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カテゴリー「漢文の語法」の検索結果は以下のとおりです。

「命中」とはどういう意味か?・2

(内容:「命中」という言葉の意味について考察する、その2。)

「中」の字の原義については諸説あるところですが、日本は加藤常賢『漢字の起源』(角川書店1970)、白川静『字統』(平凡社1999)、中国では李学勤『字源』(天津古籍出版社2012)などは、旗竿の象形に解しています。
旗竿は真ん中に棒を通してあるらしく、それがいわゆる「なか・中心」という意味を表すことになったのでしょう。
一方、朱駿声は『説文通訓定声』で、「□」と「|」の会意として、「上下通」すなわち、|が□を上下に貫く意に解し、「当たる」が原義であるとします。
「□」は射の的で、「|」がその真ん中を貫くわけです。
これを藤堂明保は『漢字語源辞典』(学燈社1965)で、「□印は的とは限るまい。」として、「枠の中を棒状の物がつきぬけて,両端の抜け出るさまを表わす。『命中・まん中・まん中を通す』などの意味を表す」と論じています。

つまり「なか・中心」が原義とする説と、「当たる」が原義とする説の2つあるわけですが、どうあれ、「中」の字に「当たる」という意味があるのは、字のなりたちそのものに関連があるわけです。

一方、「命」の字については、「令」+「口」からなり、基本的には「令」と同義の字のようです。
「令」は「△」+「⼙」からなる字だそうです。
「⼙」は人の屈服した姿を表しますが、「△」については、藤堂明保が「集める」の意に解しているのに対して、加藤は「叫ぶ」そして「教える」の意とする点が異なります。
どうあれ、屈服した人に言いつけて従わせるというのが「令」ということです。
「命」はそれに「口」を付して、声を出して指示し従わせるというのが、原義ということになります。

屈服した人に「叫ぶ」または「教える」というのは、その人たちのまだ知らぬこと、わからぬことを教え諭すに通じます。
藤堂が「しかし名と命とは,実は同じコトバであり,相手に対し,相手の知らない何事かを, 口でもってわからせる動作にほかならない。命名と熟して用いられるのは, そのためである。」と述べているのは興味深いことです。

してみると、「命」は「命じる」「教えてさせる」を原義として、わからぬものを教え諭す意から「名づける」という意味を表すことになります。
顔師古が「命中」について、

・命中者所指名処即中之也。

と注したのは、「命」を「指名する所の処」と説明したわけで、「射るのはあそこだ」と名づけるからの解釈とも「あそこに射ろよ」と命令するからの意ともとれそうです。
このあたりの解釈が、漢和辞典によって、この「命中」の語を、「めあて・目標」に寄せるか、「名づける」に寄せるかに分かれさせているのかなと思いますが、そのまま「命令する」の意味でも解せるかもしれません。

さて、肝心の次の句、

・力扼虎、射命中。

これをどう解するかが本題です。

「力は虎をひしぎ、射は命中する」と、我々の理解の「命中」で解してしまえばそれまでのことです。
案外それでもいいのかもしれません。

しかし、「命中」ということばが生まれたその時に立ち返って、班固がどういう意味で用いたのかをもし考えてよいのなら、可能性としてはいくつかあります。
ただし、「命中」は、「力」と「射」が対になる表現なので、「射は『命中』」で考えなければなりません。

まず、「命ずるままに中たる」(あそこに射ろよと命じた通りに当たる)です。
「命じて中たる」と読んでもよいかもしれません。
これは、「命」という動詞が「中」の修飾語であるという解釈です。

次に「命ずれば中たる」(あそこに射ろよと命じると当たる)です。
これも「命」が「中」の修飾語であるという点においては前と同じですが、仮定を含んだ意で解する点が異なります。
つまり、「命則中」(命ずれば則ち中たる)の意に解するものです。
『国宝 漢書 宋慶元本』(朋友書店1977)がこの読みになっています。

どちらでも解釈できそうなのですが、無理があると承知の上で、もう一つ考えたいのが、「中たるを命(ずるところ)にす」(当たるのをそこに射ろよと命じたところにする)です。
無理があるかもと思いながらこれを提示するのは、「力扼虎、射命中」が対になる表現だからです。
対になっているのだから、必ず構造が同じでなければならないわけではないと思います。
しかし、一つの解釈としては検討の余地がないでしょうか。
「力は虎をひしぎ(=それほど勇猛で)、射は当たるのを命じたところにする(=それほど正確である)」という対句表現は意味としては通るかなと思います。

この場合、顔師古のつけた注から、「命」を「指定」「めあて」「目標」と解する必要は特にないのではないでしょうか。
顔師古は「命中」の状況を説明したのであって、この「命」が命令するの意ではなく、「なづける」の意だと言ったわけではないのですから。

「命中」の意味は何かという生徒の問いに、色々考えてみました。

「命中」とはどういう意味か?・1

(内容:「命中」という言葉の意味について考察する、その1。)

3年生の古典の授業で『史記』の刺客列伝を扱いました。
いわゆる荊軻の始皇帝暗殺の場面です。
荊軻が始皇帝の剣により左股を断たれ、身動きならなくなった彼が匕首を秦王になげうちますが、当たらずに銅柱に当たってしまいます。
そのせいで荊軻は万事休す、左右の者によって殺されてしまうのですが…

さて、その場面を司馬遷は次のように記しています。

・不中、中銅柱。
(▼中(あ)たらず、銅柱に中たる。)
(▽当たらずに、銅柱に当たった。)

「銅柱」は「桐柱」に作るテキストもあり、画像石には匕首が柱に刺さっている絵もありますから、「桐柱」のテキストに基づいたものでしょう。

この「中」という字が「あたる」という意味で用いられるのは周知のことで、入試問題などでもその意味として用いられる「中」を含む熟語が問われることがあります。
だから、「中」の意味を押さえた後、「命中」「的中」という熟語を一緒に覚えておきなさいと授業では強調するのですが。

そう教えた放課後、1人の熱心な生徒が質問に来ました。

「『中』が『あたる』という意味なのはわかりましたが、『命中』『的中』というのは、構造的にどう説明されるのですか?」

一瞬、ギクリとしました。
確かにうまく説明できないのに、「覚えておけ」と言ったのは私です。
その生徒は、的にあたるのなら「中的」だと思うし、「命中」に至っては「命」の意味がわからないと言います。

その場で質問に答えられなかった私は、正直よくわからないので調べてみると答えましたが、一方でこういうことを疑問に思える生徒に、少し嬉しい気がしました。
なぜだろう?と考えることがどれだけ大切なことか、常々生徒に投げかけていたからです。
教えられたことを鵜呑みにせず、あれ?なぜだろう?と思えた生徒には頼もしさを覚えます。

さて、私も探究活動をしなければなりません。
「命中」とはいったいどういう意味なのでしょうか。

手許のデータベースで検索をかけてみると、いわゆる「的中」の例はヒットしませんでした、和製の語でしょうか。
一方、「命中」の方は、漢文の文献の中でいわゆる命中の意味で用いられている例は、どうやら『漢書』が最初のようです。

・陵召見武台、叩頭自請曰、「臣所将屯辺者、皆荊楚勇士奇材剣客也。力扼虎、射命中。願得自当一隊、到蘭干山南以分単于兵、毋令専郷弐師軍。」(漢書・李広伝)
(▼陵武台に召見し、叩頭して自ら請ひて曰はく、「臣の将(ひき)ゐる所の辺に屯する者は、皆荊楚の勇士奇材剣客なり。力は虎を扼し、「射命中」。願はくは自ら一隊に当たるを得、蘭干山の南に到りて以て単于の兵を分かち、専ら弐将軍に郷(むか)はしむること毋(な)けん。」と。)
(▽李陵は召されて武台殿で主上に謁見し、叩頭して自ら言った、「私めが率いる辺境に駐屯する者どもはみな荊楚の勇士や奇才剣客です。力は虎をおさえつけ、「射命中」。願いますことには、自ら一隊を指揮し、蘭干山の南まで進軍して単于の兵を分断し、専ら弐将軍(李広利)に向かわせることがないようにしたいものです。)

李陵は、騎馬がなくても寡兵で匈奴に攻め入ると主張して武帝に認められ、歩兵5000人で単于の30000兵と激突し、善戦するも敗れて、あの有名な「李陵の禍」につながることになるわけです。

さて、この「射命中」は、我々がそもそも「命中」ということばを、弾丸や矢が的に見事にあたることと理解しているために、すんなり「射が命中する」「射れば命中する」という意味だと読めてしまいます。
実際、小竹武夫氏も『漢書』(筑摩書房1978)で「その力は虎をもひしぎ、射ればかならず命中します。」と訳しておられます。
後漢の班固らがもとよりその意味で記述したことは、まず疑いありません。

しかし、この「射命中」が語法的、構造的にどう説明されるかは、また別の問題です。

唐の学者である顔師古が該当箇所に次のような注をつけています。

・師古曰、扼謂捉持之也、命中者所指名処即中之也。
(▼師古曰はく、扼とは之を捉持するなり、命中とは指名する所の処即ち之を中つるなりと。)
(▽師古がいう、「扼」とはとらえ持つの意である、「命中」とは指定した場所はとりもなおさずあてるのである。)

顔師古がこのような注を施したのは、おそらく文献上初出の「命中」という語句の意味が定かでなかったからでしょう。

手元にあるいくつかの漢和辞典で「命中」がどのように訳されているかを調べてみました。
すると概ね、指定した通りの場所や目標物に正しく当たるの意で説明されています。
売れ筋の具体的な辞書名を挙げて意見を述べると、批判的記事と見なされ、嫌な思いをすることになっても困るし、憚られるのでやめておきますが、中国の『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社)には、「命中」の義として、

射中或投中預定的目標。
(射てまたは投げて予定の目標にあたること。)

とあり、また、本邦の『大漢和辞典 修訂版』(大修館書店)には、

狙った所に正しくあたる。命は、めあての所。

とあるので、手元の辞書の数々はこれらを参考にしたのかもしれません。

ところで、この『大漢和辞典』は「命中」の項には、用例として『漢書・李広伝』の「射命中」を引用して返り点はついていないのですが、字義の項では「めあて」として同例を引きながら、「射」と「命」の間にレ点がついています。
その影響なのか、「命ヅクルトコロニ射レバ中タル」と訓じてある辞書もあります。

しかしおそらくこれは誤読です。
『史記』の記述をもう一度示します。

・力扼虎、射命中。

李陵が自分の率いる兵士の勇猛さと戦闘技術の高さを述べている箇所です。
これは「力」と「射」が対になり、「力は~」「射は~」と読むべきであることは明らかです。
何事にも絶対ということはないでしょうが、「命」から「射」に返って読む構造ではないと思います。
つまり、「力は虎を扼し」「射は『命中』する」の関係にほぼ間違いありません。
問題はその『命中』をどう解するかです。

「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置か?・3

(内容:『方丈記』の「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置文か?ということの考察から、帰着性従属について考える、その3。)

文頭の「不知」をどう考えるかについて、考えをめぐらしてきました。
その推論は、「不知〈AがBする〉乎」の形式をとる場合、〈AがBする〉は「A之B」の形をとって、「AがBする(こと)」が帰着語「不知」の客語であることを明確にし、文末の語気詞「乎」が「AがBする」への疑問の語気を表すのではなく、「不知」に対するものでは?でした。

しかし推論はあくまでも推論であって、事実の裏付けは何もありません。
となれば、実例にあたるしかない。
そこで、「不知」がどのように用いられているかを調べるために、三国時代より前にしぼって「不知~〈疑問の語気詞〉」の例を探してみました。
時代はしぼらずに調べた方がもちろんいいのですが、さすがに大変ですので。

推論というものは、えてしてそれに都合のよい例を求めてしまうものですが、実際に見られた用例は、なかなかに判断に迷うものになりました。

・汝不知夫螳螂(荘子・人間世)
(▼汝夫の螳螂を知らずや。)
(▽あなたはあのかまきりをご存じでしょう。)

・汝不知夫養虎者(荘子・人間世)
(▼汝夫の虎を養ふ者を知らずや。)
(▽あなたはあの虎を養うものをご存じでしょう。)

これは「夫螳螂」「夫養虎者」が帰着語「不知」の客語であることは明らかで、語気詞「乎」は「不知」に対する疑問の語気であり、「汝知らず、夫の螳螂や」などとは解せません。
これは「夫螳螂」「夫養虎者」が名詞句なので当然です。

・晏子曰、君独不知死者之不可以生(晏子春秋・内篇諫下)
(▼君独り死者の以て生くべからざるを知らざらんや。)
(▽君だけが死者が生き返れないことを知らないでしょうか。もちろんご存じのはず。)

・彼且蘄以諔詭幻怪之名聞、不知至人之以是為己桎梏(荘子・徳充符)
(▼彼は且に諔詭幻怪の名を以て聞こゆるを蘄(もと)めんとす、至人の是を以て己が桎梏と為すを知らざるか。)
(▽彼は並外れた怪しげで得体の知れないごまかしの名声が広がることを求めようとしている、至人がそれを手枷足枷と考えていることを知らないのか。)

この2例は「不知〈AがBする〉乎」の形式になっているものです。
いずれも語気詞「邪」は「不知」に対するものであって、「知らず」と先に読むことはできません。
「死者之不可以生」「至人之以是為己桎梏」は帰着語「不知」の客語であり、〈AがBする〉は「A之B」の形をとっています。
そして、どちらも「君」「彼」という一人称以外の主語が置かれているのが共通点です。

