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2020年04月の記事は以下のとおりです。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・4(目的語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。目的語について。)

初版『体系漢文』を改訂する際に、大幅に変更したのが「目的語」「補語」の取り扱いです。
すなわち、改訂版では、初版でなお用いていた「補語」という言葉を撤廃しました。
このことについては、これまで「補語」という言葉を用いて授業を行ってこられた先生方は、違和感あるいは抵抗をお感じになったかもしれません。

初版を執筆する段階で、すでに私が「補語」という用語を用いることに反対し、編集者のKさんとバトルを繰り返したことは以前のエントリーに書きました。
実は私もKさんも、古典中国語文法における「補語」という文法用語が、いわゆる学校現場で用いられている「補語」とは全く概念の異なるものであること、また、その学校現場で用いられている「補語」と説明される語の多くが、実は「目的語」と区別されるべき語ではないことをわかった上で、現場に受け入れられるかどうか、頭を悩ましたわけです。

この「目的語」と「補語」については、複数のややこしい事情が絡んでいるので、うまく説明できるかどうか自信がないのですが、その絡み合ったややこしい事情をほどくことを通して、漢文の構造をより鮮明にすることができるかもしれません。

このエントリーでは主に「目的語」という用語について書いてみたいと思います。

さきに、漢文の成分は、主語、述語(謂語)、目的語(賓語)、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の6つにより説明されると述べました。
『改訂版 体系漢文』や『体系漢文法演習』が「目的語」としているのは、この「賓語」に他なりません。
すなわち、漢文を訓読して(=日本語に翻訳して)、その日本語の事情により定義するものではなく、古典中国語としての漢文を、その専用の包丁とまな板でさばいて定義する成分です。

賓語とは、述語の後に置かれて、主に述語の作用を受ける名詞や名詞句で、述語が表す動作の対象や結果、動作が行われる場所や到達点・帰着点などを表します。
そして、特別な場合を除き、常に述語の後に置かれ、「述語+賓語」の構造をとるのが特徴です。
この古典中国語文法における用語「賓語」を目的語としたわけです。

本当は、いわゆる目的語という用語と賓語は完全一致するものではないので、私的にはそのまま「賓語」、もしくは、せめて「客語」としたかったところですが、英語を学習している生徒が使い慣れた用語の方がよかろうという判断がありました。
(ちなみに拙著『真に理解する漢文法』でも、目的語という用語を採用しています。)

ここで注意が必要なのは、漢文教育においても「目的語」という言葉は古くから用いられてきましたが、『体系漢文』の目的語は、それとは一致しないということです。

各社の教科書を拝見する限り、漢文入門にあたる部分で、成分に用いられる用語は統一されていません。
ですが、ほぼ共通しているのは、訓読した際に「~を」と読む語と、「~に・~より」などと読む語に分けて、たとえば前者を目的語、後者を補語とする等の区別がされています。
それらをまとめて補足語とするというものもありますが、2つをまとめているだけで、日本語の読みに応じて区別している点は変わりません。

(余談ながら、勤務校である京都教育大学附属高等学校では、「国語の教科書は毎年出版社を変える」が基本姿勢で、これは今はもう亡き大先輩たちが、「教科書を同じにすれば教員は必ずさぼる、常に学び続けよ」との考え方で決められたことで、もはや長老である私の目の黒いうちは遵守を徹底するつもりです。
ところが、教科書を変えるということは、漢文入門の構造解説に書かれていることが当然毎年違うことになり、記述に従わない私はともかくとして、現場の先生方はさぞかし混乱されるだろうなあと思わずにはいられません。)

・子路弾琴。(▼子路琴を弾く。)→「琴」は「琴を」と読むから目的語 

・窮鳥入懐。(▼窮鳥懐に入る。)→「懐」は「懐に」と読むから補語 

こういうふうに説明されれば、まあそうなのかなと思います、この区別に何の意味があるのか、よくわかりませんが。

ところが、『体系漢文』の教授資料にも述べているように、

・出門。(▼門を出づ。)→「門」は「門を」と読むから目的語 

・出門。(▼門より出づ。)→「門」は「門より」と読むから補語 

と言われれば、???となってしまいます。

また、

・斉宣王見顔淵。(▼斉の宣王顔淵を見る。)→「顔淵」は「顔淵を」と読むから目的語 

・孟子見斉宣王。(▼孟子斉の宣王に見(まみ)ゆ。)→「斉宣王」は「斉の宣王に」と読むから補語 

などと説明されると、これはもういくらなんでもおかしいだろうと思われませんか?

