「所」の用法を生徒にどう説明するか?
- 2021/11/02 07:22
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:理解の難しい結構助詞「所」の用法を、高等学校の生徒にわかりやすくどう説明するか考える。)
これまで何度も漢文における「所」の働きについて考えてきました。
しかしそれを実際の学校現場で、生徒にどのように説明すればわかりやすいか…が難関でした。
「所」の働きを先生方はどのように説明しておられるのでしょうか。
たとえば「所A」(Aする所)の形で、「Aするもの」という名詞句を作るのだ!その説明で終わりということもあるのかもしれません。
しかし、それはただの丸覚えでしかなく、また実のところ汎用性のある説明ではありません。
・「所B」(Bする所)→Bするもの
・「A所B」(AのBする所)→「AがBするもの」
・「A所BC」(AのBする所のC)→「AがBするC」
このようにパターンを細かく分けて、「入試問題によく出てくる形だから覚えとけ!」というのも、ある意味実戦的ではあるものの、やっぱりただの丸覚えでしょう。
いったいどう説明すれば生徒には「なるほど…」と得心してもらえるのでしょうか。
私どもがいくら文法的に理解を進めても、それをきちんと生徒にわかりやすく説明できなければ、それは教材研究とはいえないと思うのです。
そこでまだまだ不十分ではあるけれども、ここで生徒向けの説明をきちんと考えてみたいと思います。
「所」の用いられ方については、大きく2つの場合に分かれます。
第1に、「所+動詞」の構造をとるもの。
第2に、「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造をとるもの。
この2者について、学校の授業向けの説明を考えましょう。
1.「所+動詞」について。
動詞が後にとる目的語には、動詞の性質によって、いくつかの種類があります。
①「何をどうする」の何
②「何にどうする・何でどうする・何からどうする…」などの何
③「何とどうする」の何
かなり曖昧な説明ですが…
①は、たとえば「食桃」(桃を食らふ)の「桃」、「愛人」(人を愛す)の「人」がそれになります。
②は、「之市」(市に之(ゆ)く)の「市」、「出国」(国を出づ・国より出づ)の「国」がそれです。
③は、「称賢」(賢なりと称す)の「賢」、「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の「孟嘗君」がそれです。
これらの性質の違いは、松下大三郎氏がすでに昭和の初めに『標準漢文法』で明快に見極めておられたのですが、現在の学校現場では単に訓読の読みの違いから「目的語」「補語」という用語で説明されるだけになってしまいました。
一方、述語の後に置かれる名詞成分を賓語として、従来の「目的語」と「補語」を区別しない立場、すなわち中国語文法における賓語を「目的語」と総称する立場を私もとってきましたが、述語動詞とその後の「目的語」との関係をきちんと見極めることはとても重要だと考えます。
話が横道にそれてしまいましたので、本題に戻します。
上記①の場合。
「食」(食べる)や「愛」(愛する)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所食」(食らふ所)、「所愛」(愛する所)となります。
つまり、これが「所A」(Aする所)です。
この「所」は後の動詞の不定の客体ですから、「ソレを食べる」のソレ、「ソレを愛する」のソレになります。
したがって、「所食」は「食べるソレ」、「所愛」は「愛するソレ」という意味を表すことになります。
これを学校現場や、入試問題対策の説明としては、「食べるもの」「愛するひと」とするわけです。
ここで大事なことは、「食桃」と「所食」は、「桃」と「所」が等しく「食」の客体を表してはいますが、「桃」が桃以外の何物でもなく限定的であるのに対して、「所」にはその限定性がなく、あくまで不定の客体「ソレ」であるということです。
つまり、食べるものならなんでもよく、桃でも肉でも野菜でもいいわけです。
これが「我」などの修飾を受ければ「我所食」(我の食らふ所)となって、「私の+食べるソレ」→「私の+食べるもの」となります。
また、「所食」が「桃」を修飾すれば、「食べるソレである+桃」→「食べる桃」という意味になります。
次に②の場合。
「之」(ゆク)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所之」(之く所)となります。
「之」は「どこに行く」の「どこ」を客体にとる動詞ですから、「所之」の「所」は、ソレというよりはソコになります。
つまり、「所之」(之く所)とは「行くソコ」という意味を表すことになります。
