわかるのですが、なかなかそういうふうには考えられないわけで、その意味で「AするよりBする方がよい」という訳は、意訳ではあるけれども、誤解を防ぐ効果はあるわけです。
どちらの方がよいかと考えれば、「身を棄てるより酒を棄てる方がよい」は簡単に導けますからね。

さて、本題に戻って、「豈若~(哉)」という表現は、「どうして~に及ぶだろうか」ではなく、「どうして~のようであろうか」としか訳しようがない例はあるか、探してみました。

1.予豈若是小丈夫然哉。(孟子・公孫丑下)
(▼予豈に是の小丈夫のごとく然らんや。
 ▽私はどうしてあの小人物のようにそうであろうか。)

2.微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之為諒也、自経於溝涜、而莫之知也。(論語・憲問)
(▼管仲微かりせば、吾其れ髪を被り衽を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒(まこと)を為すや、自ら溝涜に経(くび)れて、之を知る莫きがごとくならんや。
 ▽管仲がいなかったら、(今頃)我らは髪を結わず着物を左前にしていただろう(=夷狄に征服されていただろう)。どうして男女が信義を立てて、自ら溝の中で首をくくって死に、誰もそれを知らないことのようであろうか。)

3.凡治身養性、節寝処、適飲食、和喜怒、便動静、使在己者得、而邪気因而不生、豈若憂瘕疵之与痤疽之発、而予備之哉。(淮南子・詮言訓)
(▼凡そ身を治め性を養ひ、寝処を節し、飲食を適にし、喜怒を和らげ、動静を便にし、己に在る者をして得しめば、邪気因りて生ぜず、豈に瘕疵と痤疽の発するを憂へて、予め之に備ふるがごとくならんや。
 ▽そもそも身体を整え本性を養い、寝起きを節制し、飲食を適切にし、喜怒の感情をやわらげ、動静を滞りなくさせ、自分に備わるものに適切を得させれば、邪気はそれにより生じないものだ、どうして傷やできものが発生するのを苦にして、あらかじめ備えるのと同じであろうか。)

やはり、「どうして~に及ぶだろうか」と訳した方がわかりやすい例が多いのですが、探せば上のように、そうは訳せない例は見つかります。

1の例は、孟子自身は小人物だとは思っていないのですから、「小人物に及ばない」方向では訳せません。

2の例は、管仲が桓公を覇たらしめ、そのおかげで夷狄から人々を守ったのであって、その功績ははかりしれない、そういう流れで、男と女が義理立てして心中するのとの比較で「及ばない」の方向では解し得ません。

3も、体や精神を涵養する本来のあり方が、傷やできものへの処し方に「及ばない」という解釈はできません。

要するに、「豈若B哉」は意味的に「不若B」と同じですが、そのBと比べられる内容をAとして、AがBより比較基準において下である場合は、「豈にBに若かんや」「Bに若かず」と読み、「及ばない」意に解することになります。
また、AがBより上である場合には、「豈にBのごとくならんや」「Bのごとくならず」と読むしかなく、「Bのようではない」とか「Bと同じではない」と訳すことになりますが、「Bどころではない」ぐらいの意味にとればわかりやすくなるわけです。

いずれにしても、「若」や「如」は、「ごとシ」「しク」と読み分けはしても、根本は「似る」という近似の義で、「及ぶ」であっても「似た状態に及ぶ」だと考えれば、「豈若~哉」や「不若~」の読み分けは、それほど大きな意味をもたないことがわかるのではないでしょうか。

さて、『捕蛇者説』に戻って、該当箇所の前の部分は次の通り。

・悍吏之来吾郷、叫囂乎東西、隳突乎南北。譁然而駭者、雖鶏狗不得寧焉。吾恂恂而起、視其缶、而吾蛇尚存、則弛然而臥。謹食之、時而献焉。退而甘食其土之有、以尽吾歯。蓋一歳之犯死者二焉。其余則熙熙而楽、…
(▽荒々しい役人が私の村に来ると、四方にわたって喚きちらし暴れ回ります。がやがやと(騒いで村人が)驚き恐れることは、鶏や犬でさえ落ち着いていられないほどです。私はびくびくしながら起き上がり、その(=蛇の入った)かめの中を見て、私の蛇がまだいれば、ほっとして寝床に戻ります。慎重に(蛇の)世話をして、納入すべき時が来たら(役所に)献上するのです。(蛇を納入し終えて)役所から帰ってその土地の産物をおいしく食べ、そのようにして私の天寿をまっとうします。およそ一年のうち死の危険を冒すことは二回だけです。それ以外の時はゆったりと楽しみます、…)

