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カテゴリー「漢文学習」の検索結果は以下のとおりです。

画竜点睛

(内容:「画竜点睛」に見られる兼語文について述べるとともに、原文の解釈をする。)

「画竜点睛」の故事は、教科書などにもよく採られるエピソードです。
先日、こんなことを質問して来た人がありました。

「武帝崇飾仏寺、多命僧繇画之。」の「之」の指示内容は何ですか?
「僧繇に命じて彼に描かせた」と訳されて、「之」が僧繇を指すと授業で教わったんですが、違うんじゃないかと思うんです。
だってこの文は兼語式の文ですよね?

この人の指摘は正鵠を射ていて、実に驚きました。
なるほど「多く僧繇に命じて之に画(ゑが)かしむ」という訓読だけを見れば、「彼(=僧繇)に描かせた」とも解釈できるのですが、指摘通りこの文は兼語式の文ですから、漢文の構造的には「之」が僧繇ではなく、仏寺を指すことは明らかです。

つまりこういうことです。

 (武帝)命僧繇。  (武帝)僧繇に命ず。→(主語)+述語(命)+賓語(僧繇)
      僧繇画之。僧繇之に画く。   →主語(僧繇)+述語(画)+賓語(之)

前の文の賓語「僧繇」が次の文の主語になり、賓語と主語を兼ねるので兼語といい、この2つの文が1つになったのが原文です。
このような文のことを兼語式の文(兼語文)といい、いわゆる使役の形はこの構造をとります。
後の文「僧繇画之」を見れば、僧繇が僧繇に描くことなどあり得ないのですから、「之」が僧繇を指すと授業で取り扱われたことが、構造的に誤りであることは明白です。

漢文を語法的に理解するということの大切さと、疑問を抱いた人がそれをきちんと身につけていることへの驚きに、しばらく言葉もありませんでした。
語法を理解せずに「日本語」感覚で漢文を取り扱うことの危険性がここにあります。


さて、これがきっかけで、この画竜点睛のお話が、原典ではどのように書かれているのか興味をもちました。
そこで原典の『歴代名画記』のちょっとあたってみたところ、なかなかおもしろいお話でしたので、下記引用します。
ご参考までに。

【原文】
張僧繇、呉中人也。天監中、為武陵王国侍郎、直秘閣。知画事、歴右軍将軍・呉興太守。
武帝崇飾仏寺、多命僧繇画之。時諸王在外、武帝思之、遣僧繇乗伝写貌。対之如面也。
江陵天皇寺、明帝置、内有栢堂、僧繇画盧舍那仏像及仲尼十哲。帝怪問、「釈門内、如何画孔聖。」僧繇曰、「後当頼此耳。」及後周滅仏法、焚天下寺塔、独以此殿有宣尼像、乃不令毀拆。
又、金陵安楽寺四白龍不点眼睛。毎云、「点睛、即飛去。」人以為妄誕、固請点之。須臾、雷電破壁、両龍乗雲、騰去上天。二龍未点眼者見在。
初、呉曹不興図青谿龍、僧繇見而鄙之、乃広其像於武帝龍泉亭、其画草留在秘閣。時未之重。至太清中、雷震龍泉亭、遂失其壁、方知神妙。
又、画天竺二胡僧、因侯景乱、散坼為二。後一僧為唐右常侍陸堅所宝。堅疾篤、夢一胡僧告云、「我有同侶離坼多時、今在洛陽李家。若求合之、当以法力助君。」陸以銭帛果於其処購得。疾乃愈。劉長卿為記述其事。張画所有霊感、不可具記。(以下略)

