「所従来」の意味は?
- 2018/11/05 14:53
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:『桃花源記』に見られる「問所従来」の意味について考察する。)
陶淵明の有名な『桃花源記』について、勉強熱心な同僚から質問を受けました。
「問所従来」の「従来」はどう説明されるのですか?
「どこから来たのか」という意味であろうことはわかった上での質問で、なんとなくわかったではなく、きちんと語法的にどう説明されるのかを理解したいという問いかけです。
こういう真面目な問いには、いい加減に答えるわけにはいきません。
見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。
(漁人を見て、乃ち大いに驚き、従(よ)りて来たる所を問ふ。具(つぶさ)に之に答ふ。)
「従来」の「従」はおそらく介詞であろうと思っていたのですが、確かめたわけではありません。
また、「従来」という句は、現在日本でも「これまで・以前から今まで」という異なる意味で用いられています。
この際、きちんと調べてみようと思いました。
まず、「従来」という句を各種の虚詞詞典で調べてみました。
定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)には、次のように書かれています。
由介词“从”和助词“来”构成。
(介詞“従”と助詞“来”により構成される。)
副词
用在谓语前,表示事态从过去一直延续下来。可译为“一向”,或仍作“从来”。
(謂語の前で用いられ,事態が過去からずっと続くことを表す。“一向”と訳せる,またはそのまま“従来”とする。)
「従」は介詞となっていますが、しかしこれはいわゆる「従来」の意味です。
『桃花源記』で用いられている用法についての説明がないか、他の虚詞詞典や語法書にあたってみますが、「従来」の項目では見当たりません。
念のため、『漢語大詞典』の記述を確認してみました。
(1) 亦作“從徠”。來路;由來;來源。
(“従徠”にも作る。道筋、由来、出所。)
(2) 歷來;向來。
(従来、今まで。)
(3) 從前;原來。
(以前、もともと。)
『桃花源記』の「従来」はもちろん(1)に相当します。
(2)と(3)が並記されているので、語法的にも同じ扱いなのでしょうが、その語法的な説明はありません。
Web上ではどのように説明されているか探してみると、とあるサイトで、
问他是从哪里儿来的。
と訳した上で、次のように語義が説明されていました。
从来:从……地方来。
まあ、現代語訳というのは、必ずしも古典語法に忠実とは限らないのですが、語義の説明から見ると、このサイトは「従」を介詞と解しています。
さて、これから先どう考えていけばいいのか考えあぐねながら、いったん小休止して、帰宅の途につきましたが、その途上、ふと気づきました。
これまで「従来」にこだわって調べてきましたが、「来」は本来動詞でしょうから、実詞を含む形の見出しにはなっていないのではないか。
一方「所」は結構助詞ですから、「従」が介詞なら、「所従」の形で説明されているのではないかと。
そこで、帰宅してから「所従」の形について調べてみることにしました。
すると、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)に、「所由……」の項があり、「所自……」「所从……」の形が並記されていました。
“所从……”一般也是表示起始的处所或时间。例如:
(“所従……”は、普通、開始の場所や時間を表す。たとえば、)
⑫楚人有涉江者,其剣自舟中墜於水,遽契其舟曰:“是吾剣之所従墜。”(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字。「坠于水」を「墜於水」に改む
――楚国有个人渡江,他的剑从船上掉到水里,就赶紧在船上刻个记号,说:“这就是我的剑掉下去的地方。”
(楚国に河を渡る人がいて、彼の剣が船の上から水中に落ちたので、急いで船の上で印を刻み、「ここが私の剣が落ちた所だ。」と言った。)
⑬嗚呼哀哉!禍所従来矣!(《史記・魏其武安侯列伝》)…原文簡体字
――唉,可悲啊!这就祸患产生的根源。
(ああ、悲しい!これが災いが生まれた根本原因だ。)
⑭故郊祀社稷,所従来尚矣。(《漢書・郊祀志上》)…原文簡体字
――所以祭祀社稷,由来的时间很古了。
(だから社稷を祀るのは、由来とする時が古いのだ。)
「所従」に類する表現に「所自」「所由」が見られるからには、「従」は「自」「由」と同じく介詞だと考えてよいように思います。
