『体系漢文』で用いる文法用語のこと・4(目的語)
- 2020/04/08 16:56
- カテゴリー:体系漢文
(内容:数研出版『体系漢文』を執筆するにあたって、文法用語に苦労したことの続篇。目的語について。)
初版『体系漢文』を改訂する際に、大幅に変更したのが「目的語」「補語」の取り扱いです。
すなわち、改訂版では、初版でなお用いていた「補語」という言葉を撤廃しました。
このことについては、これまで「補語」という言葉を用いて授業を行ってこられた先生方は、違和感あるいは抵抗をお感じになったかもしれません。
初版を執筆する段階で、すでに私が「補語」という用語を用いることに反対し、編集者のKさんとバトルを繰り返したことは以前のエントリーに書きました。
実は私もKさんも、古典中国語文法における「補語」という文法用語が、いわゆる学校現場で用いられている「補語」とは全く概念の異なるものであること、また、その学校現場で用いられている「補語」と説明される語の多くが、実は「目的語」と区別されるべき語ではないことをわかった上で、現場に受け入れられるかどうか、頭を悩ましたわけです。
この「目的語」と「補語」については、複数のややこしい事情が絡んでいるので、うまく説明できるかどうか自信がないのですが、その絡み合ったややこしい事情をほどくことを通して、漢文の構造をより鮮明にすることができるかもしれません。
このエントリーでは主に「目的語」という用語について書いてみたいと思います。
さきに、漢文の成分は、主語、述語(謂語)、目的語(賓語)、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の6つにより説明されると述べました。
『改訂版 体系漢文』や『体系漢文法演習』が「目的語」としているのは、この「賓語」に他なりません。
すなわち、漢文を訓読して(=日本語に翻訳して)、その日本語の事情により定義するものではなく、古典中国語としての漢文を、その専用の包丁とまな板でさばいて定義する成分です。
賓語とは、述語の後に置かれて、主に述語の作用を受ける名詞や名詞句で、述語が表す動作の対象や結果、動作が行われる場所や到達点・帰着点などを表します。
そして、特別な場合を除き、常に述語の後に置かれ、「述語+賓語」の構造をとるのが特徴です。
この古典中国語文法における用語「賓語」を目的語としたわけです。
本当は、いわゆる目的語という用語と賓語は完全一致するものではないので、私的にはそのまま「賓語」、もしくは、せめて「客語」としたかったところですが、英語を学習している生徒が使い慣れた用語の方がよかろうという判断がありました。
(ちなみに拙著『真に理解する漢文法』でも、目的語という用語を採用しています。)
ここで注意が必要なのは、漢文教育においても「目的語」という言葉は古くから用いられてきましたが、『体系漢文』の目的語は、それとは一致しないということです。
各社の教科書を拝見する限り、漢文入門にあたる部分で、成分に用いられる用語は統一されていません。
ですが、ほぼ共通しているのは、訓読した際に「~を」と読む語と、「~に・~より」などと読む語に分けて、たとえば前者を目的語、後者を補語とする等の区別がされています。
それらをまとめて補足語とするというものもありますが、2つをまとめているだけで、日本語の読みに応じて区別している点は変わりません。
(余談ながら、勤務校である京都教育大学附属高等学校では、「国語の教科書は毎年出版社を変える」が基本姿勢で、これは今はもう亡き大先輩たちが、「教科書を同じにすれば教員は必ずさぼる、常に学び続けよ」との考え方で決められたことで、もはや長老である私の目の黒いうちは遵守を徹底するつもりです。
ところが、教科書を変えるということは、漢文入門の構造解説に書かれていることが当然毎年違うことになり、記述に従わない私はともかくとして、現場の先生方はさぞかし混乱されるだろうなあと思わずにはいられません。)
・子路弾琴。(▼子路琴を弾く。)→「琴」は「琴を」と読むから目的語 ?
・窮鳥入懐。(▼窮鳥懐に入る。)→「懐」は「懐に」と読むから補語 ?
こういうふうに説明されれば、まあそうなのかなと思います、この区別に何の意味があるのか、よくわかりませんが。
ところが、『体系漢文』の教授資料にも述べているように、
・出門。(▼門を出づ。)→「門」は「門を」と読むから目的語 ?
