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ユーザー「nakai」の検索結果は以下のとおりです。

「則」と「即」について・2

(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その2。)

前エントリーで、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』が挙げている「すぐに・ただちに」の意の「則」の例を紹介しました。
あらためて全ての例を示します。

(1)於是至囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(《史記・項羽本紀》)
――在这时(项羽军)一到包围了王离,与秦军遭遇,九次战斗,……大破秦军。
(この時(項羽の軍は)到着するとすぐ王離を包囲し,秦軍と遭遇し,九回戦って,大いに秦軍を破った。)

(2)項王受璧,置之坐上。亜父受玉斗,置之地,抜剣撞而破之。(《史記・項羽本紀》)
――项王接受了璧玉,把它放在坐位上。亚父接过玉斗,把它搁在地上,拔出剑把它击碎了。
(項王はすぐに璧玉を受け取って,それを座席の上に置いた。亜父は玉斗を受け取って,それを地面の上に置き,剣を抜いてそれを打ち砕いた。)

(3)湯、周武王広大其徳行,六七百歳而弗失;秦王治天下十余歳大敗。(《漢書・賈誼伝》)
――商汤、周武王广泛地施行他们的德行,相继六七百年而没有失国;秦始皇治天下只十多年便败亡了。
(商の湯王、周の武王は幅広く彼らの徳行を施し,六七百年相続いて国を失わなかった。秦の始皇は天下をただ十数年治めただけですぐ滅亡してしまった。)

(4)高帝問群臣、群臣皆山東人、爭言周王数百年、秦二世則亡、不如都周。(漢書・婁敬伝)
――汉高祖问群臣(建都的事),群臣都是山东人,争先恐后地说周朝称王几百年之久,秦朝刚传了两代亡了,不如在周朝原先的都城(洛阳)建都。
(漢の高祖が群臣に(都建設のことを)下問したが,群臣たちはみな山東(出身)の人で,遅れまいと先を争って,周王朝は数百年の長きにわたって王と称したが,秦王朝はわずか二代続いただけですぐに滅んでしまった,周王朝の初めの都(洛陽)に都を建設した方がよいと言った。)

(1)(2)の例はひとまず措きます。

(3)は、「秦王治天下十余歳大敗」の部分が、先行する『大戴礼記・礼察』に、

・秦王亦欲至是、而不能持天下十餘年、大敗之。
(秦王もここ(=湯王や武王のような五百年の治世)に至ろうとしたが、天下を保つことが出来ず十年あまりで、[即ち]滅亡してしまった。)

とあり、「則」を「即」に作っています。

(4)は、『漢書』の記述のもとになった『史記・劉敬叔孫通列伝』に、

・高帝問群臣、群臣皆山東人、争言周王数百年、秦二世亡、不如都周。

とあり、やはり「則」が「即」になっています。

これらの「即」は確かに「すぐ・ただちに」と解せるもので、それを「則」に置き換えた以上、「則」も同義に解し得るということになるのでしょう。
あるいは何楽士もその根拠に基づいて、「則」を時間副詞「すぐに」の意で立項したのかもしれません、あくまで想像ですが。

しかし、こういう思考が実に危ないところで、この考え方は、「すぐに」の意の「即」が同文または同内容の文で「則」に置き換えられているから、「則」にも即時の意味があるという判断に基づくものですが、これにはその元の文の「即」が確かに即時の意味で用いられていると限定される条件が必要です。

前エントリーで述べたように、「即」の字は接着を基本義とします。
「秦王亦欲至是、而不能持天下十餘年、大敗之」の「即」は、確かに時間的な接着から「すぐに」と解し得るものです。
しかし一方で「十数年天下をたもつことができない」という事実が「大敗之」に接着するともいえます。
つまり、「十数年天下をたもつことができず、とりもなおさず滅びてしまった」です。
前に述べた条件で必ず次のことが起きる必定を表す「即」の字の機能です。
この機能が、「則」の法則を原義とする機能と似ているわけです。
「十数年天下をたもつことができない」結果として必然的に「滅びる」が、「十数年天下をたもつことができない」という場合は「滅びる」ことになるに通じるのです。
仮にもとの文の「即」が即時の意味で用いられていたとしても、それを「則」で置き換えて同じ即時の意だとすることも、もう少し慎重であってよいかと思います。

「周王数百年、秦二世亡」の「即」ももちろん即時で解釈することができますが、これも「秦二世とりもなおさず滅ぶ」、すなわち「秦二世=滅ぶ」で解釈できないことはありません。

しかしそのこととは別に、「周王数百年、秦二世亡」は、「即」とは違う「則」本来の機能できちんと説明できます。
前エントリーで紹介した松下大三郎氏の指摘に、

「則」には日本の「は」又は「ば」の意味が有るが「即」は平説であつてそんな意味がない。

というのがありましたが、この「は」というのは氏のいう「分説的用法」で、「則」の基本的機能です。
氏は、

・謂虞仲夷逸。隠居放言、身中清廃中権。我則異於是、無可無不可。(論語・微子)
(▼虞仲・夷逸を謂ふ、隠居して放言し、身は清に中(あ)たり廃は権に中たる。我は則ち是に異なり、可無く不可無しと。
 ▽(孔子が)虞仲・夷逸を批評した、「隠居して放言し、身を清くして、世を捨て流れのままにした。私はこれとは違う、可もないし不可もない」)

などのいくつかの例を挙げて、次のように述べています。

の「則」は分説的用法で日本の助辭の「は」の意のある所に用ゐられてゐる。日本の「は」は事情の異なるものを分けていふもので之を分説と云ひ、「も」は事情の似てゐるものを合せていふもので、之を合説といふ。「夏は暑く冬は寒い」と云へば夏と冬を分けていつたので分説だが、「昨日も今日も大變に寒い」と云へば昨日と今日を合せて云つたので合説だ。漢文では「夏則熱、冬則寒」といふ風に「則」を用ゐれば分説で「昨日亦寒、今日亦寒」といふ風に「亦」を用ゐれば合説だ。唯「は」は助辭であつて凡そ物の異を分つ場合には一々「は」を附けるが、「則」は副詞であるから一々附けては煩はしい。特に異を分つ必要のある時だけ使ふ。それだけ「は」よりは意味が重い。「夏則暑」と云へば「夏はそれは暑い」といふ意である。「すなはち」は「それは」と同様なのである。

つまり、先の『論語』の例なら、孔子は虞仲・夷逸を批評した上で、「我異於是」すなわち「私これとは違う」と言った、「則」は虞仲・夷逸とは「事情の異なるものを分けて」「は」の働き、分説の働きをしているのです。

この「則」の分説の機能は、松下氏に限らず、他にも指摘されています。
釈大典の『文語解』には、

コノ字上ノ語ヲ分解スルニ用ユ。此ニ「コトハ」ト云ト「トキハ」ト云トノ別アリ。

と述べられています。
また、牛島徳次氏の『漢語文法論(古代編)』(大修館書店1967)は、「則」の字の働きとして次のように述べています。

「則」は,他の場合と対照的に,「Sの場合は,Pだ。」という限定を表す。
例:「秦人諺曰:力則任鄙,智則樗里。」
(秦の人々の諺に「力なら任鄙,ちえなら樗里。」というのがある。)
 :「項王則受璧,置之坐上;亞父受玉斗,……」
(項羽は璧を受けとると,それを座席に置いた。亜父は玉のさかずきを受けとると,……)

これらは表現こそ異なりますが、同じことを述べたものです。
そして、最後の『漢語文法論』の2例目は、私が拙「『鴻門の会』・語法注解」で迂闊にも「動作行為が近接して行われることを表す。すぐに。」と述べたもので、何楽士も即時の意に解したものです。
ですが、あらためて見直してみると、「項王はすぐに璧を受けとると」の意味であるなら「項王即受璧」と表現すべきであって、亜父の行為との対比で「則」が用いられていて、「則」本来の機能で説明できるのに、あえて即時と解するべきなのだろうかと思います。

