『体系漢文』で用いる文法用語のこと・1(はじめに)
- 2020/04/07 07:14
- カテゴリー:体系漢文
(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したこと。基本的な成分について。)
学校現場で使用いただく『体系漢文』や『体系漢文法演習』を書くにあたって、実はとても簡単なことに過ぎないのに、その実態以上に腐心させられたのが文法用語です。
(自分で勝手に書いている『真に理解する漢文法』の場合は、まるでそんなことは問題にならないのですが…)
日本語を文法的に説明する時、あるいは英語を説明する時、それぞれにふさわしい文法用語があります。
日本語を説明するのに英語の文法用語を用いたり、またその逆の場合も、もともとそのための包丁やまな板ではないのだから、必ずどこかで破綻してしまうのは理の当然で、誰でもおわかりのことかと思います。
まして、英語を日本語に翻訳した上で、日本語の文法でこう説明できるから、英語の構造もそう説明できるなどと言ってしまえば、もう大混乱です。
ところが、それをやってしまっているのが漢文です。
もし漢文をすべて書き下し文に改めてしまって、それを日本語の文法用語で説明するならわかります、あくまで書き下し文としての日本語の説明ですから。
でも、現実は、漢文を漢文としてそのまま訓点などを施しておいて、それを日本語の感覚で説明しようとし、それではうまく説明できないから、日本語の文法では用いない特別な用語まで用意してしまう。
助字という曖昧な用語がその典型です。
助字とは何か…虚詞のこと?いえ、そうではないですね、平気で動詞なんかも含まれていますし。
その曖昧な用語で漢文を説明して、もともと曖昧な用語だから完全には説明しきれず、適当にお茶を濁しておいて、結局「型の丸覚え」に走ってしまう。
学校現場の多くがそういう事態に陥ってはいないでしょうか?
現実に高等学校1年生のはじめに、いわゆる「漢文の基本構造」を教えておきながら、その後は一切それには触れない、そういうことが多くないでしょうか?
つまり、ほとんど有効に機能していないからでしょう。
この現状を打開するためには、漢文をさばく専用の包丁とまな板が必要なのです。
漢文は、古典中国語としていえば、6つの成分からなります。
文の根幹をなす、主語、述語(謂語)、目的語(賓語)の3つ。
そして、
修飾成分になる、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の3つ。
実はこの6つの成分で漢文を説明すれば、至極明快に構造を説明することができます。
有り体に言えば、それで事足りるのです。
ところが、今の日本の高等学校で漢文の構造を語るとき、なかなかそうはいかないハードルがあるわけです。
そして、そのハードルの取り扱いひとつで、この参考書を現場で採用するか否かが決まってしまうことすらあるとか。
繰り返します、漢文を説明するなら上記の6つの成分で、無理矛盾なく明快に構造が説明できます。
それなのに、なかなか学校現場に適用できない。
それは一体なぜなのでしょうか。
ひとことで言えば、日本語の感覚で漢文を説明しようとする姿勢から逃れられないからです。
漢文は今や日本人にとっての古典でもあり、それを通じてさまざまな文化や思想を享受できます。
漢文不要論を説く人もあるそうですが、今ある我々が、長い歴史の中に生きてきたことを忘れるわけにはいきません。
かけがえのない文化を顧みない姿勢には薄っぺらい印象を覚えざるを得ませんが、同時に、そのようなことを説く人たちが、口を極めてそれを言いつのりたくなるほど、つまらなく「わかりにくい漢文の授業」を受けてきたのであろうな…と気の毒に思いもします。
ですが、日本人の古典とも言える漢文を大事にすることと、漢文を日本語の感覚で説明しようとすることとは全く視点の異なる話です。
漢文がわかるようになることが、漢文というかけがえのない文化を味わう大前提なのに、その入り口の部分がややこしくなってしまっているために、漢文嫌いを生み出してしまう。
たとえば『漢語文典叢書』に収められている数々の語法研究の書を、ちらっとでもいいので見ていただきたいと思います。
そこには過去の日本人が、真正面から漢文に挑んでいった姿が刻まれてあります。
荻生徂徠しかり、伊藤東涯しかり…
近いところで見ても、西田太一郎、牛島徳次、太田辰夫などの諸先生方による古典中国語文法に対する輝かしい研究があります。
それなのに、今の学校漢文はなぜだかその延長上にない。
定義のはっきりしない文法用語、あるいは慣れ親しんできた用語や手法から逃れられないで、それでうまく説明できない部分は例外と言い切るか、触れないで済ませてしまう。
学問的な裏付けのない用語や手法が幅をきかせていて、それでなんとか事足りていたから、できることなら今まで通りのやり方でいたい。
そうなのだと、まさかそんな失礼なことを言い切るわけにはいきませんが、多少なりともそういう面はないでしょうか?
