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ユーザー「nakai」の検索結果は以下のとおりです。

研修会を開きました

  • 2020/02/25 20:48
  • カテゴリー:その他
(内容:勤務校で開催した研究会の報告。)

先日、勤務校で研究会がありました。
今はやりの課題研究の発表会や、新しい時代の教育を見据えた公開授業を行う一方で、私はわがままを言って「教員研修」などというものを行いました。

端的にいえば「漢文の授業に自信がない方」や「句法の丸覚えから脱却したい先生」、「深く漢文法を学びたい方」を対象の研修会です。

研修会における中井の講義の画像

国語の授業はもっと「主体的・対話的で深い学び」でなければならないそうですが、私の本音は「妥当な鑑賞や考察が『主体的・対話的で深い学び』のもとに実現するためには、正確な本文解釈が前提にならねばならず、漢文の文法もわからず、つまり訓読に頼って『こう訓読してあるからこういう意味』だと思い込み、なんとなくわかったつもりの題材を、深い知識や教養、適切な資料もなしに、ただの思いつきを越え得ない対話を繰り返しても、決して『深い学び』など出てこない」でありまして、昨今の風潮には危機感を覚えています。

というわけでの、いかにも「上から目線」での講義にもかかわらず、30名弱のご参加をいただくことができました。
当ブログで拙著『概説 漢文の語法』をご利用くださった方も、何人もご参加いただき、2014年に配布を始めた一番最初にお声をかけてくださったK先生やN先生も駆けつけて下さるという嬉しい研究会になり、これは漢文に自信がない方々とは言えないだろう…と思いましたり。

若手の活躍の場を奪うわけにもいかず、わずか50分の講義、定番教材『史記・鴻門の会』の語法解説でしたが、当初の予想通り、述べたいことの1割も説明できない、いかんともしがたい時間不足でした。せめて、あと50分あれば…
でも、初めて私の語法教育の概要を聞かれた方はびっくりだったでしょうし、私もお会いしたかった方々にお目にかかることができたのが何よりの喜びでした。

「さすがに50分では無理だったよなぁ…」とこぼしながら、その夜は、K先生が遠路わざわざお土産に持ってきて下さった(ありがとうございました)銘酒と、地元名産6年仕込みの「かんずり」をいただきました。
初めて食べた「かんずり」、美味の一言に尽きましたよ。
学問を通じてできた知り合いというのも、いいものですね。

「耳」は推量の語気を表すか?

(内容:文末に用いられる語気詞「耳」について、一部の漢和辞典が中国の虚詞詞典に基づき、推量の語気を表すと述べていることに対して、疑問を呈する。)

古典中国語文法に基づいて語法を解説した拙著の改訂作業に入っていることは、以前のエントリーで書きましたが、現在第2部で、語気詞の用法について見直しを行っています。
疑問や反語、詠嘆、あるいは限定ぐらいが取りあげられて、学校漢文ではあまり語気詞の学習に重きが置かれていないのですが、実は奥が深いのです。
一つの語気詞が、言語環境によってさまざまな意味を表すことがあり、それを一つひとつ吟味していくのは楽しい作業でもあります。

まさにそんな作業をしていた折に、また若い同僚が質問をして来られました。
見せてくれた漢文は次の通りです。

・漢武帝乳母嘗於外犯事。帝欲申憲。乳母求救東方朔。朔曰、「此非唇舌所争。爾必望済者、将去時、但当屢顧帝。慎勿言。此或可万一冀耳。」(以下略)

私が訳してみると、次のようになります。
(漢の武帝の乳母が(宮廷の)外で罪を犯したことがあり、帝は法によって処罰しようとした。乳母が救いを東方朔に求めた。朔は、「これは言葉がどうこうできることではない。あなたがどうあっても救いを望むなら、去ろうとする時、ただ何度も帝を振り返りなさい。くれぐれも言葉を発してはならぬ。これがことによるとほんのわずかにも望めることだ。)

さて、この「此或可万一冀耳。」の箇所の現代語訳についての質問でした。
彼が言うには、よる所の書には「もしかすると万に一つの希望をもつことができるかもしれません。」と訳されているとのこと。
同僚の疑問は、その訳に「耳」の意味が反映されていないことを背景とするものでした。
なるほど、確かに「耳」のニュアンスが伝わってこない。

同僚は書籍にも「耳」が限定や肯定の他に、疑問や推量の語気も表すと書かれたものがあると言いました。
私的には「耳」は、限止(限定)・決定(断定)・停頓(ポーズ)の3つの語気を表すと思っていたので、驚いてしまいました。
なによりびっくりしたのは、その疑問や推量の語気を表すとしたものです。

「此或可万一冀耳。」の「耳」の語気は、当然「限定」か「断定」であろうと思っていたわけですが、それだと推量でも説明できてしまうことになります。
これはおそらく中国の虚詞詞典にそう書かれているものがあるに違いないと、同僚の前で、虚詞を調べる時一番最初に手に取る『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)を開いてみました。
すると、

四、用于测度问句的句末,助测度语气。可译为”吧”。
(推量文の文末で用い、推量の語気を助ける。”吧”と訳すことができる。)

として、次の例が挙げられています。

 (1)安掩鼻曰:”恐不免。”(《晋书・谢安传》)
 (2)舟人皆侧立,曰:”此本无山,恐水怪。”(《唐人小说・李朝威:柳毅传》)

中国の代表的な虚詞詞典にもこう書いてあるからには、それを信じれば、「此或可万一冀耳。」は「或」に呼応する形で、「耳」が推量の語気を表すことになるのかもしれないと、その場はお茶を濁しておいたのですが。

しかし、本当に「耳」が推量の語気など表すのだろうか?という疑問は拭えませんでした。
そこでまず、『漢語大詞典』を引いてみました。

(9) 語氣詞。表示限止語氣,與“而已”、“罷了”同義。
(語気詞。限止(限定)の語気を表し,「而已」「罷了」と同義。)

(10) 語氣詞。表示肯定語氣或語句的停頓與結束。
(語気詞。肯定の語気や語句の停頓(ポーズ)と結束(終結)を表す。)

とあり、これは私が了解していた意味に触れているのみで、推量だの疑問だのの語気については述べられていません。

次に手元の虚詞詞典を片っ端から調べてみました。
すると意外にも推量、疑問の語気について述べてあるものが見つかりません。
韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』(吉林人民出版社1984)や尹君の『文言虚詞通釈』(広西人民出版社1984)は、古いものの他の書にはない記述が多く見られ、よく参考にしています。
まず、『古漢語虚詞手冊』には次のように書かれています。

一、语气词,系“而已”的合音(与“而”同纽,与“已”同部),表示限止,常与“特”、“独”、“止”、“直”等范围副词相应,可译为“而已”、“罢了”。
(語気詞、「而已」の合音(「而」と同声母、「已」と同韻)に関わり、限止(限定)を表す、「特」「独」「止」「直」などの範囲副詞と呼応することが多く、「而已」「罷了」と訳せる。)

二、语气词,表示断定,用在句末,有时近似“矣”,有时近似“也”,可译为“了”、“的”、“啊”、“呢”,或不必翻译。
(語気詞、断定を表し、文末で用いられ、「矣」に近い時もあれば、「也」に近いこともある、「了」「的」「啊」「呢」と訳せるほか、訳す必要がないこともある。)

次に、『文言虚詞通釈』は次の通り。

①助词 语气助词。用在陈述句末,表限止语气,有“不过如此”的意味;或说是“而已”两字的合音,可译为“罢了”。
(助詞 語気助詞。陳述文の文末で用いられ、限止(限定)の語気を表し、「不過如此」(こんなものだ)という意味がある。「而已」二字の合音だと説明されることがあり、「罷了」と訳せる。)

②助词 语气助词。和“也”条④项相同,用在陈述句末,表论断、决断或终结语气。可译为“的”、“呢”,也可去掉不译。
(助詞 語気助詞。「也」の条④項と同じで、陳述文の文末で用いられ、論断、決断や終結の語気を表す。「的」「呢」と訳せるほか、訳さなくてもよいこともある。)