先の「周王数百年、秦二世亡」も、もとの「周王数百年、秦二世亡」が「秦王朝二代とりもなおさず滅んだ」でなく、「秦王朝二代すぐに滅んだ」という即時の意味であったとしても、「秦二世亡」と「則」の字に改まっている以上、「周王朝は数百年王と称したが、秦王朝二代滅んだ」と、周王朝とは事情を異にすることを示して「秦王朝二代の場合は」と、「則」の字の分説の機能として解してよいのではないかと思うのです。

さて、もう一つの問題は、(1)の「於是至則囲王離」と、そもそもの疑問「荘則入為寿」の「則」をどう解するかですが、それはもう少し考えたいと思います。

「則」と「即」について・1

(内容:「すなはち」と読まれる「則」と「即」の違いについて考察する、その1。)

ひとしく「すなはち」と読む「則」と「即」がどのように意味が異なるのか、最近なかなか解決のつかない問題として頭を悩ませています。

このブログのページエントリーで、「『鴻門の会』・語法注解」を公開していますが、その中の一節、

・范増起、出召項荘、謂曰、「君王為人不忍、若入前為寿、寿畢、請以剣舞、因撃沛公於坐、殺之。不者、若属皆且為所虜。」荘入為寿、寿畢、曰、「君王与沛公飲、軍中無以為楽、請以剣舞。」
(▼范増起ち、出でて項荘を召し、謂ひて曰はく、「君王人と為り忍びず、若入り前(すす)みて寿を為し、寿畢(を)はらば、剣を以て舞はんことを請ひ、因りて沛公を坐に撃ち、之を殺せ。不(しから)ずんば、若が属皆且(まさ)に虜とする所と為らんとす」と。荘則ち入りて寿を為し、寿畢はりて、曰はく、「君王沛公と飲むも、軍中に以て楽を為す無し、請ふ剣を以て舞はん」と。
 ▽范増は立ち上がり、(宴会場を)出て項荘を呼び寄せ、(彼に)告げて、「君王(=項王)は人柄が無慈悲ではない、お前が(中に)入り進み出て長寿の祝いをし、長寿の祝いが終わったら、剣で舞うことを求め、その機に沛公を席上に斬りつけ、彼を殺せ。そうしなければ、お前たちはみな捕虜になるであろう」と言った。項荘はすぐに(会場に)入り長寿の祝いをし、祝いが終わると、「君王は沛公と飲んでいらっしゃるが、軍中には音楽をなす手立てがありませんので、どうか剣で舞わせてください」と言った。)

この場面で、「荘入為寿」の「則」について、

「則」は、即時を表す時間副詞。「即」に通じる。すぐに。

と注をつけました。
しかし、今読み返すと、不用意な注に思えます。

「則」が「即」に通じるというのは、各種虚詞詞典にも見られるものですが、しかし、ここの「則」は、本当に「すぐに」の意であったでしょうか。

たとえば、何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、「則」の副詞の用法として、次のように記載されています。

时间副词。用在后一动词谓语之前作状语,表示与前面的动作行为时间相距很近。可译为“就”、“便”等。
(時間副詞。後の動詞謂語の前で用いられて状語となり,前の動作行為と時間がとても接近していることを表す。“就”、“便”(すぐに・ただちに)などと訳せる。)

そしていくつか例が挙がっている中に、次の例がありました。

(1)於是至囲王離,与秦軍遇,九戦,……大破之。(史記・項羽本紀)
(▼是に於て至れば則ち王離を囲み、秦軍と遇ひ、九戦し、……大いに之を破る。
 ▽そこで(鉅鹿に)至るとすぐに王離の軍を包囲し,秦軍とあって,九回戦い,……大いにこれを打ち破った。)

(2)項王受璧,置之坐上。亜父受玉斗,置之地,抜剣撞而破之。(史記・項羽本紀)
(▼項王則ち璧を受け,之を坐上に置く。亜父玉斗を受け,之を地に置き,剣を抜き撞きて之を破る。
 ▽項王はすぐに璧を受け,それを座のそばに置いた。亜父は玉斗を受け、それを地に置き、剣を抜き突いてそれを壊した。)

この(2)の「項王則受璧」についても、拙「語法注解」では、

「則」は、時間副詞。前に述べられたことと、動作行為が近接して行われることを表す。すぐに。張良の話を聞き終わり、すぐに受け取ったということ。次の范増とは異なり、こだわりなくすぐに受け取ったわけである。

などと述べてしまったのですが…

しかし、この「項王則受璧」の「則」も、本当に「即」に通じて「すぐに」という意味を表しているのでしょうか。

参考書を開いてみると、「則」の働きとしてさまざまなものが挙げてあります。
「ただ」と範囲を限定する働きだとか、強意の用法だとか、「即」に通じて「すぐに」の意味を表すだとか。

中国の各種虚詞詞典にも同様の記述が見られます。
まず、最初の範囲副詞としての働きですが、

・口耳之間則四寸耳。(荀・勧学)
(▼口耳の間は則ち四寸のみ。)

この例は何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)に示されているものですが、範囲を限定しているのは、語気詞「耳」の働きではないでしょうか。
このような語気詞が伴わず、「則」だけで範囲を表す例を示さない限り、「則」が範囲副詞として機能していることを証明し得ないでしょう。

さて、最近は中国の虚詞詞典に書かれているからといって、それを鵜呑みにはできないという思いを強くしています。
前後の文脈からそのように解釈すれば、合理的に説明できるわけですが、それはその字の真の働きとは限らないでしょう。
そういうふうに自分を戒め、安易な判断はしないでおこうと心していたのですが、拙「『鴻門の会』・語法注解」では、うっかりそれをやってしまったわけです。
もう一度考え直しです。

「則」と「即」が相通じるという話でよく例に出されるのが、次の文です。

・先制人、後為人所制。(史記・項羽本紀)

普通は「先んずれば即ち人を制し、後(おく)るれば則ち人の制する所と為る。」と読まれています。
「後為人所制」は、「人より遅れれば人に支配される」の意で、「則」は本来の働き「その場合は」という意味を表しています。
それの対になっているから「先制人」は「人より先に動けば人を支配する」と解して、この「即」は「則」と同義で用いられているとされるわけです。
また、同じ字を重ねて用いることを避けるために、「即」と「則」を用いたとも説明されることがあります。

そのように説明されれば、なるほどと思ってしまうわけですが…

しかし、たとえば「すぐに」の意味で本来「即」を用いるべき箇所で、あえて「則」を用いる理由はなぜでしょうか。
「荘入為寿」や「項王受璧、置之坐上」の「則」は、「即」との重複を避けるために用いられているわけではありません。
前後の文脈上、もし「則」を「即」の意に解すれば、「すぐに」という解釈が可能になりますが、「則」の字そのものの機能として検討するという過程が必要なのではないでしょうか。

「則」の字は、その成り立ちが、「刀で傷つける」意とも「基準に照らして器の肉を切り分ける」意とも「器に刀を添える」意ともいわれます。
転じて「法則」「規則」の意に用いられます。
その原義が、虚詞「則」の働きに通じているはずです。
「A則B」(AすればBする)は、「Aする場合はBする」との法則に基づくもので、「則」本来の機能として納得いくものです。
「後為人所制」は、「遅れる場合→人に支配される」の構造になっているわけで、「則」の機能からずれるものではありません。

一方、「即」の字は、「食卓につく」が原義の字で、接着が基本義です。
時間的な接着を表せば、「すぐに」という意味になるわけです。
Aは接着してB、つまり「A即B」(A即ちBなり)の形で判断を表して「AはつまりBである」「AはとりもなおさずBである」という意味を表すこともあります。
また、Aすることに接着してBすることが起きる場合なら、前に述べた条件で必ず次の事が起きる必定を表すことになります。
これらはいずれも接着を基本義とする「即」の字本来の機能です。

この最後の用法が、「法則」を原義とする「則」に似ているわけです。
しかし、同じでしょうか?
つまり、「先制人」と「後為人所制」は、同じ関係なのでしょうか?
私には、「先んずる」ことがそのまま「人を支配する」ことに接着するのであって、「先んずる」場合は「人を支配する」というのとは違うように思えるのです。