「出門。」は、「門を出づ」と読もうが「門より出づ」と読もうが、同じ動作を表しているし、読み方によって漢文の構造が変わってしまうわけがありません。
また、後の2例も、「見」という語は等しく「会う」という意味で用いられていて、「~に見ゆ」と読んだのは、孟子と斉の宣王の立場の違いを、「会ふ」の謙譲語「まみゆ」を用いて、より自然な日本語になるように工夫した結果に過ぎません。

仮に書き下し文という日本語に対して用語を使い分けるのなら、それはそれでいいのかもしれませんが、漢文の構造を語る際に、読みによって用語を使い分けることは、このような不自然な事情を生んでしまうことになるのです。

では、『体系漢文』は、「~を」と読む語、「~に・~より」などと読む語を一括して目的語と定義しているのか?というと、実はそうではありません。

先の例でいえば、どう訓読しようが「出門。」の「門」は目的語です。
また、「斉宣王見顔淵。」の「顔淵」も目的語、「孟子見斉宣王。」の「斉宣王」も目的語です。
これらはみな「述語の後に置かれて、主に述語の作用を受ける名詞や名詞句」だからです。
『体系漢文』では「目的語は述語に関連する事物を表し、動作・行為の対象や行われる場所・到達点・比較の対象などさまざまな意味を表す」と説明しました。
重要なポイントは、目的語が二つ置かれる文(双賓文)を除き、みな述語の直後に置かれる名詞または名詞句であるという点です。

「即位」(位に即く)の「位」、「問政」(政を問ふ)の「政」、「出国」(国より出づ)の「国」、そして「有人」(人有り)の「人」、すべて目的語です。

述語との関連はさまざまですが、すべてに共通しているのは述語のすぐ後に置かれる名詞であるという点です。
中国語の賓語とは、ただそれだけのもの、いかにもシンプル、そしてそれが『体系漢文』の目的語です。

なんだ、それならやっぱり「~を」と読む語、「~に・~より」などと読む語を区別せずに目的語と定義しただけじゃないかと思われるかもしれませんが、繰り返しますが、そうではありません。

・荘子釣於濮水。(▼荘子濮水に釣る。▽荘子が濮水で釣りをする。)

この例の場合、「濮水」は、従来は「濮水に」と読む語であるために補語と説明されてきました。

・斉大於魯。(▼斉は魯より大なり。▽斉の国は魯の国よりも大きい。)

この例の「魯」も、「魯より」と読むために補語とされてきました。

しかし、「濮水」は述語「釣」に対する目的語ではなく、「魯」は述語「大」に対する目的語ではありません。
なぜなら、この2つの文は、構造的に次のように説明されるからです。

主語「荘子」+述語「釣」+前置詞句「於濮水」

主語「斉」+述語「大」+前置詞句「於魯」

この述語に後置された前置詞句は、次エントリーで説明する後置修飾成分で、述語の直後に置かれる名詞ではない、つまり目的語ではありません。
『体系漢文』の目的語は、異なる成分に属する「前置詞句に用いられる名詞」を含んではいないのです。

これでおわかりいただけたかどうか、やや不安ですが、『体系漢文』の目的語とは、訓読の読みによる分類ではなく、漢文という言語を、文法により定義したものです。

ですから、私はよく授業で生徒にこのように言います。
「文の先頭に置かれる名詞や名詞句は主語、そして述語の直後に置かれる名詞や名詞句が目的語。主語も目的語も、常に名詞か名詞句でなければならない。」

ただそれだけで、いかにもシンプル、どう読むかが目的語という成分を決めるわけではないのです。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・3(述語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。述語について。)

『体系漢文』で用いる文法用語として、前エントリーでは主語をとりあげました。
しかし、これはむしろ文法用語の問題というよりは、何をもって主語とみなすかという問題です。
つまり、漢文の存在文や現象文において、文頭に置かれた名詞または名詞句が主語であるということを知らないことと、それらを日本語で表現するときに漢文との構造のズレがあるということの、2つの要因がないまぜになって起こることです。

