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ユーザー「nakai」の検索結果は以下のとおりです。

『捕蛇者説』「募有能捕之者」の「有」の意味は?

(内容:柳宗元「捕蛇者説」に見られる「募有能捕之者、当其租入」の句の「有」の意味について考察する。)

先日、勉強熱心な若い同僚が教科書を持って質問に来られました。
この表現がよくわからないので教えてほしいと示された箇所を見て、「あ、しまった…」と慌ててしまいました。

其始太医以王命聚之、歳賦其二。募有能捕之者、当其租入。

いうまでもなく柳宗元の『捕蛇者説』の一節で、問題は後半の「募有能捕之者」の部分です。
教科書では「能く之を捕ふること有る者を募りて、其の租入に当つ。」と読まれています。
同僚の疑問は、本文が「募能捕之者」ではなく「募有能捕之者」となっている「有」の意味でした。

私がこの質問に慌てたのは、ずっと以前にある教科書会社の教師用指導書に説明をつけていて同じ疑問を抱いたのに、その時解決できずに先送りをしてしまった苦い思い出があったからです。
その時はどう調べてもわからなかったのですが、さらに調べ続けようという努力をしなかった、それが今になって若い人に質問されて答えられないという失態を招いてしまったわけです。
明確に答えようがなくとも、せめて私見だけでも述べられるようにもっと調べるべきだったと恥ずかしく思いました。
正直に「わからない」と答えはしたものの、もちろんそのままにしておくわけにはいきません。

まず教師用指導書を見てみました。
すると、次のように訳してあります。

(それで州では)その蛇を捕まえることができた者を見つけ出し、(その蛇を納めることで)その者の(本来納めるべき)租税の代わりとした。

しかし、「募有能捕之者」の箇所だけ、語注がありません。
「募」を「見つけ出し」と意訳したところがいかにも怪しげですが、「捕まえることができる者」ではなく、「できた者」と訳してあるところに、おそらく教科書を執筆した高等学校の先生の「有」への疑問が透けて見えるような気がしました。

そこで今度は別の指導書を見ると、次のように訳してあります。

(そこで永州では)この蛇を捕まえることのできる者を募集して、その者の税の代わりとした。

これだと「募有能捕之者」ではなく「募能捕之者」の訳になるわけですが、この指導書にもこの箇所だけ語注がありません。
「有」に対する疑問を感じなかったか、あるいは私と同様、解決がつかないのであえて触れられていないのでしょうか。

そこで、この手の指導書が参照した可能性の高い参考書をあたってみることにしました。
まずは『新釈漢文大系71・唐宋八大家読本 二』(明治書院1976)です。

募りて能く之を捕らふる者有れば、其の租入に當つ。
(州では人を募って、この蛇を捕らえることができた者があれば、その租税のかわりとしたので、)

語注はありませんが、訓読が異なります。
なるほどこのように読めば、「有」の説明はつくわけですね。
先の指導書にあった「できた」はこのあたりが元かもしれません。

次に『研究資料漢文学6・文』(明治書院1993)です。

能く之を捕らふる有る者を募りて、其の租入に当つ。
((永州では、)この蛇を捕らえることができる人を募集して、(蛇を)その人の租税の代わりにする(ことができる)ようにした。)

「募有能捕之者」ではなく「募能捕之者」の訳ですね。
この書にも語注や解説はありません。

続いて『漢詩・漢文解釈講座・第14巻・文章Ⅱ』(昌平社1995)。

能く之を捕らふる有る者を募りて、其の租入に当つ。
((そこでこの州では)蛇を上手につかまえる者を募り、その者の税の代わりとした。)

「募能捕之者」の訳になりますが、「能」を「上手に~する」と訳しています。
この書も語注や解説はありません。

困ったことに、手元にある有名どころの解説書がみな説明なしにスルーです。
いったいどういうことでしょうか。

そこで手元に唯一あった中国の訳本を見てみることにしました。

招募能够捕蛇的人,用捕来的蛇抵偿他们应交纳的租税,…(『柳宗元哲学著作注译』范阳主编 广西人民出版社1985)
(蛇を捕まえることができる人を募って,捕まえてきた蛇で納めなければならない租税の代償とした,…)

この1冊だけではなんとも言えませんが、日本の解釈と変わりません。

前回行き詰まったのも、同じ過程を踏んだ結果です。
さて、どうしたものでしょうか。

ここで問題を整理してみたいと思います。

本文がもし「募能捕之者」であれば、施事主語「永州」、謂語「募」(募集する)で、その賓語が「能捕之者」(これを捕まえることができるもの)で、語法的には何ら問題はありません。
ところが、「募有能捕之者」となっているために、「有」の処理に困ってしまうわけです。
通常、動詞「有」が「者」字結構を伴って、「~するもの(こと・ひと…)がある(いる)」という存在文を構成することが多いのは周知のことです。
だからどうしても「有能捕之者」は、「これを捕まえることができる人がいる」という意味になってしまう。
ところが、「募」が全体の謂語となっているために、構造的には「有能捕之者」がその賓語になり、名詞句として「これを捕まえることができる人がいること」と解せざるを得ない。
つまり「これを捕まえることができる人がいることを募る」という極めて違和感のある解釈になってしまうのです。
これなら「有」がない方が明らかに自然な表現になります。
『新釈漢文大系』が先に「募りて」と読んでいるのは、「有能捕之者」を「募」の直接の賓語とするのを避けて違和感を解消するためなのでしょう。

結局恥ずかしながら私的には前回「能く之を捕らふること有る者を募りて」と訓読しました。
やはりこれは「有~者」の構造ではなく、「者」字結構全体が「募」の賓語とみなす方がよいのではと思い試みた訓読でした。
あるいは「能有りて之を捕らふる者を募りて」と読んだ方がいいかとも考えたのですが、確証が得られませんでした。

「有」という動詞は、客観的な存在を表す動詞ですが、なぜ、わざわざここに「有」を用いる必要があったのか。

あるいは衍字か?とも考えました。
しかし、そのような指摘は見られません。

そこで、「募有」の例を検索にかけてみることにしました。
ここでは便宜的に「有」の意味についてはぼかした形で試しに訳をつけてみます。

・募有能入城為諜者、騎士馬景請行。(資治通鑑・唐紀七十九)
(敵城に入って間諜の仕事ができるものを募ると、騎士の馬景が行くことを求めた。)

・福王与芮素恨似道、募有能殺似道者使送之貶所、有県尉鄭虎臣欣然請行。(宋史・姦臣列伝四)
(福王、与芮はもともと似道を怨んでいて、似道を殺すことができるもので彼を貶所に送らせる者を募ると、ある鄭虎臣という県尉が喜んで行くことを求めた。)

以上の例の場合、「有」を存在の意でとるとどうしても不自然な解釈になり、「有」のもう一つの義である「具有」の意で解釈して「能力があって~する人」ととれば、意味は一応通ります。

・請召募有罪亡命之人充軍。(元史・兵志一)
(罪があって亡命している人を募って軍の兵にあてることを求めた。)

たとえばこの例の場合、「有罪」はやはり二字で意味をなしていると考えるべきでしょう。
問題は「有能」をこれと同じだと解釈できるか、つまり「能」が「能力」という名詞であって可能の助動詞ではないと考えてよいかです。
この説が成立すれば、「能有り之を捕ふる者を募りて」と読んで、「能力があり蛇を捕まえるものを募り」と解釈することができますが、さてどうでしょうか。

『史記・商君列伝』に次のような例があります。

・恐民之不信、已乃立三丈之木於国都市南門、募民有能徙置北門者予十金。
(人民が信じないことを心配して、やがて三丈の木を国都の市の南門に立て、人民に北門に移し置くことができるものがあれば十金を与えると募った。)

「募」以下の部分の成分をどう考えるかという問題はあるのですが、仮に「募民有能徙置北門者」でも文は成立します。
この「民有能徙置北門者」を存在文ではないと考えることは相当無理があります。
やはり存在主語「民」+謂語「有」+賓語「能徙置北門者」とみなすべきでしょう。
そうだとすれば、やはり「人民に北門に移し置くことができるものがいる」という意味にならざるを得ません。
少なくとも「民の能有り北門に徙し置く者」という意味ではないでしょう。
それなら、連詞「而」を加えるとか、何らかの処理が必要になるような気がします。

そう考えていくと、先の「募有能入城為諜者」にしても、「募兵有能入城為諜者」と表現できるはずです。
確かに違和感はあるのですが、「兵の中に敵城に入って間諜の仕事ができるものがいるのを募る」という、適任の客観的な存在を募るという解釈も、あながち無理ではないようにも思えてきます。
そうだとすれば、「募有能捕之者」は、「能く之を捕らふる者有るを募りて」と読み、「(人民に)これを捕まえることができるものがいるのを募集して」と解釈することになり、「能く之を捕らふること有る者を募りて」という訓は妥当ではないことになります。
しかし、まだどうにも納得がいきません、違和感が払拭できないからです。

「募有」の例を、さらにもう少し見てみましょう。

・募有得之者当授相位。(太平広記・宝三)
(これを見つけだすものがいれば宰相の位を授けるだろうと募った。)

・募有降者厚賞之。(資治通鑑・唐紀六)
(降すものがいればこれに厚く賞を与えると募った。)

・募有能出戦者賞之。(宋史450・忠義列伝五)
(出て戦うことができるものがいいればこれに賞を与えると募った。)

おもしろいことに気づきます。
「有~者」がいずれも条件節になっていて、前句で述べる~の存在を条件に、どうするかという結果を後文で示す、いわゆる複文の構造になっています。
どうやら見えてきました。
つまり、「募」の賓語は前句「有~者」だけではなく、後句も含めた内容と考えられるわけです。
たとえば後者の例の場合、

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能出戦者→(複文後句結果)賞之」
(謂語「募る」+賓語「出て戦うことができる人がいれば→これに賞を与える」と)

の構造だというわけです。

このような見方で、前の違和感のあった例文を見直してみましょう。

・募有能入城為諜者、騎士馬景請行。

この文も実は複文の後句が示されていないだけではないでしょうか。
つまり、

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能入城為諜者→(複文後句結果)…」
(謂語「募る」+賓語「敵城に入って間諜の仕事ができる人がいれば→(どうする)」と)

