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「不亦~乎」は本当に感嘆・詠嘆を表すか?

(内容:「なんと~ではないか」という感嘆文だとされる「不亦~乎」について、本当にそういう意味であるかどうかを考察する。)

『論語』は、高等学校の定番教材です。
1年生に対して、そろそろ『論語』の授業もしなければならないし、このブログでは項羽と劉邦の「語法注解」の後には、『論語』を取り扱おうとも思っています。

「語法注解」では、教科書によく採られる教材について考えるのですが、まずはなんと言っても「学而」篇の冒頭です。

・子曰、「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」(論語・学而)
(▼子曰はく、「学んで時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。」と。
(▽先生が、「学んでしかるべき時にそれを復習するのは、『不亦説乎』。友人が遠くから来てくれるのは、『不亦楽乎』。人が理解してくれなくても不平に思わないのは、『不亦君子乎』」とおっしゃった。)

「学」や「時」「習」などの語義については、なにしろ『論語』の研究は古来なされてきたわけですから、実にもう様々な解釈があります。
そういうのを本当のところはどうなのだろう?と考えてみるのも楽しいのですが、私的にはやはり文構造と語法が気になります。
そうです、最初に引っかかったのは「不亦説乎」「不亦楽乎」「不亦君子乎」に見られる「不亦~乎」の意味です。

この「不亦~乎」の形は、従来日本では「なんと~ではないか」という詠嘆・感嘆の句形とされます。
つまり、「なんと喜ばしいではないか」「なんと楽しいではないか」「なんと君子ではないか」と解釈するわけです。
しかし、「不亦~乎」が、なぜ詠嘆・感嘆の意味を表すのでしょうか。
というよりも、そもそも「不亦~乎」は本当に詠嘆・感嘆を表すのでしょうか。

「不亦~乎」は、頻繁に出てくるので、生徒にも注意喚起する形です。
「なんと~ではないか」と訳すんだ、覚えとけ!と、学校や予備校でやっておられるのではないかと思います。
しかし、なぜそういう意味を表すのかについて、きちんと説明されることはおそらくないのではないでしょうか。

たいていの漢文の語法について述べた書籍には「なんと~ではないか」という詠嘆の表現として済まされています。

江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)には、次のように書かれています。

反語専用の慣用句。「亦」はここでは語気を婉曲に、おだやかにするために添えた語。「不…乎」で反対の構文となり、「不亦…乎」で「なんと…ではないか」と、感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣。

最後の「感嘆や同意の気持ちを含んで解釈する習慣」というのは微妙な表現で、本来はそうではないという意味がこめてあるのでしょうか。
この形は反語で、「亦」は語気を婉曲にする語というのですから、本来は感嘆・同意ではなく「…ではないか」の意だというのが趣旨なのかもしれません。

加地伸行氏の『漢文法基礎』(増進会出版1977)には、「不亦~乎」の形について、

「なんと…ではないか」の意味で、反語形であって詠嘆的な肯定を表す。

と書いてあります。

また、『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、「不亦―乎」の項を設け、

「亦」は、ふつう「AハBナリ。Cモ亦タBナリ」のように、「CもまたAと同様にBだ」と、二つのものが同じであるときに用いる助字である。この働きから「モ亦タ」と呼ばれる。しかし、右の構文の時には、「なんと」のような感嘆の意味を表す。「乎」が反語を表し、「不亦―乎」全体で「なんと…ではないか」と訳してしまう、一種の慣用句である。

と説明してあります。

しかし、残念ながら、どの書物にも、なにゆえ「亦」が感嘆の意味を表すのかまでは説明されていません。

高等学校の先生方が、漢文の語法に疑問を感じられた時に、教科書の指導書や漢文句法のサブテキスト以外に参照するものとしては、こういったところが代表格かなと思うのですが、どうも「不亦~乎」の形についてきちんと説明したものは見当たらないようです。
そして、詠嘆・感嘆で訳すことになっているのだと、「習慣」で説明されてしまっています。
これではやっぱり「不亦~乎」の形は感嘆・詠嘆を表し「なんと~ではないか」と訳す、覚えとけ!になってしまいます。

それではあまりに…と思いますので、私的に考えてみたいと思います。

そもそも「亦」の字は、人の体を表す「大」の字のわきにあたる部分に「ハ」を付けて示したもので、要するに「わき」を表す字だと言われています。
藤堂明保氏は、『漢字語源辞典』(學燈社1965)に、「亦」の字について、次のように説明しています。

「ワキ」とは,中間に一定の隔たりをおいて,・―・型に配置されたものであるから,・―・―・―型の一部分である。同じ物や状態が,間をおいてもう一度生じる場合の副詞に,亦を用いるのは,その派生義である。

また、加藤常賢氏は『漢字の起源』(角川書店1970)で、

「亦」を「また」の意に用いたのは、この字にある意とすれば、左右両腋あるところから来たかと思う。

と述べています。

してみると、対称もしくは反復がこの字の原義ということになるでしょうか。

以前のエントリーでも述べたように、「亦」は、「則」に対する語です。
「太郎好桃」(太郎が桃を好む)に対して、「花子則不好」(花子は好まない)であれば、「花子は」と太郎の場合とは異なることを分けて説く。
それに対して、「花子亦好桃」(花子も桃を好む)であれば、事情が同じであると合わせて説く。
これを松下大三郎氏は、『標準漢文法』(紀元社1927)で、分説・合説の別をもって説明しています。

また、「則」は前句の内容を受けて、「その場合は」と法則に基づいて結果を示します。
つまり、「好桃則可」(桃を好めばよい)に対して、「不好桃則不可」(桃を好まなければよくない)となります。
それに対して、「亦」は「その場合もやはり」で、「好桃則可。不好桃亦可」(桃を好む場合はよい。桃を好まない場合もやはりよい)となります。
「亦」の働きは基本的にこの2つであることは、これも松下氏に学びながら、前エントリーで述べたものです。

さらに、これも前エントリーで述べましたが、「亦」が同類の比較内容を前にとらない例も多々見られます。
『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」([亦]仁義があるばかりです)は、誰か別のひとに仁義があったと前に述べられているわけではありませんし、蘇軾の『范増論』の「嗚呼、増亦人傑也哉」(ああ、范増[亦]人傑であるなあ)も、范増以外の人傑が前に示されていたわけではありません。
これについても松下氏は、これらの「亦」が、色々と考えをめぐらした中から、これというものを示して、「やはり~だ」と示す語だと説いています。
「王は(私が色々思う中でも)やはり仁義があるばかりです」だし、「范増は(私が色々思う中でも)やはり人傑であるなあ」となるわけです。

私は、「不亦~乎」についても、松下氏がすでに試みているように、これらの「亦」の基本義を踏まえた検討をすべきであると思います。

「不亦~乎」の形については、清朝中期の学者、王引之が『経伝釈詞』で、

凡言「不亦」者、皆以「亦」為語助。「不亦説乎」、不説乎也。「不亦楽乎」、不楽乎也。「不亦君子乎」、不君子乎也。趙岐注『孟子・滕文公』篇曰、「不亦者、亦也」、失之。
(▽すべて「不亦」というのは、みな「亦」は語助である。「不亦説乎」は不説乎(よろこばしくないか)である。「不亦楽乎」は不楽乎(たのしくないか)である。「不亦君子乎」は不君子乎(君子ではないか)である。趙岐が『孟子・滕文公』篇に「不亦は、亦である」と注しているのは、誤っている)

と述べ、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず意味がないとします。
しかし事実として「不説乎」「不楽乎」「不君子乎」とは表現されていないのであって、「亦」を語助と切って捨てるのは軽率な判断だと思います。
後漢末の趙岐は、「不亦~乎」が「不~乎」という反語により結果的に「亦~」になると、きちんと述べているのであって、私的にはむしろ王引之の説の方がうさんくさい気がします。
趙岐は「亦~」の「亦」の義について述べていませんが、たとえば「不亦楽乎」は「亦楽」であって、「楽」であるとも述べていません。
つまり「亦」には何らかの意味があるということでしょう。

「不亦~乎」が「不以~乎」「不已~乎」に通じるとする説もあります。
この場合「以」「已」は、「はなはだ」の意であって、「とても~ではないか」と解するわけです。
『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)で、楚永安は、王引之の説を引用して、

这个说法很对。在这个格式中,“亦”没有实在意义,只有加强语气的作用。
(この説は正しい。この形式中では,「亦」にははっきりした意味がなく,ただ語気を強める働きがあるだけである。)

とした上で、さらに、

“不亦……乎”有时也作“无亦……乎”、“不以……乎”、“不已……乎”。
(「不亦……乎」は「無亦……乎」、「不以……乎」、「不已……乎」に作ることもある。)

と述べています。
例証として、『孟子・滕文公下』に、

・後車数十乗、従者数百人、以伝食於諸侯、不以泰乎。
(▽後車数十台、従者数百人を連ねて、諸侯を回って諸侯の間を食禄を受けるのは、はなはだ驕っているのではないか)

とあるのが、『論衡・刺孟』では「不亦泰乎」に作っていることを指摘しています。
この場合の「以」「已」は「はなはだ」の意とされるので、さしずめ楚永安は「不亦~乎」は「はなはだ~ではないか」の意味だと解したことになります。

楚永安に限らず、古典の同じ部分の引用が異なる漢字を用いていることを証左として、2つの漢字の字義を同じとする類推はよくある手法です。
ですが、近い意味を表すことは示し得ても、それをもって全く同じと断ずることは危険ではないでしょうか。
暗誦に基づく誤写の可能性もあるでしょうし、場合によっては記述者の意識が字を変えてしまうことだってあるのではと思うからです。
なにしろ「刺孟」は孟子批判なのですから。

尹君は『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)において、「不亦」の構造を次のように説明しています。

固定词组。作用相当于一个副词,常“不亦……乎”连用,表委婉的反问语意,可译为“岂不”、“难道不”。“不”是“岂不”的省略;“亦”是语气助词。
(固定詞組。働きは一つの副詞に相当し、常に「不亦……乎」の形で続けて用いられ、婉曲的な反語の意味を表し、「豈不」(~ではないか)、「難道不」(~ではあるまいか)と訳せる。「不」は「豈不」の省略であり、「亦」は語気助詞である。)

として、いくつか例を挙げた上で、さらに、

按:这类句式,也有不省“岂”的,如《史记・蔡泽列传》:“闳夭事文王,周公辅成王也,岂不亦忠圣乎?”《三国志:魏武帝纪》:“夫人孝于其亲者,岂不亦忠于君乎?”
(思うに、この種の句式は、『史記・蔡沢列伝』の「閎夭が文王に仕え、周公が成王を輔佐したのは、忠聖ではないか?」や、『三国志・魏志・武帝紀』の「自分の父母に対して孝である者は、君に対しても忠ではないか?」のように、「豈」が省略されないこともある。)

