『体系漢文』で用いる文法用語のこと・3(述語)
- 2020/04/08 07:08
- カテゴリー:体系漢文
(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。述語について。)
『体系漢文』で用いる文法用語として、前エントリーでは主語をとりあげました。
しかし、これはむしろ文法用語の問題というよりは、何をもって主語とみなすかという問題です。
つまり、漢文の存在文や現象文において、文頭に置かれた名詞または名詞句が主語であるということを知らないことと、それらを日本語で表現するときに漢文との構造のズレがあるということの、2つの要因がないまぜになって起こることです。
・宋有人。(▼宋に人有り。▽宋に人がいる。) →主語「宋」+述語「有」+目的語「人」
・天雨雪。(▼天雪雨(ふ)る。▽空に雪が降る。) →主語「天」+述語「雨」+目的語「雪」
これらの存現文で、構造的に「宋」「天」が主語であるということを知らなければ、どれが主語なのだ?ということになってしまうし、「人がいる」「雪が降る」と訳すから「人」「雪」が主語だと言えば、漢文を日本語の文法で説明してしまうことになります。
前者の場合は、より一歩進んだ語法理解が必要になるでしょうし、後者ならそもそも漢文は「主語+述語」の構造だと説明すること自体の意味がなくなってしまいます。
しかし、これは漢文における主語とは何かという認識にズレがあるために起こることで、「主語」という用語自体に違和感があるわけでは、たぶんないだろうと思っています。
「述語」という用語についても、主語と同様のことが言えます。
述語とは、主語に示されたことに対して、その動作・状態・性質を述べる語で、中国では「謂語」と呼び、同じ意味です。
・帝笑。(▼帝笑ふ。▽皇帝が笑う。)
この「笑」が述語だというのは、誰もが首肯することです。
これを文の構造のところで説明するなら、どの先生方も、主語「帝」+述語「笑」と板書されるのではないでしょうか。
ところが、
・白髪如霜草。(▼白髪霜草のごとし。▽白髪は霜のおりた草のようである。)
この文はどのように説明されるでしょうか。
主語は「白髪」でよいとして、述語は何でしょう?
日本語訳から判断して「如霜草」でしょうか?述部ということならそれでもいいでしょう。
しかし、さらに成分を確定するとすれば?
「帝笑。」の場合なら、たとえば「『笑』は動詞で、主語『帝』がどうしたかを表す語だから述語だ。動詞はこのように述語になることが多い」とでも説明されるのでしょうが、「白髪如霜草。」のような文になると、「霜のおりた草のようである」という日本語訳から、途端に先のような説明は影をひそめ、「A如B」は、「AはBのようだ」という意味だと、句法の指導にシフトしてしまうのではないでしょうか。
この文は、
主語「白髪」+述語「如」+目的語「霜草」
という成分からなり、「如」は「似る」に近い義の動詞です。
つまり、「白髪は霜のおりた草に似る」から「霜のおりた草のようである」という意味になるわけです。
「霜草」は目的語か?「霜のおりた草に」と訳すなら、補語ではないのか?という疑問に対する答えは次項に譲るとして、「霜草」は「如」の賓語に他なりません。
要するに「ごとし」と読むから助動詞ではないのか?というのは、漢文の文法を、それを訳した日本語で理解しようとすることから生じる誤解で、このことが飲み込めさえすれば、「如」が述語だということは理解できるわけです。
ちなみに『体系漢文』では、まだこの「如」の用法を句法編の「比況の形」に置いて、成分を示したり、「如」が動詞であることに言及していません。
さすがに踏み込みすぎているからです。
ですが、『体系漢文法演習』では、はっきり動詞と明示しています。
『体系漢文』の特徴の一つは「文法編」にあるといってよいと思いますが、わずかに15ページ分に過ぎません。
代表的なほんのわずかなことしか書けていないのに、それでもし現場の先生方が、これまでにない内容だと驚かれるのだとしたら、『体系漢文』の今後めざしていく道は、少しずつ少しずつの歩みではありますが、まだまだ多くの未知の領域があるといえるかもしれません。
私の夢は、「句法編」が、その怪しげな「句法」という言葉を脱ぎ捨て、すべて「文法編」と呼んで恥ずかしくない内容に成長していくこと、それを受け止めていただける教育現場が実現していくことです。
話が横道にそれてしまいましたが、述語という用語を使う際に、問題が生じるとすれば、それは用語自体ではなく、漢語の品詞に対する知識の問題であるということになります。
「如」以外にも、判断を表す動詞「為」や「是」があります。
・爾為爾、我為我。(▼爾(なんぢ)は爾たり、我は我たり。▽あなたはあなたであり、私は私である。)
・我是鬼。(▼我は是れ鬼なり。▽私は幽霊である。)
この2例は、
主語「我」+述語「為」+目的語「我」
主語「我」+述語「是」+目的語「鬼」
と説明され、「為」「是」はbe動詞に近い、いわば「だ・である」に相当する語、繋辞です。
「為」は「~となる・担う」の意からの引申義、「是」は指示代詞の復指の働きからの転で、「である」という意味を表すようになったものと考えられますが、この繋辞としての「為」「是」も、述語成分として説明されます。
このことについても、漢語の品詞に対する知識の問題になります。
ただ、たとえば次のような文、
・帝怒甚。(▼帝怒ること甚だし。▽皇帝はとても怒る。)