「敵城に入って間諜の仕事ができる人がいれば」と募集した結果、騎士の馬景が行くことを求めた。

・福王与芮素恨似道、募有能殺似道者使送之貶所、有県尉鄭虎臣欣然請行。

この例も先の解釈は誤っていて、

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能殺似道者→(複文後句結果)使送之貶所」
(謂語「募る」+賓語「似道を殺すことができるものがいれば→彼(=似道)を貶所に送らせる」と)

その募集の結果、ある鄭虎臣という県尉が喜んで行くことを求めた。

要するに「募有」の文の構造は、

賓語「募」+賓語「(複文前句条件)有~者→(複文後句結果)…」
(謂語「募る」+賓語「~するものがいれば→どうする」と)

の形で説明できるというわけです。

さて、それでは柳宗元の『捕蛇者説』の場合はどうでしょうか。

謂語「募」+賓語「(複文前句条件)有能捕蛇者→(複文後句結果)当其租入」
(謂語「募る」+賓語「蛇を捕まえることができるものがいれば→その人の租税の納入にあてる」と)

きちんと説明ができました。
つまり、「募有能捕之者、当其租入。」は「『蛇を捕まえることができるものがいればその人の租税の納入にあてる』と募った」という意味、したがって本文は「能く之を捕らふる者有れば其の租入に当つと募る。」と読むのがよいのではないでしょうか。
だからこそ、永州の人は毒蛇を探しに奔走することになるのです。

「これならわかるぜ!ためぐち漢文」をアップしました

(内容:高校生向けの漢文の文法書「ためぐち漢文」を公開する告知。)

拙著『概説 漢文の語法』は、第1部~第3部まで、かなり大部にものになります。
それに、まあ小難しく書いてあるので、読んでいておもしろいものでは決してありません。
なんとか若い人たちにも読み続けられるような語法の解説書を書きたい物だとずっと考えてきました。

そこで、いっそのことうんとくだけて、ためぐちで解説すればどうだろうか?と考え、「ためぐち漢文」というのを書いてみることにしました。
まさか実際にこんなためぐちで解説しているわけではないのですけれども…

ところが漢文に返り点と送り仮名を施す以上、縦書きでなければならず、Web上で公開するのは、なかなか難しいものがあり、せっかく書き上げたのに、公開できない状況が長く続きました。

そこで、PDFファイルで閲覧できるようにしてみました。

高校生のみなさん対象のものではありますが、ほかの方々もぜひ講義に参加してくださいませ。

こちらのページからどうぞ。

「匕首を引く」はどんな動作?

(内容:『史記・刺客列伝』で、荊軻が始皇帝に対して行った「引匕首」(匕首を引く)が具体的にどのような動作なのか考察する。)

『中山狼伝』のほぼ最終場面に注をつけていて、「引匕」という表現が気になりました。

丈人附耳謂先生曰、「有匕首否。」先生曰、「有。」於是出匕。丈人目先生、使引匕刺狼。
(老人が先生に耳打ちをして「短刀をもっているかどうか」と言うと、先生は「もっています」と言った。そこで短刀を出した。老人は先生に目配せして「匕を引いて」狼を刺させようとした。)

恩知らずの狼を成敗するために、丈人(老人)が一計を案じて狼に袋の中に入らせ、東郭先生に短刀で袋の上から狼を刺し殺させようとする場面です。
この「引匕」はもちろん「引匕首」の意ですが、具体的にはどんな動作なのでしょうか。

すぐに思い出したのが『史記・刺客列伝』の有名な一節です。

荊軻廃、乃引其匕首以擿秦王、不中、中桐柱。
(荊軻は重傷を負い動けず、そこで「其の匕首を引き」秦王に投げつけたが、命中せず、桐の柱に当たった。)

「引」という漢字は、どうしても「引く」をイメージしてしまいます。
でも、「匕首を引く」とはどういう動作なのでしょう。
荊軻の話はよく教科書に載っていますから、手元の指導書を何冊か見てみました。
すると、

・A社
(口語訳)そこでやむなく短刀をぐっと引き寄せて(ねらいをさだめ)秦王に投げつけた。
(解説)手元に引く。投げる前の(ねらいを定める)動作。

・B社
(口語訳)そこで(荊軻は)あいくちを引き寄せて、秦王めがけて投げつけたが、…
(解説)手元に引く。投げる前の動作。

・C社
(口語訳)そこでその短刀を引きよせて手に取って秦王に投げつけたが、…
(解説)なし。教科書脚注をそのまま引用。〔注— 訳 引きよせて手に取って。〕

この3社の訳と解説を見比べてみると、A社は明らかに持っていた匕首を手元に引いて投げる動きと解しています。
B社は、訳だけ見る限りは「あいくちを引き寄せる」という動作が、持っていなかった匕首を手元に引き寄せるようにも解せるのですが、解説に「投げる前の動作」とあるので、伸ばしていた手を折り曲げて投げる態勢に入ることを指しているのだとわかります。
C社は前の2社とは異なり、「引き寄せて手に取って」とあるからには、匕首が手元から離れていたということになります。

事の真偽はともかくとして、B社の訳は誤解を招く表現ですし、C社の解説は脚注の引用に過ぎず、何の説明もなくどうかなと思います。(あるいは、注に述べたことで十分という判断なのかもしれませんが。)

それにしても、「引匕首」という動作は刺客列伝の場合、どういう動作なのでしょうか。
まず、状況から判断すると、直前に荊軻は秦王により左股を断たれています。
この重傷により、秦王を追い回すことは不可能になったわけですから、最後の手段として匕首を投げつけるという行為に及ぶことになるわけです。
C社の訳と解説によれば、猛毒をしこんだ徐夫人の匕首は、いったん手元から離れたことになります。
左股を断たれた衝撃で、匕首を取り落としでもしたのでしょうか?まさか?
もしそうであれば、司馬遷は荊軻が匕首を落としたという何らかの記述を残したはずです。
動けない荊軻が「引き寄せて手に取」るためには、すぐ足元にでも落ちていなければならないはずですが。
C社の説明は、状況的にどうにも不自然です。

では、一見矛盾のないようなA社の解説ですが、(ねらいをさだめ)(ねらいを定める)の括弧がどうにも気に入りません。
行為自体は「引き寄せ」る、「手元に引く」動作だが、それはねらいを定めるためなのだと括弧で説明しておきながら、なおかつ「引」自体には「ねらいを定める」という意味は含まないのだと言わんばかりの表記が、なんだかずるいような気がするからです。
短刀を投げつける動作には、もちろん飛ぶ短刀に速度をつけるためにいったん後ろへ戻して前に出す行為が必要ですが、そもそもそういう動きを「手元に引く」などというでしょうか。

「手元」という日本語を『広辞苑』で引いてみました。
色々意味があるわけですが、次の第1項が該当するでしょう。

①手のとどくあたり。手近いところ。「―に置く」

A社やB社の訳や解説に違和感を感じたのは、『広辞苑』に述べられているように、「手元」ということばが、本来手の届く範囲を指すことばだと思うからです。
荊軻の場合、すでに匕首を自分の手で握っているわけですから(C社の解釈はともかく)、「手元に引く」という表現は何だか妙な気がするのですね。
拡大解釈して、すでに手にしているものをさらに体に引きつけるという意味でも「手元に引く」と表現するのだとすれば通るのかもしれませんが。
私には、「引」を「引く」と読む訓読に影響されすぎた訳や解説のように思えます。

教科書編集者が必ず参照したはずの明治書院の『新釈漢文大系 史記』ではどう訳されているか見てみると、

・荊軻は片足の自由を失い、やむなく匕首をぐっと引きつけてから秦王めがけて投げつけた。

A社もB社も口語訳を見るだけならこれに近く、それほど違和感を感じなかったのですが。

さて、この「引其匕首」を、中国ではどのように訳しているか調べてみました。

・于是拿起匕首擲撃秦王。(『史記選訳』巴蜀書社1990) …原文簡体字
(そこで匕首を持ち上げ秦王に投げ攻撃した。)

・就挙起他的匕首来投刺秦王,…(『史記全訳』貴州人民出版社2001) 原文簡体字
(そこで彼の匕首を持ち上げて秦王に投げ刺した。)

・就擧起匕首投擲秦王,…(『二十四史全訳 史記』漢語大詞典出版社2004)
(そこで匕首を持ち上げ秦王に投げつけた。)

「拿起」も「挙起」も「持ち上げる」という意味ですね。
「起」は趨向補語で主に下から上への動きを表します。
いずれも「手元に引き寄せる」あるいは「引きつける」という表現ではありません。
あるいは状況から見た意訳かもしれないので、今度は辞書を引いてみることにしました。
まずは『漢語大詞典』(上海辞書出版社1986)、

⑪抽取;執持;取用。
《史記·刺客列傳》:“荊軻廢,乃引其匕首以擿秦王。”晉 陶潛《歸去來兮辭》:“引壺觴以自酌。”晉 潘岳《悼亡詩》:“衾裳一毀撤,千載不復引。”

「抜き取る;持つ;取って用いる」ということでしょうか。
陶潜の例は「酒壺と杯を手に取って自分でつぐ」の意味ですし、潘岳の例は「敷物はひとたび撤去されれば、未来永劫二度としつらえられない」の意味です。
この流れで「引其匕首」の例を考えると、「手に取る」ことになり、おやおやC社の解釈が近いことになってしまいます。

