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其れ猶ほ龍のごときか…

(内容:松下大三郎『標準漢文法』読了後の率直な感想。)

非常に長い時間をかけて、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読み終えました。
私の不勉強を諭してくださったN氏のご教示がきっかけでした。

『史記』の「老子韓非列伝」に、孔子が老子に礼について教えを請い、面会の後に孔子が弟子たちに老子の印象を述べた言葉があります。

鳥吾知其能飛、魚吾知其能游、獣吾知其能走。走者可以為罔、游者可以為綸、飛者可以為矰。至於龍吾不能知、其乗風雲而上天。吾今日見老子、其猶龍邪!
(鳥は私はそれが飛べることを知っているし、魚は私はそれが泳げることを知っているし、獣は私はそれが走れることを知っている。走るものは網でとれるし、泳ぐものは釣り糸でとれるし、飛ぶものは紐のついた矢でとれる。(しかし)竜に至っては私はわからない、風雲に乗じて天に昇るであろうか。私は今日老子にお目にかかったが、竜のようであろうか。)

読み終えた印象は、まさに「其れ猶ほ龍のごときか」でした。
誤解のないように断っておきますが、私が鳥や魚、獣の能力を理解しているなどというのではありません。
また、穿った深読みをして、老子の現実離れした境地が孔子の現実性と乖離するということを、我が身に照らして喩えているのでもありません。
ただただ、「其れ猶ほ龍のごときか」という言葉が、真っ先に浮かんだのです。

私はほぼ独学で古典中国語文法を学んでいますが、色々と学派はあるにせよ、西洋の文法学にならって清末の馬建忠が打ち立てた語法学がその始祖であることは間違いありません。
その後、中国のみならず日本や諸外国のさまざまな学者により批判的に研究されて現在に至っています。

ですから、私の語法理解は当然その延長上にあります。
そう、『馬氏文通』以降脈々と続いてきた語法学の流れの中に。

松下氏の『標準漢文法』は、この語法学とまるで異なることを述べているものではありません。
もちろん氏独自の文法論により解明された部分も多々あり、それは氏自身がはっきりそう述べておられます。
しかし、『標準漢文法』の中に見られるものは、西洋の文法学や日本の文法学、あるいは漢文に対する従来の文法学とははっきり異なり、氏自身の漢文に対する精緻な分析の結果生まれてきたものだと私は思います。

儒学が当たり前で、その根本や細部について、それがなぜなのだろう?とか、あるいはそこに見えているのに考えようとしなかったことが仮にあるとして、それを目の当たりに突きつけられるような衝撃を感じるとしたら…
「其れ猶ほ龍のごときか」という言葉を想起した私の思いは、そんなふうに説明できるかもしれません。

もちろんほとんどすべての学問がそうであるように、それだけが絶対に正しいなどということはなく、『標準漢文法』にもあるいは妥当でない部分があるかもしれません。
昭和一桁の刊行ということからして、その後の語法研究は膨大な年月を経ているのですから。
それにしても、昭和一桁の時代に、これほどの、そう、まさに唯一といっても過言でない漢文の理論書が著されていた…そのことに対して畏敬の念を抱きます。

私は依然として現在主流の古典中国語文法の道を歩む者ですが、この書には非常に多くのことを学ぶとともに、今まで気づかずにいた、あるいは問題にしようとしていなかったことの多くに気づかされました。

いったいどんな書なのだ?と苛々される方もあるかもしれませんが、こんな書ですと簡単に書けるほど、まだ私はこの書を理解していない、二度三度、いいえ何度も読み返す必要性を感じています。
そしてその上で、初めて本当にそうか?と問い直すことができるように思います。

前エントリーにおいて、

・比干忠而誅於君。
・青、取之於藍、而青於藍。

の2例を挙げ、「於」前置詞句が補語の位置にあり、述語を後置修飾すると説明しました。
つまり私には「於君」と「於藍」が介詞句(前置詞句)という一つのまとまりとして見えていたわけだし、現在の中国の語法学でもそう説明されています。
これを補語と認めてよいかどうかはともかくとして、この介詞句が述語を後置修飾するという考え方が普通の解釈です。

ですが、「誅於」「取之於」「青於」が叙述語であり、実質的意義を表す「誅」「取」「青」の依拠性を明らかにするために形式動詞「於」が置かれ、「君」や「藍」がその客語であるとするのが、松下氏の考え方です。
また、「誅於君」の「誅」や、「青於藍」の「藍」は、副性として「誅される」「より青い」という義があり、形式動詞「於」が依拠性を明らかにするために、その意味を明確にする。
すなわち「誅」はその副性、被動態、「青」は比較態になっている。
(もしかしたら、解釈が誤っているかもしれません。)

このように『標準漢文法』は説きます。
読めば読むほどに、なるほど…と思わずにはいられませんが、何度も読み返してよく理解した上で検討は加えなければなりません。


N氏は、今読み得る唯一の漢文の理論文法書であるのに、読み解かれる方が少ないと述べておられました。
同感です。
この書はぜひ読まれるべきです。
国立国会図書館デジタルコレクションで、無料公開されていますので、ご覧いただければと思います。

読む途中で、何度も書籍の形が崩れ、そのたびに木工用ボンドで修復しながら読み続けました。
とても有意義で、楽しい時間でした。

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