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2020年04月の記事は以下のとおりです。

書き下し文のきまり

  • 2020/04/30 07:36
  • カテゴリー:訓読
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、「書き下し文のきまり」というアニメーションGIFを作ったこと。)

コロナ対策で動画授業等、あれこれ苦心しているわけですが、先般の「返り点と送り仮名の施し方」の続きみたいな感じで、「書き下し文のきまり」もアニメーションGIFで作ってみました。

「返り点と送り仮名の施し方」は、施す順序に重点があって、アニメーションにする意味があるのですが、書き下し文の場合はアニメーションにする意味があるのか、はなはだ疑問です。
まあ余勢を駆ってというところです。

書き下し文のきまりといっても、実際のところ、学校では一応そういうきまりになっているということであって、どこにそんな基準が明記されてるんだとおっしゃる方が時々あります。
たとえば、なぜカタカナではいけないんだとか…
高い次元で疑問に感じる場合は学問につながるのですが、低い次元でそれを生徒にぶつけると、生徒は混乱するばかりです。
ずっと以前に、私は漢字とカタカナで書き下すように生徒に指導していると声高におっしゃった方があり、個人の趣味のレベルでおっしゃる限りは害はないんだが…と、ため息をついたこともあります。

なんにせよ、「返り点と送り仮名の施し方」というより施す順序、そして「書き下し文のきまり」は、案外実際の授業ではサラッと流してしまう部分だと思うのですが、この形式的なことをきちんとマスターさせることは、その日の授業ノートから効果を発揮します。
格段にノートをとるスピードが改善するはずです。
漢文が苦手だという生徒が、実は返り点と送り仮名をきちんと施せないとか、書き下し文のきまりがまだよくわかっていないという基本的な知識の不足が足をひっぱっているということもあるような気がします。

そういうことで、これもつまらないのですが、せっかくアニメーションGIFを作成したので、ここにも載せておきます。
自由にご利用ください。

1.漢字の送り仮名は平仮名にする

2.日本語の助詞・助動詞として読む漢字は平仮名にする

3.置き字は書かない

4.再読文字は最初に読むときに漢字をあて、返って読むときは平仮名にする

5.まとめ(1~4のPDF)

↑それぞれクリックしてください。

『史記』「四面楚歌」語法注解をアップしました

  • 2020/04/28 17:09
  • カテゴリー:その他
(内容:『史記』「四面楚歌」の語法注解をページにアップしたことの告知。)

先日、「鴻門の会」の語法注解をアップしましたが、その続編として「四面楚歌」の語法注解を本日アップしました。
ページ一覧よりご覧ください。

『史記』の定番教材ということで注解を試み、高等学校の現場の先生方にお役立ていただければ…と書いたものですが、『史記』についてはいったんここで打ち止めとし、しばらく『真に理解する漢文法』第3部の更新作業に入りたいと思います。
(もっともコロナ対策の教材構築も迫られていて、それどころではないかもしれませんが…)

また気が向きましたら、今度は『論語』の定番教材などを手がけてみたいものだと考えています。

其れ猶ほ龍のごときか…

(内容:松下大三郎『標準漢文法』読了後の率直な感想。)

非常に長い時間をかけて、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読み終えました。
私の不勉強を諭してくださったN氏のご教示がきっかけでした。

『史記』の「老子韓非列伝」に、孔子が老子に礼について教えを請い、面会の後に孔子が弟子たちに老子の印象を述べた言葉があります。

鳥吾知其能飛、魚吾知其能游、獣吾知其能走。走者可以為罔、游者可以為綸、飛者可以為矰。至於龍吾不能知、其乗風雲而上天。吾今日見老子、其猶龍邪!
(鳥は私はそれが飛べることを知っているし、魚は私はそれが泳げることを知っているし、獣は私はそれが走れることを知っている。走るものは網でとれるし、泳ぐものは釣り糸でとれるし、飛ぶものは紐のついた矢でとれる。(しかし)竜に至っては私はわからない、風雲に乗じて天に昇るであろうか。私は今日老子にお目にかかったが、竜のようであろうか。)

読み終えた印象は、まさに「其れ猶ほ龍のごときか」でした。
誤解のないように断っておきますが、私が鳥や魚、獣の能力を理解しているなどというのではありません。
また、穿った深読みをして、老子の現実離れした境地が孔子の現実性と乖離するということを、我が身に照らして喩えているのでもありません。
ただただ、「其れ猶ほ龍のごときか」という言葉が、真っ先に浮かんだのです。