次に『漢語大字典』(四川辞書出版社2010)、

⑦持取。《戦國策・秦策一》:“(蘇秦)讀書欲睡,引錐自刺其股,血流至足。”…

この⑦が該当するかなと思うのですが、錐(きり)を手に持って自分の股を刺すということですね。

『古漢語辞典』(南方出版社2002)には、

⑦抽;操。《後漢書・列女伝》:“妻乃引刀趨機。” …原文簡体字

楽羊子の妻が、夫が遊学中に帰宅したのを難じて機を断つという孟母断機に似た話ですが、刀を抜いて(あるいは刀を手にとって)織機に走ったということでしょう。

『古漢語詞典』(延辺人民出版社2000)では、

⑤挙(杯等)。杜甫《夜宴左氏荘》詩:“検書焼燭短、看剣引杯長。”
⑨抽。《宋史・太祖紀》:“馬蹶,墜地,因引佩刀刺馬殺之。”  …原文簡体字

⑤は杯を手にするということ、⑨は佩刀を抜いて馬を刺し殺したということです。

『古代漢語詞典』(商務印書館2014)は、

⑥挙,拿。《戦国策・斉策二》:“一人蛇先成,~酒且飲。” 又《秦策一》:“読書欲睡,~錐自刺其股,血流至足。” …原文簡体字

卮酒や錐を取りということでしょうか。

辞書には「引」についてさまざまな訳が載っています。
したがって「引匕首」だけをみれば、何通りか解釈が可能になります。
しかし、辞書に載っているからといって、それが正しいとは限りません。
思えば、昔「辞書に載っていました」と言ったら、恩師にひどく叱られたことがあります。
用例にあたり、専門書にあたり、そして自分自身がきちんと考察するように戒められた懐かしい思い出です。

そもそも「引」は、「弓を引き開く」が原義です。その動作から「引っ張る」「率いる」「招く」「導く」「推薦する」「引用する」などのさまざまな引申義が生まれました。
したがって、「引匕首」という動作も、持っていなかった匕首を手に取るという動き、あるいは匕首を扱おうとする手の動きをも表すのです。

先の楽羊子の妻は、ふだん刀を身につけているとは思えませんから、手に取ることになるし、太祖は皇帝ですから佩刀を身につけており、それを抜いたことになる。
一番最初に蛇の絵を描き終えたものも、そこで初めて酒を手にする権利を得たわけですから、卮酒を引き寄せた。
蘇秦も錐を持ちながら読書するわけがありませんから、眠くなると錐を手にして股を刺したわけです。
要するに、「引」は後に「刀」「錐」「匕首」などの賓語を伴っても、置かれた状況から、具体的な動きは異なるのが当然だということです。

荊軻は秦王に謁見するにあたって、佩刀が許されるはずもありませんから、あるのは地図の中に隠していた徐夫人の匕首のみです。
それを手に持って秦王を殺そうと追い回すわけで、左股を断たれたからといって、匕首を落としたり、いったん地に置いたりするわけがありません。
それをしたが最後、彼は丸腰になってしまうわけですから。
したがって、「引匕首」という動作は、離れた秦王に最後の一撃を与えようとした匕首を投げるための動作であるはずです。
実際、手にした短刀を投げようとしてみてください。
誰もが等しく短刀を振り上げようとするでしょう、あたかも槍投げのように。
これはまさしく「拿起」「挙起」であり、短刀を持ち上げる(lift)する動作です。
「手元に引き寄せる」動作でもなければ、「引き寄せて手にとる」動作でもありません。

A社もB社もC社も、あるいはそうとわかっていて、あのように書いてしまったのかもしれませんが、日本語としてはいかがでしょうか。

さて、『中山狼伝』の「使引匕刺狼」です。
墨家の徒である東郭先生を戦国時代の人とみなした上で、持っていた匕首は銅と錫の合金、すなわち青銅製だと思われます。
この匕首に鞘があったかどうかは定かではありませんが、実際、短刀の鞘も出土してます。
むき出しで携帯するとは思えませんから、取り出した匕首を鞘から抜き取る動作を「引」と表現しているのかもしれません。
その場合は、「匕首を抜いて狼を刺させる」という意味になります。
また、老人は袋の中にいる狼に悟られないように、狼殺害を指示しているわけですから、あるいは身振りで刺せと示したのかもしれません。
それならば、あるいは手を振り上げた?

いずれも想像の域を越えませんが、少なくとも「手元に引き寄せ」たり、「引き寄せて手にと」ったりするという意味ではないと思います。

「従来」の「来」

(内容:「従来」の「来」の意味と働きについて考察する。)

「所従来」については、前エントリーで臆説を述べましたが、いわゆる「従来」、つまり「今まで・これまで」の意の副詞としての用法については、まだ触れていません。
前エントリーで紹介した『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)には、

由介词“从”和助词“来”构成。
(介詞“従”と助詞“来”により構成される。)

と説明してあるわけですが、介詞「従」はともかくとして、「来」の字義が問題です。

「来」は「麥(麦)」の象形字で、この点については諸説ほぼ一致しています。
しかし、それがなぜ「来る」という意味を表すのかについては、さまざまな説があるようです。
藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(学燈社1965)には、

来の字形を見ると、両わきに実った穂が垂れている。ムギを*mləgと称したのは,おそらく賚ライと同系であり,上から下にたまわる,さずけられるという意味を含んだに違いない。来麰ライボウとは「賜わったムギ」との意味である。上から下へと送られてきた物であるから,やがて先方から当方へと来るという意味を派生した。降来とか出来とかの来には,なおその意味が含まれており,当方の意志とは無関係に,何かが眼前に現われてくることを表す。

と述べてあります。
そもそも『説文解字』の「来」にも、

周所受瑞麦来麰。一来二縫、象芒朿之形。天所来也。故為行来之来。詩曰、詒我来麰。
――周の受くる所の瑞麦来麰なり。一来に二縫あり、芒朿の形に象る。天の来(きた)す所なり。故に行来の来と為す。詩に曰はく、我に来麰を詒(おく)ると。
(周王朝が天から受けためでたい麦、来麰である。一茎に二穂があり、穂のとげにかたどる。天が来すものである。ゆえに行来の来とする。『詩経』に「わが民に来麰をおくる」という。)

してみると、「来」はムギゆえに「来る」の意味を派生したということになるのですが、加藤常賢氏につながる山田勝美・進藤英幸両氏は『漢字字源辞典』(角川学芸出版1995)に、「来」を「麥」(麦)の象形字とした上で、

「くる」という通用義は殷代以来使われているが借用であって、その意味の本字としては金文第三字めにも「逨」が使われている。

と述べており、仮借義としています。
中国の研究でも、仮借とする説が多いようで、本当のところははっきりしません。
どうあれ、「来」が「来る」という意味をもつのは、かなり古くからの用法のようです。
そこからの引申義で、未来、将来などの意味、至る、招くなどの意味も生まれてきたわけですね。

ところで、「来」は動詞「来る」の意味とは別に、賓語の倒置を示す結構助詞的な働きをしたり、語気詞として感嘆や命令、呼びかけの語気を表したり、趨向補語として用いられるなど、さまざまな用法で用いられるのですが、ここで取り上げたいのは、いわゆる「従来」(今まで・これまで)の意で用いられる用法です。

冒頭で引用した『古代汉语虚词词典』では、「来」を助詞としています。
つまり動詞とは扱いを別にしているわけです。
同書に次のように書かれています。

二、“来”附加在某些动词、形容词、时间词、数词等后,表示一种趋向。可仍译为“来”,有时可随上下文义灵活译出。
(“来”はある種の動詞や形容詞、時間詞、数詞等の後に付加して,一種の方向を表す。そのまま“来”と訳してもよく,ある場合は上下の文脈に照らして弾力的に訳してもよい。)

そしてこの項目の中で、

(三)时间词后加“来”,表示某一时间或自某时以后至说话时的一段时间。
(時間詞の後に“来”を加え,ある期間またはある時以降話をしている一定の期間までを表す。)

と述べられています。
この「表示某一时间」というのは、例に挙げられているものをいくつか示せば、

(1)適来飲他酒脯,寧無情乎?(《捜神記・管輅》…原文簡体字
(さきほど彼の酒と肉を食べたのに、情なしというわけにもいかないだろう。)

(2)又及其子祥云:“我唯有一子,死后勿如比来威抑之。”霊太后以其好戯,時加威訓,国珍故以為言。(《北史・胡国珍伝》…原文簡体字
(胡国珍は、さらにその子の祥に言い及んで、「私には一人息子がいるだけです、私の死後今までのようにこの子に圧迫なさらないでください。」と言った。霊太后は戯れを好んで、時に威圧的な教訓を加えたので、国珍はことさらに口にしたのである。)

(3)急呼其子曰:“此曲興自早晩?”其子対曰:“頃来有之。”(隋書・王令言伝)…原文簡体字
(王令言は急いで彼の子を呼び、「この楽曲はいつの頃より生まれたのか。」と言うと、彼の子は「最近です。」と答えた。)

のように、「適」(たった今)、「比」「頃」(近頃)のような時間詞の後に置かれて、一定の期間を表すわけです。
他にも「夜来」(夜間)「今来」(いま)などの形でも用いられます。

いわゆる「従来」は、「自某时以后至说话时的一段时间。」に相当します。

(B)表示某一时间以来。
(ある一時点以降を表す。)

(1)但看古来盛名下,終日坎壈纏其身。(《杜工部集・丹青引贈曹将軍覇》)…原文簡体字
(しかし見たまえ昔から盛んな名声のもと、終日不遇がその身にまとわりつくものだ。)

(2)聞道近来諸子弟,臨池尋已厭家鶏。(《柳河東集・殷賢戯批書後寄劉連州并示孟崙二童》)…原文簡体字
(聞けば最近の子弟達は、書法が家鶏(王羲之)を厭うようになったとのこと。)

(3)爾来又三歳,甘沢不及春。(《王谿生詩集・行次西郊作一百韻》)…原文簡体字
(それ以来さらに三年、恵みの雨が春に降らない。)

(4)不堪有七今成九,傖父年来老更傖。(《誠斎集・早炊商店》)…原文簡体字
((嵇康は)堪えられないものに七つあると言ったが今私は九つもある、野暮な田舎者である私はここ数年来さらに野暮になってきた。)

ある特定の時点を起点としてそれ以降の幅のある期間を表すのがこの「来」の用法です。

「来」は最初にも述べたように「来る」を原義として、その引申義として「至る」という意味が生まれたわけですが、ここまでは動詞としての働きです。
それが「来る・至る」という動詞としてのふるまいが虚化され、動作の方向を表すようになった。
いわゆる趨向補語としての働きが「来」にはあるのですが、それとは別に時間詞や数詞の後に置かれて、ある一定の期間を表したり、特定の時点を起点とする期間を表したりするようになったと思われます。
「――来」の働きは主に副詞として謂語を修飾します。
その意味で、動詞ではなく助詞に分類されるのでしょう。