③助词 语气助词。和“也”条③项相同,用在复句的前一分句句末,表提顿、停顿语气。现代汉语中没有相应的词,一般去掉不译。有的地方,也可译为“啊”。
(助詞 語気助詞。「也」の条③項と同じで、複文の前句末で用いられ、提頓、停頓の語気を表す。現代漢語の中に相当する字がないので、一般的には訳す必要はない。ある場合は、「啊」と訳せることもある。)

④助词 语气助词。和“矣”条①项相同,表行为的已然、将然或必然。可译为“了”、“啦”。
(助詞 語気助詞。「矣」の条①項と同じで、行為の已然(完了過去)、将然(将来)や必然を表す。「了」「啦」と訳せる。)

⑤助词 语气助词。表慨叹、赞叹语气,可译为“啊”、“呀”。
(助詞 語気助詞。慨嘆、賛嘆の語気を表し、「啊」「呀」と訳せる。)

たくさん書いてあります。
もちろん鵜呑みにするわけにはいきませんが、考えのヒントになるので、参考にする価値があります。
慨嘆、賛嘆の語気というのが目を引き、これは別途考えてみる必要はありそうです。
ですが、ここにも推量の語気については一切書かれていません。

何楽士の『古代漢語虚詞詞典』も参照しましたが、『文言虚詞通釈』の①~③とほぼ同内容のことが書かれていたものの、推量の語気については述べていません。
何楽士は商務印書館の『古代漢語虚詞詞典』の編纂にも関わっていたはずですが、どういうことでしょうか。

他に楊伯峻『古漢語虚詞』(中華書局1981)、于長虹等『常用文言虚詞手冊』(河北人民出版社1983)、王政白『古漢語虚詞詞典(増訂本)』(黄山書社1986)、王海棻等『古漢語虚詞詞典』(北京大学出版社1996)、陳霞村『古代漢語虚詞類解』(山西古籍出版社2007)、鐘兆華『近代漢語虚詞詞典』(商務印書館2015)などを見てみましたが、推量の語気については触れられていませんでした。

ところが、白玉林・遅鐸『古漢語虚詞詞典』(中華書局2004)に次のように述べられていました。

①用在分句末,表示停顿。可不译出。
(複文の文末で用いられ、停頓(ポーズ)を表す。訳出しなくてよい。)

②用在陈述句末。
(陳述文の文末で用いられて)
 1.助判断语气。用法同“也”,但语气比“也”轻。可不译出。
(判断の語気を助ける。用法は「也」と同じだが、ただ語気は「也」に比べて軽い。訳出しなくてもよい。)

 2.助肯定语气。用法同“也”,但语气比“也”轻。可不译出,有的也可译为“啊”、“的”等。
(肯定の語気を助ける。用法は「也」と同じだが、ただ語気は「也」に比べて軽い。訳出しなくてもよいが、ある場合は「啊」「的」などと訳せることもある。)

 3.助限止语气。常同表示范围的副词“唯(惟)”、“止”等呼应。可译为“罢了”。
(限止(限定)の語気を助ける。範囲を表す副詞「唯(惟)」や「止」などと呼応して用いられることが多い。「罷了」と訳せる。)

③用在祈使句末,助祈请语气。可译为“吧”。
(命令・請願文の文末で用いられ、命令・請願の語気を助ける。「吧」と訳せる。)

④用在疑问句末。
(疑問文の文末で用いられて)
 1.助反诘、特指问语气。可译为“吗”、“呢”。
(反語や疑問の語気を助ける。「吗」「呢」と訳せる。)

 2.助测度语气。常同表示语气的副词“恐”等呼应。可译“吧”。
(推量の語気を助ける。語気を表す副詞「恐」などと呼応して用いられることが多い。「吧」と訳せる。)

同じ遅鐸主編の『古代漢語虚詞詞典(最新修訂版)』(商務印書館国際有限公司2011)にも同内容のことが述べられていました。
編者が同じなので当然というところでしょうか。
遅鐸が『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)の編纂に関わっているかどうかはわかりません。

他にも探せばあるのかもしれませんが、「耳」に推量の語気を認める記述は、一部の虚詞詞典に限られているようです。
あるいは最新の語法研究の成果なのかもしれません。

虚詞詞典に述べられているかいないかを確認していっても拉致があかないので、「耳」の字がどのように解釈され、それに対してどのような分析がなされているかを調べてみることにしました。

こういう時には解恵全等『古書虚詞通解』(中華書局2008)の出番です。
清人の袁仁林『虚字説』、劉淇『助字弁略』、王引之『経伝釈詞』、呉昌瑩『経詞衍釈』の4著、近くは楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』、孫経世『経伝釈詞補・再補』の3著、あわせて7著の説を引用し、検討を加えたものです。
「耳」の字が、用例をもとにどのように説明されてきたのか、それにどのような検討が加えられているかを順に見ていくと、色々と説はあるものの、結論的に語気詞としての働きは、「限止語気」「決定語気」「停頓」の3つに尽きるもののようです。
そして、『詞詮』や『古書虚字集釈』、『経伝釈詞補』、『助字弁略』が、「耳」を「邪」または「乎」と同じ用法だと説いたものさえも、上記3つの語気として説明できるとしています。
しかし、「耳」を推量の語気とする説はどうも見当たりません。

『古代漢語虚詞詞典』が「耳」を推量の語気を表すとした根拠になっている例を見てみましょう。

・安掩鼻曰:”恐不免。”(晋書・謝安伝)

晋書の前後の部分を補ってみると、

・安妻、劉惔妹也。既見家門富貴、而安独静退、乃謂曰、「丈夫不如此也。」安掩鼻曰、「不免。」及万黜廃、安始有仕進志、時年已四十餘矣。
(謝安の妻は、劉惔の妹である。すでに家門が富貴であるのに、謝安ひとりが静かに引退しているのを見て、彼に「男子たるものこのようではないですか。」と言うと、謝安は鼻を覆って、「恐不免耳。」と言った。弟の謝万が退けられると、謝安は初めて出仕する気になったが、時にすでに四十数歳であった。)

この話は『世説新語』の排調篇にも採られていて、

・初、謝安在東山居、布衣時、兄弟已有富貴者、翕集家門、傾動人物。劉夫人戯謂安曰、「大丈夫不当如此乎。」謝乃捉鼻曰、「但恐不免。」(世説新語・排調)
(はじめ謝安が東山の住まいにいて官についていなかった時、兄弟にすでに富貴であった者があり、一族を集めて、人々の耳目を驚かせていた。(謝安の妻の)劉夫人が戯れて謝安に「男子たるものはこのようではあるべきではないですか。」と言うと、謝安は鼻をつまんで、「但恐不免耳。」と言った。)

「排調」と言うのは「相手をやりこめる」という意味ですから、「但恐不免耳」は、妻の嫌みに対して切り返した言葉であるはずで、富貴にして今をときめく兄弟を念頭に、そんな生活を是としない謝安としては、「いずれ自分もそうなってしまうのを避けようもないわい」という意味であるはずです。

重要なのは、『世説新語』が『晋書』に先行する書だということです。
『晋書』は『世説新語』に取材しているはずで、その表記が「但恐不免耳」となっている。
これはもうどう見ても「耳」は範囲副詞「但」に呼応して用いられていることが明らかです。
つまり、「但だ免れざるを恐るるのみ」(ただ逃れられないのを心配するばかりだよ)の意になります。
『世説新語』の記述をもとにする『晋書』の表記が「但」を欠いて「恐不免耳」になっているからといって、これが「おそらく災いをまぬかれないであろう」という意味になるでしょうか。
よしや『晋書』の「恐不免耳」単体が「恐…耳」の形に見えたとしても、『世説新語』の記述から、例としての妥当性を欠く可能性があります。

この「範囲副詞+恐~耳。」の形式は、非常に多くの用例が見られます。

・太子曰、「僕甚願従、直恐為諸大夫累。」(枚乗「七発」)
(太子は、「私は(あなたの言うことに)従いたいと思うが、ただ大夫たちの心配の種となることが心配なのだ。」と言った。)

・此方之民、思為臣妾、延頸挙踵、惟恐兵来之遅(三国志・呉志・胡綜伝)
(こちらの民は、陛下の臣僕になりたいと思い、首を伸ばし踵を上げております、ただ貴国の軍の到着が遅いことを心配するばかりなのです。)