私はほぼ独学で古典中国語文法を学んでいますが、色々と学派はあるにせよ、西洋の文法学にならって清末の馬建忠が打ち立てた語法学がその始祖であることは間違いありません。
その後、中国のみならず日本や諸外国のさまざまな学者により批判的に研究されて現在に至っています。

ですから、私の語法理解は当然その延長上にあります。
そう、『馬氏文通』以降脈々と続いてきた語法学の流れの中に。

松下氏の『標準漢文法』は、この語法学とまるで異なることを述べているものではありません。
もちろん氏独自の文法論により解明された部分も多々あり、それは氏自身がはっきりそう述べておられます。
しかし、『標準漢文法』の中に見られるものは、西洋の文法学や日本の文法学、あるいは漢文に対する従来の文法学とははっきり異なり、氏自身の漢文に対する精緻な分析の結果生まれてきたものだと私は思います。

儒学が当たり前で、その根本や細部について、それがなぜなのだろう?とか、あるいはそこに見えているのに考えようとしなかったことが仮にあるとして、それを目の当たりに突きつけられるような衝撃を感じるとしたら…
「其れ猶ほ龍のごときか」という言葉を想起した私の思いは、そんなふうに説明できるかもしれません。

もちろんほとんどすべての学問がそうであるように、それだけが絶対に正しいなどということはなく、『標準漢文法』にもあるいは妥当でない部分があるかもしれません。
昭和一桁の刊行ということからして、その後の語法研究は膨大な年月を経ているのですから。
それにしても、昭和一桁の時代に、これほどの、そう、まさに唯一といっても過言でない漢文の理論書が著されていた…そのことに対して畏敬の念を抱きます。

私は依然として現在主流の古典中国語文法の道を歩む者ですが、この書には非常に多くのことを学ぶとともに、今まで気づかずにいた、あるいは問題にしようとしていなかったことの多くに気づかされました。

いったいどんな書なのだ?と苛々される方もあるかもしれませんが、こんな書ですと簡単に書けるほど、まだ私はこの書を理解していない、二度三度、いいえ何度も読み返す必要性を感じています。
そしてその上で、初めて本当にそうか?と問い直すことができるように思います。

前エントリーにおいて、

・比干忠而誅於君。
・青、取之於藍、而青於藍。

の2例を挙げ、「於」前置詞句が補語の位置にあり、述語を後置修飾すると説明しました。
つまり私には「於君」と「於藍」が介詞句(前置詞句)という一つのまとまりとして見えていたわけだし、現在の中国の語法学でもそう説明されています。
これを補語と認めてよいかどうかはともかくとして、この介詞句が述語を後置修飾するという考え方が普通の解釈です。

ですが、「誅於」「取之於」「青於」が叙述語であり、実質的意義を表す「誅」「取」「青」の依拠性を明らかにするために形式動詞「於」が置かれ、「君」や「藍」がその客語であるとするのが、松下氏の考え方です。
また、「誅於君」の「誅」や、「青於藍」の「藍」は、副性として「誅される」「より青い」という義があり、形式動詞「於」が依拠性を明らかにするために、その意味を明確にする。
すなわち「誅」はその副性、被動態、「青」は比較態になっている。
(もしかしたら、解釈が誤っているかもしれません。)

このように『標準漢文法』は説きます。
読めば読むほどに、なるほど…と思わずにはいられませんが、何度も読み返してよく理解した上で検討は加えなければなりません。


N氏は、今読み得る唯一の漢文の理論文法書であるのに、読み解かれる方が少ないと述べておられました。
同感です。
この書はぜひ読まれるべきです。
国立国会図書館デジタルコレクションで、無料公開されていますので、ご覧いただければと思います。

読む途中で、何度も書籍の形が崩れ、そのたびに木工用ボンドで修復しながら読み続けました。
とても有意義で、楽しい時間でした。

返り点と送り仮名の施し方

  • 2020/04/18 14:34
  • カテゴリー:訓読
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、「返り点と送り仮名を施す順」というアニメーションGIFを作ったこと、全返り点編。)

勤務校がコロナのせいで休校中、そのためにオンライン課題の作成や動画撮影に追われているという話は、前エントリーに書きました。
さしあたって、一度も教えたことのない新1年生に、漢文はどんな課題を出せばいいのやら…と考え、「返り点と送り仮名を施す順序」をアニメーションGIFにして公開することにしたわけです。

それぞれの返り点の働きは『体系漢文」や教科書で自習してもらうことにしましょう(というより、中学校で習ってきたはず)。
しかし、おそらく送り仮名を上から順に施し、その後に返り点をこれまた上から順につけているであろうと想像するわけです。
たぶん、中学校の先生方は、施す順までは教えておられないでしょうから。