数学のことはさっぱりわかりませんが、大昔に習ったベクトルという用語を久しぶりに思い出しました。
矢印のある語なのですね、「従来」は。

素直に尋ねることも大切です

(内容:不明なことについては自分できちんと調べるべきだが、どうしてもわからない時には、素直に他人に聞いてみることも大切だと実感した経験。)

「わからないことがある時は、きちんと調べる」をモットーに、自分を戒め、若い同僚たちにもそう言い聞かせながら、漢文に臨んでいると、それなりに色々な知識や教養も身につきます。
そういう視点から巷に出回っている受験用参考書や問題集に接していると、致命的な誤りを見つけてしまうことが、けっこう頻繁になります。
老婆心から、誤りは誤りとして、まめに出版社に連絡するようにしています。
クレーマーではなく、現場の先生が混乱したり、誤った情報を鵜呑みにしてしまわれないように、もっと言うなら現在の漢文教育が向上するようにという思いから、お節介だとは知りつつ、連絡してしまうのです。

数年前、現行のある受験用問題集や参考書を売り出している有力な出版社に、採用している問題集の誤りを宣伝員を通じてお知らせしたことがあります。
題材自体は面白いのですが、困ったことに読みや解釈、設問、解説に至るまで、あちこちに誤りが見られ、ひどい場合には1ページに何ヶ所もあるので、これはいくらなんでもと思ったわけです。
何十ヶ所もの誤りについて、一つひとつなぜ誤りといえるのかについて、古典中国語文法に照らしながら、丁寧に説明をしました。
編集部から、よく飲み込めないから再度教えてほしいという連絡があったので、さらに詳しく説明したり。

その後、改訂された問題集を拝見すると、いくつかは直してありましたが、致命的な誤りとして指摘したことが直されずに、そのままになっているものもありました。
これはおそらく編集部の方が悪いのではなく、執筆者のプライドによるのでしょうね…あくまで想像ですが。
私も教科書や参考書の執筆に携わっていますから、そのあたりの事情は大体わかります。
問題集の直接の執筆者はたぶん高等学校の現場の先生でしょうから、漢文がご専門という立場から、第三者に自らの誤りを指摘されると、プライドが傷ついてしまわれるのでしょう。
幸いにして、私の場合は共に仕事をしている編集員が教養あり非常に有能な方なので、誤っているとわかっているのに改めないでいるなどということが許されず、根拠に基づいてこちらも強く言うがあちらも強く言うという切磋琢磨の関係にあるので、書き手と編集者の理想的な関係が築けているのですが、どちらかが強すぎると、おかしな本を作ってしまうのでしょうか。

誤っていますよというご指摘は、その指摘が妥当であるか否かにかかわらず、改めて自己の見識を見直すチャンスになります。
そしてわからないことは、きちんと調べ、そしてどうしてもわからないことは、わかるかもしれない人に尋ねてみる、そんな柔軟性が必要だなといつも思います。
そのために恥をかくことだって多いのですけれども。

さて、本題です。
「どう調べてもわからないことは、素直に尋ねるべし」と思い知った出来事を一つ、恥をさらす覚悟でお話ししましょう。

「従来」について調べていた時のこと、「来」の用法を何乐士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)にあたってみました。
すると、語綴助詞としての説明に次のように記されていました。

用于部分动词、形容词和时间副词后,作后缀助词,表示一种发展趋势或处于某种情况。

この「部分動詞」という見慣れないことばがひっかかりました。
それに続いて、「用于部分动词之后作补语,…」とあるので、誤植ではないようです。
「部分動詞」とはいったいどんな動詞のことを指すのだろう…と、調べてみることにしました。

まず手っ取り早い方策として、Web上にその用語についての説明がないか検索してみると、意外にもあまりヒットしません。
ないわけではないのですが、どうも「部分動詞」という用語自体の説明がなさそうなので、もう少しきちんと調べようと腰を据えることにしました

手もとにある語法書を片っ端から見ていったのですが、どの書物の動詞の項を見ても、「部分動詞」という用語は見られません。
文法用語ということなら…と、鳥井克之氏の『中国語教学(教育・学習)文法辞典』(東方書店2008)を開いてみました。
これまで何度も助けられたことがあるからなのですが…
しかし、残念ながら「部分動詞」ということばは見つかりませんでした。

もしかしたら古い時代の文法用語、たとえば『馬氏文通』に用いられている用語かもしれないと思い、開いてみたのですが、やはり見つかりません。
楊樹達や呂叔湘、王力あたりはどうだと調べてみたのですが、見つかりません。

何をどう調べてもこの「部分動詞」という用語が見当たらないので、さすがに考えあぐねてしまいました。
すでに膨大な時間が過ぎていきます。
調べた書籍は何十冊にも及びます。

これまで「部分動詞」ということばを目にしたのはWeb上だけなので、もう一度一つひとつ確認していくことにしました。
すると、英語について説明したある中国のサイトに「部分動詞」という言葉が用いられているのを見つけました。
これはと思い、同僚の英語教諭の力を借りて、「部分動詞」にあたる動詞がどんな動詞なのか、英語の文脈から判断できないだろうかと相談してみました。
しかし今ひとつはっきりしません。

もはや完全にお手上げです。
最後の手段は、中国の方に尋ねてみるということなのですが…
そこでふとある方を思い出しました。
以前、このブログのエントリーにコメントを頂き、「不」がどこまでかかるかについて、中国人の観点からご教示くださった方です。
藁にもすがる思いで、教えてほしいというメールを差し上げました。

すると、さっそくお返事を頂戴しましたが、そのメッセージを見て、思わず口をあんぐり…
「部分動詞」とは「一部の動詞」という意味だというのです。
これにはもう唖然としてしまいました。
私は文法用語だろうと信じて、何十冊もの書籍にあたり、途方もない時間を割いて調べていたのに、たったそれだけのこと?
思い込みというものが、いかに怖いものか思い知ると同時に、どう調べてもわからないことは、素直に人に聞くことの大切さを実感しました。

そういえば… 思い当たることがあります。
「来」の働きについて調べる際、一番最初に開いたのは、『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)です。
そこに、次のように書かれていました。

二、“来”附加在某些动词、形容词、时间词、数词等后,表示一种趋向。可仍译为“来”,有时可随上下文义灵活译出。

その時はなんとも思わなかったのですが、後で何乐士の『古代汉语虚词词典』を見た時、「用于部分动词、形容词和时间副词后…」と書かれているので、何乐士ははっきり「部分動詞」と言い切っているのに、商务印书馆の『古代汉语虚词词典』は「某些动词」などとぼかした表現というか、いい加減な書き方をしているなあ…と感じたのです。
実は、同じことを指していたのですね…

恥ずかしいやら、なにやら… 私が「部分動詞」にこだわって時間を費やしていたのをご存じの同僚もありますから、これを逆手にとって、「きちんと調べてどうしてもわからないことは、素直に人に尋ねることも大切なんだよ。」などと照れ隠ししながらご報告もしましたけれども。

最初に書いた、おそらく問題集の執筆者であるどこぞの高等学校の先生も、自分だけが正しいなんて思わずに、わからなければ素直に尋ねてくださればいいのに… そう思いました。
浅学ですが、わかる範囲でいつでもお教えする用意はあるのですがね。

「所従来」の意味は?

(内容:『桃花源記』に見られる「問所従来」の意味について考察する。)

陶淵明の有名な『桃花源記』について、勉強熱心な同僚から質問を受けました。

「問所従来」の「従来」はどう説明されるのですか?

「どこから来たのか」という意味であろうことはわかった上での質問で、なんとなくわかったではなく、きちんと語法的にどう説明されるのかを理解したいという問いかけです。
こういう真面目な問いには、いい加減に答えるわけにはいきません。

見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。
(漁人を見て、乃ち大いに驚き、従(よ)りて来たる所を問ふ。具(つぶさ)に之に答ふ。)

「従来」の「従」はおそらく介詞であろうと思っていたのですが、確かめたわけではありません。
また、「従来」という句は、現在日本でも「これまで・以前から今まで」という異なる意味で用いられています。
この際、きちんと調べてみようと思いました。

まず、「従来」という句を各種の虚詞詞典で調べてみました。
定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)には、次のように書かれています。

由介词“从”和助词“来”构成。
 (介詞“従”と助詞“来”により構成される。)
副词
用在谓语前,表示事态从过去一直延续下来。可译为“一向”,或仍作“从来”。
 (謂語の前で用いられ,事態が過去からずっと続くことを表す。“一向”と訳せる,またはそのまま“従来”とする。)

「従」は介詞となっていますが、しかしこれはいわゆる「従来」の意味です。

『桃花源記』で用いられている用法についての説明がないか、他の虚詞詞典や語法書にあたってみますが、「従来」の項目では見当たりません。

念のため、『漢語大詞典』の記述を確認してみました。

(1) 亦作“從徠”。來路;由來;來源。
 (“従徠”にも作る。道筋、由来、出所。)
(2) 歷來;向來。
 (従来、今まで。)
(3) 從前;原來。
 (以前、もともと。)

『桃花源記』の「従来」はもちろん(1)に相当します。
(2)と(3)が並記されているので、語法的にも同じ扱いなのでしょうが、その語法的な説明はありません。

Web上ではどのように説明されているか探してみると、とあるサイトで、

问他是从哪里儿来的。

と訳した上で、次のように語義が説明されていました。

从来:从……地方来。

まあ、現代語訳というのは、必ずしも古典語法に忠実とは限らないのですが、語義の説明から見ると、このサイトは「従」を介詞と解しています。

さて、これから先どう考えていけばいいのか考えあぐねながら、いったん小休止して、帰宅の途につきましたが、その途上、ふと気づきました。
これまで「従来」にこだわって調べてきましたが、「来」は本来動詞でしょうから、実詞を含む形の見出しにはなっていないのではないか。
一方「所」は結構助詞ですから、「従」が介詞なら、「所従」の形で説明されているのではないかと。

