今年のセンター入試から (盧文弨『抱経堂文集』)
- 2016/01/22 17:08
- カテゴリー:漢文学習
(内容:2016年度センター試験の漢文問題、盧文弨の『抱経堂文集』の該当箇所について、前後を補って解釈する。)
さきごろセンター入試がありましたが、その漢文の問題を見ました。なかなかおもしろい文章です。
盧文弨の『抱経堂文集』が出典ということなので、原典にあたり、前後カットされた部分を補って読んでみました。
大学入試センターの読み方とは異なる部分もありますし、前後の省略部分については私なりの読みなので、誤りもあるかもしれません。
誤りはご教示いただければ幸いです。
【原文】
「張荷宇夢母図記」
始余未識荷宇。時有客持一巻文示余。即荷宇自叙其夢母事。其言悲悄乎。不忍卒読也。異日有介友人来余門受業者。識其姓名、即曩之夢母者也。因又見所為図焉。時当世公卿大夫下至韋布之士、工於言者、咸嘉其至性冥感、相与詠歌其事。荷宇悉取、而綴図之後。余亦五歳失母、此情人所同也。感荷宇之事、而因為記之。
(↓ここからセンター試験出題範囲)
荷宇生十月而喪其母。及有知、即時時念母不置。弥久弥篤。哀其身不能一日事乎母也。哀母之言語動作亦未能識也。
荷宇香河人、嘗南遊而反、至乎銭唐、夢母来前。夢中即知其為母也。既覚、乃噭然以哭曰、「此真吾母也。母胡為乎使我至今日乃得見也。母又何去之速也。母其可使我継此而得見也。」於是即夢所見為之図。此図、吾不之見也。今之図、吾見之、則其夢母之境而已。
余因語之曰、「夫人精誠所感無幽明死生之隔。此理之可信、不誣者。況子之於親、其喘息呼吸相通、本無有間之者乎。
(↑ここまでセンター試験出題範囲)人死則形亡、形亡則気散。而有不散者、在其精神。即附麗於其子孫之身。故先王為之立廟以聚之、祭祀以事之。笑語嗜好以思之、於此於彼以求之。又非但此也。一出言而不敢忘。一跬歩而不敢忘。故孝子之事父母、終其身。非徒終父母之身也。今子之母、不幸蚤歿。然子在、固不可謂亡焉。夫自香河以至銭唐三千里而遥。子之母、生時固未嘗至其地也。而胡為於此而夢。於此而夢者、子之所至、親亦至焉。然則子之身、親之身也。子求所以不死、其母者其必有在矣。」
【書き下し文】
「張荷宇母を夢みるの図の記」
始め余未だ荷宇を識(し)らず。時に客の一巻の文を持ちて余に示す有り。即ち荷宇自ら其の母を夢みるの事を叙す。其の言悲悄なるかな。読むを卒(を)ふるに忍びざるなり。異日友人を介して余の門に来たり業を受くるを請ふ者有り。其の姓名を識るに、即ち曩(さき)の母を夢みる者なり。因りて又た為(つく)る所の図を見る。当世の公卿大夫より下りて韋布の士に至るまで、言に工(たく)みなる者は、咸(みな)其の至性の冥感するを嘉(よみ)し、相与(とも)に其の事を詠歌す。荷宇悉(ことごと)く取りて、図の後に綴る。余も亦た五歳にして母を失ふ、此の情は人の同じくする所なり。荷宇の事に感じて、因りて為(ため)に之を記す。
荷宇は生まれて十月にして其の母を喪(うしな)ふ。知有るに及び、即ち時時母を念(おも)ひて置かず。弥(いよいよ)久しく弥篤し。其の身の一日として母に事(つか)ふること能はざるを哀しむなり。母の言語動作も亦た未だ識ること能はざるを哀しむなり。
荷宇は香河の人なり、嘗て南遊して反(かへ)り、銭唐に至り、母の来前するを夢みる。夢中に即ち其の母たるを知るなり。既に覚め、乃ち噭(けう)然として以て哭して曰はく、「此れ真に吾が母なり。母胡為(なんす)れぞ(注1)我をして今日に至りて乃ち見(まみ)ゆるを得しむるや。母又た何ぞ我を去ることの速かなるや。母其れ我をして此に継ぎて見ゆるを得しむべきや。」と。是(ここ)に於て即ち夢の見る所は之を図と為す(注2)。此の図は、吾之を見ざるなり。今の図は、吾之を見れば、則ち其の母を夢みるの境のみ。
余因りて之に語りて曰はく、「夫れ人の精誠の感ずる所に幽明死生の隔て無し。此の理の信ずべきは、誣(し)ひざる者なり(注3)。況んや子の親に於ける、其の喘息呼吸相通じ、本より之を間つる者有る無きをや。人は死すれば則ち形亡び、形亡べば則ち気散ず。而るに散ぜざる者有るは、其の精神に在り。即ち其の子孫の身に附麗す。故に先王之が為に廟を立てて以て之を聚め、祭祀して以て之に事ふ。笑語嗜好して以て之を思ひ、此に於て彼に於て以て之を求む。又た但(た)だに此のみに非ざるなり。一たび言を出だしては敢へて忘れず、一たび跬(き)歩しては敢へて忘れず。故に孝子の父母に事ふるは、其の身を終ふるまです。徒(た)だに父母の身を終ふるまでするに非ざるなり。今、子の母は不幸にして蚤(つと)に歿す。然れども子は在れば、固(もと)より亡ぶと謂ふべからず。夫れ香河より以て銭唐に至ること三千里にして遥かなり。子の母は、生時固より未だ嘗て其の地に至らざるなり。而るに胡為れぞ此に於てか夢みる。此に於て夢みるは、子の至る所、親も亦た至ればなり。然らば則ち子の身は親の身なり。子死せざる所以(ゆゑん)を求むれば、其の母なる者も其れ必ず在る有らん。」と。