このような例は他にあってもよさそうなものですが、私のデータベースではこの2例と、前エントリーで紹介した「不識舜不知象之将殺己与。」しか見つけられませんでした。
そしてこれも「舜」が「不知」の主語になっています。
しかし、あくまで三国時代より前の用例に限っての話であって、それより後の時代なら、もっと用例があり、〈AがBする〉が「A之B」の形をとらず、単に「AB」になっているものも、あるいはあるかもしれません。

さて、従来「知らず、~」と読まれている、もしくはそう読むことが可能な例を見てみましょう。

不知亦有貴知夫天者乎。(墨子・天志中)
(▼知らず亦た夫の天より貴知なる者有りや。)
(▽知らず、やはりあの天より貴く知恵あるものがあろうか。)

不知子之義亦有鉤強乎。(墨子・魯問)
(▼知らず子の義にも亦た鉤強有りや。)
(▽知らず、あなたの義にもやはり鉤強(鉤距)がありますか。)

不知門下左右客千人者、有六翮之用乎。(説苑・尊賢)
(▼知らず門下左右の客千人なる者、六翮の用有りや。)
(▽知らず、門下左右の食客千人に、要の働きをする者はおりますか。)

これらの例は、「亦有貴知夫天者乎」「子之義亦有鉤強乎」「門下左右客千人者、有六翮之用乎」が、それぞれ単独で文として成立し、文末の語気詞「乎」は「有」に対するものであって、「不知」に対するものではありません。
したがって、いずれも「知らずや」と読むことはできません。
あえて言うなら、「不知」以下の部分は、わからない具体的な中身ということになります。
このことをもってすれば、原田氏が「ある大学の入試問題に件の『方丈記』の文が示され、『不知(知らず)』とは何を知らないのであるのかという設問に驚」かれ、「不知」を「いったい」という適訳で解せず「……がわからない」と解する人々を批判されたのも、果たしてどうであろうかと思えてきます。

さて、さらに用例を見ていくと、「不知、~」の形式は、後が単句ではなく、二者選択の二句になっているものが多く見られます。

不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。(荘子・斉物論)
(▼知らず周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。)
(▽知らず、荘周の夢で胡蝶となったのか、胡蝶の夢で荘周となったのか。)

・今且有言於此、不知其与是類乎、其与是不類乎。(荘子・斉物論)
(▼今且(しば)らく此に言有らん、其の是れと類するか、其の是れと類せざるかを知らず。)
(▽今かりにここに言葉があるとして、知らず、その言葉がこれ(=今述べている明智)と類似しているか、その言葉がこれと類似していないのか。)

・且不知其在彼乎、其在我乎。(荘子・秋水)
(▼且つ其の彼に在るか、其の我に在るかを知らず。)
(▽それに、知らず、それが他人にあるのか、それが私にあるのか。)

不知論之不及与、知之弗若与。(荘子・秋水)
(▼知らず論の及ばざるか、知の若かざるか。)
(▽知らず、(私の)議論が(彼に)及ばないのか、(私の)知恵が(彼に)及ばないのか。)

不知先生之洗我以善邪、吾之自寤邪。(荘子・徳充符)
(▼知らず先生の我を洗(みちび)くに善を以てするか、吾の自ら寤(さ)めたるか。
(▽知らず、先生が私を導くに善でしてくれたのか、私が自分で悟るのか。)

ここで気になるのは、後の2例が二者選択の各句が「A之B」の構造をとっていることですが、考えてみれば、「知らず、XかYか」という、名詞(名詞句)2つを選択肢にとり得るのは当然のことで、

・孟嘗君寄客於斉王、三年而不見用、故客反謂孟嘗君曰、「君之寄臣也、三年而不見用、不知臣之罪也、君之過也。」(説苑・善説)
(▼孟嘗君客を斉王に寄するに、三年にして用ゐられず、故に反りて孟嘗君に謂ひて曰はく、「君の臣を寄するに、三年にして用ゐられず、知らず臣の罪なるか、君の過ちなるか。」)
(▽孟嘗君が食客を斉王に預けたが、三年用いられなかったので、食客は帰って孟嘗君に言った、「君が私を預けたのに、三年用いられなかったのは、知らず、私の罪ですか、君の過ちですか。」)

という、ABが名詞句の例も見られます。

二者選択の句の間に「抑」や「其」などの語が伴う例もあります。

・今夢黄熊入于寝門、不知人殺乎、抑厲鬼邪。(国語・晋語八)
(▼今黄熊寝門に入ると夢みる、知らず人殺すか、抑(そもそ)も厲鬼か。)
(▽今黄熊が寝門に入る夢を見ました。知らず、死神でしょうか、それとも邪鬼でしょうか。)

不知天之棄魯耶、抑魯君有罪於鬼神、故及此也。(春秋左氏伝・昭公)
(▼知らず天の魯を棄つるや、抑も魯君鬼神に罪有りて、故に此に及ぶや。)
(▽知らず、天が魯を見捨てたのか、それとも魯君が鬼神に対して罪があって、だからこんなことになったのか。)

後の例は、『史記・魯周公世家』では「天之棄魯耶」を「天棄魯乎」に作っています。
「之」を伴うことの不自然さを解消したものでしょうか。

不知日月安不足乎、其有窃疾乎。(墨子・耕柱)
(▼知らず日月足らざるか、其れ窃疾有るか。)
(▽知らず、食物に不自由しているのか、それとも盗み癖があるのか。)

これは、「日月」の意、「安」の意に判然としないところがありますが、2句の間に「其」が用いられている例です。

不知天将以為虐乎、使翦喪呉国而封大異姓乎、其抑亦将卒以祚呉乎。(春秋左氏伝・昭公)
(▼知らず天将に以て虐を為さしめんか、呉国を翦喪して異姓を報大ならしめんとするか、其れ抑も亦た将に卒に以て呉を祚ひせんとするか。)
(▽知らず、天は暴虐をさせるのか、呉国を討ち滅ぼして異姓を広げようとするのか、それとも最後は呉に幸いを与えようとするのか。)

これは2者選択ではなく、3者選択になっていて、「其抑」が用いられています。

不知君将従易而是者乎、将従難而非者乎。(呂氏春秋・審応覧)
(▼知らず君将た易くして是なる者に従ふか、将(は)た難くして非なる者に従ふか。)
(▽知らず、君は易しくて正しい議論をお採りになりますか、それとも難しくて間違った議論をお採りになりますか。)

不知君之食客、六翮耶、将腹背之毳也。(劉向新序・雑事一)
(▼知らず君の食客は、六翮なるか、将た腹背の毳なるか。)
(▽知らず、君の食客は、鴻鵠の羽根の中心にある堅い茎ですか、それとも腹の柔らかい毛ですか。)

不知囚之精神著木人乎、将精神之気動木囚也。(論衡・乱龍)
(▼知らず囚の精神木人に著けるか、将た精神の気木囚を動かすか。)
(▽知らず、これは囚人の心が木偶に乗り移ったものか、それとも心の気が木囚を動かしたのか。)

これらは2句の間に「将」が用いられている例。

・今夢黄熊入於寝門、不知人鬼耶、亦厲鬼耶。(説苑・弁物)
(▼今黄熊寝門に入るを夢見る、知らず人鬼か、亦厲鬼か。)
(▽今黄熊が寝門に入る夢を見ました。知らず、霊魂でしょうか、それとも邪鬼でしょうか。)

これは「亦」が用いられている例で、先に引用した『国語・晋語八』では「抑」に作っていました。

不知都之精神在形象邪、亡(也)将匈奴敬鬼精神在木也。(論衡・乱龍)
(▼知らず都の精神形象に在るか、亡将(そもそ)も匈奴精神の木(人)に在るを敬鬼(畏)するか。)
(▽知らず、郅都の心が人形に籠っていたのか、それとも匈奴は心が人形に籠もっているのを恐れたのだろうか。)

不知寿王不得治東郡之術邪、亡将東郡適当復乱、而寿王之治偶逢其時也。(論衡・定賢)
(▼知らず寿王は東郡を治むるの術を得ざるか、亡将(そもそ)も東郡適(たまたま)復た乱るるに当たりて、寿王の治偶(たまたま)其の時に逢ふか。)
(▽知らず、寿王は東郡統治の術を心得ていなかったのか、それとも東郡が偶然争乱の時代に当たっていて、さすがの寿王の統治も折悪しく争乱の時代に出会ったものか。)

これは「亡将」が用いられているもの。
「亡将」が「抑」の意で用いられるというのは、初めて見ました。

総じてこれらの例は、「不知」をどう解釈するかはともかくとして、判断のつきかねる選択事項、もしくは判断のつきかねる風を装う選択事項です。
いずれもそれぞれの選択事項が独立していて、最後の語気詞はそれぞれの謂語に対して疑問の語気を添えているのであり、「不知」に対するものではありません。

したがって、これらの形式「不知――乎」は、「不知」を帰着語とした場合、客体があるとすれば、「――」ではなく、「――乎」にならざるを得ません。
してみると、「先人の業績を認めることすらできない」「烏滸(おこ)の極み」と罵倒された人々の考え方も一理あることになります。

これらの例を見ていて、ふと気づいたことがあります。
いずれの例も「不知」の主体は表現者ですが、一人称「我」や「吾」が伴う「我不知~乎、~乎」などの例がありません。
そこで、「我不知」「吾不知」で、すべてのデータベースで検索をかけてみることにしました。
すると、「我不知」で文末に「乎」などの疑問の語気詞を伴い、なおかつ「我知らず、~か」の形をとっている例は見られませんでした。
次に、「吾不知」で同様の検索をかけると、次の1例が見つかりました。

・吾不知翠石先仁而後富者耶、抑先富而後仁者耶。(聊斎志異・巻五)
(▼吾知らず翠石は仁を先にして富を後にするものか、抑も富を先にして仁を後にする者か。)
(▽私は知らず、翠石は仁を先にして富を後にするものか、それとも富を先にして仁を後にする者か。)

この例の場合は、原田氏が主張する「いったい……であろうか」では訳せません。
やはり、「私は翠石が仁を先にして富を後にするものか、それとも富を先にして仁を後にする者かわからない。」とするのが自然な解釈でしょう。

しかし、『聊斎志異』は極めて現代に近い清代の文章です。
私のデータベースはわずかとはいえ、先秦から清代に至る170以上の主要な書籍をおさめています。
この1例しか見つからないというのは、どういうわけでしょうか。
「不知」の主体は自分なのだから、いちいち表現しないのだと言ってしまえばそれまでですが、「私は、~か、~かを知らない」もしくは「私は、~か、~を知らない」という意味なら、「我」や「吾」を示したとしても不思議ではないと思うのですが。
「私はわからない」に重きの置かれない表現だからではないでしょうか。

結局のところ、断定的な物言いはできないのですが、私はこのような「不知」は、判断が付きかねるという思いを「不知」で示した上で、それが何であるのかを示しているのではないかと思います。
つまり、「わからない」ということを主張することに重きがあるのではなく、わからぬこととして自分が疑問に思うことを述べることに重きがあるということです。
文法的にそう断じ得るところまでは行き着きませんが。

「不知」は本来客語を伴う帰着語です。
しかし「知らない」「わからない」の意で一度断句となったものが、後の部分に従属化して修用語(連用修飾語)となっているのでしょう。
つまり、「わからない、~か、~か」です。
これをもう少し意訳すると、「わからぬこととして、~か、~か」となるし、関西でよく言う「知らんけど、~」も似たような表現かなと思います。
しかし、それはあくまで意訳であって、「不知」は「わからない、~か、~か」です。
用いられ方が「いったい」で置き換えてしっくりするとはいえ、それは適訳というより、やっぱり私には意訳に思えます。

『方丈記』の例の文、

知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

鴨長明が、漢籍に古くから見える表現を踏まえてこのように表現したのだとしたら、この「知らず」は、「生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る」から返るように見え、「仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる」から返るように見えても、「わからないこととして」「わからないけれども」のように、帰着性従属として「知らず」を用いていると言えないでしょうか。

「知らんけど、生まれ死ぬ人は、どこから来て、どこへ去るん?」「知らんけど、仮の宿りやのに、だれのために心悩ませ、何によって目を喜ばせるん?」

叱られるかもしれませんが、そんな意味なのではないかと思います。

「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置か?・2

(内容:『方丈記』の「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置文か?ということの考察から、帰着性従属について考える、その2。)

先日、2年生の授業で、『史記』項羽本紀のいわゆる「鴻門の会」を扱っていて、例の沛公の老獪な謝罪の言葉にさしかかりました。

・然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。
(然れども自ら意はざりき、能く先づ関に入りて秦を破り、復た将軍に此に見ゆることを得んとは。…句読点、読みは教科書による。)

そしてこのちょっと凝った読み方に触れて、「不自意」の部分が先に読まれているけれども、「能先入関破秦、得復見将軍於此」の部分は本来賓語であって、別に倒置形ではない、もしこれを本来の構造に従って読めば、「然れども自ら能く先づ関に入りて秦を破り復た将軍に此に見ゆることを得んとは意はず」となって、「不」には五点をもって返ることになるなどと口にしました。

その時、ふとこの説明は正しいか?と疑問に思いました。
これまで何度も扱ってきた教材で、この箇所にさしかかると、同じような説明をしてきたのですが、これは漢文の正規の語順で、訓読で倒置して読んでいるから強調表現なのだと思われては困ると思うと共に、「おもはざりき」という読み方が、別に「おもはず」でいいのではないかという引っかかりから、つい口にする文言だったのですが。

