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『体系漢文』で用いる文法用語のこと・2(主語)

(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。主語について。)

いわゆる学参になる『体系漢文』で用いている文法用語について、腐心させられたという話を前エントリーから書き始めました。

実は結論から言えば、先に書いた6つの成分、すなわち主語、述語(謂語)、目的語(賓語)、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)をそのまま導入すれば、構造理解自体はとてもスムーズに進められます。
それなのになかなかそうはいかなかった、あるいは今もなおいかないのは、前エントリーで触れた「難き」ことがそこにあるからです。
一番やっかいだったのは「補語」ですが、このエントリーでは、まず主語について書いてみましょう。

「皇帝が笑う」というのを、漢文で表記すると、

・帝笑。(▼帝笑ふ。)

となります。
これはどの先生方でも異論なくお認めになるでしょう。
日本語の文において、何が、誰が…にあたる語が主語だと普通は思われているし、もう少し丁寧にいえば、述語が表す動作や状態などの主体であったり、「花子は優しい」などの判断や命題を表す文の主体が主語だと定義されるからです。
だから、「兵士は少なく、食糧は尽きた」の意の

・兵少、食尽。(▼兵少なく、食尽く。)

の主語が「兵」「食」だというのも納得できるし、「主人が恥をかかされる」という意味の

・主辱。(▼主辱めらる。)

もなんとか説明がつく。

だから、漢文の主語と述語の関係は、日本語と同じで、「主語+述語」の語順になると、強い調子で言えるのです。

ところが、

・斉有孟嘗君。(▼斉に孟嘗君有り。)

は、「斉の国に孟嘗君がいる」という意味ですから、たちまちさっきの説明と矛盾してしまう。

似たような文は他にもあります。

・地多積雪。(▼地に積雪多し。)

は、「地に積雪が多い」という意味です。
これらの文の主語は何でしょうか?

孟嘗君がいる、積雪が多い…ですから、主語は「孟嘗君」「積雪」ということになるのですが、さきほど日本語と同じ「主語+述語」の語順になると説明した手前、都合の悪い話になってしまいます。
うまく説明できないから、「有」や「多」は返読文字だという、特殊な用語を持ち出す。
あるいは、これらの文は例外だと言ったり、あえて触れないでおこうとしたりする。

文法というのは、言語の形態や機能における約束事です。
次々に例外が出てくるのに文法というのはいかがなものか…ということがあるからでしょうか、漢文ではあまり文法といわず、「句法」などという文法用語ではない言葉が用いられます。

このような問題が生じるのは、漢文を日本語の感覚で説明しようとするからです。
つまり、乱暴な言い方ですが、日本語で「~が」「~は」にあたる語が主語だと説明してしまうから起こる混乱です。

『体系漢文』では、

「漢文では、主語は述語が表す動作・作用・状態などの主体を表す。必ずしも動作主だけが主語ではなく、これから話題にしようとする内容を表すさまざまな言葉が主語になる。」

と説明しました。
これは、現在主流の古典中国語文法に基づく説明です。
拙著『真に理解する漢文法』では、「主に文の先頭に置かれる名詞または名詞句で、述語が表す動作や作用、状態などの主体を表す語を主語という。」と定義しました。

そして、主語は述語との関連から4つの種類に分類されます。
1.施事主語(述語の動作や行為を行う主体を表す主語)
2.主題主語(述語が描写したり述べたり、判断したりする対象となる主題を表す主語)
3.受事主語(述語の動作や行為を受ける客体を表す主語)
4.存在主語(存在文における主語)

以上を、『体系漢文』では、

1.動作の主体を表す主語 (帝笑。の「帝」)
2.主題を表す主語    (兵少、食尽。の「兵」「食」)
3.動作の受け手を表す主語(主辱。の「主」)
4.存在を表す主語    (斉有孟嘗君。の「斉」)

としました。

4の存在主語をどのように理解するか、させるかが鍵にはなるのですが、「主語+述語」の構造にいささかも抵触しません。

そもそも存在文は、「A有B。」(AにBがある・いる)、「B在A」(BはAにある・いる)のような文をいうのですが、Bの存在する場所を説明する後者の場合は、「主語+述語」の語順なので問題になりません。
わかりにくいのは前者です。

「有」に存在と保有の二義があることは周知のことですが、そもそもの成り立ちが、保有から存在に派生したと考えるか、存在の義は別系統で、事象を生じることからの転か…等、学説の分かれるところです。
いずれにせよ、

・我有宝。(▼我に宝有り。)

という所有文を、日本語では「私には宝がある」と解し、

・斉有孟嘗君。(斉に孟嘗君有り。)

という存在文を、「斉の国に孟嘗君がいる。」と解して、日本語からすれば主語が「宝」や「孟嘗君」に見えることには違いはありません。
しかし、これをたとえば「私は宝をもつ」、「斉が孟嘗君をもつ」あるいは「斉が孟嘗君を生ず」とあえて捉え直せば、「我」「斉」が構造上の主語であることは飲み込みやすくなります。

これをちょっとややこしい説明のしかたをすると、

『有』を用いる存在文においては、構造上の目的語が意味上の主語にあたる。その意味上の主語がどこに存在するかという場所や範囲を表すのが、文の構造上の主語である。

ということになります。

要するに、存在文は「《場所》が《人・物》をもつ」から、日本語として自然な「《人・物》が《場所》にある」という訳し方をするのです。

ここまでの話を振り返ってみてください。
漢文の構造を日本語側から説明しようとすると、すぐさま矛盾を生じてしまった、でも、漢文側から見直せば、多少理解にややこしい面はあったけれども、なんの論理破綻も生じなかった。
それは考えれば、当たり前のことではありませんか?
「事は易きに在り、しかるに之を難きに求む」、難しくしてしまっているのは、いったい何だったでしょうか。


ちなみに、

・地多積雪。(▼地に積雪多し。)

の構造について、説明しておきます。

「多」(多い)は、形容詞です。
ですから、

・禽獣多而人少。(▼禽獣多くして人少なし。▽鳥や動物は多くて人は少ない。)

という文なら、返って読むことはありません。
なぜなら、

主題主語「禽獣」+述語「多」、主題主語「人」+述語「少」

の構造だからです。

ところが、形容詞「多」の後に目的語(賓語)として「積雪」が置かれることで、「述語+目的語」という述語構造の型にはまることになります。
この型の力は非常に強く、そのことによって、形容詞「多」は、目的語をとる動詞のように働くことになります。
中国ではこの作用を「形容詞の活用」と呼んでいます。
すなわち、形容詞の動詞化という意味ですが、私は形容詞が動詞に変わってしまうとまでは思っていなくて、型がそのような働きを生むという統語論的な理解をしています。

どうあれ、この「多」は、「多い」ではなく、「多くもつ」という動詞のような働きをしているのです。
ですから、「地は積雪を多くもつ」の意味で、つまり、

主語「地」+述語「多」+目的語「積雪」

の構造をとっているわけです。
そして、「地は積雪を多くもつ」を、我々日本人はなんと表現しますか?「地に積雪が多い」と言いませんか?

「多」は、返読文字と扱われますが、返読しないことは普通にあり、それは形容詞。
返読する場合は、すべて動詞のように働いている時に限ります。
特別な字でもなんでもないわけです。

これも、普通に説明できてしまいました。

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