と述べています。

つまり、尹君は、「不亦~乎」は「豈不亦~乎」の省略形だとするわけです。
ですが、省略形というのなら「豈不亦~乎」の形も「不亦~乎」と同じぐらいの例がありそうなものですが、私の手元にある分の資料で検索しても、「不亦~乎」が1000例以上見つかるのに対して、「豈不亦~乎」はわずかに11例に過ぎません。
もちろん他の資料も探せば見つかるでしょうが、おおむね「豈不亦~乎」の用例数が「不亦~乎」の100分の1程度だというのは変わらないでしょう。
したがって、「不亦~乎」が「豈不亦~乎」の「豈」を省略したものだというのは説得力のない説明になってしまいます。

しかし、そのこととは別に、「豈不亦~乎」の例があるというのは、「不亦~乎」の意味を考える上で、鍵になるように思います。

高等学校の教科書や参考書等では、「豈」は反語を表す用法を主として、疑問や感嘆・詠嘆を表すこともあると紹介されます。
感嘆・詠嘆の場合なら、「豈不悲乎」は「なんと悲しいではないか」として、「豈不~乎」で「なんと~ではないか」と訳しています。
しかし、松下氏が説くように、「豈」はそのような語義の語ではなく、疑いをもって自身で反省してみたり、相手に反省を促してみる語だと思います。
すなわち「どうか?」「どうであろう?」と問いかけてみるのです。
「豈不悲乎」なら、「どうであろう悲しくないか?」です。
だから「豈不亦忠乎」というのは、「どうであろうやはり忠義ではないか?」であって、「なんと忠義ではないか」の意ではないでしょう。

「不亦~乎」の前に「豈」を置き得るのは、「豈」も「亦」も反省を背景にもつ語だからだと思います。
「色々考えてみて、どうであろう(豈)、やはり(亦)~」というのは、自然な思考の流れではないでしょうか。
世のいわゆる感嘆・詠嘆の「不亦~乎」の形の前に、「豈」は置き得ても、「何不亦~乎」「安不亦~乎」の形をとる例が一切見られないのも、「豈」が「何」「安」と語義の異なる語だからでしょう。

結論として、「不亦~乎」の意味は、「亦」の基本義に照らして考えればよいのではないかと思います。
 
■「不亦~乎」の意味■

「不亦~乎」は「やはり~ではないか」の意味。

たとえば、「不亦説乎」は、「亦説」((色々考えて)やはり喜ばしい)を否定の形で問いかけたもので、「『やはり喜ばしい』ではないか」という意味。
「不亦説乎」は「亦説」と相手に婉曲的に伝えるための反語表現。感嘆や詠嘆を表す表現ではないであろう。
孔子は、弟子たちに対して、「学んで、しかるべき時に復習するのは、やはり喜ばしいことではないかね?」と、語りかけたのでしょう。
「なんと喜ばしいではないか!」と主張したのではないと思います。

最後に、解恵全等編の『古書虚詞通解』に、次のように述べられています。

“亦”主要用作副词,表示类同,与今“也”字相当,有时可译为又。此条列义项大多为随文释义,不确。这大约是因为“亦”与今语“也”字一样,类同的两方面经常是只说出一方面,另一方面隐而不现。如“学而时习之,不亦说乎?”实际是说“学而时习之”不也和其他令人喜悦之事一样令人喜悦吗?另外,“亦”还常常兼有加强语气的作用,大多也可以译为“也”。
(「亦」は主に副詞として用いられ、ほぼ同じであることを示し、今の「也」の字に相当する、「又」と訳せることもある。これらの「亦」の意味条項は多くが文にしたがって解釈したもので、確かではない。これはおそらく「亦」が現代語の「也」と同じであるために、ほぼ同じである二方面のことについて、ただ一方面だけを述べて、別の一方面は隠れて現れない。たとえば、「学而時習之、不亦説乎」なら、実際には「学んで時にこれを復習する」のは、その他の人喜ばせることと同様に、人を喜ばせるのではないか?」と述べているのである。他に、「亦」はよく語気を強める働きもあるが、多くはやはり「也」と訳してよい。)

この二方面というのは、言葉にされたものとされていないものとを指すのですが、私も、思うところが複数あって、その中から「やはり」と提出するのが「亦」の働きだと思います。
そして、それはすでに昭和の初めに松下大三郎氏が『標準漢文法』で分析されていたことに他ならず、実に驚くべきことではないでしょうか。

「亦」の字に限らず、ともすれば虚詞の解釈について、文脈から解釈して、その字義以外の意味や働きがあると説かれることは、各虚詞詞典にありがちのことだと思います。
その点、『古書虚詞通解』は、概ね慎重な態度で分析を行っているので好感がもてます。

我々は、わずか1字の義についても、もう少し慎重に考えなければなりません。

「所」の用法を生徒にどう説明するか?

(内容:理解の難しい結構助詞「所」の用法を、高等学校の生徒にわかりやすくどう説明するか考える。)

これまで何度も漢文における「所」の働きについて考えてきました。
しかしそれを実際の学校現場で、生徒にどのように説明すればわかりやすいか…が難関でした。

「所」の働きを先生方はどのように説明しておられるのでしょうか。
たとえば「所A」(Aする所)の形で、「Aするもの」という名詞句を作るのだ!その説明で終わりということもあるのかもしれません。
しかし、それはただの丸覚えでしかなく、また実のところ汎用性のある説明ではありません。

・「所B」(Bする所)→Bするもの
・「A所B」(AのBする所)→「AがBするもの」
・「A所BC」(AのBする所のC)→「AがBするC」
このようにパターンを細かく分けて、「入試問題によく出てくる形だから覚えとけ!」というのも、ある意味実戦的ではあるものの、やっぱりただの丸覚えでしょう。

いったいどう説明すれば生徒には「なるほど…」と得心してもらえるのでしょうか。
私どもがいくら文法的に理解を進めても、それをきちんと生徒にわかりやすく説明できなければ、それは教材研究とはいえないと思うのです。

そこでまだまだ不十分ではあるけれども、ここで生徒向けの説明をきちんと考えてみたいと思います。

「所」の用いられ方については、大きく2つの場合に分かれます。
第1に、「所+動詞」の構造をとるもの。
第2に、「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造をとるもの。
この2者について、学校の授業向けの説明を考えましょう。

1.「所+動詞」について。

動詞が後にとる目的語には、動詞の性質によって、いくつかの種類があります。
①「何をどうする」の何
②「何にどうする・何でどうする・何からどうする…」などの何
③「何とどうする」の何

かなり曖昧な説明ですが…
①は、たとえば「食桃」(桃を食らふ)の「桃」、「愛人」(人を愛す)の「人」がそれになります。
②は、「之市」(市に之(ゆ)く)の「市」、「出国」(国を出づ・国より出づ)の「国」がそれです。
③は、「称賢」(賢なりと称す)の「賢」、「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の「孟嘗君」がそれです。

これらの性質の違いは、松下大三郎氏がすでに昭和の初めに『標準漢文法』で明快に見極めておられたのですが、現在の学校現場では単に訓読の読みの違いから「目的語」「補語」という用語で説明されるだけになってしまいました。
一方、述語の後に置かれる名詞成分を賓語として、従来の「目的語」と「補語」を区別しない立場、すなわち中国語文法における賓語を「目的語」と総称する立場を私もとってきましたが、述語動詞とその後の「目的語」との関係をきちんと見極めることはとても重要だと考えます。

話が横道にそれてしまいましたので、本題に戻します。

上記①の場合。
「食」(食べる)や「愛」(愛する)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所食」(食らふ所)、「所愛」(愛する所)となります。
つまり、これが「所A」(Aする所)です。
この「所」は後の動詞の不定の客体ですから、「ソレを食べる」のソレ、「ソレを愛する」のソレになります。
したがって、「所食」は「食べるソレ」、「所愛」は「愛するソレ」という意味を表すことになります。
これを学校現場や、入試問題対策の説明としては、「食べるもの」「愛するひと」とするわけです。

ここで大事なことは、「食桃」と「所食」は、「桃」と「所」が等しく「食」の客体を表してはいますが、「桃」が桃以外の何物でもなく限定的であるのに対して、「所」にはその限定性がなく、あくまで不定の客体「ソレ」であるということです。
つまり、食べるものならなんでもよく、桃でも肉でも野菜でもいいわけです。

これが「我」などの修飾を受ければ「我所食」(我の食らふ所)となって、「私の+食べるソレ」→「私の+食べるもの」となります。
また、「所食」が「桃」を修飾すれば、「食べるソレである+桃」→「食べる桃」という意味になります。

次に②の場合。
「之」(ゆク)の客体を表す「所」を用いて表現すれば、「所之」(之く所)となります。
「之」は「どこに行く」の「どこ」を客体にとる動詞ですから、「所之」の「所」は、ソレというよりはソコになります。
つまり、「所之」(之く所)とは「行くソコ」という意味を表すことになります。

これを学校現場では「行く場所」として、「『所』が後に自動詞をとる場合、場所を表す名詞句を作る」と説明しているのです。
これはそう丸覚えするというよりも、「之」(ゆク)という動詞が後に「どこ(に)」という目的語をとる性質をもっているからなのだと理解することが大切だと思います。

もちろんこの場合も、「所之」(之く所)を「之市」(市場へ行く)と比較して、限定性がないことを了解しなければなりません。
行く場所ならどこでもいいわけで、市場と限定されるものではありません。

そして③の場合。
「号孟嘗君」(孟嘗君と号す)の客体は「号する」ことによって表現される「孟嘗君」ですが、これが「所」の場合なら「所号」(号する所)となります。
つまり「ソレと号する」のソレが客体ですから、「所号」はソレと「号するソレ」になります。
「号孟嘗君」は「孟嘗君」に限定されますが、「所号」はこれと具体的に限定されず、平原君でも春申君でも、状況によってはあり得るわけです。

ただしこの場合、別に事情があります。

そもそも動詞の種類によっては、①②③のうちの1つに限定されず、2つの性質の目的語をとるものがあります。
それは、二重目的語の文(双賓文)といわれる文の述語動詞を思い浮かべていただければ、わかると思います。

たとえば、「与」(あたフ)という動詞は、「何を与える」の「何」、「誰に与える」の「誰」という2種類の目的語をとります。
前者は①に、後者は②にあたります。
「与太郎桃」(太郎に桃を与える)の場合なら、「桃」は①の客体、「太郎」は②の客体です。

したがって、「所与桃」という句は、2種類の意味を表します。
つまり、「所」が①の客体を表すソレなら、「所与桃」は「与えるソレである+桃」すなわち「与える桃」という意味になり、「与ふる所の桃」と読むことになります。

それに対して、「所」が②の客体を表すソレ(→ソノヒト)なら、「所与桃」は「桃を与えるソレ(=ソノヒト)」で、「桃を与えるひと」という意味になり、「桃を与ふる所」と読むことになります。

この違いは、「与」という動詞の性質によって生まれるのですが、このあたりが学校現場だけでなく漢籍の注釈書の中でも混乱していると言わねばなりません。
混乱しているというよりは、あるいは「所」の働きをちゃんと理解していないから生じることなのかもしれません。

