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ユーザー「nakai」の検索結果は以下のとおりです。

「不己知」と「不知己」の違いは?

(内容:古代漢文において否定文で代詞が倒置されること、すなわち「不己知」と「不知己」について考察する。)

ずっと以前のことになりますが、小学校の入学式で、教室に「こんにちわ」と板書されていて、びっくりしたことがあります。
今時の若い先生は「こんにちは」が「今日は」の意味だというのをご存じないのかもしれないと思ったものです。
「今日は」の後には省略された内容があるのですが、それを知らないのはしかたのないことかもしれません。
「さようなら」も同じですね。
中国語で「再見」と言いますが、これは「また会いましょう」ということですからわかりやすい。
でも、なぜ別れを告げる時に「さようなら」というのかは、知らなければわかるはずもないことだし、なぜだろう?と思わなければ、それまでのことになってしまいます。
「こんにちは」が昼間に人と会った時の挨拶の言葉、「さようなら」が人と別れる時の挨拶の言葉とだけ認識するようになれば、そもそもなぜそう表現するのかということは忘れ去られていきます。

何が言いたいかというと、同じようなことが高等学校の漢文の授業の中にもたくさんあるということです。
ここのところのエントリーで、拙著の改訂を進めるにつれ、あれこれと気になること、疑問に思うこと、解決不能の問題等が生まれてきているということを述べてきましたが、本当にたくさんあります。

高等学校の先生方にとって身近なところから例を挙げれば、疑問代詞が賓語になる時、謂語に倒置される(=疑問を表す「何」「誰」などが目的語になる時、述語の前に置く)というのはどうでしょうか?
これを、ただ「『何を』とか『どこに』などの疑問を表す語は、述語の前に倒置するんだ!覚えとけ!」とやっておられないでしょうか?
副読本の参考書なんかには、「必ず倒置される」と言い切っている場合もあるようですし。

でも、もし、生徒が「先生、『何を』とか『どこに』という語は、どうして倒置するんですか?」と質問したとしたら、どうお答えになるのでしょう?
「それはそう決まっているんだ」と答えたら、それこそ「こんにちわ」と同じレベルになってしまいます。
例のチコちゃんがその場にいれば、きっと「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られてしまうでしょう。
でも、その「ボーッと生きてる」ことをやってしまっているのが、実際の授業ではないでしょうか?

では、偉そうに言うわたしはわかっているのか?といえば、それは怪しいものです。
ですが、なぜだろう?とは考えます。
本来「謂語+賓語」が鉄則の古漢語において、その規則を破って賓語を前に置くというのは、それなりの理由があるはずです。
賓語である疑問代詞を先に表現するというのは、言い換えれば問いたい内容を真っ先に表現しようとしたものではないでしょうか。
つまり、賓語の「何」や「誰」は、強調のために提示される語だと思うのです。
「食桃」(桃を食べる)は、「桃」に力点が置かれた表現ですが、「食何」(何を食べる)も「何」に力点が置かれているとはいうものの、それ以上に「何」を文頭に出して提示し、さらに強調しようとした。
それがいつか標準的な語順に定着したのだろうと思います。
したがって、「何食」(何を食べるか)は、形の上では倒置文ですが、むしろこれが普通の表現で特殊ではありません。
「食何?」という表現は特殊ではありますが、文法上無理な表現ではなく、これに類する表現は探せばいくらでもあると思います。
副読本の「必ず倒置される」は、そこまで考えて書かれたものでしょうか。

ちなみに「何憂」は、「何をか憂へん」などと読んで「何を心配しようか?」という反語的な意味をも表しますが、それは「どうして心配しようか?」にも通じ、「何」が副詞に転じていった可能性については、太田辰夫氏などが指摘しているところです。

さて、これまで述べたことが本題ではなくて、私が気になるのは、別の倒置の問題です。
それは、否定文における代詞賓語の倒置です。

・子曰、「不患人之不己知、患不知人也」(論語・学而)
(▽先生がおっしゃる「人が自分を理解してくれないことを気にせず、(自分が)人を理解しないことを気にかけるのだ。」)

・子曰、「莫我知也夫」子貢曰、「何為其莫知子也」子曰、「不怨天、不尤人。下学而上達。知我者、其天乎」(論語・憲問)
(▽先生がおっしゃる、「誰も私を理解してくれないなあ」。子貢が言う、「どうして先生を理解しないのでしょうか?」先生はおっしゃる、「天を怨まず、人をとがめず、下のことに学んで、上天に達する。私を理解するのは、天であろう。」)

この「不己知」や「莫我知」などの構造は、授業などでも「否定文における代名詞の倒置」として説明されるのではないでしょうか。
実際、「不己知」については、その後に「不知人」とあり、それは正規の語順です。
また、「莫我知」についても、子貢が「莫知子」といい、また孔子も「知我者」と言っており、代詞以外は倒置されないこと、肯定文では倒置されないことがわかります。
この2例に限らず、古代の漢文においては、同様の例が多く見られます。

一方で、では「不知己」という表現がないのかといえば、決して数は多くないものの、次のような例があります。

・君子詘於不知己而信於知己者。(史記・管晏列伝)
(徳のある人は自分を理解しないものには屈するが、自分を理解するものには伸びやかになる。)

また、「莫知我」については、『史記』で、先に引用した孔子の嘆きの言葉が、次のように記載されています。

・喟然歎曰、「莫知我夫」(史記・孔氏世家)
(ため息をつき嘆いて「誰も私を理解しないなあ」とおっしゃった。)

これらを見る限り、古代においても、否定文で代詞が必ず謂語に前置されるとは限らないことがわかります。
これはいったいどういうことでしょうか。

代詞が賓語の時、もともとは謂語に前置するものであったと説く論文をどこかで読んだような気がしたので、手元の資料を探してみました。
直接的には見つからなかったのですが、非常に興味深い論文を見つけました。
鈴木直治氏の『古代漢語における強調の表現について』(1976)です。
この論文を読んだ記憶が、どこかで読んだという気にさせたのでしょう。
その中で、氏は黎錦煕が『比較文法』の中で、「漢語においては、代詞は、賓語として用いられる場合、もともとは、すべて、その動詞の前に倒置することができるものであった」として、その推論の論拠としていくつかの書経や詩経、左伝の例を挙げていることを紹介しています。

また、鈴木氏は、さらに王力が『漢語史稿』において、「原始時代の漢語においては、代詞が賓語として用いられる場合、その正常な位置は、もともと、動詞の前におかれるものであったろう」と述べていることも紹介しています。

これがどうも記憶に残っていたもののようです。
黎錦煕の「代詞が賓語である時、謂語動詞の前に置くことができる」という説は、例証がある以上、あるいはそうなのかもしれません。
しかし、王力の「代詞が賓語である時、正常な位置は動詞の前であった」というのは、それを裏付ける資料が出てこない限り、想像の域を越え得ないものかと思います。

したがって、「不己知」と「不知己」の二様の表現がある以上、王力が説くように、本来は「不己知」の語順であったものが、一般的な語順に吸収されて、「不知己」のようにも表記するようになったのかも知れず、また、まったく別の理由で二様の表現があるのかも知れません。