【書き下し文】
張僧繇は、呉中の人なり。天監中、武陵王国の侍郎と為り、秘閣に直(あ)たる。画事を知り、右軍将軍・呉興太守を歴たり。
武帝仏寺を崇飾し、多く僧繇に命じて之に画かしむ。時に諸王外に在り、武帝之を思ひ、僧繇を遣はし伝に乗り貌を写さしむ。之に対ふに面するがごときなり。
江陵の天皇寺は、明帝置くに、内に栢堂有り、僧繇盧舍那仏像及び仲尼十哲を画く。帝怪しみ問ふ、「釈門の内に、如何ぞ孔聖を画く。」と。僧繇曰はく、「後に当に此に頼らんのみ。」と。後周仏法を滅ぼし、天下の寺塔を焚くに及び、独り此の殿に宣尼の像有るを以て、乃ち毀拆せしめず。
又た、金陵の安楽寺の四白龍は眼睛を点ぜず。毎に云ふ、「睛を点ぜば、即ち飛去せん。」と。人以て妄誕と為し、固く之に点ぜんことを請ふ。須臾にして、雷電壁を破り、両龍雲に乗じ、上天に騰去せり。二龍の未だ眼を点ぜざる者は見に在り。
初め、呉の曹不興青谿龍を図くに、僧繇見て之を鄙しみ、乃ち其の像を武帝の龍泉亭に広げ、其の画草は秘閣に留む。時に未だ之を重んぜず。太清中に至り、雷龍泉亭を震はし、遂に其の壁を失ひ、方に神妙なるを知る。
又た、天竺の二胡僧を画くに、侯景の乱に因り、散坼して二と為る。後に一僧は唐の右常侍陸堅の宝とする所と為る。堅疾篤きとき、一胡僧を夢み、告げて云ふ、「我に同侶の離坼すること多時なる有り、今洛陽の李の家に在り。若し求めて之を合せば、当に法力を以て君を助くべし。」と。陸銭帛を以てし果たして其の処に於て購ひ得たり。疾乃ち癒ゆ。劉長卿為に其の事を記述す。張の画の有する所の霊感は、具に記すべからず。(以下略)

【口語訳】
張僧繇〔南北朝時代、南朝梁の人〕は、呉中〔現在の江蘇省蘇州市〕の人である。天監年間〔西暦502年 - 519年〕、武陵王〔梁の初代皇帝武帝の第八男〕国の侍郎〔官名。秘書官のようなもの〕となり、秘閣〔宮中の書庫〕に勤務した。絵画のことをつかさどり、右軍将軍〔天子の三軍のうち右の将軍〕・呉興の長官を歴任した。
武帝〔南朝梁の初代皇帝〕は仏寺を崇拝して美しく飾ったが、多く僧繇に命じてこの寺々に絵を描かせた。この当時、武帝の諸王〔王子たち〕は地方を治めており、武帝は彼らのことを思い、僧繇を派遣して駅伝の馬車に乗って(諸王のもとへ行かせ諸王の)顔を写生させた。(武帝が)この肖像画に向かうとあたかも直接対面しているかのようであった。
江陵〔現在の湖北省南部〕の天皇寺は明帝〔前王朝斉の第五代皇帝〕が創建したが、その中に栢堂がある。僧繇は(その壁に)盧舎那仏〔毘盧遮那仏の略〕の像、孔子とその十哲(の絵)を描いた。武帝が不思議に思い、「仏教の寺の中に、どうして孔子の絵を描くのか。」と尋ねると、僧繇は「いずれこの絵に頼ることになるでございましょう。」と言った。後周〔南北朝時代北周のこと。ここでは第三代武帝の時。道教と仏教を禁じた〕が仏法を滅ぼし、天下の寺塔を焼き払った時に、ただこの仏殿に孔子の像があったがために、(北周武帝は)取り壊させなかった。
また、金陵〔現在の南京の古称〕の安楽寺の四白龍(の絵)は、ひとみを描き入れなかった。(僧繇は)常々、「ひとみを描き入れれば、すぐに飛び去ってしまうだろう。」と言っていた。人々はそれをでたらめだとして、強くひとみを描き入れるよう求めた。(僧繇が白龍の二つにひとみを描き入れると、)しばらくして雷電〔かみなりと稲妻〕が壁を壊し、二体の龍は雲に乗って大空へ躍り上がった。二体のまだひとみを描き入れないものは、今も(安楽寺に)ある。
その昔、呉の曹不興〔三国時代呉の人。画人として知られる〕が青谿龍を描いたが、僧繇は見てそれを見下し、そこでその龍の姿を武帝の龍泉亭に拡大し(て描き)、その画稿は秘閣〔宮中の書庫〕に留め置いた。時の人々はまだこの絵を重く見なかった。太清年間になり、雷が(落ちて)龍泉亭を震わせたことで、その壁を失うことになり、やっと(僧繇の青谿龍の)人知を越える不思議な力を知ることになった。
また、インドの二人の僧侶を描いたが、侯景の乱〔西暦548年,南朝梁の武帝の治世において、南予州刺史の侯景がおこした反乱〕により砕き裂かれて二つとなった。後に一断片の僧侶は唐の右常侍〔天子の側近〕である陸堅に宝蔵された。陸堅は病気が重篤であった時、(その病床で)一人のインド僧の夢を見たが、(この僧が夢の中で、)「私には共にする僧侶がいたが、長い間離ればなれになっており、(彼は)今、洛陽の李の家におります。もし探し出して(元の通り)合していただければ、きっと法力によりあなたをお助けしましょう。」と言った。陸堅は金銭絹織物により本当にそこで〔=インド僧が夢で告げた場所で〕買い取ることができた。病気はそこではじめて癒えた。(後にこの絵の所有者となった)劉長卿がそのことを記述している。張僧繇の絵がもつ霊感は詳しく書くことができない。