このことについて、松下大三郎氏は『標準漢文法』で次にように述べています。

「則」には日本の「は」又は「ば」の意味が有るが「即」は平説であつてそんな意味がない。
   先ンズル即制人、後ルレバ則為人所制。
   (2例省略)
これらの「即」は「則」を代入することが出來るから「即」と「則」が相通ずる樣だが、併し「即」には「は」の意義がない。「則」と「即」とを區別して讀めば
   先則制人……先んずれば則ち人を制す
   先即制人……先んずる即ち人を制す
   (2例省略)
の如くいふべきである。

氏の「先んずる即ち人を制す」をきちんと理解できているかどうか自信はありませんが、少なくとも私も「先則制人」と「先即制人」は違うように思えるのです。

直接読んだわけではないので不適切かもしれませんが、古人が同じ字を重ねて用いることを避けるということについて、鮑善淳氏の『漢文をどう読みこなすか』(日中出版1986)に、そのような記述があるそうです。
しかし、私がつくったデータベースで検索をかけると、同じ「則」を連続して用いる例は山のようにヒットします。
たとえば、

・利進、不利退。(史記・匈奴列伝)
(▼利なれば則ち進み、利ならざれば則ち退く。
 ▽有利であれば進み、不利であれば退却する。)

・諸侯而驕人失其国、大夫而驕人失其家。(史記・魏世家)
(▼諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。
 ▽諸侯で人に傲慢であればその国を失い、大夫で人に傲慢であればその家を失う。)

・富貴親戚畏懼之、貧賤軽易之。(史記・蘇秦列伝)
(▼富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賤なれば則ち之を軽易す。
 ▽富貴であれば親戚もこれを恐れ、貧賤であればこれを侮る。)

『史記』だけでも多く見られる用例の中から3例ほど示しました。
まして他の文献の用例となると膨大な量になります。
同じ字を重ねて用いることを避けるということはあるかもしれませんが、必ずしもそうとも限らないのはこれで明らかです。
つまり、「先制人、後為人所制」を、「先制人、後為人所制」と表現することは十分可能だったはずですが、会稽守の殷通は俚諺として「先制人、後為人所制」と聞き伝え、司馬遷も「先制人、後為人所制」と表現したのです。

私は「先即制人、後則為人所制」は、「人より先に動くことがとりもなおさず人を支配する、(ところが)人より遅れれば人に支配される」という意味ではないかと思います。

いったんここでお時間をいただいて、次は「項王則受璧」などについて考察してみたいと思います。

孟子「性善(湍水の説)」の「今夫」の意味は?

(内容:孟子の湍水の説に見られる「今夫水搏而躍之」の「今夫」の意味について考察する。)

3年生の古典で思想を扱おうとして、まずは教科書の孟子を読んでいました。
その代表的な思想「性善説」がいわゆる「湍水の説」で、以前のエントリーにも述べたように、これは孟子の詭弁ですから、どうだかなあという思いは拭えません。
なぜ「四端の説」ではないのだろうと思うのですが。

そんなふうに思っていると、若い同僚から質問を受けました。

今夫水搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
(▼今夫(そ)れ水は搏(う)ちて之を躍らさば、顙(ひたひ)を過ごさしむべく、激して之を行(や)らば、山に在らしむべし。
 ▽[今夫]水を手でたたいて跳ね上げれば、額(の高さ)を越えさせることができ、強い力を加えて逆流させれば、山(の頂)に登らせることもできる。)

この「今夫」はどういう意味なのですか?という質問です。
私は、これについて考えたことがなく、「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」だと思っていたのですが、同僚は自分なりに色々調べたものの考えあぐねて質問してこられたのでしょう。

調べたらどう書いてあったのか?と問うと、ある書に「今夫」は「今かりに」という意味だと書いてあったそうです。
「夫」は文頭に置く強意の助字だとのこと。

「今」が仮定を表すというのはともかくとして、「夫」についての記述は、なにかタネ本がありそうな気がします。
いつもなら、まずそれをつきとめることから始めるのですが、残念ながら本校はこの春から全面改築工事に突入し、ほとんどすべての書籍が段ボールの中で、参照することができません。

タネ本がつきとめられないのは残念ですが、要するにこの「今夫」を「今かりに」と解釈して、「夫」の働きは文意を強めるものとして、解釈には反映させていません。
しかし、これには私の方が首をかしげてしまいました。

そもそも「夫」という字は「大」に簪(かんざし)を意味する「一」を加えたもので、「成年男子・一人前の男子」を指すのが本義です。
この字の音が三人称代詞や指示代詞の音に近かったため、借用されて「夫」が「彼・彼ら」「あの・この」の意味で用いられるようになったのだと思われます。
発語の辞としての「夫」は、この代詞の働き「あの」の意味が虚化して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものでしょう。
ですから、議論開始の語気を表す「夫」も、指示代詞としての働きを残している場合があると思います。
私が「今夫」の意味を「今そもそも水は」もしくは「今あの水は」の意だと考えていたと書いたのは、前者は「今夫(そ)レ」、後者は「今夫(か)ノ」と読み分けるにせよ、根は同じだと思っていたからです。
ところが、文頭に置いて文意を強める助字で済まされてしまうと、またぞろ怪しげに思えてくるのです。

何楽士の『古代汉语虚词词典』(语文出版社2006)には、文頭で用いられる「夫」について、次のように述べられています。

语首助词。常用于句首,表示一种要作出判断或抒发议论的语气。“夫”位于被判断或被议论的对象(人、事、物或动作行为)前头,对这一对象起标志作用,强调这一对象的概括性和普遍性,对它的判断和议论也常带规律性和概括性。同时也有引出下文的语气和作用。表判断或议论的部分常有语气词“也”、“者也”(有时有“矣”、“乎”等)位于末尾,与句首的“夫”配合呼应,形成一个整体。不必具体译出。
(語首助詞。多く文頭に用いられ,一種の、判断や議論を述べる語気を作り出したいことを表す。“夫”が判断されたり議論されたりする対象(人、事、物や動作行為)の前にあるとき、この一対象に対して標識の働きをし、この一対象の概括性や普遍性を強調し、その判断と議論も常に規律性と概括性を帯びる。同時に下文を引き出す語気と働きもある。判断や議論を表す部分には多く語気詞“也”、“者也”(“矣”、“乎”の場合もある)が末尾に置かれ、文頭の“夫”と組み合わさり呼応して、一つの全体形式を構成する。具体的に訳出する必要はない。)

ここに確かに「強調」という文字は出てくるのですが、「夫」の後の語句の概括性や普遍性を強めているとして、「文意を強める」と述べているわけではありません。
湍水の説も、外的力を加えられた水がどうなるかについての一般的な状況を概括的、普遍的に述べているのであって、「夫」があることで、文意が強まっているとはとても思えません。

ここで文法について考える時、最近必ず参照する松下大三郎氏の『標準漢文法』の記述を紹介します。

夫 「夫」は「それ」と読む。これから自分が言はうと思ふことを提出して之を豫示する語である。日本語で言へば「いや何だよ」位な意だ。文の途中にも使ふが往々劈頭に用ゐる。(例文略)断句の始で「夫」だけならば「いや何だよ」と解し、「且夫」は「其れに何だよ」と解すれば善い。日本語で「何だよ」と云ふのはこれから云はうとする所のものを暗示するのである。

氏は語気という言い方はされていませんが、これから自分が言おうと思うことを提出するときに用いる語として、さしずめ日本語なら「いや何だよ」に相当するものとして示したのです。

私も文意を強める語ではなく、議論提出の際に用いる語だと思います。
そしてそれは前述したように、もともと指示代詞としての働きから転じたものでしょう。

さて、「今夫」の「今」については、虚詞詞典ではよく「今かりに」と仮定を表すとされるのですが、要するに仮定で用いられる連詞とみなす考え方です。
私などは、「今」はやはり今であって、働きに応じて副詞だとか連詞だとか品詞まで分けて考えることはないだろうと思うのですが。
いくつか参考書を見ると、「今」の意味として、「今~ならば」という仮定の用法や、「ところが今」などの現状が異なることを示す働きなどが紹介されています。

日本語にその「今かりに」とか「ところが今」という言葉があるように、「今現在もしこのような状況であるとすれば」、あるいは、「ところが今現在こうなっている」という文脈上のつながりというのは、古典中国語の「今」にも見られるというだけのことではないでしょうか。
「今」はやはり現時点を指す今であって、それが文脈上、副詞的に用いられたり、連詞的に用いられたりもすると考えてはいけないものでしょうか。