この後に、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」と続くわけですが、「有是」とは、「死の危険がある」という意味です。
つまり単純には、蛇捕りの蔣氏は年に2回死の危険があるけれども、村人は毎日その危険があるという、2つのことを比較しているわけです。
普通、『捕蛇者説』のこの部分は「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るがごとくならんや」と読まれていますが、その意味では「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若かんや」と読んでもよいことになります。
それは死の危険の頻度を比較の基準において、村人の方が蔣氏よりもはるかに上回るからです。
ですが…

「豈」は、疑いを設けてみる副詞で、「どう?」とか「どうであろう?」と置き換えて読んでみると、意味がよくわかります。
「どう?私の村の隣人たちが毎日死の危険があるのと同じか?」と「どう?私の村の隣人たちが毎日死の危険があるのに及ぶか?」は、それほど違うでしょうか?
後に想起されることばは、「同じはずがない」「及ぶはずがない」ですが、要するに「到底及ばない」ということではありませんか。

結論として、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」は、「豈に~に若かんや」とも読めるけれども、「豈に~ごとくならんや」と読んでも、別におかしくはない、ただ「ごとシ」「しク」と読み分けをしているから起こる混乱なのだと思います。

使役文は兼語文か?・4

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その4。)

松下大三郎氏が、「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠に挙げられた2件の事情を借りて、前エントリーまでに、いわゆる使役文を兼語文とする定説に疑問を呈してみました。
「使」は直後の名詞と強く結びつくが、その名詞が後の動詞の主語として機能しているという考え方への不審です。
主語であればその直後に「而」が置かれるのはなんだか不自然だし、「之」を主語と認めることも「之」本来の働きからすれば例外的な取り扱いになるからです。
使役文を兼語文として説明することは通説だし、確かにわかりやすいのですが、そういう問題をもっていることを示してみたのです。

ところで、松下氏は、さらに3つめの問題を提示しています。
断っておきますが、兼語文に対してではなく、あくまで「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠です。

3 漢王使酈食其已説下斉。(史記・淮陰侯列伝)

明治書院の『新釈漢文大系 史記』では、「漢王、酈食其をして已に説きて斉を下らしむ」と読み、「漢王が酈食其に交渉させて斉を降伏させた」と訳してあります。
この例文について、松下氏は次のように述べています。

又右の例の(3)は「已」を「使」の上に置かずに「説」の上に置いてある。「使」を「しむ」と解すれば「已に説いて斉を下さしめたり」といふことを酈食其にさせる意となる。「已」といふ字の性質上そんなことは言へない。「使」を「被」に換へて「人被盜賊已偸物」などと云ひ得るものではない。

もし「使」が「~させる」という意味であれば、「すでに完了したこと」をさせるというのは確かにおかしいわけです。

他にも似たような例があります、たとえば、

・遼使劉六符謂賈昌朝曰、~。(宋史・河渠志五)
(▼遼 劉六符をして嘗て賈昌朝に謂はしめて曰はく、~。
 ▽遼は劉六符にかつて賈昌朝に~と言わせたことがある。)

便宜的に上のように読んでみましたが、「賈昌朝に謂ひて曰はしめ、」と読むべきかもしれません。
この例も、「かつて賈昌朝に言ったことがある」ということを「させる」と解してはおかしくなってしまいます。

そもそも次の2文はどちらも成立します。

a.漢王使酈食其説下斉。

b.漢王使酈食其説下斉。

bは、漢王の酈食其への使役行為がすでに完了したことを表しますが、aは酈食其の交渉による斉の降伏が完了したことを表すことになります。

これは、この使役文を兼語文として説明する上では、もしかしたら問題ないのかもしれません。
つまり、「漢王が酈食其を使役し、使役される酈食其がすでに交渉して斉を降伏させた」という説明になるわけですね。
じゃっかん違和感を感じますが、そういう表現もありなのだということなら。