この説明は正しいか?という疑問は、もちろんもしやこれは帰着性従属ではないかという思いがなさせたものです。
そして、そのこととは別か、もしくは別でないのか、「能先入関破秦、得復見将軍於此」の部分を「不自意」のただの賓語とみなすにしては長すぎるという思いは、帰着性従属という考え方を知る以前から気になっていたことではありました。

同様のことは、「曰」についても言えます。
たとえば、

・項王曰、「諾。」
(項王曰はく、「諾。」と。)

この程度であれば、「諾」を「曰」の生産性の賓語として、主語「項王」+謂語「曰」+賓語「諾」と説明できないことはありません。
しかし、たとえば次の例、

・謝曰、「臣与将軍勠力而攻秦。将軍戦河北、臣戦河南。然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。今者有小人之言、令将軍与臣有郤。」
(謝して曰はく、「臣将軍と力を勠はせて秦を攻む。将軍は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふ。然れども自ら意はざりき、能く先づ関に入りて秦を破り、復た将軍に此に見ゆるを得んとは。今者小人の言有り、将軍をして臣と郤有らしむ。」と。)

賓語の部分がこれだけ長いと、「~と言った」と説明するのはかなり苦しくなります。
「曰~」の形式は、~の部分がこれよりはるかに長いものも普通にあり、それらがみな「曰」のただの賓語だというのは、果たしてどうだろうかと思ってしまいます。

松下大三郎氏の『標準漢文法』に、断句的修用語というものが説かれています。
断句とは意義の尽きるところ、すなわち句であって、我々がいわゆる文と称するものに該当します。
修用語とは別の語の運用を修飾する語で、連用修飾語と考えてよいでしょう。
氏は、断句的修用語について、次のように述べています。

斷句的修用語は獨立性の語が從屬化して修用語となつたものである。
斷句的修用語となり得るものは、一、實質感動詞、二、喚呼態名詞、三、指示態名詞、四、敍述態名詞、五、動詞、この五種である。何れも一度獨立して一斷句となつたものゝ從屬化である。

5種あるうちの、「動詞」が問題になるのですが、断句的修用語がどんなものなのかを比較的理解しやすいものとして、喚呼態名詞の例を引用してみましょう。

・求爾何如。…赤爾何如。…。論語先進
(求よ爾(なんぢ)は何如。…赤よ爾は何如。…)

の場合なら、「求」「赤」が「名詞の喚呼態より成る斷句的修用語」です。
そして「爾何如」(おまえはどうだ?)が「その被修用語」となります。
氏の説明を借りると、「求よ」は独立性はありますが、「爾は何如」という問いを発するために呼びかけたのですから、その問いの語の相手を示すものとして「爾何如」に従属します。
他者に対する呼びかけは、たとえば、「先生」と呼びかければ、それだけで独立性をもちます。
しかし、大概の場合、その後に何らかの要件を伴うもので、呼びかけた語は、後の要件に従属するとする、それが断句的修用語です。

さて、その断句的修用語になり得るものとして、ここで問題となるのが動詞です。

動詞は獨立して斷句の代表部となり得べきものである。例へば「月出」「風清」は各一つの斷句であつて「出」「清」はその代表部である。
併し之を從屬化して用ゐる場合が有る。

氏はその場合として、「1.接続性従属」「2.喚呼性従属」「3.感動性従属」「4.帰著性従属」の4つを挙げるのですが、1~3は自分でお読みいただくとして、私がここのところずっと気にかかっているのが、4の帰著性従属です。
帰著性とは帰着性です。

「人食桃。」という文があった場合、「人」を主語、「食」を述語、「桃」を目的語とします。
中国語では主語、謂語、賓語と呼びますが、これを日本人になじみやすい用語に改めたのが述語、目的語です。
賓語や目的語は、客語と呼ばれることもあります。
しかし、述語は主語に対する概念であり、客語や賓語、目的語は述語に対する概念ではなく、帰着語に対する概念です。
つまり、主語「人」+述部「食桃」という考え方と、帰着語「食」+客語「桃」という考え方は、異なる考え方だということです。

述語は主語に対するものである以上、帰着語を述語とみなしてしまうと、必ず主語に対するものでなければなりませんが、帰着語は必ずしも述語になるとは限りません。
「有食桃者」(桃を食べる人がいる)は、「食」は帰着語ですが、客語の一部であり、述語ではありません。
「食桃之人笑」(桃を食べる人が笑う)も、「食」は主語の一部ですが、述語ではありません。

帰着語は、客体に帰着する作用を表して客語を統率します。
すなわち、帰着語「食」は、客体(桃)に帰着する作用を表して客語(桃)を統率するのです。

したがって、前エントリーの続きについて考えを進めれば、たとえば、

・王不知客之欺己、而誅学者之晩也。(韓非子・外儲説左上)
(王は客が自分をだましたことを知らずに、学ぶものが遅いのを責め殺した。)

という文の場合は、「不知」は帰着語で、「客之欺己」は客語です。
それは「客之欺己」が「之」によって名詞化していることからも、また、文が説明の語気を表す「也」で結ばれていることからもわかります。

しかし、原田氏が「これらは皆倒置法では解釈することができない」として引用した次の例はどうでしょうか。

・不識可使寡人得見乎。(孟子・公孫丑下)

これをもし「不識」を帰着語とした場合、その客体は「可使寡人得見乎」になるでしょうか。
仮にそうだと決めて、「寡人をして見ゆるを得しむべきかを識らず」と、この文を解釈することは可能でしょうか。
そんなことはないと批判されることを覚悟して私見を述べれば、もし「不識」をただの帰着語とすれば、私にはこの文は、

・寡人をして見ゆるを得しむべきことを識らずや。
(私に会うことができるようにさせることを知らないのか。)

という意味になってしまうように思えます。
うまく言えないのですが、「不識」がただの帰着語であれば、語気詞「乎」はやはり「不識~」に疑問の語気を添える働きをするように思うのです。

原田氏が示したもう一つの例、

・不識此語誠然乎哉。(孟子・万章上)

これも「不識」がただの帰着語なら、

・此の語の誠に然るを知らざるか。(または、此の語の誠に然るを知らざるかな。)
(この語が本当にそうであることを知らないのか。(または、この語が本当にそうであることを知らないのだなあ。)

となってしまうと思います。
しかし、いずれの例もそういう意味ではない。
「可使寡人得見乎」の「乎」は「可使寡人得見」に、「此語誠然乎哉」の「乎哉」は「此語誠然」に疑問の語気を添える働きをしており、「不識」に対するものではないでしょう。

そして、氏が説明した次の例、

・不識有諸。(孟子・梁恵王上)

そもそも「之乎」の兼詞という「諸」が、「諸(これ)有るを識らずや。(これがあることを知らないのか。)」などと、「有」を飛び越えて「不識」に疑問の語気を添えることなどあるでしょうか。
私は、「有諸」でひとまとまりであって、「これがあるのか」という意味以外表さないように思います。

『孟子』に次のような例があります。

・不識舜不知象之将殺己与。(孟子・万章上)
(識らず舜は象の将に己を殺さんとするを知らずや。)

この「与」は「舜不知象之将殺己」に添えた疑問の語気詞で、「不識」に対するものではありません。
「不識」をどう訳すかはともかくとして、「不識、舜は象が自分を殺そうとしていることを知らなかったのか」です。

すべての例がそうであるとは言えませんが、「不知」がただの帰着語で、その後の部分が主語と謂語の関係からなる客語の場合、この例のように、主語と謂語の間に「之」が置かれることが多いと思います。
それは「象将殺己」が帰着語「不知」の客語であることを明確にするためでしょう。
文末の語気詞「与」が「将殺己」を疑問態にするのではないということを、結果的に示す働きをしているとも言えます。

多くの例をもって検証したわけではないので、断定的な物言いはできませんが、これらの文頭に置かれた「不識」「不知」をその後の疑問を表す客語の帰着語だと考えることは、「不知~乎」の形にはまってしまって、「~するかを知らず」ではなく、「~するを知らずや・~するを知らざるか」という意味を表してしまって、文意に合わなくなってしまうように思います。

もとより、文末に疑問の語気詞が置かれない形、客語にあたる部分に「之」が用いられない形、そもそも疑問文ではない形等々、簡単にはこうと結論づけられないものがありますが、少しずつ検討していかねばなりません。
そして、「不知」を帰着性従属と捉えてどう解釈すればいいのか、またどう訳せばいいのかという問題も。

この件に関する検討は、まだ続きますが、とりあえず、思考過程を示しておこうと思います。

「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置か?・1

(内容:『方丈記』の「知らず、生まれ死ぬる人…」は倒置文か?ということの考察から、帰着性従属について考える、その1。)

教育実習生に2年生の古典の授業を担当してもらうことになり、『方丈記』の冒頭を見ていると、指導案に「『知らず』はどこを受けているか確認する。」という内容がありました。
これは、次の一節に対するものです。

知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

これがちょっとひっかかりました。
気になっていくつか手許の書籍を見てみると、漢文訓読体による倒置法で『……を知らず』の強調表現と述べられていたり、また、「生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る(を)知らず」という文の倒置だとも書かれています。
いくつか教師用の指導書を確認しましたが、総じて倒置法と説明してありました。

これがなぜひっかかったのかというと、ずっと以前に、このような「知らず」は倒置表現ではないという文章を読んだ記憶があったからです。
それと倒置に伴う「強調表現」という説明が、あれ?と思わせたのです。
これをそのまま漢文に直せば、「不知」は文頭に来るのであって、それを先に読んだからといって強調表現にはなるまいと思うし、そもそも「漢文訓読体」における強調表現と漢文そのものとは切り離して限定的に捉えるなら、なぜ「生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る(を)知らず」と表現していないのか、そのこと自体を考えてはいないと思うのです。

このようなことが気にかかったのは、かねてより「曰」(いはく)の用法について、考え続けているからです。
『論語・語法注解』を公開し、それに対して精査してくださったN氏のことは前エントリーでご紹介しましたが、その中に「A曰、B。」(A曰はく、Bと。)の形について、私がよく考えもせずに「ABと曰ふ」の構造を「曰」を先に読んだものに過ぎず、Bは「曰」の賓語と即断したことに、疑義を呈して下さっていました。
手近なところに、「曰」についての、最近の中国・日本の研究を見いだせず、考えあぐねていたのですが、それとこの「不知」が関連性があるように思えたのです。

私が以前読んだ書物は何だっただろうか…と、しばらく時間がかかりましたが、色々と情報を集めて、それが原田種成氏の『私の漢文講義』(大修館書店1995)であることがわかり、今は手許になかったので、早速取り寄せて読んでみました。

原田氏は、ある大学の入試問題に件の『方丈記』の文が示され、「不知(知らず)」とは何を知らないのであるのかという設問に驚き、手近にある教授用指導書でどのように解釈しているかを調べてみると、どれもこれも倒置法として解釈していると指摘しています。
その上で、

しかし、これは漢文脈をちょっと知っていれば、ここの「知らず」は「……がわからない」「……を知らない」の意ではなくして、「いったい……であろうか」という、疑問の気持を強調する働きを持つ、強めの修辞で、句末を疑問詞で結ぶ一種の発語であることは自明のことである。漢詩、漢文の中には実例が極めて多い。

と述べています。
そして例として、

・李白、洞庭に遊ぶ「日落ちて長沙秋色遠し、知らず何れの処にか湘君を弔わん」(いったい何処で湘水の神をとむらってよいものだろうか)
・李白、秋浦の歌「知らず明鏡の裏、何れの処よりか秋霜を得たる」(明るい鏡の中の頭へ、いったい何処から秋の霜がふって来たのであろうか)

などの6例を挙げて、

これらの例を倒置法と解してしまったのでは文脈を正しく理解することはできない。試みに方丈記のこの条を、倒置法として「……がわからない」とは訳さずして、「いったい……であろうか」と訳してみれば、どんなにスッキリすることであろうか。

とします。

私的には氏の「これらの例を倒置法と解してしまったのでは」という一節について、これらの例のどこが倒置法なのかよくわからない思いはするのですが。
かりに「Aを知らない」「Aがわからない」という文を漢文にした場合、「不知A」となり、「不知」が先に来るのが正規の語順ですから。
しかし、原田氏がよもやそんなわかりきったことを誤って述べられるはずもなく、おそらくは、このような「不知、[疑問]」の用法を、[疑問]の部分が謂語「不知」の賓語ではないと主張しておられるのでしょう。

氏は、

しかし、これでもまだ、いや倒置法である。李白の詩の場合も「何処で湘水の神をとむらってよいものかわからない」と訳せるではないかと主張する人もあるであろう。そこで、どうしても倒置法としては訳せない例を次に示そう。

として、3例挙げて説明しておられます。
ここではその中から1例を挙げてみましょう。

・孟子、梁恵王上「臣これを胡齕(ここつ)に聞けり。曰く『王、堂上に坐せり。牛を牽(ひ)いて堂下を過ぐる者あり。王、これを見て曰く「牛何(いず)くにゆく」と。対えて曰く「将に鐘に釁(ちぬ)らんとす」と。王曰く「これを舎(お)け。吾、その觳觫(こくそく)として罪なくして死地に就くが若くなるに忍びず」と。対えて曰く「然らば則ち鐘に釁ることを廃止せんか」と。曰く「何ぞ廃すべけんや、羊をもつてこれに易(か)えよ」と』識(し)らず、これありや」