ところで、同僚が調べた結果では、この「湍水の説」の「今」を「今かりに」と解していたということでは、私はどうだかなと思います。
「今かりに」ではなく、あえて言うなら「ところが今」でしょう。
孟子は、水の本来の性質として、上から下へと流れるものであるとして、次のように述べています。

・水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。
(▼水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごときなり。人善ならざるもの有ること無く、水下らざるもの有ること無し。

通常、このように読まれていますが、私の読みと解釈なら、次のようになります。

▼水は信に東西に分かるること無きも、上下に分かるること無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。
▽水は確かに東西に分かれることはないが、上下に分かれることはないだろうか。人の性質が善であるのは、水が下へと流れるのに似ているのだ。人は善でないということがあることなどなく、水は下へ流れないということがあることなどない。

いずれにしても、孟子はここで水の本来の性質を上から下へ流れるものと示したのです。
その直後に「今夫」が置かれ、水に外的な力を加えると、下から上へ流れることもあるということが述べられるのです。

「今かりに」でしょうか?
私はやはり「ところが今」だと思います。
そして、その「ところが」は「今」がもつ意味ではなく、「今」が用いられる状況から生まれてくる文脈上補われる意味だと思うのです。

今ひとつ、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)には、「今夫」の項目において、次のように述べられています。

句首语气词的连用形式。“今”本来是时间名词,“夫”本来是指示代词,可是当其结合起来用于句首的时候,一般则虚化为语气词。
(文頭の語気詞の連続して用いる形式。“今”はもともと時間名詞であり,“夫”はもともと指示代詞であるが,それらが結合して文頭で用いられる時,一般には虚化して語気詞となる。)
“今夫”一般用于一段话的开头,表示要发表议论。
(“今夫”は一般に一つの話の最初で用いられ,議論を発表したいことを表す。)
如果它后面紧跟的是名词,“夫”字还带有轻微的指代意味。
(もしそのすぐ後が名詞であれば、“夫”字はなお軽微な指示代詞の意味を帯びる。)
从前后文的关系来看,“今夫”所引出的话有时带有进层的性质,有时带有举例的性质,有时带有转折的性质,有时表示列举,等等。
(前後の文の関係から見ると,“今夫”が引き出す話は、進層的な性質を帯びたり、例を挙げる性質を帯びたり、逆接の性質を帯びたり、列挙を表示したりする、等々。)

概ね、私の考えと一致しています。
・もともとの成り立ちが時間名詞と指示代詞であったということ
・文頭で用いられて、議論を発表する語気を表すこと
・時として「夫」が直後の名詞に対して、指示代詞の働きを残しているということ
・前後の文脈からいくつかの性質を帯びること

ですから、「今かりに」という意味を表したり、「ところが今」という意味を表したりすると見られるものも、あくまで文脈上そう解釈し得る、そう解釈した方がすんなり理解できるということであって、「今」そのものが仮定や逆接の意味を有しているわけではないでしょう。
あくまで使い方の問題なのではないでしょうか。

また、「夫」は語気詞として「そもそも」などと訳したりもしますが、楚永安が指摘しているように、指示代詞としての機能はやはり残っていて、「今夫水」が「今あの水(は)」という意味を表すことも十分考えられます。

通常の場合、「水は下へ流れないということがあることなどない」と、強く言い切った後の文脈での「今夫水~」は、「今あの水は」と来る文の流れは、「今かりに水は」が自然でしょうか?
文脈からなら逆接で、「ところが今そもそもその水も」ぐらいの感じでしょうか。

私には、「湍水の説」の「今夫」は、「今かりに」の意で「夫」が文意を強めているというふうには思えません。
「今」はあくまで今であって、文脈から「ところが今」、「夫」は指示代詞の働きを残しつつ、これから議論を述べる語気を表しているものだと思います。

それこそ松下氏の表現を借りれば、「しかし今、何だよ、水は手で打って跳ね上がらせれば…」と、通常とは逆のことを言おうとした状況ではないでしょうか。

『史記』「項王の最期」語法注解をアップしました

  • 2021/04/21 07:26
  • カテゴリー:その他
(内容:『史記』「項王の最期」の語法注解をページにアップしたことの告知。)

昨年4月に「四面楚歌」の語法注解をアップし、『史記』はしばらく打ち止めにして、違う教材を分析してみたいと考えていたのですが、高等学校のほとんどの教科書では、続いて「項王の最期」として、項羽の死が扱われています。
どうせのことなら、やはり最後まで分析しようかなという気になり、続きを書いてみることにしました。
本校の紀要に載せたものですが、拙サイトでも公開します。
高等学校の現場の先生方にお力添え出来ればと思います。

サイドバーメニューのページからお入りください。

松下大三郎『標準漢文法』に「しおり」をつけました

  • 2021/04/19 19:13
  • カテゴリー:その他
(内容:漢文を学ぶひとにぜひとも読んでほしい書物として、松下大三郎『標準漢文法』を推薦する。PDFにしおりをつけて公開する。)

かつて「其れ猶ほ龍のごときか」というエントリーで、松下大三郎氏の『標準漢文法』の読後感を書きました。
その後も、強い刺激を受け続け、事あるごとに手にする書物となりました。
紀元社の初版本を手に入れた喜びも書きましたね。

ですが、昭和2年刊行の書物ということもあって、なかなか手に入らないので、一般の方にお勧めするにも難しい状況です。

国立国会図書館のデジタルコレクションで、PDFデータを閲覧することはできるのですが、いわゆる「しおり」がないために、至って利用がしにくい。
自分の所有しているのをPDF化することも考えたのですが、それはやっぱりしたくない。

そんな折、大阪大学の岡島昭浩教授が、中文館書店版のPDFデータを公開しておられたので、しおりをつけて拙サイトで公開したい旨をご連絡すると、快諾してくださいました。

そこで、PDFデータに使いやすいようにしおりをつけたものを、下記のページに公開しました。

こちらをクリックしてください。

ぜひとも一度お読みいただくことをお勧めします。
ダウンロードもご自由に。

みなさまの研究にお役立ていただけることを願っております。

『人面桃花』に見られる「莫知所答」の「莫」の意味は?

(内容:『本事詩』の「人面桃花」に見られる「護驚起、莫知所答」の「莫」の意味について考察する。)

これまで、「莫」は「不」と同じか?という問題について、より慎重に判断すべきだと、文意から合理的に解釈することの危険性を、何度も指摘してきました。

無指代詞とされるにもかかわらず、「莫~者」という用例が多々みられること。
また、「諸将皆莫信」(諸将皆信ずる莫し)のような文の「莫」が「不」に同じで、「諸将皆不信」の意味だと中国の虚詞詞典や語法書に述べられていることなど。
一概に「莫」を無指代詞で片付けることの問題点は確かにあります。
しかし、「莫」の働きを、「不定のある人(もの)が~することがない」という意味を表すと位置づけて、その働きで説明できないかと考えることは「莫」の用法を考える時の基本的な姿勢であろうかと思います。

しかし、一方で、強引に「莫」を、何が何でも「不定のある人(もの)が~することがない」の意だと決めつけることも、また危険な態度であろうかなとも思います。
合理的に解釈しようとすることが危険であるように、また、強引にこじつけることも十分に危険なことだと思うからです。
以前にも述べたように、「莫」は「日が草に隠れて見えなくなる」が原義の字で、人や事物の存在を否定する用法は、そこからの引申義ともいい、また、音を借りたものともいいます。
その意味で、用法が無指代詞に限定されるとは限らず、また、「無」と「莫」は上古音が近く、「莫」が「無」の意味で用いられることもあったのではないかとも思うからでもあります。

とはいえ、「不」で解釈されそうな「莫」の諸例は、実は多くが「不定のある人(もの)が~することがない」で説明できるのではないかと考えてきました。

ところが、つい先日のこと、若い同僚の先生から、「莫」が用いられた文をうまく説明できないので教えてほしいと質問されたのです。
常々、授業ノートにびっしりと書き込みをして勉強をする、とても熱心な先生です。
私なんぞは今年度末で定年、再雇用であと数年もすれば退職する老年ですが、こういう若い努力家がいれば、安心して後を任せられるなと思えます。