これを学校現場では「行く場所」として、「『所』が後に自動詞をとる場合、場所を表す名詞句を作る」と説明しているのです。
これはそう丸覚えするというよりも、「之」(ゆク)という動詞が後に「どこ(に)」という目的語をとる性質をもっているからなのだと理解することが大切だと思います。
もちろんこの場合も、「所之」(之く所)を「之市」(市場へ行く)と比較して、限定性がないことを了解しなければなりません。
行く場所ならどこでもいいわけで、市場と限定されるものではありません。
そして③の場合。
「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の客体は「号する」ことによって表現される「孟嘗君」ですが、これが「所」の場合なら「所号」(号する所)となります。
つまり「ソレと号する」のソレが客体ですから、「所号」はソレと「号するソレ」になります。
「号孟嘗君」は「孟嘗君」に限定されますが、「所号」はこれと具体的に限定されず、平原君でも春申君でも、状況によってはあり得るわけです。
ただしこの場合、別に事情があります。
そもそも動詞の種類によっては、①②③のうちの1つに限定されず、2つの性質の目的語をとるものがあります。
それは、二重目的語の文(双賓文)といわれる文の述語動詞を思い浮かべていただければ、わかると思います。
たとえば、「与」(あたフ)という動詞は、「何を与える」の「何」、「誰に与える」の「誰」という2種類の目的語をとります。
前者は①に、後者は②にあたります。
「与太郎桃」(太郎に桃を与える)の場合なら、「桃」は①の客体、「太郎」は②の客体です。
したがって、「所与桃」という句は、2種類の意味を表します。
つまり、「所」が①の客体を表すソレなら、「所与桃」は「与えるソレである+桃」すなわち「与える桃」という意味になり、「与ふる所の桃」と読むことになります。
それに対して、「所」が②の客体を表すソレ(→ソノヒト)なら、「所与桃」は「桃を与えるソレ(=ソノヒト)」で、「桃を与えるひと」という意味になり、「桃を与ふる所」と読むことになります。
この違いは、「与」という動詞の性質によって生まれるのですが、このあたりが学校現場だけでなく漢籍の注釈書の中でも混乱していると言わねばなりません。
混乱しているというよりは、あるいは「所」の働きをちゃんと理解していないから生じることなのかもしれません。
上記③に該当する動詞「謂」(いフ)の場合、「謂AB」(AをBと謂ふ)のBもそれにあたります。
「謂」はAとBという2つの客体をとりますが、「所謂~」は「謂ふ所の~」または「~と謂ふ所」と読まれ、多くの場合「~」は客体Bです。
たとえば「我所謂勇」(我の謂ふ所の勇・我の勇と謂ふ所)は「私の+(ソレを)勇というソレ」で、「私が勇というもの」という意味を表しますが、この場合の「所」は③ではなく、①になります。
つまり「所」は「ソレを」というAの方を指しているのです。
これが先に別の事情と述べたものです。
「所+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
2.「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造
この構造には色々ありますが、なんといっても代表的なのは「所以」句です。
これを学校現場では「ゆゑん」と熟して読んで、「~する理由」とか「~する手段」、あるいは「~するためのもの」などと、これも丸覚えです。
たとえば「我所以愛花子」(我の花子を愛する所以)は、「私が花子を愛する理由」と訳せばわかるし、それでいいといえばいいのかもしれません。
しかし、なぜそういう意味を表すのか?と問われて、現場の教師はきちんと説明できるでしょうか。
「理由もくそもない、そういう意味なんだから、覚えろ!」では、授業とも学問とも言えないでしょう。
私的にはこの「所以」を「ゆゑん」と熟して読むから、構造がわからなくなるのだと思います。
「我所以愛花子」を「我の以て花子を愛する所」と読みかえてみましょう。
私は「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造を、「前置詞によって修飾される述語句について、その前置詞の不定の客体を表す名詞句を作る」と説明してみたいと思います。
前置詞すなわち介詞は、もともと動詞ですから、「所+前置詞」の「所」は前置詞の不定の客体を表します。
「以棒叩人」(棒を以て人を叩く)は、「以棒」(棒で)が「叩」(たたく)を修飾し、「棒で人を叩く」という意味を表します。
この「棒」が前置詞「以」の客体(目的語)です。
これを「所」に置き換えると、「所以」となり、「ソレで~するソレ」という意味を表します。