そこで、帰宅してから「所従」の形について調べてみることにしました。
すると、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)に、「所由……」の項があり、「所自……」「所从……」の形が並記されていました。

“所从……”一般也是表示起始的处所或时间。例如:
(“所従……”は、普通、開始の場所や時間を表す。たとえば、)

⑫楚人有涉江者,其剣自舟中墜於水,遽契其舟曰:“是吾剣之所従墜。”(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字。「坠于水」を「墜於水」に改む
――楚国有个人渡江,他的剑从船上掉到水里,就赶紧在船上刻个记号,说:“这就是我的剑掉下去的地方。”
(楚国に河を渡る人がいて、彼の剣が船の上から水中に落ちたので、急いで船の上で印を刻み、「ここが私の剣が落ちた所だ。」と言った。)

⑬嗚呼哀哉!禍所従来矣!(《史記・魏其武安侯列伝》)…原文簡体字
――唉,可悲啊!这就祸患产生的根源。
(ああ、悲しい!これが災いが生まれた根本原因だ。)

⑭故郊祀社稷,所従来尚矣。(《漢書・郊祀志上》)…原文簡体字
――所以祭祀社稷,由来的时间很古了。
 (だから社稷を祀るのは、由来とする時が古いのだ。)

「所従」に類する表現に「所自」「所由」が見られるからには、「従」は「自」「由」と同じく介詞だと考えてよいように思います。
そこで、『桃花源記』の「問所従来」のような表現が、「所自」に見られないか探してみることにしました。

・尽於酒肉入於鼻口矣、而何足以知其所自来。(荘子・徐無鬼)
((あなたがした息子の人相の見立ては、)酒肉が鼻や口に入るということに尽きているが、どうしてその酒肉がどうやって来るのかまではわかっているといえようか。)

・馬望所自来、悲鳴不已。(捜神記・巻十四)
(馬はやって来た方角をはるか見て、悲しげに鳴いてやまなかった。)

どうも「所従来」や「所自来」には、単純に「どこから来たかということ」以外に「どうやって来たかということ」という意味があるようですね。

さて、結構助詞「所」が後に介詞や介詞句の修飾を帯びた動詞をとることがあるのかどうかについては、もう少し調べてみる必要があると思いました。
すると、『古代汉语虚词词典』の「所」の項にきちんと述べられていました。

助詞
二、“所”字先与介词相结合,然后再与动词组成名词性短语,在句中表示跟动词相关的原因、处所、时间以及动作行为赖以进行的手段或涉及的对象等。可根据上下文义灵活译出。
(“所”字は、まず介詞と結びついた後で、さらに動詞と名詞句を作り、文中で動詞と関係する原因、場所、時間、ならびに動作行為のよりどころとなる手段や関係する対象などを表す。前後の文意に基づき、弾力的に訳す。)

(1)長勺之役,曹劌問所以戦於荘公。(《国語・鲁語上》)…原文簡体字。「战于庄公」を「戦於荘公」に改む
――所以战:依靠什么跟齐国作战。
(長勺の役で、曹劌は何をよりどころとして斉国と戦うのかを荘公に尋ねた。)

(2)此嬰之所為不敢受也。(《晏子春秋・内篇雑下》)…原文簡体字
――这就是我晏婴不敢接受的原因。
(これが私晏嬰が受けようとしない原因です。)

(3)是吾剣之所従墜。(《呂氏春秋:察今》)…原文簡体字
――这就是我的剑在这里坠落的地方。
(これが私の剣がここで落ちた場所だ。)

(4)蒙問所従来。(《史記・西南夷列伝》)…原文簡体字
――唐蒙问从何处而来。
(唐蒙はどこから来たのかを尋ねた。)

(5)夫水所以載舟,亦所以覆舟。(《文選・張衡:東京賦》)…原文簡体字
――水可以凭借它把船浮起,也可以凭借它使船覆没。
(水はそれをよりどころとして船を浮かせることができ、それをよりどころとして船を転覆水没させることもできる。)

(6)所与遊皆当世名人。(《韓昌黎集・柳子厚墓志銘》)…原文簡体字
――跟他交往的都是当代的名人。
(彼と交際する人はみな当代の著名な人である。)

「所従来」の例も含まれており、まさにこれですね。
考えてみれば、「所以」も「それにより~するもの」という意味が元々ですから、この形に該当するわけです。

では、次に「問所従来」は「問所従[どこ]来」([どこ]から来たのかを問う)の省略形なのかという問題について調べてみることにしました。
というのは、『漢詩漢文解釈講座 第13巻 文章Ⅰ』(昌平社1995)の「桃花源記」注にそう記してあると耳にしたからです。
さっそくあたってみると、「問所従来」について、次のように書かれていました。

どこから来たのかと尋ねた。経路を聞いている。「所」は元来名詞であるが、そのあとに動詞をとり、その連語全体が名詞に等しい機能を持つようになったもの、英語の関係代名詞に似た働きをする助字。「従来」は「従何処来=何処(いづく)より来たる」の省略した形。

なるほど、確かに省略形と書かれています。
省略形なら省略されない形もあるだろうと、検索にかけてみました。

・其家問之、従何処来。(抱朴子・内篇・袪惑)
(その家は彼に、どこから来たのかと問うた。)

・笑問客従何処来。(賀知章「回郷偶書」)
(笑って客人はどこから来たのかと問うた。)

10例ほど見つかりました。
これだとなるほどと思うわけですが、「従何処来」の例があるということは証明できても、「所従来」が「所従何処来」の省略形かどうかは別の問題です。
そこで、今度は「所従何処来」を検索にかけてみましたが、私の検索システムではヒットしませんでした。
さらに『文淵閣 四庫全書』で用例を探してみましたが、見当たりませんでした。
念のため、「所自何処来」の例も探してみましたが、私の検索システムでも『四庫全書』でも見つかりませんでした。
このことが用例が全く存在しないということの証明にはなりませんが、省略されない形が見つからない以上、少なくとも『漢詩漢文解釈講座』の説明は当を得ない不用意なものだとわかります。

もう少し慎重にと考え、「所従何来」や「所自何来」の例も探してみましたが、やはり見つかりませんでした。
また、「問所従来」の結構助詞「所」を用いずに「問従来」や「問自来」という表現があるかどうかについても調べてみましたが、少なくとも私の検索システムでは用例は皆無でした。

このことから、「どこから来たのか」を表す表現には、問い方により2つの種類があり、また特徴がわかります。

・相手に対して問いかける言葉としての「どこから来たのか」は「従何処来」が受け持つ。
・客観的に「どこから来たのかを尋ねる」のような表現は「問所従来」や「問所自来」が受け持つ。
・「問所従[処所代詞]来」の形はない。
・「問従来」「問自来」という表現もない。

では、なぜたとえば「所従何処来」という表現がないのでしょうか。
これについては、あくまで想像ですが、「所従来」がたとえば「どこから来たのか」という意味であることは古代の中国人にとって自明のことだったからであろうと思います。
結構助詞「所」は、後にとる動詞が自動詞の場合、「~する場所」という名詞句を作ることが多いのですが、「従来」(~から来る)を場所の意味で名詞化すれば、「~から来た場所」となり、それはとりもなおさず「スタートした場所」という起点を表すことになります。
その表現に「どこ」にあたる「何処」を加えることは、「どこから来た場所」という名詞句を作ることになり、意味不明の句になってしまいます。

一方、「所」を欠いて「問従来」にしてしまうと、場所を表す名詞句を作る結構助詞の働きがないために、「~から来たを問う」という、これまた意味不明の文になってしまいます。
前に述べた特徴はこのように説明されるのではないでしょうか。

ちなみに、直接言葉として「どこから来たのか」と相手に問いかける時、「何処来」(何れの処より来たる)という表現の他に、先に例示したように介詞を用いて「従何処来」という表現もあるのですが、この「どこから来たのか」を「所」によって名詞化する必要は全くありません。

介詞「従」や「自」は、時や場所の起点を表すだけでなく、動作行為のよりどころや根拠、来源を表して「~により・~に基づいて」などの他の意味を表すこともあります。
「所従来」が単に「どこから来たのか」という場所だけでなく、「どうやって来たのか」「どのようにしてこんな状況になったのか」などの意味を表すのは、根拠となる物事に基づいて現在の状況が起きていることを踏まえた表現でしょう。

・及問所従来、乃因土豪献果、妻偶食之、遂得茲病。(太平広記172)
(どうしてこんなことになったのかを聞くと、土地の豪族が果実を献上し、妻がたまたまそれを食べて、この病気になったという。)

この例の場合、「所従来」が病気になったいきさつを問うているのは明らかです。
本来「どこから来たのか」という意味を表す「所従来」が「病気がどこから来たのか」=「病気のそもそもの原因となった事実は何によるのか」という意味をも表し得るのは容易に理解できるでしょう。

・王問所従来。左右曰、王黙存耳。(列子・周穆王)
(王はこれまでどうであったかを問うた。側近たちは、王は黙ってじっとしておられただけですと言った。)

周の穆王が幻術使いによって、天帝の住まいに連れて行かれ、何十年もの時を過ごしたかと思った後に、今度は太陽も月も河も海もない世界に行き、混乱して幻術使いに頼んで元の世界に戻してもらうと、自分が座っている場所は以前と変わらず、時もほとんど経っていないことがわかった…そこで王は「所従来」を問うたのです。
これが「どこから来たのか」という意味でないことは、側近たちの答えからも明らかで、「これまでどうであったか」という意味と解せざるを得ません。
しかし、これは「どうやってここへ来たのか」=「これまでどのようないきさつで現状に至っているのか」という流れで考えることができます。

「所従来」のこれらの用法は、他にも多く見られますが、介詞「従」がもつ意味が時や場所の起点だけではなく、動作行為のよりどころや根拠、来源をも表し得ることによるのでしょう。

『桃花源記』の「見漁人、乃大驚、問所従来。具答之。」の「所従来」も、おそらく「どこから来たのか」という意味ではないでしょう。
それなら「具」(すべてのことを一切合切)答える必要はないわけで、起点だけ答えれば十分です。
漁人は、「どこから来たのか」は言うに及ばず、桃花源に来ることになった事情のすべてを人々に語ったはずです。


(この記事には、もっと明快に説明した続編があります。)

「ずんばあらず」という読みの意味は?

