『体系漢文』で用いる文法用語のこと・7(前置詞句)
- 2020/04/09 19:13
- カテゴリー:体系漢文
(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。前置詞句について。)
ここまで『体系漢文』で用いる文法用語について、用語自体は明快なのに、いざ採用するとなると、いろいろと腐心させられたという、まあ裏話といってもいいようなことを書いてきました。
最後は前置詞句です。
編集者の方はともかく、私自身は類書にどんなことが書いてあるかというのを考えずに好きに書くほうなので、前置詞句という用語が用いられている、あるいは用いられていたのかは知りません。
ですが、濱口富士雄先生の『重訂版 漢文語法の基礎』には、前置詞句という用語が用いられています。
(私事ながら、濱口先生のこの御著は、非常に勉強になりますので、みなさまも一度お読みになればとお勧めいたします。)
従来、前置詞は置き字とされたり、返読文字とされたり、文法とは関係のない特別な扱いをされてきました。
句法ならではの扱いというわけです。
高等学校でも、1年生の入門期には、置き字、返読文字として注意されることはあるのですが、どちらかというとそれこそ「置いてある字」としてあまり顧みないところがあったのではないでしょうか。
返読文字にしても「返って読む字」という読み方の規則の方に重点が置かれていて。
そして、これは私の印象ですが、「於」にせよ「自」にせよ、その単独の字のみに着目して、句として捉える視点が欠けていたように思います。
漢文を語る際に、日本語を持ち込むのは妥当ではないのですが、たとえば日本語の格助詞「に」の用法を考えるに、「に」だけを見ていても、10年それを見続けたとしてもその意味も働きもわかりません。
「虎に」と表現して何らかの意味をもつ語であることが意識され、さらに述語「与える」を伴い「虎に与える」という表現をとって、初めて「虎に」は「与える」対象なのだなと理解することができます。
これと同じとはもちろん言う気はありませんが、前置詞は名詞を伴って前置詞句になり、述語との関連によって初めて明確な意味をもつことができるわけです。
ですから、前置詞単独というより、前置詞句として捉え、述語とのどのような関連があるのかを考えるべきでしょう。
ところで、このエントリーまで述べてきたのは、文法を説明する際に用いる用語についてでした。
ここへきて前置詞句を話題にしたのは、それが(前置)連用修飾語(句)、また、後置修飾語(句)という成分として機能するからです。
なお、述語に前置も後置もする前置詞句は、「以」「於」「自」などいくつかに限られます。
・以杖叩地。(▼杖を以て地を叩く。▽杖で地面をたたく。)
これは前置詞「以」が直後の「杖」という名詞と結びついて前置詞句を構成し、述語「叩」を前置連用修飾する形です。
違う言い方をすれば、前置詞句は副詞の位置に置かれているわけです。
副詞が述語を前置連用修飾するように、前置詞句も述語の前に置かれて述語を連用修飾します。
・叩地以杖。(▼地を叩くに杖を以てす。)
これは前置詞句「以杖」が述語構造「叩地」の後に置かれる形です。
それはあたかも後置修飾語(補語)の位置に置かれ、述語「叩」を後置修飾するがごとくです。
実際、異説はあるものの、中国ではこのような前置詞句の用法を、補語(後置修飾語)の用法と説明することが多いようです。
『体系漢文』では、この二様の表現を、訓読のしかたは異なると注意しつつも、同じ意味を表すと説明しました。
語順が異なることにより、語に対する重点の置かれ方が変わり、文意に微妙な差が生じることは十分考えられることですが、少なくとも高等学校の生徒には、前置詞句が前置されているか後置されているかで、いちいちどう訳せばいいかと頭を悩ます必要はないでしょう。
さて、『体系漢文』という書名をあげたエントリーにおいて、個人的な世迷い言のような考えを示すのは不適切かもしれないという気もするのですが、私自身は、前置詞の種類や、その用いられ方にもよるのですが、後置された前置詞句を単純に補語と言い切っていいのかどうかについては、最近少し疑問を感じるようになりました。
たとえば、
・比干忠而誅於君。(▼比干忠にして君に誅せらる。▽比干は忠義でありながら主君に殺された。)
・青、取之於藍、而青於藍。(▼青は、之を藍より取りて、藍より青し。▽青(の染料)はこれを藍草から取るが、藍草より青い。)
「誅於君」は、「誅於」とあるからこそ比干が受事主語であることを認定することができます。
言い方を変えれば、もし「比干誅」であれば、賓語がないのが不自然であるにせよ、比干が施事主語で誰かを誅殺したのかと解されてもしかたがありません。
それを前置詞句「於君」が述語「誅」を後置修飾して受身の対象の意味を添えるのだと言えば通るのかもしれませんが、なんだかしっくりときません。
また、「取之於藍」は、述語構造「取之」の後に前置詞句「於藍」が置かれたものですが、来源を表すにしても、これがもし「於庭」であれば、場所を表すことになります。
さらに、「青於藍」は、形容詞「青」に対して前置詞句「於藍」は比較の対象を表しているのですが、前置詞句自体は前の「取之於藍」と同じです。
つまり何が言いたいかというと、前置詞句が述語に後置された時、補語として述語を後置修飾すると言ってしまうのは簡単ですが、どのような内容を補足するかは、述語の品詞にもよるし、同じ品詞であっても述語の表す意味と、前置詞句の目的語である名詞がもつ意味との関連によって、複雑に変化するということです。
それだけ述語と前置詞は密接に結びついて、後の名詞との関係を示していると思うのですが。
実際、比干の例や「青於藍」の例は、前置詞句がなければ意味をなしえません。