彼が示した文例は『本事詩』のいわゆる「人面桃花」の一節です。

・有老父出曰、「君非崔護邪。」曰、「是也。」又哭曰、「君殺吾女。」護驚起、莫知所答(本事詩・情感)
(▼老父有り出でて曰はく、「君は崔護に非ずや。」と。曰はく、「是なり。」と。又た哭して曰はく、「君は吾が女(むすめ)を殺せり。」と。護驚き起ち、答ふる所を知る莫し。)

この「莫」をどう解釈するかは、確かに難しいと思います。
同僚が教示を求めてきたのは、この「莫」が無指代詞として説明しにくいからでした。

さて、この「人面桃花」のお話、該当箇所までの概略は次の通りです。

1年前の清明の日にたまたま立ち寄った家の娘に、崔護は酒で喉が渇いたからと水を求め、それを機にしとやかな娘の気を引こうとするが、娘もまんざらでもない様子で彼を見つめる。
崔護は後ろ髪をひかれつつ別れを告げたきり、そのまま再訪することもなかったが、翌年の清明の日に思い出して、気持ちを抑えきれず、また娘の家を訪れてみると、門が閉ざされていた。
そこで、昨年桃花と娘はともに美しかったが、娘はどこに行ったか、桃の花だけが変わらず風に吹かれて咲いていると、崔護は扉に詩を書き付けて去る。
そして数日後、もう一度娘の家を訪れてみると、家の中から哭声が聞こえてくるので、門を叩いて事情を聞いてみると…
と、例文に続くわけです。

「あなたは崔護ではないか」という老父の問いに、「そうです」と答えると、老父は大声で泣きながら「あなたは私の娘を殺した」と言う。
崔護は驚いて立ち上がり(『太平広記』は「驚起」を「驚怛」に作っており、それだと「驚き悲しんで」)、「莫知所答」
この「莫知所答」が、意味的に、「何と答えればよいかわからなかった」という内容であることはほぼ間違いがありません。

まず、この箇所の「所」はここでは後にとる「答」の生産性の客体を表しています。
「ソレを答えるソレ」あるいは「ソレと答えるソレ」、つまり「答える何かしらの言葉」の意です。
「答える方法」の意味ではありません。
ソレは「答」の生産性の客体ですから、「方法を答える」など、あり得ないからです。
もし「答える方法」の意味なら、「所以答」です。
つまり、「ソレによって答えるソレ」です。
「知所答」とは、「ソレを答えるソレを知る」、つまり「答える言葉を知る」「答える言葉がわかる・言葉を思いつく」の意です。
何であれ生み出される応答の言葉を指していて、それと1つに限定できるものではありません。

さて、次は「莫」なのだが…と、最近語法解説に明るい教科書会社の指導書の「人面桃花」の部分を見てみると、次のように述べられています。

莫知所答 どう答えたらよいかわからなかった。「莫~」は、ここでは「不~」と同じ用法。訓読上「莫知」を「知る莫し」と読むが、「知らない(=わからない)」と訳してよい。「所」は、後に続く動作を表す語句を「~するもの・こと」の意で名詞句化する用法。「所答」は、「答えること(=答えるべき内容)」の意を表す。全体では「答えるべき内容をわからなかった」となるので、「どう答えたらよいかわからなかった」意になる。

「所」についての説明は、じゃっかんたどたどしいところがありますが、まあ妥当な説明だと思います。
そして、やはり、この「莫」を「不」と同じ用法とみなしています。
これはこれで、中国の語法学を踏まえた最新の解釈であり、この教科書会社の漢文解釈の基本姿勢のひとつです。

しかし、素朴な疑問なのですが、もし「何と答えてよいかわからない」なら、「不知所答」(答ふる所を知らず)と表現すればいいことです。
なぜ「莫知所答」と表現する必要があるのでしょうか?
そのことの方に、むしろ生徒は疑問を感じるのではないでしょうか?

もしや文字の異同はないか?と調べてみましたが、どうもないようです。
『太平広記』に載せられている話も、同じ「莫知所答」です。

普通に「何と答えればよいかわからない」なら「不知所答」であるのに、あえてそう表現せずに「莫知所答」と「莫」を用いている。
これをどう考えればよいのでしょうか。

まず、このような「莫」は「不」と同じ用法であるとする説について考えてみましょう。

日本で一番よく参照されていると思われる商務印書館の『古代漢語虚詞詞典』には、意外にもこの用法については触れられていません。
また、解恵全等の『古書虚詞通解』(中華書局2008)も、『詞詮』や『古書虚字集釈』の「莫」を「不」と解する記述を引用してはいますが、積極的に肯定せず、慎重な姿勢をとっています。

前々エントリーで引用した何楽士の『古代漢語虚詞詞典』の記述を再引用します。

(二)表示一般的否定。可译为“不”、“不能”等。
((二)一般的な否定を表す。「~しない」、「~できない」などと訳せる。)

確かに何楽士は「一般的な否定を表す」と述べていますし、「不」「不能」などと訳すことができるとしています。
ですが、現代中国語で、そう解釈できる、そう訳せるということと、「莫」と「不」が同じ機能をもつということとは全く別の問題です。
もし現代語からの類推で、合理的解釈、自然な解釈として通るから、同じ意味を表すのだというのなら、それはとても危険な立ち位置ではないでしょうか。

「莫」も「不」も、春秋時代から常用される語であって、どちらかが淘汰されずにともに用いられてきたということは、本質的な機能が異なるものだからでしょう。
藤堂明保氏によれば、古代漢語の「不」は声母が〔p-〕類の破裂音、「莫」は〔m-〕類の鼻音と推定されるそうです。
系統の異なる音の2語が、同じ機能をするとは考えにくいことです。

「不」は動作や状況などを打ち消す働きをしますが、同時に表現者の意思がこもる語だと思います。
その意味で、客観的な事実の存在を打ち消す「無」とは本質的に異なるものだと以前述べました。
古代音に微妙な違いがあるとはいえ、「莫」と「無」は同じ〔m-〕類の鼻音に属します。
後の時代の用いられ方の変化はいざ知らず、もともとの「莫」の機能が別の語に近いとすれば、「不」よりはむしろ「無」というべきでしょう。

とはいえ、「莫知所答」を「不知所答」と同義として、「答える言葉を知らなかった」と解すればわかりやすいことは事実です。

次に、「莫」と古代音の近い「無」と同じ機能をしていると考えるのはどうでしょうか。
つまり、「無知所答」です。

先にも述べたように、「不」は表現者の意思がこもる語であるのに対して、「無」は客観的に事実の存在を打ち消す語であり、「~しない」と訳して意味が通るからといって、同じだと論じるのは、危険極まりない考え方です。
「不知所答」は「答える言葉を知らない」であり、「無知所答」はそれとは違って「答える言葉を知ることがない」です。
あくまで客観的に表現されているのです。

この場合、「護驚起、莫知所答」ですから、「無」に置き換えると「崔護無知所答」となるわけですが、「崔護は答える言葉を知ることがなかった」となるのでしょうか。
それなら、「崔護無所答」として、「崔護には答える言葉がなかった」とするほうが自然なようには思えますが、それを言ってしまっては始まらないし、「崔護無知所答」でもそれなりに意味が通らないわけではありません。
「莫」を「無」の意味に用いているのだとしても、説明がつかないわけではないように思います。
しかし、なんだか釈然としません。

最後に、「莫知所答」は、やはり「不知所答」でもなければ「無知所答」でもなく、あくまで「莫知所答」なのだと、少しこだわって考えてみたいと思います。

「莫」が無指代詞だとすれば、「崔護莫知所答」をどう解釈すればいいのか、首をかしげてしまいます。
これが崔護のように個人に特定される語が主語ではなくて、たとえば「人」だとか「諸将」であれば、説明は可能になります。
たとえば、「人莫知所答」なら、「人々は、だれも答える言葉を知らなかった」、つまり「人々は、誰も何と答えればよいかわからなかった」と解することができます。

しかし、この形式は、「莫知所答」の部分が、主語「人」に対して主謂謂語になるのが普通です。
つまり、「人は、その中の存在しないものが答える言葉を知る」です。

・尺地非其有也、一民非其臣。(孟子・公孫丑上)
(わずかな土地もその領土でない所はなく、一人の民もその臣下でないものはいない。)

この例のように、「莫」が判断文の主語の場合もあって、必ずしも施事主語になるとは限らないのですが、無指代詞として説明される「莫」は主語として位置づけられるのが基本です。
そうなると、「崔護莫知所答」は、「崔護は、存在しないものが答える言葉を知る」となってしまって、意味が通らなくなってしまいます。
なぜなら、「莫」は崔護に含まれるものでなければならないからです。
ですが、崔護は1人の個人に過ぎません。
同僚が説明できないと思ったのは、この部分でしょう。

たとえば、「崔護は、その中の何ものも答える言葉を知らなかった」と解してみてはどうでしょう。
崔護の中に何人もの彼がいて、その誰もが答えられなかったと解釈するわけですが、それはいかにもで、文学的表現としてはおもしろいかもしれませんが、語法的にはいかがなものでしょうか。

あるいは、「崔護は、いかなる部分についても、答える言葉を知らなかった」と解したら?
しかし、「莫」は、このような用いられ方で、崔護とは別の主題主語として機能するでしょうか?