  • 2018/10/02 17:43
  • カテゴリー:訓読
(内容:漢文訓読特有の表現「~ずんばあらず」という読みについて、その意味と由来を考察する。)

少し前のことになりますが、同僚から、

~ずんばあらず」というのは、どういう意味ですか?」

という質問を受けました。
質問の趣旨は、

「~ずんば」というのは「もし~しなければ」という仮定表現だと思うが、どこが仮定になっているのか?

という意味でした。
私は「~ずんばあらず」が仮定表現だとは考えていなかったので、その質問には答えようがなかったのですが、そもそもこの訓読表現はどういう意味だろうと疑問に思いました。

さっそく山田孝雄氏の『漢文の訓讀によりて傳へられたる語法』(宝文出版 1935)を開いてみましたが、残念ながらその項目は見当たりませんでした。
しかたがないので、江連隆氏の『漢文語法ハンドブック』(大修館書店 1997)を見てみると、次のように説明されています。

(6)ずんバアラ(ず)
⑧吾未嘗不得見也。(論語・八佾)
〔吾未だ嘗て見ゆることを得ずんばあらざるなり。〕
私は今まで一度もお目にかかれなかったことはないのです。
【注】「未嘗不~」で、二重否定の形。「ずンバアラ(ず)」と、習慣的に特有の読み方をしてきている。

「習慣的に」「特有の読み方」だということです。

次に『漢詩・漢文解釈講座』別巻「訓読百科」(昌平社 1995)を開いてみました。
「不―不」「未―不」の項目がありますが、読み方については特に説明がありません。

さらに『研究資料漢文学10』「語法・句法・漢字・漢語」(明治書院 1994)の二重否定の項を見ると、「不敢不」の項に、次のように書かれています。

次にあげる「不必不」「未嘗不」などは「……ずんばあらず」という訓読独特の読みくせがある。

「訓読独特の読みくせ」だそうです。

訓読は古典中国語とは違い、日本語ですから、私もより一層門外漢です、困ってしまいました。
「ずんば」がもし仮定表現なら、多少なりとも説明がありそうなものですが、ないところを見ると、仮定表現ではないからなのだろうと推測します。
しかし、どうあれこの表現が「特有の読み方」であり、「訓読独特の読みくせ」なら、なぜそういう読み方をするのか説明があってほしいところです。

さて、困ってしまいましたが、そもそもこの「~ずんばあらず」という表現はいつの頃からあるのだろうと、手元の和漢混交文で書かれた古典を探してみることにしました。
すると、『平家物語』の巻2「烽火沙汰」に次のような一節がありました。

君君たらずといふとも、臣以て臣たらずんばあるべからず。父父たらずといふとも、子以て子たらずんばあるべからず。(冨倉徳次郎『平家物語全注釈(角川書店 1966)』による)

この書の底本は市立米沢図書館蔵の『平家物語』なので、原本の表記を確認してみました。

君不君いふとも臣以不臣はあるへからす父不父いふとも子以不子はあるへからす

原本は漢文書きになっているのを、冨倉氏が書き下し文に改めたもので、妥当な読み方だと思います。
この一節は、『古文孝経』の孔安国の序文を引用したものです。

・君雖不君、臣不可以不臣。父雖不父、子不可以不子。(古文孝経・孔安国序)

この文は、今なら「君君たらずと雖も、臣は以て臣たらざるべからず。父父たらずと雖も、子は以て子たらざるべからず。」と読みます。
つまり、『平家物語』では「臣たらざるべからず」を「臣たらずんばあるべからず」と表現していることになります。
考え方の道筋が見えてきたような気がしました。

そこで、築島裕氏の『平安時代の漢文訓讀語につきての研究』(東京大學出版會 1963)を見てみました。すると、第一章「總説」の第三節「漢文訓讀語の性格」に次のように述べられています。

訓讀特有語形の他の一つの顯著な例は、否定語を伴った熟語に見ることが出來る。漢文で用ゐられる否定語には、「不」「非」「無」「靡」「匪」「莫」「未」など多くがあり、漢文法では何れも副詞として働き、この下に體言や用言を從へるのであるが、この際、下の「敢」「堪」「能」「不」「如」「遑」「曾」などと續いて、「不敢」「不堪」「不能」「無不」「非不」「不如」「不遑」「未曾」など多くの熟語を形作る。これを訓讀する際、否定語は下から反讀しなければならないし、又「敢」「堪」「如」「曾」などの字の訓法にも、本來のその和語の意味からずれたものもあつて、この類の熟語の訓讀には、訓讀特有の語法を形成するものが多いのである。

そして、次の例が挙げられています。

〔……ズハアラズ(ジ)〕
不敢不奉(慈恩傳卷第六永久點九二行)
(原典は訓点あり。「敢テ奉(ラ)ズハアラジ」と読んでいる模様。)

〔……ズハアルベカラス〕(原典、末尾「ス」と濁らず。「ズ」の誤りか。)
不可不愼(成簣堂文庫本醫心方院政期點二ノ一)
(原典は訓点あり。「愼マズハアルベカラズ」と読んでいる模様。)

前者は「興福寺蔵大慈恩寺三蔵法師伝」の永久四年点で、西暦1116年のものです。
また、後者は12世紀末と考えられ、つまりいずれも平安末の例で、『平家物語』の成立に先立つものになります。
つまり、否定語は下から返読しなければならない事情にあって、訓読特有の語法として、「不敢不」は「~ずはあらず」、「不可不」は「~ずはあるべからず」と読む訓法がすでに院政期からあったわけです。
ここで注意すべきは、下の「不」は「ずは」と訓じたのではなく、「ずはあら」と訓じた点です。
「ずはあら」とは「ずあら」に「は」を加えたもので、「ずあら」は言うまでもなく後の「ざら」の未融合形でしょう。

では、もっと時代を遡って平安初期にはどのように否定語が読まれていたのか気になり、門前正彦氏の『漢文訓読史上の一問題 ― 打消助動詞の連体形について ―』(訓点語と訓点資料8 1957)を読んでみました。
平安朝初期の訓点物を詳細に調査され、「ぬ」と「ずある(ざる)」の用法の差を論じています。
その上で、次のように述べられています。

下に助動詞が接続しない場合、つまり連体修飾語、準体言、係り結び、連体終止の用法には、本活用の「ぬ」が310例であるのに対して、補助活用の未融合形「ずある」が12例である。すなはち、助動詞が接続しない場合には、大体、本活用の「ぬ」が使用されている。次に、助動詞が下に接続する場合には、助動詞「なり」を除外すれば、すべて補助活用の未融合形「ずある」が使われている。

それが、以後の漢文訓読文では、初期の訓読文では「ぬ」が使われていた用法にも「ざる」が使用されるようになったということです。

平安初期の点本では、先の調査によって判るように、連体修飾、準体言、係り結び、連体終止の各場合には、本活用の「ぬ」を用い、他方、助動詞が下に接続する場合には、補助活用の未融合形「ずある(ざる)」が用いられるというように、「ぬ」「ずある(ざる)」の間には、大体の使い分けがあった。しかるに、平安中期以後の漢文訓読文では、下に助動詞が接続する場合に「ざる」が用いられるのは勿論であるが、初期では「ぬ」が使われていた連体修飾、準体言、係り結び、連体終止の用法にも、「ざる」が使用されるようになり、結局、漢文脈ではあらゆる用法「ざる」を使用するようになったのである。

さらに、補助活用「ざる」の発生について、

助動詞「べし」「めり」「らむ」を接続させる場合には、打消の助動詞は形容詞的な性格を持っているので終止形「ず」から直接にこれ等の助動詞を接続させることができない。したがってこれらの助動詞が下に接続する場合にのみ補助活用の「ざる」の形をとったのであるが、漢文脈でも、平安初期のものでは、ほぼ和文脈と同様な「ぬ」と「ざる」の使い分けが存している事が明らかになった。助動詞が下に接続する場合にのみ、補助活用「ずある(ざる)」の形をとり、他の場合には、本活用「ぬ」が使われているのである。

と考察されています。
漢文訓読において、たとえば「不」などが、なぜ「ぬ」系の読みをせず、「ざる」系の読みをするのか、以前から疑問を感じていたのですが、このような経緯が推定されるわけですね。

さて、話を元に戻しましょう。
『平家物語』の「君不君いふとも臣以不臣はあるへからす父不父いふとも子以不子はあるへからす」を、冨倉氏は「君君たらずといふとも、臣以て臣たらずんばあるべからず。父父たらずといふとも、子以て子たらずんばあるべからず。」と読んでおられるわけですが、これまでの資料を踏まえると、あるいは次のように読む方が適切なのかもしれません。

君君たらずといふとも、臣以て臣たらずはあるべからず。父父たらずといふとも、子以て子たらずはあるべからず。

この「ずはある」は、先にも述べたように、本来「ざる」の未融合形「ずある」が係助詞「は」を伴ったものだと思います。
ここで「ずある(ずはある)」という訓が用いられているのは、『古文孝経』の原文「臣不可以不臣」「子不可以不子」が、後の「不」から返って読むべき語が「可」であり、助動詞「べし」と読む語であるため、平安初期からすでに「ずある(ざる)」系の読みがなされたと考えるべきでしょう。
つまり、もとは「臣は以て臣たらずあるべからず」「子は以て子たらずあるべからず」だった。
それが、強調の働きをする係助詞「は」を伴って「ずはあるべからず」に転じ、「ずは」を「ずんば」と読むようになった。
そんなところなのかもしれません。

ただ注意しなければならないのは、「ずは」自体は順接の仮定条件を表すこともあるという点です。
「~(せ)ずは、…」は、「~しなくては、~しないならば」という意味を表すというのが、普通の認識でしょう。
それが、冒頭「ずんばあらず」の「どこが仮定になっているのか?」という誤解を生みます。

「ずは(ずんば)」ではなく、「ずはあら(ずんばあら)」なのだと捉え直してみる必要があります。
「べし」につながる場合は、「ず(は)あるべし」が、やがて融合系の「ざる」を用いて「ざるべし」と読まれるようになった。
しかし、「ず」につながる場合は、「ず(は)あらず」が融合系の「ざら」を用いて「ざらず」とはならず、そのまま「ずはあらず」が生きて、やがて「ずんばあらず」と読みが固定されるようになった。
このあたりの事情はよくわかりませんが、やはり日本語の自然さということなのでしょうか。

「盍」はなぜ「何不」なのか?