そこで、『桃花源記』の「問所従来」のような表現が、「所自」に見られないか探してみることにしました。
・尽於酒肉入於鼻口矣、而何足以知其所自来。(荘子・徐無鬼)
((あなたがした息子の人相の見立ては、)酒肉が鼻や口に入るということに尽きているが、どうしてその酒肉がどうやって来るのかまではわかっているといえようか。)
・馬望所自来、悲鳴不已。(捜神記・巻十四)
(馬はやって来た方角をはるか見て、悲しげに鳴いてやまなかった。)
どうも「所従来」や「所自来」には、単純に「どこから来たかということ」以外に「どうやって来たかということ」という意味があるようですね。
さて、結構助詞「所」が後に介詞や介詞句の修飾を帯びた動詞をとることがあるのかどうかについては、もう少し調べてみる必要があると思いました。
すると、『古代汉语虚词词典』の「所」の項にきちんと述べられていました。
助詞
二、“所”字先与介词相结合,然后再与动词组成名词性短语,在句中表示跟动词相关的原因、处所、时间以及动作行为赖以进行的手段或涉及的对象等。可根据上下文义灵活译出。
(“所”字は、まず介詞と結びついた後で、さらに動詞と名詞句を作り、文中で動詞と関係する原因、場所、時間、ならびに動作行為のよりどころとなる手段や関係する対象などを表す。前後の文意に基づき、弾力的に訳す。)
(1)長勺之役,曹劌問所以戦於荘公。(《国語・鲁語上》)…原文簡体字。「战于庄公」を「戦於荘公」に改む
――所以战:依靠什么跟齐国作战。
(長勺の役で、曹劌は何をよりどころとして斉国と戦うのかを荘公に尋ねた。)
(2)此嬰之所為不敢受也。(《晏子春秋・内篇雑下》)…原文簡体字
――这就是我晏婴不敢接受的原因。
(これが私晏嬰が受けようとしない原因です。)
(3)是吾剣之所従墜。(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字
――这就是我的剑在这里坠落的地方。
(これが私の剣がここで落ちた場所だ。)
(4)蒙問所従来。(《史記・西南夷列伝》)…原文簡体字
――唐蒙问从何处而来。
(唐蒙はどこから来たのかを尋ねた。)
(5)夫水所以載舟,亦所以覆舟。(《文選・張衡:東京賦》)…原文簡体字
――水可以凭借它把船浮起,也可以凭借它使船覆没。
(水はそれをよりどころとして船を浮かせることができ、それをよりどころとして船を転覆水没させることもできる。)
(6)所与遊皆当世名人。(《韓昌黎集・柳子厚墓志銘》)…原文簡体字
――跟他交往的都是当代的名人。
(彼と交際する人はみな当代の著名な人である。)
「所従来」の例も含まれており、まさにこれですね。
考えてみれば、「所以」も「それにより~するもの」という意味が元々ですから、この形に該当するわけです。
では、次に「問所従来」は「問所従[どこ]来」([どこ]から来たのかを問う)の省略形なのかという問題について調べてみることにしました。
というのは、『漢詩漢文解釈講座 第13巻 文章Ⅰ』(昌平社1995)の「桃花源記」注にそう記してあると耳にしたからです。
さっそくあたってみると、「問所従来」について、次のように書かれていました。
どこから来たのかと尋ねた。経路を聞いている。「所」は元来名詞であるが、そのあとに動詞をとり、その連語全体が名詞に等しい機能を持つようになったもの、英語の関係代名詞に似た働きをする助字。「従来」は「従何処来=何処(いづく)より来たる」の省略した形。
なるほど、確かに省略形と書かれています。
省略形なら省略されない形もあるだろうと、検索にかけてみました。
・其家問之、従何処来。(抱朴子・内篇・袪惑)
(その家は彼に、どこから来たのかと問うた。)
・笑問客従何処来。(賀知章「回郷偶書」)
(笑って客人はどこから来たのかと問うた。)
10例ほど見つかりました。
これだとなるほどと思うわけですが、「従何処来」の例があるということは証明できても、「所従来」が「所従何処来」の省略形かどうかは別の問題です。
そこで、今度は「所従何処来」を検索にかけてみましたが、私の検索システムではヒットしませんでした。
さらに『文淵閣 四庫全書』で用例を探してみましたが、見当たりませんでした。
念のため、「所自何処来」の例も探してみましたが、私の検索システムでも『四庫全書』でも見つかりませんでした。
このことが用例が全く存在しないということの証明にはなりませんが、省略されない形が見つからない以上、少なくとも『漢詩漢文解釈講座』の説明は当を得ない不用意なものだとわかります。
もう少し慎重にと考え、「所従何来」や「所自何来」の例も探してみましたが、やはり見つかりませんでした。