上記③に該当する動詞「謂」(いフ)の場合、「謂AB」(AをBと謂ふ)のBもそれにあたります。
「謂」はAとBという2つの客体をとりますが、「所謂~」は「謂ふ所の~」または「~と謂ふ所」と読まれ、多くの場合「~」は客体Bです。
たとえば「我所謂勇」(我の謂ふ所の勇・我の勇と謂ふ所)は「私の+(ソレを)勇というソレ」で、「私が勇というもの」という意味を表しますが、この場合の「所」は③ではなく、①になります。
つまり「所」は「ソレを」というAの方を指しているのです。
これが先に別の事情と述べたものです。

「所+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
 
■「所+動詞」の構造■

①「所」は後に伴う動詞の不定の客体(目的語)を表す名詞句を作る。
②後に伴う動詞はその性質によって、3種類の客体をとるので、「所」がどんな種類の客体を指しているのか見極めなければならない。
③動詞の中には2種類の客体をとるものがあるので、「所」がどちらを指しているのか見極め、それに応じて読み分ける。

2.「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造

この構造には色々ありますが、なんといっても代表的なのは「所以」句です。
これを学校現場では「ゆゑん」と熟して読んで、「~する理由」とか「~する手段」、あるいは「~するためのもの」などと、これも丸覚えです。

たとえば「我所以愛花子」(我の花子を愛する所以)は、「私が花子を愛する理由」と訳せばわかるし、それでいいといえばいいのかもしれません。
しかし、なぜそういう意味を表すのか?と問われて、現場の教師はきちんと説明できるでしょうか。
「理由もくそもない、そういう意味なんだから、覚えろ!」では、授業とも学問とも言えないでしょう。

私的にはこの「所以」を「ゆゑん」と熟して読むから、構造がわからなくなるのだと思います。
「我所以愛花子」を「我の以て花子を愛する所」と読みかえてみましょう。

私は「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造を、「前置詞によって修飾される述語句について、その前置詞の不定の客体を表す名詞句を作る」と説明してみたいと思います。

前置詞すなわち介詞は、もともと動詞ですから、「所+前置詞」の「所」は前置詞の不定の客体を表します。
「以棒叩人」(棒を以て人を叩く)は、「以棒」(棒で)が「叩」(たたく)を修飾し、「棒で人を叩く」という意味を表します。
この「棒」が前置詞「以」の客体(目的語)です。
これを「所」に置き換えると、「所以」となり、「ソレで~するソレ」という意味を表します。

一方述語動詞の前に置かれた前置詞句は、述語を連用修飾するので、「所以叩人」(以て人を叩く所」は、「ソレで」という前置詞句が「(人を)叩く」を修飾することになります。
なおかつ「所以叩人」という句は「以」の不定の客体「所」(ソレ)を表す名詞句になるので、「ソレで人を叩く+ソレ」→「ソレを用いて人を叩くソレ」、すなわち「人を叩くもの・人を叩く道具・人を叩くためのもの」という意味になるのです。

先の「我所以愛花子」(我の以て花子を愛する所)を説明してみましょう。
まず「所以愛花子」は、「ソレで(=ソレを理由に)花子を愛するソレ」です。
したがって、「我所以愛花子」は、「私の+ソレで花子を愛するソレ」となり、つまりは「私が花子を愛する理由」という意味になるわけです。

他に「問所従来」(従りて来たる所を問ふ)なら、こうなります。
まず、「従」を動作行為の起点を表す前置詞とします。
「従」前置詞句は、たとえば「従故郷来」(故郷より来たる)のように、「従」が後に具体的な場所を表す客体をとって、「従故郷」(故郷から)が述語動詞「来」(来る)を修飾します。

この客体を「所」に置き換えると、「所従来」となりますが、「所」は「従」の不定の客体「ソコ」になりますから、「ソコから来るソコ」です。
したがって、「問所従来」は「ソコから来たソコを問う」という意味、つまり「どこから来たのかを問う」という意味になります。

「従故郷来」の「故郷」が限定的であるのに対して、「所従来」は具体的な「どこ」という限定性をもちません。
だから質問に用い得るのです。
この場合、「問所従来」は習慣的に「従りて来たる所を問ふ」と読んでいますが、「より来る所を問ふ」の方が本来の構造というべきでしょうか。

次に、「従」を動作行為の事情や原因理由を表す前置詞とします。
この場合も「所従来」は「ソノ事情で来たソノ事情」「ソノ理由で来たソノ理由」となり、つまり「問所従来」は「どういう事情で来たのかを問う」という意味になります。
これも「所従来」自体は限定性をもちません。

「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造について、生徒には次のように説明したいと思います。
 
■「所+前置詞(=介詞)+動詞」の構造■

・「所+前置詞(=介詞)+動詞」の「所」は、前置詞によって修飾される述語動詞句について、その前置詞の不定の客体そのものを表す。
この説明だけを見ればわかりにくいようですが、用例を示しながら説明すれば、明快になると思います。

たとえば、「漱石枕流」(世説新語)の次の例なら、

・所以枕流、欲洗其耳。(漱石枕流…世説新語)
(▼流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。)

「ソレを理由に流れに枕するソレは」→流れに枕する理由は

となり、「所以枕流」は何かに限定されない「流れに枕する理由内容」になります。
だから述部において、具体的にソレが「欲洗其耳」であると説明されるのです。

韓愈の「師説」の次の例なら、

・師者、所以伝道授業解惑也。
(▼師は、道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。)

「ソノ人によって道を伝え業を授け惑いを解くソノ人」→道を伝え業を授け惑いを解く人

この例はよく「道を伝え、礼楽などの技能を授け、疑問や迷いを解くためのもの(人)である」と訳してありますが、「所」は「ソノ人」そのものを指しており、そこから「~するためのもの・~するための人」と訳すことになるのです。

『孟子』の、夫が外出してはいつもお腹をいっぱいにして帰ってくるのを不審に思った妻の次の例なら、

・其妻問所与飲食者、則尽富貴也。
(▼其の妻与(とも)に飲食する所の者を問へば、則ち尽(ことごと)く富貴なり。)

「ソノ人と飲食するソノ人を問えば」→誰と飲食するのかを問えば

となり、「与」は通常「~と」と読む動作行為を共にする相手を示す前置詞ですが、やはり「所与飲食(者)」は、だれかに限定されない「飲食を共にする相手」を指すことになります。

他にも「所」が後に前置詞を伴う形式はいくつかありますが、同じように説明することができます。


いかがでしょうか。
まだまだ他にもっとわかりやすい説明のしかたがあるかもしれませんが、「所」が後に動詞をとる形、「所」が後に前置詞と動詞をとる形について、こんなふうに生徒に説明してみようと思います。

そんな説明をするよりも、丸暗記させた方が早いというご意見もあるでしょうし、実際その方が効率的かもしれません。
あるいは生徒の状況から、小難しい説明をあえて避けた方がいい場合もあるでしょう。
ですが、どんな場合でも少なくとも授業者は理解しておく必要がある、いつ「なぜですか?」という素朴な問いかけを生徒から向けられても、逃げをはらずに、きちんと考え方の道筋を示せるように。
そんなふうに思います。

再考:「羿に」罪があるのか、「羿にも」罪があるのか?・2

(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その2。)

私がかつて『孟子』の「是亦羿有罪焉」の「亦」を、「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると誤った結論付けを下した材料として、当時、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を引用して次のように書いています。

「虚詞詞典を開いてみると、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)に、次のような記述がありました。

⑧副词 就,便。和“则”条⑳项差不多。
(副詞 就,便。“則”の条⑳項とほぼ同じ。)

として、3例が挙げられている中に、3例目に次のようなものがありました。

荘子儀曰:“吾君王殺我而不辜,死人毋知亦已,死人有知,不出三年,必使吾君知之。”(《墨子・明鬼》)…原文簡体字
   ――庄子仪说:“我的国君杀我,而我是没有有罪的,如果死人没有知觉就算了,死人如果有知觉,不出三年,一定要使我的国君知道这事(是要报应的)。”
(荘子儀が“わが君は私を殺すが、私は無実である、もし死人に知覚がないならそれまでのこと、死人にもし知覚があるなら、三年経たないうちに、きっとわが君にこのこと(が報いを受けなければならないということ)を思い知らせてやる”と言った。)

この例について、尹君が補足しています。

按:例3,就在同篇文中:“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”文意句式完全相同,而用“则”字,可见两字义通。
(按ずるに、例3は、同篇の文中に、“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”の例がある。文意も構文も完全に同じで、“則”の字が用いられている、二つの字義が通じることがわかる。)

つまり、尹君は『墨子』の用例を根拠に、「亦」の字が「則」に通じることを指摘しているのです。
ただこの説明は、前句に述べられた条件のもとに後句で結果を示す、いわば連詞の働きをする「則」とみるべきです。
しかし、『古今説海』本は、「是」の字を欠き「果如是、亦羿有罪焉。」に作るため、これに該当してしまうことになります。」

この尹君の説明について、『墨子』同篇に見られる2つの酷似した文の「文意も構文も完全に同じ」という説得力のある内容から、この「亦」が「則」の意味で用いられている可能性を認めたのでした。

しかし、この記述を鵜呑みにしての判断に、もう一度本当にそう言えるのかという検証の必要性を感じます。

『墨子』明鬼篇は、上中下の3篇からなるものの、現存しているのは下篇のみです。
そもそも「明鬼」とは「鬼を明らかにす」の意で、鬼の実在を明らかにすることを目的とした篇になります。
鬼とは、死霊、霊魂です。
「子墨子言曰」(墨先生がおっしゃるには)から始まり、鬼神の存在の是非は大多数の者が実際に耳や目でその存在を確認したことを基準としなければならぬと説き、実際に多くのものが共に見聞きした例が挙げられていきます。
その最初の例として、墨子は次のように述べています。