(内容:「盍」は「何不」二字分の働きをすると言われるが、なぜそのような意味を表すのかについて調査、考察する。)

「盍」は、高等学校の漢文では、1年生で再読文字として学習する字です。
再読しなければ読みようのない字で、高等学校の現場では「何不」二字分の働きをする字として扱います。
その際、「何不」の音は「カ/フ」、「盍」の音も「カフ」だから、一字で代用したのだという説明をすることが多いのではないでしょうか。

巷の参考書を見てみましょう。
『漢詩・漢文解釈講座 別巻 訓読百科』(昌平社1995)には、

「何不―」(何不(カフ))の二字を「盍(カフ)」(コウ)一字で代用した用法。疑問詞で、疑問・反語の働きをし、勧誘や詰問の意味を表す。「蓋(コウ)」と書くこともある。

とあります。

『漢文語法ハンドブック』(大修館書店1997)を開いてみると、

一字で「どうして…ないのか」という意味を持っているので、その意味を生かして「なんゾ…ざル」と二度読む再読文字。
なお「盍(カフ)」は「何不(カフ)」の二字の音を一字に表したものであり、否定を表す〔p,m-〕系の音ではない。

とあります。
この〔p,m-〕系の音というのは、同書「否定(打消)の形」に説明があり、

話し言葉で否定したり打ち消したりする意味を表す時には、上下の唇をやや突き出して息や音を出したり、突き出した両唇を鳴らすようにしたりしていた。これらの音は、主として〔p〕系や〔m-〕系で表すことができる。

と、藤堂明保『漢字語源辞典』の推定音を下敷きにして、例を挙げながらかなり詳しく説明されています。

いずれにしても、「何不」二字の働きをしているというわけで、これが現場教育でも引用されているのでしょう。
「蓋」「闔」も同様で、これらも「何不」二字の働きをしていると説明されます。


しかし、いかにももっともらしい説明ではあるけれども、拭いきれない疑問がわいてきます。
「盍」にせよ「蓋」にせよ、確かに「何不」の意味を表すのですが、一方で「盍不~」という用例も実際に見られます。

・子張問於満苟得曰、盍不為行。(荘子・盗跖)
 (子張が満苟得に問うた、どうして行いを修めないのか。→行いを改めるべきだ。)

・中婦諸子謂宮人、盍不出従乎。(管子・戒)
 (宮中の女官を取り締まるものが女官たちに言った、どうして宮中を出てご主人様に随行しないのか。→随行するべきだ。)

・苟有過、盍不早正。(宋史・胡宿列伝)
 (もし過ちがあるなら、どうして早く正さないのか。→早く正すべきだ。)

・我故人子、盍不過我。(新唐書・沈伝師列伝)
 (私の旧友の子だ、どうして私を訪問しないのか。→私を訪問するべきだ。)

これらの例に用いられる「盍」を「何不」とみなすことは勿論無理で、これは単独に「なんゾ」と読み慣わしています。
二字分の働きをする語のことを兼詞(縮約語)といいますが、「盍」は兼詞だが、「盍不」の形では兼詞ではなく反語の語気副詞だというのは、それで簡単に見分けが付くわけですから合理的だといえば合理的ですが、どこか釈然としません。

そこでいくつか虚詞詞典を見てみることにしました。
まず、定番の『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)。

副词
一、“盍”用于谓语前,表示反问,义为“何不”。可译作“为什么不”、“怎么不”。
(“盍”が謂語の前で用いられて、反問を表し、“何不”の意。“为什么不”、“怎么不”と訳せる。)

二、“盍”在“不”前,可译作“为什么”、“怎么”。
(“盍”が“不”の前にあるときは、“为什么”、“怎么”と訳せる。)

日本の参考書とたいして変わりませんが、字義について気になることが書いてあります。

《说文》:“盇:覆也。”虚词“盍”与本义无关,而假借字。《说文》段注:“曷,何也。凡言‘何不’者,急言之亦曰何,是以《释言》云:‘曷,盍也。’郑注《论语》云:‘盍,何不也。’‘盍’古音在十五部,故为‘曷’之假借。”可用作副词。先秦已有用例,后沿用于文言中。
(《説文解字》に、“盇は覆である”という。虚詞の“盍”は本義と関係がなく、仮借の字である。《説文解字段玉裁注》に、“曷,何である。そもそも‘何不’というのは、これを急言すると何という、したがって《釈言》に‘曷は、盍である’という。《論語》の鄭注に、‘盍は、何不である’という。‘盍’の古音は十五部にあるので、‘曷’の仮借である。”という。副詞として用いられる。先秦にすでに用例があり、以後文言中で受け継がれている。)

「急言」というのは『漢語大詞典』の説明によると、

漢代注家譬況字音用語。與“緩言”、“徐言”對言。有i[i]介音的細音字,因發音時口腔的氣道先窄而後寬,肌肉先緊而後鬆,其音急促,故名。
(漢代の注釈家が字音を喩える用語。“緩言”、“徐言”の対義語。i介音(韻母中の主母音の前の母音)の細音(斉歯呼ともいう)の字があれば、発音する時に口の中の気道が先がすぼまり後が緩むことで、筋肉は先が緊張し後が緩む、その音は切迫するので、急言と名付ける。)

とあり、音韻学には疎いのでよくわかりませんが、「盍」が「何不」、「何」の両義をもつのは、発音上の問題のような気がしてきます。


さらに尹君の『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)を見ると、次のように書かれています。

按:很多人说“盍”是“何不”两字的合音词,而“盍不”连用现象很多,如前项所引“盍不出从乎”,无法解释。为此私意认为,是由于语言缓急的不同,而出现了省略与否的问题。
(案ずるに:多くの人が“盍”は“何不”二字の合音の語であると述べるが、“盍不”が連用される例は多く、前項に引用した“盍不出従乎”のような場合は、解釈する術がない。このため私的には、これはことばの緩急が同じでなく、省略されるか否かによる問題であると考える。)

「盍」が「盍不」の形でも用いられることに対する、私と同じ疑問ですね。
尹君も発音上の問題と考えているようです。

さらに韩峥嵘の『古汉语虚词手册』(吉林人民出版社1984)の「盍(盇) 闔 盖(蓋)」の項を見てみました。

代词,表示疑问或反问,作状语,可译为“为什么”、“怎么”。常与“不”连用。例如:
(代詞,疑問や反語を表し,状語となる,“为什么”、“怎么”と訳せる。“不”と共に用いられることが多い,例えば、)

盍不起為寡人寿乎?(管子・小称)…原文簡体字
――为什么不起身给我敬酒呢?
(どうして身を起こして私のために酒を勧めないのか?)

闔不亦問是已?(荘子・徐無鬼)…原文簡体字
――为什么不也追问这个道理呢?
(どうしてこの道理をつきとめようとしないのか?)

譆,善哉!技盖至此乎?(庄子・養生主)…原文簡体字
――呀,妙哇!〔解剖牛的〕技术怎么能够达到这种程度呢?
(ああ、素晴らしい!〔牛を解剖する〕技術はどうしてこの程度にまで到達できるのか?)

这里应该注意:连用的“盍”、“不”二字,由于古代发音有相近之处,急读时“不”便被“盍”所吞没,所以在古书上常有“盍”等于“盍不”的情形。
(ここで注意を要するのは,連用される“盍”、“不”の二字は,古代の発音が近いことにより,急いで読む時“不”が“盍”に飲み込まれるため,古書においては“盍”が“盍不”に等しい状況があるのである。)

古代の発音が近いというのはどういうことか調べてみました。
郭錫良の『漢字古音手冊(増訂本)』(商務印書館2014)によれば、

盍闔嗑(噬嗑)𨜴      (古)匣葉  ɣap
不(弗也)       (古)幫之  pǐwə

なるほど現代中国音ではわかりませんが、上古音では「盍」の韻母の末尾と、「不」の声母に共通して「p」があります。
これが「盍不」を急いで発音する時、「“不”が“盍”に飲み込まれる」という現象が起きるわけでしょうか。
この時、「否定を表す〔p,m-〕系の音」が実は含まれているのですね。

してみると、「盍」はやはり本来は反語の語気副詞であって、「盍不」のつもりで発音しても「盍」と等しくなってしまうのでしょう。
「盍」は「何不」二字分の働きをする再読文字と、深く考えもせずに教えているのが実情ですが、兼詞(縮約語)とされる「盍」には、実はこのような事情があるのかもしれません。

「羿に」罪があるのか、「羿にも」罪があるのか?