鈴木氏は、この問題を「漢語の表現法における強調のしかたの一種としてとらえるべきものであろう」として、次のように述べています。

古代漢語においては、その賓語に対する動作の方を強調するために、その賓語が代詞である場合、その基本構造としての語順を変えて、その強調しようとする動詞の方を後置するということも、よく行われていた。このような語順の変換も、古代語におけるきわめて特異な許容であったものということができる。しかし、このような語順の変換は、否定句においては、その例が、かなり多いのであるが、肯定句においては、その例が、きわめて少ない。これは、そのような語順の変換は、肯定句においては、主述関係の構成のものと誤解される恐れのあったことによるものと考えられる。

これによれば、たとえば、「不己知」と「不知己」の例の場合なら、前者は「知」が強調され、後者は「己」が強調されるということになります。

その動詞に重点をおいて、それを強調するために後置しているのであって、そのために、その賓語としての代詞が、前の方に押し出されているものということができる。

つまり、「不己知」は、動詞「知」に重点をおいて、それを強調するために句末に後置しているのであって、賓語「己」が、前の方に押し出されているというわけです。
「不己知」は「自分を『理解し』てくれない」で、「不知己」は「ほかならぬ『自分を』理解してくれない」になるでしょうか。

ここまで調べ考えてきて、思い出しました。
このことについても、松下大三郎氏の『標準漢文法』に触れてあったはずです。

漢文の客體關係に於ける成分の排置には何故にこんな例外が出来たのであらうか。學問上には例外といふものは絶對に有るべからざるものである。若し有りとすれば其れは例外ではなくて別の原則に支配される一現象でなければならない。

という震えるような言葉に続いて、

私の考へでは漢文でも原始的時代には客語が上に在つて成分の排置は凡べて日本語と同様順置法であつたらうと思ふ。唯主客の混同を防ぐ必要から自然に今日の逆置法が發達したものだらうと思ふ。

これは王力と同様、想像の域を越えるものではないのですが、

所が客語が代名詞形式名詞たる場合は、客語が歸著語の上に置かれても、上に「不」未」莫」等が有る以上は、主客の混亂といふことは絶對にない。何となれば主語ならば「不」未」莫」などよりも上に置かれる。例へば「人不信我」を「人不我信」としても「我不信人」とは違ふ。其處で代名詞形式名詞が客語たる場合は、その連詞が肯定ならば一般の法則に從ひ、否定ならば一般の法則に從つてもどちらでも善いといふことになつたのだらうと思う。されば否定の場合には古より兩方が行はれてゐる。

鈴木氏の指摘と相通じるものです。さらに、

然るに其用例の數の上から特殊法則に從つたものが懸離れて多いのはなぜであらうか。それは兩者の意義の工合が違ふことに基因すると思ふ。

この意義の相違が問題です。

「不害我」と「不我害」は同一意義であるとは云つてもその間に形式的の相違が有る。凡そ詞の排置が變つて意義が全然同一形式に表はされる場合はない。然らばどんな相違が有るかといふと
  イ 人不我害――――い 人不加我以害
  ロ 人不害我――――ろ 人不以害加我
(イ)は(い)の意、(ロ)は(ろ)の意であらうと思ふ。

松下氏は、この違いを「概念の新旧に関する問題」と説明するのですが、これはいわゆる未知情報と既知情報にあたり、未知情報により重きが置かれるわけですから、イは「害」に、ロは「我」に重点が置かれることになります。

説明のしかたは異なりますが、鈴木氏の見解と結論的には一致することになりました。

この「否定文における代詞賓語の倒置」は、そうと決まっているものではない。
倒置されるには倒置されるだけの理由があるのでしょう。
簡単に「不己知」と「不知己」が同じだなどと片付けてはならない問題なのだと思います。

ただ、この相違が後世もずっと意識されていたかといえば、おそらくそうではなく、たとえば「さようならばこれにて失礼つかまつりまする…」が単なる別れの挨拶になり、「今日はご機嫌如何でございまするか」が昼間に人と会った時の挨拶の言葉になってしまったように、忘れ去られてしまった経緯はあるかもしれません。
ただ、そこに思いを致さず、決まり切ったことのように述べたり、結論だけを形式的に教えたり学んだりしてしまえば、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られてしまうのではないでしょうか?

負傷しまして

  • 2020/07/23 14:07
  • カテゴリー:その他
(内容:自転車で転倒したエピソード。)

今朝方、自転車で走行中、濡れた金属か何かの上でブレーキをかけた瞬間、スリップして右から横転、体を守ろうとして、右腕を負傷しました。
下り坂でそれなりのスピードが出ていたため、かなりひどい転倒のしかたをしました。(5分ほど起き上がれず…)
外科で診ていただきましたら、さいわい骨折や脱臼はなかったのですが、どうやらひどい打撲のようで、まったく右肩が自力では上げられない状況です。

この連休は趣味でしたいこともありましたし、拙著の改訂を進めたいという思いもあったのですが、ちょっと無理ですね。
なにしろ右手で本を持てない状況なので。(なんとかキーボードは叩けますが…)

なんとか連休の間に痛みが引かないと、教師にとって利き腕は命、黒板に字を書けませんから大変です。
それに、研究で利用する工具書には重いものが多い。
さっき、漢和辞典を持ってみましたが、とても痛くて耐えられない。
これ、ちょっとやっかいですね。

いい年をして自転車なんぞを走らせるから、こういう目に遭うのですが…
この先、少し不安です。

解けない問題「自非~」(~に非ざるよりは)の「自」は仮定を表すか?

(内容:古典中国語文法において仮定と説明される「自非~」の形が、本当に仮定表現であるかについて考察する。)

拙著改訂の過程で、容易には解けない問題にぶつかることが多いと前エントリーで述べましたが、仮定の章でも、なかなか難しい問題にぶつかりました。

「自非A、B」(Aに非ざるよりは、Bす)という仮定表現に用いられる「自」は、中国では「苟」(いやしクモ)に相当する仮設連詞(仮定の接続詞)と説明されています。
たとえば、次のような例があります。

自非聖人、外寧必有内憂。(春秋左氏伝・成公16年)
(▼聖人に非ざるよりは、外は寧んずとも、必ず内憂有り。)

文の趣旨は「聖人でなければ、対外的には安定しても、必ず国内に問題を抱える」という意味になります。

しかし、なぜ「自」が仮定の意味を表すのでしょうか?