ところが、兼語文に反対の立場への検討には意味がありそうです。
呂冀平は、使役文を、「主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造」であるとし、兼語文は主謂賓語に分類されるとしました。
しかし、これはもう松下氏が指摘している通りで、「使」の賓語が「酈食其已説下斉」になってしまい、すでに完了している行為を「させる」ことになってしまいます。
明らかにおかしいと言えるでしょう。

また、「主語+謂語+賓語+補語」の構造であるとする説の場合、「酈食其已説下斉」は補語とみなされ、謂語「使」を後置修飾することになるわけですが、さてどうでしょうか。
松下氏が言う修飾形式動詞は、「下の動詞を修飾し且つ下の動詞に由つて意義が實質化する」ものですから、「意義が実質化する」という表現を「補語」の働きと考えれば、一見似た説明のようにも見えます。
しかし、この補語とする考え方は、「使」を「使役する」と捉え、その具体的な行為内容を補うということですから、「酈食其 使(し)て」が方法を示し「説下斉」を修飾して使動態ならしめるという考え方とは大きく異なるものだと思います。
この「主語+謂語+賓語+補語」の構造とする説も、結局のところは完了した行為をもって謂語「使」を修飾するものと見るわけですから、やはりどこか不自然に感じます。

私的には、「A使BC」は、AがBシテ、その結果Cが使動態になるという考え方が一番しっくり来るような気がします。
「A使B而C」の構造は、「使B」が使役という方法を表して「而」と共にCを修飾して使動態たらしめるわけですから、「而」に不自然さはありません。
また、「A使B已C」も、Aにさせられて、BがすでにCさせたと動作を完了するわけですから、問題はありません。
そして、この考え方に従えば、「Cさせる」という動作も、実際行動CをするのはBであっても、本来の主語はAだと考えればよいのだろうと思います。
途中で主語が入れ替わると考える必要があるのでしょうか。

「A命BC」は、「ABに命じてCせしむ」と読み、よく「行為の結果使役に読む形」と説明されますが、AがBに命じるという方法の結果、Cが使動態になるという意味では、実はこちらの読み方の方がいいのかもしれません。
また、「命」が本動詞で形式的な意味のみを表す「使」と異なるだけですから、「A使BC」も「A Bし(使)てCせしむ」と読む方が実は妥当なのかもしれません。

使役文は兼語文という通説を、頭から否定するわけではありませんが、それを是として教えもし書きもしている立場にあるなら、通説が本当に正しいのだろうか?と疑ってみる視点はあってよいのだと思い、書いてみました。

使役文は兼語文か?・3

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その3。)

松下大三郎氏の『標準漢文法』において、「使」が「して」であって「しむ」ではないとする論拠として、2つめに指摘されていることは、いわゆる兼語として用いられる字に、主語たりえない語があるということです。

「王使人学之。」(王が人にこれを学ばせる。)という文なら、前々エントリーでも示したように、

王使
  学之。
       兼語

と、前文の賓語にして後文の主語を兼ねる兼語「人」は、理屈の上で何ら矛盾なく説明できます。
しかし、これが「王使之学之。」という文であればどうなるでしょうか。
松下氏は次の文例を挙げて説明しています。

2 且天之生物也使一本。而夷子二本故也。(孟子・滕文公上)
(▽そもそも天が物を生じるにはこれに根本を一つにさせる。しかし、夷子は根本を二つにするから(間違うの)である。)

   故深折其少年剛鋭之気、使忍小忿而就大謀。(蘇軾「留侯論」)
(▽だからその若さ(ゆえ)の気性の激しさをくじき、これに小さな怒りを我慢させて(秦を倒す)大きな謀につかせたのである。)

参考のための口語訳は私がつけましたが、この2文について、氏は、

之を「天にして珠を雨せ使(シ)む」と解することの出来ない證據には(2)の例に「使」の下に「之」が有る。「之」は客格が有るだけで主格はない詞であるから「使之」は「之を使て」と解する以外には解し樣がない。

と述べています。

使役文の兼語が「之」、すなわち「A使之B」(Aが之にBさせる)の形をとる例は、上の2例に限ったことではなく、多くの用例があります。
いくつか取り上げてみましょう。