・出門。(▼門より出づ。)→「門」は「門より」と読むから補語 ?
と言われれば、???となってしまいます。
また、
・斉宣王見顔淵。(▼斉の宣王顔淵を見る。)→「顔淵」は「顔淵を」と読むから目的語 ?
・孟子見斉宣王。(▼孟子斉の宣王に見(まみ)ゆ。)→「斉宣王」は「斉の宣王に」と読むから補語 ?
などと説明されると、これはもういくらなんでもおかしいだろうと思われませんか?
「出門。」は、「門を出づ」と読もうが「門より出づ」と読もうが、同じ動作を表しているし、読み方によって漢文の構造が変わってしまうわけがありません。
また、後の2例も、「見」という語は等しく「会う」という意味で用いられていて、「~に見ゆ」と読んだのは、孟子と斉の宣王の立場の違いを、「会ふ」の謙譲語「まみゆ」を用いて、より自然な日本語になるように工夫した結果に過ぎません。
仮に書き下し文という日本語に対して用語を使い分けるのなら、それはそれでいいのかもしれませんが、漢文の構造を語る際に、読みによって用語を使い分けることは、このような不自然な事情を生んでしまうことになるのです。
では、『体系漢文』は、「~を」と読む語、「~に・~より」などと読む語を一括して目的語と定義しているのか?というと、実はそうではありません。
先の例でいえば、どう訓読しようが「出門。」の「門」は目的語です。
また、「斉宣王見顔淵。」の「顔淵」も目的語、「孟子見斉宣王。」の「斉宣王」も目的語です。
これらはみな「述語の後に置かれて、主に述語の作用を受ける名詞や名詞句」だからです。
『体系漢文』では「目的語は述語に関連する事物を表し、動作・行為の対象や行われる場所・到達点・比較の対象などさまざまな意味を表す」と説明しました。
重要なポイントは、目的語が二つ置かれる文(双賓文)を除き、みな述語の直後に置かれる名詞または名詞句であるという点です。
「即位」(位に即く)の「位」、「問政」(政を問ふ)の「政」、「出国」(国より出づ)の「国」、そして「有人」(人有り)の「人」、すべて目的語です。
述語との関連はさまざまですが、すべてに共通しているのは述語のすぐ後に置かれる名詞であるという点です。
中国語の賓語とは、ただそれだけのもの、いかにもシンプル、そしてそれが『体系漢文』の目的語です。
なんだ、それならやっぱり「~を」と読む語、「~に・~より」などと読む語を区別せずに目的語と定義しただけじゃないかと思われるかもしれませんが、繰り返しますが、そうではありません。
・荘子釣於濮水。(▼荘子濮水に釣る。▽荘子が濮水で釣りをする。)
この例の場合、「濮水」は、従来は「濮水に」と読む語であるために補語と説明されてきました。
・斉大於魯。(▼斉は魯より大なり。▽斉の国は魯の国よりも大きい。)
この例の「魯」も、「魯より」と読むために補語とされてきました。
しかし、「濮水」は述語「釣」に対する目的語ではなく、「魯」は述語「大」に対する目的語ではありません。
なぜなら、この2つの文は、構造的に次のように説明されるからです。
主語「荘子」+述語「釣」+前置詞句「於濮水」
主語「斉」+述語「大」+前置詞句「於魯」
この述語に後置された前置詞句は、次エントリーで説明する後置修飾成分で、述語の直後に置かれる名詞ではない、つまり目的語ではありません。
『体系漢文』の目的語は、異なる成分に属する「前置詞句に用いられる名詞」を含んではいないのです。
これでおわかりいただけたかどうか、やや不安ですが、『体系漢文』の目的語とは、訓読の読みによる分類ではなく、漢文という言語を、文法により定義したものです。
ですから、私はよく授業で生徒にこのように言います。
「文の先頭に置かれる名詞や名詞句は主語、そして述語の直後に置かれる名詞や名詞句が目的語。主語も目的語も、常に名詞か名詞句でなければならない。」
ただそれだけで、いかにもシンプル、どう読むかが目的語という成分を決めるわけではないのです。
初版『体系漢文』を改訂する際に、大幅に変更したのが「目的語」「補語」の取り扱いです。