・若以衆之所同見、与衆之所同聞、則若昔者杜伯是也。周宣王殺其臣杜伯而不辜。杜伯曰、「吾君殺我而不辜。若以死者為無知止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。」其三年、周宣王合諸侯而田於圃、田車数百乗、従数千、人満野。日中、杜伯乗白馬素車、朱衣冠、執朱弓、挾朱矢、追周宣王、射之車上、中心折脊、殪車中、伏弢而死。当是之時、周人従者莫不見、遠者莫不聞。(墨子・明鬼下)
(▼若し衆の同(とも)に見る所と、衆の同に聞く所を以てすれば、昔者の杜伯のごときは是れなり。周の宣王其の臣杜伯を殺すも辜(つみ)あらず。杜伯曰はく、「吾が君吾を殺すも辜あらず。若し死者を以て知無しと為せば則ち止まん、若し死して知有れば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知らしめん。」と。其の三年、周の宣王諸侯を合して圃に田し、田車数百乗、従数千、人野に満つ。日中、杜伯白馬素車に乗り、朱衣冠にして、朱弓を執り、朱矢を挟み、周の宣王を追ひ、之を車上に射、心(むね)に中(あ)て脊を折り、車中に殪(たふ)れ、弢(ゆみぶくろ)に伏して死す。是の時に当たり、周人の従ふ者見ざるは莫く、遠き者聞かざるは莫し。
 ▽もし多くの人がともに見たこと、多くの人がともに聞いたことを例に挙げるなら、昔の杜伯のごときがそれだ。周の宣王がその家臣の杜伯を殺したが(杜伯に)罪はなかった。杜伯は「わが君は私を殺すが(私に)罪はない。もし死者を知がないとするならばそれまでだ、もし死んでも知があるなら、三年以内に、必ず我が君に思い知らせてやろう。」と言った。その後三年、周の宣王が諸侯を集めて圃田で狩りをし、狩りの車数百台、従者数千人で、人が野に満ちた。日中、杜伯が白い馬、白木の車に乗り、朱色の衣冠を身につけ、朱色の弓を手にとり、朱色の矢をはさんで(現れ)、周の宣王を追いかけ、これを車上に射て、(宣王の)心臓に当て背骨を折り、(宣王は)車中に絶命し、弓袋に伏して死んだ。この時、周のともに従う者は(杜伯を)見ないものはなく、遠くにいた者はその騒動を聞かないものはなかった。)

この無実にして殺された杜伯の話の次に、100字余りの鄭の穆公(秦の穆公の誤りとされる)の短いエピソードを挟んで、次に燕の簡公がやはり無実の臣である荘子儀を殺した話が入ります。
これが尹君が引用した例になります。

・昔者、燕簡公殺其臣荘子儀而不辜。荘子儀曰、「吾君王殺我而不辜。死人毋知已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。」期年、燕将馳祖。燕之有祖、当斉之有社稷、宋之有桑林、楚之有雲夢也。此男女之所属而観也。日中、燕簡公方将馳於祖塗。荘子儀荷朱杖而撃之、殪之車上。当是時、燕人從者莫不見、遠者莫不聞。(墨子・明鬼下)
(▼昔者、燕の簡公其の臣荘子儀を殺すも辜(つみ)あらず。荘子儀曰はく、「吾が君王我を殺すも辜あらず。死人知毋ければ[亦]已まん、死人知有れば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知らしめん。」と。期年にして、燕将に祖に馳せんとす。燕の祖有るは、斉の社稷有り、宋の桑林有る、楚の雲夢有るに当たる。此れ男女の属して観る所なり。日中、燕の簡公方に将に祖の塗(みち)に馳せんとす。荘子儀朱杖を荷(ふる)ひて之を撃ち、之を車上に殪(たふ)す。是の時に当たり、燕人の従ふ者見ざるは莫く、遠き者聞かざるは莫し。
 ▽昔、燕の簡公がその家臣の荘子儀を殺したが、(荘子儀に)罪はなかった。荘子儀は「わが君王は私を殺すが、(私に)罪はない。死人に知がなければ[亦]それまでだ、死人に知があれば、三年以内に、必ず我が君に思い知らせてやろう。」と言った。一年経って、燕(公)は祖の祭りに行こうと車を馳せていた。燕国に祖の祭りがあるのは、斉国に社稷の祭りがあり、宋国に桑林の祭りがあり、楚国に雲夢の祭りがあるのと同じである。これは男女が連なり出かけ観るものである。真昼に、燕の簡公がちょうど祖の祭りへの道に車を走らせていた。荘子儀が朱杖をふるってこれを撃ち、簡公を車上で殺した。この時、燕のともに従う者は(荘子儀を)見ないものはなく、遠くにいた者はその騒動を聞かないものはなかった。)

この文を先の杜伯の例と見比べれば一目瞭然ですが、ほとんど同じ構成になっています。
これが尹君が「文意も構文も完全に同じ」として、荘子儀の例の「亦」の位置に、杜伯の例では「則」が置かれ、「二つの字義が通じることがわかる」と指摘した事情になります。
すなわち、

・若以死者為無知止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。(杜伯の例)
・死人毋知已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。(荘子儀の例)

です。
表現は微妙に異なりますが、尹君が指摘しているように、文意は同じと考えてよいでしょう。
したがって、同じ位置に「則」と「亦」が置かれているのだから、「則」と「亦」の字義は通じるという判断がなされたのです。
しかし、それは本当に妥当でしょうか。

ここからは臆断になりますが…
この2つの話は、同じ語り手である墨子による表現です。
しかも極めて近接した位置にあり、杜伯の事件を述べた後、わずか100字余りで荘子儀の事件を述べ始めています。
これが地の文であれば、墨子の意識として、「前の杜伯と同じように荘子儀もまた」あるいは、「荘子儀もやはり」と解してよいと思います。
ですが、「死人毋知亦已」は荘子儀の言葉そのものです。
常識的には、以前の別の例を念頭に置いて「やはり」とは表現できないところです。
また、色々と評価の考えられる中で、荘子儀がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものとも考えにくいでしょう。

しかし、荘子儀の言葉は、彼が自ら語ったものではなく、墨子の口を借りて表現された、あるいはこの『明鬼下』を記録した記録者の筆を借りて表現されたものです。
杜伯の事件を述べた後、ほとんど離れぬ位置にあって、さらにほぼ同じ内容の荘子儀の事件を表現するにあたり、前項の内容が念頭に残っていて、「前に述べたのと同じようにやはり」と表現した可能性はないでしょうか。
つまり、「死人に知がなければ、杜伯がそう言ったのと同様、これもまたそれまでのこと」です。

尹君が「文意も構文も完全に同じ」ことを理由に「則」と「亦」の字義が通じると論じた、まったく同じ事情から、2つの文が「文意も構文も完全に同じ」で近接した位置で述べられているからこそ、前者でなく後者の方で「亦」が用いられているのではないだろうかと、私には思えるのです。
まさに臆説というべきかもしれませんが。

再考:「羿に」罪があるのか、「羿にも」罪があるのか?・1

(内容:かつて論じた「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」について、「亦」の字の働きを考えなおすことを通して再論の上、訂正する、その1。)

3年前のエントリーになりますが、「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」という記事を書きました。
今、「亦」の字の働きを考えていくことを通して、明らかにその当時の記事に考察の誤りや不備があることに気づきましたので、改めて書き直してみたいと思います。

問題の論点は、『東田文集』所載の『中山狼伝』の最終場面で、東郭先生に助けを求められた老人が、狼の言い分も聞いた上で、

・果如是、是羿亦有罪焉。

と明言しますが、この表現が、もとになった『孟子』の文と「亦」の字の位置が異なるところにあります。
老人の言葉は「果たして是(か)くのごとくんば、是れ羿にも亦た罪有り」と読み、「本当にもしそうなら、これは羿にも罪がある」という意味になります。

ところが、もとになった『孟子』には、

・逢蒙学射於羿、尽羿之道、思天下惟羿為愈己、於是殺羿。孟子曰、「是亦羿有罪焉。」
(▽逢蒙が射術を羿に学び、羿の射術を極め尽くして、天下にただ羿だけが自分より勝ると思い、そこで羿を殺した。孟子は「是亦羿有罪焉。」と言った。)

とあり、『中山狼伝』の「羿亦」が、『孟子』では「亦羿」になっています。

羿亦有罪焉。(東田文集)
亦羿有罪焉。(孟子・離婁下)

この異同がなぜ起こったのかと、「亦」の字の位置により、どのように意味が異なるのかについて考察したのが前エントリーでした。

その折、次のように書きました。

「そもそも「亦」の位置が入れ替わることにより、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。
一般に高等学校の漢文では「亦」は、「~もまた」と読み、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す字と取り扱います。
それに従えば、『東田文集』の「是羿亦有罪焉」は、羿にもまた罪がある、つまり、「狼に罪があるが、東郭先生にも罪がある」と、事情が同じであることを示すことになります。」

これは、「則」の「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)、「AはBする・AはBである」という分説の対極にある、「亦」の合説の用法になります。
つまり、「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)、「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表します。
すなわち、

・狼有罪、東郭先生有罪。
(狼に罪があり、東郭先生にも罪がある。)

です。
この東郭先生を孟子の言葉を借りて「羿」に置き換えているわけです。

さて、おかしくなってくるのが、次のくだりからです。

「しかし、孟子の本文は「是亦羿有罪焉」であって、もし「亦」の働きが前述のものであるならば、「羿にも罪がある」という意味にはなり得ません。
なぜなら、「亦」がこの位置に置かれるということは、「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味にならざるを得ないからです。
『孟子』の本文を見る限り、他に羿の罪と判断できる事件はありません。
とすれば、「亦」の働きは「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」と考えるわけにはいかなくなります。」

当時私は、「亦」の働きを「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」とのみ考えていたために、このようなおかしなことを書くことになったわけですが、孟子の言葉は、もちろん「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味ではありません。

この後、尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を手がかりに、「亦」が「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしていると結論付け、「教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をとったこと、その点をもって、師の羿にこそ罪がある」と述べたのが孟子の趣旨だとしました。

しかし、孟子の言葉はそのような意味ではなく、教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をもった羿について色々と評価の考えられる中で、孟子がその最も適当な評価に基づいて「やはり」と示したものでしょう。
つまり、「是亦羿有罪焉。」とは、「これはやはり羿に罪があるのだ」です
明治書院『新釈漢文大系4 孟子』は「これは羿にもやはり罪がある。」と訳していますが、「羿にも」の意味ではないと思います。

さらに私は次のように述べています。

「「亦」を「(~も)また」と読むからといって、あるいはそう読まれているからといって、日本語通りの意味だと思い込むのは極めて危険な判断です。
「亦」には、一般にあまり知られていない意味がいくつもあります。
たとえば、『孟子・梁恵王上』の有名な一文、

亦有仁義而已矣。

「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。」

これがもはや私の中で否定されていることは、前エントリーで述べました。
中国の虚詞詞典や、岩波文庫『孟子』の記述を鵜呑みにして自分で検証しようともせず、そういう働きがあるのだと思い込んだ「極めて危険な判断」だったかもしれません。
我ながら情けない恥ずかしい判断だったと今は思います。

前エントリーで私が最終的な判断を下した材料として、尹君『文言虚词通释』の説明を採用したのですが、そのことについても今はどうだろうか…と思えてきます。
それについては、項を改めて書いてみたいと思います。

使役は兼語文か?(「隗より始めよ」から)

(内容:かつて論じた「使役文は兼語文か?」について、「隗より始めよ」の例文から再論する。)

昨秋、「使役文は兼語文か?」というエントリーを4回にわたって書きました。
「A使BC」(A BをしてCせしむ)という使役文が、「ABを使す」と「BCす」の2文が1文化したものとする通説に、疑問を呈したものです。
とはいえ、その後も疑問を感じるものの授業では通説に従い、この形式を兼語文として教えてきました。
しかし、どこかで「使」は「して」(~に)であって「しむ」(~させる)ではないのではないか?という意識が働いていました。