・宋有人。(▼宋に人有り。▽宋に人がいる。) →主語「宋」+述語「有」+目的語「人」

・天雨雪。(▼天雪雨(ふ)る。▽空に雪が降る。) →主語「天」+述語「雨」+目的語「雪」

これらの存現文で、構造的に「宋」「天」が主語であるということを知らなければ、どれが主語なのだ?ということになってしまうし、「人がいる」「雪が降る」と訳すから「人」「雪」が主語だと言えば、漢文を日本語の文法で説明してしまうことになります。
前者の場合は、より一歩進んだ語法理解が必要になるでしょうし、後者ならそもそも漢文は「主語+述語」の構造だと説明すること自体の意味がなくなってしまいます。

しかし、これは漢文における主語とは何かという認識にズレがあるために起こることで、「主語」という用語自体に違和感があるわけでは、たぶんないだろうと思っています。

「述語」という用語についても、主語と同様のことが言えます。
述語とは、主語に示されたことに対して、その動作・状態・性質を述べる語で、中国では「謂語」と呼び、同じ意味です。

・帝笑。(▼帝笑ふ。▽皇帝が笑う。)

この「笑」が述語だというのは、誰もが首肯することです。
これを文の構造のところで説明するなら、どの先生方も、主語「帝」+述語「笑」と板書されるのではないでしょうか。

ところが、

・白髪如霜草。(▼白髪霜草のごとし。▽白髪は霜のおりた草のようである。)

この文はどのように説明されるでしょうか。
主語は「白髪」でよいとして、述語は何でしょう?
日本語訳から判断して「如霜草」でしょうか?述部ということならそれでもいいでしょう。
しかし、さらに成分を確定するとすれば?

「帝笑。」の場合なら、たとえば「『笑』は動詞で、主語『帝』がどうしたかを表す語だから述語だ。動詞はこのように述語になることが多い」とでも説明されるのでしょうが、「白髪如霜草。」のような文になると、「霜のおりた草のようである」という日本語訳から、途端に先のような説明は影をひそめ、「A如B」は、「AはBのようだ」という意味だと、句法の指導にシフトしてしまうのではないでしょうか。

この文は、

主語「白髪」+述語「如」+目的語「霜草」

という成分からなり、「如」は「似る」に近い義の動詞です。
つまり、「白髪は霜のおりた草に似る」から「霜のおりた草のようである」という意味になるわけです。
「霜草」は目的語か?「霜のおりた草に」と訳すなら、補語ではないのか?という疑問に対する答えは次項に譲るとして、「霜草」は「如」の賓語に他なりません。

要するに「ごとし」と読むから助動詞ではないのか?というのは、漢文の文法を、それを訳した日本語で理解しようとすることから生じる誤解で、このことが飲み込めさえすれば、「如」が述語だということは理解できるわけです。

ちなみに『体系漢文』では、まだこの「如」の用法を句法編の「比況の形」に置いて、成分を示したり、「如」が動詞であることに言及していません。
さすがに踏み込みすぎているからです。
ですが、『体系漢文法演習』では、はっきり動詞と明示しています。

『体系漢文』の特徴の一つは「文法編」にあるといってよいと思いますが、わずかに15ページ分に過ぎません。
代表的なほんのわずかなことしか書けていないのに、それでもし現場の先生方が、これまでにない内容だと驚かれるのだとしたら、『体系漢文』の今後めざしていく道は、少しずつ少しずつの歩みではありますが、まだまだ多くの未知の領域があるといえるかもしれません。
私の夢は、「句法編」が、その怪しげな「句法」という言葉を脱ぎ捨て、すべて「文法編」と呼んで恥ずかしくない内容に成長していくこと、それを受け止めていただける教育現場が実現していくことです。


話が横道にそれてしまいましたが、述語という用語を使う際に、問題が生じるとすれば、それは用語自体ではなく、漢語の品詞に対する知識の問題であるということになります。

「如」以外にも、判断を表す動詞「為」や「是」があります。

・爾爾、我我。(▼爾(なんぢ)は爾たり、我は我たり。▽あなたはあなたであり、私は私である。)

・我鬼。(▼我は是れ鬼なり。▽私は幽霊である。)

この2例は、

主語「我」+述語「為」+目的語「我」
主語「我」+述語「是」+目的語「鬼」

と説明され、「為」「是」はbe動詞に近い、いわば「だ・である」に相当する語、繋辞です。

「為」は「~となる・担う」の意からの引申義、「是」は指示代詞の復指の働きからの転で、「である」という意味を表すようになったものと考えられますが、この繋辞としての「為」「是」も、述語成分として説明されます。