・王文達万人敵也、但恐勇決太過(北史・王傑列伝)
(王文達は万人に敵するほどの人物だ、ただ勇敢で果断でありすぎることを心配するばかりだ。)

3例ほど挙げてみましたが、このような「恐」は文脈から明らかに動詞「心配する」の意で、範囲副詞がこの動詞を修飾する形で用いられています。

一方で、範囲副詞を伴わない形式、つまり「恐~耳」の形式の例も見られます。

①我乃信汝、為人所誑(宋書・蕭恵開列伝)
(私はむしろあなたを信じる、たぶん人に欺かれただけだ。)

②婦曰、「此是妖魅憑依。」文曰、「我亦疑之。」(捜神記・巻4)
(妻が、「これはたぶん妖怪が憑依したんですよ。」と言うと、戴文謀は、「私もそれを疑ってる。」と言った。)

③象知之欲去曰、「官事拘束我。」(神仙伝・巻9)
(介象はこれ(=介象が非凡であることをお上に報告されたこと)を知って、立ち去ろうとして、「公事が私を拘束するのが心配だ。」と言った。)

④鬼云、「人鬼異路、無宜相逼、不免。」(広異記・巻2)
(鬼は、「人と鬼は道を異にしています、無理を言ってはいけません、(延命を望んでも)たぶん免れないですよ。」と言った。)

③の例はおそらく「恐」は心配するの意の動詞だと思いますが、①②④は、その動詞の意から派生した推量の副詞です。
もともとが動詞なので、主によくない状況があること、起こることを予想して推量するわけです。

①の例は、あなたが人に欺かれたことを推量しているのですが、その推量は「恐」が表しているわけで、語気詞「耳」は、ただそれだけのことだという語気で、推量を表していると考える必要はないでしょう。

②の例も「恐」は、悪くするとそうではないかという推量を表していますが、これが妖怪が憑依したことに尽きるというのが想像内容であって、「耳」は推量の語気を表しているわけではないでしょう。

④の例は、先の『世説新語』と同じ表現ですが、この「恐」は動詞としては解せません。
今日を限りの命をなんとか救ってほしいという張御史の要望に、鬼の世界の小役人は、それは無理な話と断る文脈での言葉です。
「恐」は推量の副詞ですが、推量しつつも、「延命は無理ですよ」と言い切っているのであって、「耳」が推量の語気を表しているとは言い切れないでしょう。

中国語のことを日本語の文法で語ってはいけないのは百も承知の上で、たとえば「これは太郎が犯人だ」といえば「だ」は断定を表すが、「おそらく太郎が犯人だ」といえば「だ」は推量を表すと言えるでしょうか?
あるいは、「茶柱が立つと縁起がいいというのは迷信に過ぎない」を、「茶柱が立つと縁起がいいというのは、恐らく迷信に過ぎない」と言い換えれば、「~に過ぎない」は推量を表すことになるのでしょうか。
私にはこの問題がそれと似ているような気がします。

『古代漢語虚詞詞典』が引用する2つめの例を見てみましょう。

・舟人皆側立,曰:”此本無山,恐水怪耳。”(《唐人小説・李朝威:柳毅伝》)

前の部分を補います。

・至開元末、毅之表弟薛嘏為京畿令、謫官東南、経洞庭、晴昼長望、俄見碧山出於遠波。舟人皆側立曰、「此本無山、恐水怪耳。」
(開元年間の末に、柳毅の従兄弟の薛嘏が京畿令となり、(さらに)東南に左遷され、洞庭湖を経たが、晴れた昼に遠く眺めると、急に青い山が波の彼方から現れるのを見た。舟人たちはみな舷に立ち、「ここにはもともと山はない、たぶん湖の化け物だ。」と言った。)

これも「恐」があるから、必然的に「~だろう」と解したくなるのですが、「耳」は本来、「水怪に他ならない」という意味でしょう。
なぜなら、その根拠となることが、その前の「此本無山」に示されているからです。
舟人は洞庭湖にこんな青い山はないことを知っていたからこそ、「水怪耳」と断じることができるのです。
それに推量の副詞「恐」を用いただけではないでしょうか。
「此水怪耳」と表現すれば、「これは水怪だ」と決定の語気を表すのですが、「恐」ひとつで「耳」が推量の語気に変化する、「耳」は元々そういう性質の語気詞でしょうか。

さて、話を最初に戻しましょう。
同僚が質問してこられた「此或可万一冀耳。」という一文、「或」という副詞があるために、「耳」は推量の語気を表すのか?と、あの時は迷いました。
しかし、「万一」とは万分の一、ほんのわずかであることを表します。
「耳」は、「或」に呼応するのではなく、この副詞的に用いられた「万一」に呼応しているのでしょう。
つまり、「これがことによるとほんのわずかに期待できるばかりのことだよ。」というのがこの文の意味、そして「耳」の語気ではないでしょうか。

「無論魏晋」の「無論」は慣用表現か?

(内容:陶淵明『桃花源記』に見られる「無論魏晋」という句の「無論」は当時の慣用表現であると述べられることに対して、疑問を呈する。)

「有」が2つの賓語を取る時の構造について検証していく過程で、さらに気になることに行き当たりました。
別に、陶淵明の『桃花源記』の次の一文について、疑問を抱いた方があったという話を耳にしたからです。

乃不知有漢、無論魏晋(陶淵明集・巻6・「桃花源記」)
(乃ち漢有るを知らず、魏・晋に論無し。)
(なんと漢があったことを知らず、(ましてや)魏・晋(を知らないの)は言うまでもない。 …読みと訳はS社指導書による)

その方はこの「魏晋に論無し」という読みに疑問を抱かれたとのことらしいのですが、確かに気になる表現です。
これはおそらく構造的には「魏晋を論ずる無し」と読むべきかと思いますが、手許の参考書や教科書はいずれも「魏晋に論無し」と読まれています。
語法的な説明があるかと、いくつか探してみましたが、参考書、教科書指導書の類はことごとくスルーです。
書いてあっても、「~はいうまでもないの意」とか「~はいうまでもないの意の慣用表現」で済まされています。
これでは疑問を抱く方が出てきても不思議はありません。

切り分けをしたいと思いますが、かりに構造的に「魏晋を論ずる無し」と読むべき形でも、古来「魏晋に論無し」と読まれてきたものを否定するつもりはありません。
そう読んだには読んだだけの理由があったはずだと思いますし、訓読が常に語法に忠実でなければならないものでもないからです。
なぜ「魏晋に論無し」と読んだのかは、とうてい知りようもありません。
ですが、語法的に「無論魏晋」がどのように説明されるかは考えてみる価値があると思いました。

「無論」は、どの参考書や教師用指導書も「言うまでもない」と訳されていて、いわば慣用的な表現のように扱われています。
まず、この「論」が名詞か、動詞か。
「有AB」の場合と同じで、解釈のしようによってはどちらとでもとれそうなのですが、「無論於B」または「無論于B」の形をとる例が見当たらないところを見ると、動詞の可能性が高そうです。
つまり、「無論魏晋」は次の構造で説明されます。

謂語「無」+賓語「論魏晋」

そして、賓語はまた、

謂語「論」+賓語「魏晋」

の構造になる、「『魏晋を論ずること』が無い」という、いわば二重構造になるわけです。

これだけのことなら、それほど気にもかからなかったのですが、前述したように「無論~」は慣用表現のように扱われていて、ほぼ説明なく「~はいうまでもない」で訳して済まされています。
でも、本当に慣用表現でしょうか?