この手の話をすると、必ず「返り点と送り仮名はすでに施されているものを読むためのもので、施す順など関係ない!」と、声高におっしゃる方が出てきます。
確かに訓点のついた漢文を読む限りはそうなのですが、実は教える先生方だって、最初の授業から黒板に漢文を書いて、返り点と送り仮名をつけなければなりません。
それをノートに写す生徒だって同じです。
つまり、漢文を教える・教えられる初日から、漢文を書き、返り点と送り仮名を施さなければならないわけです。

施す順序に決まったものはないのかもしれませんが、私としては、読む順に施すのが最善と考えています。
つまり、漢字を読んでから、上に返ることを示すために返り点をつけ、その上で上の漢字に送り仮名をつける。

レ点の場合なら、下の漢字に送り仮名を施し、レ点をつけ、上の漢字に送り仮名を施す。

一二点の場合なら、下の漢字に送り仮名を施し、その漢字に一点をつけ、上の漢字に二点をつけ、それから上の漢字に送り仮名を施す。

ですから、「一レ点」や「上レ点」も、施す側からすれば1つの特殊な点ではなく、レ点と一点、レ点と上点が、異なるタイミングで同じ箇所に施された2つの点になるわけです。

なにを当たり前のことを…と思われてしまうようなことを書きましたが、とりあえず完成したアニメーションGIFを公開します。

1.レ点

2.レ点の連続

3.一二点

4.一二三点

5.一二点(熟語に返る時)

6.レ点と一二点の混合

7.上下点

8.上中下点

9.一レ点

10.上レ点

11.まとめ (1~10 をpdfファイルにしたもの。印刷可)

(↑それぞれクリックしてみてください。)

こういうのは慣れない作業である上に、膨大な時間がかかり、すっかり疲労してしまいました。
もし、訓点を施す順序に自信がない方は、ぜひお役立てください。

コロナ対策で…

  • 2020/04/16 18:22
  • カテゴリー:訓読
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、「返り点と送り仮名を施す順」というアニメーションGIFを作ったこと、「レ点」「一二点」編。)

新型コロナウイルスのために、もちろん勤務校は現在休校中です。
いつ終息するともしれぬコロナ禍に、勤務校もご多分に漏れず、動画配信などの措置を講じているわけですが、私も「ためぐち漢文」を配信すると共に、授業の動画を2本ほど撮影しました。

しかし、まだ漢文の初心者で入門段階すら経ていない新1年生のために、何か教材が作れないか…と、あまり見たことのない「返り点と送り仮名を施す順」というパラパラ漫画風のアニメーションGIFを作ることにしました。

『標準漢文法』がいよいよ佳境に入ってきたのに、動画撮影や慣れないアニメーションGIF作りで時間をとられ、読む暇がないのが、ちょっと悲しいところです。

さて、返り点と送り仮名をどういう順で施していくかについて、何かに決められているとか、書かれた文献があるとかは、私は知らないのですが、私的には「読む順に施す」が一番合理的ではないかと思っています。
必ずこの順でなければならないとは思いませんが、生徒には最初の段階で教えることです。

素人なので、膨大な時間がかかるのですが、とりあえず「レ点」と「一二点」のアニメーションGIFを作ってみましたので、興味のある方はご覧ください。
いずれほかの返り点と併せて、ページ登録するつもりです。

・レ点   (←クリックしてください)

・一二点 (←クリックしてください)

勤務校用の教材ですが、本校生しか閲覧できないシステムなんてケチくさいと思いますので、どうぞ見ていただき、おもしろければ自由にご利用ください。

※高校の先生でも、送り仮名だけまとめて施し、後から返り点をつける方があるようで驚きます。
こうでなければならないわけでは、たぶんないと思いますが、この順に施すのがよろしいのでは?と思っています。

※それから、送り仮名で用いる片仮名の「ヲ」ですが、時々「フ」に横棒をつける方があります。「ニ」に「ノ」をつけるのが正しいので、黒板では正しくお書きください。

心を虚しくして書を読む

(内容:新型コロナウイルスによる休校で生まれた時間に、松下大三郎『標準漢文法』を読み始めたこと。)

新型コロナウイルスへの対応で、勤務校は入学式。始業式の延期ならびに登校日を完全になくすという決断を、珍しく他の府立・市立高校よりも早く行いました。
判断の根拠は、天秤ばかりのもう片方に乗せるものは、学力保障でも行事運営でもない、「いのち」である、でした。
確かに学力保障は大切ですが、人の命にかえられるものなど存在しないという明快な判断で、ストンと心に納得できるものでした。