そもそも「自」という字は、「鼻」の象形文字であって、自分を示す時に鼻を指すことから、自分の意をもつようになったとも、単に音を借りたものともいわれています。
自分を起点として「みずから」、物事の始めの意味から「本来」「おのずから」という副詞の働きが生まれ、時や場所の起点を表したり、「~を基準として」というよりどころの意味を表す介詞としての用法が生まれたというのは、納得のいく解釈です。
しかし、「もし」という仮定の接続詞としての働きがどこから生まれてくるのかは、どうにも釈然としません。
しかも、「非」を伴う「自非」にほぼ限定された用法であるのも首をかしげたくなることです。

手許の漢和辞典をいくつか開いてみましたが、「自」が仮定を表すと述べてあるものはあっても、それがなぜかまで説明してあるものは見つかりませんでした。

清代の学者はどう説明しているのかと思い、劉淇の『助字弁略』を開いてみました。
「自非聖人、~」の例も引用されていますが、そうではない形も多く引かれていて、最後にひとまとめに次のように書かれています。

諸自字並是語助、不為義也。案、説文自亦作白。解云、此亦自字省。白者、詞言之気従鼻出与口相助也。然則自本是語声、故用為助句也。
(これらの「自」の字は、ともに語助で、意味をなさない。案ずるに、『説文解字』に「『自』はまた『白』(シロ「白」とは異なる、「自」の別字)に作る」という。(白の)解に、「これもまた『自』の省略である。『白』は、ことばの語気が鼻から口と出て互いに助けるのである。」とする。そうだとすれば、『自』はもともと語気であり、だから助句とするのである。)

これまた訳にやや自信がありませんが、要するに語助であって、具体的な意味はないというわけです。
これを見る限り、仮定の接続詞を匂わせるような記述はありません。

王引之の『経伝釈詞』には、先の左伝の例を引用して、次のように書かれています。

自猶苟也。成十六年左伝曰、自非聖人、外寧必有内憂。言苟非聖人也。
(「自」は「苟」と同じである。春秋左氏伝成公16年に、「自非聖人、外寧必有内憂」という。「もし聖人でなければ」というのである。)

呉昌瑩の『経詞衍釈』にも、次のように書かれています。

自猶苟也。
(「自」は「苟」と同じである。)

そしていくつか例が挙げられているわけですが。

・子曰、行束脩以上、吾未嘗無誨焉。(論語・述而)
(先生は「もし束脩を行ったからには、私は教えることがなかったことはない。」とおっしゃった。)

「束脩」には諸説あるのですが、初めて師に対面するときに持参する一束の干し肉で、礼として用いたもののようです。

・楽正子春之母死、五日而不食。曰、吾悔之、吾母而不得吾情、吾悪乎用吾情。(礼記・檀弓下)
(楽正子春の母が亡くなり、(子春は)五日間ものを食べなかった。(子春は)「私はこれを悔いている。もし私の母にして私の思いを得なければ、私はどこに私の思いを用いようか。)

・君子入官、行此六路者、則身安誉至、而政従矣。(大戴礼記・子張問入官)
(君子が役所に入って、もしこの六つの道を行えば、身は安らかに誉れは至り、政治は従われる。)

太子居城父、将兵、外交諸侯、且欲入為乱矣。(史記・伍子胥列伝)
(もし太子が城父に居城して、兵を率い、外は諸侯と交われば、(楚国に)入って乱を起こそうとするでしょう。)

・意者臣愚而不概於王心邪、亡其言臣者賤而不可用乎。自非然者、臣願得少賜游観之間、望見顔色。(史記・范雎蔡沢列伝)
(思いまするに、私が愚かで王様のお心に注ぎ込まないのでしょうか。それとも私を推薦するものが卑しくて用いることができないのでしょうか。もしそうでないのでしたら、私はどうかしばらく遊覧のお暇をいただいて、王様のご尊顔を遠目に拝見したいものです。)

引用された例に、前後を補って、文脈がわかるようにしてみました。
なるほど確かに「自」を「もし」と解することはできないことはないように思います。(4つめの例はかなり苦しいと思いますが。)

以上を見るに、すでに清代に「自」は仮設連詞「苟」の義で解する説があったことがわかります。
『助字弁略』が仮設連詞の義に言及していないのは、他書に先駆けて書かれたものだからでしょうか。

以降、「自」を仮設連詞とみなす説は受け継がれ、楊樹達も、

仮設連詞 苟也。恒以自非連用。(詞詮・巻六)
(仮設連詞 「苟」である。常に「自非」の形で連ね用いる。)

と述べ、それ以降の虚詞詞典はほとんどすべて右へならえです。

この「自」を仮設連詞と解釈することができるのは、その置かれる位置が複文の前句の先頭に置かれているためですが、しかし、気をつけなければならないのは、介詞の「自」や副詞の「自」も、文意によってはこの位置に置けるということです。

少なくとも「自非」の形をとらない例、たとえば『経詞衍釈』に引用された例の多くは、「自」を「もし」に解さなくても、意味は通ると思います。

『論語』の「自行束脩以上」は、「束脩を行うより以上は」と解せるでしょう。
『礼記』の「自吾母而不得吾情」は、「私の母からして私の思いを得なければ」と解せないでしょうか。
『大戴礼記』の「自行此六路者」は、「自らこの六つの道を実践するものは」とも解せます。
『伍子胥列伝』の「自太子居城父」は、「太子が城父に居城してから」と解せます。

問題は、『范雎列伝』の「自非然者」です。
まさに「自非~」の形をとっていますが、先の『左伝』の「自非聖人」と異なるのは、「者」の時を伴っている点です。

この「自非~」の形式については、劉瑞明の「“自”字连续误增新义的清理否定——词尾“自”的深化研究」という論文に言及されています。
それによると、中国の言語学者である兪敏は、著書『経伝釈詞札記』で、「自非聖人、~」について、「非聖人」は「聖人の立場に至らない」の意とし、「自非聖人」とは「自聖人以下」、つまり、凡人から聖人に準じる人まで含めて「聖人以下の人」と解して、王引之が『経伝釈詞』で「自」を「苟」と説明したのを軽率な解釈と批判しました。

この説に従えば、「自」は介詞で、「自非A、B」は「Aに非ざるもの自り、Bす」(Aではないそれ以下のものは、Bする)と解し、仮定文ではないことになります。
『左伝』の「自非聖人、外寧必有内憂。」は、「聖人に非ざるものより、外寧んずとも必ず内憂有り。」となるわけです。

一方、王克仲や趙京戦の説も引用されていて、「自」を「本」や「原」の意と解しています。
つまり、「本来Aでなければ」と解するわけです。
これだと「自」は副詞になります。
しかし、『左伝』の例や、先の『范雎列伝』の例を見るに、「自非聖人」を「本来聖人でないと」と解したり、「自非然者」を「本来そうではないのなら」と解釈するのは、いささか不自然な感じを否めません。
また、「自非然者」を「そうでないもの以下」と解するのは、とても無理でしょう。

これはまた臆説になりますが、
「~以下」とは解せないけれども、範囲の外にあるものを指して「~でないものより以外」と解するのはどうでしょうか。
つまり、そうでないものを起点として「そうでないものに含まれるものはすべて」すなわち「そうでない限りは」の意です。
それなら「自」を介詞とし、「者」を場合と解して、「『然るに非ざるより』『者』」、つまり「『然るに非ざるより』とある『場合』」となるわけです。

「自非~」は、「自」が仮設連詞だから仮定を表すのではなく、言語環境が仮定の意をもたせるのではないでしょうか?

