「盍」はなぜ「何不」なのか?
- 2018/09/10 22:29
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:「盍」は「何不」二字分の働きをすると言われるが、なぜそのような意味を表すのかについて調査、考察する。)
「盍」は、高等学校の漢文では、1年生で再読文字として学習する字です。
再読しなければ読みようのない字で、高等学校の現場では「何不」二字分の働きをする字として扱います。
その際、「何不」の音は「カ/フ」、「盍」の音も「カフ」だから、一字で代用したのだという説明をすることが多いのではないでしょうか。
巷の参考書を見てみましょう。
『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、
「何不―」(何不(カフ))の二字を「盍(カフ)」(コウ)一字で代用した用法。疑問詞で、疑問・反語の働きをし、勧誘や詰問の意味を表す。「蓋(コウ)」と書くこともある。
とあります。
『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)を開いてみると、
一字で「どうして…ないのか」という意味を持っているので、その意味を生かして「なんゾ…ざル」と二度読む再読文字。
なお「盍(カフ)」は「何不(カフ)」の二字の音を一字に表したものであり、否定を表す〔p,m-〕系の音ではない。
とあります。
この〔p,m-〕系の音というのは、同書「否定(打消)の形」に説明があり、
話し言葉で否定したり打ち消したりする意味を表す時には、上下の唇をやや突き出して息や音を出したり、突き出した両唇を鳴らすようにしたりしていた。これらの音は、主として〔p〕系や〔m-〕系で表すことができる。
と、藤堂明保『漢字語源辞典』の推定音を下敷きにして、例を挙げながらかなり詳しく説明されています。
いずれにしても、「何不」二字の働きをしているというわけで、これが現場教育でも引用されているのでしょう。
「蓋」「闔」も同様で、これらも「何不」二字の働きをしていると説明されます。
しかし、いかにももっともらしい説明ではあるけれども、拭いきれない疑問がわいてきます。
「盍」にせよ「蓋」にせよ、確かに「何不」の意味を表すのですが、一方で「盍不~」という用例も実際に見られます。
・子張問於満苟得曰、盍不為行。(荘子・盗跖)
(子張が満苟得に問うた、どうして行いを修めないのか。→行いを改めるべきだ。)
・中婦諸子謂宮人、盍不出従乎。(管子・戒)
(宮中の女官を取り締まるものが女官たちに言った、どうして宮中を出てご主人様に随行しないのか。→随行するべきだ。)
・苟有過、盍不早正。(宋史・胡宿列伝)
(もし過ちがあるなら、どうして早く正さないのか。→早く正すべきだ。)
・我故人子、盍不過我。(新唐書・沈伝師列伝)
(私の旧友の子だ、どうして私を訪問しないのか。→私を訪問するべきだ。)
これらの例に用いられる「盍」を「何不」とみなすことは勿論無理で、これは単独に「なんゾ」と読み慣わしています。
二字分の働きをする語のことを兼詞(縮約語)といいますが、「盍」は兼詞だが、「盍不」の形では兼詞ではなく反語の語気副詞だというのは、それで簡単に見分けが付くわけですから合理的だといえば合理的ですが、どこか釈然としません。
そこでいくつか虚詞詞典を見てみることにしました。
まず、定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)。
副词
一、“盍”用于谓语前,表示反问,义为“何不”。可译作“为什么不”、“怎么不”。
(“盍”が謂語の前で用いられて、反問を表し、“何不”の意。“为什么不”、“怎么不”と訳せる。)
二、“盍”在“不”前,可译作“为什么”、“怎么”。
(“盍”が“不”の前にあるときは、“为什么”、“怎么”と訳せる。)
日本の参考書とたいして変わりませんが、字義について気になることが書いてあります。