この例に対して、氏は、

ここは「不識」を用いて「不知」ではないが文脈は同じである。孟子が斉の宣王に「……王様は羊をもって牛に易えよとおっしゃそうですが、いったいそんなことがありましたのですか」と次に展開すべき議論のために、だめを押して尋ねたのである。これを倒置法として「これあるを識らず(そういうことがあったことを知りません)」とは訳すことはできない。

と断じています。
氏は強い口調で「……を知らない」「……がわからない」する理解を、厳しく批判しています。
ですから、それに反論したり、疑いをもって臨んでは、それこそお叱りを受けてしまうかもしれませんが、私はそれでも氏の主張を、まずは本当だろうか?と疑ってみたい気持ちを強くもちます。

まず、氏が倒置法としては訳せない例とした「識らず、これありや」ですが、「これあるを識らず(そういうことがあったことを知りません)」と訳すことはできないのは確かにその通りですが、知ってか知らずか「これがあったのかを知りません」「これがあったのかがわかりません」とは訳していません。
孟子の本文は「不識有諸」です。
「諸」は「之乎」ですから、疑問の語気が含まれています。
倒置法として訳せないというなら、「これがあったのかを知りません」と訳した上で論じなければ、お話にならないでしょう。

氏は他に、

・孟子、公孫丑上(筆者注:これは誤りで、公孫丑下)(省略)識らず、寡人をして見ることを得しむべきか」
・孟子、万章上「(省略)識らず、この語 誠に然るか」

を挙げていますが、これには訳はなく、「これらは皆倒置法では解釈することができない」と断ずるばかりです。
これらも「私に会うことができるようにさせてもらえるかがわからない」、「この言葉が本当にそうであるかがわからない」として、相手に判断を委ねる表現とみなせば、通らないことはないと思います。

断っておきますが、私がそう判断し、この構造を氏のいう倒置とみなしているわけではありません。

ただ、私が言いたいのは、この説明では「これでもまだ、いや倒置法であると主張する人」を納得させることはできないということです。
お叱りを覚悟して言うなら、これらの人を納得させるためには、訳をごまかしたりせず、なぜ倒置法ではないのかを、きちんと説明する必要があるのではないかと思います。

今、私の頭の中にあるのは、『標準漢文法』に書かれている「帰着性従属」の一語です。
それがずっと私をモヤモヤさせているわけです。
この「不知[疑問]」「不識[疑問]は、おそらくその構造でしょう。

原田氏の「『いったい』と訳すのは意訳ではなくして適訳である」を、いや、実は「適訳」ではなくして「意訳」ではあるまいか?と思ったりもするのですが…
公務が忙しく、なかなか考える時間が生まれてこない状況にはありますが、松下大三郎氏の「帰着性従属」を紹介し、検討してみたいと思います。

懸案の「曰はく」の働きも本当にそれで説明できるのか… 考えてみたいと思います。
少しずつですが。

「何楚人之多也」の「之」の働きは?・2

(内容:『史記』項羽本紀の「四面楚歌」に見られる「何楚人之多也」の「之」について、中国の語法学では「このように」という意味だと説明することに対して、疑問を呈する、その2。)

前エントリーを公開してからも、なおも「何A之B(也)」の形が気になって、中国の語法書を次から次へとめくっていると、康瑞琮の『古代漢語語法』(上海古籍出版社2008)に、次のように説明されているのを見つけました。

在古汉语中,这是一种常见的惯用型,它用来表示反问。这里中疑问代词“何”放在句子的开头,是全句的谓语,为了强调反问的内容而把它提到主语之前。而“何……之……”型的主语不是单词,而是词组。“之”是词组中的一个助词。例如:
(古漢語では,これは一つのよく見られる慣用型で,反問を表すために用いる。この中の疑問代詞「何」は文頭に置かれ,文全体の謂語であり,反問する内容を強調するために主語の前に出す。そして「何……之……」型の主語は単詞ではなくて、連語である。「之」は連語の中の一つの助詞である。たとえば…)

①何得車之多?(《荘子・列御寇》)…原文簡体字
――为什么得到(这么)多的车?
(なぜ(こんなに)多くの車を得たのか?)

这里的“何得车之多”就是“得车之多何”的倒装。“得车之多”是主语,即动补词组作主语。因此这句话也可译作“得到(这么)多车是为什么”。不过,这样翻译反问的语气便弱了。
(この「何得車之多」は「得車之多何」の倒置である。「得車之多」は主語で,動補構造が主語となっている。それゆえこの文は「(こんなに)多くの車を得たのはなぜか」と訳すことができる。しかし,このような訳の反問の語気は弱まってしまう。)

康瑞琮は、さらに「何許子之不憚煩?」(孟子・滕文公上)と「何秦之智而山東之愚耶?」(戦国策・斉策)の2例を挙げて、同様の説明をした上で、次のように述べています。

总之,在“何……之……”型的句子中,疑问代词“何”一般是与它后面的整个词组构成主谓关系,不是与某一动词、形容词产生状语与中心词的偏正关系。
(要するに,「何……之……」型の文中において,疑問代詞「何」は普通その後の連語全体と主謂関係を構成するのであって、ある一つの動詞や形容詞と、状語と中心語の偏正関係を生じるものではない。)

つまり、奇しくも康瑞琮の説明は前エントリーで類推を試みた私の考え方と同じで、「何A之B」を「A之B何」の倒置だとしているわけです。
ここで、我が意を得たりと喜びたいところなのですが、逆にまたぞろ「本当だろうか?」と思ってしまいました。
しかも、康瑞琮は「之」を「词组中的一个助词」(連語の中の1つの助詞)と述べているだけで、その働きには触れず、例文の訳の中で「(这么)」と( )付きで「之」の訳のつもりなのかどうかわからない形で示すばかりです。

実は、それなりに倒置という結論を出しておきながら、なおも語法書をめくっていたのは、どこかしっくり来ないものを感じていたからです。
それは文末の語気詞「也」です。

康瑞琮は他の2つの例のうち、「何許子之不憚煩?」(何ぞ許子の煩を憚らざる)については、「許子之不憚煩何」の倒置だと述べていますが、「何秦之智而山東之愚耶?」の方は倒置構造であることは説明しても、具体的にどんな文の倒置なのかは示していません。
もし示すとなると、「秦之智而山東之愚何耶」となるのでしょうか。

日本語からの想像はよくないかもしれませんが、もし私が類推したように「何A之B也」が「何だ、AのBするのは」もしくは「なぜだ、AのBするのは」という構造であるなら、語気詞「也」をどう考えればよいのでしょう。
この形式には康瑞琮の挙げた例に「耶」が用いられているように、「也」のほかに明らかに疑問、反語、詠嘆の語気を表す語気詞も文末に置かれます。
もし倒置であるとすれば、句末に置かれていることをどう説明できるでしょうか。
というよりも、そもそももし倒置であるとすれば、「何也A之B」とか「何耶A之B」などの例がいくつかは見つかりそうなものなのに、私が調べる限り、そのような例はありません。
実際のところ、「何」の直後にポーズを置き得るのでしょうか。

そんなふうに思い始めると、以前の「所」考察の折と同じように、また一度出した自分の結論を打ち消して、もう一度考え直すことになります。

「もし『之』を通説である『このように』という意味などではなく、『之』本来の働きに基づく『A之B』という一つの塊だとしたら」という前提に立ち戻らなければなりません。
前エントリーでは可能性は2つと即断しました。
つまり、主語「何」+謂語「A之B」の構造か、もしくは謂語「何」+主語「A之B」という倒置構造かです。
しかし、つくづく「何楚人之多也」をはじめとする多くの例を見ていると、まだ他に可能性があるように思えてきました。
定語「何」+中心語「A之B」からなる単独の謂語、あるいは状語「何」+謂語「A之B」です。

「何」が後に名詞をとって「何A」(何のA)という用いられ方をするのはごく普通のことです。
しかし、「何」がたとえば「なぜ」の意味で明らかに名詞だけでなる謂語を修飾する例はちょっと見つけられません。

「何A」(何のA)について考えてみます。
これはつまり、「何楚人之多也」を「何の・なにゆえの楚人の多さだ」と解することになります。
前エントリーで引用した例なら、次のようになります。

・何太子之遣。(史記・刺客列伝)
(▼何ぞ太子の遣はすや。)
 →何の・なにゆえの太子のご派遣か。

・此非吾君也、何其声之似我君也。(孟子・尽心上)
(▼此れ我が君に非ざるなり、何ぞ其の声の我が君に似たるや。)
 →この人はわが君ではないのに、なにゆえのその声の我が君に似ていることだ。

・大姉、何蔵之深也。(史記・外戚世家)
(▼大姉、何ぞ蔵(かく)るることの深きや。)
 →姉上、なにゆえのお隠れになることの深さです。

あえて「何のA」を意識して訳したのでぐらぐらした訳になっていますが、それなりに通りそうです。

これらはつまりは「どうして太子が派遣するのか」「どうしてその声が我が君に似ているのか」「どうして深く隠れているのか」につながる表現だと思います。

日本語で考えることの危険を承知でいうなら、「なんのお出ましですか」とか「なにゆえのためらいですか」が、要するに「なぜ出てこられたのか」「なぜためらうのですか」という意味を表しているのと似ていると思うのです。

先ほど「何」が「なぜ」の意味で名詞謂語を修飾する例が見つけられないと書きましたが、それはつまり「何」を状語として名詞謂語を修飾する例が見つけられないという意味です。
しかし、次のように考えることはできます。

たとえば「何書」は「何の書」「どんな書」以外の意味を表し得ません。
少なくとも「書」が書物という意味の名詞であれば。
しかし、「何益」や「何利」は、「何の利益」「どんな利益」以外にも、「何の利益があるか」「どんな利益があるか」のように解することができます。
そして「何ぞ益あらん」「何ぞ利あらん」として「どうして利益があるだろうか」と「何」を状語として説明することが可能になります。
もちろんその場合の「利」や「益」は名詞ではなく動詞なのだと言われてしまえばそれまでですが、私は「利」や「益」が叙述性をもつ語だからだと思うのです。

名詞はその用いられる環境の中で、叙述性をもつ場合があります。
たとえば「君君、臣臣」(君は君たり、臣は臣たり)なら、初めの「君」「臣」は単なる名詞ですが、後の「君」「臣」は名詞でありながら「君である」「臣である」という叙述性をもっています。

私は、そのような名詞述語の場合、「何の~」という表現が、「なぜ~する」という意味を表し得るのではないかと思います。
つまり、「何A」(何のA)は形の上では「何」は定語ですが、Aという名詞が叙述性をもつ場合、「何ぞAする」という意味を表し得るのではということです。
「君」「臣」が「君たり」「臣たり」という「たり」に相当する意味を含むように、「何益」の「益」には「あり」という意味を含むと考えれば、「何A之B」の「A之B」は、もともとAがBする関係、あるいはAする程度や状態がBである関係という叙述性のある名詞句なのですから、「AのBするあり」「AすることのBなるあり」など、「あり」に限らないとはいうものの何らかの叙述性を含んだ謂語たり得るのではないでしょうか。

したがって、「何楚人之多也」は、「なにゆえの楚人の多さだ」ではあるが、それはそのまま「なぜ楚人の多さあるだ」(変な日本語ですが)などの意味を表すのではないでしょうか。
ここでは「何」が定語なのか状語なのかということはあまり問題にならないような気がします。
「何益」は「何の益があろうか」とも「どうして益があろうか」とも解せますが、要するに同じことですから。

そのように考えれば、「何楚人之多也」は「何」はそのまま「楚人之多」を修飾して、間にポーズの置かれようはずもなく、「何也楚人之多」「何耶楚人之多」など直後に語気詞を取ろうはずもありません。
「何楚人之多」全体が謂語であるからこそ、語気詞「也」は文末に置かれるのだと思います。

私なりの結論として、この「何A之B(也)」という形式は、「何の・なにゆえのAのBすることだ」から「どうしてAがBするのだ」、あるいは「何の・なにゆえのAすることのBであることだ」から「どうしてAすることがBであるのだ」という意味を表すのであって、「之」は「このように」という指示語として働いているのでもなく、また、「A之B、何(也)」の倒置文でもないと考えます。

このような推論は、もはや主流の古典中国語文法からしてみれば、世迷い言になってしまうのかもしれません。
ですが私から見れば、「之」が「このように」という意味を表すのだという説の方がよっぽど不可解な解釈です。

誤っているかもしれないし、あるいはまたぞろ考えを変えてしまうかもしれませんが、それなりにすとんと落ちたような気がしています。

「何楚人之多也」の「之」の働きは?・1

(内容:『史記』項羽本紀の「四面楚歌」に見られる「何楚人之多也」の「之」について、中国の語法学では「このように」という意味だと説明することに対して、疑問を呈する、その1。)

漢文を古典中国語文法に基づいて理解しようとし始めた頃、虚詞詞典や語法書に書かれていることが新鮮で、今まで思ってもみなかったことが述べられていると、そうなんだ!と飛びついたものです。
ところが冷めた目で見直すようになって、それは本当だろうか?と疑ってかかるようになると、逆に今度は、では本当のところはどういう意味なのだろう?どういう働きなのだろう?と、わからないことだらけに直面することになりました。
それはそれでいいと思うのです、学問に対する姿勢は本来そうあるべきだと思いますから。
しかし、これはなかなか大変なことです、なにしろ不明なことばかりにぶつかる、謎だらけに直面するわけですから。

