「所」について・2
- 2020/10/09 17:33
- カテゴリー:漢文の語法
(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その2。)
前エントリーで、「無所請事」の意味と読みについて考えを巡らしましたが、一応解決がついたように思えて、また漠然といくつかの用例を眺めていました。
そんな時、ふと一つの用例が目にとまりました。
・欲以所事孔子事之。(孟子・滕文公上)
(▼孔子に事(つか)ふる所を以て之に事へんと欲す。)
「孔子につかえた態度でこれ(=有若)につかえようとした。」という意味でしょうか。
この「事」(つかフ)は、依拠性の賓語として「孔子」を伴っています。
仕えるという意味では他動性の賓語はとらない動詞だと思います。
だとすれば、この「所」は一体どんな働きをしているのでしょうか?
文意から逆に想像すると、「所事孔子」は、「ソレで孔子に仕えるソレ」に相当するはずです。
ここでわからなくなりました。
「ソレで孔子に仕えるソレ」だとすれば、「事」という動詞が依拠性の賓語「孔子」以外に、別の賓語を取り得ることになるのですが、そんな表現があるでしょうか。
まず頭の中に並んだのは、たとえば「事父母[ソレで]」です。
これは検索のしようがないので、依拠性を明確にする「於」を伴う「事父母於[ソレ]」の形式で調べてみましたが、一例もヒットしません。
探せばあるかもしれませんが、「事」だけで検索すれば12万以上の例があるわけで、その大半が「仕える」以外の意味でしょうから、気持ちが萎えてしまいます。
困り果ててしまって、つらつら考えるに、「事父三年」とか「事父母謹孝」といった例はあるけれども、「事父母[ソレで]」などという表現は記憶にありません。
「事父母謹孝」にしたところで、父母に仕えることが「謹孝」なのであって、「謹孝」で父母に仕えたわけではありません。
「~というやり方で」という意味を表すなら、依拠性の賓語ではなくて、「以」を用いるのが普通だろう、たとえば「事父以孝」とか「以孝事父」のように… そう思った瞬間、はっと気づきました。
「欲以所事孔子事之」の「以所事孔子」は「以所以事孔子」の意味で用いられているのではないでしょうか。
これなら「ソレで孔子に仕えるソレで」という意味を表し得ます。
そこで「以所以」で検索をかけてみると、次の例がヒットしました。
・不以所以養害所養。(呂氏春秋・開春論)
(▼養ふ所以を以て養ふ所を害せず。 ▽民を養うためのもの(=領土)で養うもの(=民)を損わない。)
この例は、「所」の働きに忠実に説明すれば、「ソレで(民を)養うソレで」という意味になります。
問題は、「所」単体で「所以」の意味を表し得るか?ということです。
それなら何かに書いてあったと思い、西田太一郎氏の『漢文法要説』を開いてみると、「所だけで所以の意味を有する例を示す」の箇所に、なんと「欲以所事孔子事之」の例が引用されているではありませんか。
他にも例が挙がっているので、いくつか取り上げてみましょう。
・人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。(呂氏春秋・愼行論)
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。 ▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)
・所悪於智者、為其鑿也。(孟子・離婁下)
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。 ▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)
・所悪執一者、為其賊道也。(孟子・尽心上)
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。 ▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)
・以有若似聖人、欲以所事夫子事之。(孟子・滕文公上)
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。 ▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
※『漢文法要説』は「所事孔子」を「所事夫子」に作る。
読みと訳は西田氏のものです。
これらの例の「所」が「所以」の意味で用いられているのは明らかです。
期せずして、私の理解のしかたと一致したようです。
こういう「所」をどのように考えればよいのかわかりませんが、「所」自体が「以」の意味を含んでいると考えるのが妥当でしょうか。
前エントリーで、「無所請事」の意味と読みについて考えを巡らしましたが、一応解決がついたように思えて、また漠然といくつかの用例を眺めていました。
そんな時、ふと一つの用例が目にとまりました。
・欲以所事孔子事之。(孟子・滕文公上)
(▼孔子に事(つか)ふる所を以て之に事へんと欲す。)
「孔子につかえた態度でこれ(=有若)につかえようとした。」という意味でしょうか。
この「事」(つかフ)は、依拠性の賓語として「孔子」を伴っています。
仕えるという意味では他動性の賓語はとらない動詞だと思います。
だとすれば、この「所」は一体どんな働きをしているのでしょうか?
文意から逆に想像すると、「所事孔子」は、「ソレで孔子に仕えるソレ」に相当するはずです。
ここでわからなくなりました。
「ソレで孔子に仕えるソレ」だとすれば、「事」という動詞が依拠性の賓語「孔子」以外に、別の賓語を取り得ることになるのですが、そんな表現があるでしょうか。
まず頭の中に並んだのは、たとえば「事父母[ソレで]」です。
これは検索のしようがないので、依拠性を明確にする「於」を伴う「事父母於[ソレ]」の形式で調べてみましたが、一例もヒットしません。
探せばあるかもしれませんが、「事」だけで検索すれば12万以上の例があるわけで、その大半が「仕える」以外の意味でしょうから、気持ちが萎えてしまいます。
困り果ててしまって、つらつら考えるに、「事父三年」とか「事父母謹孝」といった例はあるけれども、「事父母[ソレで]」などという表現は記憶にありません。
「事父母謹孝」にしたところで、父母に仕えることが「謹孝」なのであって、「謹孝」で父母に仕えたわけではありません。
「~というやり方で」という意味を表すなら、依拠性の賓語ではなくて、「以」を用いるのが普通だろう、たとえば「事父以孝」とか「以孝事父」のように… そう思った瞬間、はっと気づきました。
「欲以所事孔子事之」の「以所事孔子」は「以所以事孔子」の意味で用いられているのではないでしょうか。
これなら「ソレで孔子に仕えるソレで」という意味を表し得ます。
そこで「以所以」で検索をかけてみると、次の例がヒットしました。
・不以所以養害所養。(呂氏春秋・開春論)
(▼養ふ所以を以て養ふ所を害せず。 ▽民を養うためのもの(=領土)で養うもの(=民)を損わない。)
この例は、「所」の働きに忠実に説明すれば、「ソレで(民を)養うソレで」という意味になります。
問題は、「所」単体で「所以」の意味を表し得るか?ということです。
それなら何かに書いてあったと思い、西田太一郎氏の『漢文法要説』を開いてみると、「所だけで所以の意味を有する例を示す」の箇所に、なんと「欲以所事孔子事之」の例が引用されているではありませんか。
他にも例が挙がっているので、いくつか取り上げてみましょう。
・人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。(呂氏春秋・愼行論)
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。 ▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)
・所悪於智者、為其鑿也。(孟子・離婁下)
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。 ▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)
・所悪執一者、為其賊道也。(孟子・尽心上)
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。 ▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)
・以有若似聖人、欲以所事夫子事之。(孟子・滕文公上)
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。 ▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
※『漢文法要説』は「所事孔子」を「所事夫子」に作る。
読みと訳は西田氏のものです。
これらの例の「所」が「所以」の意味で用いられているのは明らかです。
期せずして、私の理解のしかたと一致したようです。
こういう「所」をどのように考えればよいのかわかりませんが、「所」自体が「以」の意味を含んでいると考えるのが妥当でしょうか。