そしてこの夏、教職大学院実習で1年生の漢文の授業を担当してもらうことにし、いわゆる『十八史略』の「先づ隗より始めよ」を教材としました。
この作品は抑揚の形を学ぶ教材として強く意識されていたのですが、実習生の指導案を見ながら、おや?と思いました。

・古之君有以千金使涓人求千里馬者。
(▼古の君に千金を以つて涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。
 ▽昔の君主に、涓人に千金で千里の馬を買いに行かせた者がいた。)

この文が、いわゆる存在文と使役文からなるものなので、実習生はそれを理解しやすくなるようにそれぞれ分けて説明しようとしていたのですが、使役文として取り出した文が次の形になっていることに、ちょっと衝撃を受けました。

・以千金使涓人求千里馬。
(▼千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむ。)

これが、あれ?と思わせたのです。

『十八史略』のこの文は、その元になった『戦国策』では、次のようになっています。

・古之君人、有以千金求千里馬者、三年不能得。涓人言於君曰、「請求之。」(戦国策・燕一)
(▼古の君人に、千金を以て千里の馬を求むる者有り、三年得る能はず。涓人君に言ひて曰はく、「請ふ之を求めん。」と。
 ▽昔の君主に、千金で千里の馬を求めるものがいたが、三年手に入れられなかった。涓人が君に「どうかこれを探させて下さい。」と。)

同じ劉向の『新序』では、

・古人之君、有以千金求千里馬者、三年不能得、馬已死、買其骨五百金、反以報君。(新序・雑事三)
(▼古人の君に、千金を以て千里の馬を求むる者有り、三年得る能はず、馬已に死し、其の骨を五百金に買ひ、反りて以て君に報ず。
 ▽昔の人の君主に、千金で千里の馬を求めるものがいたが、三年手に入れられなかった、馬はすでに死んでいたが、その骨を五百金で買い、戻ってそれを君に報告した。)

となっており、話の設定が『戦国策』とは少し異なります。
あるいは、三年得られなかった段階で、涓人が「私が探します」と申し出た話が割愛されているのかもしれません。

ともあれ、『戦国策』も『新序』も、この箇所は使役の形をとっていません。
おかしいので、もしやと思い、『資治通鑑』を開いてみると、次のようになっています。

・古之人君有以千金使涓人求千里馬者、馬已死、買其首五百金而返。(資治通鑑・周紀三)
(▼古の人君に千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り、馬已に死し、其の首を五百金に買ひて返る。
 ▽昔の君主に千金で涓人に千里の馬を求めさせるものがいた、馬はすでに死んでいて、その首を五百金で買って帰ってきた。)

曾先之が何をもとにしてこの話を書いたのかは判然としませんが、『資治通鑑』が明確に使役の形をとっているところを見ると、あるいはこれが元だったのかもしれません。

私が何に驚いたのかというと、もしもこの使役文が兼語文だとすると、次の2文から構成されることになることです。

・(古之君)以千金使涓人。
・涓人求千里馬。

後文は「涓人が千里の馬を求める」で、何ら問題はありません。
しかし、前文は構造的に「(昔の君主が)千金で涓人を使役する」になってしまいます。
千金は涓人を使役するために用いたのではなく、あくまで千里の馬を購入するための資金です。
おかしいのではありませんか?

「千金で千里の馬を求めさせる」なら、次のようにならなければなりません。

・(古之君)使涓人。(昔の君主が涓人を使役する。)
・涓人以千金求千里馬。(涓人が千金で千里の馬を求める。)

この2文が兼語「涓人」を介して1文化し、

・(古之君)使涓人以千金求千里馬。
(▼(古の君)涓人をして千金を以て千里の馬を求めしむ。
 ▽(昔の君主が)涓人に千金で千里の馬を求めさせた。)

となる。
これが、兼語文の構造のはずではないでしょうか。

それなのに、「以千金」が「使」の前に置かれていることをどう説明すればよいのでしょう。
「使」を飛び越えて、「求」を修飾しているのだというのは、構造的に説明がつかないと、私には思えるのです。

北宋の司馬光が「以千金使涓人求千里馬」と書き、宋末元初の曾先之がそのままその表現を受け継いだ。
少なくともこの時代、この使役構造を兼語文のようには理解していなかったのかもしれません。

1例をもって決めつける愚は避けねばなりませんが、私にはやはり「使」は「して」であって、「使涓人」(涓人に)によって、後の「求」が使動態になっているのではないかと思えてきます。

使役文を兼語文とみなしておられる方々は、これをどのように説明されるのでしょうか。

ブログ名を「漢文 学びの窓」に変更しました

  • 2021/06/21 07:34
  • カテゴリー:その他
(内容:ブログ名を「漢文 学びの窓」に変更することの連絡。)

このたび拙ブログ名を「漢文 学びの窓」に変更しました。
これまでは「漢文 学びのとびら」だったのですが、「学びのとびら」というのが、別の組織にあるらしいので。
もともとが「漢文の小窓」で、もとにもどしたという感じですね。

これからも、色々と考えたことや調べたことを、発信していければと思っています。
まだまだ漢文はわからない。でも、わからないからこそ楽しいんですよね、ああでもないこうでもないと考えるのが。

これからもよろしくお願いします。

「亦」について・3

(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その3。)

前エントリーまで、「亦」が限定を表すかという問題について論じてきました。

次に私が学生時代に読み、なるほど「亦~而已矣」の「亦」は「たダ」と読んで限定を表すのだと知って驚いた岩波文庫『孟子』の、小林勝人氏の記述について考えてみたいと思います。

氏は「梁恵王章句上」の「亦有仁義而已矣。」の部分に、次のように注しています。

亦の字、趙岐は亦惟をもってこれを釈き、群書治要は惟を唯に作っておる。亦の字は普通は上文を承けて「も亦」とよまれるが、ここでは上文を承けていない独立の助字と見なして、本書の旧版(昭和十一年刊行)においてはじめて「ただ」と訓じておいた。なお、滕文公上篇第四章の「亦不用於耕耳」および告子下篇第二章の「爰有於是、亦為之而已矣」・同篇第六章の「君子亦仁而已矣」などの亦の字も、同じくまた「ただ」とよむのがよい。

「はじめて『ただ』と訓じておいた」というくだりに、氏の自分が初めてそれを論じたのだといわんばかりの口吻を感じるし、この勢いに押されてそうなのかと思ってしまいそうな気もするのですが。

まず、趙岐の注を見ましょう。
『十三経注疏校勘記』によれば、諸本文字異同があるようで、

・「亦有仁義之道」,閩、監、毛本同,宋本「亦」下有「惟」字,廖本、岳本「道」下有「者」字,孔本、韓本、考文古本作「亦惟有仁義之道者」。

との記載に従えば、小林氏が見たのは宋本ということになるのですが、そうすると、趙岐の注は次のようになります。

・孟子知王欲以富国強兵為利、故曰、王何以利為名乎、亦惟有仁義之道可以為名。
(▼孟子王の富国強兵を以て利と為すを知り、故に曰はく、王何ぞ利を以て名と為すや、[亦]惟だ仁義の道以て名と成すべき有るのみと。
 ▽孟子は王が富国強兵を利としているのを知ったから、王はなぜ利を名分とするのか、[亦]ただ仁義の道を名分とすべきことあるのみですと言った。)

小林氏は『孟子』本文が「亦有仁義而已矣」とある部分が、趙岐の注では「亦」が「亦惟」となっているから、「亦」を「ただ」とよむのがよいと主張しているわけです。
しかし、「而已矣」に呼応しているのは「惟」であって、「亦」は「やはり」と解すればよいのではないでしょうか。
つまり、「やはりただ仁義があるのみです」です。
趙岐は「而已矣」による限定の文意を明確にするために「惟」を補ったのでしょう。
「亦」が「惟」の意だと考えていたなら、「惟有仁義之道可以為名」と書き換えていたはずです。

氏が指摘する『群書治要』には、次のようになっています。

・亦惟有仁義之道可以為名耳。(群書治要・巻37)

先の趙岐の注に見られない「耳」が文末に置かれ、「唯」が「惟」になっていますが、これも「亦」が置き換えられたわけではありません。
「亦」は「亦」として機能しているからこそ、「唯」や「惟」単独に置き換えられていないのではないでしょうか。

失礼ながら、これだけでは小林氏の主張は成立しないと考えます。

「亦」が限定の意味を表すかという考察の最後に、解恵全 等による『古書虚詞通解』の記述を引用します。

此项诸例“亦”句句末大多有表示限止的语气词“耳”“已”“而已”,其实“亦”还是也,虽说可以译为只、特、但、不过,那也是受句意和句尾语气词的影响所致。
(この項の諸例は“亦”句の句末にほぼ限定を表す語気詞“耳”“已”“而已”があり、実際のところ“亦”はやはりである、只、特、但(ただ)、不過(過ぎない)と訳せるとはいえ、それらは句意や句末の語気詞の影響によるものである。)

私の出した結論と同じですね。


次に、検証すべきは、予期と逆になることを表し「かえって」などと訳されるとする「亦」です。
虚詞詞典、たとえば『古代漢語虚詞詞典』(中国社会科学院語言研究所古代漢語研究室編、商務印書館2012)に示されている例を1つ挙げると、次の通りです。

・上帝不神、祝亦無益。(晏子春秋・内篇諫上)
(▼上帝神ならずんば、祈るも亦た益無し。)

これを「天帝が神明でないならば、祈ってもかえって無益である。」と解するわけですね。
これも例文だけを見れば、なるほど「亦」は「かえって」という意味なのか…と納得してしまいそうです。
限定の例の場合と同じく、虚詞詞典を見た学生や先生方が、そうなのだと信じてしまう記述になっています。
はたしてどうでしょうか?