このように考えてくると、やはりこの「莫知所答」は、「不知所答」または「無知所答」の意味で用いられていると考えるしかしかたがなくなります。

ここで1つの仮説を述べてみたいと思います。

先にも触れましたが、「莫」が「毋或」や「無或」の合音ではなかったかというのは、釈大典の見解に着目した鈴木直治氏の説です。(「古代漢語における否定詞について」(金沢大学教養部論集・人文科学篇1976))
氏はそれこそが「否定詞として用いられる『莫』の本質であると見るべきもののように考えられる」と述べています。
そして、

それでは,この「無或」の結合したものとしての「莫」の機能をどのようにとらえるべきであろうか。まず,「無或」は「無有」に通じて用いられることが多いものであることに注意しなければならない。「有」(ĥïuəg)と「或」(ĥuək)とは,その字音がきわめて近かったものであって,「或」は,よく「有」の意味に用いられているものである。それで,「無」と「或」との結合による「莫」も,当然,「無有」の意味にも用いられるようになっているわけである。(中略)
「無」と「無有」との相違は,(中略)単に「無」といっているものよりも,「無有」といっているものの方が,もちろん,より強い言いかたであったにちがいない。してみれば,「無或」の結合としての「莫」も,やはり通常の「無」よりも,より強い言いかたであったものにちがいない。

「莫」が「無」による禁止よりも、より強い言いかたであることを述べるくだりでの説明です。

「莫」がもし「無或」「無有」であるならば、「莫知所答」は、「無或知所答」もしくは「無有知所答」となります。
この「無或知所答」から、「不定のあるものが答える言葉を知ることがない」という無指代詞として働きが生まれると考えるわけですが、「無有知所答」として「無」よりも強い言い方で、「答えることばを知ることがあるということがない」という理解はできないでしょうか。

つまり、突然老父から、娘の死と、それが「君が私の娘を殺した」という思いもよらぬことを言われ、茫然とする崔護の態度として、「答える言葉がわからない・思いつかない」という以上に、「答える言葉がわかる・思いつくこと自体があるということがない」と客観的に表現されたものではないか。
そんなふうにも思うのです。
もちろん、これが冒頭で述べた強引な解釈になるかもしれないというのはあるのですが。

仮にそのような「莫」の用法があるとしても、『本事詩』は晩唐の伝奇小説であり、古代の「莫」の働きのままに用いられているなどと軽率に考えるわけにはいきません。
「莫」を「無有」で解し、私の仮説のように説明できたとしても、それが適切とは言いにくいでしょう。

「莫」の用法については、さらに慎重な調査研究を待ちたいと思います。

改訂版「これならわかるぜ!ためぐち漢文」(漢文の基本構造編)アップ完了

(内容:高校生向けの漢文法解説「これならわかるぜ!ためぐち漢文」(漢文の基本構造編)をページにアップしたことの告知。)

長らくお待たせしておりました。
少しでも読みやすくしようと、ためぐちで書いた『これならわかるぜ!ためぐち漢文 ――漢文の構造をわかりやすく知りたい君へ―― 漢文の基本構造編』の改訂を済ませ、本日アップしました。

サイドメニューのページよりご参照ください。

手元に置いて読みたいとか、授業で使ってみたいという方が、もしおられましたら、ご連絡を頂ければ、印刷可能版を提供させていただきますので、お気軽にご相談ください。
もちろん、拙著『真に理解する漢文法』と同様、一切料金は頂戴しませんので、ご安心ください。

なお、『ためぐち漢文』の句式編の方は、まだこれから執筆の部分が多いので、1つの章が完成するごとに、随時アップしていく予定です。
気長にお待ちください。

「莫」は「不」と同じか?

(内容:現在主流の古典中国語文法で、「莫」が「不」と同じ働きをすることがあると説かれることについて、疑問を呈する。)

拙著の改訂に伴い、生徒向けにいわゆる「ためぐち」で書いた『ためぐち漢文』の改訂も進めています。
最初に書いたのは、もういつだったか…と思うほど昔で、読み返してみれば、あちこち今の自分の考え方や、納得のいく説明とは食い違っています。
拙著『真に理解する漢文法』の後記にも述べたように、「いわば熱病のように古典中国語文法を独学し」た時期に書いたものですから、中国の語法学の受け売りであったわけです。
ですが、同じ後記に続いて述べているように、「熱病が覚めゆくにつれ、旧著の内容に疑問を感じたり、明らかに誤ったものに気づきもした」という今の自分から見れば、中国の定説も、もはや鵜呑みにすることはなくなり、まずは疑ってみるようになりました。
必然的に、自分が書いたものでも、おかしいと思ったものは、そのまま放置できず、訂正しようという思いに駆られます。

読んで頂く方からすれば、記述に責任をもたない無責任な態度に思われるかもしれず、申し訳ないのですが、学び続ける姿勢としては間違っているとは思いません。
ネットを通じて、おかしなことを書いているぞと指摘していただくこともあり、感謝の念に堪えません。
私にはそれは決して批判には思えない、ありがたいご教示だと思わずにはいられません。
真実を追いかけていくことは、本当に楽しいことですから。

さて、前置きが長くなりましたが、その『ためぐち漢文』を改訂していて、あれ?と思った記述があります。
否定副詞のくだりで、「莫」が「不」と同じ働きをすることがあるという説明です。
「莫」が本来無指代詞であるということを述べた後に、次のように書いています。

諸将皆莫信。
▼諸将皆信ずる莫し。
▽諸将はみな信じなかった。

この「莫」が無指の代詞ではないってのがわかるかい? だって、「皆」は範囲副詞で述語を連用修飾するんだぜ。とすれば、「莫信」を修飾してるって考えるのが自然じゃないか。つまり「諸将はみんな信じなかった」ってことであって、「莫」は「皆」とともに述語の中心語「信」を修飾する(=「信」を打ち消す)働きをしてるんだよ。無指の代詞というよりは、「不」に近い働きの副詞として機能してるってことだな。

自分で書いたものでありながら、これが「あれ?」と思わせたわけです。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)には、「莫」の代詞の項とは別に副詞の項を設け、さらに禁止とは別に否定の副詞として次のように述べられています。

(二)表示一般的否定。可译为“不”、“不能”等。如:
 (1)令其裨将传飧,曰:“今日破赵会食!”诸将皆莫信,佯应曰:“诺。”
――(韩信)令他的副将通知部队先稍微吃些食物,说:“今天打垮了赵军再会餐!”将领们都不相信,假意答应道:“好!”
((二)一般的な否定を表す。「~しない」、「~できない」などと訳せる。たとえば:
 (1)彼の副将たちに部隊はまず少しばかり食事をとるように伝えさせ、「今日、趙を破って改めて会食しよう」と言った。将校たちはみな信じず、偽って「はい」と答えた。)