それなりに責任ある校務を任されているのですが、仕事場のホワイトボードは、ぎっしり書かれていた予定が消されて、文字通り真っ白の板になり、先行き不透明な中、しかし学ぶ時間に余裕は生まれました。

職員室は3密以外の何ものでもないと思うのですが、国の意向は本学には伝わらないらしく、時差出勤はOKだが、遅く来たらその分遅くまで働けという通達で、どうも本学の天秤ばかりの片方に乗っているものは、本校の判断とは異なるようです。
時差出勤ということなら、私はいつも勤務校には朝の6時半過ぎには着いて、教材研究とか語法の研究とか、仕事を始めているので、それならば14時過ぎには帰っていいことになるのだが…などと嫌みなことを思うのですが…

それにしても読書をする時間の余裕は生まれました、いつもなら生徒対応で落ち着いて本など読んではいられないのですが。
窓を全開して、マスクをつけて、ちょっとブルブル震えながら。

今朝から読み始めたのは、先日ご教示いただいた松下大三郎氏の『標準漢文法』です。
埃をかぶっていたので、丁寧に埃をはらい、窓から吹き込む風を感じながら読み始めました。
私の所有していたのは昭和5年発行なので初版ではないようですが、あちこちが傷んでいて、丁寧に扱わないと崩れてしまいそうです。
800頁以上ある分厚い本です。

松下大三郎『標準漢文法』の画像

もちろん古風な文体でそれはいいのですが、松下氏独自の用語がけっこう用いられていること、また同じ文法用語でも異なるものを指していたりすることもあって、頭をぐらぐらさせながら読むのですが、知らない言葉の定義はメモに書き留めたり、一読してよくわからない言葉や内容について前後を読み返して考えたり、気がつくとどんどん時間が過ぎていきます。

もともと速読することができない性格なので、ゆっくりゆっくり亀の歩みのような速度で読むのですが、今まで持ち得ていたものとは全く異なるといっていいほどの未知の領域に足を踏み入れていくような、不思議な感覚とわくわくする思いを感じました。
それなりの知識があって一家言をもっていると、えてして批評的にあるいは批判的に読むということがあると思うのですが、この書籍はそういうものを排して、心を虚しくして読むべきだと自然にそう思えてきて、読むのがとても楽しいですね。

ゆっくり読んでいるので、今日は100頁ぐらい。
それでもまだ本論に入らない序の口、第1編・第1章・第1節「言語の本質及び諸相」を読んだだけで、以前学参に「なぜ漢文を学ぶのか」について書いたことがあるのを思いだし、あの時これを読んでいれば…と思ったり。

これは一度通読したぐらいではだめで、おそらく何度も読み返すことになりそうだと思いながら、生徒のいない学校で読んでいます。
この先どんな世界が広がっているのか、とても楽しみです。

用例を探し選ぶ

(内容:高等学校用漢文の参考書を執筆するにあたっては、自分で用例を探し選ぶべきこと。)

まず追記です。

現代の情報ツールからは置いてけぼりをくらっていますので、家族でLINEを使う程度で、ツイッター?とかインスタなんとかというものには縁がありません。
ツイッターとは何なのか、いまだにわからないのですが…

ところが、おもしろがって「体系漢文」で検索をかけていた友人が前エントリーについて、ツイッターで書いてる人があるよと教えてくれまして、??と見せてもらいました。
前置詞句が述語に後置される構造について、ご教示をいただいているのですが、どうも松下大三郎氏の『標準漢文法』に精通しておられる方のようでした。
用語が難しくて、よくわからないところはあるのですが、私がまだよくわかっていないことに対して、非常に興味深い示唆がそこにはあるようでした。

『標準漢文法』は、10年ほど前にせっかく手に入れたのに、あまりの分厚さと難解な文体に、ちらっと初めの方を見ただけで、本棚で埃をかぶらせていました。
これを読むのは勇気がいるな…と思いつつ、しかし、ご教示いただいていることは、これを読み通すことでわかるはずだと思います。

仕事柄、3密を避けるために、比較的時間の余裕がある今、新たな勉強をしたいと思います。
ツイッターが使えませんので、ここでお礼を申し上げます。

                                         *                    *

さて、このエントリーでは、用例を探し選ぶということについて、少し書いてみようと思います。

もう何十年前になりますか、ある学参を書くにあたって、漢文の各句法について、多くの用例が必要になりました。
今のように電子機器やインターネットが整備されていなかった頃なので、それはもう大変な作業で、紙のカードに用例を書いては整理、書いては整理を繰り返していました。