・故聖人為法、必使明白易知。(商君書・定分)
(▼故に聖人法を為るに、必ず之をして明白にして知り易からしむ。
 ▽だから聖人が法を制定する時は、必ずこれ(→法)に明白でわかりやすくさせる。)

・遂使行成於呉。(国語・越語上)
(▼遂に之をして成(たひらぎ)を呉に行わしむ。
 ▽こうしてこれ(→大夫種)に講和を呉に行わせた。

・子謂薛居州善士也、使居於王所。(孟子・滕文公下)
(▼子は薛居州は善士なりと謂ひて、之をして王の所に居らしむ。
 ▽あなたは薛居州は善良な士だと言って、これに王の居られるところにいさせた。)

・孺悲欲見孔子。孔子辞以疾。将命者出戸。取瑟而歌、使聞之。(論語・陽貨)
(▼孺悲孔子を見んと欲す。孔子辞するに疾を以てす。命を将(おこな)ふ者戸を出づ。瑟を取りて歌ひ、之をして之を聞かしむ。
 ▽孺悲が孔子に会おうとした。孔子は病気を理由に断った。口上を伝える使者が戸口を出た。(孔子は)瑟をとって歌い、これ(→使者)にこれを聞かせた。)

探せばいくらでも例は見つかります。
これらはすべて兼語が「之」で、「使之」の形をとるものです。
たとえば最後の例を兼語文として説明すると、「(孔子)使之聞之」は、「孔子が之を使役し、之がこれを聞く」となり、つまり、この文は「孔子使之」(孔子が之を使役する)と「之聞之」(之がこれを聞く)の2文を認めることになります。

孔子使
   聞之。
           兼語
しかし、「之聞」(之が聞く)などという主述文はあり得るでしょうか。

「之」は代詞とされ、「これ」と読みますが、同じ「これ」と読む「此」とはずいぶん違います。
「此」は近称の代詞として、主語にも謂語にも賓語にも用いられ、事態を直接指示する、いわゆる直指の語です。
だから、たとえばすぐそばにあるものを指して、「此が~」と主語として示すことができます。

一方、「之」は間接指示とされ、常に前もしくは後に述べられるものと併用されることによって、初めて機能します。
ちなみに松下氏は「之」を寄生形式名詞として、「自己の補充語としてでない他語に寄生して自己の形式的意義を実質化する形式名詞である」と述べています。
形式的な語であるから、動詞の後に、他動詞であることを示すべく、具体的な指示内容をもたない賓語として穴埋めに置けるわけです。
そして「之」は「之を」とか「之に」など賓語として用いられることはあっても、「之が」という主語になることはないはずの語です。

「之」が主語として用いられている例を探すなどというのはもう大変な作業になるので、さすがに行う気にはなれません。
牛島徳次氏の『漢語文法論(古代編)』(大修館書店1967)には、『史記』の次の例を示しています。

・左師触龍言願見太后、太后盛気而胥入。(史記・趙世家)
(▼左師の触龍太后に見えんことを願ふ、太后気を盛んにして之が入るを胥(ま)つ。
 ▽左師の触龍が太后にお目通りすることを願った、太后は興奮してこれが入るのを待った。)

これについて、牛島氏は、「次の用例は極めて特殊なものである。」とした上で、

この文中の「之」は,「主述句」の主語に該当するもので,原則的には当然「胥其入」となるべきものである。

として、『史記』の中で「之」と「其」が混同して用いられたものと解しています。
しかし、氏が引用したこの例はおそらく「太后盛気而胥之。入。」と区切るべきもので、『史記会注考証』ではそのように考察されています。
つまり、「太后は興奮してこれを待った。(左師は)入った。」ではないかというわけです。
瀧川資言がこのように考証したのも、「之」がこのような用いられ方をする語ではないからだと思います。

一方で、「A使之B」の例は非常に多く見られます。
屁理屈をこねることになるかもしれませんが、「之」は主語としては用いられないが、兼語文における後文の主語にはなり得ると言ってしまえばそれまでのことです。
実際、虚詞詞典を見ていると、そういう記述も見られます。
たとえば、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、次のように述べられています。