いったい、文意やその語の置かれる位置が、たまたま他の語と同じである、または近ければ、そう解釈する方が自然だという立場から、その語に本来ない語義や働きを付加するところがあるのではないかと疑いの念を持ちます。
兪敏や王克仲、趙京戦の試論は、そういう傾向に斬り込んだものではなかったでしょうか。

この是非については、とても私には判断を下せませんが、語法を説くものはその大本に斬り込んでいく姿勢がなければならぬと思います。

「自」が仮設連詞である理由が合理的に説明されていないので、また1つ解けない問題として示しておきたいと思います。

解けない問題「何則・何者」

(内容:「なんとなれば」と訓読する「何則」「何者」を文法的にどのように説明するべきかについて考察する。)

拙著の改訂を進めていて、容易には解けない問題にぶつかることがたびたびです。
最初に書いた時は、自らの分析よりは中国の語法学で一般に述べられていることを、いわば引き写すように書いていましたから、これはそういうふうに考えられているとすれば済みだったのでした。
しかし、今回の改訂では、たとえ管見であれ、自分なりに納得いく説明がつかないと、それなりの自信や責任をもって書けないと思うのです。

今、容易には解けない問題にぶつかっています。
それは、「何則」「何者」です。
日本では、古来「何となれば」と読んでいます。
2文からなる前文で、疑問とすべき内容を述べ、後文の先頭に「何則」「何者」を置いて、「なぜなら~」と示して、続いて理由を説明するものとして取り扱ってきました。
しかし、中国の語法学では、前文の後に置かれて、「~。何則?」「~。何者?」と切るものとして説明されています。
つまり、「~。なぜか?」という意味だというわけです。
あたかも「~。何也?」(~。なぜか?)と同じだというように。

しかし、それは本当なのでしょうか?

「何者」「何則」が独立句で、「なぜか?」という意味を表すという説明がいつからなされるようになったのか定かではありませんが、清の劉淇の『助字弁略』に次のように述べられています。

何則、何者、並先設問、後陳其事也。(助字弁略・巻2)
(「何則」、「何者」は、ともに先に問いを設け、後でその事情を述べるのである。)

この「先に問いを設け、後でその事情を述べる」というのが、前文の末尾に、「~。何則?」のような形式をとるということを指しているのか、「なぜかというと」と先に述べた上で、続いて「~だからだ」と説明することを指しているのか、今ひとつよくわかりません。

しかし、現在の虚詞詞典では、「~。何則?」という独立句として説明されています。
この場合、「則」「者」がどういう働きをしているのかというと、たとえば解恵全は、「何則」の項で、次のように述べています。

此条“何则”单独成句,用以提出设问,下面接着作答。“何”做谓语,“则”为语气词。(古書虚詞通解)
(この条の「何則」は単独の成句で、それを用いて問いを示して、下文に続いて答えをなす。「何」は謂語で、「則」は語気詞である。)

さらに「何者」の項では次のように述べています。

此条用法同“何则”。“者”为语气词。
(この条の用法は「何則」に同じ。「者」は語気詞である。)

これが代表的な解釈で、要するに「則」「者」は、共に語気詞だとみなされているわけです。

「誰加衣者。」(誰か衣を加ふる者ぞ。)とか、「誰可伐者。」(誰か伐つべき者ぞ。)などの例があり、「者」が疑問の語気詞とされる通説からは、あるいは「何者」の「者」が疑問の語気詞だと説明されるのは、それなりにそうかもしれないという気にはなります。
(もっとも、この「誰~者」の「者」を語気詞とするのは、通説ではあっても、私自身は疑義を抱いています。この「者」は依然として「~」により実質的な意味が補われて人を指す形式的な語ではないかと思うのです。結構助詞ですが、そういう働きのある特殊な代詞だと。)

しかし、「何則」の場合は、「則」が語気詞だというのは、いかにも妙です。
これについては、尹君の『文言虚詞通釈』の「則」の項に、次のように述べられています。

“则”和“哉”,古音同属“精”母,“哉”属“之”韵,“则”属“职”韵,读音是差不多的,所以相通假。
(「則」と「哉」は、古音が同じく「精」母に属し、「哉」は「之」韻に属し、「則」は「職」韻に属して、読音があまり違いがない、だから相通じるのである。)

音韻学の知識はないので、古音が通じるからだと説明されてしまうと、黙るしかないのですが、「何則」は、しかし特別な解釈をしなくても説明がつくのではないかと思うのです。
これはあくまで臆説になりますが…

・知伯之伐仇猶、遺之広車、因随之以兵、仇猶遂亡 [何則] 無備故也。(史記・樗里子甘茂列伝)
(知伯が仇猶(=北方の異民族)を攻める際、(まず)これに幅の広い車を贈り(道を広げさせてから)、その機に兵を送り込み、仇猶はこうして滅んだ [何則] 防備がなかったからである。)

この例の場合、日本では、「何となれば(=何則)、備え無きが故なり」と読み、「なぜなら防備がなかったからである」と解釈します。
一方、中国では「…、仇猶遂に亡ぶ。何ぞや(=何則)。備え無きが故なり」と読むべき解釈になります。

そもそも「則」は、前に述べられた内容を引き受けて、「その場合は」「その時は」のような意味を表して仮定的な内容を後に取ることもあれば、複数の場合について、Aについて「それは」、Bについて「それは」と、区別して後にどうであるかという叙述を待つ働きもします。
私は、この「何則」の「則」も、後者に近い用法なのではないかと思うのです。
つまり、

…仇猶遂亡、何。則無備故也。

と切って、「仇猶遂に亡ぶは何ぞや。則ち備え無きが故なり」と解する。
「仇猶がこうして滅んだのは、なぜか。それは防備がなかったからである」という意味ではないでしょうか。

ちなみに、古い話になりますが、『馬氏文通』の代字の項「何」で、馬建忠は次のように述べています。

此〈何〉字亦表詞也。猶云「上言如是是何也」,〈則〉字以下,申言其故。経生家皆以〈何則〉二字連続,愚謂〈何則〉二字,亦猶〈然而〉両字,当析読,則〈則〉字方有著落。且〈則〉字所以直接上文,必置句読之首,何独於此而変其例哉。(馬氏文通・実字巻2)
(この「何」の字も表詞(=謂語)である。「上にこのようにいうのはなぜか」と言うのと同じで、「則」の字以下は、重ねてその理由を述べる。経生家(経書研究の清代の学者のことか)はみな「何則」を二字連続とするが、私が思うに「何則」の二字も、「然而」二字と同じで、分けて読むべきであって、そうすれば「則」の字は、きちんと配置する。さらに「則」の字は上文を受けるので、必ず句読(ことばの休止する箇所)の最初におく。どうしてここでだけその規則を変えたりしようか。)

訳にやや自信がないのですが、ここでいう「経生家」とは、先に紹介した劉淇のことを指しているものと思われます。
馬建忠の解釈は、私の解釈と同じですね。
ただ、この説は、現在のところ支持されていないようです。