一方述語動詞の前に置かれた前置詞句は、述語を連用修飾するので、「所以叩人」(以て人を叩く所」は、「ソレで」という前置詞句が「(人を)叩く」を修飾することになります。
なおかつ「所以叩人」という句は「以」の不定の客体「所」(ソレ)を表す名詞句になるので、「ソレで人を叩く+ソレ」→「ソレを用いて人を叩くソレ」、すなわち「人を叩くもの・人を叩く道具・人を叩くためのもの」という意味になるのです。
先の「我所以愛花子」(我の以て花子を愛する所)を説明してみましょう。
まず「所以愛花子」は、「ソレで(=ソレを理由に)花子を愛するソレ」です。
したがって、「我所以愛花子」は、「私の+ソレで花子を愛するソレ」となり、つまりは「私が花子を愛する理由」という意味になるわけです。
他に「問所従来」(従りて来たる所を問ふ)なら、こうなります。
まず、「従」を動作行為の起点を表す前置詞とします。
「従」前置詞句は、たとえば「従故郷来」(故郷より来たる)のように、「従」が後に具体的な場所を表す客体をとって、「従故郷」(故郷から)が述語動詞「来」(来る)を修飾します。
この客体を「所」に置き換えると、「所従来」となりますが、「所」は「従」の不定の客体「ソコ」になりますから、「ソコから来るソコ」です。
したがって、「問所従来」は「ソコから来たソコを問う」という意味、つまり「どこから来たのかを問う」という意味になります。
「従故郷来」の「故郷」が限定的であるのに対して、「所従来」は具体的な「どこ」という限定性をもちません。
だから質問に用い得るのです。
この場合、「問所従来」は習慣的に「従りて来たる所を問ふ」と読んでいますが、「より来る所を問ふ」の方が本来の構造というべきでしょうか。
次に、「従」を動作行為の事情や原因理由を表す前置詞とします。
この場合も「所従来」は「ソノ事情で来たソノ事情」「ソノ理由で来たソノ理由」となり、つまり「問所従来」は「どういう事情で来たのかを問う」という意味になります。
これも「所従来」自体は限定性をもちません。
「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
この説明だけを見ればわかりにくいようですが、用例を示しながら説明すれば、明快になると思います。
たとえば、「漱石枕流」(世説新語)の次の例なら、
・所以枕流、欲洗其耳。(漱石枕流…世説新語)
(▼流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。)
「ソレを理由に流れに枕するソレは」→流れに枕する理由は
となり、「所以枕流」は何かに限定されない「流れに枕する理由内容」になります。
だから述部において、具体的にソレが「欲洗其耳」であると説明されるのです。
韓愈の「師説」の次の例なら、
・師者、所以伝道授業解惑也。
(▼師は、道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。)
「ソノ人によって道を伝え業を授け惑いを解くソノ人」→道を伝え業を授け惑いを解く人
この例はよく「道を伝え、礼楽などの技能を授け、疑問や迷いを解くためのもの(人)である」と訳してありますが、「所」は「ソノ人」そのものを指しており、そこから「~するためのもの・~するための人」と訳すことになるのです。
『孟子』の、夫が外出してはいつもお腹をいっぱいにして帰ってくるのを不審に思った妻の次の例なら、
・其妻問所与飲食者、則尽富貴也。
(▼其の妻与(とも)に飲食する所の者を問へば、則ち尽(ことごと)く富貴なり。)
「ソノ人と飲食するソノ人を問えば」→誰と飲食するのかを問えば
となり、「与」は通常「~と」と読む動作行為を共にする相手を示す前置詞ですが、やはり「所与飲食(者)」は、だれかに限定されない「飲食を共にする相手」を指すことになります。
他にも「所」が後に前置詞を伴う形式はいくつかありますが、同じように説明することができます。
いかがでしょうか。
まだまだ他にもっとわかりやすい説明のしかたがあるかもしれませんが、「所」が後に動詞をとる形、「所」が後に前置詞と動詞をとる形について、こんなふうに生徒に説明してみようと思います。
そんな説明をするよりも、丸暗記させた方が早いというご意見もあるでしょうし、実際その方が効率的かもしれません。
あるいは生徒の状況から、小難しい説明をあえて避けた方がいい場合もあるでしょう。
ですが、どんな場合でも少なくとも授業者は理解しておく必要がある、いつ「なぜですか?」という素朴な問いかけを生徒から向けられても、逃げをはらずに、きちんと考え方の道筋を示せるように。
そんなふうに思います。
これまで何度も漢文における「所」の働きについて考えてきました。