確かに『桃花源記』のように、前文に「乃不知有漢」のような内容をとれば、いわゆる抑揚の表現に似た形で「無論~」は「~はいうまでもない」と述べる進層表現になります。
「当然~(だ)」というわけです。

「無論」の用例について調べてみると、意外にも古い時代の用例が少なく、明らかに『桃花源記』以前のものは、次の2例しか見つけられませんでした。

・嬰之家俗、…通国事無論、驕士慢知者、則不朝也。(晏子春秋・内篇雑上)
(我が家(=晏嬰の家)の家法では、…国家のことに通じていながら議論することなく、賢者智者に驕り侮るものは、交わらない。)

・仁義之処、可無論乎。夫目不視弗見、心弗論不得。雖有天下之至味、弗嚼、弗知其旨也。雖有聖人之至道、弗論、不知其義也。(春秋繁露・仁義法)
(仁と義のありどころについては、論ずることがなくてよかろうか。そもそも目は見なければ見えず、心は論じなければ得られない。天下の美味があっても、食べなければその旨さはわからないのである。聖人のすばらしい道があっても、論じなければ、その意義はわからないのである。)

『春秋繁露』の例は、先に「可無論乎」と述べながら、すぐ後で「弗論、不知其義也」と述べています。
「弗」によって否定された「論」はもちろん動詞ですが、それゆえに先行する「可無論乎」の「論」も同じ可能性があります。

この2例は、いずれも「いうまでもない」という慣用的な意味では用いられていません。
「議論することがない」という一般的な意味です。
先行する文献に「いうまでもない」の意の「無論」が見当たらないのに、「無論魏晋」の「無論」がその意味の慣用表現だとするのは、なんだか怪しくなってきます。

「無論」の例に該当するかどうかは微妙ですが、『桃花源記』に先行する例には、別に次のものもあります。

・上曰、「游撃将軍死事、無論坐者。」(漢書・韓王信列伝)
(主上はおっしゃった、「游撃将軍は国事に死したのであり、(家族の)連座するものを論じることはないようにせよ。)

あえて「ないようにせよ」とは訳しましたが、これは「無」が否定副詞として禁止の働きをするものです。

そもそも、「無」という漢字は「見えない・見えなくなる」という意味の音を「舞」を借りて表記したものだといい、「日が草に隠れて見えなくなる」意の「莫」、「人が物に隠れて見えなくなる」意の「亡」と同系の語です。
反対の意思表示、拒む意を表す「不・否」と、成り立ちが決定的に異なるのです。
「不」が否定的な意志を表すことがあるのに対して、「無」は客観的に存在しないことを表すのは、そもそもの成り立ちに起因するのでしょう。

先の『晏子春秋』の例「通国事無論」は、「無」が「不」と同じだとしてしまえば、「国家のことに通じていながら議論しない」となりますが、あくまで客観的に「議論することがない」と描写しているのであって、そのような者とは「不朝」(交わらない)と、「不」で表現者の否定的意志を示している。
また、『春秋繁露』の例「仁義之処、可無論乎」も、「論じなくてよかろうか」ではなくて、あくまで客観的に人として「論じることがない」ということが許されようかと述べているのだと思います。

『漢書』の「無論坐者」も、「連座するものを論じること」の存在を客観的に否定し、それを禁止に用いたもので、副詞的用法とはいえ、もともとの動詞「無」とまったく別のものではありません。

そのように考えてくると、「乃不知有漢、無論魏晋」は、「なんと漢があったことを知らず、魏・晋を論じることはない」を出発点としてみなければなりません。

そもそも漢の存在自体を知らないのですから、「不論魏晋」と表現することはできません。
なぜなら、「不論」は「論じない」という否定的意志を表しますが、意志も何も魏晋そのものを知らないのに論じようとすることなどあり得ないからです。
つまり、客観的に「魏晋を論じることがない」と表現されたものでしょう。

『桃花源記』に近い時代の例を見てみましょう。

無論潤色未易、但得我語亦難矣。(南斉書・劉絵列伝)
(表現の手直しが易しくないのは言うまでもなく、自分が納得いくことばを見つけるのもまた難しいのだ。)

この「無論」は、「言うまでもなく」と解することができます。

・謝方明可謂名家駒。直置便自是台鼎人、無論復有才用。(宋書・謝方明列伝)
(謝方明は最上の名馬といえる。ただこのままで高官で、さらに才能があることを論ずる必要はない。)

この例は複文の後句で用いられていますが、「さらに才能があるのはいうまでもない」とは解せず、「論じる必要はない」の意でしょう。

無論君不帰、君帰芳已歇。(謝朓「王孫游」)
(あなたが帰って来ないことを論じることなく(=あなたが帰って来られなくても)、あなたが帰ってくれば芳しい香りはすでにやんでいるでしょう(=私の容貌は衰えているでしょう。))

この例も「あなたが帰ってこないことは言うまでもなく」の意では解せません。
この2つの例は、「無論」以下の内容をあれこれ議論することの不必要を表現したものと考えられます。

・逝者長辞、無論栄価、文明叙物、敦厲斯在。(魏書・儒林列伝)
(死者は長く辞して帰らず、栄誉を論じることなく、良いことを明らかにし、提示し勉励するがこのようにあるばかりだ。)

この例は、「論じることがない」そのままの意味で、死んだ人はもはや栄誉を論じることがないのです。

・則物見昭蘇、人知休泰、徐奏薫風之曲、無論鴻雁之歌、豈不天人幸甚、鬼神咸抃。(魏書・恩倖列伝)
(このようにして物は蘇りを示し、人は安寧を知り、やがて「薫風の曲」(舜が作ったといわれ、南風が民の怒りを解き、民の財を豊かにすると歌う)を奏でるようになり、「鴻雁の歌」(詩経・小雅にある、住まいを失って離散する民を周の宣王がいたわることを歌う、転じて災いにより流浪する民)を論じることもなくなったのは、天と人の無上の幸せであり、鬼神もみな手をうって喜ぶことではないか。)

この例も、「鴻雁の歌」すなわち離散の苦しみをあれこれいうことはないの意で、やはり「論じることがない」そのままの意味だと思います。

・察今之挙人、良異于此。無論諂直、莫択賢愚。(北史・儒林列伝下)
(現在の人材登用を見ると、実にこれとは異なっている。媚びへつらう者か正直者かは言うまでもなく、賢者か愚者かを選ぶこともない。)

この例は、本来人材登用の要注意項目となる「媚びへつらう者か正直者か」を見極めることが抜け落ちていることは言うまでもなくという意味でしょうから、「言うまでもなく」の意に解してよいでしょう。

・林子兄弟挺身直入、斬預首、男女無論長幼悉屠之、以預首祭父祖墓。(南史・沈約列伝)
(林子の兄弟は身を投げ出してただちに入り、沈預の首を斬り、男女は年長幼少を論ずることなくことごとくこれを殺し、沈預の首を父祖の墓に祭った。)

この例の場合は、もちろん「長幼はいうまでもなく」の意ではなく、「長幼の区別なく」ということでしょう。

このように用例を見てくると、次のことがわかります。

①「いうまでもない」の意味で用いられる「無論」の用例は、手元の資料からは『桃花源記』以前には見当たらない。

②『桃花源記』に近い時代の用例では、「無論」には次のように複数の意味が見られ、「言うまでもない」と解せるものが突出して多いとはいえない。
  ・~はいうまでもない。
  ・論じる必要はない。
  ・論じることはない。
  ・区別することがない。

これにより、「無論」が「言うまでもない」という意味を表す慣用表現だとするのは、少なくとも『桃花源記』の時代にあっては、当を得ないものだということがわかります。

「無論」がどのような意味を表すのかは、やはり言語環境に左右されるものであって、「無論魏晋」が「魏晋(を知らないこと)はいうまでもない」と解されるのは、「乃不知有漢」(なんと漢があったことを知らない)を受ける文脈だからだというべきでしょう。
そして、これらの多くの用法は、「不」ではなく「無」がもつ「客観的にない」という描写の性質によるものだとも思います。

「有AB」の構造について

(内容:2つの賓語をとる「有AB」「無AB」の形式について考察する。)

前エントリーに続いて、今度は「有AB」の構造について考えたいと思います。
このように記号を用いて「有AB」と表記してみると、異なるいくつかの構造があり得ます。

たとえば、次の有名な文。

有朋自遠方来。(論語・学而)
(友がいて遠方から来る。/遠方から来る友達がいる。)