次に、「何者」ですが、これは「者」が疑問の語気詞だとすれば、それで通ってしまいます。
手許の虚詞詞典を見る限り、ことごとく「何也」や「何哉」と同じ扱いになっています。
尹君『文言虚詞通釈』に、近指代詞として、「这」と同じで「这样」と訳すとあるばかりです。
つまり、「何者?」は、「どうしてこのようなのだ?」と解するわけですが、これはさすがにどうでしょうか。

「者」の字は、語気詞とも結構助詞とも説明され、さまざまな用法が論じられます。
しかし基本的には、先行する叙述部を受けて、自身に意味を補い名詞句を作る特殊な代詞であろうと思います。
補った結果、動作行為の主体を表したり、原因理由を表したり、色々と働きがあるわけです。
以前、松下大三郎氏の『標準漢文法』を読んだ時、「者」の働きについての記述に、とても興味をひかれました。
上の語をうけて、「者」が「時」「場合」を指すことがあるとして、「何者」についても触れてありました。

又「何者」は「何となれば」と讀む習慣である。(用例略)
この「何者」は「何ぞやとある場合」の意である。「何」が模型動詞なのである。「何となれば」と讀むものには「何則」が有る。「何」だけでもそう讀む場合がある。皆模型動詞である。

模型動詞というのもおもしろいのですが、これは詳しくは『標準漢文法』を読んでいただくとして、「何」(なぜか?)という、実際に人が発音する「ことばの模型」を作って作用を表す動詞だということです。
だから、「何ぞやとある場合」というは、「『何ぞや?』とある場合」の意で、「何ぞや」の部分が模型動詞にあたるわけです。
そして、「者」は、「何ぞやとある『場合』」で、「何ぞやとある」によって「者」に意味が補われ、「何者」が「何ぞやとある場合」という意味になる。
間違っているかもしれませんが。

少なくとも私は、「何者」は、「~。何者?」あるいは「~、何者?」ではなく、「何者、~」であろうという気がしてなりません。
その意味で、「何となれば」という日本の読みのほうが妥当なのではないかと思うのですが、これについては、もっともっと語例にあたり、検証が必要なことです。

今のところ、まだ「解けない問題」として位置づけておくべきかと、思っています。

『人面桃花』「以杯水至」の「以」の意味は?

(内容:『本事詩』の「人面桃花」に見られる「以杯水至」の句の「以」の意味について考察する。)

学校再開後、授業の遅れを取り戻すべく、本校も国語科の若い教員たちが、はりきって授業をしています。
たまたま廊下を通ると、3年生の漢文で『本事詩』のいわゆる「人面桃花」を授業している元気な声が聞こえてきました。
3年生の授業でも文の成分に言及している声に、漢文を構造的に教えたいという情熱が伝わってきて、うれしくなります。

そういえば「人面桃花」の授業はしたことがないなと思いつつ、教科書をめくりながら、そうそうこういう話だったと思っていると、ふと次の一節が目に入りました。

・女入、以杯水至、~
(女入りて、杯水を以て至り、~)

主人公の崔護の「酒渇求飲」(酒を飲み喉が渇いたので、水がほしい)という要望に対する、ある邸宅の娘の動作です。

言わんとしていることはもちろん「杯に入った水をもって来る」ということです。
ただ、それではこの「以」はどういう働きをしているのでしょうか。

私的にはおそらく「与」の意では?と思いながら、ちなみに指導書などにはどう書かれているのだろうと思って調べてみましたが、意外にも説明がありません。
該当箇所の前後にある「以」について、「以姓字対」(姓字を以て対ふ)には「姓と字を答えて」と訳して、「以」が対象を表すとし、「以言挑之」(言を以て之に挑む)については「言葉をかけてこの娘の気を引こうとする」と訳し「以」は手段を表す用法と説明してあるのですが。
いわゆる対象や手段を表すのは介詞「以」の基本的な用法です。
説明してあるのはもちろん丁寧ですが、基本的な用法とはとても思えない「以杯水至」の「以」はどう説明すればいいのでしょうか?
一般に「一杯の水を持って戻ってきて」と訳す「持って」の意味だというわけでしょうか。

それで、授業を頑張っていた若い教員に、試しに「『以杯水至』の『以』って、どういう意味?」と尋ねてみると、「対象の用法だと思っていました」との答えでした。
対象の用法なら、「杯の水を至る」もしくは「杯の水に至る」ということになってしまうわけで、もちろん妥当ではありません。
たとえば、「以杯水進」(杯水を以て進む)なら、「杯の水をすすめる」なので対象とも言えるでしょうが。

この「以」は「与」に通じる用法ではないかと思っていた時、ふと別の一節が思い浮かびました。
『後漢書』のいわゆる「梁上君子」の、次の一節です。

・習以性成、~

これはよく「習ひ性と成り、~」と読まれています。
これについてかつて自分は明確な判断ができず、あるいは「習ひて以て性成り」と解したことを思い出しました。
岩波書店の吉川忠夫氏訓注の『後漢書』でそう読まれていたのが、後押しになったのですが。
しかし、考え切れなかったことは、若い教員と変わりません。

西田太一郎氏は『漢文の語法』(角川書店1980)で、次のように述べています。

習慣が身につくと性質もそれに伴って固定してしまう。○書経太甲上「習与性成」と同じ。これを日本語で考えて「習慣が性質となる」と訳している本があるが、初歩的な大きい誤りである。「習慣が性質といっしょにできあがる→悪い(または良い)習慣が身につくと性質も悪く(または良く)なってしまう」の意。孔穎達の五経正義「習行此事、乃与性成」(此の事を習行し、乃ち性と成る)、五経大全「与性倶成」(性と倶に成る)、王夫之の尚書引義「習成而性与成也」(習ひ成りて性与に成るなり)を参考。またこれに似た表現は孔叢子の執節篇「習与体成、則自然矣」(習ひ体と成れば、則ち自然なり)、大戴礼保傅篇「習与智長、化与心成」(習ひ智と長じ、化心と成る)(漢書賈誼伝・新書保傅篇も同じ)、淮南子氾論訓「法与時変、礼与俗化」(法は時と変じ、礼は俗と化す)、韓愈の送董邵南序「風俗与化移易」(風俗は化と移易す)などがある。この「甲与乙……」の場合、甲乙同時か、甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる。

多くの用例が挙がっていますが、いずれも「与」の例で、「以」の用例ではないことが残念です。
しかし、これだけ似た表現の例があれば、「習以性成」が、「習与性成」と同義であり、「以」が「与」の義で用いられている可能性は極めて高くなります。
もっとも、西田氏の記述の最後のくだり、「甲与乙……」の「甲乙のいずれが主動者であるかは、その場合の文脈によってきまる」という部分は、果たしてそうだろうかと疑問には感じます。

介詞「以」が「与」の義で用いられることについては、各種虚詞詞典にも触れられています。
たとえば、解恵全 等による『古書虚詞通解』(中華書局2008)には、楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』等の説を引用紹介した上で、次のように私見を述べています。

此项用法由动词带领义或连及义虚化而来。
(この項の用法は、動詞の率いるの義、または関連するの義が虚化したもの。)