しかしそれを実際の学校現場で、生徒にどのように説明すればわかりやすいか…が難関でした。
「所」の働きを先生方はどのように説明しておられるのでしょうか。
たとえば「所A」(Aする所)の形で、「Aするもの」という名詞句を作るのだ!その説明で終わりということもあるのかもしれません。
しかし、それはただの丸覚えでしかなく、また実のところ汎用性のある説明ではありません。
・「所B」(Bする所)→Bするもの
・「A所B」(AのBする所)→「AがBするもの」
・「A所BC」(AのBする所のC)→「AがBするC」
このようにパターンを細かく分けて、「入試問題によく出てくる形だから覚えとけ!」というのも、ある意味実戦的ではあるものの、やっぱりただの丸覚えでしょう。
いったいどう説明すれば生徒には「なるほど…」と得心してもらえるのでしょうか。
私どもがいくら文法的に理解を進めても、それをきちんと生徒にわかりやすく説明できなければ、それは教材研究とはいえないと思うのです。
そこでまだまだ不十分ではあるけれども、ここで生徒向けの説明をきちんと考えてみたいと思います。
「所」の用いられ方については、大きく2つの場合に分かれます。
第1に、「所+動詞」の構造をとるもの。
第2に、「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造をとるもの。
この2者について、学校の授業向けの説明を考えましょう。
1.「所+動詞」について。
動詞が後にとる目的語には、動詞の性質によって、いくつかの種類があります。
①「何をどうする」の何
②「何にどうする・何でどうする・何からどうする…」などの何
③「何とどうする」の何
かなり曖昧な説明ですが…
①は、たとえば「食桃」(桃を食らふ)の「桃」、「愛人」(人を愛す)の「人」がそれになります。
②は、「之市」(市に之(ゆ)く)の「市」、「出国」(国を出づ・国より出づ)の「国」がそれです。
③は、「称賢」(賢なりと称す)の「賢」、「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の「孟嘗君」がそれです。
これらの性質の違いは、松下大三郎氏がすでに昭和の初めに『標準漢文法』で明快に見極めておられたのですが、現在の学校現場では単に訓読の読みの違いから「目的語」「補語」という用語で説明されるだけになってしまいました。
一方、述語の後に置かれる名詞成分を賓語として、従来の「目的語」と「補語」を区別しない立場、すなわち中国語文法における賓語を「目的語」と総称する立場を私もとってきましたが、述語動詞とその後の「目的語」との関係をきちんと見極めることはとても重要だと考えます。
話が横道にそれてしまいましたので、本題に戻します。
上記①の場合。
「食」(食べる)や「愛」(愛する)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所食」(食らふ所)、「所愛」(愛する所)となります。
つまり、これが「所A」(Aする所)です。
この「所」は後の動詞の不定の客体ですから、「ソレを食べる」のソレ、「ソレを愛する」のソレになります。
したがって、「所食」は「食べるソレ」、「所愛」は「愛するソレ」という意味を表すことになります。
これを学校現場や、入試問題対策の説明としては、「食べるもの」「愛するひと」とするわけです。
ここで大事なことは、「食桃」と「所食」は、「桃」と「所」が等しく「食」の客体を表してはいますが、「桃」が桃以外の何物でもなく限定的であるのに対して、「所」にはその限定性がなく、あくまで不定の客体「ソレ」であるということです。
つまり、食べるものならなんでもよく、桃でも肉でも野菜でもいいわけです。
これが「我」などの修飾を受ければ「我所食」(我の食らふ所)となって、「私の+食べるソレ」→「私の+食べるもの」となります。
また、「所食」が「桃」を修飾すれば、「食べるソレである+桃」→「食べる桃」という意味になります。
次に②の場合。
「之」(ゆク)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所之」(之く所)となります。
「之」は「どこに行く」の「どこ」を客体にとる動詞ですから、「所之」の「所」は、ソレというよりはソコになります。
つまり、「所之」(之く所)とは「行くソコ」という意味を表すことになります。
これを学校現場では「行く場所」として、「『所』が後に自動詞をとる場合、場所を表す名詞句を作る」と説明しているのです。
これはそう丸覚えするというよりも、「之」(ゆク)という動詞が後に「どこ(に)」という目的語をとる性質をもっているからなのだと理解することが大切だと思います。
もちろんこの場合も、「所之」(之く所)を「之市」(市場へ行く)と比較して、限定性がないことを了解しなければなりません。