また、「問所従来」の結構助詞「所」を用いずに「問従来」や「問自来」という表現があるかどうかについても調べてみましたが、少なくとも私の検索システムでは用例は皆無でした。
このことから、「どこから来たのか」を表す表現には、問い方により2つの種類があり、また特徴がわかります。
・相手に対して問いかける言葉としての「どこから来たのか」は「従何処来」が受け持つ。
・客観的に「どこから来たのかを尋ねる」のような表現は「問所従来」や「問所自来」が受け持つ。
・「問所従[処所代詞]来」の形はない。
・「問従来」「問自来」という表現もない。
では、なぜたとえば「所従何処来」という表現がないのでしょうか。
これについては、あくまで想像ですが、「所従来」がたとえば「どこから来たのか」という意味であることは古代の中国人にとって自明のことだったからであろうと思います。
結構助詞「所」は、後にとる動詞が自動詞の場合、「~する場所」という名詞句を作ることが多いのですが、「従来」(~から来る)を場所の意味で名詞化すれば、「~から来た場所」となり、それはとりもなおさず「スタートした場所」という起点を表すことになります。
その表現に「どこ」にあたる「何処」を加えることは、「どこから来た場所」という名詞句を作ることになり、意味不明の句になってしまいます。
一方、「所」を欠いて「問従来」にしてしまうと、場所を表す名詞句を作る結構助詞の働きがないために、「~から来たを問う」という、これまた意味不明の文になってしまいます。
前に述べた特徴はこのように説明されるのではないでしょうか。
ちなみに、直接言葉として「どこから来たのか」と相手に問いかける時、「何処来」(何れの処より来たる)という表現の他に、先に例示したように介詞を用いて「従何処来」という表現もあるのですが、この「どこから来たのか」を「所」によって名詞化する必要は全くありません。
介詞「従」や「自」は、時や場所の起点を表すだけでなく、動作行為のよりどころや根拠、来源を表して「~により・~に基づいて」などの他の意味を表すこともあります。
「所従来」が単に「どこから来たのか」という場所だけでなく、「どうやって来たのか」「どのようにしてこんな状況になったのか」などの意味を表すのは、根拠となる物事に基づいて現在の状況が起きていることを踏まえた表現でしょう。
・及問所従来、乃因土豪献果、妻偶食之、遂得茲病。(太平広記172)
(どうしてこんなことになったのかを聞くと、土地の豪族が果実を献上し、妻がたまたまそれを食べて、この病気になったという。)
この例の場合、「所従来」が病気になったいきさつを問うているのは明らかです。
本来「どこから来たのか」という意味を表す「所従来」が「病気がどこから来たのか」=「病気のそもそもの原因となった事実は何によるのか」という意味をも表し得るのは容易に理解できるでしょう。
・王問所従来。左右曰、王黙存耳。(列子・周穆王)
(王はこれまでどうであったかを問うた。側近たちは、王は黙ってじっとしておられただけですと言った。)
周の穆王が幻術使いによって、天帝の住まいに連れて行かれ、何十年もの時を過ごしたかと思った後に、今度は太陽も月も河も海もない世界に行き、混乱して幻術使いに頼んで元の世界に戻してもらうと、自分が座っている場所は以前と変わらず、時もほとんど経っていないことがわかった…そこで王は「所従来」を問うたのです。
これが「どこから来たのか」という意味でないことは、側近たちの答えからも明らかで、「これまでどうであったか」という意味と解せざるを得ません。
しかし、これは「どうやってここへ来たのか」=「これまでどのようないきさつで現状に至っているのか」という流れで考えることができます。
「所従来」のこれらの用法は、他にも多く見られますが、介詞「従」がもつ意味が時や場所の起点だけではなく、動作行為のよりどころや根拠、来源をも表し得ることによるのでしょう。
『桃花源記』の「見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。」の「所従来」も、おそらく「どこから来たのか」という意味ではないでしょう。
それなら「具」(すべてのことを一切合切)答える必要はないわけで、起点だけ答えれば十分です。
漁人は、「どこから来たのか」は言うに及ばず、桃花源に来ることになった事情のすべてを人々に語ったはずです。
(この記事には、もっと明快に説明した続編があります。)
陶淵明の有名な『桃花源記』について、勉強熱心な同僚から質問を受けました。
「問所従来」の「従来」はどう説明されるのですか?