もちろん他社の学参なども参考にするのですが、今はそれほどでもないようですが、どの学参も判で押したように同じ用例が載っているのに驚きました。
中にはどの学参にも載っているのに、原典にあたってみると文字の異同があったり、そもそも中国の文ではなかったり。

それでも途方もない時間をかけて集めた用例を学参に反映すると、今度は現場の先生方の評判がよろしくないとのこと。
なんでも、聞いたことのない文なので使いにくいらしいのです。
私は有名であることよりも、その句法を一番理解しやすい用例という観点で選んだのですが、知らない用例だと「とっつきにくい」のだそうで、それは要するに、生徒がとっつきにくいというより、用例の意味を予習する手間が面倒なのでは?と、若気のいたりから憤慨したりもしました。

その後、劇的に電子機器や情報網が整備されて、用例を探す作業は紙から電子機器に移りました。
いちはやく書籍の電子データが用例探しには大きな力を発揮すると考え、地道に電子データを入力したり、獲得したりしてはため込み、検索しやすいように加工して、用例検索は紙の時代とは比較にならない量を相手にすることができるようになりました。

用例検索のPC画像

それでも、学参に用いる用例は、用いられた時代を考慮しつつ、少しでもわかりやすく、できるだけ文の基本成分が揃ったものを用いるべしと心に刻み、どの学参にも載ったことのないようなものでも、条件が揃っていれば用いるようになりました。
どうしてもうまく見つからないときには、四庫全書にあたったり。
それでなければ、もう「少なくともよく用いられる形ではないのだ」と判断するまで。

現在、時代ごとに分類した200種弱の書籍(代表的なものはほぼ網羅)から検索をかけ、よい用例が見つかれば、必ず紙の原典にあたり、文字の異同を確認したり、前後の文脈から確かに求めている用例であることを確かめて、初めて採用しています。
『真に理解する漢文法』も『体系漢文』も、同様に用例を探し選んでいますので、採用された用例が、ほとんど基本成分の整ったものであることにお気づきでしょうか。

同じような作業をしている人がたぶん世の中には大勢いらっしゃると思います。
ただ、必ず原典にあたって確かめるという姿勢を失ってほしくはないものです。
自らを戒めるとともに、みなさまにおかれても、ぜひこころがけてください。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・7(前置詞句)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。前置詞句について。)

ここまで『体系漢文』で用いる文法用語について、用語自体は明快なのに、いざ採用するとなると、いろいろと腐心させられたという、まあ裏話といってもいいようなことを書いてきました。
最後は前置詞句です。

編集者の方はともかく、私自身は類書にどんなことが書いてあるかというのを考えずに好きに書くほうなので、前置詞句という用語が用いられている、あるいは用いられていたのかは知りません。
ですが、濱口富士雄先生の『重訂版 漢文語法の基礎』には、前置詞句という用語が用いられています。
(私事ながら、濱口先生のこの御著は、非常に勉強になりますので、みなさまも一度お読みになればとお勧めいたします。)

従来、前置詞は置き字とされたり、返読文字とされたり、文法とは関係のない特別な扱いをされてきました。
句法ならではの扱いというわけです。
高等学校でも、1年生の入門期には、置き字、返読文字として注意されることはあるのですが、どちらかというとそれこそ「置いてある字」としてあまり顧みないところがあったのではないでしょうか。
返読文字にしても「返って読む字」という読み方の規則の方に重点が置かれていて。

そして、これは私の印象ですが、「於」にせよ「自」にせよ、その単独の字のみに着目して、句として捉える視点が欠けていたように思います。

漢文を語る際に、日本語を持ち込むのは妥当ではないのですが、たとえば日本語の格助詞「に」の用法を考えるに、「に」だけを見ていても、10年それを見続けたとしてもその意味も働きもわかりません。
「虎に」と表現して何らかの意味をもつ語であることが意識され、さらに述語「与える」を伴い「虎に与える」という表現をとって、初めて「虎に」は「与える」対象なのだなと理解することができます。

これと同じとはもちろん言う気はありませんが、前置詞は名詞を伴って前置詞句になり、述語との関連によって初めて明確な意味をもつことができるわけです。
ですから、前置詞単独というより、前置詞句として捉え、述語とのどのような関連があるのかを考えるべきでしょう。