「以」の字の原義については諸説ありますが、古代の曲がった農具で土を掘る「すき」をかたどった「㠯(ム)」と「人」からなり、人がすきを持つ姿だといいます。
すきを用いて耕作することから「用いる」が本来的な意味で、「連れる・率いる」の意味はその引申義でしょう。
動詞「用いる」の働きが虚化して引申義として「~を用いて・~で」という介詞の働きが生じ、さらに「~を用い根拠として」から「~を理由に」という意味、「~を用いて~する」から「~に~する」、「~を~する」という動作の及ぶ対象を表すなどの意味を派生しました。

したがって、動詞「以」の「率いる」の義は、比較的原義に近いものになります。

・宮之奇以其族去虞。(史記・晋世家)
(▽宮之奇はその一族を引き連れて虞の国を去った。)

などは、「以」が動詞「率いる」の意味で用いられた例になります。

これが介詞「与」と同義、もしくは近い義の介詞としての用法になったわけです。
したがって、「習以性成」を「習与性成」と同じ、または近い表現だと考えるのは、あながち無理とはいえません。
ただし、西田氏も指摘しているように、「習慣が性質となる」という、「習慣が変化して性質となる」という意味でないことは言うまでもありません。

私は、「習以性成」は、「習慣が、性質を率いて、できあがる」、つまり、「習慣が、性質とともにできあがる」の意であろうと思います。
その意味で、西田氏の見解と同じなのですが、しかし、かりにこれが「習与性成」であったとしても、あくまで「習」が主であって、「以性」や「与性」は「以」(与)が目的語の名詞「性」を伴って実質的な意味が補われ、「与性」が副詞的に「成」を修飾しているのであって、あくまで主は「習」にあり、「性」にはないのではないかと思います。

さて、話を最初に戻して、「以杯水至」は、果たして「与杯水至」と書き換えられるかどうかはわかりませんが、「杯水を引き連れて至る」、あるいは、「杯水とともに至る」の意であろうと考えます。
もちろん意訳であって、「以」は介詞であり、動詞だというのではありません。
ですが、かなり原義に近い動詞的な用法ではないかとも思います。

その意味で、「一杯の水を持って戻ってきて」という一般的な訳は間違ってはいませんが、なんだか怪しい、「杯水を引き連れて至る」「杯水とともに至る」となんだか違うような気がするのです。

子供のように喜ぶ

  • 2020/07/08 18:58
  • カテゴリー:その他
(内容:2冊めの松下大三郎著『標準漢文法』を入手した喜び。)

少し前から、ほしい、ほしいと思っていた本がありました。
それはもう1冊の松下大三郎著『標準漢文法』です。
ずっと昔に買ったのは、職場に置いていて、最近は何か気になることや知りたいことがある時に、手にする書籍の1つになりました。

ですが、この本、かなり分厚く重い。
自宅で読みたくなっても、そうそう持ち帰るのは難儀です。
しかも、どんどん崩壊が進んでいて、もう何度木工用ボンドで補修したことか。
できればもう1冊ほしい、そう思い続けてきました。

国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することはできますし、画像データを手元に置くことも可能です。
しかし、おそらく多くの方に同意していただけると思いますが、書籍というものは、やはり紙の便利さにかなうものはありません。
少なくとも、昭和生まれ昭和育ちの私たちの年代はそうではありませんか?

先日、ついに注文してしまいました。

購入した『標準漢文法』の画像

今日自宅に帰ると、分厚いレターパックが届いていました。
少々高くつきましたが、紀元社の昭和2年初版本です。
前からもっていたのは、あちこちに誰かの書き込みがあって、けっこうガタガタだったのですが、これは状態もかなりいい。

もう子供のように嬉しくて。

稀覯本でもあるまいし、初版本にこだわる意味はないのですが、なんだかそれも嬉しい。

これで、いつでも読むことが可能になりました。
春先に読んだ時、気になる記述がいくつもあったので、手元に置いて、またじっくり目を通したいと思います。
この書を読むと、頭がグラグラ揺さぶられるのですが、一方でこれまで歩んできた古典中国語文法の道に、別の角度からの光が当てられて、視野が広がるような気がします。

今気になっているのは、「者」と「其」、読みながらじっくり考えてみたいと思っています。

「孰若」「孰与」はなぜ選択を表すのか?

(内容:「孰若」「孰与」がなぜ選択を表すのか、また、2つの用法の違いについて考察する。)

拙著の第3部「句式編」の改訂を進めています。
遅々たる歩みなのですが、ようやく「選択」の章に到達しました。
改訂を進めながら、前著でどれほどいい加減なことを書いていたのだろうと思い知ると共に、次々と新たな疑問が生まれ、そのたびごとに調べ考察を加えてきました。
ついには、すでに公開した第2部「構造理解編」にも、まだ色々と問題があるなあと思う始末。
いずれ、さらなる手直しはしたいと思うのですが。

このブログでは改訂を通して問題にしたことについて、少しずつ取り上げていきたいところです。
とりあえず、最近、疑問を感じたのは選択を問うという「孰若」「孰与」です。

どちらも「いづれぞ」と熟して読まれます。

・与其有楽於身、孰若無憂於其心。(韓愈「送李愿帰盤古序」)
(▼其の身に楽しみ有らんよりは、其の心に憂へ無きに孰若(いづ)れぞ。 ▽身に楽しみがあるのと比べて、その心に憂いがないのはどうか。)

・公之視廉将軍、孰与秦王。(史記・廉頗藺相如列伝)
(▼公の廉将軍を視ること、秦王に孰与(いづ)れぞ。 ▽あなた方が廉頗将軍を見ることは(→廉頗将軍に対する見方は)、秦王と比べてどうか。)

いずれも有名な例です。
特に後者は教科書にもよく載っていますから、学校現場でも生徒に向かって、「与其A、孰若B」(其のAせんよりは、Bするに孰若れぞ」とか、「A孰与B」(AはBに孰与れぞ)は選択を表す重要句形だから覚えなさい!とやっておられることと思います。

しかし、なぜ「孰若」「孰与」が、そのような意味を表すのでしょうか?

例によって、まず手近なところで『漢詩・漢文解釈講座』別巻「訓読百科」(昌平社 1995)を開いてみました。
しかし、「二つのものを比較して、どちらかを選択する形。」とあるだけで、他には特に説明がありません。

次に『研究資料漢文学10』「語法・句法・漢字・漢語」(明治書院 1994)を見てみました。
すると、次のように書かれています。

「孰与」「孰若」は、どちらも二語熟して「いづれぞ」と読み、二つのものを比較・選択する語法である。「孰若」は、上に「与其(その……よりは)」を伴うことが多い。疑問詞「孰」を用いての反語の形が本来の読み方である。その下のものが選択されるのが原則である。

そして、「『孰』を用いての反語の形が本来の読み方である」について、注として『訓訳示蒙』が引用されています。

「孰与」ト「孰若」ハ共ニ、下カラ反リテ、「イヅレ」トヨム、畢竟シテ「マシヂヤ」ト云フ意ナリ。下ニアルコトガ、マシニナルナリ。字義ハ「孰与 タレカトモニセン・アヒテニナラフ」「孰若 タレカシカン・マサラフ」ト云フ義ナリ。