いかがだったでしょう?おもしろいお話ですよね。

今年のセンター入試から (盧文弨『抱経堂文集』)

(内容:2016年度センター試験の漢文問題、盧文弨の『抱経堂文集』の該当箇所について、前後を補って解釈する。)

さきごろセンター入試がありましたが、その漢文の問題を見ました。なかなかおもしろい文章です。
盧文弨の『抱経堂文集』が出典ということなので、原典にあたり、前後カットされた部分を補って読んでみました。
大学入試センターの読み方とは異なる部分もありますし、前後の省略部分については私なりの読みなので、誤りもあるかもしれません。
誤りはご教示いただければ幸いです。

【原文】
「張荷宇夢母図記」

 始余未識荷宇。時有客持一巻文示余。即荷宇自叙其夢母事。其言悲悄乎。不忍卒読也。異日有介友人来余門受業者。識其姓名、即曩之夢母者也。因又見所為図焉。時当世公卿大夫下至韋布之士、工於言者、咸嘉其至性冥感、相与詠歌其事。荷宇悉取、而綴図之後。余亦五歳失母、此情人所同也。感荷宇之事、而因為記之。
(↓ここからセンター試験出題範囲)
 荷宇生十月而喪其母。及有知、即時時念母不置。弥久弥篤。哀其身不能一日事乎母也。哀母之言語動作亦未能識也。
 荷宇香河人、嘗南遊而反、至乎銭唐、夢母来前。夢中即知其為母也。既覚、乃噭然以哭曰、「此真吾母也。母胡為乎使我至今日乃得見也。母又何去之速也。母其可使我継此而得見也。」於是即夢所見為之図。此図、吾不之見也。今之図、吾見之、則其夢母之境而已。
 余因語之曰、「夫人精誠所感無幽明死生之隔。此理之可信、不誣者。況子之於親、其喘息呼吸相通、本無有間之者乎。
(↑ここまでセンター試験出題範囲)人死則形亡、形亡則気散。而有不散者、在其精神。即附麗於其子孫之身。故先王為之立廟以聚之、祭祀以事之。笑語嗜好以思之、於此於彼以求之。又非但此也。一出言而不敢忘。一跬歩而不敢忘。故孝子之事父母、終其身。非徒終父母之身也。今子之母、不幸蚤歿。然子在、固不可謂亡焉。夫自香河以至銭唐三千里而遥。子之母、生時固未嘗至其地也。而胡為於此而夢。於此而夢者、子之所至、親亦至焉。然則子之身、親之身也。子求所以不死、其母者其必有在矣。」