《说文》:“盇:覆也。”虚词“盍”与本义无关,而假借字。《说文》段注:“曷,何也。凡言‘何不’者,急言之亦曰何,是以《释言》云:‘曷,盍也。’郑注《论语》云:‘盍,何不也。’‘盍’古音在十五部,故为‘曷’之假借。”可用作副词。先秦已有用例,后沿用于文言中。
(《説文解字》に、“盇は覆である”という。虚詞の“盍”は本義と関係がなく、仮借の字である。《説文解字段玉裁注》に、“曷,何である。そもそも‘何不’というのは、これを急言すると何という、したがって《釈言》に‘曷は、盍である’という。《論語》の鄭注に、‘盍は、何不である’という。‘盍’の古音は十五部にあるので、‘曷’の仮借である。”という。副詞として用いられる。先秦にすでに用例があり、以後文言中で受け継がれている。)
「急言」というのは『漢語大詞典』の説明によると、
漢代注家譬況字音用語。與“緩言”、“徐言”對言。有i[i]介音的細音字,因發音時口腔的氣道先窄而後寬,肌肉先緊而後鬆,其音急促,故名。
(漢代の注釈家が字音を喩える用語。“緩言”、“徐言”の対義語。i介音(韻母中の主母音の前の母音)の細音(斉歯呼ともいう)の字があれば、発音する時に口の中の気道が先がすぼまり後が緩むことで、筋肉は先が緊張し後が緩む、その音は切迫するので、急言と名付ける。)
とあり、音韻学には疎いのでよくわかりませんが、「盍」が「何不」、「何」の両義をもつのは、発音上の問題のような気がしてきます。
さらに尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を見ると、次のように書かれています。
按:很多人说“盍”是“何不”两字的合音词,而“盍不”连用现象很多,如前项所引“盍不出从乎”,无法解释。为此私意认为,是由于语言缓急的不同,而出现了省略与否的问题。
(案ずるに:多くの人が“盍”は“何不”二字の合音の語であると述べるが、“盍不”が連用される例は多く、前項に引用した“盍不出従乎”のような場合は、解釈する術がない。このため私的には、これはことばの緩急が同じでなく、省略されるか否かによる問題であると考える。)
「盍」が「盍不」の形でも用いられることに対する、私と同じ疑問ですね。
尹君も発音上の問題と考えているようです。
さらに韩峥嵘の『古汉语虚词手册』(吉林人民出版社1984)の「盍(盇) 闔 盖(蓋)」の項を見てみました。
代词,表示疑问或反问,作状语,可译为“为什么”、“怎么”。常与“不”连用。例如:
(代詞,疑問や反語を表し,状語となる,“为什么”、“怎么”と訳せる。“不”と共に用いられることが多い,例えば、)
盍不起為寡人寿乎?(管子・小称)…原文簡体字
――为什么不起身给我敬酒呢?
(どうして身を起こして私のために酒を勧めないのか?)
闔不亦問是已?(荘子・徐無鬼)…原文簡体字
――为什么不也追问这个道理呢?
(どうしてこの道理をつきとめようとしないのか?)
譆,善哉!技盖至此乎?(庄子・養生主)…原文簡体字
――呀,妙哇!〔解剖牛的〕技术怎么能够达到这种程度呢?
(ああ、素晴らしい!〔牛を解剖する〕技術はどうしてこの程度にまで到達できるのか?)
这里应该注意:连用的“盍”、“不”二字,由于古代发音有相近之处,急读时“不”便被“盍”所吞没,所以在古书上常有“盍”等于“盍不”的情形。
(ここで注意を要するのは,連用される“盍”、“不”の二字は,古代の発音が近いことにより,急いで読む時“不”が“盍”に飲み込まれるため,古書においては“盍”が“盍不”に等しい状況があるのである。)
古代の発音が近いというのはどういうことか調べてみました。
郭錫良の『漢字古音手冊(増訂本)』(商務印書館2014)によれば、
盍闔嗑(噬嗑)𨜴 (古)匣葉 ɣap
不(弗也) (古)幫之 pǐwə
なるほど現代中国音ではわかりませんが、上古音では「盍」の韻母の末尾と、「不」の声母に共通して「p」があります。
これが「盍不」を急いで発音する時、「“不”が“盍”に飲み込まれる」という現象が起きるわけでしょうか。
この時、「否定を表す〔p,m-〕系の音」が実は含まれているのですね。
してみると、「盍」はやはり本来は反語の語気副詞であって、「盍不」のつもりで発音しても「盍」と等しくなってしまうのでしょう。