そんな中、最近、果たしてこれは本当だろうか?もし違うとすれば本当はどうなのだろうかと首をかしげているのが「何A之B(也)」の形式です。

これには構造的に異なるいくつかの形式があるのですが、「何罪之有」(▼何の罪か之れ有らん ▽どんな罪があるだろうか)のような「何A之B(也)」の「何A」がBの賓語である形式を問題にしているのではありません。
AとBが主語と謂語の関係の場合、あるいは謂語Aに対してBが古典中国語文法で補語と言われるものである関係の場合です。

高等学校の教科書に登場する代表的な例は、やはり項羽の言葉でしょう。
漢楚の興亡、最後の「四面楚歌」で項王が嘆じた有名な言葉は次のものです。

・是何楚人多也。(史記・項羽本紀)
(▼是れ何ぞ楚人の多きや。)

この文は、通常「これはなんと楚人が多いことよ」などと訳されています。

この「何A之B(也)」の形式について、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)では、次のように述べられています。

(二)用以组成表示强调的感叹句。这种“何……之……”大都可以译作“为什么……这样……”、“怎么……那样……”,“之”字用于要强调的词语之前,有指代作用。
(それによって強い感嘆文を構成表示する。この「何……之……」は概ね「なぜ……このように……」、「どうして……そのように……」と訳すことができ、「之」字は強調したい語の前に用いられて、指示代詞の働きがある。)

このような記述は、古典中国語文法に関する中国の研究に触れた当初には、まさに「そうだったのか!」と驚き、目を開かれた思いがしたものです。
そして、授業でも「『何楚人之多也』は、通常「なんと楚の人が多いことよ」と訳されているけれども、この「之」は「このように」という意味を表しているんだよ」などと受け売りで述べたりもしたものです。
また、拙著を改訂した際も、残念ながらこの部分についての検討を怠り、同様の記述がそのまま残されています。

しかし、拙著に基づいて、高校生向けの「ためぐち漢文」を書いていて、この形式に書き及んだ時、あらためて何ゆえ「之」が「このように」という意味を表すと言えるのか、甚だ疑問に感じたのです。

指代作用という限りは、指しているものがあるはずで、もちろん項羽は漢軍が四面皆楚歌しているのを聞いたわけですから、そのような状況を指しているのだといえば通るかもしれませんが、本当だろうかと思えてきます。
この「何A之B(也)」は、疑問、反語、詠嘆、特に反語文の例が多いと思いますが、いずれの場合も前に示された状況を指して「之」が「このように」と状語として謂語を修飾するのだということになるのでしょうか。

この形式には上記の他に、BがAのいわゆる補語と説明される形式もあります。

・大姉、何蔵深也。(史記・外戚世家)
(▼大姉、何ぞ蔵(かく)るることの深きや。)

これも、改訂した拙著でそのまま引用し、「姉上、なんとこのように深く隠れておられたことよ」と訳してしまっています。

現在の中国の語法研究では、「深」は、謂語の「蔵」(隠れる)に対する補語と説明されています。
つまり、「蔵深」は「深く隠れる」の意というわけです。
こういう補語という考え方にも最近は本当だろうか?という思いを禁じ得ないのですが…
そしてこの「之」も「深」の状語として「このように」という意味を表しているのだということになっているわけです。

要するにこれらの「之」は「このように」、つまり「如是」「如是」の働きだということになります。
しかし、そもそも「之」にそのような働きがあるでしょうか?
「之」が「この」という意味を表して定語として用いられることはあります。
しかし、「之」単独で「之のごとく」の意で状語として用いられる例があるでしょうか?
ここしばらくあれこれと書籍をあさったり、例文を検索してみたりしているのですが、残念ながら明らかに状語として用いられている例を見いだせずにいます。

もしや楚永安は「这样」「那样」を定語として示して「こんな」「あんな」という意味で解説しているのか?とも思いましたが、例文の訳を見る限りそのようには思えません。

ここへ来て行き詰まりを感じました。
そうなると、「之」を状語として見ず、「之」の自然な用法に基づいて考えてみるよりありません。

「何+主語+謂語(+也)」(なぜ~が―するのか)という形式はないわけではありませんが、一般的な表現ではありません。
「主語+何+謂語(+也)」の方が自然な表現ではないでしょうか。
「何君悲也」(何ぞ君悲しむや)よりも「君何悲也」(君何ぞ悲しむや)に類する表現の方が自然に思えるわけです。
それは疑問代詞「何」が副詞的に用いられる時、本来謂語を直接修飾するものだからでしょう。
ただ、どちらも例もあるし、語法的には成立する表現と思います。

しかし、これが「何君之悲也」となると、話は変わってきます。
これは「何ぞ君の悲しむや」と訓読し、古典中国語文法では「どうして君がこのように悲しむのか」と訳します。
このズレに対して、むしろ私は訓読の方が自然に見えます。
だからといって「之」が日本語の「~が」に等しい主格を表しているというのではありません。
「君之悲」は1つの塊に見えるということです。

『史記』で司馬遷が「何楚人之多也」と書いたのに対して、それをもとにしたはずの『漢書』の記述は、次のようになっています。

・是何楚人多也。(漢書・項籍伝)
(▼是れ何ぞ楚人多きや。)

班固がなにゆえ「之」の字を欠いたのかはわかりません。
また、同じ場面を描き、その表現の下敷きに『史記』があるからこそ、「何楚人之多也」と「何楚人多也」は、ほぼ同じ意味を表しているという主張もありそうです。
そして、「之」の字が加われば「このように」という意味が加わるのだということになるのでしょうか。
しかし、私はその判断にはもうちょっと慎重でありたいと思います。
私にはやはり「何楚人之多也」は、「何+[楚人之多]+也」に見えるのです。

「之」の字が主語と謂語の間に置かれる時、つまり「A之B」(AのBする)の形をとる時、その句は通常名詞句になります。
これを古典中国語文法では「主語と謂語の間に『之』を置くことで、文の独立性を取り消し、名詞句を作る」と説明します。
この働きは、そもそも「之」がそれに先行する語と共に、名詞を修飾して、名詞の意義を限定する働きをもつ語であるためでしょう。
たとえば「父母」は一般的に父母ですが、「民之父母」といえば、父母の中でも民のそれに限定されます。
また、「我好桃」は「私は桃を好む」ですが、「我之好桃」は桃を好む行為が我のそれに限定されると同時に、「之」が本来名詞を修飾する語であるために、「私が桃を好むこと」という名詞句になります。
そのおかげで主語や賓語になりやすくなるわけです。

「楚人之多」だけで見た場合、「楚人多」は「楚の人が多い」という主語と述語の構造ですが、「楚人之多」は同じ理屈で「楚の人が多いこと」すなわち「楚の人の多さ」という名詞句になります。
これが、私が先に「君之悲」が1つの塊に見えると言ったことで、同様に「楚人之多」も1つの塊に見えます。

さて、ここからはもう本当に類推の域を越え得ないのですが、もし「楚人之多」が1つの名詞句であったなら、「何楚人之多也」はどのように説明し得るのでしょうか。
可能性は2つです。

1つめは、「何」を主語、「楚人之多」を謂語とみなす考え方です。
「何が楚人の多さであるか」あるいは「どういう理由が楚人の多さであるか」です。
しかし、これにはじゃっかん解釈上無理があるようにも思えます。

いま1つは、謂語の「何」を主語「楚人之多」の前に出した、すなわち倒置した形とみなす考え方です。
「何か+楚人の多さは」あるいは「なぜか+楚人の多さは」です。
つまり、「何A之B(也)」の形式は、本来「A之B、何(也)」の倒置形式ではないかと考えたわけです。
これには何の確証もありませんが、可能性がありそうです。
たとえば、次のいくつかの例はそのように説明できるのではないでしょうか。

・何太子遣。(史記・刺客列伝)
(▼何ぞ太子の遣はすや。)
 →何です、太子のご派遣とは。

・此非吾君也、何其声似我君也。(孟子・尽心上)
(▼此れ我が君に非ざるなり、何ぞ其の声の我が君に似たるや。)
 →この人はわが君ではないのに、なぜだ、その声の我が君に似ていることは。

・大姉、何蔵深也。(史記・外戚世家)
(▼大姉、何ぞ蔵(かく)るることの深きや。)
 →姉上、なぜです、お隠れになることの深さは。

「何」は疑問代詞ですから、「何か」とも「なぜか」の意でも用い得るわけですが、それを先に表現したものなのでは?

通説に異を唱えることは慎重でなければなりませんが、「之」を構造的に「このように」の意だと説明することの不可解さから、こんなことを考えてみました。
いかがなものでしょうか。
なお、『漢書』の「何楚人多也」は、『史記』に記述を下敷きにしたものと考えるなら、「之」がなくとも、「楚人多」は名詞句としてみなすことも可能だと思います。

(このエントリーには、上記の結論を白紙に戻して、次エントリーにさらなる考察があります。)

江戸の学者は「不亦~乎」をどう捉えていたか?

(内容:「不亦~乎」の形を、江戸時代の学者がどう捉えていたかを調査する。)

いつの頃からか、漢字の字義や用法を考える時、中国の研究書や虚詞詞典の記述をそのまま信じることがなくなってきました。
まず疑ってかかるというのは、失礼な言い方なのかも知れませんが、少なくとも自身の思考の裾野を拡げる努力をするべきだと思うようになったからです。
代表的な虚詞詞典などに断定的に書かれていることが、実はきちんと原典にあたって調べ直すと、実に怪しいということが多いのです。
その意味で、この頃は、たとえば1つの漢字の字義についても、なるべくどのように考えられてきたかという流れを意識します。
そして、江戸期の学者たちの研究にも目を向けることが頻繁になりました。
幸いにして、汲古書院が出している『漢語文典叢書』がありますので、簡単にその叡智に触れることができます。