在句中只限于做动词或介词的宾语,可以在兼语式中作兼语(既做前面动词的宾语,又作后面动词的主语),但极难见到它作主语。
(文中で動詞や介詞の賓語となるに限られ、兼語式の中で兼語(前の動詞の賓語となり、かつ後の動詞の主語となる)になることができる、ただそれが主語となるのは極めて見つけることが困難である。)

つまりは主語としては用いられないが、兼語文の後の主語にはなり得るというわけです。
そういう語だと定義してしまえば、そういう語ということになってしまいます。

兼語文という考え方は後付けのものです。
「前の文の賓語が同時に後の文の主語となり、その語を介して1文化する」という考え方を提示したがために、「之」の主語にはなり得ない性質をも、兼語だからそれはいいのだという説明をしたことにはならないでしょうか。
兼語文という考え方が登場するはるか大昔から、文は文としてあり、「之」は「之」として働いていたと思うのです。

疑問と違和感はいっそう深まります。

使役文は兼語文か?・2

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その2。)

兼語文という文の構造を最初に指摘したのは王力だといいます。
鳥井克之氏の『中国語教学(教育・学習)文法辞典』によれば、

 1940年代初めに王力(1943)は

およそ文中に(一部が重なりあった)二つの〈連繋(主述句など)〉を含み、その最初の主述句の一部分あるいは全部が次の主述句の主語となりたるものは〈逓繋式〉という。

と説明して「兼語句」の原型を初めて提起した。

とあります。
続いて、

 1950年直前に高名凱(1949)は

若干の動詞文において、最初の動詞的機能を具えた単語の後の名詞的機能を具えた単語が、動詞的機能を具えた単語の目的語であり、また次の動詞的機能を具えた単語の主語である。このような動詞文は〈兼語式動句〉という。

と王力の説を支持した説明を行った。

と記されています。
「兼語」ということばを最初につかったのは、高名凱だということですね。

さらに、張志公等の説を紹介した上で、

 その後に丁声樹等(1960)は

〈兼語式〉の特徴は二つの主述句が相互に一部が重なって一体化していることである。…… このように目的語と主語を兼ねたものを〈兼語〉という。〈兼語〉を含んだ〈句法( 構文・シンタックス・統語法)〉を〈兼語式〉という。

と現在の定義の枠組みを築いた。

とあります。

これ以降、今に至るまで、使役文に見られるような形式を兼語文として取り扱うのが普通になっているわけです。

これに対して、異論がないわけではなく、たとえば史存直は、このような兼語文という考え方を科学的ではないとして、主語+謂語+賓語+補語の構造であるとし、また、呂冀平は、主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造であるとし、兼語文は主謂賓語に分類されるとしました。
他にもいくつか異論があるようです。

なるほど、次のような例の場合、いろいろな見方ができるわけです。

・王使人学之。(韓非子・外儲説左上)
(▼王人をして之を学ばしむ。
 ▽王が人にこれを学ばせる。)

これを兼語文と説明するしくみについては、前エントリーで述べました。
しかし、「王が人を使役し、使役される人がこれを学ぶ」のように、「王」が主語である一文の中で、突然主語が「人」に変わるというのは、私が当初感じていたように違和感のある説明になります。

史存直は「学之」を動賓構造「使人」に対して補語として位置づけ、人をどのようにさせるのかという内容を補う語句として説明したわけです。

また、呂冀平は「王使」が主語+謂語で、「人学之」をその賓語とみなしたことになります。
しかし、主謂賓語なら、その賓語をより名詞句として明示するために「人之学之」の形をとれるはずですが、普通はそういう形をとりません。
これは、主謂間に「之」が置かれることで、文の独立性が取り消され、名詞句という強い結びつきを作ってしまうからです。
つまり、「人之学之」は「人がこれを学ぶこと」という意味になってしまうわけです。
一方、「使」は直後の名詞と強く結びついているために、「A使BC」は、「使B+C」であって、「使+BC」ではありません。
先に引用した『中国語教学(教育・学習)文法辞典』には、「発音上の停頓は兼語文では最初の述語動詞の直後、すなわち述目句の中間に置くことができ」ないと述べられています。
したがって、もし「王が人にこれを学ばせる」という意味の文なら、「王使人之学之」という構造はとれないことになります、理屈の上では。