ところで、このエントリーまで述べてきたのは、文法を説明する際に用いる用語についてでした。
ここへきて前置詞句を話題にしたのは、それが(前置)連用修飾語(句)、また、後置修飾語(句)という成分として機能するからです。
なお、述語に前置も後置もする前置詞句は、「以」「於」「自」などいくつかに限られます。

・以杖叩地。(▼杖を以て地を叩く。▽杖で地面をたたく。)

これは前置詞「以」が直後の「杖」という名詞と結びついて前置詞句を構成し、述語「叩」を前置連用修飾する形です。
違う言い方をすれば、前置詞句は副詞の位置に置かれているわけです。
副詞が述語を前置連用修飾するように、前置詞句も述語の前に置かれて述語を連用修飾します。

・叩地以杖。(▼地を叩くに杖を以てす。)

これは前置詞句「以杖」が述語構造「叩地」の後に置かれる形です。
それはあたかも後置修飾語(補語)の位置に置かれ、述語「叩」を後置修飾するがごとくです。
実際、異説はあるものの、中国ではこのような前置詞句の用法を、補語(後置修飾語)の用法と説明することが多いようです。

『体系漢文』では、この二様の表現を、訓読のしかたは異なると注意しつつも、同じ意味を表すと説明しました。
語順が異なることにより、語に対する重点の置かれ方が変わり、文意に微妙な差が生じることは十分考えられることですが、少なくとも高等学校の生徒には、前置詞句が前置されているか後置されているかで、いちいちどう訳せばいいかと頭を悩ます必要はないでしょう。


さて、『体系漢文』という書名をあげたエントリーにおいて、個人的な世迷い言のような考えを示すのは不適切かもしれないという気もするのですが、私自身は、前置詞の種類や、その用いられ方にもよるのですが、後置された前置詞句を単純に補語と言い切っていいのかどうかについては、最近少し疑問を感じるようになりました。

たとえば、

・比干忠而誅於君。(▼比干忠にして君に誅せらる。▽比干は忠義でありながら主君に殺された。)

・青、取之於藍、而青於藍。(▼青は、之を藍より取りて、藍より青し。▽青(の染料)はこれを藍草から取るが、藍草より青い。)

「誅於君」は、「誅於」とあるからこそ比干が受事主語であることを認定することができます。
言い方を変えれば、もし「比干誅」であれば、賓語がないのが不自然であるにせよ、比干が施事主語で誰かを誅殺したのかと解されてもしかたがありません。
それを前置詞句「於君」が述語「誅」を後置修飾して受身の対象の意味を添えるのだと言えば通るのかもしれませんが、なんだかしっくりときません。

また、「取之於藍」は、述語構造「取之」の後に前置詞句「於藍」が置かれたものですが、来源を表すにしても、これがもし「於庭」であれば、場所を表すことになります。

さらに、「青於藍」は、形容詞「青」に対して前置詞句「於藍」は比較の対象を表しているのですが、前置詞句自体は前の「取之於藍」と同じです。

つまり何が言いたいかというと、前置詞句が述語に後置された時、補語として述語を後置修飾すると言ってしまうのは簡単ですが、どのような内容を補足するかは、述語の品詞にもよるし、同じ品詞であっても述語の表す意味と、前置詞句の目的語である名詞がもつ意味との関連によって、複雑に変化するということです。
それだけ述語と前置詞は密接に結びついて、後の名詞との関係を示していると思うのですが。
実際、比干の例や「青於藍」の例は、前置詞句がなければ意味をなしえません。
そういうものを修飾句といっていいのかどうか、もっと統語論的な見方をする必要があるなと、『体系漢文』の用語の問題とは別に、個人的には思うのです。



長々と用語について述べました。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・6(後置修飾語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。後置修飾語について。)

一般に漢文における修飾関係は、

修飾する語(修飾語)は、修飾される語(被修飾語)の前に置かれる

と説明されています。
たとえば、

涼風…修飾語「涼」→被修飾語「風」 涼しい風

再会…修飾語「再」→被修飾語「会」 再び会う

のようになるわけで、一歩踏み込んで「涼風」は連体修飾、「再会」は連用修飾と説明されることもあります。
ちなみに中国では、連体修飾語を定語(後の体言を限定修飾する語)、連用修飾語を状語(後の用言の状況を示す語)と呼んでいます。

『体系漢文』では、連体修飾語になる要素として「名詞」「形容詞」を挙げ、名詞や名詞句から構成される主語や目的語を修飾する成分とし、また、名詞述語を修飾する成分としても位置づけました。
また、連用修飾語になる要素として、「副詞」「前置詞句」を挙げ、主に動詞や形容詞から構成される述語を修飾する成分としました。