今回は「不亦~乎」の意味について、江戸の学者たちがどう考えていたのか見てみました。

河北景楨『助辞鵠』(天明6年(1786))で次のように述べています。

○亦 総也又也又旁及之詞ト注ス
物二ツアルヲ此モソレナリ彼モ亦ソレナリト云ヤウナル處ニ亦ヲ用ウルヿ辨ズルニ及ハズ自明ナリ
ソレモコレモト云ズシテタヾ何トナク汎フ惣体ヨリ及シテ亦ト云アリ
此レ旁及之詞ナリ
旁及ハ覃被也ト注ス
亦ノ本義総也ト云ヲ助字ニ用タルナレハ惣体ヨリ旁子ク及フノ義也
此ノ亦ノ字ノマタニ限リテ旁及之辞ト注スルヲヨリ心得ベシ
タトヘバ又復ナドノマタハ竪ニイヒタル如シ
亦ハ旁及之詞ト云ハ竪ニモ横ニモ泛ク及シ云ヘル詞ト云ヿ也
此意ヲ得ザルユヱ下ニ引ケル諸書ノ亦ノ字ニ至テ窮スルヿ多シ
論語ノ不亦説乎ヲ悦ブヘキ事ハ多ケレド此モ亦説シト云ヤウニ心得或ハ我悦シイホドニ汝モ亦説カラント云ヤウニ心得ルハ殊テ聖人ノ語意ヲ失フモノ也
此ハ全体学習ノ説ヲ得タル人ノ上カラ仰ラレシ亦ノ字也
設令ハ月ヲ見花ヲ詠〆至極面白フ思フヨリ情ト共ニナント亦面白イデハナイカヤト云亦ノ如シ
且説フベキヿ多ケレトコレモ亦説シカラズヤ又我カ説キホドニ汝モ亦説シカラズヤナトト云意ナラハ亦ノ字重シ
サラバ亦不其説乎ナンドト亦ノ字不ノ上ニ在ヘシ
今不亦トアレハ不ノ字重ク亦ノ字軽シ
コレヲ以テモ辨フヘシ
又或人ノ訣ニ不亦ト用ウルハ下ノ乎字ニ応シテ反語トナルト云モ疎ナル説ナリ
反語トナルハ不ト乎ト應スル處ニアリ
亦字ニハカカラヌヿ也
此マタ客主ノ用法ヲ知ラザルモノ也
孟子ニイフ周公之過不亦宜乎モ周公デモ亦過ハアルハズト落シツケテ云タル語意ニハ非ズ
カカル餘義ナイ處カラ出タルヿナレハ周公ノ過タマヘルハナント尤ナヿデハナイカト云ヿ也
語孟トモ亦ノ字婉ナルヿ味ヘシ
論語ノ知和而和不以礼節之亦不可行也ヲ朱注ノ如ク解スレバコノ亦ノ字不通ト疑フ人アルモ皆亦ノ字ヲ急促ニ心得ルヨリ過ツナリ
劉向新序ニ楚王問羣臣曰吾聞北方畏昭奚恤亦誠何如ン
コレモ楚王ノ心ニ彼レハ敵軍ニモイカニモ畏ルベキ者ト思ヘルヨリ何ント亦誠ニ畏ルヽヤト問ヘル也
詩周頌ノ章ノ首ニモ有客有客亦白其馬
魏ノ世家田子方カ亦貧賤者驕人耳
又列子ニ常勝之道曰柔不常勝之道曰強二者亦知而人未之知
大雅豊年ニ多黍多稌亦有高廩
コレ等皆同シ
彼ト比並シテコレモ亦ト云ハ語意急促ナリ
此等汎ク惣体ノ上ヨリ云亦ユヱ語意緩婉ナリ
サレバトテ別義ニハ非ラズ
…上記「〆」の字は「シテ」と読む片仮名のフォントがないために便宜的に用いている
(「亦」は「総(すべて)」であり、「又(また)」であり、また「旁及のことば」と注する。
物が二つあるのを、これもそれだ、あれもまたそれだと言うようなところに「亦」を用いることは、述べるまでもないことで、自明である。
これは「旁及のことば」であり、「旁及は覃被(広く及ぼす)である」と注する。
「亦」の本義「総である」というのを、助字に用いたのであるから、「全般的に考えた上からあまねく及ぶ」の意味である。
(「また」と読む字は他にもあるが …中井補)この「亦」の字の「また」に限って「旁及のことば」と注するのを、より理解しなければならない。
たとえば、「又」「復」などの「また」は縦にいったようなものだが、「亦」は「旁及のことば」というのは、縦にも横にも広く及ぼし言ったことばということである。
この意味を理解しないから、後に引用する諸書の「亦」の字に、きわめて行き詰まることが多い。
『論語』の「不亦説乎」を、「悦ぶべきことは多いが、これも亦た悦ばしい」というように理解したり、あるいは、「私が悦ばしいのだから、あなたも亦た悦ばしいだろう」というように理解するのは、すべて聖人の言葉の意味を失うものである。
これは、もともと学習の喜びを得た人の立場からおっしゃった「亦」の字である。
たとえば、月を見たり花を詠じて、とてもおもしろく思うから、情とともに、なんと亦たおもしろいではないかという「亦」のようなものだ。
かつ、「悦ぶべきことは多いが、これも亦た悦ばしいではないか」、また、「私が悦ばしいのだから、あなたも亦た悦ばしいではないか」などという意味なら、「亦」の字は重い。
それなら、「亦不其説乎」などと、「亦」の字が「不」の上にあるべきだ。
今、「不亦」とあるから、「不」の字が重く、「亦」の字は軽い。
このことからも判断することができる。
また、あるひとの訣に、「『不亦』と用いるのは、下の『乎』の字と呼応して反語となる」というのも、愚かな説である。
反語となるのは、「不」と「乎」が呼応するところにある。
「亦」の字には関係しないことである。
『孟子』に「周公之過、不亦宜乎」(▼周公の過つは、亦た宜ならずや)というのも、周公でも亦た過ちはあるはずと、結論づけていった語意ではない。
こんなどうしようもないことから出たことであるから、周公が失敗なさったのは、なんともっともなことではないかということである。
『論語』『孟子』のどちらも、「亦」の字がゆるやかであることを味わうべきだ。
『論語』の「知和而和、不以礼節之、亦不可行也」(▼和を知りて和するも、礼を以て之を節せざれば、亦た行ふべからざるなり)を、朱注のように解釈すると、この「亦」の字は通じないと疑う人があるが、みな「亦」の字をせっかちに理解することから間違うのである。
劉向の『新序』に「楚王問群臣曰、吾聞北方畏昭奚恤、亦誠何如」(▼楚王群臣に問ひて曰はく、吾北方の昭奚恤を畏ると聞く、亦た誠に何如と)とあるが、これも楚王の心に、彼は敵軍にも、なんとも畏るべき者と思っていることから、なんと亦た本当に畏れているのかと問うたのである。
『詩経・周頌』の章の初めにも、「有客有客、亦白其馬」(▼客有り客有り、亦た其の馬を白くす)とある。
『史記・魏世家』に、田子方が「亦貧賤者驕人耳」(▼亦た貧賤の者人に驕るのみ)と。
また、『列子』に、「常勝之道曰柔、不常勝之道曰強、二者亦知而人未之知」(▼常に勝つの道柔と曰ひ、常には勝たざるの道強と曰ふ、二者亦た知りて人之を知らず)と。
『詩経・大雅・豊年』に、「多黍多稌、亦有高廩」(▼黍多く稌多し、亦た高廩有り)と。
これらはみな同じである。
かれとこれとを並べて、これも亦たというのは、語意がせっかちである。
これらはすべて全般的に考えた上からいう「亦」だから、語意はゆるやかである。
だからといって別の意味ではない。)

江戸期の言葉遣いはよくわかりませんので、読み誤っているところがあるかもしれませんが、訳をつけてみました。
「月ヲ見花ヲ詠〆テ」の部分、「〆」(シテと読む片仮名フォントがないので便宜的に用いている)の後に「テ」があるのが不明です。
意味自体は「詠じて」だと思いますが、読みについてご教示いただければ幸甚です。

さて、「亦」が「旁及之詞」(旁及之辞)であるというのは、明末の張自烈による『正字通』に記載が見えます。
江戸期の学者は「亦」の字義を、この「旁及之詞」を基本において考えたようです。
しかし、その「旁及」の捉え方には幅があり、河北景楨の痛烈な批判にそれが見えています。
「論語ノ不亦説乎ヲ『悦ブヘキ事ハ多ケレド、此モ亦説シ』ト云ヤウニ心得、或ハ、『我悦シイホドニ汝モ亦説カラン』ト云ヤウニ心得ルハ、殊テ聖人ノ語意ヲ失フモノ也」というのは、おそらく次の荻生徂徠の解釈に対する批判でしょう。

『助辞鵠』よりさかのぼること、およそ60年前に、『訓訳示蒙』で、荻生徂徠は次のように述べています。

「亦」ハ「又」ノ字ト異ナリ。
「モマタ」ト意得ルヿ、古来ノ説ナリ。
但シ、「マタ」ノ仮名ヲ除キ、「モ」トバカリ意得ベシ。
華語ノ「亦」ノ字ハ、下ヘツキテ、倭語ノ「モ」ノ仮名ハ、上ヘツク。
夷夏語脉ノ異(タガヒ)ナリ。
「旁及之辭(バウキウノコトバ)」ト註セルモ、「モ」ノ意ナリ。
コレガカウアツテ、コレマデモカウアルト云フハ、「旁(カタハラ)マデ引(ヒキ)ヲヨボシタル義」ナリ。
倭歌(ワカ)ノ家ニ「モ」ヲ同心(トウシン)ノテニヲハト云フモ、此ノ意ナリ。
「不亦説乎」「不亦好乎」「不亦然乎」、此等ノ「不亦」ノ二字、世人多クハ解シ得ザルナリ。
「亦」ハ「モ」ト譯シ、「旁及之辞」ト註シタルヿヲ、能ク覚ヘテ、サテ「亦不」「不亦」ト、上下ノ置キヤウニテ、違フ意ヲ、能ク合点𬼀 ミレバ、能クスムナリ。
「旁及辭」ト云フ寸ハ、正(セイ)ト旁(ハウ)トヲ立テヽミルベシ。
假リニ論語「学而時習之不亦説乎」ト云フヲ以テイハヾ、此語ハ孔子ノ学者ニ示サレタル語ナリ。
故ニ孔子ヲ正ニ、学者ヲ旁ニ〆看ルナリ。
「我嘗学而時習之 則説故汝亦当学而時習之 不是汝心説乎(ヲレガ ナラフテ トキドキ ソレヲ シナレテ ミタレバ ヲモシロイホドニ ヲミモ ナラフテ トキドキ ソレヲ シナレヤレ ヲミノココロ モ ヲモシロイ デハ ナイ カヤ)」、是ノ如クミルベシ。
「吾既説汝不亦然乎(ヲレハ ハヤ オモシロイ ヲミ モ ソフデハ ナイ カ)」、是ノ如ク「説」ノ字ヲ上ヘ、ヌキダヒテ、下ノ「説」ノ字ノ處ヘハ、「然」ノ字ヲ、入カヘテ、ヨクスムナリ。
又、テミヂカニイヘバ、「説不亦乎(ヨロコブコト モナラズヤ)」、此ノ意ナリ。

(亦は又の字とは異なる。
「もまた」と解釈できることは、古来の説である。
ただし「また」の仮名を除いて、「も」とだけ解釈できる。
中国語の「亦」の字は下について、和語の「も」の仮名は上につく。
日本と中国の語と語の続き具合の違いである。
「旁及の辞(ことば)」と注しているのも、「も」の意味である。
これがこうあって、これまでもこうあるというのは、「傍らまで引き及ぼした意味」である。
和歌の家に「も」を同心のテニヲハというのも、この意味である。
「不亦説乎」「不亦好乎」「不亦然乎」、これなどの「不亦」の二字は、世の人の多くは解釈できない。
「亦」は「も」と訳し、「旁及の辞」と注してあることをよく覚えて、そして「亦不」「不亦」と、上下の置き方で、違う意味であることを、よく納得してみれば、よく理解できるのだ。
「旁及の辞」という時は、正と旁とを立ててみるとよい。
かりに論語の「学而時習之不亦説乎」という例で説明すると、このことばは孔子が学者に示されたことばである。
だから、孔子を正にして、学者を旁にして見るのだ。
「私が学んで時々それをしなれてみたらおもしろいから、あなたも学んでときどきそれをしなれなさい。あなたの心もおもしろいではないか」。このように見るがよい。
「私はすでにおもしろい、あなたもそうではないか」。このように、「説」の字を上へ抜き出して、下の「説」の字のところには、「然」の字を入れ替えて、よく理解できるのだ。
また、てみじかにいえば、「よろこぶこと『も』ならずや」、この意味である。)

徂徠の「不亦説乎」の解釈はおもしろいのですが、しかし本当にそういう意味だろうか?と、確かに疑問に感じます。
「不亦~乎」の形ではありませんが、『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」を、「古の聖王がそうであるように王もまた仁義があるばかりです」と解釈する教科書や参考書がありますが、それに近い考え方のようにも思えます。

『助辞鵠』は、さらに「或人ノ訣ニ、『不亦ト用ウルハ、下ノ乎字ニ応シテ反語トナル』ト云モ疎ナル説ナリ」と、「不亦」が「乎」と呼応して反語になるとする説を批判しています。
これは定かではないのですが、さかのぼること80年以上も前の伊藤東涯の説に対するものではないかと思います。
伊藤東涯は、『操觚字訣』という書を著していますが、そこには反語の記述はなく、『用字格』の方にそれらしい記述がありました。

不亦ハ不其不既ト同キヿニテ下ニ乎字ノ應アリテ不亦樂乎タノシムト云意ナリ
ソノ餘何レモ此通リナリ
亦不ハキコユル通リ解ニヲヨハズ

(「不亦」は、「不其」「不既」と同じことであって、下に「乎」の字の呼応があって、「不亦楽乎」、楽しむという意味である。
その他は、どれもこの通りである。
「亦不」は、聞こえるとおりで、解釈に及ばない。)

『助辞鵠』の批判がこれを指しているなら、この批判は当たらない。
伊藤東涯は、何も「不亦」が「乎」と呼応すると言っているのではなくて、「不其~乎」「不既~乎」などと同じで、「不亦~乎」は反語の形をとって、その実、「亦~」の意味であると述べているわけですから。


それにしても、江戸期の学者たちが、字義の真実をめぐって、(もちろん時代は離れているのですが)議論を戦わしているのは、敬服すべきことです。
「不亦~乎」は「なんと~ではないか」と感嘆・詠嘆で訳す習慣になっているなどと、いいかげんなことでは済ませない姿勢が、今の時代にもほしいものです。

私は、「惣体ヨリ旁子ク及フノ義」と捉えた河北景楨の解釈を、「亦」の働きを考えていく上で、意味があるように思えています。
ただ河北景楨が、「なんと亦~ではないかや」と解しているのがひっかかります。
そもそもこの形を「なんと~ではないか」と訳した最初の人は誰なのでしょうか?

「不亦~乎」は本当に感嘆・詠嘆を表すか?