ところが、実際の用例を見てみると、次のようなものが見つかります。

・不能使人不加諸我、此古人所難。(晋書・裴秀列伝)
(▽人にそれを自分に加えないようにさせられないのは、これは古人の難しいとしたことである。)

・蓋尊其君父、亦将使人尊己也。(明史・薛蕙列伝)
(▽およそ自分の主君や父を尊ぶものは、また人に自分を尊ばせるだろう。)

おそらく( )内のような意味だと思いますが、これらの文の構造をどのように考えればいいのかは、まだ先の検討課題です。
現時点では、「之」を特殊な用法とみなすべきではなく、また兼語文で説明できる構造でもないと思っていますし、「使」自体がその語以上に意味を含んでいるのではないかと考えていますが。
ただ、こういう例があるというのは、一般に兼語文とされる使役構文を、主語+謂語+賓語(=主語+謂語)の構造だと説明するには一つの論拠になるのかもしれません。
しかし例はあるものの、やはり「使」は直後の名詞と強く結びつくのが普通だと思います。
ですから、この使役文をいわゆる主謂賓語の構文とする考え方には抵抗を感じてしまいます。

さて、話を最初に戻して、使役文を一般に兼語文とする考え方は、異論はあるものの、ほぼ定説と考えてよいと思います。
ですから違和感を感じながらも、私もそのように教え、そのように説明してきたわけです。
ところが、この春、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読んでいた時、「使」の働きについて述べてある項にさしかかり、冷や汗が出る思いをしたのです。
氏は、「使」を修飾形式動詞として説明しています。

修飾形式動詞は終止独立して斷句の代表部となることが無く、必ず他語に對して修飾語となり、修飾される詞に由つて實質的意義を得る形式動詞である。

と定義した上で、「使」については次のように述べられています。

使は矢張修飾形式動詞で下の動詞を修飾し且つ下の動詞に由つて意義が實質化する。

楚數使奇兵渡河撃趙
  ●○○   史記淮陰侯列傳
漢王使酈食其已説下齊
  ●○○○  同
楚亦使龍且、號稱二十萬救齊。
  ●○○    同

の「使」の類だ。下の――を修飾して之にそうさせる意味を帶びしめる。「使」は實質動詞では人を使(つか)ふ意味だが形式動詞では使(つか)ふといふ樣な実質的意味はないから日本讀では之を「して」と讀む。その實質的意義は下の動詞に由つて補はれる。下の動詞はそうさせる意味を帶びるから日本讀では之へ「しむ」を附けて「何々せしむ」と讀む。
「使」には他動性がある。他動性に對する客語は名詞を用ゐる。右の例の○○がそれだ。「使」はその客語と共に連詞的形式動詞となるのである。

つまり、氏によれば、「使奇兵」は「奇兵を使う」あるいは「奇兵に~させる」ではなくて、「奇兵して」になります。
この「使奇兵」が後の「渡河撃趙」を修飾して実質的な意味が補われ、下の動詞「渡」「撃」は使役の意味を帯びることになるわけです。
ですから、この「渡河撃趙」の「渡」「撃」が使動態になっているわけで、これが「渡らせる」「攻撃させる」という意味をもっていることになります。

読みながら、なるほどと思うと同時に、しかしそれは兼語文の説明とそれほど大きく異なるだろうかと思っていたのです。
「奇兵を使役し、その使役される奇兵が河を渡り趙を攻撃する」わけだから、文意としては「奇兵に河を渡り趙を攻撃させる」になる、そのように。
ですが、文意から「渡」「撃」を使役の意に解するのと、「渡」「撃」そのものが使動態になることとは大きな違いがあります。

そこまでは思いを致さずに読み進めていて、次のくだりに出あいました。

「使」を「して」の意とすれば修飾形式動詞だといふことになり、「しむ」の意だとすれば歸著形式動詞だといふことになる。併しそれが前者であることは次の樣な例に由つて證明される。

これは「A使BC」の形をとる使役文を兼語文とはみなせないと言い切ったと同じことになります。
『標準漢文法』が著されたのは昭和2年(1927)で、王力が兼語文の原型を提起する16年前になります。
兼語文という考え方の定着からさかのぼれば50年も前になるわけです。
そんなにも前に、すでに兼語文たり得ない反例を用意していたことになります。

