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『体系漢文』で用いる文法用語のこと・6(後置修飾語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。後置修飾語について。)

一般に漢文における修飾関係は、

修飾する語(修飾語)は、修飾される語(被修飾語)の前に置かれる

と説明されています。
たとえば、

涼風…修飾語「涼」→被修飾語「風」 涼しい風

再会…修飾語「再」→被修飾語「会」 再び会う

のようになるわけで、一歩踏み込んで「涼風」は連体修飾、「再会」は連用修飾と説明されることもあります。
ちなみに中国では、連体修飾語を定語(後の体言を限定修飾する語)、連用修飾語を状語(後の用言の状況を示す語)と呼んでいます。

『体系漢文』では、連体修飾語になる要素として「名詞」「形容詞」を挙げ、名詞や名詞句から構成される主語や目的語を修飾する成分とし、また、名詞述語を修飾する成分としても位置づけました。
また、連用修飾語になる要素として、「副詞」「前置詞句」を挙げ、主に動詞や形容詞から構成される述語を修飾する成分としました。

ただ、修飾語を説明する際に、

文の骨組みとなるそれぞれの成分に対して、原則として直前に修飾語が置かれることがある。

と説明した、この「原則として」という表現は微妙な言い方です。
得てして「原則として」というのは「例外もある」ということを想起させる物言いです。

漢文にも倒置構造はあり、たとえば「桃之夭夭」(▼桃の夭夭たる)のように、異説もあるものの連体修飾語の倒置と説かれる用法もあるのですが、この「原則として」は、そういう特殊な事例を想定したものではありませんでした。

初版の『体系漢文』では文法編で「さまざまな修飾語句」として修飾表現の例外のように扱っていた内容を、改訂版では「後置修飾語」と明示しました。
これが「原則として」という表現をさせた要因であり、そしてこれこそが古典中国語文法における「補語」(後置修飾語)に他なりません。

たとえば漢文には、「皇帝がとても怒る」という内容を表す時に、次の2つの表現があります。

・帝怒。(▼帝甚だ怒る。) …  →「甚」は連用修飾語(状語)

・帝怒(▼帝怒ること甚だし。) →「甚」は後置修飾語(補語)

これは、程度副詞の「甚」が、述語「怒」に前置されたもの、後置されたもので、前者は連用修飾語、後者が後置修飾語という成分になります。
(こうして二者を比較する上ではあまり問題にならないのですが、文の構造を解説する上で、不用意な「○○は□□を連用修飾する」という言い回しは、読み手に「『連用修飾』という用語が『述語に前置して修飾する』という書かれてもいない内容を意味するものと自分で補って理解せよ」と迫ることになると、編集員のKさんにきつく意見されたものです。)

「帝甚怒。」は、副詞「甚」が状語(前置連用修飾語)として、述語「怒」を修飾し、怒る状況の程度を示します。
「帝怒甚。」は、副詞「甚」が述語「怒」の後に置かれ、後置修飾語(補語)という補足成分として、やはり怒る状況の程度を示しています。

後置修飾語(補語)とは、すなわち述語や述語構造(述語+目的語)の後に置かれる修飾成分で、述語を補足する働きがあるわけです。
その意味で、「修飾語は被修飾語の前に置かれる」という表現は間違ってはいませんが、完全に正しいわけでもありません。

「帝甚怒。」も「帝怒甚。」も状況としては同じことを述べたもので、日本語訳する上では、どちらも「皇帝がとても怒る」とすればよいのですが、この「~すること…」という日本語表現は漢文訓読に由来するものとして、むしろ定着している感があり、必要がなければそのままでもよいかと思います。

『体系漢文』では、初学者を対象にしているものであり、(前置)連用修飾語の場合も後置修飾語の場合も等しく述語を修飾しているので、意味は変わらないとしました。
しかし、本来語順が異なるからには微妙な違いはあるはずで、個人的には「帝甚怒。」は「怒」に、「帝怒甚。」は「甚」に重きが置かれた表現ではないかと考えています。
古典中国語においては、後置された語に表現の重点が置かれる傾向があるように思うからですが、これについてはまだ私自身が不勉強の感があります。

補語(後置修飾語)については、用いられた時代や学者により、いくつかの見解の相違があります。
そもそも先秦においては補語は未成熟であるとするものや、賓語(目的語)そのものを補語とみなすべきだとする考え方等々。
『体系漢文』では、一般に古典中国語文法で広く用いられている「補語」という成分(といっても実は一部ですが)を、後置修飾語と位置づけ、前置連用修飾語とは区別しました。

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