これに先行する韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』にも同様の記述と例があります。

しかし、今あらためて自分の書いたことを読み返してみると、やはりおかしなことを書いていると思えてきます。

問題を感じる点は2つあって、まず1つは「皆」の説明です。
「『皆』は範囲副詞で述語を連用修飾するんだぜ。とすれば、「莫信」を修飾してるって考えるのが自然じゃないか」のくだりです。
理屈の上では、通常副詞は謂語を連用修飾するので、これでもいいように見えますが、「皆」という副詞の独特の働きを度外視しています。

西田太一郎氏の『漢文の語法』(角川書店1980)に、副詞「皆・尽・悉・独」の項として、興味深いことが書かれています。

ここでは副詞の働きのいささか特徴的なものについて述べる。どのようなことを問題にするかというと、日本語でたとえば「これらの生徒がみな饅頭を食べてしまった」とあると、「生徒がみな」か「饅頭をみな」かわかりにくい場合があり、それと同様の現象が漢文にも見られることである。

として、「皆」が、「行為者の主語に関係している」場合と、「行為の賓語(目的語)に関係している」場合の2つがあることを例を挙げて説明しています。
「諸将皆莫信」の場合、「諸将はみな」すなわち「全部の諸将が」と、行為の主語に関係している例になり、よもや賓語に関係して「全てのことを信じる」の意味ではないでしょう。
してみると、「ためぐち」の「つまり『諸将はみんな信じなかった』ってことであって、『莫』は『皆』とともに述語の中心語『信』を修飾する(=「信」を打ち消す)働きをしてるんだよ。」という記述は、誤解を招く表現だというより、そもそも当時の私が強引に論じたか、わかっていなかったかのどちらかであったろうと思うのです。
これは「諸将皆」であっても、あくまでも意味的に「諸将のすべてが」だからです。

次に、「無指の代詞というよりは、『不』に近い働きの副詞として機能してるってことだな」の部分です。
今あらためて「諸将皆莫信」について考えをめぐらすと、おや?と思えてきます。
有名な次の一節、

・左右皆泣、莫能仰視。(史記・項羽本紀)
(▼左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。
 ▽側近達はみな泣いて、誰も仰ぎ見ることができなかった)

この例は、中国の主流の語法学や、それにもとづく日本の辞書、語法書は「莫」を無指代詞とするのでしょうか?それとも否定副詞「不」に同じとするのでしょうか?
おそらく無指代詞と解するのだと思いますが、それではこの文を次のように書き改めて、

・左右皆莫能仰視。

とすれば、とたんに否定副詞「不」と同じになるのでしょうか?
この文は「諸将皆莫信」とほぼ同じと考えてよいと思うのですが。
「天下」を限定された話題の内容である主語、すなわち主題主語として、その中に属する(存在しないのですが)「莫」を主語とする主謂構造(主述構造)が謂語(述語)になるという点では、この文も変わらないと思います。

つまり、「左右のみな」を主題主語として、その中に属する「莫」を主語として、「存在しない人が仰ぎ見ることができる」という主謂謂語だと説明されるなら、「諸将のみな」を主題主語として、その中に属する「莫」を主語として「存在しないひとが信じる」と説明して、何の矛盾も起こりません。

「諸将皆莫信」は、「諸将のみなは、存在しない人が信じる」すなわち「諸将のみなは、誰も信じなかった」で、何かおかしいのでしょうか?

「天下莫能当也」の「莫」は無指代詞、「左右皆泣、莫能仰視」の「莫」も無指代詞だが、「左右皆莫能仰視」の「莫」は否定副詞「不」、「諸将皆莫信」も否定副詞「不」だというのなら、いったいどうやって区別すればいいんだ!と叫びたくなります。

というよりも、私にはこれらの「莫」はみな同じであって、「不」と同じとする説の方が疑わしく思えます。

以前のエントリーで、「莫」がもともと「毋或」「無或」の2音の合音であることに、その本質があるとする鈴木直治氏の見解を紹介しました。(「古代漢語における否定詞について」1975)
「天下莫能当也」は、「天下に、[不定のある者が対抗できること]がない」から「誰も対抗できない」の意になるのでしょうし、「諸将皆莫信」は、「諸将のみなに、[不定のある者が信じること]がない」から「誰も信じない」という意味になるのだと思います。

「莫」を「不」と同じと説明するのは、またぞろ状況から合理的に説明できるからという危険な行為のように思えてきます。

「ためぐち漢文」の該当箇所は、一応「莫」を無指代詞とする説に従って、次のように書き改めたいと思います。

この「莫」が無指の代詞とすると、ちょっとアレ?って思うだろ?
これは「諸将はみんな信じなかった」ってことだよな?
つまり意味的に「諸将皆不信」と考えて、現在主流の古典中国語文法ではこういう「莫」は「不」と同じ否定副詞だと説くんだよ。
日本の漢和辞典にもそう書いてるのがある。
あるいは正しい説明なのかもしれんが、最近ためぐち先生は、ちょっと懐疑的だ。
その方が説明しやすいからという合理的な解釈のような気がするんだよ。
そこでひとつ私見を述べておくことにしようかな。
「皆」が主語に関係することがあるというのは前に述べたよね、この「諸将皆~」は、「みなの諸将が」ってことさ。
「莫信」は、「存在しない人が信じる」つまり「誰も信じない」ってことだろ?
だったら、「諸将はみな、誰も信じなかった」で、別にいいんじゃない?
わざわざ「莫」を「不」と同じと論じる必要があるのかね。
と、まあ、そんなふうに思うわけだ。
ただ、現在の学説がそういう方向にあることは示しておくよ。

一度書いたことと、180度違うことを書く、こういうのを無責任というのかもしれませんが、やはり改めたいと思います。

データ救出完了

  • 2021/01/21 07:54
  • カテゴリー:その他
(内容:PCのHDDが突然壊れたため失われた書籍・研究のデータ復元についての報告。)

年末にメインPCが吹っ飛んだという悲惨な出来事がありました。
なにより怖れたのは、これまでの研究成果や基礎となる資料の喪失でした。
年末から正月のほとんどすべてをかけてデータの救出と、新しいPC環境の構築に時間を費やしましたが、ようやくほぼ復旧。
怖れていたデータは、(たぶん)完全に救出。
なにしろPDF化していた書籍数は約4500冊、テキスト処理していた漢籍は6500ファイルを超えるものでしたので、ほっと胸をなで下ろしています。
まだまだ新しいPC環境を、研究に便利なように構築していくには時間がかかりそうですが、ようやく落ち着いて仕事ができそうです。

みなさんも、大切なデータは必ずバックアップしましょう(自戒をこめて)。

「目眦尽く裂く」の「尽」の意味は?

(内容:『史記』鴻門の会に見られる樊噌の「目眦尽裂」について、「尽」の意味を考察する。)

『史記・項羽本紀』のいわゆる「鴻門の会」について、色々と語義を確認していると、あれ?と思うことに出会いました。

・噲遂入、披帷西嚮立、瞋目視項王。頭髪上指、目眦尽裂
(▼噲遂に入り、帷を披きて西嚮して立ち、目を瞋らして項王を視る。頭髪上指し、目眦(もくし)(ことごと)く裂く。
 ▽樊噲はそのまま中に入り、とばりを開いて西に向いて立ち、目をいからせて項王を見た。髪の毛が逆立ち、まなじりは裂けんばかりである。)

いうまでもなく、主人沛公の危機を救うべく、参乗の樊噲が宴会場に乗り込んだ場面です。
今使っている教科書では「目眦」とありますが、『会注考証』では「目眥」に作り、水沢利忠の「校補」にも異同は示されておらず、どのテキストを底本としたのかは不明です。
別の教科書では「目眥」となっています。

さて、私があれ?と思ったのは、その「目眦尽裂」の説明です。

まなじりは裂けんばかりである。「目眦」は、まなじり(目の外側の端)。「尽」は、ここでは「裂」を強調する用法。

まあまさか本当にまなじりが裂けるわけがなく、「頭髪上指」と共に誇張表現であることは言うまでもないのですが、「目眦尽裂」は「まなじりは裂けんばかりである」という意味でしょうか?