松下氏が挙げた根拠は3つあります。
今回はその1つめを取り上げてみましょう。

1 使天雨珠、寒者不得以為襦。使天而雨玉、饑者不得以為粟。(蘇東坡「喜雨亭記」原文は旧字体、便宜上新字体に改める)

これは「天に珠を降らせても、凍えるものはそれを肌着にすることはできない。天に玉を降らせても、飢えるものはそれを食糧にすることはできない。」という意味です。
これについて、松下氏は、

右の例の(1)は「使」の客語の下に「而」が有る。「使」が「しむ」であつて意味が終止するならば「而」は有り得ない。「而」が有るのは「使」が「して」である證據である。「使天而雨珠」は「天を使而(シテ)珠を雨せしむ」である。

と述べています。
同様の例として、

・秦人不暇自哀而後人哀之。後人哀而不鑑之、亦使後人復哀後人也。(杜牧「阿房宮賦」)

これは「秦の人は自分で哀れむ余裕がなく、後の人がこれを哀れんだ。後の人が哀れんでも、これを手本として反省しなければ、また(さらに)後の人に(この)後の人をまた哀れませることになるのだ」という意味です。

この例も同様に「使」の客語「後人」の後に「而」を伴っています。
他にも例がないかどうか、私もちょっと調べてみました。

・且欲使人避鬼、是即道路不可行、而室廬不復居也。(潜夫論・卜列)
(▼且つ人をして鬼を避けしめば、是れ即ち道路は行くべからずして、室廬は居るべからざるなり。
 ▽その上、人に鬼を避けさせようとすれば、(鬼はどこにでもいるから)道路は歩けないし、部屋はもういることはできない。)

・使宋王寤、子為齏粉夫。(荘子・列禦寇)
(▼宋王をして寤めしめば、子齏粉と為らんかな。
 ▽宋王に目覚めさせたら、あなたは粉々になっていたであろうなあ。)

・不知事者、時未至而逆之、時既往而慕之、当時而薄之、使其民郄之。(呂氏春秋・士容論)
(▼事を知らざる者は、時未だ至らずして之に逆らひ、時既に往きて之を慕ひ、時に当たりて之を薄(かろ)んじ、其の民をして之に郄(おく)らしむ。
 ▽農事を知らないもの(=君主)は、時節がまだ来ないのにこれに逆らい(耕作させ)、時節がすでに過ぎてからこれを後悔し、ちょうどよい時期にこれを軽視し(労役させ)、その民にこれ(=時節)に遅らせる。)

これらの例は、すべて「使」の客語の後に「而」が置かれたもの。
兼語文という考え方自体がまだ存在しなかった時代の話ですから、もちろん松下氏は兼語文を否定したわけではありません。
ですが、「使」が「シテ」であって「シム」ではないという見解は、そのまま「前文の賓語が後文の主語になる」という兼語のしくみを否定することになります。

もし「使天雨珠」であれば、「天を使役し、その使役される天が珠を降らす」と説明することができます。
ですが、「使天而雨珠」は、兼語文の理屈では「使天」と「天而雨珠」の2文を認めることになります。
しかし、「天而雨珠」を「天が珠を降らす」という主語+謂語+賓語の構造とするのは、大変苦しい説明になってしまいます。
同様に、「後人而復哀後人」も、「宋王而寤」も、そのまま「後の人がまた後の人を哀れむ」、「荘王が目覚める」と解するのは、「而」の働きからして苦しいでしょう。

「而」は連詞とされ、通常は句と句、文と文をつなぐ働きをします。
前の内容を受けて、「で」どうであるかを示すのが一般的です。
確かに「而」が、意味上の主語と謂語の間に置かれることもあります。

・管氏知礼、孰不知礼。(論語・八佾)
(▼管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。
 ▽管氏で礼を理解しているなら、誰が礼を理解していないだろう。)