これは存在の兼語文で、

謂語「有」+賓語「朋」
      主語「朋」+介詞句「自遠方」+謂語「来」

兼語「朋」を介して2文が1文になったものです。
つまり存在の兼語文は、「有」によって存在が示された賓語が後の謂語の主語となる場合に限定されます。
ちなみに、この例文は『論語』では「朋」が単独では用いられず、「朋友」とするため、疑義が呈されています。
また、この例文のように「有」が無主語文の形をとり、存在する範囲を示す存在主語を「有」の前に取らない時は「ある友」ぐらいの意味を表すと説明されることもありますが、漢文に多く見られるこの形式が、まず「朋」の存在を示した上で、その「朋」がどうしたのかを説明する兼語文であることには変わりがありません。

次に、この例文。

有亡国、有殺君。(隋書・天文志下)
(国を滅ぼすことがある、君主を殺すことがある。)

これは厳密には「有AB」の構造とは言えず、「亡国」「殺君」が一つの名詞句であって、「有A」の形というべきです。
すなわち、それぞれ、謂語「亡」+賓語「国」、謂語「殺」+賓語「君」の構造が、「有」の賓語として名詞句になっているということです。
「有殺人者」という形式、つまり「有AB者」(BをAする者有り)の形をとることが多いのがその証拠です。

問題になるのは、A、Bの2つの語が、主謂構造または、謂賓構造をとらず、それぞれ単独に名詞または名詞句である場合です。

・在職多所献替、有益政道。(晋書・范甯列伝)
(在職期間中、行うべきものは勧め、行うべきではないことは改め、政務に益があった。)

この例では、謂語「有」に対し、「益」と「政道」の2つの賓語が置かれています。
「益」を「益する」という動詞として用いられることもありますが、名詞と判断する理由は、「有益」「無益」とされること、また、次のような例が見られることからも妥当だと思います。

・必有益於政。(晋書・隠逸列伝)
(必ず政治に益がある。)

この例でも明らかなように、介詞句「於政」は補語として謂語「有」を修飾しており、介詞「於」を省略すれば、「必有益政」となるわけです。

さて、前項で質問された次の例を見てみましょう。

・足下有意為臣伯楽乎。(戦国策・燕策二)

「足下臣の伯楽と為るに意有りや。」と読んで、「あなたは私の伯楽となることにお考えがありますか。」という意味でしょう。
あるいは、「足下臣の伯楽たるに意有りや。」と読み、「あなたは私の伯楽であることにお考えがありますか。」と解することもできるでしょう。

質問された文の「為臣伯楽」の部分が、謂語「為」+賓語「臣伯楽」の構造をとるために、若干わかりにくいのですが、これは名詞句に転じています。

問題になるのは、「意」が名詞か動詞かという点です。

・豈意此軍乃陥不義乎。(新唐書・李景略列伝)
(どうしてこの軍がよもや不義に陥るなどと予想したであろうか。)

この例の場合は、明らかに「意」は動詞で、「思う・考える・心にかける・予想する・はかる」などの意味を表します。
しかし、「意」は普通に「心・思い・思惑・狙い」の意の名詞としても用いられ、

・書不尽言、言不尽意。(易経・繋辞上)
(文字は言いたいことを表現し尽くせず、ことばは思いを表現しつくせない。)

・今者項荘抜剣舞、其意常在沛公也。(史記・項羽本紀)
(今項荘が剣を抜いて舞っているが、その狙いは常に沛公(を撃つこと)にあるのだ。)

などがその例です。

「有意」が単独で用いられる例としては、

・荊卿豈有意哉。(史記・刺客列伝)
(荊軻殿はなにか考えがおありか。)

などが見られ、また、その真逆の「無意」についても次のような例が見られます。

・相如視秦王無意償趙城、…(史記・廉頗藺相如列伝)
(藺相如は秦王が趙に都市を代償として渡すことに対してその気がないことを見て取り…)

特にこの「無」によって否定された例は、「意」が動詞ではなく、まぎれもない名詞であることを示すものだと思います。

そのように考えると、「足下有意為臣伯楽乎。」の「意為臣伯楽」が、「私の伯楽になることを思う」とか「私の伯楽になりたいと考える」と解するのは、依頼する側としてあまりに不自然で、やはり「考え」が「私の伯楽になること」に対してあるかないかという確認を求めたと解するべきでしょう。

この2つの賓語をとる「有AB」「無AB」の形式については、まだ解明できていない例があるのですが、ひとまず、同僚への説明は妥当であったと考えます。

「有AB」はなぜ「BにA有り」と読むのか:私見

  • 2019/10/09 23:27
  • カテゴリー:訓読
(内容:「有AB」の形を、なぜ「BにA有り」と訓読するのかについて私見を述べる。)

最近、教室の横を通ると、同僚の授業の黒板が見えることがあります。
古典中国語文法に基づいた漢文の構造が丁寧に説明されています。
勉強熱心な若い同僚たちが着実に力をつけてきています。
IT機器を駆使したり、アクティブラーニング等の授業技術の実践にも熱心な彼らですが、その大本になるべき学問的教養をおろそかにしない姿勢には、本当に嬉しくなります。

さて、その勉強熱心な同僚が、先日、ある文について質問してきました。
『戦国策・燕策二』の「蘇代為燕説斉」の条です。

足下有意為臣伯楽乎。
(足下臣の伯楽と為るに意有らんか。…読みは問題集のもの)

この文の構造がどうなっているのか教えてほしい、「為臣伯楽」は「意」を修飾しているのでしょうか?と。
この箇所は、彼の見た書物では「あなたは私の伯楽になる気持ちがあるか(ありませんか)。」と訳されています。
なるほど、訳が「私の伯楽になる」→「気持ち」と修飾する関係で訳されているので、先の質問になったわけです。

「足下臣の伯楽と為るに意有らんか。」という読みが適切かどうかはともかくとして、日本語訳自体は間違ってはいません。
もう少し正確にいえば、自然な日本語としては適切な訳だろうということです。

構造的には、

主語「足下」+謂語「有」+賓語「意」+賓語「為臣伯楽」+語気詞「乎」

で説明されると思うので、同僚にはそう説明して、「あなたは気持ちを私の伯楽になることに対してもちますか」もしくは「あなたは気持ちを私の伯楽であることに対してもちますか」から、「あなたは私の伯楽になるおつもりがありますか」と意訳されることもあると解説しました。

しかし、個人的にふと疑問に感じたことがあったのと、本当にそれで正しかったかという検証が必要だと思い、少し調べてみることにしました。

私が抱いた疑問というのは、古典中国語文法とは関係なくて、AB2つの賓語をとる「有AB」の文を、なぜ「BにA有り」と訓読するのか?です。
「ABに有り」となぜ読まないのか?とも言い換えられます。
これは日本語の問題、訓読の問題なので、解決不能かもしれないな…と感じました。

「有AB」の文は、「有A於B」の形をとることが多く、その意味であるいは介詞「於」の省略形かもしれません。

・今有宝剣良馬於此、玩之不厭、視之無倦。(呂氏春秋・不苟論)
(今此に宝剣良馬有れば、之を玩(もてあそ)びて厭かず、之を視て倦むこと無し。)
(いまここに宝剣や良馬があれば、それを厭きることなく賞玩し、倦むことを知らずに眺めやる。)

読みと訳は『新編漢文選3 呂氏春秋・下』(明治書院1998)によりましたが、やはり「宝剣良馬此に有れば」ではなく「此に宝剣良馬有れば」と読まれています。

・今有璞玉於此、…(孟子・梁恵王下)
(今此に璞玉有らんに、…)
(今ここに山から掘り出したままで、まだ磨いていない玉があったとする。)

これも同様の例になりますが、『新釈漢文大系4・孟子』(明治書院1962)では、前の例と同じ語順で読まれています。

通常、存在文は、「A有B。」(AにB有り。)の形をとります。
存在主語「A」+謂語「有」+賓語「B」の構造で、賓語Bは意味上の主語となり、構造上の主語AはBが存在する範囲を示します。

・甕中有人。(広異記・10)
(甕中に人有り。)
(かめの中に人がいる。)

この例なら賓語「人」が意味上の主語となり、存在主語「甕中」がその存在する範囲を表すことになります。
Aが明確に範囲を表す場合は、訓読では必ず「AにB有り」と読みます。
これは理にかなった読み方と言えるでしょう。