「どこから来たのか」という意味であろうことはわかった上での質問で、なんとなくわかったではなく、きちんと語法的にどう説明されるのかを理解したいという問いかけです。
こういう真面目な問いには、いい加減に答えるわけにはいきません。
見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。
(漁人を見て、乃ち大いに驚き、従(よ)りて来たる所を問ふ。具(つぶさ)に之に答ふ。)
「従来」の「従」はおそらく介詞であろうと思っていたのですが、確かめたわけではありません。
また、「従来」という句は、現在日本でも「これまで・以前から今まで」という異なる意味で用いられています。
この際、きちんと調べてみようと思いました。
まず、「従来」という句を各種の虚詞詞典で調べてみました。
定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)には、次のように書かれています。
由介词“从”和助词“来”构成。
(介詞“従”と助詞“来”により構成される。)
副词
用在谓语前,表示事态从过去一直延续下来。可译为“一向”,或仍作“从来”。
(謂語の前で用いられ,事態が過去からずっと続くことを表す。“一向”と訳せる,またはそのまま“従来”とする。)
「従」は介詞となっていますが、しかしこれはいわゆる「従来」の意味です。
『桃花源記』で用いられている用法についての説明がないか、他の虚詞詞典や語法書にあたってみますが、「従来」の項目では見当たりません。
念のため、『漢語大詞典』の記述を確認してみました。
(1) 亦作“從徠”。來路;由來;來源。
(“従徠”にも作る。道筋、由来、出所。)
(2) 歷來;向來。
(従来、今まで。)
(3) 從前;原來。
(以前、もともと。)
『桃花源記』の「従来」はもちろん(1)に相当します。
(2)と(3)が並記されているので、語法的にも同じ扱いなのでしょうが、その語法的な説明はありません。
Web上ではどのように説明されているか探してみると、とあるサイトで、
问他是从哪里儿来的。
と訳した上で、次のように語義が説明されていました。
从来:从……地方来。
まあ、現代語訳というのは、必ずしも古典語法に忠実とは限らないのですが、語義の説明から見ると、このサイトは「従」を介詞と解しています。
さて、これから先どう考えていけばいいのか考えあぐねながら、いったん小休止して、帰宅の途につきましたが、その途上、ふと気づきました。
これまで「従来」にこだわって調べてきましたが、「来」は本来動詞でしょうから、実詞を含む形の見出しにはなっていないのではないか。
一方「所」は結構助詞ですから、「従」が介詞なら、「所従」の形で説明されているのではないかと。
そこで、帰宅してから「所従」の形について調べてみることにしました。
すると、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)に、「所由……」の項があり、「所自……」「所从……」の形が並記されていました。
“所从……”一般也是表示起始的处所或时间。例如:
(“所従……”は、普通、開始の場所や時間を表す。たとえば、)
⑫楚人有涉江者,其剣自舟中墜於水,遽契其舟曰:“是吾剣之所従墜。”(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字。「坠于水」を「墜於水」に改む
――楚国有个人渡江,他的剑从船上掉到水里,就赶紧在船上刻个记号,说:“这就是我的剑掉下去的地方。”
(楚国に河を渡る人がいて、彼の剣が船の上から水中に落ちたので、急いで船の上で印を刻み、「ここが私の剣が落ちた所だ。」と言った。)
⑬嗚呼哀哉!禍所従来矣!(《史記・魏其武安侯列伝》)…原文簡体字
――唉,可悲啊!这就祸患产生的根源。
(ああ、悲しい!これが災いが生まれた根本原因だ。)
⑭故郊祀社稷,所従来尚矣。(《漢書・郊祀志上》)…原文簡体字
――所以祭祀社稷,由来的时间很古了。
(だから社稷を祀るのは、由来とする時が古いのだ。)
「所従」に類する表現に「所自」「所由」が見られるからには、「従」は「自」「由」と同じく介詞だと考えてよいように思います。
そこで、『桃花源記』の「問所従来」のような表現が、「所自」に見られないか探してみることにしました。
・尽於酒肉入於鼻口矣、而何足以知其所自来。(荘子・徐無鬼)