【書き下し文】
「張荷宇母を夢みるの図の記」

 始め余未だ荷宇を識(し)らず。時に客の一巻の文を持ちて余に示す有り。即ち荷宇自ら其の母を夢みるの事を叙す。其の言悲悄なるかな。読むを卒(を)ふるに忍びざるなり。異日友人を介して余の門に来たり業を受くるを請ふ者有り。其の姓名を識るに、即ち曩(さき)の母を夢みる者なり。因りて又た為(つく)る所の図を見る。当世の公卿大夫より下りて韋布の士に至るまで、言に工(たく)みなる者は、咸(みな)其の至性の冥感するを嘉(よみ)し、相与(とも)に其の事を詠歌す。荷宇悉(ことごと)く取りて、図の後に綴る。余も亦た五歳にして母を失ふ、此の情は人の同じくする所なり。荷宇の事に感じて、因りて為(ため)に之を記す。
 荷宇は生まれて十月にして其の母を喪(うしな)ふ。知有るに及び、即ち時時母を念(おも)ひて置かず。弥(いよいよ)久しく弥篤し。其の身の一日として母に事(つか)ふること能はざるを哀しむなり。母の言語動作も亦た未だ識ること能はざるを哀しむなり。
 荷宇は香河の人なり、嘗て南遊して反(かへ)り、銭唐に至り、母の来前するを夢みる。夢中に即ち其の母たるを知るなり。既に覚め、乃ち噭(けう)然として以て哭して曰はく、「此れ真に吾が母なり。母胡為(なんす)れぞ(注1)我をして今日に至りて乃ち見(まみ)ゆるを得しむるや。母又た何ぞ我を去ることの速かなるや。母其れ我をして此に継ぎて見ゆるを得しむべきや。」と。是(ここ)に於て即ち夢の見る所は之を図と為す(注2)。此の図は、吾之を見ざるなり。今の図は、吾之を見れば、則ち其の母を夢みるの境のみ。
 余因りて之に語りて曰はく、「夫れ人の精誠の感ずる所に幽明死生の隔て無し。此の理の信ずべきは、誣(し)ひざる者なり(注3)。況んや子の親に於ける、其の喘息呼吸相通じ、本より之を間つる者有る無きをや。人は死すれば則ち形亡び、形亡べば則ち気散ず。而るに散ぜざる者有るは、其の精神に在り。即ち其の子孫の身に附麗す。故に先王之が為に廟を立てて以て之を聚め、祭祀して以て之に事ふ。笑語嗜好して以て之を思ひ、此に於て彼に於て以て之を求む。又た但(た)だに此のみに非ざるなり。一たび言を出だしては敢へて忘れず、一たび跬(き)歩しては敢へて忘れず。故に孝子の父母に事ふるは、其の身を終ふるまです。徒(た)だに父母の身を終ふるまでするに非ざるなり。今、子の母は不幸にして蚤(つと)に歿す。然れども子は在れば、固(もと)より亡ぶと謂ふべからず。夫れ香河より以て銭唐に至ること三千里にして遥かなり。子の母は、生時固より未だ嘗て其の地に至らざるなり。而るに胡為れぞ此に於てか夢みる。此に於て夢みるは、子の至る所、親も亦た至ればなり。然らば則ち子の身は親の身なり。子死せざる所以(ゆゑん)を求むれば、其の母なる者も其れ必ず在る有らん。」と。

(注1)「母、胡為乎~」
 センター試験では「母よ、~」と呼びかけに解して読んでいますが、これは普通に施事主語として読めばよいと思います。

(注2)「即夢所見為之図。」
 センター試験では「夢に見る所に即して之が図を為る。」と読んでいます。この読みの方があるいは語法的に正しいかもしれません。「即」には介詞(前置詞)として時間(~に)・場所(~で)・よりどころ(~に基づき・~に照らして)という意味を表す介詞句(前置詞句)をつくり、述語を連用修飾することがあるからです。ここでは即時を表す副詞として読めないかと考えて読んでみました。

(注3)「此理之可信、不誣者。」
 センター試験では「此れ理の信ずべく誣ひざる者なり。」と読んでいます。あるいはそれで正しいかもしれません。しかし、構造助詞「之」「者」の位置づけがいかにも不審です。ここでは「此理可信」(此の理信ずべし。)が主語になるにあたり、「之」が主語「此理」と述語「可信」の間に置かれて主述関係を取り消し、名詞句になる用法で、それにより述語「不誣者」に対して主語という成分になりやすくなっているのではと考えました。ただし、自信があるわけではありません。