「盍」は「何不」二字分の働きをする再読文字と、深く考えもせずに教えているのが実情ですが、兼詞(縮約語)とされる「盍」には、実はこのような事情があるのかもしれません。
「盍」は、高等学校の漢文では、1年生で再読文字として学習する字です。
再読しなければ読みようのない字で、高等学校の現場では「何不」二字分の働きをする字として扱います。
その際、「何不」の音は「カ/フ」、「盍」の音も「カフ」だから、一字で代用したのだという説明をすることが多いのではないでしょうか。
巷の参考書を見てみましょう。
『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、
「何不―」(何不(カフ))の二字を「盍(カフ)」(コウ)一字で代用した用法。疑問詞で、疑問・反語の働きをし、勧誘や詰問の意味を表す。「蓋(コウ)」と書くこともある。
とあります。
『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)を開いてみると、
一字で「どうして…ないのか」という意味を持っているので、その意味を生かして「なんゾ…ざル」と二度読む再読文字。
なお「盍(カフ)」は「何不(カフ)」の二字の音を一字に表したものであり、否定を表す〔p,m-〕系の音ではない。
とあります。
この〔p,m-〕系の音というのは、同書「否定(打消)の形」に説明があり、
話し言葉で否定したり打ち消したりする意味を表す時には、上下の唇をやや突き出して息や音を出したり、突き出した両唇を鳴らすようにしたりしていた。これらの音は、主として〔p〕系や〔m-〕系で表すことができる。
と、藤堂明保『漢字語源辞典』の推定音を下敷きにして、例を挙げながらかなり詳しく説明されています。
いずれにしても、「何不」二字の働きをしているというわけで、これが現場教育でも引用されているのでしょう。
「蓋」「闔」も同様で、これらも「何不」二字の働きをしていると説明されます。
しかし、いかにももっともらしい説明ではあるけれども、拭いきれない疑問がわいてきます。
「盍」にせよ「蓋」にせよ、確かに「何不」の意味を表すのですが、一方で「盍不~」という用例も実際に見られます。
・子張問於満苟得曰、盍不為行。(荘子・盗跖)
(子張が満苟得に問うた、どうして行いを修めないのか。→行いを改めるべきだ。)
・中婦諸子謂宮人、盍不出従乎。(管子・戒)
(宮中の女官を取り締まるものが女官たちに言った、どうして宮中を出てご主人様に随行しないのか。→随行するべきだ。)
・苟有過、盍不早正。(宋史・胡宿列伝)
(もし過ちがあるなら、どうして早く正さないのか。→早く正すべきだ。)
・我故人子、盍不過我。(新唐書・沈伝師列伝)
(私の旧友の子だ、どうして私を訪問しないのか。→私を訪問するべきだ。)
これらの例に用いられる「盍」を「何不」とみなすことは勿論無理で、これは単独に「なんゾ」と読み慣わしています。
二字分の働きをする語のことを兼詞(縮約語)といいますが、「盍」は兼詞だが、「盍不」の形では兼詞ではなく反語の語気副詞だというのは、それで簡単に見分けが付くわけですから合理的だといえば合理的ですが、どこか釈然としません。
そこでいくつか虚詞詞典を見てみることにしました。
まず、定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)。
副词
一、“盍”用于谓语前,表示反问,义为“何不”。可译作“为什么不”、“怎么不”。
(“盍”が謂語の前で用いられて、反問を表し、“何不”の意。“为什么不”、“怎么不”と訳せる。)
二、“盍”在“不”前,可译作“为什么”、“怎么”。
(“盍”が“不”の前にあるときは、“为什么”、“怎么”と訳せる。)
日本の参考書とたいして変わりませんが、字義について気になることが書いてあります。
《说文》:“盇:覆也。”虚词“盍”与本义无关,而假借字。《说文》段注:“曷,何也。凡言‘何不’者,急言之亦曰何,是以《释言》云:‘曷,盍也。’郑注《论语》云:‘盍,何不也。’‘盍’古音在十五部,故为‘曷’之假借。”可用作副词。先秦已有用例,后沿用于文言中。
