「越在腹心疾」(史記・呉太伯世家)の「在」の意味は?・追記
- 2022/11/11 08:15
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:『史記』呉太伯世家に見られる「越在腹心疾」の「在」の意味について考察する、その3。)
いつものように、拙稿を読んでいただいたN氏がツイッターで、前エントリーの次の箇所につき、説明不足を指摘してくださいました。(いつも本当にありがとうございます。)
「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。
確かにこれでは読んでいただいた方がどういうことなのか、あるいは中井が何を言いたいのかが伝わってきません。
私が何を考えたのかを補足しておこうと思います。
『史記・呉太伯世家』の次の文、
・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。
この「越在腹心疾」が「越は腹心に在るの疾なり」と読まれていることに違和感を感じ、本当にそのような意味であろうかと考えたのが、前2エントリーでした。
しかし、考えを進めた結果、文法的にこの読みを完全否定することはできないと判断しました。
その一方で、「越は腹心に在るの疾なり」という読みにはやはり違和感があり、もしそのような意味なら、もっと明確にそうであるとわかるような表現方法があるのではないかと思ったのです。
つまり「腹心に在る」が「疾」を修飾する形であると一目でわかるような表現形式です。
もしそれが可能なら、『史記』の本文がその形をとらずに「越在腹心疾」であることに、「越は腹心に在るの疾なり」ではなく「越は腹心の疾に在り」と読む可能性がある程度高まるかもしれないと考えたのです。
もちろん可能であったとしても、「越は腹心に在るの疾なり」という読みを否定することはできませんが。
そして「在腹心」が「疾」を修飾して「腹心にある病気」という名詞句を構成するには、「所」や「之」を用いる方法があると考えました。
ところが、「所」を用いて表現すれば、
・越所在腹心疾(越は腹心に在る所の疾なり)
となりますが、この句は少なくとも「越は腹心にある病気」という意味の句にはなりえないのではないでしょうか。
単に「所在」の場合なら、「所」は「在」の客体を表して、「ソコに在るソコ」という意味を表します。
だから「問先生之所在」(先生のソコにいるソコを問う→先生の居場所を問う)などの表現が可能になります。
別の動詞の場合、たとえば「与」(与える)などなら、
・所与桃
の形をとって、この句は2通りの意味を表し得ます。
・「与える桃」という意味の場合 → 与ふる所の桃
これは「所」が「与」という動詞の多動性に対する客体を表して、「ソレを与えるソレである桃」という意味です。
それに対して、
・「桃を与える人」という意味の場合 → 桃を与ふる所
これは「所」が「与」という動詞の依拠性に対する客体を表して、「ソノヒトに桃を与えるソノヒト」という意味になります。
同じ「所与桃」の形をとっても、「所」が「与」の多動性の客体なのか、依拠性の客体なのかによって、表す意味が異なるわけです。
これは文脈でどちらを表しているのか判断しなければならず、「所与桃」の句だけでどちらと決めつけることはできません。
話を「越所在腹心疾」に戻します。
「在」は「A在B」(ABに在り)という意味で用いられ、「在」の客体は場所を表します。
「在」が「与」のように別の客体、たとえば依拠性や生産性に対する客体をとりうる語であれば話は別なのですが、「~を在り」「~と在り」などの用法はないと思うのです。
したがって、「所在」なら「所」は依拠性に対する客体を表して「ソコにある(いる)ソコ」で「ある(いる)場所」という意味になりますが、「所在腹心」(腹心に在る所)となれば、すでに「在」が依拠性に対する客体「腹心」をとっているために、意味をなさなくなります。
だから前エントリーで、「所在腹心+疾」が「腹心にある+病気」という意味にはなり得ないと説明したわけです。
学校の漢文の授業では、「A所BC」(AのBする所のC)を、「AがBするC」、「所BC」(Bする所のC)を「BするC」という意味だと教えていると思います。
それだと「所在腹心+疾」が「所BC」の型にはまるように見えるため、「腹心にある+病気」と解せそうな気がしますが、私は以上の理由から、そのような意味にはならないと考えています。
次に、「越在腹心疾」を「之」を用いて「在腹心之疾」(腹心に在るの疾)とすることで、「腹心に在る病気」という意味を明確にできないかと考えました。
これはたとえば『史記』の「鴻門の会」に見られる「有功之人」(功績のある人)のような形です。
しかし、あらためて「在腹心之疾」を見てみると、「在腹心+之+疾」のつもりが、「在+腹心之疾」のようにも見えてしまうことに気づきました。
これでは「之」を用いても、「越在腹心疾」を「越は腹心の疾に在り」ではなく「越は腹心に在るの疾」だと明確にすることはできません。
結局のところ、「越在腹心疾」を誰が読んでも「越は腹心にある病気である」としか読めない形にはできそうにないというのが私の見解でした。