このことについても、漢語の品詞に対する知識の問題になります。

ただ、たとえば次のような文、

・帝怒甚。(▼帝怒ること甚だし。▽皇帝はとても怒る。)

この文の「甚」をどう説明するかについては話が別で、結論からいえば「甚」は述語ではなく後置修飾語(補語)になるわけですが、『体系漢文』で用いる文法用語の最難関ハードルになりました。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・2(主語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。主語について。)

いわゆる学参になる『体系漢文』で用いている文法用語について、腐心させられたという話を前エントリーから書き始めました。

実は結論から言えば、先に書いた6つの成分、すなわち主語、述語(謂語)、目的語(賓語)、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)をそのまま導入すれば、構造理解自体はとてもスムーズに進められます。
それなのになかなかそうはいかなかった、あるいは今もなおいかないのは、前エントリーで触れた「難き」ことがそこにあるからです。
一番やっかいだったのは「補語」ですが、このエントリーでは、まず主語について書いてみましょう。

「皇帝が笑う」というのを、漢文で表記すると、

・帝笑。(▼帝笑ふ。)

となります。
これはどの先生方でも異論なくお認めになるでしょう。
日本語の文において、何が、誰が…にあたる語が主語だと普通は思われているし、もう少し丁寧にいえば、述語が表す動作や状態などの主体であったり、「花子は優しい」などの判断や命題を表す文の主体が主語だと定義されるからです。
だから、「兵士は少なく、食糧は尽きた」の意の

・兵少、食尽。(▼兵少なく、食尽く。)

の主語が「兵」「食」だというのも納得できるし、「主人が恥をかかされる」という意味の

・主辱。(▼主辱めらる。)

もなんとか説明がつく。

だから、漢文の主語と述語の関係は、日本語と同じで、「主語+述語」の語順になると、強い調子で言えるのです。

ところが、

・斉有孟嘗君。(▼斉に孟嘗君有り。)

は、「斉の国に孟嘗君がいる」という意味ですから、たちまちさっきの説明と矛盾してしまう。

似たような文は他にもあります。

・地多積雪。(▼地に積雪多し。)

は、「地に積雪が多い」という意味です。
これらの文の主語は何でしょうか?

孟嘗君がいる、積雪が多い…ですから、主語は「孟嘗君」「積雪」ということになるのですが、さきほど日本語と同じ「主語+述語」の語順になると説明した手前、都合の悪い話になってしまいます。
うまく説明できないから、「有」や「多」は返読文字だという、特殊な用語を持ち出す。
あるいは、これらの文は例外だと言ったり、あえて触れないでおこうとしたりする。

文法というのは、言語の形態や機能における約束事です。
次々に例外が出てくるのに文法というのはいかがなものか…ということがあるからでしょうか、漢文ではあまり文法といわず、「句法」などという文法用語ではない言葉が用いられます。

このような問題が生じるのは、漢文を日本語の感覚で説明しようとするからです。
つまり、乱暴な言い方ですが、日本語で「~が」「~は」にあたる語が主語だと説明してしまうから起こる混乱です。

『体系漢文』では、

「漢文では、主語は述語が表す動作・作用・状態などの主体を表す。必ずしも動作主だけが主語ではなく、これから話題にしようとする内容を表すさまざまな言葉が主語になる。」

と説明しました。
これは、現在主流の古典中国語文法に基づく説明です。
拙著『真に理解する漢文法』では、「主に文の先頭に置かれる名詞または名詞句で、述語が表す動作や作用、状態などの主体を表す語を主語という。」と定義しました。

そして、主語は述語との関連から4つの種類に分類されます。
1.施事主語(述語の動作や行為を行う主体を表す主語)
2.主題主語(述語が描写したり述べたり、判断したりする対象となる主題を表す主語)
3.受事主語(述語の動作や行為を受ける客体を表す主語)
4.存在主語(存在文における主語)

以上を、『体系漢文』では、

1.動作の主体を表す主語 (帝笑。の「帝」)
2.主題を表す主語    (兵少、食尽。の「兵」「食」)
3.動作の受け手を表す主語(主辱。の「主」)
4.存在を表す主語    (斉有孟嘗君。の「斉」)

