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2020年10月の記事は以下のとおりです。

「所」について・2

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その2。)

前エントリーで、「無所請事」の意味と読みについて考えを巡らしましたが、一応解決がついたように思えて、また漠然といくつかの用例を眺めていました。
そんな時、ふと一つの用例が目にとまりました。

・欲以所事孔子事之。(孟子・滕文公上)
(▼孔子に事(つか)ふる所を以て之に事へんと欲す。)

「孔子につかえた態度でこれ(=有若)につかえようとした。」という意味でしょうか。

この「事」(つかフ)は、依拠性の賓語として「孔子」を伴っています。
仕えるという意味では他動性の賓語はとらない動詞だと思います。
だとすれば、この「所」は一体どんな働きをしているのでしょうか?

文意から逆に想像すると、「所事孔子」は、「ソレで孔子に仕えるソレ」に相当するはずです。
ここでわからなくなりました。
「ソレで孔子に仕えるソレ」だとすれば、「事」という動詞が依拠性の賓語「孔子」以外に、別の賓語を取り得ることになるのですが、そんな表現があるでしょうか。

まず頭の中に並んだのは、たとえば「事父母[ソレで]」です。
これは検索のしようがないので、依拠性を明確にする「於」を伴う「事父母於[ソレ]」の形式で調べてみましたが、一例もヒットしません。
探せばあるかもしれませんが、「事」だけで検索すれば12万以上の例があるわけで、その大半が「仕える」以外の意味でしょうから、気持ちが萎えてしまいます。

困り果ててしまって、つらつら考えるに、「事父三年」とか「事父母謹孝」といった例はあるけれども、「事父母[ソレで]」などという表現は記憶にありません。
「事父母謹孝」にしたところで、父母に仕えることが「謹孝」なのであって、「謹孝」で父母に仕えたわけではありません。

「~というやり方で」という意味を表すなら、依拠性の賓語ではなくて、「以」を用いるのが普通だろう、たとえば「事父以孝」とか「以孝事父」のように… そう思った瞬間、はっと気づきました。
「欲以所事孔子事之」の「以所事孔子」は「以所以事孔子」の意味で用いられているのではないでしょうか。
これなら「ソレで孔子に仕えるソレで」という意味を表し得ます。
そこで「以所以」で検索をかけてみると、次の例がヒットしました。

・不以所以養害所養。(呂氏春秋・開春論)
(▼養ふ所以を以て養ふ所を害せず。 ▽民を養うためのもの(=領土)で養うもの(=民)を損わない。)

この例は、「所」の働きに忠実に説明すれば、「ソレで(民を)養うソレで」という意味になります。

問題は、「所」単体で「所以」の意味を表し得るか?ということです。
それなら何かに書いてあったと思い、西田太一郎氏の『漢文法要説』を開いてみると、「所だけで所以の意味を有する例を示す」の箇所に、なんと「欲以所事孔子事之」の例が引用されているではありませんか。
他にも例が挙がっているので、いくつか取り上げてみましょう。

・人之所乗船者、為其能浮而不能沈也。(呂氏春秋・愼行論)
(▼人の船に乗る所の者は、其の能く浮びて沈む能はざるが為なり。 ▽人が船に乗るわけは、それが浮ぶことができて沈むことがありえないからである。)

・所悪於智者、為其鑿也。(孟子・離婁下)
(▼智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり。 ▽智識を悪むわけは、余り穿鑿するからである。)

・所悪執一者、為其賊道也。(孟子・尽心上)
(▼一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり。 ▽一つのことを固執するのをにくむわけは、それが正しい道をそこなうからである。)

・以有若似聖人、欲以所事夫子事之。(孟子・滕文公上)
(▼有若聖人に似たるを以て、夫子に事ふる所を以て之に事へんと欲す。 ▽有若が聖人に似ているので、先生に事えた態度でこれに事えようと思った。)
 ※『漢文法要説』は「所事孔子」を「所事夫子」に作る。

読みと訳は西田氏のものです。
これらの例の「所」が「所以」の意味で用いられているのは明らかです。
期せずして、私の理解のしかたと一致したようです。
こういう「所」をどのように考えればよいのかわかりませんが、「所」自体が「以」の意味を含んでいると考えるのが妥当でしょうか。

「所」について・1

(内容:結構助詞とされる「所」の用法について考察する、その1。)

前エントリーで、「所」という字の働きについて触れましたが、これを生徒にどのように説明すればいいかな?と考えあぐねている昨今です。
「所A」(Aする所)で、「所」は動詞Aの客体を表して、Aが他動詞なら「ソレをAするソレそのもの」、自動詞なら「ソコにAするソコそのもの」の意味になるわけですから、「『所』は後の動詞の不定の客体を表す名詞句をつくる」とすればいいのかも知れませんが、今ひとつわかりにくい表現のように思えてしまいます。
その点、「所A」で、「Aすること・もの」という名詞句を作ると言ってしまう方がわかりやすい気がします。
そんなことを考えながら『史記』を読んでいたのですが、あれ?と思う一節にぶつかりました。