((あなたがした息子の人相の見立ては、)酒肉が鼻や口に入るということに尽きているが、どうしてその酒肉がどうやって来るのかまではわかっているといえようか。)
・馬望所自来、悲鳴不已。(捜神記・巻十四)
(馬はやって来た方角をはるか見て、悲しげに鳴いてやまなかった。)
どうも「所従来」や「所自来」には、単純に「どこから来たかということ」以外に「どうやって来たかということ」という意味があるようですね。
さて、結構助詞「所」が後に介詞や介詞句の修飾を帯びた動詞をとることがあるのかどうかについては、もう少し調べてみる必要があると思いました。
すると、『古代汉语虚词词典』の「所」の項にきちんと述べられていました。
助詞
二、“所”字先与介词相结合,然后再与动词组成名词性短语,在句中表示跟动词相关的原因、处所、时间以及动作行为赖以进行的手段或涉及的对象等。可根据上下文义灵活译出。
(“所”字は、まず介詞と結びついた後で、さらに動詞と名詞句を作り、文中で動詞と関係する原因、場所、時間、ならびに動作行為のよりどころとなる手段や関係する対象などを表す。前後の文意に基づき、弾力的に訳す。)
(1)長勺之役,曹劌問所以戦於荘公。(《国語・鲁語上》)…原文簡体字。「战于庄公」を「戦於荘公」に改む
――所以战:依靠什么跟齐国作战。
(長勺の役で、曹劌は何をよりどころとして斉国と戦うのかを荘公に尋ねた。)
(2)此嬰之所為不敢受也。(《晏子春秋・内篇雑下》)…原文簡体字
――这就是我晏婴不敢接受的原因。
(これが私晏嬰が受けようとしない原因です。)
(3)是吾剣之所従墜。(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字
――这就是我的剑在这里坠落的地方。
(これが私の剣がここで落ちた場所だ。)
(4)蒙問所従来。(《史記・西南夷列伝》)…原文簡体字
――唐蒙问从何处而来。
(唐蒙はどこから来たのかを尋ねた。)
(5)夫水所以載舟,亦所以覆舟。(《文選・張衡:東京賦》)…原文簡体字
――水可以凭借它把船浮起,也可以凭借它使船覆没。
(水はそれをよりどころとして船を浮かせることができ、それをよりどころとして船を転覆水没させることもできる。)
(6)所与遊皆当世名人。(《韓昌黎集・柳子厚墓志銘》)…原文簡体字
――跟他交往的都是当代的名人。
(彼と交際する人はみな当代の著名な人である。)
「所従来」の例も含まれており、まさにこれですね。
考えてみれば、「所以」も「それにより~するもの」という意味が元々ですから、この形に該当するわけです。
では、次に「問所従来」は「問所従[どこ]来」([どこ]から来たのかを問う)の省略形なのかという問題について調べてみることにしました。
というのは、『漢詩漢文解釈講座 第13巻 文章Ⅰ』(昌平社1995)の「桃花源記」注にそう記してあると耳にしたからです。
さっそくあたってみると、「問所従来」について、次のように書かれていました。
どこから来たのかと尋ねた。経路を聞いている。「所」は元来名詞であるが、そのあとに動詞をとり、その連語全体が名詞に等しい機能を持つようになったもの、英語の関係代名詞に似た働きをする助字。「従来」は「従何処来=何処(いづく)より来たる」の省略した形。
なるほど、確かに省略形と書かれています。
省略形なら省略されない形もあるだろうと、検索にかけてみました。
・其家問之、従何処来。(抱朴子・内篇・袪惑)
(その家は彼に、どこから来たのかと問うた。)
・笑問客従何処来。(賀知章「回郷偶書」)
(笑って客人はどこから来たのかと問うた。)
10例ほど見つかりました。
これだとなるほどと思うわけですが、「従何処来」の例があるということは証明できても、「所従来」が「所従何処来」の省略形かどうかは別の問題です。
そこで、今度は「所従何処来」を検索にかけてみましたが、私の検索システムではヒットしませんでした。
さらに『文淵閣 四庫全書』で用例を探してみましたが、見当たりませんでした。
念のため、「所自何処来」の例も探してみましたが、私の検索システムでも『四庫全書』でも見つかりませんでした。
このことが用例が全く存在しないということの証明にはなりませんが、省略されない形が見つからない以上、少なくとも『漢詩漢文解釈講座』の説明は当を得ない不用意なものだとわかります。
もう少し慎重にと考え、「所従何来」や「所自何来」の例も探してみましたが、やはり見つかりませんでした。