さすが荻生徂徠だと唸らされます。
徂徠の説明が妥当であるかどうかはともかくとして、このような字義に遡っての理解や説明が全くなされず、句形の丸暗記が現在の漢文教育で、いつかそんな風潮に風穴をあけたいものだとつくづく思います。

他に字義について触れられたものがないか、手許の書籍をいくつか手に取ってみました。

西田太一郎氏『漢文の語法』(角川書店 1980)は、用例は豊富に挙げ、用法についても述べられていますが、「孰与」「孰若」自体の字義については触れられていません。

名高いかつての受験参考書『漢文法基礎』(増進会出版社 1977)には、次のように述べられていました。

「孰与」は、もともと「――、孰与……」(――は、たれか……とともにせん)という意味なのである。「――は、……と同じであるとだれが考えようか」という感じなのである。
同じく「孰若」は、「――孰若……」(――は、たれか……にしかん)すなわち「――が、……に及ぶとだれが考えようか」ということだ。
その意味をつづめて「――は……にいづれぞ」という訓読が定まったというわけである。

これに従えば、先に挙げた「公之視廉将軍、孰与秦王」は、「あなた方が廉将軍を見て、(廉将軍は)秦王と同じであるとだれが考えようか」となります。
一方、このように言われた藺相如の舎人たちは「不若也」と答えています。
「廉将軍は秦王に及ばない」の意です、誰も考えとは答えていません。

鄒忌という美男子が、同じく美男子の徐公の美しさに勝る自信がなく、妻や側妻に問いかけた言葉に、次のようなものがあります。

・吾孰与徐公美。(戦国策・斉策一)
(▼吾は徐公の美に孰与れぞ。 ▽私は徐公の美しさに比べてどうか。)

これは「私は、徐公の美しさと同じであるとだれが考えようか」となるわけですが、鄒忌の妻は「君美甚、徐公何能及公也」(あなたはとても美しい、徐公がどうしてあなたに及べるでしょう!」と答えています。
側妻もほぼ同様に答えています。
しかも、側妻に対しては「復問其妾曰」(さらにその側妻に質問した)とありますから、おそらく妻の場合も同様で、これは反語ではなく鄒忌の質問です。
反語を疑問に改めて「私は、徐公の美しさと同じであるとだれが考えるのだろうか」としたとして、答えは普通は「誰々です」か「誰も考えません」となるはずです。
さて、どうでしょうか。

荻生徂徠は「孰与」を「タレカトモニセン・アヒテニナラフ」と説明していました。
それなら、「廉将軍、たれか秦王とともにせん→秦王の相手になろう」「吾、たれか徐公の美とともにせん→徐公の美しさの相手になろう」から、まだわからないことはありません。
それにしても「タレカ」が気になります。

「孰若」についても同じ違和感があります。
先の韓愈の「与其有楽於身、孰若無憂於其心」も、「その心に憂いがないことに及ぶとだれが考えようか」と解して、理解できないことはないのですが、「孰与」の「だれが」がどうも違和感がある以上、本当にそんな意味だろうかと不審に思います。

そして、私的には「孰若」と「孰与」は同じ読み方はするけれども、字義としてはやはり違うように思うのです。
なぜなら、『研究資料漢文学』にも指摘してあったように、「孰若」は上に「与其」を伴うことが多いのですが、私が用例を調べる限り、「孰与」が「与其」を伴う例は一切見当たらないからです。
それは「孰若」と「孰与」が構造的に異なるからではないでしょうか。

「与其」は、選択の形でよく用いられますが、この「其」の扱いに現場の先生方は困っておられることと思います?
よく簡単に、この「其」は指示する内容がないから訳さなくてもよいとか、もう少し踏み込んで「与其」で1つの接続詞とみなせばよいと片付けておられるのではないでしょうか?

・礼、与其奢也、寧倹。(論語・八佾)
(▼礼は、其の奢らんよりは、寧ろ倹なれ。)

有名なこの孔子の言葉は、普通「礼は、豪華であるより、いっそ質素であれ」と訳されていますが、私的には「礼は、それが豪華であるのと比較して、質素である方がよい」の意であろうと考えています。

確かに現在の語法学では「与其」を複合の接続詞で、「其」の代詞としての働きはもはや虚化していると説明されることが多いと思いますが、「与其A、~」の「其A」は、もともとは「それがAである」という主述関係にあったのではないかと思います。
つまりこの「其」は、先行する「礼」を復指したものではないかということです。

そして、「与」は「複数の人が仲間になる」を原義として、共にするの意を派生したと考えられますが、この用法の「与」は、「よりは」と読んではいますが、共にする対象から転じて比較の対象を示すもので、本来は前置詞の「与」の働きをするものではないでしょうか。

ですから、論語の例文は、礼について、それが「奢」(豪華)であることを仲間(比較対象)として、「倹」(質素)である方がよいということを主として示した表現だと思います。

話を「与其有楽於身、孰若無憂於其心」に戻すと、この文は、後句の「孰若無憂於其心」を主として、その比較する対象として「身に楽しみがあること」を示したものでしょう。
つまり、「身に楽しみがあることとは」と比較の仲間を提示したのだと。
その上で、「『孰』が『その心に憂いがないこと』にまさるだろうか」を主として述べた、そういう構造ではないでしょうか。
もしそうだとすると、「孰」の意味が問題になります。
荻生徂徠も加地氏も「タレカ」としているのですが、私は先行して示された前句の「何が」あるいは、「どんな点が」という意味ではないかと思います。
つまり、「与其有楽於身、孰若無憂於其心」は、「身に楽しみがあることと比較して、どんな点がその心に憂いがないことにまさるだろうか」という意味になるわけです。
「孰若無憂於其心」は、本来は「孰(いづ)れか其の心に憂ひ無きに若かん」と読むべき形ではなかったでしょうか。

すなわち、「与其A、孰若B」(A、孰若B)は、「Aと比較して[=与其A]、何が〔どんな点が〕[=孰]Bに及ぶ[=若]だろうか」という意味だと考えます。
「孰如」「何如」が選択を表すこともありますが、同じ構造だと思います。

間違っているかもしれませんが、「与其A、孰若B」の形については、なんとか説明がつきました。
問題は「A孰与B」です。

考え方の手がかりは「与其A、孰与B」の形をとらないことで、その意味で「与」が前後に2つで重複することが気になります。

考えあぐねていると、ふと春先に読み、「其れ龍のごときか」と嘆じた松下大三郎氏の『標準漢文法』に、確か「孰与」について書かれていて、あれ?と思ったことが思い出されました。
急ぎ、調べてみると、「与」の用法として、次のように書かれています。

「與」は前置詞では「與に」の意であるが、前置詞性動詞となつた場合には「與にす」の意だ。前置詞「與に」が形式動詞的意義(爲)を帶びたものである。その用法は二つある。
一、寄生形式動詞としての用法 「與にす」と讀む。
(用例略)

