「人之可使為不善」の「之」の働き
- 2018/03/06 22:17
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:孟子の湍水の説「人之可使為不善、其性亦猶是也」の「之」の働きについて考察する。)
『孟子』湍水の説について、最後の部分の読みがおかしいという話を前エントリーに書きましたが、本題は文の構造です。
人之可使為不善、其性亦猶是也。
この「之」の字の働きが気になります。
これについて、最近古典中国語文法に基づいた解説が充実した教科書会社S社の指導書は、次のように説明しています。
「之」は主述関係の間に置かれて名詞句を作る用法。「人に不善を行わせることができる」意の文を「人に不善を行わせることができること」という名詞句にすることで、文の主語にしている。
「之」が主謂間に置かれて文の独立性を取り消し名詞句を作るというのは、基本的な結構助詞としての働きであり、妥当な解説だと思います。
この指導書にはさらに次のような補足があります。
「之」を倒置の助字として「可使人為不善」(原文は訓点を施す)の倒置とする説もあるが、「使」の使役の対象が「之」によって前置される形は他に例を見ないため、本書では採らなかった。
およそ用例があるかないかについて、ある場合は一つ示すことによってあることを証明できるし、多く示せばより強く証明できるのですが、用例がないということを示すことは非常に困難です。
古典漢文の資料は膨大な量ですから、十分と思えるだけの量の資料に一通りあたってみて用例が見つからなければ、少なくとも一般によく用いられる用法ではないということが言えるばかりです。
そこで本当に「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形は他に例を見ない」というS社の指摘が正しいか否か、私も探してみることにしました。
すると、次の用例が見つかりました。
彼為善之、小人之使為国家、菑害並至、雖有善者、亦無如之何矣。(礼記・大学)
(彼が政治をよくしようとしても、小人に国家を治めさせれば、災いが一斉にやって来て、善政があっても、これをどうしようもないのである。)
後漢の鄭玄注には、
彼、君也。君将欲以仁義善其政、而小人治其国家之事、患難猥至、雖云有善、不能救之、以其悪之已著也。
(「彼」とは、君主である。君主が仁義によってその政治をよくしようとしても、小人がその国家のことを治めれば、災いがみだりにやってきて、善があっても、その悪がすでに著しいためにこれを救うことはできないのである。)
とあります。
すなわち、鄭玄は「小人之使為国家」を「小人に国家を治めさせる」と解釈していることが明らかです。
この箇所については、別に解釈もあるようですが、原文を文字通り見て一番すっきりしているのは鄭玄の解釈だと思います。
とすれば、少なくとも使役の対象が「之」を後に伴って使役動詞「使」に前置されている例はあるということになり、S社の記述はその説明内容はともかくとして、当を得ないものになります。
しかし、用例があったことが、そのまま「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形」の存在を証明するものではありません。
なぜなら、使役対象が「之」の字を伴い使役動詞に前置されているからといって、「之」の字が倒置を示す標識の働きをしているとは言い切れないからです。
『全釈漢文大系2 孟子』(集英社1973)に、宇野精一は次のように書いています。
なお、終わりの「人之可使為不善」の句は、通常「人の不善を為さしむ可き」と読むが、この「之」は強めの助辞で倒装法とみられるから、「人をして不善を……」、または「人にして不善を……」と読みたい。
「強めの助辞で倒装法とみられる」というのは、おそらく「之」が倒置を示す標識として働く結構助詞であるということをいうのだと思います。
S社の「『之』を倒置の助字として『可使人為不善』の倒置とする説もあるが」という記述が、宇野精一の説明を念頭に置いたものかどうかはわかりませんが、その方向性にあることは間違いありません。
さて、本当のところはどうなのでしょうか。
仮に「使人為不善」を認めたとして、この文は使役の兼語文です。
「(施事主語)+謂語『使』+賓語『人』」((施事主語)が人を使役する)という文と、「施事主語『人』+謂語『為』+賓語『不善』」(人が善くないことをする)という文が、兼語「人」を介して一文化しているわけです。
ここで前文の施事主語は不明ですから、無主語文の形をとっています。
また、「使」は動詞ですから、助動詞「可」の目的語となり、「可使人為不善」という表現が可能になります。
これを一般化して、「使BCD」(BヲシテDをCセシム)、つまり「BにDをCさせる」という文において、Bが「使」に前置される例について調べてみることにしました。
つまり、兼語Bが文頭に置かれる例ということになります。
すると、杨伯峻・何乐士『古汉语语法及其发展(修订本)』(语文出版社2001,607頁)に次のような記述が見つかりました。