(《説文解字》に、“盇は覆である”という。虚詞の“盍”は本義と関係がなく、仮借の字である。《説文解字段玉裁注》に、“曷,何である。そもそも‘何不’というのは、これを急言すると何という、したがって《釈言》に‘曷は、盍である’という。《論語》の鄭注に、‘盍は、何不である’という。‘盍’の古音は十五部にあるので、‘曷’の仮借である。”という。副詞として用いられる。先秦にすでに用例があり、以後文言中で受け継がれている。)
「急言」というのは『漢語大詞典』の説明によると、
漢代注家譬況字音用語。與“緩言”、“徐言”對言。有i[i]介音的細音字,因發音時口腔的氣道先窄而後寬,肌肉先緊而後鬆,其音急促,故名。
(漢代の注釈家が字音を喩える用語。“緩言”、“徐言”の対義語。i介音(韻母中の主母音の前の母音)の細音(斉歯呼ともいう)の字があれば、発音する時に口の中の気道が先がすぼまり後が緩むことで、筋肉は先が緊張し後が緩む、その音は切迫するので、急言と名付ける。)
とあり、音韻学には疎いのでよくわかりませんが、「盍」が「何不」、「何」の両義をもつのは、発音上の問題のような気がしてきます。
さらに尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を見ると、次のように書かれています。
按:很多人说“盍”是“何不”两字的合音词,而“盍不”连用现象很多,如前项所引“盍不出从乎”,无法解释。为此私意认为,是由于语言缓急的不同,而出现了省略与否的问题。
(案ずるに:多くの人が“盍”は“何不”二字の合音の語であると述べるが、“盍不”が連用される例は多く、前項に引用した“盍不出従乎”のような場合は、解釈する術がない。このため私的には、これはことばの緩急が同じでなく、省略されるか否かによる問題であると考える。)
「盍」が「盍不」の形でも用いられることに対する、私と同じ疑問ですね。
尹君も発音上の問題と考えているようです。
さらに韩峥嵘の『古汉语虚词手册』(吉林人民出版社1984)の「盍(盇) 闔 盖(蓋)」の項を見てみました。
代词,表示疑问或反问,作状语,可译为“为什么”、“怎么”。常与“不”连用。例如:
(代詞,疑問や反語を表し,状語となる,“为什么”、“怎么”と訳せる。“不”と共に用いられることが多い,例えば、)
盍不起為寡人寿乎?(管子・小称)…原文簡体字
――为什么不起身给我敬酒呢?
(どうして身を起こして私のために酒を勧めないのか?)
闔不亦問是已?(荘子・徐無鬼)…原文簡体字
――为什么不也追问这个道理呢?
(どうしてこの道理をつきとめようとしないのか?)
譆,善哉!技盖至此乎?(庄子・養生主)…原文簡体字
――呀,妙哇!〔解剖牛的〕技术怎么能够达到这种程度呢?
(ああ、素晴らしい!〔牛を解剖する〕技術はどうしてこの程度にまで到達できるのか?)
这里应该注意:连用的“盍”、“不”二字,由于古代发音有相近之处,急读时“不”便被“盍”所吞没,所以在古书上常有“盍”等于“盍不”的情形。
(ここで注意を要するのは,連用される“盍”、“不”の二字は,古代の発音が近いことにより,急いで読む時“不”が“盍”に飲み込まれるため,古書においては“盍”が“盍不”に等しい状況があるのである。)
古代の発音が近いというのはどういうことか調べてみました。
郭錫良の『漢字古音手冊(増訂本)』(商務印書館2014)によれば、
盍闔嗑(噬嗑)𨜴 (古)匣葉 ɣap
不(弗也) (古)幫之 pǐwə
なるほど現代中国音ではわかりませんが、上古音では「盍」の韻母の末尾と、「不」の声母に共通して「p」があります。
これが「盍不」を急いで発音する時、「“不”が“盍”に飲み込まれる」という現象が起きるわけでしょうか。
この時、「否定を表す〔p,m-〕系の音」が実は含まれているのですね。
してみると、「盍」はやはり本来は反語の語気副詞であって、「盍不」のつもりで発音しても「盍」と等しくなってしまうのでしょう。
「盍」は「何不」二字分の働きをする再読文字と、深く考えもせずに教えているのが実情ですが、兼詞(縮約語)とされる「盍」には、実はこのような事情があるのかもしれません。