二、單純形式動詞としての用法 この用法は主として「孰」「何」の下に用ゐる。
(用例略)
この場合の「孰」「何」は「いづれぞ」と讀む。「何れがまさる」といふ意の動詞である。そうしてその比較の對手は「與」の下の名詞が表はすが「孰」「何」の依據性を明にするために「與」を附けるのである。

「与其A、孰与B」の形をとらない理由が解けた気がしました。
「与其A」を前句に示せば、「孰」の後に「与」をつける意味がなくなります。
というよりも、「孰与B」ですでに比較の対象、つまり仲間が示されているわけですから、「与其A」を前句に置けるはずがないのです。

「孰若B」を「孰れかBに若かん」が本来だと結論づけたために、「孰与」の「孰」を動詞になっているとは考えもしませんでした。
そして、ふと次の用例が思い浮かびました。

・孰与君少長。(史記・項羽本紀)

鴻門の会の前夜、項羽が翌朝漢軍を殲滅しようとしていることを、かつて沛公方の参謀張良に命を助けられたことのある項伯が、自身覇上に赴き告げに来た機会に、沛公が張良にした質問です。
「君と項伯はどちらが年上か」という趣旨の問いです。
普通、この文は「君と少長孰(いづ)れぞ」と読まれています。
「君の少長に孰れぞ」とも読めるかも知れません。
しかし、この例は、いわゆる「孰」の依拠性をよく示しています。
「与君少長」は、どちらがまさるかということの比較の対象を明瞭に示して「孰」に意味を補充しています。
つまり、主は省略された「項伯」にあって、「君少長」は、「どちらがまさるか」の比較の対象、仲間すなわち従にあたります。

結論として、「A、孰与B」は、「Aは、Bと比較して[=与B]どちらがまさるか[=孰]」の意になるわけです。

「与其A、孰若B」(A、孰若B)と「A孰与B」の選択疑問が、Bを選択する前提で述べられるということについて。
「与其A、孰若B」(A、孰若B)は、「Aと比較して、何が〔どんな点が〕Bに及ぶだろうか」という意味なのですから、通常の感覚をもってすれば、反語ならBに及ぶはずもないのであって、Bを選ぶことになるし、かりに疑問であったとしても、おそらくBに及ぶものはないであろうという前提で問いかけることになります。

一方、「A孰与B」は、Aが主語として示されていて、Bとの比較において「どちらがまさる?」と問いかけるわけですから、純粋に「どちらがまさるだろう?」という思いを持っている可能性があります。
先の沛公の問いも、話題としている項伯について、話している張良と、どちらが年上かわからないから問うたのであって、張良が年上と判断していたわけではもちろんありません。

鄒忌の妻妾への問いも、自分の容姿の美醜を気にかけているわけで、「吾」を主語とするのは当然です。
徐公の方が美しいと思う前提で、「孰与徐公」としたのではないでしょう。
「自分は徐公の美しさと比較してどちらがまさるか」なのであって、「徐公は自分の美しさと比較してどちらがまさるか」では主従が入れ替わってしまい、自分のことを問いたい鄒忌の意図とは異なってしまいます。

そして、藺相如の「公之視廉将軍、孰与秦王」という問いも、話題となっているのが廉頗将軍だから主となっているのであって、もちろん腹の中で「秦王の方がまさる」という思いはあったにせよ、主を廉頗とし、比較の対象を秦王にするのは、Bを選ぶ前提だからではなく、話の重点が廉頗に置かれているからではないでしょうか。
舎人は「不若也」と答えていますが、話題の主体となっているのが廉頗で、その比較対象が秦王だとわかりきっているから、省略した表現で済むのであって、Bを選ぶ前提の反語表現なら、そもそも答える必要などありません。

「句式編」選択の章を改定しながら、こんなことを考えました。

かぐや姫の昇天・敬語の授業(コロナ対策)

  • 2020/06/08 18:46
  • カテゴリー:その他
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、PDF版「かぐや姫の昇天・敬語の授業」のためぐち授業を作ったこと。)

6月より、ようやく学校再開となりましたが、まだ分散登校期間中。
奇数と偶数の番号に分けて生徒を登校させるので、2週で1週の授業しかできません。
ですから足りない部分は、この期に及んでまだオンライン授業です。
でも、ようやくそれも今週で終わり、来週からはやっと40人相手の授業になります。

ということで、最後の「ためぐち授業」(授業の文字起こし教材)は、『竹取物語』の「かぐや姫の昇天」を使った、敬語の学習です。
最後の最後(になればいいのですが…)なので、張り切りまして、ためぐち授業の傑作!と言っても恥ずかしくない内容になったと思うのですが。

専門外でおかしなことを書いているかもしれませんが、お許しください。
たぶん、楽しんで読んでいただけると思います。

『かぐや姫の昇天』(第1回) ←クリックしてください。

『かぐや姫の昇天』(第2回) ←クリックしてください。

毎度書きますが、中井はもちろんこんな喋り方はしませんので、あしからず。

「大江山」の授業(コロナ対策)

  • 2020/05/29 18:54
  • カテゴリー:その他
(内容:新型コロナウイルスによる休校で、PDF版『十訓抄』大江山のためぐち授業を作ったこと。)

不安はなにも解消されないまま、学校再開となりました。
休校期間中にオンライン授業として使った教材、『十訓抄』大江山のためぐち授業を、アップします。

漢文ではありませんが、せっかく作ったものですから、みなさまのお役に立てればと思います。
専門外なので、あちこち怪しいところがあるかもしれませんが、ご寛恕ください。

『大江山』(第1回) ←クリックしてください。

『大江山』(第2回) ←クリックしてください。

『大江山』(第3回) ←クリックしてください。

中井は京都の人間なので、まさかこんな喋り方はしませんが、授業の雰囲気は似ているかもしれません。

「漱石枕流」の授業(コロナ対策)・2

(内容:新型コロナウイルスによる休校で、PDF版「漱石枕流」のためぐち授業を作ったこと、その第2回。)

ようやく学校再開のメドは立ちましたが、個人的には不安材料は無限大です。
とりあえずフェイスシールドも発注したし(大阪では自治体が学校に配布するという噂があるのは、本当か?)、大きな声を出さずにすむように、ハンズフリーの拡声器もポチりました。
中井の授業は声の大きさが特徴の一つなのですが、さすがに飛沫をまき散らしながら授業をするわけにはいきません。

学校が再開しても、しばらくは分散登校。
2週間で1週間の授業しかできず、対面授業とオンライン授業を並行して行うという、聞こえはよいが、それをこなす教員はほとんど地獄の様相を呈してきそうです。
私の場合、現在、2年の古文と漢文、3年の漢文の授業配信を行っていますが、なにしろ「ためぐち授業」、つまり完全文字起こし配信なので、50分ものを1日以上かけて書いているわけで、対面授業とためぐち授業の両方を本当にこなせるのか、気持ちは不安一色です。

しかし、なんとか乗り越えなければなりません。

ヘトヘトになりながら書いた「ためぐち漱石枕流」の後半です。

『漱石枕流』(第2回) ←クリックしてください。

書いてると、乗ってはくるんですけどね。

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