特殊兼语:兼语作受事主语的兼语句
在语言中,常有将强调的成分置于句首的状况。兼语句中有时为了强调兼语而把它前置,作为句子的受事主语,下文的兼语一般不再重复出现。如:
(特殊兼語:兼語が受事主語となる兼語句
言語においては,強調する成分を文頭に置くことはよくある。兼語文で時に兼語を強調するためにそれを前置して、文の受事主語とする、後の兼語は普通重複しては現れない。たとえば:)
(1)民,可使( )由之,不可使( )知之。(论语・泰伯)
(民はこれ(=政治)に頼らせるべきで、これを知らせるべきではない。)
(2)雍也,可使( )南面。(又,雍也)
(雍は、南面させることができる(=君主として政治をおこなわせることができる)。)
(3)夫颛顼、昔者先王以( )为东蒙主。(又,季氏)
(そもそも顓臾の国は、昔先王がそれを蒙山の祭祀を司るものとさせた。)
(4)方寸之木,可使( )高於岑楼。(孟子・万章下)
(一寸四方の木は、尖った山より高くさせることができる。)
(3)の例は介詞句なので、兼語文といえるかどうかは怪しいと思いますが、(1)(2)(4)については、いずれも本来( )の位置にあるべき兼語が、倒置されて文頭に置かれたものです。
注意すべきは、このいずれにおいても、文頭に置かれた兼語の後に、倒置を示す標識「之」が置かれていない点です。
つまり、「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形」があるかないかは別にして、使役対象、すなわち兼語が「之」を伴わずに文頭に置かれる例はいくつも見られるわけです。
言い換えれば、兼語を文頭に置くとき、倒置を示す「之」は必要がないということです。
楊伯峻と何楽士は、この倒置された兼語を受事主語とはっきり言い切っていますが、私もそう思います。
つまり、兼語はすでに文の主語という成分になっているわけです。
したがって、「人可使為不善。」は「人は善くないことをさせることができる」という意味の文として成立することになります。
さて、ではなぜ孟子の原文が「人之可使為不善」と「之」の字が用いられているかというと、S社の説明の通りで、主語「人」と謂語「可使」の間に結構助詞として「之」の字を置くことで、文の独立性を取り消して名詞句を作り、「人が(=人に)善くないことをさせることができること」という名詞句となって、文の主語の位置に置きやすくなっているわけです。
つまりS社の説明は概ね正しいのですが、兼語が文頭に置かれて受事主語となるという説明がないために、やや不親切なものになってしまっているのでした。
『全釈漢文大系2 孟子』が、「之」を用いた倒装法と考えているとしたら、誤りだと思います。
『孟子』湍水の説について、最後の部分の読みがおかしいという話を前エントリーに書きましたが、本題は文の構造です。
人之可使為不善、其性亦猶是也。
この「之」の字の働きが気になります。
これについて、最近古典中国語文法に基づいた解説が充実した教科書会社S社の指導書は、次のように説明しています。
「之」は主述関係の間に置かれて名詞句を作る用法。「人に不善を行わせることができる」意の文を「人に不善を行わせることができること」という名詞句にすることで、文の主語にしている。
「之」が主謂間に置かれて文の独立性を取り消し名詞句を作るというのは、基本的な結構助詞としての働きであり、妥当な解説だと思います。
この指導書にはさらに次のような補足があります。
「之」を倒置の助字として「可使人為不善」(原文は訓点を施す)の倒置とする説もあるが、「使」の使役の対象が「之」によって前置される形は他に例を見ないため、本書では採らなかった。
およそ用例があるかないかについて、ある場合は一つ示すことによってあることを証明できるし、多く示せばより強く証明できるのですが、用例がないということを示すことは非常に困難です。
古典漢文の資料は膨大な量ですから、十分と思えるだけの量の資料に一通りあたってみて用例が見つからなければ、少なくとも一般によく用いられる用法ではないということが言えるばかりです。
そこで本当に「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形は他に例を見ない」というS社の指摘が正しいか否か、私も探してみることにしました。
すると、次の用例が見つかりました。
彼為善之、小人之使為国家、菑害並至、雖有善者、亦無如之何矣。(礼記・大学)
(彼が政治をよくしようとしても、小人に国家を治めさせれば、災いが一斉にやって来て、善政があっても、これをどうしようもないのである。)
後漢の鄭玄注には、
彼、君也。君将欲以仁義善其政、而小人治其国家之事、患難猥至、雖云有善、不能救之、以其悪之已著也。
(「彼」とは、君主である。君主が仁義によってその政治をよくしようとしても、小人がその国家のことを治めれば、災いがみだりにやってきて、善があっても、その悪がすでに著しいためにこれを救うことはできないのである。)
とあります。