(内容:「なんと~ではないか」という感嘆文だとされる「不亦~乎」について、本当にそういう意味であるかどうかを考察する。)

『論語』は、高等学校の定番教材です。
1年生に対して、そろそろ『論語』の授業もしなければならないし、このブログでは項羽と劉邦の「語法注解」の後には、『論語』を取り扱おうとも思っています。

「語法注解」では、教科書によく採られる教材について考えるのですが、まずはなんと言っても「学而」篇の冒頭です。

・子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(論語・学而)
(▼子曰はく、「学んで時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。」と。
(▽先生が、「学んでしかるべき時にそれを復習するのは、『不亦説乎』。友人が遠くから来てくれるのは、『不亦楽乎』。人が理解してくれなくても不平に思わないのは、『不亦君子乎』」とおっしゃった。)

「学」や「時」「習」などの語義については、なにしろ『論語』の研究は古来なされてきたわけですから、実にもう様々な解釈があります。
そういうのを本当のところはどうなのだろう?と考えてみるのも楽しいのですが、私的にはやはり文構造と語法が気になります。
そうです、最初に引っかかったのは「不亦説乎」「不亦楽乎」「不亦君子乎」に見られる「不亦~乎」の意味です。

この「不亦~乎」の形は、従来日本では「なんと~ではないか」という詠嘆・感嘆の句形とされます。
つまり、「なんと喜ばしいではないか」「なんと楽しいではないか」「なんと君子ではないか」と解釈するわけです。
しかし、「不亦~乎」が、なぜ詠嘆・感嘆の意味を表すのでしょうか。
というよりも、そもそも「不亦~乎」は本当に詠嘆・感嘆を表すのでしょうか。

「不亦~乎」は、頻繁に出てくるので、生徒にも注意喚起する形です。
「なんと~ではないか」と訳すんだ、覚えとけ!と、学校や予備校でやっておられるのではないかと思います。
しかし、なぜそういう意味を表すのかについて、きちんと説明されることはおそらくないのではないでしょうか。

たいていの漢文の語法について述べた書籍には「なんと~ではないか」という詠嘆の表現として済まされています。

江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)には、次のように書かれています。

反語専用の慣用句。「亦」はここでは語気を婉曲に、おだやかにするために添えた語。「不…乎」で反対の構文となり、「不亦…乎」で「なんと…ではないか」と、感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣。

最後の「感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣」というのは微妙な表現で、本来はそうではないという意味がこめてあるのでしょうか。
この形は反語で、「亦」は語気を婉曲にする語というのですから、本来は感嘆・同意ではなく「…ではないか」の意だというのが趣旨なのかもしれません。

加地伸行氏の『漢文法基礎』(増進会出版1977)には、「不亦~乎」の形について、

「なんと…ではないか」の意味で、反語形であって詠嘆的な肯定を表す。

と書いてあります。

また、『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、「不亦―乎」の項を設け、

「亦」は、ふつう「AハBナリ。Cモ亦タBナリ」のように、「CもまたAと同様にBだ」と、二つのものが同じであるときに用いる助字である。この働きから「モ亦タ」と呼ばれる。しかし、右の構文の時には、「なんと」のような感嘆の意味を表す。「乎」が反語を表し、「不亦―乎」全体で「なんと…ではないか」と訳してしまう、一種の慣用句である。

と説明してあります。

しかし、残念ながら、どの書物にも、なにゆえ「亦」が感嘆の意味を表すのかまでは説明されていません。

高等学校の先生方が、漢文の語法に疑問を感じられた時に、教科書の指導書や漢文句法のサブテキスト以外に参照するものとしては、こういったところが代表格かなと思うのですが、どうも「不亦~乎」の形についてきちんと説明したものは見当たらないようです。
そして、詠嘆・感嘆で訳すことになっているのだと、「習慣」で説明されてしまっています。
これではやっぱり「不亦~乎」の形は感嘆・詠嘆を表し「なんと~ではないか」と訳す、覚えとけ!になってしまいます。

それではあまりに…と思いますので、私的に考えてみたいと思います。

そもそも「亦」の字は、人の体を表す「大」の字のわきにあたる部分に「ハ」を付けて示したもので、要するに「わき」を表す字だと言われています。
藤堂明保氏は、『漢字語源辞典』(學燈社1965)に、「亦」の字について、次のように説明しています。

「ワキ」とは,中間に一定の隔たりをおいて,・―・型に配置されたものであるから,・―・―・―型の一部分である。同じ物や状態が,間をおいてもう一度生じる場合の副詞に,亦を用いるのは,その派生義である。

また、加藤常賢氏は『漢字の起源』(角川書店1970)で、

「亦」を「また」の意に用いたのは、この字にある意とすれば、左右両腋あるところから来たかと思う。

と述べています。

してみると、対称もしくは反復がこの字の原義ということになるでしょうか。

以前のエントリーでも述べたように、「亦」は、「則」に対する語です。
「太郎好桃」(太郎が桃を好む)に対して、「花子則不好」(花子は好まない)であれば、「花子は」と太郎の場合とは異なることを分けて説く。
それに対して、「花子亦好桃」(花子も桃を好む)であれば、事情が同じであると合わせて説く。
これを松下大三郎氏は、『標準漢文法』(紀元社1927)で、分説・合説の別をもって説明しています。

また、「則」は前句の内容を受けて、「その場合は」と法則に基づいて結果を示します。
つまり、「好桃則可」(桃を好めばよい)に対して、「不好桃則不可」(桃を好まなければよくない)となります。
それに対して、「亦」は「その場合もやはり」で、「好桃則可。不好桃亦可」(桃を好む場合はよい。桃を好まない場合もやはりよい)となります。
「亦」の働きは基本的にこの2つであることは、これも松下氏に学びながら、前エントリーで述べたものです。

さらに、これも前エントリーで述べましたが、「亦」が同類の比較内容を前にとらない例も多々見られます。
『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」([亦]仁義があるばかりです)は、誰か別のひとに仁義があったと前に述べられているわけではありませんし、蘇軾の『范増論』の「嗚呼、増亦人傑也哉」(ああ、范増[亦]人傑であるなあ)も、范増以外の人傑が前に示されていたわけではありません。
これについても松下氏は、これらの「亦」が、色々と考えをめぐらした中から、これというものを示して、「やはり~だ」と示す語だと説いています。
「王は(私が色々思う中でも)やはり仁義があるばかりです」だし、「范増は(私が色々思う中でも)やはり人傑であるなあ」となるわけです。

私は、「不亦~乎」についても、松下氏がすでに試みているように、これらの「亦」の基本義を踏まえた検討をすべきであると思います。

「不亦~乎」の形については、清朝中期の学者、王引之が『経伝釈詞』で、

凡言「不亦」者、皆以「亦」為語助。「不亦説乎」、不説乎也。「不亦楽乎」、不楽乎也。「不亦君子乎」、不君子乎也。趙岐注『孟子・滕文公』篇曰、「不亦者、亦也」、失之。
(▽すべて「不亦」というのは、みな「亦」は語助である。「不亦説乎」は不説乎(よろこばしくないか)である。「不亦楽乎」は不楽乎(たのしくないか)である。「不亦君子乎」は不君子乎(君子ではないか)である。趙岐が『孟子・滕文公』篇に「不亦は、亦である」と注しているのは、誤っている)

と述べ、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず意味がないとします。
しかし事実として「不説乎」「不楽乎」「不君子乎」とは表現されていないのであって、「亦」を語助と切って捨てるのは軽率な判断だと思います。
後漢末の趙岐は、「不亦~乎」が「不~乎」という反語により結果的に「亦~」になると、きちんと述べているのであって、私的にはむしろ王引之の説の方がうさんくさい気がします。
趙岐は「亦~」の「亦」の義について述べていませんが、たとえば「不亦楽乎」は「亦楽」であって、「楽」であるとも述べていません。
つまり「亦」には何らかの意味があるということでしょう。

「不亦~乎」が「不以~乎」「不已~乎」に通じるとする説もあります。
この場合「以」「已」は、「はなはだ」の意であって、「とても~ではないか」と解するわけです。
『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)で、楚永安は、王引之の説を引用して、

这个说法很对。在这个格式中,“亦”没有实在意义,只有加强语气的作用。
(この説は正しい。この形式中では,「亦」にははっきりした意味がなく,ただ語気を強める働きがあるだけである。)

とした上で、さらに、

“不亦……乎”有时也作“无亦……乎”、“不以……乎”、“不已……乎”。
(「不亦……乎」は「無亦……乎」、「不以……乎」、「不已……乎」に作ることもある。)

と述べています。
例証として、『孟子・滕文公下』に、

・後車数十乗、従者数百人、以伝食於諸侯、不以泰乎。
(▽後車数十台、従者数百人を連ねて、諸侯を回って諸侯の間を食禄を受けるのは、はなはだ驕っているのではないか)

とあるのが、『論衡・刺孟』では「不亦泰乎」に作っていることを指摘しています。
この場合の「以」「已」は「はなはだ」の意とされるので、さしずめ楚永安は「不亦~乎」は「はなはだ~ではないか」の意味だと解したことになります。

楚永安に限らず、古典の同じ部分の引用が異なる漢字を用いていることを証左として、2つの漢字の字義を同じとする類推はよくある手法です。
ですが、近い意味を表すことは示し得ても、それをもって全く同じと断ずることは危険ではないでしょうか。
暗誦に基づく誤写の可能性もあるでしょうし、場合によっては記述者の意識が字を変えてしまうことだってあるのではと思うからです。
なにしろ「刺孟」は孟子批判なのですから。

尹君は『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)において、「不亦」の構造を次のように説明しています。

固定词组。作用相当于一个副词,常“不亦……乎”连用,表委婉的反问语意,可译为“岂不”、“难道不”。“不”是“岂不”的省略;“亦”是语气助词。
(固定詞組。働きは一つの副詞に相当し、常に「不亦……乎」の形で続けて用いられ、婉曲的な反語の意味を表し、「豈不」(~ではないか)、「難道不」(~ではあるまいか)と訳せる。「不」は「豈不」の省略であり、「亦」は語気助詞である。)

として、いくつか例を挙げた上で、さらに、

按:这类句式,也有不省“岂”的,如《史记・蔡泽列传》:“闳夭事文王,周公辅成王也,岂不亦忠圣乎?”《三国志:魏武帝纪》:“夫人孝于其亲者,岂不亦忠于君乎?”
(思うに、この種の句式は、『史記・蔡沢列伝』の「閎夭が文王に仕え、周公が成王を輔佐したのは、忠聖ではないか?」や、『三国志・魏志・武帝紀』の「自分の父母に対して孝である者は、君に対しても忠ではないか?」のように、「豈」が省略されないこともある。)

と述べています。

つまり、尹君は、「不亦~乎」は「豈不亦~乎」の省略形だとするわけです。
ですが、省略形というのなら「豈不亦~乎」の形も「不亦~乎」と同じぐらいの例がありそうなものですが、私の手元にある分の資料で検索しても、「不亦~乎」が1000例以上見つかるのに対して、「豈不亦~乎」はわずかに11例に過ぎません。
もちろん他の資料も探せば見つかるでしょうが、おおむね「豈不亦~乎」の用例数が「不亦~乎」の100分の1程度だというのは変わらないでしょう。
したがって、「不亦~乎」が「豈不亦~乎」の「豈」を省略したものだというのは説得力のない説明になってしまいます。

しかし、そのこととは別に、「豈不亦~乎」の例があるというのは、「不亦~乎」の意味を考える上で、鍵になるように思います。

高等学校の教科書や参考書等では、「豈」は反語を表す用法を主として、疑問や感嘆・詠嘆を表すこともあると紹介されます。
感嘆・詠嘆の場合なら、「豈不悲乎」は「なんと悲しいではないか」として、「豈不~乎」で「なんと~ではないか」と訳しています。
しかし、松下氏が説くように、「豈」はそのような語義の語ではなく、疑いをもって自身で反省してみたり、相手に反省を促してみる語だと思います。
すなわち「どうか?」「どうであろう?」と問いかけてみるのです。
「豈不悲乎」なら、「どうであろう悲しくないか?」です。
だから「豈不亦忠乎」というのは、「どうであろうやはり忠義ではないか?」であって、「なんと忠義ではないか」の意ではないでしょう。

「不亦~乎」の前に「豈」を置き得るのは、「豈」も「亦」も反省を背景にもつ語だからだと思います。
「色々考えてみて、どうであろう(豈)、やはり(亦)~」というのは、自然な思考の流れではないでしょうか。
世のいわゆる感嘆・詠嘆の「不亦~乎」の形の前に、「豈」は置き得ても、「何不亦~乎」「安不亦~乎」の形をとる例が一切見られないのも、「豈」が「何」「安」と語義の異なる語だからでしょう。

結論として、「不亦~乎」の意味は、「亦」の基本義に照らして考えればよいのではないかと思います。
 
■「不亦~乎」の意味■

「不亦~乎」は「やはり~ではないか」の意味。

たとえば、「不亦説乎」は、「亦説」((色々考えて)やはり喜ばしい)を否定の形で問いかけたもので、「『やはり喜ばしい』ではないか」という意味。
「不亦説乎」は「亦説」と相手に婉曲的に伝えるための反語表現。感嘆や詠嘆を表す表現ではないであろう。
孔子は、弟子たちに対して、「学んで、しかるべき時に復習するのは、やはり喜ばしいことではないかね?」と、語りかけたのでしょう。
「なんと喜ばしいではないか!」と主張したのではないと思います。

最後に、解恵全等編の『古書虚詞通解』に、次のように述べられています。

“亦”主要用作副词,表示类同,与今“也”字相当,有时可译为又。此条列义项大多为随文释义,不确。这大约是因为“亦”与今语“也”字一样,类同的两方面经常是只说出一方面,另一方面隐而不现。如“学而时习之,不亦说乎?”实际是说“学而时习之”不也和其他令人喜悦之事一样令人喜悦吗?另外,“亦”还常常兼有加强语气的作用,大多也可以译为“也”。
(「亦」は主に副詞として用いられ、ほぼ同じであることを示し、今の「也」の字に相当する、「又」と訳せることもある。これらの「亦」の意味条項は多くが文にしたがって解釈したもので、確かではない。これはおそらく「亦」が現代語の「也」と同じであるために、ほぼ同じである二方面のことについて、ただ一方面だけを述べて、別の一方面は隠れて現れない。たとえば、「学而時習之、不亦説乎」なら、実際には「学んで時にこれを復習する」のは、その他の人喜ばせることと同様に、人を喜ばせるのではないか?」と述べているのである。他に、「亦」はよく語気を強める働きもあるが、多くはやはり「也」と訳してよい。)

この二方面というのは、言葉にされたものとされていないものとを指すのですが、私も、思うところが複数あって、その中から「やはり」と提出するのが「亦」の働きだと思います。
そして、それはすでに昭和の初めに松下大三郎氏が『標準漢文法』で分析されていたことに他ならず、実に驚くべきことではないでしょうか。

「亦」の字に限らず、ともすれば虚詞の解釈について、文脈から解釈して、その字義以外の意味や働きがあると説かれることは、各虚詞詞典にありがちのことだと思います。
その点、『古書虚詞通解』は、概ね慎重な態度で分析を行っているので好感がもてます。

我々は、わずか1字の義についても、もう少し慎重に考えなければなりません。

「所」の用法を生徒にどう説明するか?