すなわち、改訂版では、初版でなお用いていた「補語」という言葉を撤廃しました。
このことについては、これまで「補語」という言葉を用いて授業を行ってこられた先生方は、違和感あるいは抵抗をお感じになったかもしれません。
初版を執筆する段階で、すでに私が「補語」という用語を用いることに反対し、編集者のKさんとバトルを繰り返したことは以前のエントリーに書きました。
実は私もKさんも、古典中国語文法における「補語」という文法用語が、いわゆる学校現場で用いられている「補語」とは全く概念の異なるものであること、また、その学校現場で用いられている「補語」と説明される語の多くが、実は「目的語」と区別されるべき語ではないことをわかった上で、現場に受け入れられるかどうか、頭を悩ましたわけです。
この「目的語」と「補語」については、複数のややこしい事情が絡んでいるので、うまく説明できるかどうか自信がないのですが、その絡み合ったややこしい事情をほどくことを通して、漢文の構造をより鮮明にすることができるかもしれません。
このエントリーでは主に「目的語」という用語について書いてみたいと思います。
さきに、漢文の成分は、主語、述語(謂語)、目的語(賓語)、連体修飾語(定語)、前置連用修飾語(状語)、後置修飾語(補語)の6つにより説明されると述べました。
『改訂版 体系漢文』や『体系漢文法演習』が「目的語」としているのは、この「賓語」に他なりません。
すなわち、漢文を訓読して(=日本語に翻訳して)、その日本語の事情により定義するものではなく、古典中国語としての漢文を、その専用の包丁とまな板でさばいて定義する成分です。
賓語とは、述語の後に置かれて、主に述語の作用を受ける名詞や名詞句で、述語が表す動作の対象や結果、動作が行われる場所や到達点・帰着点などを表します。
そして、特別な場合を除き、常に述語の後に置かれ、「述語+賓語」の構造をとるのが特徴です。
この古典中国語文法における用語「賓語」を目的語としたわけです。
本当は、いわゆる目的語という用語と賓語は完全一致するものではないので、私的にはそのまま「賓語」、もしくは、せめて「客語」としたかったところですが、英語を学習している生徒が使い慣れた用語の方がよかろうという判断がありました。
(ちなみに拙著『真に理解する漢文法』でも、目的語という用語を採用しています。)
ここで注意が必要なのは、漢文教育においても「目的語」という言葉は古くから用いられてきましたが、『体系漢文』の目的語は、それとは一致しないということです。
各社の教科書を拝見する限り、漢文入門にあたる部分で、成分に用いられる用語は統一されていません。
ですが、ほぼ共通しているのは、訓読した際に「~を」と読む語と、「~に・~より」などと読む語に分けて、たとえば前者を目的語、後者を補語とする等の区別がされています。
それらをまとめて補足語とするというものもありますが、2つをまとめているだけで、日本語の読みに応じて区別している点は変わりません。
(余談ながら、勤務校である京都教育大学附属高等学校では、「国語の教科書は毎年出版社を変える」が基本姿勢で、これは今はもう亡き大先輩たちが、「教科書を同じにすれば教員は必ずさぼる、常に学び続けよ」との考え方で決められたことで、もはや長老である私の目の黒いうちは遵守を徹底するつもりです。
ところが、教科書を変えるということは、漢文入門の構造解説に書かれていることが当然毎年違うことになり、記述に従わない私はともかくとして、現場の先生方はさぞかし混乱されるだろうなあと思わずにはいられません。)
・子路弾琴。(▼子路琴を弾く。)→「琴」は「琴を」と読むから目的語 ?
・窮鳥入懐。(▼窮鳥懐に入る。)→「懐」は「懐に」と読むから補語 ?
こういうふうに説明されれば、まあそうなのかなと思います、この区別に何の意味があるのか、よくわかりませんが。
ところが、『体系漢文』の教授資料にも述べているように、
・出門。(▼門を出づ。)→「門」は「門を」と読むから目的語 ?