この文の「甚」をどう説明するかについては話が別で、結論からいえば「甚」は述語ではなく後置修飾語(補語)になるわけですが、『体系漢文』で用いる文法用語の最難関ハードルになりました。
『体系漢文』で用いる文法用語として、前エントリーでは主語をとりあげました。
しかし、これはむしろ文法用語の問題というよりは、何をもって主語とみなすかという問題です。
つまり、漢文の存在文や現象文において、文頭に置かれた名詞または名詞句が主語であるということを知らないことと、それらを日本語で表現するときに漢文との構造のズレがあるということの、2つの要因がないまぜになって起こることです。
・宋有人。(▼宋に人有り。▽宋に人がいる。) →主語「宋」+述語「有」+目的語「人」
・天雨雪。(▼天雪雨(ふ)る。▽空に雪が降る。) →主語「天」+述語「雨」+目的語「雪」
これらの存現文で、構造的に「宋」「天」が主語であるということを知らなければ、どれが主語なのだ?ということになってしまうし、「人がいる」「雪が降る」と訳すから「人」「雪」が主語だと言えば、漢文を日本語の文法で説明してしまうことになります。
前者の場合は、より一歩進んだ語法理解が必要になるでしょうし、後者ならそもそも漢文は「主語+述語」の構造だと説明すること自体の意味がなくなってしまいます。
しかし、これは漢文における主語とは何かという認識にズレがあるために起こることで、「主語」という用語自体に違和感があるわけでは、たぶんないだろうと思っています。
「述語」という用語についても、主語と同様のことが言えます。
述語とは、主語に示されたことに対して、その動作・状態・性質を述べる語で、中国では「謂語」と呼び、同じ意味です。
・帝笑。(▼帝笑ふ。▽皇帝が笑う。)
この「笑」が述語だというのは、誰もが首肯することです。
これを文の構造のところで説明するなら、どの先生方も、主語「帝」+述語「笑」と板書されるのではないでしょうか。
ところが、
・白髪如霜草。(▼白髪霜草のごとし。▽白髪は霜のおりた草のようである。)
この文はどのように説明されるでしょうか。
主語は「白髪」でよいとして、述語は何でしょう?
日本語訳から判断して「如霜草」でしょうか?述部ということならそれでもいいでしょう。
しかし、さらに成分を確定するとすれば?
「帝笑。」の場合なら、たとえば「『笑』は動詞で、主語『帝』がどうしたかを表す語だから述語だ。動詞はこのように述語になることが多い」とでも説明されるのでしょうが、「白髪如霜草。」のような文になると、「霜のおりた草のようである」という日本語訳から、途端に先のような説明は影をひそめ、「A如B」は、「AはBのようだ」という意味だと、句法の指導にシフトしてしまうのではないでしょうか。
この文は、
主語「白髪」+述語「如」+目的語「霜草」
という成分からなり、「如」は「似る」に近い義の動詞です。
つまり、「白髪は霜のおりた草に似る」から「霜のおりた草のようである」という意味になるわけです。
「霜草」は目的語か?「霜のおりた草に」と訳すなら、補語ではないのか?という疑問に対する答えは次項に譲るとして、「霜草」は「如」の賓語に他なりません。
要するに「ごとし」と読むから助動詞ではないのか?というのは、漢文の文法を、それを訳した日本語で理解しようとすることから生じる誤解で、このことが飲み込めさえすれば、「如」が述語だということは理解できるわけです。
ちなみに『体系漢文』では、まだこの「如」の用法を句法編の「比況の形」に置いて、成分を示したり、「如」が動詞であることに言及していません。
さすがに踏み込みすぎているからです。
ですが、『体系漢文法演習』では、はっきり動詞と明示しています。
『体系漢文』の特徴の一つは「文法編」にあるといってよいと思いますが、わずかに15ページ分に過ぎません。
代表的なほんのわずかなことしか書けていないのに、それでもし現場の先生方が、これまでにない内容だと驚かれるのだとしたら、『体系漢文』の今後めざしていく道は、少しずつ少しずつの歩みではありますが、まだまだ多くの未知の領域があるといえるかもしれません。
私の夢は、「句法編」が、その怪しげな「句法」という言葉を脱ぎ捨て、すべて「文法編」と呼んで恥ずかしくない内容に成長していくこと、それを受け止めていただける教育現場が実現していくことです。
話が横道にそれてしまいましたが、述語という用語を使う際に、問題が生じるとすれば、それは用語自体ではなく、漢語の品詞に対する知識の問題であるということになります。
「如」以外にも、判断を表す動詞「為」や「是」があります。
・爾為爾、我為我。(▼爾(なんぢ)は爾たり、我は我たり。▽あなたはあなたであり、私は私である。)
・我是鬼。(▼我は是れ鬼なり。▽私は幽霊である。)
この2例は、
主語「我」+述語「為」+目的語「我」
主語「我」+述語「是」+目的語「鬼」
と説明され、「為」「是」はbe動詞に近い、いわば「だ・である」に相当する語、繋辞です。
「為」は「~となる・担う」の意からの引申義、「是」は指示代詞の復指の働きからの転で、「である」という意味を表すようになったものと考えられますが、この繋辞としての「為」「是」も、述語成分として説明されます。
このことについても、漢語の品詞に対する知識の問題になります。
ただ、たとえば次のような文、
・帝怒甚。(▼帝怒ること甚だし。▽皇帝はとても怒る。)
この文の「甚」をどう説明するかについては話が別で、結論からいえば「甚」は述語ではなく後置修飾語(補語)になるわけですが、『体系漢文』で用いる文法用語の最難関ハードルになりました。