私自身、特にこの箇所を語義的に疑問に感じたことがなく、以前このブログにも載せた『鴻門の会・語法注解』では、「頭髪が逆立ち、まなじりがすっかり裂けていた」と訳し、次のように説明しています。

「目眥尽裂」は、まなじりがすっかり裂ける。
「尽」は範囲副詞、すべての意。
「頭髪上指」「目眥尽裂」はいずれも誇張表現だが、現実に即して意訳するよりはそのまま解する方が味わいがあってよい。

つまり私は単純に「尽」を「すべて」の意で解したわけです。
しかし、「『尽』は、ここでは『裂』を強調する用法」などと説明するからには、よるところが必ずあるはずです。

そこで『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)を開いてみました。
すると次のように書かれています。

五、用在形容词谓语前,表示谓语所指处于顶端状态。可译为“十分”、“至”、“极(其)”等。
(五、形容詞謂語の前で用いられ,謂語が指すものが頂点の状態にあることを表す。“十分(十分に・非常に)”、“至(極めて・もっとも)”、“極(其)(極めて)”などと訳せる。)

そして、その例文として、次のものが示されていました。

・子謂韶、尽美矣、又尽善也。(論語・八佾)

「尽」を「きわめて・非常に」と訳すとすると、「先生が韶についておっしゃる、きわめて美で、またきわめて前だ」となるでしょうか。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)にも同じ例が挙げられて、次のように説明されています。

二、程度副词
(一)用于形容词或动词谓语前作状语,表示状态或动作行为程度极深。
(二、程度副詞
 (一)形容詞や動詞謂語の前で用いられて状語(連用修飾語)となり、状態や動作行為の程度が極めて深いことを表す。)

・及死之日,天下知与不知,皆為哀。(史記・李将軍列伝)
(亡くなった日、世の知る者も知らない者も、みな彼のために非常に悲しんだ。)

この例は、上記2冊がともに例として引用しているものですが、何楽士の解釈に従う限りは、「哀」は形容詞というよりはやはり動詞、もしくは形容詞が動詞のように働いている語ということになるのでしょう。
つまりは、動詞といっても、ものの状態や形容を表す性質を強くもつ語の場合にこの用法が適用されるのだと思います。

ところで、「尽(盡)」は、「皿の中の拭除される意」(加藤常賢『漢字の起源』)、「食い尽くして,皿中に点々と小間切れのみが残ること」(藤堂明保『漢字語源辞典』)、「器中に洗滌のための細い棒(聿)を入れ、水を加えて器中を洗う意で、器を洗い尽すことをいう」(白川静『字統』)などと原義に諸説あるものの、『説文解字』の「器中空也」の解釈が妥当で、器の中が空っぽになる、つまり「尽きる」が原義の字です。
これの引申義が「ことごとく」で、「全て」「全部」の意になるわけです。
だから、『史記・項羽本紀』の「珍宝尽有之」も、「珍宝については、ことごとく(=残すところなくすべて)これを有した」の意であって、謂語動詞の表す意味や文脈によって「全部」「すべて」「みな」などと訳し分けたり、「完全に」と訳すこともあるけれども、基本は「残すところなくすべて」の意であろうと思うのです。

形容詞謂語の前に置かれる「尽」の例として諸本が引用している次の例、

・子謂韶、「美矣、又善也。」謂武、「美矣、未善也」。(論語・八佾)
(▼子韶を謂ふ、「美を尽くせり、又た善を尽くすなり。」と。武を謂ふ、「美を尽くせり、未だ善を尽くさざるなり。」と。)

これは美や善について、孔子が「何ひとつ欠けることがない」と評しているのであって、むしろ「完全に美である、また完全に善である」と訳すべきではないでしょうか。
「尽善也」を「きわめて善である」と解して、「未尽善也」の形で打ち消せば、当然「まだそれほど善であるわけではない」となりますが、これはそういう意味でしょうか?
やはり「まだ完全に善であるとはいえない」という意味ではないでしょうか?
その意味で、商務印書館『古代漢語虚詞詞典』が『論語』の例文を、初めの部分だけ引用しているのは、ご都合主義だなと思えてきます。

商務印書館『古代漢語虚詞詞典』がこの用法の例として挙げているものは他にもあります。

(2)善挟治之謂神。(荀子・儒效)

これは「尽く善にして挟(あまね)く治むるを之れ神と謂ふ」と読んで、「欠けるところなく善であって広く治まっているのを神という」の意でしょう。
明らかに「尽」は「挟」(あまねし)と対になっていて、すみずみまで行き渡ることを表していると思います。
「きわめて」とか「とても」という意味ではないでしょう。

(3)及死之日、天下知与不知、皆為哀。(史記・李将軍列伝)

先にも取りあげたこの例は、何楽士に従い、「哀」を動詞、または動詞のように働いている語として説明しましたが、あるいは名詞かもしれません。
なんであれ、「皆」は「人々はみな」の意、「尽」は「哀」(かなしむ)ことについて欠けることがないことを表しているのでしょう。
「哀」を名詞とすれば、「尽」は副詞ではなく動詞で、悲しみの限りを尽くすことを表すことになります。
案外、その方が妥当な解釈かもしれません。

(4)先生見諸葛亮連弩曰、「巧則巧矣、未善也。」(三国志・魏書・杜夔伝・注)

これは『杜夔伝』に裴松之がつけた注の一節です。
「先生諸葛亮の連弩を見て曰はく、『巧なるは則ち巧なり、未だ善を尽くさざるなり』と。」と読み、「先生(馬鈞)が諸葛亮の連弩を見て『巧みなのは巧みである、(だが)まだ完全に善いとはいえないぞ』と言った」という意味でしょう。
「それほど善くはない」の意味ではないと思います。

(5)杜詩最多、可伝者千余首、至於貫穿今古、覼縷格律、善、又過於李。(白氏長慶集・与元九書)

これは、「杜詩最も多く、伝ふべき者千余首、今古を貫穿し、格律に覼縷(らる)なるに至り、工を尽くし善を尽くし、又た李に過ぐ。」と読み、「杜甫の詩は最も多く、伝えるべきものは千余首もあり、古今の詩に通じ、詩の格律に詳細であり、完璧なまでに巧みであり完璧なまでに善く、また李白にも勝る。」という意味でしょうか。
「尽工尽善」の部分、「尽」を副詞として解しましたが、これもあるいは「工を尽くし善を尽くし」と解した方がよいのかもしれません。
訓読で動詞で読むというのでなく、もともとが「尽」は「尽きる」の意なのですから、「巧みの限りを尽くし、善美の限りを尽くす」と解しておかしいとは思いません。
これを「非常に巧みで非常に善である」と解することもできるけれども、それは意訳でしょう。

(6)美固揚、片善亦不遏。(孟東野詩集・投所知詩)

最後の例は「美を尽くすは固より揚ぐるも、片善も亦た遏(とど)めず。」と読んで、「完全に美であるものは、当然賞賛するも、一部の良さも遮らない。」という意味だと思います。
これが「極めて美である」とするよりも「完全に美である」と解する方が妥当なのは、「片」と「尽」が対になっていることから明らかでしょう。

こうして見てくると、「尽」を「きわめて・非常に」などと解するのは、本来は「欠けるところがない」「余すところがない」という意味からの意訳であろうと思えてきます。
「欠けるところがない」からこそ「きわめて・非常に」と言えるのであって、つまりは「余すところがなく」「欠けるところがない」のです。
たとえば「尽美」をかりに「非常に美である」と解したとしても、「甚美」(甚だ美なり)とは違う表現だと思います。
「甚」は程度副詞ですが、「尽」が近い意味で用いられているとしても、あくまで範囲副詞としての用法でしょう。

さて、最初に戻って、「尽」が「裂」を強調する用法という説を、どう考えるべきでしょうか。
この解釈を踏まえた口語訳が示されていないので、なんともいえないのですが、かりに「まなじりはとても裂けていた」と解したとしても、それは「欠けるところなく裂けていた」からの意訳になるわけで、私が「語法注解」で示した「まなじりがすっかり裂けていた」という訳に他ならないではありませんか。
もともと「尽」は「尽きる」からの引申義で「すべて」の意味の副詞なのですから、これを「裂」を強調する用法と言われても、そうなのかな?と思えてしまいます。

私は普通に「まなじりはすっかり裂けていた」と解したいと思います。
現実的にはありえない誇張表現だからといって、「まなじりは裂けんばかりである」と訳してしまっては、せっかくの司馬遷の表現が台無しになってしまう気がします。

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