原典にあたってみましょう。
斉の景公が皮膚のかゆくなる病気にかかり、あわせて瘧(熱病)にもかかって、一年経っても良くなりませんでした。
景公は史官と、主人のために幸いを祈る祝官に山川宗廟を祀らせ、平癒を祈らせましたが、治るどころか悪化するばかり。
景公は史官と祝官を殺して上帝に申し開きをしようと考え、晏子に意見を聞きます。
すると晏子は「祈ることに益があるとお考えでしょうか?」と言うので、景公はそう思うと答えます。
晏子は「祈ることに益する力があるなら、呪うことにも害を与える力があるはずです。主君が家臣を疎んじ遠ざければ、誰も諫言をしなくなります。そもそも国民の多くが政治を恨んでいるのに、あの2人が祈るだけでは呪いに勝てません。そのうえ祈りの際に、本当のことを言えば主君を誹ることになり、過ちを隠せば上帝を欺くことになります。上帝が神明であれば欺くことはできないし、…」

この晏子の言葉の続きが例文「上帝不神、祝無益」です。
話の流れからもう明らかなように、「祝無益」は「祈ってもやはり益がない」です。
つまり、「上帝が神明であれば、祈りの嘘がばれて、益がない」という条件文に対して、別の条件の場合でも同じ結果になることを示す「亦」(~もやはり)の用法です。
別に転じた事情になるわけではなく、「無益」という同じ結果になるわけです。


長々と論じてきましたが、虚詞に限らず、字の意味や機能を考えるとき、合理的に説明がつくからこの字にその意味や機能があると考えることは、大変危険なことです。
それはそう解する方がわかりやすいということから起きるのだと思いますが、字の働きや意味を、その字本来の働きや意味から離れて、文脈から合理的に解釈しようということに対する危険性の指摘です。
そして大いに矛盾したことを言うようですが、同時に文脈から字の働きや意味を冷静に分析することも重要だと思うのです。
中国の虚詞詞典に載せられている例文は、複数の書において同例であることが極めて多いのですが、一つひとつ丹念に例として妥当であるかどうかを、執筆者が確認せずに引き写していることもあるのではないかと懸念します。

しかし、そのことは同時に私自身への戒めでもあります。
過去のエントリーやページエントリーに、誤りはたくさんあるはずです。
恥をさらしても、誤りは正し、そのことを皆さんに報告しなければならないと考えます。
「則」字についての「『鴻門の会』・語法注解」の誤り、「亦」字についての過去エントリー「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」の誤りは、近々訂正したいと思います。

「亦」について・2

(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その2。)

前エントリーの続きです。

(4)文子曰:“吾聞之也,国有道,則賢人興焉,中人用焉,百姓帰焉。若吾子之語審茂,則一諸侯之相也,未逢明君也。”(《大戴礼記・衛将軍文子》)
(▼文子曰はく:“吾之を聞くなり,国に道有れば,則ち賢人興り,中人用ゐられ,百姓帰す。吾子の語審茂なるがごときは,則ち一に諸侯の相なり,[亦]未だ明君に逢はざるなり。”と。
 ▽文子が「私はこのことを聞いています,国に道があれば,賢人が起こり,並の人が用いられ,人民が帰服します。あなたの言葉がとても盛んであることは、ひとえにみな諸侯にふさわしい相です。[亦]まだ明君には巡り会っていないのでしょう。」と言った。)

この例にも背景があります。
衛将軍文子が、孔子の高弟の子貢に、孔子の弟子70余人の中で誰が賢であるかという質問をしました。
これに対して、子貢は賢を知るということは難しいことであって、自分はわからないと答えます。
文子はなおも食い下がって、「あなたは自ら孔子の門に学んだのだから、あえて質問するのです」と迫ります。
弟子にも色々あって全てを知っているわけではないと渋る子貢に、文子は「あなたの知り得る限りでよいから、どうかその人物の行いを聞かせてほしい」と粘ります。
そこで子貢は、孔子の弟子たち、すなわち顔淵、冉雍、子路、冉求、公西赤、曾参、子張、子夏、澹台滅明、子游、南宮括、高柴、12人について、彼らがいかに優れ、孔子が高く評価していたかを述べます。
そして、「これが私が自分で見たことです。あなたが質問されたから言ったのであって、私自身は賢を見極めることはできません」と答えるのです。

例文はその直後、文子が述べた言葉になります。
子貢が顔淵について述べた際、「故国一逢有徳之君、世受顕命、不失厥名、以御于天子以申之。」(ですから、国にひとたび徳のある君に巡り会えれば、世々君の信頼を承け、その名誉を失わず、天子に侍してその名誉を重ねることになる。)と指摘しています。
しかし実際には顔淵はそのような立場にたつことはありませんでした。
子貢が自分の見た事績を話した12人は、いずれも優れた君主に巡り会えば、才能を発揮できるだけのものをもっていたわけです。
ところが、実際にはそうはなっていない。
その事実が、文子に「未逢明君也」と言わせたのです。
これは「ただまだ明君に巡り会っていないのだ」という意味でしょうか?
私は、文子が子貢の話を聞いて、「明君による政治のもとには賢人は用いられるものだが」という思いから、「やはりまだ明君に巡り会っていないのだ」と判断し、自分の出した結論として述べたのだと思います。

(5)今是人之口腹,安知礼義? 安知辞譲? 安知廉恥隅積? 呥呥而嚼、郷郷而飽已矣。(《荀子・栄辱》)
(▼今是の人の口腹,安くんぞ礼義を知らん,安くんぞ辞譲を知らん,安くんぞ廉恥隅積を知らん。[亦]呥呥として嚼み,郷郷として飽くのみ。
 ▽今あの人の口と腹は,どうして秩序や道を知ろう,どうして譲り合いを知ろう,どうして恥じる心や道理を知ろう。[亦]むしゃむしゃと噛み,ひたすら満腹するだけである。)

この例も「亦」が文末の語気詞「已矣」と呼応して限定を表すとみなされています。
この文だけを見れば確かにそのようにも見えるわけですが。
しかし、この場合もどのような文脈でこの「亦」が用いられているのかという検証が必要です。

この例文に先行する内容は次の通りです。

全て人間には共通点があって、空腹なら食べ物を求め、寒ければ暖を求め、疲労すれば休息を求めるもので、これらは後天的なものではなく、生まれつきもっているものである。
尭舜も生まれながら聖人としての性質を備えていたわけではなく、本性を改善し修養に努力して初めて聖人となったのである。
だから、小人は、修養を積んだ君子に導かれて善になるしかない。

このくだりで先の口腹の例が来るのです。
人の口腹はまさに人の喩えであって、本来の性質は道理を理解するものではない。
食べるものがあれば、人が「空腹なら食べ物を求め、寒ければ暖を求め、疲労すれば休息を求める」ように、「むしゃむしゃと噛み、ひたすら満腹するばかり」です。
つまり、人がそうであるように、口腹「もやはり」です。
この例文が限定の意味を表すのは、語気詞「已矣」の働きであって、「亦」は合説「もやはり」でしょう。

(6)臣聞之,有君之不能耳,士無弊者。(《韓非子・難二》)
(▼臣之を聞く、[亦]君の能くせざる有るのみ、士に弊(つか)るる者無し。
 ▽私はこのことを聞いています、[亦]君のおできにならないということがあるだけです、兵士に疲れている者はおりません。)

まず、この例の先頭「臣聞之」は、この位置では意味をなさず、注釈書で「士無弊者。」の後に置かれるべきだと指摘されています。
そのことはともかくとして、これに先行する部分では、次のような内容になっています。

晋の趙簡子が衛の都を包囲した時のこと、簡子が盾に囲まれ矢石の届かない所に立って、攻め太鼓を打つも、兵士が奮い立ちませんでした。
簡子が太鼓のばちを投げ捨てて言う、「ああ、我が兵士は疲れ果ててしまった」。
すると賓客をつかさどる役の燭過というものが、かぶとを脱いで答えます。

このあと、例文が来るのです。
この場合、君ができないことがあるという話が先行箇所にはありません。
したがってこの「亦」は合説の用法ではあり得ません。
「亦~耳」と呼応しているために、「亦」を限定の副詞とする説の有力な例とも言えそうです。

ただ、この続きの中で、燭過は、先君の献公が多くの国を併合服従させ、12回も戦争に勝利したのは同じ民を用いてのことだとし、その次の恵公は暗愚で美女に溺れ、秦に攻め込まれたけれども、それも同じ民を用いてのことだと言います。
その箇所は「是人之用也」(亦た是の人を之れ用ゐるなり)と表現されています。
さらに、次の文公は武勲をあげ、名を天下に響かせたが、それもやはり同じ民を用いてのことだとし、「此人之用也」(亦た此の人を之れ用ゐるなり)と表現しています。
この2つの表現は合説です。
そしてその直後、また「有君不能耳」(亦た君の能くせざる有るのみ)と述べています。

わずかの範囲で「亦」が4回用いられ、そのうち2つは限定だが、2つは「もやはり」の意味の合説だというのはおかしくはないでしょうか。
文章の用字としても誤解をふせぐべく、限定なら「唯」などを用いて、区別するのが自然ではないでしょうか。
最初に紹介した「范増論」の「亦」を想起します。

『孟子・梁恵王上』冒頭の次の有名な文にも似たような表現があります。

・孟子見梁恵王。王曰、「叟不遠千里而来。将有以利吾国乎。」孟子対曰、「王何必曰利。有仁義而已矣。」
(▼孟子梁の恵王に見ゆ。王曰はく、「叟千里を遠しとせずして来たる。亦た将に以て吾が国を利する有らんとするか。」と。孟子対へて曰はく、「王何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。」と。
 ▽孟子が梁の恵王に目通りした。王が「先生は千里の道を遠いと思わずにいらっしゃった。やはり我が国を利してくださるおつもりですか。」と言うと、孟子は「王様はどうして利とおっしゃる必要がありましょうや。やはり仁義があるのみです。」とお答えした。)

この例もなにしろ章の初めの冒頭の一節ですから、先行する部分などはありません。
しかし、登場する2つの「亦」について、たとえば『新釈漢文大系4 孟子』(明治書院1962)は次のように解しています。

亦将有以利吾国乎
→それは、先生もまた他の人のように、わが梁の国を強くし、ひろげ、富まそうとして下さるのでありましょうか。

亦有仁義而已矣
→(利などということより、昔の聖賢のように、)王もまたやはり仁義をおこなうということがあるだけです。

この2つめの例を、岩波文庫『孟子』が「たダ」と読んでいることは前述しました。
しかし、教科書などでもよくとられるこの箇所は、概ね前者の「亦」を「他の遊説者と同じようにあなたもまた」、後者の「亦」を「古の聖賢のように、王もまた」と解していると思います。
本文に一言も書かれていない内容を補って合説に解しているわけです。

一方で、この2つめの例は「亦」は限定の範囲副詞だとする解釈が最近の主流になりつつあり、私なんぞも3年前のエントリー「『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」で、拙速にも

「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。

などと述べています。
まだ中国の語法解釈に熱を上げていた頃のもので、それを検証もせずに鵜呑みにした記述だなあと恥ずかしくなり、過去記事といえども改めなければという気になります。

この例について、先に引用した『標準漢文法』には興味深い指摘があります。

亦将有以利吾国乎
→矢張私の想像通り

亦有仁義而已矣
→私は利以外に仁義が有ると思ふ其の私の考通り

このように解して、

これらも種々に考へられる中の一つの考に就いてその考の樣に矢張といふのである。本副詞であるから「も」の意味はない。

と述べています。

この松下氏の説明を鵜呑みにしてしまっては、また同じ轍を踏むことになるのですが、私は「ただ」と解釈した方が意味が通るとか、「而已矣」や「耳」などの語気詞と呼応しているから「ただ」の意だとして済ませてしまうのは、どこか危険な気がしてならないのです。

将有以利吾国乎」の「矢張私の想像通り」というのは、多くの遊説者に接してきた可能性の高い梁の恵王が、どの遊説者も登用してもらおうと思って、私なら貴国に利益を与えられますと自己アピールしてきた経験から、おおかたこの孟子も同様に利益を与えると言うのであろうと予期していたことを背景にしています。
ですから、「先生もまた他の人のように」という解釈と、少なくとも指す事実については大きなズレはありません。