ただし、私は『史記・呉太伯世家』の「越在腹心疾」自体は、「越は腹心の疾に在り」の意ではないかと思っています。
いつものように、拙稿を読んでいただいたN氏がツイッターで、前エントリーの次の箇所につき、説明不足を指摘してくださいました。(いつも本当にありがとうございます。)
「在腹心」を一つの塊として「疾」を修飾することを示すことができればよいのですが、「在」が依拠性の動詞で、他動性ではないために、「越所在腹心疾」(越は腹心に在る所の疾なり)という表現はできません。
確かにこれでは読んでいただいた方がどういうことなのか、あるいは中井が何を言いたいのかが伝わってきません。
私が何を考えたのかを補足しておこうと思います。
『史記・呉太伯世家』の次の文、
・今越在腹心疾。而王不先而務斉。不亦謬乎。
この「越在腹心疾」が「越は腹心に在るの疾なり」と読まれていることに違和感を感じ、本当にそのような意味であろうかと考えたのが、前2エントリーでした。
しかし、考えを進めた結果、文法的にこの読みを完全否定することはできないと判断しました。
その一方で、「越は腹心に在るの疾なり」という読みにはやはり違和感があり、もしそのような意味なら、もっと明確にそうであるとわかるような表現方法があるのではないかと思ったのです。
つまり「腹心に在る」が「疾」を修飾する形であると一目でわかるような表現形式です。
もしそれが可能なら、『史記』の本文がその形をとらずに「越在腹心疾」であることに、「越は腹心に在るの疾なり」ではなく「越は腹心の疾に在り」と読む可能性がある程度高まるかもしれないと考えたのです。
もちろん可能であったとしても、「越は腹心に在るの疾なり」という読みを否定することはできませんが。
そして「在腹心」が「疾」を修飾して「腹心にある病気」という名詞句を構成するには、「所」や「之」を用いる方法があると考えました。
ところが、「所」を用いて表現すれば、
・越所在腹心疾(越は腹心に在る所の疾なり)
となりますが、この句は少なくとも「越は腹心にある病気」という意味の句にはなりえないのではないでしょうか。
単に「所在」の場合なら、「所」は「在」の客体を表して、「ソコに在るソコ」という意味を表します。
だから「問先生之所在」(先生のソコにいるソコを問う→先生の居場所を問う)などの表現が可能になります。
別の動詞の場合、たとえば「与」(与える)などなら、
・所与桃
の形をとって、この句は2通りの意味を表し得ます。
・「与える桃」という意味の場合 → 与ふる所の桃
これは「所」が「与」という動詞の多動性に対する客体を表して、「ソレを与えるソレである桃」という意味です。
それに対して、
・「桃を与える人」という意味の場合 → 桃を与ふる所
これは「所」が「与」という動詞の依拠性に対する客体を表して、「ソノヒトに桃を与えるソノヒト」という意味になります。
同じ「所与桃」の形をとっても、「所」が「与」の多動性の客体なのか、依拠性の客体なのかによって、表す意味が異なるわけです。
これは文脈でどちらを表しているのか判断しなければならず、「所与桃」の句だけでどちらと決めつけることはできません。
話を「越所在腹心疾」に戻します。
「在」は「A在B」(ABに在り)という意味で用いられ、「在」の客体は場所を表します。
「在」が「与」のように別の客体、たとえば依拠性や生産性に対する客体をとりうる語であれば話は別なのですが、「~を在り」「~と在り」などの用法はないと思うのです。
したがって、「所在」なら「所」は依拠性に対する客体を表して「ソコにある(いる)ソコ」で「ある(いる)場所」という意味になりますが、「所在腹心」(腹心に在る所)となれば、すでに「在」が依拠性に対する客体「腹心」をとっているために、意味をなさなくなります。
だから前エントリーで、「所在腹心+疾」が「腹心にある+病気」という意味にはなり得ないと説明したわけです。
学校の漢文の授業では、「A所BC」(AのBする所のC)を、「AがBするC」、「所BC」(Bする所のC)を「BするC」という意味だと教えていると思います。
それだと「所在腹心+疾」が「所BC」の型にはまるように見えるため、「腹心にある+病気」と解せそうな気がしますが、私は以上の理由から、そのような意味にはならないと考えています。
次に、「越在腹心疾」を「之」を用いて「在腹心之疾」(腹心に在るの疾)とすることで、「腹心に在る病気」という意味を明確にできないかと考えました。
これはたとえば『史記』の「鴻門の会」に見られる「有功之人」(功績のある人)のような形です。
しかし、あらためて「在腹心之疾」を見てみると、「在腹心+之+疾」のつもりが、「在+腹心之疾」のようにも見えてしまうことに気づきました。
これでは「之」を用いても、「越在腹心疾」を「越は腹心の疾に在り」ではなく「越は腹心に在るの疾」だと明確にすることはできません。
結局のところ、「越在腹心疾」を誰が読んでも「越は腹心にある病気である」としか読めない形にはできそうにないというのが私の見解でした。
ただし、私は『史記・呉太伯世家』の「越在腹心疾」自体は、「越は腹心の疾に在り」の意ではないかと思っています。