それに対して、同じ「あり」と読む動詞には「在」があります。
「A在B。」(ABに在り。)の構造をとり、「AがBにある・いる」という意味を表します。

・令史在甕中。(広異記・10)
(令史甕中に在り。)
(令史がかめの中にいる。)

同じ出典の同じ文章の中で、2通りの表現を見つけました。

この「有」と「在」の違いは周知のことで、荻生徂徠の『訓訳示蒙』に明快に述べられています。

有ト無ト對ス 在ハ没又去ト對ス 有ハ只アリ 在ハニアリト心得ルナリ 在ハマシマストヨミテ居ル意ニ使フモ同ジコトナリ 有字ノ下ハ物ナリ 在字ノ下、居處ナリ 市有人(市ニ人有リ)人在市(人市ニ在リ)コレニテヨクスムゾ
(「有」は「無」の反義である。「在」は「没」または「去」の反義である。「有」はただ「あり」、「在」は「にあり」と理解するのだ。「在」は「まします」と読んで「居る」の意味で用いるのも同じことである。「有」の字の下は物である。「在」の字の下は場所である。「市有人」(市に人がいる)、「人在市」(人が市にいる)、これで了解できる。)

要するに、「有」は存在を表し、「在」は場所を表すということです。
したがって、「有」の下には存在する物が置かれ、「在」の下には存在する場所が示されます。

先の2例を対比しやすくするために次のように加工してみます。

・甕中有人。(甕中に人有り。)
・人在甕中。(人甕中に在り。)

訓読では、「A有B」の場合「AにBあり」と読み、「B在A」の場合「BAにあり」という読み分けがあるわけです。

ところが、存在を表す謂語動詞「有」は、「有B(於)A」の形をとることがあります。
上の例文が、理論上「有人於甕中。」の形をとることができるのは、次の例文からも明らかです。

・有人於此。(孟子・告子下)
(此に人あり。)
(ここに人がいる。)

ちなみに本来の存在文の形式に戻した「此有人。」という例文は見当たらず、必ず「於此有人。」の形をとります。

「甕中有人。」と「有人於甕中。」の表す意味自体は同じはずですが、なぜこのような2通りの表現があるのかについては、よく言われるように、中国語は既知情報が先、未知情報は後に表現されるということで説明できるのではと思います。
たとえば、以前のエントリーで取り上げた韓愈のいわゆる「馬説」に、連続する次の2文があります。

・世有伯楽、然後有千里馬。
(世に伯楽がいて、はじめて千里の馬がいる。)
・千里馬常有、伯楽不常有。
(千里の馬は常にいるが、伯楽は常にはいない。)

前文は世に存在する「伯楽」や「千里馬」は、読者にとっていわば未知情報にあたるので後に、後文はすでにその存在が示された「伯楽」「千里馬」は既知情報になるので主題主語として先に示されています。

このように考えると、「甕中有人。」は、すでにかめの存在が明らかになっているが、その中に人がいるということは未知情報であるために「甕中」が先に示され、「有人於甕中。」は、「人」の存在もかめの存在も未知情報ではあるが、まず人の存在を示すことが先で、それがどこに存在するのかという未知情報がその後に置かれていると説明されるのではないでしょうか。

漢文の構造に踏み込みましたが、さて、もう一度2つの文の読みを比べてみましょう。

甕中有人。  →甕中に人有り。
有人於甕中。 →甕中に人有り。

どちらも同じ読み方です。
もしも、後者を「人甕中に有り」と読めば、どうなるでしょう。
「人甕中にあり」と読まれた文は、「人在甕中。」のように聞こえます。

確かなことはわからず、現時点では訓読の慣習としか言えないのですが、「有AB」を「ABに有り」と読まず、「BにA有り」と読むのは、案外そんなところが理由なのかもしれません。

もう一つの課題、「足下有意為臣伯楽乎。」の構造が、私の説明でよかったのかどうかについては、項を改めて書いてみようと思います。

旧著全面改定着手と周辺事情

  • 2019/10/01 06:55
  • カテゴリー:その他
(内容:拙作の漢文の語法書について、全面的な改訂に着手すること、また、その諸事情の報告。)

拙著『概説 漢文の語法』は、古典中国語文法を基礎において、漢文をわかりやすく説明しようと試みた語法書です。
もともとは高校生のために執筆したのですが、無料ということもあって、Webを通じて多くの方に利用いただいています。

ですが、自分なりに研究を進めて、改めて本書を見れば見るほどに、あちこちに気に入らないところがあり、全面的に書き直したいものだと、ずっと思い続けています。

そんなある日、たまたま『概説 漢文の語法』という文字列を検索サイトで調べてみると、おやおや怪しげなサイトがうじゃうじゃヒットします。
どうやら、サイトのセキュリティーに問題があったのだかどうだか、当ブログの1記事が盗まれ、いかがわしい通販サイトに改竄されていたわけです。
これはゆゆしきことです!

このような輩は許せず、腹立たしい限りです。

セキュリティーを強化し、以後の対策は講じましたが、一度盗まれた部分については、もうどうしようもありません。
なにより、『概説 漢文の語法』という文字列で検索すると、不誠実なサイトにつながること、ひょっとすると詐欺行為に加担するかもしれぬこと、それが耐えられませんでした。

まあ抜本的な解決にはならないのですが、次のことを決意しました。
1.を全面的に書き改め、書名も変更する。
2.現ブログを移転し、サイト名を変更する。
3.ブログの過去記事やコンテンツを新サイトに移転し、ブログ名や『概説 漢文の語法』などの文字列を別の名称にするか、なんらかの対策をする。

という、気分の悪い周辺事情が後押しをして、全面改定に踏み切ることになったわけですが…

さしあたって、新書名をどうするか?これが意外に難しい。
現在の候補です。

1.真に理解するための漢文法解説
2.漢文法詳解
3.明解漢文法

なんだかどれもぱっとしません。
1は書名らしくないし、2は固い、3はどこぞの辞書のようです。

もし読者や利用者のみなさんによいアイデアがありましたら、お知らせください。

もっと難しいのがサイト名です。
今のブログ名は、わずか数秒で決めた記憶があるんですが、いざ変えるとなると、なんだかどれもぱっとしない。

サイトの移転は、改訂漢文法が完成してからと考えています。
少しずつですが、よりよい内容に書き改めていくつもりですので、気長にお待ちください。
この際、現行の「です・ます」体を改め、「だ・である」体とし、筆者の文体が生き生きと伝わるように、少し癖のある文体をめざすつもりです。

ご期待ください。

やっと李漁『十便十宜』詩・注解をアップ完了しました

  • 2019/09/20 20:00
  • カテゴリー:その他
(内容:李漁の『十便十宜』詩の注解をページにアップしたことの告知。)

2013年に「伊園十便4・灌園便」をアップしてから、そのまま放置状態にしてしまっていた、李漁『十便十宜』詩・注解を、ようやっとこのほどアップ完了しました。
材料自体は、すでに手元にあったのですが、なかなか暇が生まれてこないのと、もう少し調べたいという思いがあって、手つかず状態だったのですが、いくらなんでもそろそろ完成させないと…と、思ったわけです。

なにしろ全く資料がない状態での執筆でしたので、あちこちおかしい部分があるかもしれません。
もし、お気づきのことがございましたら、遠慮なくご教示いただきますよう、よろしくお願いします。

(記事削除・9)

  • 2019/07/25 22:22
  • カテゴリー:その他
(内容:記事削除の連絡。No.9)

この記事は削除しました。

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「簾少し上げて、花奉るめり」は、どこの簾か?