そういうものを修飾句といっていいのかどうか、もっと統語論的な見方をする必要があるなと、『体系漢文』の用語の問題とは別に、個人的には思うのです。
長々と用語について述べました。
ここまで『体系漢文』で用いる文法用語について、用語自体は明快なのに、いざ採用するとなると、いろいろと腐心させられたという、まあ裏話といってもいいようなことを書いてきました。
最後は前置詞句です。
編集者の方はともかく、私自身は類書にどんなことが書いてあるかというのを考えずに好きに書くほうなので、前置詞句という用語が用いられている、あるいは用いられていたのかは知りません。
ですが、濱口富士雄先生の『重訂版 漢文語法の基礎』には、前置詞句という用語が用いられています。
(私事ながら、濱口先生のこの御著は、非常に勉強になりますので、みなさまも一度お読みになればとお勧めいたします。)
従来、前置詞は置き字とされたり、返読文字とされたり、文法とは関係のない特別な扱いをされてきました。
句法ならではの扱いというわけです。
高等学校でも、1年生の入門期には、置き字、返読文字として注意されることはあるのですが、どちらかというとそれこそ「置いてある字」としてあまり顧みないところがあったのではないでしょうか。
返読文字にしても「返って読む字」という読み方の規則の方に重点が置かれていて。
そして、これは私の印象ですが、「於」にせよ「自」にせよ、その単独の字のみに着目して、句として捉える視点が欠けていたように思います。
漢文を語る際に、日本語を持ち込むのは妥当ではないのですが、たとえば日本語の格助詞「に」の用法を考えるに、「に」だけを見ていても、10年それを見続けたとしてもその意味も働きもわかりません。
「虎に」と表現して何らかの意味をもつ語であることが意識され、さらに述語「与える」を伴い「虎に与える」という表現をとって、初めて「虎に」は「与える」対象なのだなと理解することができます。
これと同じとはもちろん言う気はありませんが、前置詞は名詞を伴って前置詞句になり、述語との関連によって初めて明確な意味をもつことができるわけです。
ですから、前置詞単独というより、前置詞句として捉え、述語とのどのような関連があるのかを考えるべきでしょう。
ところで、このエントリーまで述べてきたのは、文法を説明する際に用いる用語についてでした。
ここへきて前置詞句を話題にしたのは、それが(前置)連用修飾語(句)、また、後置修飾語(句)という成分として機能するからです。
なお、述語に前置も後置もする前置詞句は、「以」「於」「自」などいくつかに限られます。
・以杖叩地。(▼杖を以て地を叩く。▽杖で地面をたたく。)
これは前置詞「以」が直後の「杖」という名詞と結びついて前置詞句を構成し、述語「叩」を前置連用修飾する形です。
違う言い方をすれば、前置詞句は副詞の位置に置かれているわけです。
副詞が述語を前置連用修飾するように、前置詞句も述語の前に置かれて述語を連用修飾します。
・叩地以杖。(▼地を叩くに杖を以てす。)
これは前置詞句「以杖」が述語構造「叩地」の後に置かれる形です。
それはあたかも後置修飾語(補語)の位置に置かれ、述語「叩」を後置修飾するがごとくです。
実際、異説はあるものの、中国ではこのような前置詞句の用法を、補語(後置修飾語)の用法と説明することが多いようです。
『体系漢文』では、この二様の表現を、訓読のしかたは異なると注意しつつも、同じ意味を表すと説明しました。
語順が異なることにより、語に対する重点の置かれ方が変わり、文意に微妙な差が生じることは十分考えられることですが、少なくとも高等学校の生徒には、前置詞句が前置されているか後置されているかで、いちいちどう訳せばいいかと頭を悩ます必要はないでしょう。
さて、『体系漢文』という書名をあげたエントリーにおいて、個人的な世迷い言のような考えを示すのは不適切かもしれないという気もするのですが、私自身は、前置詞の種類や、その用いられ方にもよるのですが、後置された前置詞句を単純に補語と言い切っていいのかどうかについては、最近少し疑問を感じるようになりました。
たとえば、
・比干忠而誅於君。(▼比干忠にして君に誅せらる。▽比干は忠義でありながら主君に殺された。)
・青、取之於藍、而青於藍。(▼青は、之を藍より取りて、藍より青し。▽青(の染料)はこれを藍草から取るが、藍草より青い。)
「誅於君」は、「誅於」とあるからこそ比干が受事主語であることを認定することができます。
言い方を変えれば、もし「比干誅」であれば、賓語がないのが不自然であるにせよ、比干が施事主語で誰かを誅殺したのかと解されてもしかたがありません。
それを前置詞句「於君」が述語「誅」を後置修飾して受身の対象の意味を添えるのだと言えば通るのかもしれませんが、なんだかしっくりときません。
また、「取之於藍」は、述語構造「取之」の後に前置詞句「於藍」が置かれたものですが、来源を表すにしても、これがもし「於庭」であれば、場所を表すことになります。
さらに、「青於藍」は、形容詞「青」に対して前置詞句「於藍」は比較の対象を表しているのですが、前置詞句自体は前の「取之於藍」と同じです。
つまり何が言いたいかというと、前置詞句が述語に後置された時、補語として述語を後置修飾すると言ってしまうのは簡単ですが、どのような内容を補足するかは、述語の品詞にもよるし、同じ品詞であっても述語の表す意味と、前置詞句の目的語である名詞がもつ意味との関連によって、複雑に変化するということです。
それだけ述語と前置詞は密接に結びついて、後の名詞との関係を示していると思うのですが。
実際、比干の例や「青於藍」の例は、前置詞句がなければ意味をなしえません。
そういうものを修飾句といっていいのかどうか、もっと統語論的な見方をする必要があるなと、『体系漢文』の用語の問題とは別に、個人的には思うのです。
長々と用語について述べました。