・出門。(▼門より出づ。)→「門」は「門より」と読むから補語 ?
と言われれば、???となってしまいます。
また、
・斉宣王見顔淵。(▼斉の宣王顔淵を見る。)→「顔淵」は「顔淵を」と読むから目的語 ?
・孟子見斉宣王。(▼孟子斉の宣王に見(まみ)ゆ。)→「斉宣王」は「斉の宣王に」と読むから補語 ?
などと説明されると、これはもういくらなんでもおかしいだろうと思われませんか?
「出門。」は、「門を出づ」と読もうが「門より出づ」と読もうが、同じ動作を表しているし、読み方によって漢文の構造が変わってしまうわけがありません。
また、後の2例も、「見」という語は等しく「会う」という意味で用いられていて、「~に見ゆ」と読んだのは、孟子と斉の宣王の立場の違いを、「会ふ」の謙譲語「まみゆ」を用いて、より自然な日本語になるように工夫した結果に過ぎません。
仮に書き下し文という日本語に対して用語を使い分けるのなら、それはそれでいいのかもしれませんが、漢文の構造を語る際に、読みによって用語を使い分けることは、このような不自然な事情を生んでしまうことになるのです。
では、『体系漢文』は、「~を」と読む語、「~に・~より」などと読む語を一括して目的語と定義しているのか?というと、実はそうではありません。
先の例でいえば、どう訓読しようが「出門。」の「門」は目的語です。
また、「斉宣王見顔淵。」の「顔淵」も目的語、「孟子見斉宣王。」の「斉宣王」も目的語です。
これらはみな「述語の後に置かれて、主に述語の作用を受ける名詞や名詞句」だからです。
『体系漢文』では「目的語は述語に関連する事物を表し、動作・行為の対象や行われる場所・到達点・比較の対象などさまざまな意味を表す」と説明しました。
重要なポイントは、目的語が二つ置かれる文(双賓文)を除き、みな述語の直後に置かれる名詞または名詞句であるという点です。
「即位」(位に即く)の「位」、「問政」(政を問ふ)の「政」、「出国」(国より出づ)の「国」、そして「有人」(人有り)の「人」、すべて目的語です。
述語との関連はさまざまですが、すべてに共通しているのは述語のすぐ後に置かれる名詞であるという点です。
中国語の賓語とは、ただそれだけのもの、いかにもシンプル、そしてそれが『体系漢文』の目的語です。
なんだ、それならやっぱり「~を」と読む語、「~に・~より」などと読む語を区別せずに目的語と定義しただけじゃないかと思われるかもしれませんが、繰り返しますが、そうではありません。
・荘子釣於濮水。(▼荘子濮水に釣る。▽荘子が濮水で釣りをする。)
この例の場合、「濮水」は、従来は「濮水に」と読む語であるために補語と説明されてきました。
・斉大於魯。(▼斉は魯より大なり。▽斉の国は魯の国よりも大きい。)
この例の「魯」も、「魯より」と読むために補語とされてきました。
しかし、「濮水」は述語「釣」に対する目的語ではなく、「魯」は述語「大」に対する目的語ではありません。
なぜなら、この2つの文は、構造的に次のように説明されるからです。
主語「荘子」+述語「釣」+前置詞句「於濮水」
主語「斉」+述語「大」+前置詞句「於魯」
この述語に後置された前置詞句は、次エントリーで説明する後置修飾成分で、述語の直後に置かれる名詞ではない、つまり目的語ではありません。
『体系漢文』の目的語は、異なる成分に属する「前置詞句に用いられる名詞」を含んではいないのです。
これでおわかりいただけたかどうか、やや不安ですが、『体系漢文』の目的語とは、訓読の読みによる分類ではなく、漢文という言語を、文法により定義したものです。
ですから、私はよく授業で生徒にこのように言います。
「文の先頭に置かれる名詞や名詞句は主語、そして述語の直後に置かれる名詞や名詞句が目的語。主語も目的語も、常に名詞か名詞句でなければならない。」
ただそれだけで、いかにもシンプル、どう読むかが目的語という成分を決めるわけではないのです。