(内容:理解の難しい結構助詞「所」の用法を、高等学校の生徒にわかりやすくどう説明するか考える。)

これまで何度も漢文における「所」の働きについて考えてきました。
しかしそれを実際の学校現場で、生徒にどのように説明すればわかりやすいか…が難関でした。

「所」の働きを先生方はどのように説明しておられるのでしょうか。
たとえば「所A」(Aする所)の形で、「Aするもの」という名詞句を作るのだ!その説明で終わりということもあるのかもしれません。
しかし、それはただの丸覚えでしかなく、また実のところ汎用性のある説明ではありません。

・「所B」(Bする所)→Bするもの
・「A所B」(AのBする所)→「AがBするもの」
・「A所BC」(AのBする所のC)→「AがBするC」
このようにパターンを細かく分けて、「入試問題によく出てくる形だから覚えとけ!」というのも、ある意味実戦的ではあるものの、やっぱりただの丸覚えでしょう。

いったいどう説明すれば生徒には「なるほど…」と得心してもらえるのでしょうか。
私どもがいくら文法的に理解を進めても、それをきちんと生徒にわかりやすく説明できなければ、それは教材研究とはいえないと思うのです。

そこでまだまだ不十分ではあるけれども、ここで生徒向けの説明をきちんと考えてみたいと思います。

「所」の用いられ方については、大きく2つの場合に分かれます。
第1に、「所+動詞」の構造をとるもの。
第2に、「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造をとるもの。
この2者について、学校の授業向けの説明を考えましょう。

1.「所+動詞」について。

動詞が後にとる目的語には、動詞の性質によって、いくつかの種類があります。
①「何をどうする」の何
②「何にどうする・何でどうする・何からどうする…」などの何
③「何とどうする」の何

かなり曖昧な説明ですが…
①は、たとえば「食桃」(桃を食らふ)の「桃」、「愛人」(人を愛す)の「人」がそれになります。
②は、「之市」(市に之(ゆ)く)の「市」、「出国」(国を出づ・国より出づ)の「国」がそれです。
③は、「称賢」(賢なりと称す)の「賢」、「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の「孟嘗君」がそれです。

これらの性質の違いは、松下大三郎氏がすでに昭和の初めに『標準漢文法』で明快に見極めておられたのですが、現在の学校現場では単に訓読の読みの違いから「目的語」「補語」という用語で説明されるだけになってしまいました。
一方、述語の後に置かれる名詞成分を賓語として、従来の「目的語」と「補語」を区別しない立場、すなわち中国語文法における賓語を「目的語」と総称する立場を私もとってきましたが、述語動詞とその後の「目的語」との関係をきちんと見極めることはとても重要だと考えます。

話が横道にそれてしまいましたので、本題に戻します。

上記①の場合。
「食」(食べる)や「愛」(愛する)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所食」(食らふ所)、「所愛」(愛する所)となります。
つまり、これが「所A」(Aする所)です。
この「所」は後の動詞の不定の客体ですから、「ソレを食べる」のソレ、「ソレを愛する」のソレになります。
したがって、「所食」は「食べるソレ」、「所愛」は「愛するソレ」という意味を表すことになります。
これを学校現場や、入試問題対策の説明としては、「食べるもの」「愛するひと」とするわけです。

ここで大事なことは、「食桃」と「所食」は、「桃」と「所」が等しく「食」の客体を表してはいますが、「桃」が桃以外の何物でもなく限定的であるのに対して、「所」にはその限定性がなく、あくまで不定の客体「ソレ」であるということです。
つまり、食べるものならなんでもよく、桃でも肉でも野菜でもいいわけです。

これが「我」などの修飾を受ければ「我所食」(我の食らふ所)となって、「私の+食べるソレ」→「私の+食べるもの」となります。
また、「所食」が「桃」を修飾すれば、「食べるソレである+桃」→「食べる桃」という意味になります。

次に②の場合。
「之」(ゆク)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所之」(之く所)となります。
「之」は「どこに行く」の「どこ」を客体にとる動詞ですから、「所之」の「所」は、ソレというよりはソコになります。
つまり、「所之」(之く所)とは「行くソコ」という意味を表すことになります。

これを学校現場では「行く場所」として、「『所』が後に自動詞をとる場合、場所を表す名詞句を作る」と説明しているのです。
これはそう丸覚えするというよりも、「之」(ゆク)という動詞が後に「どこ(に)」という目的語をとる性質をもっているからなのだと理解することが大切だと思います。

もちろんこの場合も、「所之」(之く所)を「之市」(市場へ行く)と比較して、限定性がないことを了解しなければなりません。
行く場所ならどこでもいいわけで、市場と限定されるものではありません。

そして③の場合。
「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の客体は「号する」ことによって表現される「孟嘗君」ですが、これが「所」の場合なら「所号」(号する所)となります。
つまり「ソレと号する」のソレが客体ですから、「所号」はソレと「号するソレ」になります。
「号孟嘗君」は「孟嘗君」に限定されますが、「所号」はこれと具体的に限定されず、平原君でも春申君でも、状況によってはあり得るわけです。

ただしこの場合、別に事情があります。

そもそも動詞の種類によっては、①②③のうちの1つに限定されず、2つの性質の目的語をとるものがあります。
それは、二重目的語の文(双賓文)といわれる文の述語動詞を思い浮かべていただければ、わかると思います。

たとえば、「与」(あたフ)という動詞は、「何を与える」の「何」、「誰に与える」の「誰」という2種類の目的語をとります。
前者は①に、後者は②にあたります。
「与太郎桃」(太郎に桃を与える)の場合なら、「桃」は①の客体、「太郎」は②の客体です。

したがって、「所与桃」という句は、2種類の意味を表します。
つまり、「所」が①の客体を表すソレなら、「所与桃」は「与えるソレである+桃」すなわち「与える桃」という意味になり、「与ふる所の桃」と読むことになります。

それに対して、「所」が②の客体を表すソレ(→ソノヒト)なら、「所与桃」は「桃を与えるソレ(=ソノヒト)」で、「桃を与えるひと」という意味になり、「桃を与ふる所」と読むことになります。

この違いは、「与」という動詞の性質によって生まれるのですが、このあたりが学校現場だけでなく漢籍の注釈書の中でも混乱していると言わねばなりません。
混乱しているというよりは、あるいは「所」の働きをちゃんと理解していないから生じることなのかもしれません。

上記③に該当する動詞「謂」(いフ)の場合、「謂AB」(AをBと謂ふ)のBもそれにあたります。
「謂」はAとBという2つの客体をとりますが、「所謂~」は「謂ふ所の~」または「~と謂ふ所」と読まれ、多くの場合「~」は客体Bです。
たとえば「我所謂勇」(我の謂ふ所の勇・我の勇と謂ふ所)は「私の+(ソレを)勇というソレ」で、「私が勇というもの」という意味を表しますが、この場合の「所」は③ではなく、①になります。
つまり「所」は「ソレを」というAの方を指しているのです。
これが先に別の事情と述べたものです。

「所+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
 
■「所+動詞」の構造■

①「所」は後に伴う動詞の不定の客体(目的語)を表す名詞句を作る。
②後に伴う動詞はその性質によって、3種類の客体をとるので、「所」がどんな種類の客体を指しているのか見極めなければならない。
③動詞の中には2種類の客体をとるものがあるので、「所」がどちらを指しているのか見極め、それに応じて読み分ける。

2.「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造

この構造には色々ありますが、なんといっても代表的なのは「所以」句です。
これを学校現場では「ゆゑん」と熟して読んで、「~する理由」とか「~する手段」、あるいは「~するためのもの」などと、これも丸覚えです。

たとえば「我所以愛花子」(我の花子を愛する所以)は、「私が花子を愛する理由」と訳せばわかるし、それでいいといえばいいのかもしれません。
しかし、なぜそういう意味を表すのか?と問われて、現場の教師はきちんと説明できるでしょうか。
「理由もくそもない、そういう意味なんだから、覚えろ!」では、授業とも学問とも言えないでしょう。

私的にはこの「所以」を「ゆゑん」と熟して読むから、構造がわからなくなるのだと思います。
「我所以愛花子」を「我の以て花子を愛する所」と読みかえてみましょう。

私は「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造を、「前置詞によって修飾される述語句について、その前置詞の不定の客体を表す名詞句を作る」と説明してみたいと思います。

前置詞すなわち介詞は、もともと動詞ですから、「所+前置詞」の「所」は前置詞の不定の客体を表します。
「以棒叩人」(棒を以て人を叩く)は、「以棒」(棒で)が「叩」(たたく)を修飾し、「棒で人を叩く」という意味を表します。
この「棒」が前置詞「以」の客体(目的語)です。
これを「所」に置き換えると、「所以」となり、「ソレで~するソレ」という意味を表します。

一方述語動詞の前に置かれた前置詞句は、述語を連用修飾するので、「所以叩人」(以て人を叩く所」は、「ソレで」という前置詞句が「(人を)叩く」を修飾することになります。
なおかつ「所以叩人」という句は「以」の不定の客体「所」(ソレ)を表す名詞句になるので、「ソレで人を叩く+ソレ」→「ソレを用いて人を叩くソレ」、すなわち「人を叩くもの・人を叩く道具・人を叩くためのもの」という意味になるのです。

先の「我所以愛花子」(我の以て花子を愛する所)を説明してみましょう。
まず「所以愛花子」は、「ソレで(=ソレを理由に)花子を愛するソレ」です。
したがって、「我所以愛花子」は、「私の+ソレで花子を愛するソレ」となり、つまりは「私が花子を愛する理由」という意味になるわけです。

他に「問所従来」(従りて来たる所を問ふ)なら、こうなります。
まず、「従」を動作行為の起点を表す前置詞とします。
「従」前置詞句は、たとえば「従故郷来」(故郷より来たる)のように、「従」が後に具体的な場所を表す客体をとって、「従故郷」(故郷から)が述語動詞「来」(来る)を修飾します。

この客体を「所」に置き換えると、「所従来」となりますが、「所」は「従」の不定の客体「ソコ」になりますから、「ソコから来るソコ」です。
したがって、「問所従来」は「ソコから来たソコを問う」という意味、つまり「どこから来たのかを問う」という意味になります。

「従故郷来」の「故郷」が限定的であるのに対して、「所従来」は具体的な「どこ」という限定性をもちません。
だから質問に用い得るのです。
この場合、「問所従来」は習慣的に「従りて来たる所を問ふ」と読んでいますが、「より来る所を問ふ」の方が本来の構造というべきでしょうか。

次に、「従」を動作行為の事情や原因理由を表す前置詞とします。
この場合も「所従来」は「ソノ事情で来たソノ事情」「ソノ理由で来たソノ理由」となり、つまり「問所従来」は「どういう事情で来たのかを問う」という意味になります。
これも「所従来」自体は限定性をもちません。

「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
 
■「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造■

・「所+前置詞(=介詞)+動詞」の「所」は、前置詞によって修飾される述語動詞句について、その前置詞の不定の客体そのものを表す。
この説明だけを見ればわかりにくいようですが、用例を示しながら説明すれば、明快になると思います。

たとえば、「漱石枕流」(世説新語)の次の例なら、

・所以枕流、欲洗其耳。(漱石枕流…世説新語)
(▼流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。)

「ソレを理由に流れに枕するソレは」→流れに枕する理由は

となり、「所以枕流」は何かに限定されない「流れに枕する理由内容」になります。
だから述部において、具体的にソレが「欲洗其耳」であると説明されるのです。

韓愈の「師説」の次の例なら、

・師者、所以伝道授業解惑也。
(▼師は、道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。)

「ソノ人によって道を伝え業を授け惑いを解くソノ人」→道を伝え業を授け惑いを解く人

この例はよく「道を伝え、礼楽などの技能を授け、疑問や迷いを解くためのもの(人)である」と訳してありますが、「所」は「ソノ人」そのものを指しており、そこから「~するためのもの・~するための人」と訳すことになるのです。

『孟子』の、夫が外出してはいつもお腹をいっぱいにして帰ってくるのを不審に思った妻の次の例なら、

・其妻問所与飲食者、則尽富貴也。
(▼其の妻与(とも)に飲食する所の者を問へば、則ち尽(ことごと)く富貴なり。)

「ソノ人と飲食するソノ人を問えば」→誰と飲食するのかを問えば

となり、「与」は通常「~と」と読む動作行為を共にする相手を示す前置詞ですが、やはり「所与飲食(者)」は、だれかに限定されない「飲食を共にする相手」を指すことになります。

他にも「所」が後に前置詞を伴う形式はいくつかありますが、同じように説明することができます。


いかがでしょうか。
まだまだ他にもっとわかりやすい説明のしかたがあるかもしれませんが、「所」が後に動詞をとる形、「所」が後に前置詞と動詞をとる形について、こんなふうに生徒に説明してみようと思います。

そんな説明をするよりも、丸暗記させた方が早いというご意見もあるでしょうし、実際その方が効率的かもしれません。
あるいは生徒の状況から、小難しい説明をあえて避けた方がいい場合もあるでしょう。
ですが、どんな場合でも少なくとも授業者は理解しておく必要がある、いつ「なぜですか?」という素朴な問いかけを生徒から向けられても、逃げをはらずに、きちんと考え方の道筋を示せるように。
そんなふうに思います。

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