高帝新弃群臣、帝富於春秋。君為相、日飲、無所請事。何以憂天下乎。
(▼高帝新たに群臣を弃て、帝春秋に富めり。君相と為り、日に飲み、事を請ふ所無し。何を以て天下を憂へんや。
 ▽高祖が亡くなったばかりで、(跡継ぎの)皇帝はまだ年齢が若い。父君は丞相であるのに、毎日酒を飲み、[無所請事]。(そんなことで)どうして天下を憂えているなどと言えるでしょうか。)


「曹相国世家」です。
前漢の2代皇帝である恵帝は高祖亡き後、若くして皇帝となりましたが、丞相の曹参が政務を執らないことを不審に思い、曹参の息子の窋(ちゅつ)が近侍であったので、彼に息子の言葉として言ってほしいと依頼した言葉になります。

読んでいた本では、この「無所請事」が「事を請ふ所無し」と読まれていたのがひっかかりました。
「所」にこんな用法があっただろうか?と不審に思ったわけです。

気になったので、明治書院の『新釈漢文大系・史記』を見てみました。
すると、やはり読みは同じで、次のように訳されています。

日ごと酒を飲んでおられ、政事を奏上し、裁可を請うところがありません。

「裁可を請うところ」とは「裁可を請うこと」と理解していいでしょうか。

「請事」を『漢語大詞典』で調べてみると、

猶請示,述職。
(「請示」、「述職」と同じ。)

とあります。
「請示」は「上司に報告して処理についての指示を仰ぐ」、「述職」は「職務上の報告をする」という意味ですから、『新釈漢文大系』の訳の「裁可を請う」とはこれでよろしいですか?と決裁を求めるという意味でしょう。
つまり、恵帝は丞相の曹参が自分に事案の決裁を求めてこないことから、自分を若いと侮っているのでは?と邪推したわけです。

『史記』の文が、おおよそこのようなことを述べているというのは間違いありません。
ただ私が引っかかったのは、「無所請事」が「事を請ふ所無し」と読まれ、「政事を奏上し、裁可を請うところがありません」と訳されていることでした。
「所」にこんな用法があるでしょうか?

「所」は不定の客体を表すわけですから、「所請」なら、「ソレを請うソレそのもの」を表します。
それなのに「請」が別に「事」を賓語にとれば、意味をなさない文になるはずです。

たとえば、「無所請事」を「無所食桃」と比較すれば、一目瞭然です。
「無所食桃」は「食らふ所の桃無し」で「食べる桃がない」という意味です。
「所食」は「ソレを食べるソレそのもの」ですから、「食べるもの」です。
それが「桃」を修飾して「食べるものである桃」から「食べる桃」という意味になります。
これを「桃を食らふ所無し」と読んで、「桃を食べることがない」と訳したとしたら、これはもういくらなんでもおかしいでしょう。
「桃を食べることがない」なら、「無食桃」(桃を食らふこと無し)であるはずで、「所」の字など入れようがありません。
同様に、「政事を奏上し裁可を請うことがない」なら、「無請事」(事を請ふこと無し)でなければなりません。

ここで一瞬頭をかすめたのは、動詞「請」の依拠性です。
「請事」は、確かに客体として「事」をとっているけれども、誰に請うのかという依拠性はあり、それを「所」が表しているのでは?と思ったのです。

仲子所欲報仇者為誰。(史記・刺客列伝)
(▼仲子の仇を報いんと欲する所の者は誰と為す。 ▽仲子殿が仇を報いたいと思っておられる人は誰ですか。)

「所」が後に「謂語動詞+賓語」をとることもある例になります。
「所欲報仇」は、「ソレに仇を報いようとするソレそのもの」の意で、この「所」は「欲報」の依拠性に対してその客体を「所」が表しているわけで、他動性の賓語「仇」が「報」の後に伴っていても、何ら問題はありません。
一瞬、それか?と思ったわけですが…

しかし、それはあり得ません。
もし「無所請事」の「所」が「請」の依拠性に対する客語を表すなら、「ソレに事を請ふソレそのもの」となり、「事を請う相手がいない」という意味になってしまいます。
「事を請う相手」とは恵帝自身になってしまうではありませんか。

そうしてみると、この「無所請事」は、「請ふ所の事無し」と読んで、「(私に)決裁を求めた事案がない」という意味にならざるを得ません。

細かいことを述べたのかもしれません。
しかし、「所」の用法をつきつめていけば、「事を請ふ所無し」などと読めるはずも、「政事を奏上し、裁可を請うところがありません」とか訳せるはずもないのです。

そして、ハッと気づきました。
「所A」で、「Aすること・もの」という名詞句を作るという説明は、合理的でわかりやすいように見えても、たとえば「謂語A+賓語B」の「所AB」(BをAする所)を、「BをAすること」と訳して、問題を感じない説明になっているということに。

わかりやすく説明するというのは、難しいものですね。

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