  • 2019/07/25 15:36
  • カテゴリー:その他

(内容:『源氏物語』若紫の巻に見られる「簾少し上げて、花奉るめり」について、尼君が仏の前の簾を挙げて花を差し上げるとする説に、疑問を呈する。)

漢文にまつわる話ではないので、このブログに書くのもどうかとも考えたのですが、古典の記述についてきちんと考えるということは漢文学習でも共通する話題なので、書いてみようと思います。

常々、同僚に対しても学生に対しても、とにかく「本文を徹底的に読め」とうるさく言います。
謎を解く手がかりは実は本文そのものに隠されていることが多いからです。
わからないことはきちんと調べることが大切ですが、ちょっとわからないことが生じた時に、本文をよく読みもせずにすぐ参考書を広げてしまう人が実に多いのです。
教師の場合なら、一番身近にあるのは教科書の指導書でしょう。
そこに何か書いてあれば、それが正しいのだと検討もせずに鵜呑みにしてしまう。
同様のことが、教師の前身である学生さんにもよくあります。

教育実習で『源氏物語・若紫』のいわゆる「小柴垣のもと」を担当してもらうことになりました。
その中の有名な一節、

人々は帰し給ひて、惟光の朝臣とのぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ、尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなとあはれに見給ふ。
(供人たちは(僧坊に)お帰しになって、惟光の朝臣と(垣の内を)おのぞきになると、すぐ目の前の西向きの部屋に、持仏を据え申し上げて勤行する(人は)、尼であったよ。簾を少し巻きあげて、花をお供え申し上げるようだ。中の柱に寄りかかって座って、脇息の上に経巻を置いて、たいそう気分悪そうに座って唱えている尼君は、並の身分の人と思えない。四十過ぎぐらいで、たいそう色が白く上品で、痩せているけれど、頰はふっくらとして、目元のあたりや、髪が美しい感じに切りそがれている毛先も、かえって長いのよりも、この上なく現代風なものであるなあ、としみじみと感動してご覧になる。――S社の句読と訳による――

の「簾少し上げて、花奉るめり。」という表現が気になるので、実習の学生さんにはこの部分をよく調べるようにと言っておきました。

私が気になるというのは、この「簾」がどこの簾で、誰が「上げて」いるのか、また、「花」を「奉る」のは誰の行為かでした。
そんなことを先に言ってみても、学生さんのためにはなりませんから、とにかくこの箇所をきちんと調べて考えるようにと告げたわけです。

さて、それから1ヶ月ほどして、指導案をもって訪れた学生さんに、指導案を読み指導をする過程で、私の先の疑問をぶつけてみました。
すると、学生さんは、「尼君が持仏の前にある簾を上げて、花を供えているのだ」と説明したのです。
とてもびっくりしてしまって、本当にそうなのか?と念を押すと、自分で調べて考えた結果ではなく、わからないから、大学の古典文学の教授にして『源氏物語』がご専門の先生に尋ねると、そう教えてくれたのだとか。
それもその場で当然のように即答されたのだそうです。

これで私は二度びっくりすることになってしまったわけです。

学生さんにその解釈の根拠をただすと、それは何もない、どうやら古典の教授は見解だけを述べて、その元となるものを何も示されなかったようです。

古典文学がご専門で、まして『源氏物語』の研究者ですから、私などには及びもつかぬ教養をお持ちなのだろうと拝察しますが、詳しく調べた結果として教示したのではなく、また、もしすでに知っておられたのだとしても、その資料なり何なりの根拠を学生に示されなかった…私にはとても考えられない姿勢だったのです。

私は自分がまだまだ何も知らない、わからないといつも思っています。
ですから、若い人たちに何か質問されると、きちんとそれが説明できるようになるまで、可能な限り調べます、そして考えます。
そうでなければ、責任持ったことは言えないし、若い人たちのためにもならず、私自身のためにもならないと思うからです。

教授先生の答えを鵜呑みにして検証しようともしない学生さんにも困り者ですが、調べもせず根拠も示さずお答えになった教授先生にも、正直残念な思いを拭えませんでした。

素朴な疑問です。

もし、「簾少し上げて、花奉る」人が尼君なら、仮にこの簾が持仏の前にある簾だとしても、尼君は、中の柱によりかかって座り、脇息の上に経を置いて大儀そうに読んでいるのに、それと同時に花を供えていることになります。
おかしくはないでしょうか?

仏に供える花は簀の子近くの閼伽棚の上に用意してあったはずで、尼君は中の柱によりかかって座り、経を読みながら、簀の子近くの閼伽棚に手を伸ばし(とても届かないでしょう…)花を取り寄せ、さらに持仏の前の簾を上げ、花を供えることになります。
一度に三つのことを見事に成し遂げる尼君ということになるわけですが、「いとなやましげ」つまりいかにも大儀そうなんですよね?病がちの彼女にできるでしょうか?

さらに、仮に「簾少し上げて」の簾が持仏の前にある簾だとして(そもそも、何も説明されていないのに、なにゆえ持仏の前の簾と限定できるのか謎ですが)、光源氏が尼君の様子を事細かに観察できている以上、外と部屋の中を隔てる簾が上がっていたのは間違いありません。
だからこそ、後文で、兄の僧都に光源氏が北山に来ていることを教えられ、尼君は「『あないみじや。いとあやしきさまを人や見つらむ。』とて簾下ろしつ。」とあるのです。
これはいくらなんでも持仏の前の簾を下ろしたわけではないでしょう。
つまり、源氏が垣間見をしていた間、外と部屋を隔てる簾は巻き上げてあったのです。

源氏は西面にある部屋をのぞいています。
つまり、夕日を背にして、西を向いているはずの尼君を見ています。
尼君が西面の部屋で勤行しているのは、西方浄土の思想によるものだと思いますが、その意味からあえて違う方向を向いてお勤めをしているとはとうてい思えません。
尼君をほぼ正面から見ているからこそ、源氏は尼君の顔つきや目元のあたり、髪の様子などを詳しく観察できるのです。
だとすれば、持仏はどこにあるでしょうか、もちろん源氏と尼君の間、尼君のすぐ前にあるはずです。
そして、もし持仏に簾があるとすれば、どこにあるでしょうか、源氏によく見える位置にあるでしょうか?

このように「簾少し上げて」の簾を持仏の前のものとすると、疑問が生まれてきます。
しかも本文に「持仏の前の簾」などとは一言も書かれていないのです。

次に、では、かりに簾が部屋と外を隔てる簾だとして、誰が上げているのか?
これはわかりません。
というよりも、私には動作のようには思えないのです。
なぜなら、源氏が垣間見を始めた時から、この後の幼女(のちの紫の上)の登場、尼君と幼女とのやりとり、尼君と女房とのやりとり、さらには僧都の登場、そして会話…と、非常に長い時間にわたって、ずっと簾は上がった状態です。(それを最後に下ろしたという記述があることは、先ほど確認しました。)
つまり、源氏が垣間見を始めるタイミングで誰かが簾を上げたのではなく、すでに簾は少し巻き上げてあった。
「簾少し上げて、花奉るめり。」とは、「部屋の簾を少し巻き上げた状態で、花を差し上げる場面のようだ」という意味なのでしょう。

なぜ簾を少し巻き上げなければならなかったか。
それはこの場面に先立って、源氏たちがつづら折りの上から僧坊を見下ろした時、「清げなる童などあまた出で来て、閼伽たてまつり、花折りなどするもあらはに見ゆ。」とあるように、童が庭に出て閼伽水を汲み、花を折る光景が描かれた、それを踏まえたものでしょう。
つまり、仏に供える水や花は、童によって、おそらく閼伽棚に用意されていた。
閼伽棚は主に縁側に設置するものですから、ここでは簀の子に隣接する形であったものと思われます。
そこから花を仏に供えるために部屋に運ぶ動作が行われるはずで、そのために簾は少し巻き上げておく必要があった。
山里であった分、よもや人に見られはすまいという気の緩みがあったのでしょう。

源氏は、誰か、おそらく女房の一人が、閼伽棚から花を仏に供えるために部屋に運び入れ持仏の所に寄せる様子を見たのだと思います。
だからこそ、まずは目にした場面の状況を「簾少し上げて、花奉るめり。」と視覚推定し紹介した上で、次に尼君から順に観察を始め、「きよげなる大人」「童べ」「女子」と目を移していくのです。
「尼なりけり」と述べた後に、わざわざ「いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。」と、繰り返してまた「尼君」という言葉を用いたのは、そのような式部の描き方だったのではないでしょうか。

つまり、簾は持仏の前の簾ではなく部屋と外を隔てる簾、尼君が上げたのではなくすでに上げてあった、花を差し上げたのもおそらく尼君ではない。

日本の古典は専門ではないので、何を馬鹿な…と笑われてしまうようなことを書いているのかもしれませんが、確かめもせず根拠もなしに思いつきで即答するような態度はとっていないつもりです。
学生の先生である教授を批判するわけにもいかないので、いろいろな解釈があるのだろうねとぼかしながら、しかし、一つひとつ疑問を示すことによって、考えることの大切、調べることの大切さ、そして何より本文を深く読み込むことの大切さを、教えたつもりです。
そして、それは自戒にもなりました。

畑違いのことを書きました。

動詞や形容詞の前の「無」「非」は「不」と同じか?

