(内容:柳宗元『捕蛇者説』に見られる「豈若吾郷隣之旦旦有是哉」は「あに~ごとくならんや」と読まれているが、「あに~しかんや」と読んではいけないのか?違いはあるのか考察する。)
柳宗元の『捕蛇者説』にある、一つの表現について同僚から質問を受けました。
・豈若吾郷隣之旦旦有是哉。
この文を教科書では「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るがごとくならんや。」と読んであるのですが、なぜ「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若(し)かんや。」ではないのかという問いかけです。
指導書にはどう説明してあるのかと思ってみると、数研出版の教科書だったので(本校では毎年教科書会社を変えています)、なんと書いたのは私でした。
もう随分前のことになるのですが、このように記しています。
どうして私の村の隣人たちが毎日この死の危険があるのと同じであろうか(いや、同じではない)。「豈若~哉」は意味的に「不若~」と同じになり、したがって本文は「不若吾郷隣之旦旦有是」(私の村の隣人が毎日これがあるのと同じではない)と内容的に同じになる。「若~」(~のようである)の形は、ここでは「~と同じである」と訳した。「是」の指示内容は、死の危険を冒すことを指す。蔣氏の場合は蛇捕りによる危険だが、ここでは村人の租税を納めるための過酷な労働と飢餓による死の危険を冒すことをいう。
古典中国語文法を本格的に学び始めた比較的初期の頃の記述ですが、あえてその立場を抑えて書いていた記憶があります。
しかし、「豈に~に若かんや」という読みについては言及していません。
この教科書では先行する『論語』教材に、微子篇の長沮と桀溺の話を取り上げていて、その中に、
・而与其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉。
(▼而(なんぢ)其の人を辟(さ)くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや。
▽お前も、つまらぬ人を避けて立派な人を選んで仕えようとする人に従うより、俗世を避けて隠棲する人に従う方がよい。)
…読みと訳は数研出版『改訂版 古典B 漢文編』による
という文が出てきて、「与其A、豈若B哉」(其のA(せ)んよりは、豈にB(する)に若かんや)の形を、「A(する)よりも、B(する)方がよい。」と「句法」「選択」として取り上げているのですから、『捕蛇者説』で同じ「豈若~哉」の形が出てきて、違う訳をしているのを「あれ?」と思う先生方があったとして当然です。
それなのに、それについて何も触れないでいたというのは、書き手の私自身が大いに反省しなければならないことでした。
ただ、同僚の質問を受けながら、しかし「若」を「ごとシ」と読むか「しク」と読むかは、日本人がそう読み分けているだけで、それほど違いがあるだろうかという思いをもっていました。
また、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」は「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若かんや。」ではないのかという同僚の疑問は、「豈若~哉」が「豈に~に若かんや」に傾く用法ではないのかという先入観があって、「豈に~のごとくならんや」の読みに違和感を感じられたものなのではという気もしました。
「若」は「如」と字義の通じる字で、「しなやかで、言いつけに従順である」が原義の字です。
言いつけ通りにすることから、「似る」という意味が生まれたものだと思います。
また、さらにその似た状態に及ぶという意味から、「及ぶ」という意味をもつものだと考えられます。
この「似る」の方を「ごとシ」、「及ぶ」の方を「しク」と訓読したわけです。
「A若B」(A Bのごとし)は、「AはBのようである」とか「AはBと同じである」とか訳しますが、「AがBの状態に及ぶ」と捉え直してみれば、「似る」と「及ぶ」が実は根を同じにしているのがわかると思うのです。
つまり、「AがBに似た状態に及ぶ」です。
ですから、これを打ち消した表現「A不若B」(A Bに若かず)は、「AはBに及ばない」と訳して、比較を表す形として教えますが、これとて、「AはBの状態に似ない」ことから、そこまで及ばないという意味を表すわけです。
また、「A不若B」のABが動詞の場合、「AするはBするに若かず」と読んで、「AするよりBする方がよい」とか「Bする方がましだ」とか訳して、選択の形として、これまた別扱いをしますが、本来はやはり「AすることはBすることに及ばない」で、Aする行為の妥当性がBする行為の妥当性に似た状態に至らないことを表す表現だと思います。
しかし、たとえば次の例、
・棄身不如棄酒。(説苑・敬慎)
(▼身を棄つるは酒を棄つるに如かず。)
を、「身を棄てるのは酒を棄てるのに及ばない」と訳すと、何だかよくわからない訳になります。
斉の桓公が、大臣管仲のために酒宴を用意し、正午を約束の時刻としたのに、管仲が遅刻しました。
桓公は杯を挙げて酒を飲ませましたが、管仲はそれを半分で棄ててしまう。
桓公が「約束して遅刻し、飲んで酒を棄てるというのは、礼において許されるのか」と詰問すると、管仲は「酒が入ればおしゃべりになり、おしゃべりになれば失言をし、失言すれば身は破滅です」とした上で、言った言葉がこの「棄身不如棄酒」です。
実は、この『説苑』の文章は、以前どこかの大学の入試に出題されていて、
[ A ]不如[ B ]。
と空欄になっていて、ABにあてはまる語句を選ばせる問題になっていました。
これをかつて200人ほどいた生徒たちに入れさせてみると、半分ほどの生徒が逆に答えてしまったのです。
つまり、「棄酒不如棄身」が正しいと思ったわけですね。
確かに、「A不如B」を「AすることはBすることに及ばない」と訳すと、酒を棄てることと身を棄てることを、重大性の観点から比較すれば、身を棄てることの方が上ですから、このように間違ってしまうわけです。