行く場所ならどこでもいいわけで、市場と限定されるものではありません。
そして③の場合。
「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の客体は「号する」ことによって表現される「孟嘗君」ですが、これが「所」の場合なら「所号」(号する所)となります。
つまり「ソレと号する」のソレが客体ですから、「所号」はソレと「号するソレ」になります。
「号孟嘗君」は「孟嘗君」に限定されますが、「所号」はこれと具体的に限定されず、平原君でも春申君でも、状況によってはあり得るわけです。
ただしこの場合、別に事情があります。
そもそも動詞の種類によっては、①②③のうちの1つに限定されず、2つの性質の目的語をとるものがあります。
それは、二重目的語の文(双賓文)といわれる文の述語動詞を思い浮かべていただければ、わかると思います。
たとえば、「与」(あたフ)という動詞は、「何を与える」の「何」、「誰に与える」の「誰」という2種類の目的語をとります。
前者は①に、後者は②にあたります。
「与太郎桃」(太郎に桃を与える)の場合なら、「桃」は①の客体、「太郎」は②の客体です。
したがって、「所与桃」という句は、2種類の意味を表します。
つまり、「所」が①の客体を表すソレなら、「所与桃」は「与えるソレである+桃」すなわち「与える桃」という意味になり、「与ふる所の桃」と読むことになります。
それに対して、「所」が②の客体を表すソレ(→ソノヒト)なら、「所与桃」は「桃を与えるソレ(=ソノヒト)」で、「桃を与えるひと」という意味になり、「桃を与ふる所」と読むことになります。
この違いは、「与」という動詞の性質によって生まれるのですが、このあたりが学校現場だけでなく漢籍の注釈書の中でも混乱していると言わねばなりません。
混乱しているというよりは、あるいは「所」の働きをちゃんと理解していないから生じることなのかもしれません。
上記③に該当する動詞「謂」(いフ)の場合、「謂AB」(AをBと謂ふ)のBもそれにあたります。
「謂」はAとBという2つの客体をとりますが、「所謂~」は「謂ふ所の~」または「~と謂ふ所」と読まれ、多くの場合「~」は客体Bです。
たとえば「我所謂勇」(我の謂ふ所の勇・我の勇と謂ふ所)は「私の+(ソレを)勇というソレ」で、「私が勇というもの」という意味を表しますが、この場合の「所」は③ではなく、①になります。
つまり「所」は「ソレを」というAの方を指しているのです。
これが先に別の事情と述べたものです。
「所+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
■「所+動詞」の構造■ ①「所」は後に伴う動詞の不定の客体(目的語)を表す名詞句を作る。 ②後に伴う動詞はその性質によって、3種類の客体をとるので、「所」がどんな種類の客体を指しているのか見極めなければならない。 ③動詞の中には2種類の客体をとるものがあるので、「所」がどちらを指しているのか見極め、それに応じて読み分ける。 |
2.「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造
この構造には色々ありますが、なんといっても代表的なのは「所以」句です。
これを学校現場では「ゆゑん」と熟して読んで、「~する理由」とか「~する手段」、あるいは「~するためのもの」などと、これも丸覚えです。
たとえば「我所以愛花子」(我の花子を愛する所以)は、「私が花子を愛する理由」と訳せばわかるし、それでいいといえばいいのかもしれません。
しかし、なぜそういう意味を表すのか?と問われて、現場の教師はきちんと説明できるでしょうか。
「理由もくそもない、そういう意味なんだから、覚えろ!」では、授業とも学問とも言えないでしょう。
私的にはこの「所以」を「ゆゑん」と熟して読むから、構造がわからなくなるのだと思います。
「我所以愛花子」を「我の以て花子を愛する所」と読みかえてみましょう。
私は「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造を、「前置詞によって修飾される述語句について、その前置詞の不定の客体を表す名詞句を作る」と説明してみたいと思います。
前置詞すなわち介詞は、もともと動詞ですから、「所+前置詞」の「所」は前置詞の不定の客体を表します。
「以棒叩人」(棒を以て人を叩く)は、「以棒」(棒で)が「叩」(たたく)を修飾し、「棒で人を叩く」という意味を表します。
この「棒」が前置詞「以」の客体(目的語)です。
これを「所」に置き換えると、「所以」となり、「ソレで~するソレ」という意味を表します。