としました。

4の存在主語をどのように理解するか、させるかが鍵にはなるのですが、「主語+述語」の構造にいささかも抵触しません。

そもそも存在文は、「A有B。」(AにBがある・いる)、「B在A」(BはAにある・いる)のような文をいうのですが、Bの存在する場所を説明する後者の場合は、「主語+述語」の語順なので問題になりません。
わかりにくいのは前者です。

「有」に存在と保有の二義があることは周知のことですが、そもそもの成り立ちが、保有から存在に派生したと考えるか、存在の義は別系統で、事象を生じることからの転か…等、学説の分かれるところです。
いずれにせよ、

・我有宝。(▼我に宝有り。)

という所有文を、日本語では「私には宝がある」と解し、

・斉有孟嘗君。(斉に孟嘗君有り。)

という存在文を、「斉の国に孟嘗君がいる。」と解して、日本語からすれば主語が「宝」や「孟嘗君」に見えることには違いはありません。
しかし、これをたとえば「私は宝をもつ」、「斉が孟嘗君をもつ」あるいは「斉が孟嘗君を生ず」とあえて捉え直せば、「我」「斉」が構造上の主語であることは飲み込みやすくなります。

これをちょっとややこしい説明のしかたをすると、

『有』を用いる存在文においては、構造上の目的語が意味上の主語にあたる。その意味上の主語がどこに存在するかという場所や範囲を表すのが、文の構造上の主語である。

ということになります。

要するに、存在文は「《場所》が《人・物》をもつ」から、日本語として自然な「《人・物》が《場所》にある」という訳し方をするのです。

ここまでの話を振り返ってみてください。
漢文の構造を日本語側から説明しようとすると、すぐさま矛盾を生じてしまった、でも、漢文側から見直せば、多少理解にややこしい面はあったけれども、なんの論理破綻も生じなかった。
それは考えれば、当たり前のことではありませんか?
「事は易きに在り、しかるに之を難きに求む」、難しくしてしまっているのは、いったい何だったでしょうか。


ちなみに、

・地多積雪。(▼地に積雪多し。)

の構造について、説明しておきます。

「多」(多い)は、形容詞です。
ですから、

・禽獣多而人少。(▼禽獣多くして人少なし。▽鳥や動物は多くて人は少ない。)

という文なら、返って読むことはありません。
なぜなら、

主題主語「禽獣」+述語「多」、主題主語「人」+述語「少」

の構造だからです。

ところが、形容詞「多」の後に目的語(賓語)として「積雪」が置かれることで、「述語+目的語」という述語構造の型にはまることになります。
この型の力は非常に強く、そのことによって、形容詞「多」は、目的語をとる動詞のように働くことになります。
中国ではこの作用を「形容詞の活用」と呼んでいます。
すなわち、形容詞の動詞化という意味ですが、私は形容詞が動詞に変わってしまうとまでは思っていなくて、型がそのような働きを生むという統語論的な理解をしています。

どうあれ、この「多」は、「多い」ではなく、「多くもつ」という動詞のような働きをしているのです。
ですから、「地は積雪を多くもつ」の意味で、つまり、

主語「地」+述語「多」+目的語「積雪」

の構造をとっているわけです。
そして、「地は積雪を多くもつ」を、我々日本人はなんと表現しますか?「地に積雪が多い」と言いませんか?

「多」は、返読文字と扱われますが、返読しないことは普通にあり、それは形容詞。
返読する場合は、すべて動詞のように働いている時に限ります。
特別な字でもなんでもないわけです。

これも、普通に説明できてしまいました。

『体系漢文』で用いる文法用語のこと・1(はじめに)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したこと。基本的な成分について。)

学校現場で使用いただく『体系漢文』や『体系漢文法演習』を書くにあたって、実はとても簡単なことに過ぎないのに、その実態以上に腐心させられたのが文法用語です。
(自分で勝手に書いている『真に理解する漢文法』の場合は、まるでそんなことは問題にならないのですが…)

日本語を文法的に説明する時、あるいは英語を説明する時、それぞれにふさわしい文法用語があります。
日本語を説明するのに英語の文法用語を用いたり、またその逆の場合も、もともとそのための包丁やまな板ではないのだから、必ずどこかで破綻してしまうのは理の当然で、誰でもおわかりのことかと思います。
まして、英語を日本語に翻訳した上で、日本語の文法でこう説明できるから、英語の構造もそう説明できるなどと言ってしまえば、もう大混乱です。