【口語訳】
「張荷宇の母を夢に見る絵の記」

 初め私は荷宇のことを知らなかった。ある時、一巻の書を私に示した人がいた。そこには荷宇が自ら母を夢で見たことが述べてあった。そのことばのなんとも悲痛であることよ。(あまりの悲痛さに私は)すべてを読み通すことができなかった。別の日、友人を通じてわが門に教えを受けに来たものがいたが、そのものの姓名を見ると、以前母を夢に見た人物であった。そこでさらに彼の描いた絵を見せてもらった。今の世の公卿大夫から以下一般庶民に至るまで、詩文に巧みな者は、みな優れた精神が神霊に通じることを善しとして、そのことを詩歌に詠み合っている。荷宇はそれらを取り集めて、すべて絵の後に書き綴っていた。私も五歳で母を失ったが、(親を思う)この思いはだれもが同じである。荷宇のことに感じ入ったので、彼のためにこれを書く。
 荷宇は生まれて十ヶ月でその母に先立たれた。物心がつくとすぐいつも母を思ってやまず、その思いは時とともに募っていった。自分がほんの一日たりとも母に仕えられなかったことを悲しみ、母のことばや物腰を知ることができないことを悲しんでいた。
 荷宇は香河の人である。かつて南に旅して、帰りに銭唐に立ち寄ったことがあり、その地で母が目の前に現れる夢を見た。夢の中ですぐにそれが母であることがわかった。目覚めてから声をあげて泣いて言うには、「これはまことに私のお母様だ。お母様はなぜ私に今日になってお会いくださったのでしょう。お母様はまたなんとこのように早く私のもとを去っていかれたのでしょう。お母様はこの後もまた私にお会いいただけるでしょうか。」と。そこですぐに夢で見た姿は、それを絵にかきとめた。(彼がその時に描いた)この絵は私は見ていない。今の絵は見たが、彼が母を夢に見た様子(が描かれたもの)であった。私はそこで彼に語った。
 「そもそも人のまごころが感ぜしめるものは、あの世とこの世、生きる死ぬの隔てなどはありません。この道理が信じてよいのは、いつわりのないことです。ましてや子の親に対する思いは、その息づかいまでが通じ合い、本来それを隔てるものなどありはしません。人は死ねば形が滅び、形が滅べば気は失われてしまいます。でも(気が)失われないことがあるとすれば、その精神(のもちよう)にあるのです。つまり(失われぬ親の気は)その子孫の身に宿ります。ですから、昔の王はそのために廟を立ててそれを集め、霊をまつってお仕えしたのです。(子は)笑い喜んでは亡くなった親を思い、ここでかしこで親を求めるのです。さらにそれだけではありません。ひとたび言葉を発しては親を忘れようとせず、一足踏み出しては忘れようとしない。だから孝子の父母にお仕えするのは、一生涯のことなのです。ただ父母がお亡くなりになるまでだけではありません。今、あなたの母上は不幸にして早くに亡くなりましたが、あなた自身は生きているのですから、(母上の気は)もとより滅びたとはいえません。そもそも香河から銭唐までは三千里と遥かな道のりです。あなたの母上はご存命中その地に行かれたことはないはずです。それなのに(あなたは)どうしてそこで(母上の)夢を見たのでしょうか。そこで夢を見たのは、あなたの行くところには、親もいらっしゃるからなのです。だとすれば、あなたの身は、ほかならぬ親の身でもあります。あなたが(母上は)亡くなっていないというよりどころを求めれば、あなたの母上もきっといらっしゃるでしょう。」と。

いかがでしょうか?

最近買った本

(内容:最近購入した書籍を紹介。)

仕事の合間を利用して、ひたすら『概説 漢文の語法』を書き続けている毎日ですが、どんどん欲しい本が増えてきます。
漢字とにらめっこをしていると、その漢字のもともとの意味は一体何だったのだろう…、それがどうしてこのような意味になるのだろう… いわゆる引伸義への興味ですが、最近は日本の昔の学者たちが、どうしてこの形をこう読んだのだろう…という興味もかなり強くなってきました。

そこで買ったのが、『字源』と『漢語文典叢書』です。
どちらもとてもそう簡単には読破できるしろものではなく、必要に応じてこの書にあたっていく、そういう利用の仕方がメインになりますが、パラパラめくっているだけでも楽しい。
李学勤主編の『字源』は、最近の漢字研究が反映されていて、大変参考になります。加藤・藤堂・白川の大先生が大先生すぎて、止まってしまっている日本の漢字研究の情勢から見れば、本当に助かる書です。

汲古書院が昭和54年から56年にかけて出版した『漢語文典叢書』は、江戸時代の儒学者、漢学者たちの渾身の漢文研究の数々を影印刊行したすごい叢書です。
最近、受験漢文の参考書で、英語文法で漢文を読み解き、日本の古人の訓読をケチョンケチョンにいう本が売り出されたけれども、日本の古人の漢文に対する研究姿勢はもう頭が下がるほどに精力的で、またその内容も我々が遠く及ばぬほど精緻を極めたものです。私もそう頻繁に読むわけではないけれども、荻生徂徠や伊藤東涯を始めとする我々の大先輩たちの研究にはお世話になることがあります。
そしていつも思うのです。奇をてらう必要などない、誠実に研究を続けたい。
そうすれば、いつも謙虚でいられます。
知らないことが山のようにあり、知ろうとすれば知ろうとするほどに、どんどんわからないことが生まれてきます。
そういう時、中国や日本の、数々の研究者たち、昔も今も、多くの学者研究者たちが味方になって、自分を助けてくれます。

というわけで、本棚にはまた本が増えて、もうあとはどこに置けばいいのやら…

漢文学習/お勧めの参考書

(内容:漢文学習を行う上で、お勧めの参考書を紹介する。)

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漢文学習/お勧めの辞書

(内容:漢文学習を行う上で、お勧めの辞書を紹介する。)

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こちらをご参照ください。(2023/12/22)

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