「事は易きに在り、しかるにこれを難きに求む」とは、孟子の言葉ですが、実は漢文の構造を明快に理解する方法は「易き」ことです。
ところが、今の教育現場では、かえってこれを「難き」に求めています。
では、どこがいったい「難き」なのか、項を改めて書いてみようと思います。
学校現場で使用いただく『体系漢文』や『体系漢文法演習』を書くにあたって、実はとても簡単なことに過ぎないのに、その実態以上に腐心させられたのが文法用語です。
(自分で勝手に書いている『真に理解する漢文法』の場合は、まるでそんなことは問題にならないのですが…)
日本語を文法的に説明する時、あるいは英語を説明する時、それぞれにふさわしい文法用語があります。
日本語を説明するのに英語の文法用語を用いたり、またその逆の場合も、もともとそのための包丁やまな板ではないのだから、必ずどこかで破綻してしまうのは理の当然で、誰でもおわかりのことかと思います。
まして、英語を日本語に翻訳した上で、日本語の文法でこう説明できるから、英語の構造もそう説明できるなどと言ってしまえば、もう大混乱です。
ところが、それをやってしまっているのが漢文です。
もし漢文をすべて書き下し文に改めてしまって、それを日本語の文法用語で説明するならわかります、あくまで書き下し文としての日本語の説明ですから。
でも、現実は、漢文を漢文としてそのまま訓点などを施しておいて、それを日本語の感覚で説明しようとし、それではうまく説明できないから、日本語の文法では用いない特別な用語まで用意してしまう。
助字という曖昧な用語がその典型です。
助字とは何か…虚詞のこと?いえ、そうではないですね、平気で動詞なんかも含まれていますし。
その曖昧な用語で漢文を説明して、もともと曖昧な用語だから完全には説明しきれず、適当にお茶を濁しておいて、結局「型の丸覚え」に走ってしまう。
学校現場の多くがそういう事態に陥ってはいないでしょうか?
現実に高等学校1年生のはじめに、いわゆる「漢文の基本構造」を教えておきながら、その後は一切それには触れない、そういうことが多くないでしょうか?
つまり、ほとんど有効に機能していないからでしょう。
この現状を打開するためには、漢文をさばく専用の包丁とまな板が必要なのです。
漢文は、古典中国語としていえば、6つの成分からなります。
文の根幹をなす、主語、述語(謂語)、目的語(賓語)の3つ。
そして、
修飾成分になる、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の3つ。
実はこの6つの成分で漢文を説明すれば、至極明快に構造を説明することができます。
有り体に言えば、それで事足りるのです。
ところが、今の日本の高等学校で漢文の構造を語るとき、なかなかそうはいかないハードルがあるわけです。
そして、そのハードルの取り扱いひとつで、この参考書を現場で採用するか否かが決まってしまうことすらあるとか。
繰り返します、漢文を説明するなら上記の6つの成分で、無理矛盾なく明快に構造が説明できます。
それなのに、なかなか学校現場に適用できない。
それは一体なぜなのでしょうか。
ひとことで言えば、日本語の感覚で漢文を説明しようとする姿勢から逃れられないからです。
漢文は今や日本人にとっての古典でもあり、それを通じてさまざまな文化や思想を享受できます。
漢文不要論を説く人もあるそうですが、今ある我々が、長い歴史の中に生きてきたことを忘れるわけにはいきません。
かけがえのない文化を顧みない姿勢には薄っぺらい印象を覚えざるを得ませんが、同時に、そのようなことを説く人たちが、口を極めてそれを言いつのりたくなるほど、つまらなく「わかりにくい漢文の授業」を受けてきたのであろうな…と気の毒に思いもします。
ですが、日本人の古典とも言える漢文を大事にすることと、漢文を日本語の感覚で説明しようとすることとは全く視点の異なる話です。
漢文がわかるようになることが、漢文というかけがえのない文化を味わう大前提なのに、その入り口の部分がややこしくなってしまっているために、漢文嫌いを生み出してしまう。
たとえば『漢語文典叢書』に収められている数々の語法研究の書を、ちらっとでもいいので見ていただきたいと思います。
そこには過去の日本人が、真正面から漢文に挑んでいった姿が刻まれてあります。
荻生徂徠しかり、伊藤東涯しかり…
近いところで見ても、西田太一郎、牛島徳次、太田辰夫などの諸先生方による古典中国語文法に対する輝かしい研究があります。
それなのに、今の学校漢文はなぜだかその延長上にない。
定義のはっきりしない文法用語、あるいは慣れ親しんできた用語や手法から逃れられないで、それでうまく説明できない部分は例外と言い切るか、触れないで済ませてしまう。
学問的な裏付けのない用語や手法が幅をきかせていて、それでなんとか事足りていたから、できることなら今まで通りのやり方でいたい。
そうなのだと、まさかそんな失礼なことを言い切るわけにはいきませんが、多少なりともそういう面はないでしょうか?
「事は易きに在り、しかるにこれを難きに求む」とは、孟子の言葉ですが、実は漢文の構造を明快に理解する方法は「易き」ことです。
ところが、今の教育現場では、かえってこれを「難き」に求めています。
では、どこがいったい「難き」なのか、項を改めて書いてみようと思います。