ところが、それをやってしまっているのが漢文です。

もし漢文をすべて書き下し文に改めてしまって、それを日本語の文法用語で説明するならわかります、あくまで書き下し文としての日本語の説明ですから。
でも、現実は、漢文を漢文としてそのまま訓点などを施しておいて、それを日本語の感覚で説明しようとし、それではうまく説明できないから、日本語の文法では用いない特別な用語まで用意してしまう。
助字という曖昧な用語がその典型です。

助字とは何か…虚詞のこと?いえ、そうではないですね、平気で動詞なんかも含まれていますし。

その曖昧な用語で漢文を説明して、もともと曖昧な用語だから完全には説明しきれず、適当にお茶を濁しておいて、結局「型の丸覚え」に走ってしまう。
学校現場の多くがそういう事態に陥ってはいないでしょうか?
現実に高等学校1年生のはじめに、いわゆる「漢文の基本構造」を教えておきながら、その後は一切それには触れない、そういうことが多くないでしょうか?
つまり、ほとんど有効に機能していないからでしょう。
この現状を打開するためには、漢文をさばく専用の包丁とまな板が必要なのです。

漢文は、古典中国語としていえば、6つの成分からなります。

文の根幹をなす、主語、述語
(謂語)、目的語(賓語)の3つ。

そして、

修飾成分になる、連体修飾語
(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の3つ。

実はこの6つの成分で漢文を説明すれば、至極明快に構造を説明することができます。
有り体に言えば、それで事足りるのです。
ところが、今の日本の高等学校で漢文の構造を語るとき、なかなかそうはいかないハードルがあるわけです。
そして、そのハードルの取り扱いひとつで、この参考書を現場で採用するか否かが決まってしまうことすらあるとか。

繰り返します、漢文を説明するなら上記の6つの成分で、無理矛盾なく明快に構造が説明できます。
それなのに、なかなか学校現場に適用できない。
それは一体なぜなのでしょうか。

ひとことで言えば、日本語の感覚で漢文を説明しようとする姿勢から逃れられないからです。

漢文は今や日本人にとっての古典でもあり、それを通じてさまざまな文化や思想を享受できます。
漢文不要論を説く人もあるそうですが、今ある我々が、長い歴史の中に生きてきたことを忘れるわけにはいきません。
かけがえのない文化を顧みない姿勢には薄っぺらい印象を覚えざるを得ませんが、同時に、そのようなことを説く人たちが、口を極めてそれを言いつのりたくなるほど、つまらなく「わかりにくい漢文の授業」を受けてきたのであろうな…と気の毒に思いもします。

ですが、日本人の古典とも言える漢文を大事にすることと、漢文を日本語の感覚で説明しようとすることとは全く視点の異なる話です。
漢文がわかるようになることが、漢文というかけがえのない文化を味わう大前提なのに、その入り口の部分がややこしくなってしまっているために、漢文嫌いを生み出してしまう。

たとえば『漢語文典叢書』に収められている数々の語法研究の書を、ちらっとでもいいので見ていただきたいと思います。
そこには過去の日本人が、真正面から漢文に挑んでいった姿が刻まれてあります。
荻生徂徠しかり、伊藤東涯しかり…
近いところで見ても、西田太一郎、牛島徳次、太田辰夫などの諸先生方による古典中国語文法に対する輝かしい研究があります。

それなのに、今の学校漢文はなぜだかその延長上にない。

定義のはっきりしない文法用語、あるいは慣れ親しんできた用語や手法から逃れられないで、それでうまく説明できない部分は例外と言い切るか、触れないで済ませてしまう。
学問的な裏付けのない用語や手法が幅をきかせていて、それでなんとか事足りていたから、できることなら今まで通りのやり方でいたい。
そうなのだと、まさかそんな失礼なことを言い切るわけにはいきませんが、多少なりともそういう面はないでしょうか?