これは一般に「管氏が礼を知るなら」と普通に主述文として訳されたり、「而」に仮定の働きがあるとして「管氏がもし礼を知るなら」と訳されたりもするわけですが、本来は、「管氏」自体に「管氏である」という叙述的な意味が含まれていて、それを「而」が「で」と受けている文だと思います。
つまり、「管氏であって、で、礼を知るなら」という感じでしょうか。

なんにせよ、このような「而」が兼語文の後の主述文に入り得るでしょうか。
「天であって、で、珠をふらす」「荘王であって、で、目覚める」、まあ訳が妙だからわかりにくいのですが、「而」の必要性はないのではありませんか。

その意味で、「天を使而(して)珠を雨せしむ」という考え方は、とても筋が通っている気がするのです。
「使宋王而寤」も「宋王を使而(して)寤めしむ」と考えれば、自然に解することができるように思います。

使役文を兼語文ではないかもしれないという論拠を、松下氏の「使」は「シテ」であり「シム」ではないに求めると、他にも説明すべきことがあるのですが、それは次回に譲りたいと思います。

使役文は兼語文か?・1

(内容:中国の語法学で兼語文とされる使役文について、本当に兼語文であるかについて考察する、その1。)

前回、「所」が不思議な働きをもつようになった経緯について、参考として太田辰夫氏の説を紹介しました。
その際、「兼語文」という用語が使われていましたが、実はこの兼語文、特に使役の兼語文という形式が、最近ずっと気になっていることの1つなのです。
古典中国語文法によって漢文を見直すようになった最初の時期に、一番驚いたというか違和感を感じたのがこの兼語文でした。

兼語文というのは、たとえば、

・王使人学之。(韓非子・外儲説左上)
(▼王人をして之を学ばしむ。
 ▽王が人にこれを学ばせる。)

のような形式の文で、いわゆる使役の形とされるものがその代表格です。

王使
  学之。
       兼語

前文は、主語「王」+謂語「使」+賓語「人」、後文は、主語「人」+謂語「学」+賓語「之」の構造です。
このように、本来2つの文で、前文の賓語「人」が後文の主語を兼ねるので兼語といいます。
つまり、兼語文とは、2つの文がこの兼語を介して1文になったものになります。
この時、「使人」と「人学之」とは緊密な関係がなければならず、たとえば「我願人知之」(私は人がこれを知ることを願う)などの文は、「私が人に願う」ことと「人がこれを知る」ことには直接的な関係がないので、つまり、たとえば「私が願った」ことで「人が知る」わけではないので、兼語文とはいいません。

概ね、現代中国語でも、古典中国語でも、使役の形は兼語文であると説明されるのが普通で、これを知っていれば、漢文の使役の形はもっとわかりやすく教えられると言われたり、使役の形を構造的に理解できたと生徒を納得させられたりするわけです。
ですから、ある意味、古典中国語文法で漢文を教える道に足を踏み入れると、この兼語文の形式は授業の「花」であったりもします。
最初の違和感は、古典中国語文法に慣れていくにつれて、気にならなくなり、当たり前のように説き、それこそが本当の漢文の構造だと言わんばかりに授業でも説明するようになりました。

その最初の違和感とは何かというと、文の途中で主語が入れ替わることでした。
「王が人を使役し、使役される人がこれを学ぶ」、だから「王が人に学ばせる」という意味になるのだと説明するわけですが、なにゆえそんな妙な構造をとるのか、また言葉としてそういうのは変なのではないのか?と感じたのです。
「王が人に学ばせる」というのは、あくまで王が主語で統一感が感じられますが、兼語文はその持って回った表現が、どうにも違和感を感じて仕方がなかったのです。
しかし、その後、たくさんの中国の語法書を読みましたが、概ねそれが定説です。
ですから、しだいにそういうものだと思うようになりました。

この春、松下大三郎氏の『標準漢文法』に触れる機会があったことは、すでに何度も書いていますが、この時、冷や汗が流れるように感じたのを鮮明に覚えています。

使役の形は兼語文の形式、それを「兼語文」という概念自体がまだなかったはるか昔に、これを兼語文とは認め得ない根拠がすでに示されていたように思えたからです。

テストの採点や校務等があり、なかなか時間はとれなくなるのですが、使役文をこのように捉えるという別の視点を、松下氏の説をご紹介することを通して、みなさまの参考にお示ししてみようかなと思っています。

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