有仁義而已矣」の「私は利以外に仁義が有ると思ふ其の私の考通り」は、従来にはなかった(というより、はるか100年前に述べられていたのですが顧みられなかったというべきでしょうか)解釈です。
しかし、あれこれ考え得る中で、やはりこうだと思う自分の考えの通り「やはり」とするこの「亦」の解釈は、「亦」の本来の働きに基づきつつ、先行する部分に同様の内容がない場合に、うまく説明できる解釈だと思います。

先の例の「有君之不能耳、士無弊者。」も、同様の例を背景にするものではなく、燭過が己の判断の中でこれだと思うものを示して「やはり君のおできにならないということがあるだけです」と述べているのではないでしょうか。

(7)子撃因問曰:“富貴者驕人乎? 且貧賤者驕人乎?”子方曰:“貧賤者驕人耳。”(《史記・魏世家》)
(▼子撃因りて問ひて曰はく:“富貴なる者人に驕るか,且た貧賤なる者人に驕るか。”と。子方曰はく:“[亦]貧賤なる者人に驕るのみ。”と。
 ▽子撃はそこで「富貴な人が人に驕り高ぶるのでしょうか,それとも貧賤な人が人に驕り高ぶるのでしょうか。」と質問した。田子方は「[亦]貧賤な人が人に驕り高ぶるのだ。」と言った。)

魏の文侯の子の子撃が、父の師である田子方に出会い、車を避けて謁見の礼をとったのに、田子方が答礼しなかったことに対して、おそらく感情を害したのか、問いかけた質問です。
富貴な人と貧賤な人と、どちらが人に対して驕り高ぶるのかという問いに対して、田子方は「貧賤者驕人耳」と答えるわけですが、これは「ただ貧賤の者だけが」という意味ではないでしょう。
二者選択を迫る問いに対する答えは1つです。
どちらかを答えればよいわけですから、「亦」を限定の副詞と解する必要はありません。
どうであろうかと自分で考え、「やはり」貧賤な者が人に驕り高ぶるのだと答えたのだと思います。
ちなみに、田子方は、富貴の者が驕り高ぶれば、国や家を失うことになるが、貧賤の者の場合は、君主と合わず、意見が用いられなければさっさと他国へ行ってしまう、もともと同日には論じられない問題だと言います。

(8)捲簾唯白水,隠几青山。(《杜工部集・悶》)
(▼簾を捲けば唯だ白水,几に隠(よ)れば[亦]青山。
 ▽簾を巻き上げればただ白く光る川の水,脇息に寄りかかれば[亦]青い山。)

南方にあって長く故郷に帰ることのできない杜甫の憂鬱を詠じた詩です。
「捲簾唯白水」は、簾を巻き上げて見えるのはただ白水のみという意味です。
この「唯」と同じ位置に置かれているから「隠几青山」も「几に寄りかかって見えるのはただ青い山々だけ」と解釈したわけでしょう。

しかし、この「亦」は別の条件の場合と同じ結果になることを示しているのです。
「几に寄りかかってもやはり見えるのは青山だけ」というわけで、別に「亦」が限定を表しているわけではないでしょう。

以上、『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)が「亦」を「限定を表す」とし、「人、事物や動作、行為の対象がある範囲に限られることを表す」と説明する用法の例文を検証しました。
総じて言えることは、前エントリーにも述べたように、例文単独では「亦」が「唯」のように限定の副詞であるかのように見えても、例文の背景を丹念に探れば、「亦」本来の義で十分解釈できるということです。
喩えに不適切かもしれませんが、「信じられるのは、やはり君だけだ」という文があったとして、この「やはり」は限定を表しているでしょうか?

「亦」について・1

(内容:「亦」の働きと意味について考察する。その1。)

前エントリーまで、「則」の字の機能について考えてきましたが、その過程で「亦」の字が「則」の対極にあるものという認識を新たにしました。

つまり、「A則B」(Aすれば則ちBす)は「Aする場合はBする」の意の条件文で、「則」が「その場合」という意味を表します。
一方、「A亦B」(Aするも亦たBす)は「AしてもBする」で、別の条件の場合でも同じ結果になることを示し、「亦」が「~もやはり」という意味を表すことになります。
これは条件文における「則」と「亦」の対です。

さらに、「A則B」(A則ちBす・A則ちBなり)は、「AはBする・AはBである」という分説で、Aが他の場合とは異なることを表し、「則」がいわば「は」に相当します。
一方「A亦B」(Aも亦たBす・Aも亦たBなり)は合説で「AもBする・AもBである」で、他の場合と同じであることを表して、「亦」は「~もやはり」の意で対になります。

ですから、概ね学校現場では読み通り「~もまた」と訳せばよいで済まされていることが多いのでは?と推察します。

ですが、「亦」の字の働きは意外に難しい面があるように思います。
なぜなら、「~もまた」と訳すと、意味が通らないことが往々にしてあるからです。
たとえば『標準漢文法』(紀元社1927)に例として挙げられている次の文は、「~もまた」と訳すと意味不明になります。

・雖然増高帝之所畏也。増不去、項羽不亡。嗚呼増人傑也哉。(蘇軾「范増論」)
(▼然りと雖も増は高帝の畏るる所なり。増去らざれば、項羽亡びず。嗚呼増亦た人傑なるかな。
 ▽そうではあるが范増は高帝(劉邦)の恐れたひとであった。范増が(項羽のもとを)去らなければ、項羽は滅びなかった。ああ范増はやはり人傑であるなあ。)

この例などは「范増もまた人傑であるなあ」と訳すと、意味が通らなくなります。
他の人傑を述べたくだりで「范増も」という場面ではないからです。
これについて松下大三郎氏は、非常に鋭い説明をしています。

「亦」は本副詞にもなる。日本語の「も」は助辭であるが之と似た意味の語を副詞に求めれば「やはり」である。「亦」が接續詞である場合は「…も、やはり」の意であるが、本副詞の場合は「も」と伴はない「…やはり」である。

として、『論語・学而』の「子曰学而時習之。不亦説乎。…」や「范増論」を含めたいくつかの例を挙げた上で、

の「亦」の類で、これは形式副詞ではなく本副詞である。色々考へてその適當なるものを求める語で「やはり」の意である。「不亦説乎」は、悦ばしくないか否矢張悦ばしい」の意、「亦人傑也哉」は「人傑ではないか、矢張人傑だ」の意である。されば「増亦人傑也哉」を「増も亦…」と讀むと「亦」が接續詞の「亦」になるから「嗚呼、増は亦人傑なるかな」と讀むべきである。

と説明しています。
(最近、この『標準漢文法』を引用して説明することが多くて恐縮ですが、実際その分析力の鋭さには敬服するばかりです。もちろんその後100年の語法研究によりさらに新たに解明されたことも多いと思いますが、もっと読まれて然るべき書だというのが私の実感です。)

さて、この「色々考へてその適當なるものを求める」というのは、氏の別の表現では「種々に考へられる中の一つの考に就いてその考の様に矢張といふのである」となります。
自分があれこれ考えるいくつかの選択肢の中から、1つを取りだして「やはり~だ」と述べるのです。
「亦」のこのような機能については、従来あまり語られてこなかったのではないでしょうか。

そんなことを思いながら、虚詞詞典の「亦」に関する記述を見てみると、気になることが書かれています。
「~もまた」が載っているのは当然のこととして、それ以外にも「ただ」の意を表すとか「かえって」などの意味を表すとか、色々な意味が書かれています。

まずその限定を表すということについては、複数の虚詞詞典に取り上げられ、日本でもかなり以前から説かれています。
学生時代に岩波文庫『孟子』(1968)を読んだ時、「王何必曰利。有仁義而已矣。」を、小林勝人氏が「王何ぞ必ずしも利を曰はん。亦(ただ)仁義あるのみ。」と、「亦」を「ただ」と読んでいたのに驚いたことを思い出します。

中国で説かれ、日本でもこのような書物がある関係で、私もそのまま鵜呑みにして、「亦」には限定の範囲副詞の機能があると説きもし、数年前の過去エントリーでも同『孟子』の文を引用して「亦」を限定の範囲副詞だと述べたことがあります。
自分で検証した結果ではなく、いわば受け売りで書いたものですから、今読み返して冷や汗をかく思いをするのですが、その件については後で述べたいと思います。

『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)には、次のように書かれています。

一、表限止。表示人、事物或动作、行为的对象只限于某个范围。句末常有语气词“也”、“耳”等与之相呼应。可译为“只是”、“只不过”、“仅仅”等。
(一、限定を表す。人、事物や動作、行為の対象がある範囲に限られることを表す。句末に常に語気詞“也”、“耳”などを伴い、これと呼応する。“只是(ただ~だけだ)”、“只不过(ただ~にすぎない)”、“仅仅(わずかに~だけだ)”と訳せる。)

そして8つの例が挙げられていますので、1つずつ妥当であるか検証してみたいと思います。
なお、この虚詞詞典は原文(簡体字)が挙げられているだけなので、便宜上日本の漢字に改め、私的に読みと訳をつけておきます。

(1)寡人之従君而西也,晋之妖夢是践,豈敢以至?(《左伝・僖公十五年》)
(▼寡人の君に従ひて西するや,[亦]晋の妖夢を是れ践む、豈に敢へて以て至らん。
 ▽私(=秦の穆公)が君(=晋の恵公)に従って西に向かうのは、[亦]晋の怪しい夢をおさえるのであり、どうして無理をしたりしようか。)

この話には、晋の恵公が、秦の穆公の後援を得て晋に帰国し即位できたにもかかわらず、その際領土を割譲するという約束を守らず、また飢饉の折に秦に支援を求め、秦が快く大量の食糧を送ってくれたのに、秦が飢饉で晋に救援を求めた時には、助けようともしなかったという背景があります。
この5年前に恵公は、死んだ兄の申生を改葬し、それを無礼として申生の霊が現れ、晋を滅ぼすと言った事件がありましたが、秦の穆公はそれを妖夢と言い、晋の乱政を招いている原因であるとして、その妖夢を押さえつけて晋を正しい道に戻らせようとしたのです。
『古代漢語虚詞詞典』は、この「晋之妖夢是践」を「ただ晋の妖夢を押さえつけるだけだ・押さえつけようとしたに過ぎない」と解しているわけで、確かにそう解釈するとわかりやすくはなります。
しかし、この「亦」を無理に限定を表すとしなくても、穆公が非礼を重ねる晋の恵公に対して怒り、晋を攻めたのも「晋之妖夢是践」であり、こうして恵公を捕らえ秦に連れ帰るのも「晋之妖夢是践」であるという意味で、「これもやはり晋の怪しい夢をおさえるためである」と、合説で解釈できると思います。

(2)尭舜之治天下,豈無所用其心哉? 不用於耕耳。(《孟子・滕文公上》)
(▼尭舜の天下を治むるや,豈に其の心を用ゐる所無からんや。[亦]耕すことに用ゐざるのみ。
 ▽尭舜が天下を治めるにあたり、どうして其の心を用いる部分がなかっただろうか。[亦]耕作に(心を)用いなかっただけである。)