「事は易きに在り、しかるにこれを難きに求む」とは、孟子の言葉ですが、実は漢文の構造を明快に理解する方法は「易き」ことです。
ところが、今の教育現場では、かえってこれを「難き」に求めています。

では、どこがいったい「難き」なのか、項を改めて書いてみようと思います。

『体系漢文法演習』のこと

(内容:数研出版『体系漢文演習』執筆時のエピソード。)

私が今の『真に理解する漢文法』の前身になる『概説 漢文の語法』を書き終えたのが2014年の暮れでした。
漢文の授業は、生徒の理解度に応じながらではありましたが、ほぼ全面的に古典中国語文法での解説にシフトしました。
漢文の合理的な説明が可能になり、「今まで何となく…だった漢文の構造が、ちゃんとわかるようになった」と評判も上々でした。
日々、古典中国語文法の研究を続け、若手の先生にも少しずつ伝え、この方法が今の高等学校の現場に生かされればいいなと思い続けてきました。

そんな中で、文の成分の理解と、品詞の確定が重要だと思うようになり、授業の中でも、成分と品詞の関連を意識づけるよう配慮するようになりました。
「授業の中で私が口にする品詞は、古典中国語としての品詞。日本語の品詞の場合は、必ず、たとえば『日本語の形容詞』というふうに断る」と注意して、構造理解の要になる文例を説明するときには、成分と品詞の確定に心を配りました。

2017年の秋に、数研出版編集者のKさんと、新たな問題集を出す件について打ち合わせをすることになり、私は心ひそかにある提案をするつもりでした。
それは、問題集収録の文章について、すべて成分と品詞を明示するというもの、そう、ちょうど古文の問題集がそうであるようにです。
でも、それは必ずやKさんに、まだ時期尚早と一蹴されると思ってもいました。

Kさんが新たな問題集のポリシーを説明された時、正直驚きました。
私が提案しようとしていたものとドンピシャリ一致していたからです。
それは『体系漢文 改訂版』のさらに先を行くものでした。
『体系漢文』では、まだ現場の先生方の使い勝手を配慮して、内容的にある程度抑えられている面もあるのですが、この問題集はそれすらも跳び越えていたのです。
「漢文教材の分野に一石を投じる」というKさんの言葉は、私の願いそのものでした。

そればかりか、私が心の中に潜めていた「文の成分と品詞の確定」も行うという企画、正直心が震えました。

この問題集はきっと売れないだろう…私はそう思いました、高等学校対象の問題集としては先を行きすぎている…、でも、これは売れる売れないにかかわらず間違いなく高等学校漢文教育の歴史を変える一石になる、そう信じました。

「体系漢文法演習」の画像

「語順のきまりを理解して漢文を読み解く」、そう『体系漢文法演習』の表紙には書かれています。
あえてした軽い書き方です、でもその背景にあるものは、とても重い。
それは高等学校の漢文に、まっとうな角度から斬り込んでいく姿勢そのものでした。

この問題集を上梓するにあたっても、執筆者の私と編集者のKさんの激しいバトルが何度も繰り返されました。
まだまだの部分もあります。
なによりもう少し題材文が面白いものにならないか…
いろいろと思うことはあるのですが…

『体系漢文法演習』と同じ試みをしたのが、先日アップした『史記』「鴻門の会」語法注解です。
成分と品詞を確定すること、漢文を古典中国語として捉え直すことにどんな意味があるのか、『体系漢文法演習』と併せて見ていただければと思います。

『史記』「鴻門の会」語法注解をアップしました

  • 2020/04/03 07:33
  • カテゴリー:その他
(内容:『史記』「鴻門の会」の語法注解を、ページにアップしたことの報告。)

2月22日に勤務校で行った研究会で「教員研修会」を行ったことは、以前書きました。
『史記』の「鴻門の会」という、いわば教科書定番教材を用いて、語法解説を行ったのですが、その際使用した語法注解を、本ブログにアップしました。
これは、「京都教育大学附属高等学校研究紀要 第93号」に載せたものですが、いったい誰が読むのだろう?と思えば、Web上で公開した方が、現場の先生方のお役に立てるのでは?と考えたものです。
これまでの「故事五編注解」も同様ですね。

まったく知らない漢文だと敷居が高いかもしれませんが、「鴻門の会」は誰もが知り、そしてどの先生方も教壇で扱う教材ですので、ぜひお読みいただき、漢文の語法を知る手がかりにしていただければと思います。

『史記』語法注解の成分および品詞分解の画像

この語法注解では、数研出版『体系漢文法演習』解答編で行った、漢文の成分および品詞分解を試みました。

右の「ページ」より『史記』「鴻門の会」・語法注解 をお選びいただき、ご利用ください。

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