(内容:『中山狼伝』に見られる「是羿亦有罪焉」は、その典拠『孟子』では「是亦羿有罪焉」であるが、「亦」の位置の違いで、どのように意味が異なるか考察する。)

(以下の記事は、考察に誤りがあります。「再考:『羿に』罪があるのか、『羿にも』罪があるのか?」という新記事をご参照ください。2021.9.2)

結構長い時間をかけて『中山狼伝』の注釈を施していて、その成果は少しずつ本ブログにもご報告しているのですが、一字々々の漢字の働きに気を配りつつの作業は、かなり勉強になります。
そんな作業もそろそろ終盤なのですが、おもしろい問題に出くわしました。

趙簡子に追われていた狼を、東郭先生が命がけで助けてやったのに、いったん危機を逃れるや、恩知らずにも狼は自分は腹がすきすぎているから先生を食べるのだなどと言い出す、ひどい話なのですが、詳細は『中山狼伝・注解』をご覧いただくとし、要するに助けた相手に食べられることが妥当か妥当でないかが話の焦点です。
東郭先生と狼は、三人の老人に意見を聞くことにしましたが、杏の老木も老雌牛も先生は食べられて当然だと判決を下してしまいました。
自分たちは、主人である人間に一生をかけて多大な恩恵を施したのに、老いさらばえると、木は切り倒してしまえ、牛は肉屋に売ってしまえという手のひらを返したような仕打ちをうける。
それに比べれば、一度狼を助けたぐらいの恩恵に過ぎない先生なんぞは食べられても当然だというわけです。
絶体絶命の東郭先生ですが、最後に老人に出会い助けを請います。
事情を聞いて、いったんは狼に非があるということになりかけたのですが、狼も饒舌に言い返す。
先生が自分を袋に隠して助ける際、身体をねじ曲げひどいしうちをし、あることないこと趙簡子に言ったというのです。

さて、問題は、これを聞いた老人の言葉です。

・果如是、是羿亦有罪焉。

「果たして是くのごとくんば、是れ羿にも亦た罪有り」と読んで、「本当にもしそうなら、これは羿にも罪がある」と解します。
つまり羿の故事を踏まえて「これは、東郭先生にも罪がある」と述べたことになります。
『中山狼伝・注解』の底本は『東田文集』です。

この言葉のもとになった『孟子』にあたってみましょう。

・逢蒙学射於羿、尽羿之道、思天下惟羿為愈己、於是殺羿。孟子曰、「是亦羿有罪焉。」
(逢蒙が射術を羿に学び、羿の射術を極め尽くして、天下にただ羿だけが自分より勝ると思い、そこで羿を殺した。孟子は「是亦羿有罪焉。」と言った。)

一見すると気づきにくいのですが、孟子の言葉は『東田文集』と違っています。

羿亦有罪焉。(東田文集)
亦羿有罪焉。(孟子・離婁下)

「羿」と「亦」の位置が入れ替わっています。
気になったので、『古今説海』所載の「中山狼伝』を見てみました。

果如是、羿有罪焉。(古今説海・巻49「中山狼伝」)

後句に「是」を欠きますが、『孟子』の語順になります。(前句が「如是」とある関係で、「果如是是亦羿有罪焉」の「是」を一字欠いてしまったのかもしれません。)
『東田文集』については底本の「叢書集成初編所収」本以外に、「旧小説」本、「畿輔叢書」本をあたってみましたが、いずれも「是羿亦有罪焉」に作っています。

そもそも「亦」の位置が入れ替わることにより、どのような意味の違いが生じるのでしょうか。
一般に高等学校の漢文では「亦」は、「~もまた」と読み、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す字と取り扱います。
それに従えば、『東田文集』の「是羿亦有罪焉」は、羿にもまた罪がある、つまり、「狼に罪があるが、東郭先生にも罪がある」と、事情が同じであることを示すことになります。

しかし、孟子の本文は「是亦羿有罪焉」であって、もし「亦」の働きが前述のものであるならば、「羿にも罪がある」という意味にはなり得ません。
なぜなら、「亦」がこの位置に置かれるということは、「他にも羿に罪がある行為があったが、この件も羿に罪がある」という意味にならざるを得ないからです。
『孟子』の本文を見る限り、他に羿の罪と判断できる事件はありません。
とすれば、「亦」の働きは「行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す」と考えるわけにはいかなくなります。

「亦」を「(~も)また」と読むからといって、あるいはそう読まれているからといって、日本語通りの意味だと思い込むのは極めて危険な判断です。
「亦」には、一般にあまり知られていない意味がいくつもあります。
たとえば、『孟子・梁恵王上』の有名な一文、

亦有仁義而已矣。

「亦た仁義有るのみ」と読まれて、「(古の聖王と同様に恵王も)また仁義あるのみです」などと解する傾向は、高等学校の教科書でもまだ見られます。
しかし、この「亦」は範囲副詞で「唯」や「惟」などと同じく、文末の語気詞「而已矣」と呼応して、仁義に基づく政治を行うべきことに限定されることを表します。
「亦(た)だ仁義有るのみ」と読む方が適切でしょう。
この句を「古の聖王と同様に恵王もまた」と解してしまうのは、訓読に引きずられているからです。

では、「是亦羿有罪焉」の「亦」はいったいどんな意味を表しているのでしょうか。
虚詞詞典を開いてみると、尹君『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)に、次のような記述がありました。

⑧副词 就,便。和“则”条⑳项差不多。
(副詞 就,便。“則”の条⑳項とほぼ同じ。)

として、3例が挙げられている中に、3例目に次のようなものがありました。

荘子儀曰:“吾君王殺我而不辜,死人毋知亦已,死人有知,不出三年,必使吾君知之。”(《墨子・明鬼》)…原文簡体字
   ――庄子仪说:“我的国君杀我,而我是没有有罪的,如果死人没有知觉就算了,死人如果有知觉,不出三年,一定要使我的国君知道这事(是要报应的)。”
(荘子儀が“わが君は私を殺すが、私は無実である、もし死人に知覚がないならそれまでのこと、死人にもし知覚があるなら、三年経たないうちに、きっとわが君にこのこと(が報いを受けなければならないということ)を思い知らせてやる”と言った。)

この例について、尹君が補足しています。

按:例3,就在同篇文中:“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”文意句式完全相同,而用“则”字,可见两字义通。
(按ずるに、例3は、同篇の文中に、“杜伯曰:‘吾君杀我而不辜,若以死者为无知,则止矣;若死而有知,不出三年,必使吾君知之。’”の例がある。文意も構文も完全に同じで、“則”の字が用いられている、二つの字義が通じることがわかる。)

つまり、尹君は『墨子』の用例を根拠に、「亦」の字が「則」に通じることを指摘しているのです。
ただこの説明は、前句に述べられた条件のもとに後句で結果を示す、いわば連詞の働きをする「則」とみるべきです。
しかし、『古今説海』本は、「是」の字を欠き「果如是、亦羿有罪焉。」に作るため、これに該当してしまうことになります。

さて、同じ『文言虚词通释』の⑩には、次のように述べられています。

⑩副词 和“乃”条⑬项相同,可译为“乃(是)”、“原本(是)”、“本来(是)”。
(副詞 “乃”の条⑬項と同じで、“すなわち(…である)”、“もともと(…である)”、“本来(…である)”と訳すことができる。)

「乃」⑬には、
常用以表肯定的论断语意
(常用して肯定的な判断の語意を表す)
とあります。
「亦」は「乃」が肯定的判断を表すのと同様の働きをしているというわけです。
例文をみると、

会稽守通謂梁曰:“江西皆反,此亦天亡秦之時也。”(《史記・項羽本紀》)…原文簡体字
 ――会稽太守殷通对项梁说:“江西一带都造反了,这乃是上天灭亡秦国的时候呢。”
(会稽の太守殷通が項梁に、“江西一帯はみな背いた、これは天が秦を滅ぼす時だ。”と言った。)

『孟子』の「是亦羿有罪焉」は、これに該当するのでしょう。
上に二つ挙げた「亦」の働き「則」「乃」は、それぞれに異なるものですが、私には関連性があるように思えます。
前に述べた内容を踏まえて、それならば「まさに~だ」という肯定的判断を強める働きをしているという点で、両者はつながるところがあるのではないでしょうか。

教えを受けた師を殺すような逢蒙という弟子をとったこと、その点をもって、師の羿にこそ罪があると述べた、それが孟子の言葉。
「逢蒙にも罪があるが、羿にも罪がある」という意味ではないと思います、少なくとも語法的には。

『東田文集』と『古今説海』所載の「中山狼伝」は文字の異同が多く見られ、どちらが原本にあたるのか論じるだけの材料を筆者は持ち合わせませんが、注釈をつけていく過程で、後者の表現の方が洗練されているように思えます。
その勘だけで勝手な想像をさせていただくなら、『東田文集』の方は「是亦羿有罪焉」という『孟子』の言葉を引用しながらも、あえて「是羿亦有罪焉」と文字を入れ替えることで、「狼に罪があるのはもちろんだが、狼の話によれば、東郭先生にも罪がある」と表現したのではないでしょうか。
ところが、『古今説海』本は、文章を推敲する中で、『孟子』からの引用なのだから、正しく「亦羿有罪焉」に戻し、しかも「是」を削ってしまった。
その結果、「亦」は「則」または「乃」の意に用いられ、「狼の話によれば、東郭先生に罪があるのだ」と判断を強めることになってしまった。

臆断に過ぎるかもしれませんが、文字がたった一字移動するだけで、こんなにも意味が変わってしまうのです。

用例を探す

(内容:漢文の参考書や語法書は、用例の孫引きをせずに、自分で用例を探す努力をすべきである。)

高校生用の漢文語法書とか受験参考書を見ていると、結構怪しげなことが書いてあると思うと同時に、使われている用例がどの本もどの本も判で押したように同じなのが気になります。
ひどい場合は、その同じ用例を原典にあたってみると、そもそも原典がなかったり、原典とは文字の異同があったり、中国の古典文ではなく西洋のことわざが漢訳されたものであったりします。
想像ですが、おそらくこういう本を書いている御仁は、自分で用例を探すという努力をあまりせず、他本の孫引きをしているのでしょう。

私の場合は、ずいぶん昔から漢籍のデータベースを作り続けていますので、たとえばある構文の最適の例を探すという場合も、膨大な用例の中から選び出すことができますし、ある漢字の使われ方についても、その膨大な用例を比較検討することにより可能になります。
ざっと100数十の漢籍がデータベース化されていますので、主要なものはほぼ網羅されています。
もちろんこれでも足りませんから、必要に応じて、四庫全書や四部叢刊にあたることもあるし、最近はWeb上でも検索できるようになりましたから、それを利用することもあります。

膨大な用例数とはいえ、ただ用例がありましたではダメですから、用いられている時代や文章の様式なども考慮に入れる必要はあります。
また、データベース化されているデータが正しいとは限りませんから、原典にあたって確認する作業も必要になります。

用例検索画面の画像

ですが、手元ですぐに用例を探せる、有無を確認できるという環境は、劇的に研究の助けになります。
みなさんもぜひご用意されるべきでしょう。

私は、何かの構文に最適な例は、常に膨大な用例の中から最もわかりやすいものを選び出して提示するようにしています。
世の参考書、語法書なども、孫引きなどせずに、もう少し誠実にこういう地道な作業をなさってはいかがでしょうか。

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