一方述語動詞の前に置かれた前置詞句は、述語を連用修飾するので、「所以叩人」(以て人を叩く所」は、「ソレで」という前置詞句が「(人を)叩く」を修飾することになります。
なおかつ「所以叩人」という句は「以」の不定の客体「所」(ソレ)を表す名詞句になるので、「ソレで人を叩く+ソレ」→「ソレを用いて人を叩くソレ」、すなわち「人を叩くもの・人を叩く道具・人を叩くためのもの」という意味になるのです。
先の「我所以愛花子」(我の以て花子を愛する所)を説明してみましょう。
まず「所以愛花子」は、「ソレで(=ソレを理由に)花子を愛するソレ」です。
したがって、「我所以愛花子」は、「私の+ソレで花子を愛するソレ」となり、つまりは「私が花子を愛する理由」という意味になるわけです。
他に「問所従来」(従りて来たる所を問ふ)なら、こうなります。
まず、「従」を動作行為の起点を表す前置詞とします。
「従」前置詞句は、たとえば「従故郷来」(故郷より来たる)のように、「従」が後に具体的な場所を表す客体をとって、「従故郷」(故郷から)が述語動詞「来」(来る)を修飾します。
この客体を「所」に置き換えると、「所従来」となりますが、「所」は「従」の不定の客体「ソコ」になりますから、「ソコから来るソコ」です。
したがって、「問所従来」は「ソコから来たソコを問う」という意味、つまり「どこから来たのかを問う」という意味になります。
「従故郷来」の「故郷」が限定的であるのに対して、「所従来」は具体的な「どこ」という限定性をもちません。
だから質問に用い得るのです。
この場合、「問所従来」は習慣的に「従りて来たる所を問ふ」と読んでいますが、「より来る所を問ふ」の方が本来の構造というべきでしょうか。
次に、「従」を動作行為の事情や原因理由を表す前置詞とします。
この場合も「所従来」は「ソノ事情で来たソノ事情」「ソノ理由で来たソノ理由」となり、つまり「問所従来」は「どういう事情で来たのかを問う」という意味になります。
これも「所従来」自体は限定性をもちません。
「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
■「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造■ ・「所+前置詞(=介詞)+動詞」の「所」は、前置詞によって修飾される述語動詞句について、その前置詞の不定の客体そのものを表す。 |
たとえば、「漱石枕流」(世説新語)の次の例なら、
・所以枕流、欲洗其耳。(漱石枕流…世説新語)
(▼流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。)
「ソレを理由に流れに枕するソレは」→流れに枕する理由は
となり、「所以枕流」は何かに限定されない「流れに枕する理由内容」になります。
だから述部において、具体的にソレが「欲洗其耳」であると説明されるのです。
韓愈の「師説」の次の例なら、
・師者、所以伝道授業解惑也。
(▼師は、道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。)
「ソノ人によって道を伝え業を授け惑いを解くソノ人」→道を伝え業を授け惑いを解く人
この例はよく「道を伝え、礼楽などの技能を授け、疑問や迷いを解くためのもの(人)である」と訳してありますが、「所」は「ソノ人」そのものを指しており、そこから「~するためのもの・~するための人」と訳すことになるのです。
『孟子』の、夫が外出してはいつもお腹をいっぱいにして帰ってくるのを不審に思った妻の次の例なら、
・其妻問所与飲食者、則尽富貴也。
(▼其の妻与(とも)に飲食する所の者を問へば、則ち尽(ことごと)く富貴なり。)
「ソノ人と飲食するソノ人を問えば」→誰と飲食するのかを問えば
となり、「与」は通常「~と」と読む動作行為を共にする相手を示す前置詞ですが、やはり「所与飲食(者)」は、だれかに限定されない「飲食を共にする相手」を指すことになります。
他にも「所」が後に前置詞を伴う形式はいくつかありますが、同じように説明することができます。
いかがでしょうか。
まだまだ他にもっとわかりやすい説明のしかたがあるかもしれませんが、「所」が後に動詞をとる形、「所」が後に前置詞と動詞をとる形について、こんなふうに生徒に説明してみようと思います。
そんな説明をするよりも、丸暗記させた方が早いというご意見もあるでしょうし、実際その方が効率的かもしれません。
あるいは生徒の状況から、小難しい説明をあえて避けた方がいい場合もあるでしょう。
ですが、どんな場合でも少なくとも授業者は理解しておく必要がある、いつ「なぜですか?」という素朴な問いかけを生徒から向けられても、逃げをはらずに、きちんと考え方の道筋を示せるように。
そんなふうに思います。