ただ、修飾語を説明する際に、

文の骨組みとなるそれぞれの成分に対して、原則として直前に修飾語が置かれることがある。

と説明した、この「原則として」という表現は微妙な言い方です。
得てして「原則として」というのは「例外もある」ということを想起させる物言いです。

漢文にも倒置構造はあり、たとえば「桃之夭夭」(▼桃の夭夭たる)のように、異説もあるものの連体修飾語の倒置と説かれる用法もあるのですが、この「原則として」は、そういう特殊な事例を想定したものではありませんでした。

初版の『体系漢文』では文法編で「さまざまな修飾語句」として修飾表現の例外のように扱っていた内容を、改訂版では「後置修飾語」と明示しました。
これが「原則として」という表現をさせた要因であり、そしてこれこそが古典中国語文法における「補語」(後置修飾語)に他なりません。

たとえば漢文には、「皇帝がとても怒る」という内容を表す時に、次の2つの表現があります。

・帝怒。(▼帝甚だ怒る。) …  →「甚」は連用修飾語(状語)

・帝怒(▼帝怒ること甚だし。) →「甚」は後置修飾語(補語)

これは、程度副詞の「甚」が、述語「怒」に前置されたもの、後置されたもので、前者は連用修飾語、後者が後置修飾語という成分になります。
(こうして二者を比較する上ではあまり問題にならないのですが、文の構造を解説する上で、不用意な「○○は□□を連用修飾する」という言い回しは、読み手に「『連用修飾』という用語が『述語に前置して修飾する』という書かれてもいない内容を意味するものと自分で補って理解せよ」と迫ることになると、編集員のKさんにきつく意見されたものです。)

「帝甚怒。」は、副詞「甚」が状語(前置連用修飾語)として、述語「怒」を修飾し、怒る状況の程度を示します。
「帝怒甚。」は、副詞「甚」が述語「怒」の後に置かれ、後置修飾語(補語)という補足成分として、やはり怒る状況の程度を示しています。

後置修飾語(補語)とは、すなわち述語や述語構造(述語+目的語)の後に置かれる修飾成分で、述語を補足する働きがあるわけです。
その意味で、「修飾語は被修飾語の前に置かれる」という表現は間違ってはいませんが、完全に正しいわけでもありません。

「帝甚怒。」も「帝怒甚。」も状況としては同じことを述べたもので、日本語訳する上では、どちらも「皇帝がとても怒る」とすればよいのですが、この「~すること…」という日本語表現は漢文訓読に由来するものとして、むしろ定着している感があり、必要がなければそのままでもよいかと思います。

『体系漢文』では、初学者を対象にしているものであり、(前置)連用修飾語の場合も後置修飾語の場合も等しく述語を修飾しているので、意味は変わらないとしました。
しかし、本来語順が異なるからには微妙な違いはあるはずで、個人的には「帝甚怒。」は「怒」に、「帝怒甚。」は「甚」に重きが置かれた表現ではないかと考えています。
古典中国語においては、後置された語に表現の重点が置かれる傾向があるように思うからですが、これについてはまだ私自身が不勉強の感があります。

補語(後置修飾語)については、用いられた時代や学者により、いくつかの見解の相違があります。
そもそも先秦においては補語は未成熟であるとするものや、賓語(目的語)そのものを補語とみなすべきだとする考え方等々。
『体系漢文』では、一般に古典中国語文法で広く用いられている「補語」という成分(といっても実は一部ですが)を、後置修飾語と位置づけ、前置連用修飾語とは区別しました。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・5(目的語と補語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。目的語と補語について。)

『体系漢文』の改訂版では、「補語」という用語を撤廃したというお話を前エントリーで書きました。
逆を言えば、初版では用いていたということです。
ご利用いただいていた先生方が気づいておられたかどうかわかりませんが、初版では「補語」という用語を二様に用いていました。

「入門編」では、旧態依然として、

主語(何が)+述語(どうする)+補語(何に・どこで・どこから)

という項を設け、その用例として「荘子釣於濮水。」(▼荘子濮水に釣る。▽荘子が濮水で釣りをする。)を示し、

主語(何が)+述語(どうする)+目的語(何を)+補語(何に・どこで・どこから)

という項では、「斉景公問政於孔子。」(▼斉の景公政を孔子に問ふ。▽斉の景公が政治のあり方を孔子に尋ねた。)を示し、さらに、

主語(何が)+述語(どうする)+補語(何に)+目的語(何を)