すなわち、鄭玄は「小人之使為国家」を「小人に国家を治めさせる」と解釈していることが明らかです。
この箇所については、別に解釈もあるようですが、原文を文字通り見て一番すっきりしているのは鄭玄の解釈だと思います。
とすれば、少なくとも使役の対象が「之」を後に伴って使役動詞「使」に前置されている例はあるということになり、S社の記述はその説明内容はともかくとして、当を得ないものになります。
しかし、用例があったことが、そのまま「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形」の存在を証明するものではありません。
なぜなら、使役対象が「之」の字を伴い使役動詞に前置されているからといって、「之」の字が倒置を示す標識の働きをしているとは言い切れないからです。
『全釈漢文大系2 孟子』(集英社1973)に、宇野精一は次のように書いています。
なお、終わりの「人之可使為不善」の句は、通常「人の不善を為さしむ可き」と読むが、この「之」は強めの助辞で倒装法とみられるから、「人をして不善を……」、または「人にして不善を……」と読みたい。
「強めの助辞で倒装法とみられる」というのは、おそらく「之」が倒置を示す標識として働く結構助詞であるということをいうのだと思います。
S社の「『之』を倒置の助字として『可使人為不善』の倒置とする説もあるが」という記述が、宇野精一の説明を念頭に置いたものかどうかはわかりませんが、その方向性にあることは間違いありません。
さて、本当のところはどうなのでしょうか。
仮に「使人為不善」を認めたとして、この文は使役の兼語文です。
「(施事主語)+謂語『使』+賓語『人』」((施事主語)が人を使役する)という文と、「施事主語『人』+謂語『為』+賓語『不善』」(人が善くないことをする)という文が、兼語「人」を介して一文化しているわけです。
ここで前文の施事主語は不明ですから、無主語文の形をとっています。
また、「使」は動詞ですから、助動詞「可」の目的語となり、「可使人為不善」という表現が可能になります。
これを一般化して、「使BCD」(BヲシテDをCセシム)、つまり「BにDをCさせる」という文において、Bが「使」に前置される例について調べてみることにしました。
つまり、兼語Bが文頭に置かれる例ということになります。
すると、杨伯峻・何乐士『古汉语语法及其发展(修订本)』(语文出版社2001,607頁)に次のような記述が見つかりました。
特殊兼语:兼语作受事主语的兼语句
在语言中,常有将强调的成分置于句首的状况。兼语句中有时为了强调兼语而把它前置,作为句子的受事主语,下文的兼语一般不再重复出现。如:
(特殊兼語:兼語が受事主語となる兼語句
言語においては,強調する成分を文頭に置くことはよくある。兼語文で時に兼語を強調するためにそれを前置して、文の受事主語とする、後の兼語は普通重複しては現れない。たとえば:)
(1)民,可使( )由之,不可使( )知之。(论语・泰伯)
(民はこれ(=政治)に頼らせるべきで、これを知らせるべきではない。)
(2)雍也,可使( )南面。(又,雍也)
(雍は、南面させることができる(=君主として政治をおこなわせることができる)。)
(3)夫颛顼、昔者先王以( )为东蒙主。(又,季氏)
(そもそも顓臾の国は、昔先王がそれを蒙山の祭祀を司るものとさせた。)
(4)方寸之木,可使( )高於岑楼。(孟子・万章下)
(一寸四方の木は、尖った山より高くさせることができる。)
(3)の例は介詞句なので、兼語文といえるかどうかは怪しいと思いますが、(1)(2)(4)については、いずれも本来( )の位置にあるべき兼語が、倒置されて文頭に置かれたものです。
注意すべきは、このいずれにおいても、文頭に置かれた兼語の後に、倒置を示す標識「之」が置かれていない点です。
つまり、「『使』の使役の対象が『之』によって前置される形」があるかないかは別にして、使役対象、すなわち兼語が「之」を伴わずに文頭に置かれる例はいくつも見られるわけです。
言い換えれば、兼語を文頭に置くとき、倒置を示す「之」は必要がないということです。
楊伯峻と何楽士は、この倒置された兼語を受事主語とはっきり言い切っていますが、私もそう思います。
つまり、兼語はすでに文の主語という成分になっているわけです。
したがって、「人可使為不善。」は「人は善くないことをさせることができる」という意味の文として成立することになります。
さて、ではなぜ孟子の原文が「人之可使為不善」と「之」の字が用いられているかというと、S社の説明の通りで、主語「人」と謂語「可使」の間に結構助詞として「之」の字を置くことで、文の独立性を取り消して名詞句を作り、「人が(=人に)善くないことをさせることができること」という名詞句となって、文の主語の位置に置きやすくなっているわけです。
つまりS社の説明は概ね正しいのですが、兼語が文頭に置かれて受事主語となるという説明がないために、やや不親切なものになってしまっているのでした。
『全釈漢文大系2 孟子』が、「之」を用いた倒装法と考えているとしたら、誤りだと思います。