これを妥当性の観点から比較すれば、酒を棄てる方が妥当だとすぐわかるのですが、なかなかそういうふうには考えられないわけで、その意味で「AするよりBする方がよい」という訳は、意訳ではあるけれども、誤解を防ぐ効果はあるわけです。
どちらの方がよいかと考えれば、「身を棄てるより酒を棄てる方がよい」は簡単に導けますからね。
さて、本題に戻って、「豈若~(哉)」という表現は、「どうして~に及ぶだろうか」ではなく、「どうして~のようであろうか」としか訳しようがない例はあるか、探してみました。
1.予豈若是小丈夫然哉。(孟子・公孫丑下)
(▼予豈に是の小丈夫のごとく然らんや。
▽私はどうしてあの小人物のようにそうであろうか。)
2.微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之為諒也、自経於溝涜、而莫之知也。(論語・憲問)
(▼管仲微かりせば、吾其れ髪を被り衽を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒(まこと)を為すや、自ら溝涜に経(くび)れて、之を知る莫きがごとくならんや。
▽管仲がいなかったら、(今頃)我らは髪を結わず着物を左前にしていただろう(=夷狄に征服されていただろう)。どうして男女が信義を立てて、自ら溝の中で首をくくって死に、誰もそれを知らないことのようであろうか。)
3.凡治身養性、節寝処、適飲食、和喜怒、便動静、使在己者得、而邪気因而不生、豈若憂瘕疵之与痤疽之発、而予備之哉。(淮南子・詮言訓)
(▼凡そ身を治め性を養ひ、寝処を節し、飲食を適にし、喜怒を和らげ、動静を便にし、己に在る者をして得しめば、邪気因りて生ぜず、豈に瘕疵と痤疽の発するを憂へて、予め之に備ふるがごとくならんや。
▽そもそも身体を整え本性を養い、寝起きを節制し、飲食を適切にし、喜怒の感情をやわらげ、動静を滞りなくさせ、自分に備わるものに適切を得させれば、邪気はそれにより生じないものだ、どうして傷やできものが発生するのを苦にして、あらかじめ備えるのと同じであろうか。)
やはり、「どうして~に及ぶだろうか」と訳した方がわかりやすい例が多いのですが、探せば上のように、そうは訳せない例は見つかります。
1の例は、孟子自身は小人物だとは思っていないのですから、「小人物に及ばない」方向では訳せません。
2の例は、管仲が桓公を覇たらしめ、そのおかげで夷狄から人々を守ったのであって、その功績ははかりしれない、そういう流れで、男と女が義理立てして心中するのとの比較で「及ばない」の方向では解し得ません。
3も、体や精神を涵養する本来のあり方が、傷やできものへの処し方に「及ばない」という解釈はできません。
要するに、「豈若B哉」は意味的に「不若B」と同じですが、そのBと比べられる内容をAとして、AがBより比較基準において下である場合は、「豈にBに若かんや」「Bに若かず」と読み、「及ばない」意に解することになります。
また、AがBより上である場合には、「豈にBのごとくならんや」「Bのごとくならず」と読むしかなく、「Bのようではない」とか「Bと同じではない」と訳すことになりますが、「Bどころではない」ぐらいの意味にとればわかりやすくなるわけです。
いずれにしても、「若」や「如」は、「ごとシ」「しク」と読み分けはしても、根本は「似る」という近似の義で、「及ぶ」であっても「似た状態に及ぶ」だと考えれば、「豈若~哉」や「不若~」の読み分けは、それほど大きな意味をもたないことがわかるのではないでしょうか。
さて、『捕蛇者説』に戻って、該当箇所の前の部分は次の通り。
・悍吏之来吾郷、叫囂乎東西、隳突乎南北。譁然而駭者、雖鶏狗不得寧焉。吾恂恂而起、視其缶、而吾蛇尚存、則弛然而臥。謹食之、時而献焉。退而甘食其土之有、以尽吾歯。蓋一歳之犯死者二焉。其余則熙熙而楽、…
(▽荒々しい役人が私の村に来ると、四方にわたって喚きちらし暴れ回ります。がやがやと(騒いで村人が)驚き恐れることは、鶏や犬でさえ落ち着いていられないほどです。私はびくびくしながら起き上がり、その(=蛇の入った)かめの中を見て、私の蛇がまだいれば、ほっとして寝床に戻ります。慎重に(蛇の)世話をして、納入すべき時が来たら(役所に)献上するのです。(蛇を納入し終えて)役所から帰ってその土地の産物をおいしく食べ、そのようにして私の天寿をまっとうします。およそ一年のうち死の危険を冒すことは二回だけです。それ以外の時はゆったりと楽しみます、…)
この後に、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」と続くわけですが、「有是」とは、「死の危険がある」という意味です。
つまり単純には、蛇捕りの蔣氏は年に2回死の危険があるけれども、村人は毎日その危険があるという、2つのことを比較しているわけです。
普通、『捕蛇者説』のこの部分は「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るがごとくならんや」と読まれていますが、その意味では「豈に吾が郷隣の旦旦に是れ有るに若かんや」と読んでもよいことになります。
それは死の危険の頻度を比較の基準において、村人の方が蔣氏よりもはるかに上回るからです。
ですが…
「豈」は、疑いを設けてみる副詞で、「どう?」とか「どうであろう?」と置き換えて読んでみると、意味がよくわかります。
「どう?私の村の隣人たちが毎日死の危険があるのと同じか?」と「どう?私の村の隣人たちが毎日死の危険があるのに及ぶか?」は、それほど違うでしょうか?
後に想起されることばは、「同じはずがない」「及ぶはずがない」ですが、要するに「到底及ばない」ということではありませんか。
結論として、「豈若吾郷隣之旦旦有是哉。」は、「豈に~に若かんや」とも読めるけれども、「豈に~ごとくならんや」と読んでも、別におかしくはない、ただ「ごとシ」「しク」と読み分けをしているから起こる混乱なのだと思います。