(内容:現在主流の古典中国語文法では、動詞や形容詞の前の「無」や「非」が「不」と同じ働きとされ、日本の漢和辞典にも同様の記載があるが、その妥当性について考察する。)

漢文を中国の古典文法に基づいて理解しようと思い始めたのは、そう昔のことでもないのですが、ひとたびその明快さに触れると楽しくてなりません。
必然的に中国の専門書を読みあさり、いわゆる工具書の類を買い揃え手元に置いて、何か疑問に感じるたびに調べるようになりました。
その初めの頃というのは、専門の語法書や虚詞詞典等に書いてあることが目に新しく、今思えば極めて危険なことですが、いわば鵜呑みにしてしまうということもありました。
考えてみれば、いくら漢文が本来中国のものであっても、だから中国の書物に書かれていることが必ず正しいとは言えないことぐらい理の当然です。
それにもかかわらず一心に信じてしまうほど、漢文を古典中国語文法で理解しようとすることは新鮮だったのです。

拙著『概説 漢文の語法』は、そんな時期の新鮮な驚きに突き動かされるようにして書いたものですから、今改めて読み直すと、気になる部分がないわけではありません。
本当は一から見直して書き直したいのですが、多忙につき時間が捻出できないので、気づき次第訂正していくしかない状態です。

気になることの一つが、「『無』が動詞述語を修飾する時は『不』と同じ働きをする」です。

最近の日本の書籍にも、中国の語法研究を踏まえて、「無」が否定副詞として、動詞述語の前に置かれて行為や状態を否定し、「~しない」という意味を表すと述べているものがあるようです。

『漢語大詞典』にも次のように書かれています。

(8)副詞。表示否定,相當於“不”。
(副詞。否定を表し、“不”に相当する。)

また、『古代汉语虚词词典』(商务印书馆1999)にも、

三、用在动词、形容词谓语前,表示对所述事实的否定。义通“不”。可译为“不”、“没有”等。
(動詞、形容詞述語の前で用いて,述べた事実の否定を表す。意味は“不”に通じる。“不”、“没有”などと訳すことができる。)

と書かれています。

「無」は「なし」だと思い込んでいた身としては、その新鮮さに目を奪われ、「無」が動詞述語の前に置かれた時は、副詞であって「不」と同じく述語を修飾して「~しない」と訳すのだと、授業でも言い、また書きもしました。
実際、拙著『概説 漢文の語法』にも「無」を否定副詞として取りあげ、同様の説明をしました。

しかし、熱病のように信じる一方で、どこか釈然としないものも感じていました。
「無A」(Aは動詞)が「Aしない」という意味なら、「不A」と表現すればよいものを、なぜあえて「無A」と表現するのだろうか。
そういう素朴な疑問です。
表現が異なれば、もつ意味も変わるのが自然です。
それなのに、「無」は否定副詞で「不」と同じだと断じてしまうことは、大体の意味において同じことを表していたとしても、細かい差異を無視することになりはしないか。

そんなふうに内心疑問を感じていた時に読んだのが、張文国/張文強の「论先秦汉语的“有(无)+VP”结构」(先秦漢語の「有(無)+VP」構造)という論文でした。
この論文については、「水は『東西に分かれることがない』のか、『分かれない』のか」のエントリーでも引用紹介したことがありますが、その中で、論語の「志士仁人,無求生以害仁,有殺身以成仁。」について、馬建忠が『馬氏文通』で「『無』字は『不』字と解するのが常である。」と述べたことに対する反論が見られます。
再引用します。

有无句“在形式上虽是叙述句,在意义上却有些是带有描写性的”。这句话就是从正反两个角度描写“志士仁人”所具有的品质的,意思是说在“志士仁人”那里,没有“杀生以害仁”这样的事儿,有“杀身以成仁”的事儿,至于《马氏文通》的解释,“志士仁人决不求生以害仁,惟有杀身以成仁而已”,则不是描述称颂“志士仁人”,而是叙述“志士仁人”的决心,显然与该句本来的意思大相径庭。
(有無句は、「形式上は叙述句であるが、意味上は描写的な性質を帯びている」。この文は正反対の二つの角度から「志士仁人」がもつ品性を描写しているが、意図は「志士仁人」の句において、「求生以害仁」のようなことはなく、「殺身以成仁」ということがあることを述べることにあり、『馬氏文通』の「志士仁人決不求生以害仁、惟有殺身以成仁而已。(志士仁人は決して生を求めて仁を害せず、ただ身を殺して仁をなすことがあるばかりだ。)」という解釈に至っては、「志士仁人」を称賛することを述べたのではなく、「志士仁人」の決意を述べたことになり、明確にこの句の本来の意味と大きな隔たりがある。)

この論文にそう書かれているからそうだと、またしても鵜呑みにするのではありません。
得心もせずに中国の語法書や辞書の記述を信じ込むことの危険性に気づかされたのです。

その後、多くの用例に接し、さまざまな論文に触れていくうちに、動詞や形容詞の前に置かれる「無」は「不」とはみなさず、存在しないことを客観的に描写する働きと切り分ける方が適切だと思うに至りました。
その意味では、「無A」を「Aする(こと)無し」と訓読して、「Aすることはない」と訳す従来の方式の方がむしろ適切です。
この「無」を否定副詞と取り扱うか、「有」の対義である動詞とみなすか。
中国の語法書が副詞とするのは、動詞や形容詞述語を前置修飾すると考えているからですが、それは「無」を「不」と同じ働きの語とする結果でしょう。
「Aしない」も「Aすることがない」も現象的には同じことを指しますから、それはそれでよいのかもしれませんし、実際中国では副詞とみなされています。
ですが、私的には「不」と同じとする否定副詞「無」の用例の多くが、実は依然として存在しないことを客観的に描写する動詞であって、Aはその賓語であるように思えます。

「無」を「不」と同義とする考え方に危険性を感じ始めると、似たようなことは他にもあります。

否定副詞「非」についても、動詞や形容詞の前に置かれた時には「不」と同義だと説かれることがあるようです。
しかし、果たして本当にそうでしょうか?

「非」は打消の副詞、すなわち否定副詞とされます。
しかし、一方で判断を打ち消す動詞とする説もあります。
「A為B」(AハBたリ)は、「AはBである」という意味の判断文ですが、「為」はいわばbe動詞、判断を表す動詞です。
その対にあたるのが「非」と考えれば、否定的判断を表す動詞とみなすことになります。
否定副詞とみなすか、否定的判断を表す動詞とみなすかは、品詞に対する解釈の違いになりますが、働き自体は変わりません。

本来、「非」は「~ではない」という否定的判断を表す語、それを用いて「非A」(Aスルニあらズ)という形で動詞Aを否定する働きが、本当に「不」と同じなのでしょうか。

臣非知君、知君乃蘇君。(史記・張儀列伝)

たとえばこの例は「臣不知君」に同じで「私は君を理解しない、君を理解するのは蘇秦殿である。」という意味でしょうか?
「臣不知君」であれば、「知らない」という話者の主観的な思いを述べたものですが、「臣非知君」は、自分が「君を知る」ということについての否定的判断を示したものです、そういう存在ではないと。
だから、その後に「君を知るのはまさに蘇秦殿である」という表現が成立するのだと思います。

すべての例がそのように説明がつくとはもちろん思いませんが、私の言いたいことは、「無」や「非」が簡単に「不」と同じ働きと断じてしまうことは、とても危険な考え方だということです。

その意味で、『概説 漢文の語法』は、まだまだ見直しを図らなければなりません。
あちこちにまだまだ怪しいところがある、道は遠いと思わずにはいられません。

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