という項では、「漢王授我上将軍印。」(▼漢王我に上将軍の印を授く。▽漢王は私に上将軍の印を授けてくれた。)を例示しました。
そして、存在を表す文構造は「有」「無」の例を別記しました。
要するに、訓読から構造を説明する従来の手法をそのまま踏襲したのです。

ところが、同じ初版の文法編では、「文の骨組みとなる成分」として、

主語+述語+目的語・補語

とし、それぞれの成分になる主な要素として、「主語」は名詞、「述語」は動詞・形容詞・名詞、「目的語・補語」は名詞としました。

この「目的語・補語」というのは、きちんと読者に伝わったかどうかは別にして、賓語に他ならず、その例として、

・転禍為福。(▽災いを転じて福とする。)

の「禍」「福」を示していました。

別に前置詞句の項を設け、述語に前置される場合と後置される場合の両方を提示していましたから、文法編の「目的語・補語」の中には、前置詞が伴う名詞は含まれていなかったわけです。
もう一言いうならば、少なくとも文法編における「目的語・補語」という曖昧なことばは、書き手の我々からして、実はそのまま賓語であって、目的語と補語という区別に意味を見いだしていなかったということになります。

なにゆえ1冊の書籍の前後で、表記も指す内容も異なるややこしい書き方というか、不親切というか、妙な説明をしたかというと、古典中国語文法で斬り込んでいく姿勢の『体系漢文』ではあっても、まだその段階で学校現場がそれを受容していただける状況であるかどうか判じかねたからでした。

ただはっきり言えることは、初版の「入門編」「句法編」と、「文法編」とでは、漢文の成分に対する考え方が全く異なっていたということです。
すなわち前者は従来の訓読による分類、後者は古典中国語文法に基づく分類だったということです。

それを『体系漢文』改訂版で全面的に補語という用語を撤廃して、「入門編」にあっても賓語の意味で「目的語」という用語を用い得たのは、現場の先生方のご理解あってのことだったと思います。

お気づきになっているかどうか… たとえば改訂版「入門編」の、

主語+述語+目的語+目的語

の項では、双賓文(二重目的語の文)を示すと共に、別に次の文例を示しました。

・将軍起兵江東。(▼将軍兵を江東に起こす。▽将軍は兵を江東で起こした。)

このように前置詞句を伴う例を該当させていません。
(これは「於」の省略という書き方はしましたが、2つ目の目的語として場所目的語(処所賓語)が置かれる例はよく見られるものです。)

また、

主語(何が)+述語(どうする)+目的語(何を・何に・どこで・どこから)

の項では、「~を」と読む目的語と、「~を」と読まない目的語に分け、それぞれ例を示しました。
これは、本当は分ける必要はないのですが、従来の読みによる分類に従っていた人を迷わせずに導くためのものでした。

つまり、改訂版「入門編」の「漢文の構造」で示した成分は、初版がいわば「句法から見た成分」であったのに対し、「文法から見た成分」に変容したわけです。
言い方をかえれば、主語、述語、目的語という用語は、初めて文法用語として位置づけられたということになります。

このことで、それまで喉の奥にひっかかっていたものが取れたような、ほっとした気持ちになりました、やっと怪しげな説明をせずに済むようになったと。


さて、それでは「補語」という用語は意味がないのか?というと、そうではありません。
『体系漢文』改訂版が補語という用語を撤廃したのは、句法による成分「補語」と、文法による成分「補語」の混乱を避けるためでした。

あらためて押さえ直すと、句法による成分「補語」とは、訓読で「~を」と読まず、「~に・~より」などと読む語が該当します。
一方、文法による成分「補語」とは、文法的に述語に後置される修飾成分を指します。
したがって、もし『体系漢文』が「補語」という文法用語を用いれば、書き手が後置修飾成分のつもりで書いているのに、読み手は「~に・~より」などと読む語のことかと誤解する可能性が生まれてしまいます。
拙著『真に理解する漢文法』では、そんなことはお構いなしで、平気で補語という用語を用いていますが、『体系漢文』の場合はそんな杜撰なやり方をするわけにはいきませんでした。

これで、文の根幹をなす、主語、述語(謂語)、目的語(賓語)の3つの成分について、用語の意味を説明したつもりです。
あとは、修飾成分になる、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の3つについて、少し触れておく必要があるのですが、定語についてはそのまま体言を修飾する成分としてご理解いただけるとして、状語と補語の取り扱いについて、『体系漢文』では深く踏み込んではいないものの、次エントリーで触れてみたいと思います。
特に、補語についてはこれまでほとんど説明されていないものになりますので。

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