この2例目の話にも背景があります。
もと儒者の陳相というものが滕の国にあって、神農の説を説く許行という者に感化されました。
陳相は孟子に面会し、許行の生活態度を踏まえながら、滕の文公の政治を批判します。
「滕文公は賢君ではあるが、古代の聖王の道を聞いていない。真の賢君は人民と共に耕作し、自ら炊事を行って、なおかつ政治を行うものである。滕の国庫には穀物や財貨が満ちているが、それらは文公が自ら耕作して手に入れたものではなく、人民から租税をとって得られたものである。これでは真の賢君とはいえない」と。

これに対して、孟子は、陳相が師と仰ぐ許行が自分で耕作していることを確認した上で、冠や釜や農具も自分で作るのかと問い詰めます。
「いちいち自分で作っていては耕作のじゃまになるので、作った穀物と物々交換する」のだという説明に、孟子は政治も同じで分業が必要で、文公が自ら耕作をしていなくても何ら不都合はなく、それをもって賢君の資格がないとはいえないと指摘します。
尭帝の時、洪水により天下中に草木が生い茂り禽獣が増え、五穀は実らず禽獣が人を襲うという事態で、天下は平穏ではなかったが、尭帝は舜に混乱を治めさせ、禹に治水を命じました。
禹は洪水をおさめるため八年もの間、外にあり、自分の家の前を通り過ぎても門内に入ることはありませんでした。
自分で耕したいと思っても、耕す暇などありません。
尭帝はさらに后稷に命じて、人民に農業を教え、契に命じて人民を教育して人倫を学ばせました。
このように聖王が人民の安寧を案じ憂えることは大変なことなのであって、同時に自分で耕す暇などなかったのです。
尭帝は舜のような賢臣を得ないことを、舜帝は禹や皐陶のような賢者を得ないことを、自分自身の憂いとし、彼らに政治を委ねながら、自身は直接政事にはあたりませんでした。

そしてそのくだりで、「尭舜之治天下、豈無所用其心哉。不用於耕耳。」の表現が出てきます。
この「亦不用於耕耳」を『古代漢語虚詞詞典』は限定を表す例として示しているのですが、これに先行する「禹八年於外、三過其門而不入。雖欲耕、得乎。」(禹は外に八年いて、三たびその門に通りがかっても入らなかった。耕したいと思っても、得られただろうか。)、そして尭の腐心に対して「聖人之憂民如此。而暇耕乎。」(聖人が民のことを憂えるのはこのようであった。それなのに耕す暇などあったであろうか。)の2文を踏まえたのが、例の「亦不用於耕耳」だと思います。
前2者が耕す暇などなかったのだと述べられたことを踏まえ、2例と同じく「これもやはり耕作に(心を)用いなかっただけである」と表現されたものだと思います。
つまり「亦」の合説の用法です。
あえて「亦」を限定の意に解釈する必要があるでしょうか。

(3)王不好士也,何患無士?(《戦国策・斉策四》)
(▼王[亦]士を好まざるなり、何ぞ士無きを患へん。
 ▽王は[亦]士を好まれないのです、どうして士がいないことを悩まれる必要がありましょうか。)

さて、この例も背景を見てみましょう。
斉の宣王に目通りした王斗という者が、宣王の先君である桓公は好んだものが5つあったが、宣王にはそのうち4つがあると言います。
桓公は馬を好み、犬を好み、酒を好み、色を好んだが、この4つについては宣王も好んでいるが、桓公が士を好んだのに対して、宣王は士を好まないと。

これに対して、宣王は「今の世には士がいないのだから、私が好みようもない」と答えます。

王斗は次のように言います。
「世に騏驎や騄耳のような駿馬がいなくても、王の四頭立て馬車はすでに備わっています。世に東郭俊や盧氏の犬がいなくても、王の猟犬はすでに備わっています。世に毛嬙や西施のような美女がいなくても、王の後宮には美女で満ちています。」

そしてこの後に「王不好士也、何患無士。」が続くのです。
果たして「王はただ士を好まないのだ」という意味でしょうか?

「王亦不好士也」に先行する王斗の言葉は、世に極めて優れたものがいなくても、王の現状には十分に備わっている」という意味で、まったく存在しないわけではないという内容です。
だとすれば、これに続く内容は、「極めて優れた士がいなくても、王の現状には十分に備わっている」でなければなりません。
したがって、「王不好士也」は、「王はやはり(私が前に言ったとおり)士を好まれないのです」が妥当で、「亦」が限定を表しているとは思えません。

この3つの検証からはっきりすることがあります。
語法の例文というものは、その例だけを見れば、その用法に用いられているように見えますが、用例の背景まで見れば必ずしもその例にあたらないことが多いように思います。
虚詞について論じる時は、それが用いられている背景をよく観察して、真に例外的な用法といえるかどうかを慎重に見極めなければなりません。

長くなりますので、続きは次回のエントリーにします。

「則」と「即」について・3

(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その3。)

何楽士が『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の次の例をどう考えればいいでしょうか。

(1)於是至囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)

例文より前の部分を補います。

・項羽已殺卿子冠軍、威震楚国、名聞諸侯。乃遣当陽君・蒲将軍将卒二万渡河、救鉅鹿。戦少利。陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河、皆沈船、破釜甑、焼廬舎、持三日糧、以示士卒必死、無一還心。於是至囲王離、与秦軍遇、九戦、絶其甬道、大破之、殺蘇角、虜王離。
(▼項羽已に卿子冠軍を殺し、威楚国に震い、名諸侯に聞こゆ。乃ち当陽君・蒲将軍を遣はし、卒二万を将(ひき)ゐて河を渡り、鉅鹿を救はしむ。戦ひ利少なし。陳餘復た兵を請ふ。項羽乃ち悉く兵を引き河を渡り、皆船を沈め、釜甑を破り、廬舎を焼き、三日の糧を持し、以て士卒に死を必し、一の還る心無きを示す。是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九たび戦ひ、其の甬道を絶ち、大いに之を破り、蘇角を殺し、王離を虜にす。
 ▽項羽が卿子冠軍宋義を殺してから、威は楚国にふるい、名は諸侯に聞こえた。そこで当陽君と蒲将軍を派遣して、兵卒二万人を率いて河を渡り、(趙の)鉅鹿を救わせた。戦いは利が少なかった。(趙の将軍)陳餘がまた援軍を要請した。項羽はそこでことごとく兵を率いて河を渡り、すべての船を沈め、釜や甑(=炊事道具)をこわし、軍営の施設を焼き、三日分の食糧を持ち、そうすることで士卒に死ぬ覚悟で、まったく生還する意志がないことを示した。そこで(鉅鹿に)至ると[則ち]王離(の軍)を包囲し、秦軍と出会い、九回戦い、その甬道を絶って、おおいにこれを打ち破り、蘇角を殺し、王離を捕虜にした。)

この「則」は確かに「すぐに」と訳しても意味が通ります。
生還しない必死の覚悟で鉅鹿に攻め寄せた以上、項羽がぐずぐずするとは思えず、ただちに王離の軍を包囲するのは当然の行動ですから。
しかし、それは前後の事情からそうなるのであって、「則」の字自体に即時の意味があると断ずることとは別になるでしょう。

前エントリーで紹介した釈大典の『文語解』の「則」の条には次のように述べられています。(原文漢字片仮名表記ですが、平仮名に改め、「」などを加えて読みやすくしてあります。)

上をうけ下へつづける辞にして、その意さまざまあり
・壮士、賜之卮酒。則與斗卮酒。賜之彘肩。則與一生彘肩。(項羽紀)
・項王聞龍且軍破、則恐、使盱夷人武渉往説淮陰侯。(仝)
・居無何、則致貲累巨萬。(越世家)
これ其の時にあたりての事をいふ辞。俚語の「そこで」といふが如し。
・漢王則引兵渡河。(項羽紀)
・項王則夜起飲帳中。(仝)
・荘則入爲壽。(仝)
楊升庵評に「則の字の文法周書より来たる」と。これ金縢の「禾則盡起。歳則大熟。」の語をさす。皆死字の下に用ゆ。然も上段の文を承来る意あり。

この「楊升庵評」というのが楊慎のどの書なのかを突き止めきれないのですが…
ですが、要するに、「則」は前の内容を後に続ける働きがあるとするわけです。
たとえば項王が卮酒を賜えと命じたから、「其の時にあたり」つまり「そこで」斗卮酒を与えたとなります。

しかし、釈大典の「俚語の『そこで』といふが如し」という「そこで」は、あくまで法則にのっとったものでなければならず、通常「そこで」と訳すことが多い「乃」(すなはチ)とは違います。
「乃」は前を受け、おおかたの予想に対して、それがどうなるか、どうするかを示すもので、松下大三郎氏の表現を借りれば、この字自体は「そこでどうなるかというと」という意味を表すものです。
たとえば、「此桃甘。乃食之。」なら、「この桃は甘い」そこでどうするかというと「これを食べる」となります。
ですが、「此桃甘。乃不食。」という場合も当然あり得るわけで、これは「この桃は甘い」そこでどうするかというと「食べない」となる。
これが「乃」に「かえって」とか「意外にも」などの前後の逆接を表すと説明される事情です。
桃が甘いことに対して、それを食べる、食べないはどちらも成立する予想で、そのどちらであるかを「乃」は「そこでどうするかというと」と導くのです。
つまり、「乃」の字自体に「かえって」「意外にも・なんと」などの意味があるというよりは、前後の事情によりどうなるか、どうするかの関係が多義語であるように見せているのだと思います。

それに対して、「則」を「そこで」と訳すのは、どうなるかというとと示すのではなく、前の内容を受けて、後に続ける働きであって、前の内容を踏まえれば、こうなると法則の働きで示すのです。
項王に卮酒を賜えと命じられ、その場合当然のこととして斗卮酒を与えることになります。
それを「そこで」と訳すことになるわけですね。

「於是至則囲王離」の場合、項羽は前段に述べられた決死の覚悟をもって鉅鹿に攻め寄せています。
その前提である以上、法則として必然的に王離の軍を包囲することになります。
したがって、「(そのような事情をうけ)到着すると、そこで王離を包囲した」の意でしょう。
これを文意から「すぐに」と訳すとより自然に思えるだけで、「則」が「即」の即時の意に通じて「すぐに」という意味を表しているわけではないと思います。

そして、「則」の最初の疑問に立ち返って、「荘則入為寿」は、項荘が范増に沛公暗殺を命じられ、沛公を斬らなければ一族はみな捕虜になるぞと脅された以上、そのような状況である場合、項荘は必然的に言われたとおりに行動することになるのであって、これは法則に基づくものです。
つまり、「項荘はそこで(宴会場に)入り長寿の祝いをした」の意で、釈大典が例として示している通り、「則」は死字(実字)の「荘」の後に置かれていますが、あくまで前段を受けて後へ続ける働きをしていると思います。

おそらく「すぐに」の意味ではないのでは?と考えます。

拙「『鴻門の会』・語法注解」の記述は改めたいと思います。