また、「問所従来」の結構助詞「所」を用いずに「問従来」や「問自来」という表現があるかどうかについても調べてみましたが、少なくとも私の検索システムでは用例は皆無でした。
このことから、「どこから来たのか」を表す表現には、問い方により2つの種類があり、また特徴がわかります。
・相手に対して問いかける言葉としての「どこから来たのか」は「従何処来」が受け持つ。
・客観的に「どこから来たのかを尋ねる」のような表現は「問所従来」や「問所自来」が受け持つ。
・「問所従[処所代詞]来」の形はない。
・「問従来」「問自来」という表現もない。
では、なぜたとえば「所従何処来」という表現がないのでしょうか。
これについては、あくまで想像ですが、「所従来」がたとえば「どこから来たのか」という意味であることは古代の中国人にとって自明のことだったからであろうと思います。
結構助詞「所」は、後にとる動詞が自動詞の場合、「~する場所」という名詞句を作ることが多いのですが、「従来」(~から来る)を場所の意味で名詞化すれば、「~から来た場所」となり、それはとりもなおさず「スタートした場所」という起点を表すことになります。
その表現に「どこ」にあたる「何処」を加えることは、「どこから来た場所」という名詞句を作ることになり、意味不明の句になってしまいます。
一方、「所」を欠いて「問従来」にしてしまうと、場所を表す名詞句を作る結構助詞の働きがないために、「~から来たを問う」という、これまた意味不明の文になってしまいます。
前に述べた特徴はこのように説明されるのではないでしょうか。
ちなみに、直接言葉として「どこから来たのか」と相手に問いかける時、「何処来」(何れの処より来たる)という表現の他に、先に例示したように介詞を用いて「従何処来」という表現もあるのですが、この「どこから来たのか」を「所」によって名詞化する必要は全くありません。
介詞「従」や「自」は、時や場所の起点を表すだけでなく、動作行為のよりどころや根拠、来源を表して「~により・~に基づいて」などの他の意味を表すこともあります。
「所従来」が単に「どこから来たのか」という場所だけでなく、「どうやって来たのか」「どのようにしてこんな状況になったのか」などの意味を表すのは、根拠となる物事に基づいて現在の状況が起きていることを踏まえた表現でしょう。
・及問所従来、乃因土豪献果、妻偶食之、遂得茲病。(太平広記172)
(どうしてこんなことになったのかを聞くと、土地の豪族が果実を献上し、妻がたまたまそれを食べて、この病気になったという。)
この例の場合、「所従来」が病気になったいきさつを問うているのは明らかです。
本来「どこから来たのか」という意味を表す「所従来」が「病気がどこから来たのか」=「病気のそもそもの原因となった事実は何によるのか」という意味をも表し得るのは容易に理解できるでしょう。
・王問所従来。左右曰、王黙存耳。(列子・周穆王)
(王はこれまでどうであったかを問うた。側近たちは、王は黙ってじっとしておられただけですと言った。)
周の穆王が幻術使いによって、天帝の住まいに連れて行かれ、何十年もの時を過ごしたかと思った後に、今度は太陽も月も河も海もない世界に行き、混乱して幻術使いに頼んで元の世界に戻してもらうと、自分が座っている場所は以前と変わらず、時もほとんど経っていないことがわかった…そこで王は「所従来」を問うたのです。
これが「どこから来たのか」という意味でないことは、側近たちの答えからも明らかで、「これまでどうであったか」という意味と解せざるを得ません。
しかし、これは「どうやってここへ来たのか」=「これまでどのようないきさつで現状に至っているのか」という流れで考えることができます。
「所従来」のこれらの用法は、他にも多く見られますが、介詞「従」がもつ意味が時や場所の起点だけではなく、動作行為のよりどころや根拠、来源をも表し得ることによるのでしょう。
『桃花源記』の「見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。」の「所従来」も、おそらく「どこから来たのか」という意味ではないでしょう。
それなら「具」(すべてのことを一切合切)答える必要はないわけで、起点だけ答えれば十分です。
漁人は、「どこから来たのか」は言うに及ばず、桃花源に来ることになった事情のすべてを人々に語ったはずです。
(この記事には、もっと明快に説明した続編があります。)