(注1)「母、胡為乎~」
センター試験では「母よ、~」と呼びかけに解して読んでいますが、これは普通に施事主語として読めばよいと思います。
(注2)「即夢所見為之図。」
センター試験では「夢に見る所に即して之が図を為る。」と読んでいます。この読みの方があるいは語法的に正しいかもしれません。「即」には介詞(前置詞)として時間(~に)・場所(~で)・よりどころ(~に基づき・~に照らして)という意味を表す介詞句(前置詞句)をつくり、述語を連用修飾することがあるからです。ここでは即時を表す副詞として読めないかと考えて読んでみました。
(注3)「此理之可信、不誣者。」
センター試験では「此れ理の信ずべく誣ひざる者なり。」と読んでいます。あるいはそれで正しいかもしれません。しかし、構造助詞「之」「者」の位置づけがいかにも不審です。ここでは「此理可信」(此の理信ずべし。)が主語になるにあたり、「之」が主語「此理」と述語「可信」の間に置かれて主述関係を取り消し、名詞句になる用法で、それにより述語「不誣者」に対して主語という成分になりやすくなっているのではと考えました。ただし、自信があるわけではありません。
【口語訳】
「張荷宇の母を夢に見る絵の記」
初め私は荷宇のことを知らなかった。ある時、一巻の書を私に示した人がいた。そこには荷宇が自ら母を夢で見たことが述べてあった。そのことばのなんとも悲痛であることよ。(あまりの悲痛さに私は)すべてを読み通すことができなかった。別の日、友人を通じてわが門に教えを受けに来たものがいたが、そのものの姓名を見ると、以前母を夢に見た人物であった。そこでさらに彼の描いた絵を見せてもらった。今の世の公卿大夫から以下一般庶民に至るまで、詩文に巧みな者は、みな優れた精神が神霊に通じることを善しとして、そのことを詩歌に詠み合っている。荷宇はそれらを取り集めて、すべて絵の後に書き綴っていた。私も五歳で母を失ったが、(親を思う)この思いはだれもが同じである。荷宇のことに感じ入ったので、彼のためにこれを書く。
荷宇は生まれて十ヶ月でその母に先立たれた。物心がつくとすぐいつも母を思ってやまず、その思いは時とともに募っていった。自分がほんの一日たりとも母に仕えられなかったことを悲しみ、母のことばや物腰を知ることができないことを悲しんでいた。
荷宇は香河の人である。かつて南に旅して、帰りに銭唐に立ち寄ったことがあり、その地で母が目の前に現れる夢を見た。夢の中ですぐにそれが母であることがわかった。目覚めてから声をあげて泣いて言うには、「これはまことに私のお母様だ。お母様はなぜ私に今日になってお会いくださったのでしょう。お母様はまたなんとこのように早く私のもとを去っていかれたのでしょう。お母様はこの後もまた私にお会いいただけるでしょうか。」と。そこですぐに夢で見た姿は、それを絵にかきとめた。(彼がその時に描いた)この絵は私は見ていない。今の絵は見たが、彼が母を夢に見た様子(が描かれたもの)であった。私はそこで彼に語った。
「そもそも人のまごころが感ぜしめるものは、あの世とこの世、生きる死ぬの隔てなどはありません。この道理が信じてよいのは、いつわりのないことです。ましてや子の親に対する思いは、その息づかいまでが通じ合い、本来それを隔てるものなどありはしません。人は死ねば形が滅び、形が滅べば気は失われてしまいます。でも(気が)失われないことがあるとすれば、その精神(のもちよう)にあるのです。つまり(失われぬ親の気は)その子孫の身に宿ります。ですから、昔の王はそのために廟を立ててそれを集め、霊をまつってお仕えしたのです。(子は)笑い喜んでは亡くなった親を思い、ここでかしこで親を求めるのです。さらにそれだけではありません。ひとたび言葉を発しては親を忘れようとせず、一足踏み出しては忘れようとしない。だから孝子の父母にお仕えするのは、一生涯のことなのです。ただ父母がお亡くなりになるまでだけではありません。今、あなたの母上は不幸にして早くに亡くなりましたが、あなた自身は生きているのですから、(母上の気は)もとより滅びたとはいえません。そもそも香河から銭唐までは三千里と遥かな道のりです。あなたの母上はご存命中その地に行かれたことはないはずです。それなのに(あなたは)どうしてそこで(母上の)夢を見たのでしょうか。そこで夢を見たのは、あなたの行くところには、親もいらっしゃるからなのです。だとすれば、あなたの身は、ほかならぬ親の身でもあります。あなたが(母上は)亡くなっていないというよりどころを求めれば、あなたの母上もきっといらっしゃるでしょう。」と。
いかがでしょうか?
さきごろセンター入試がありましたが、その漢文の問題を見ました。なかなかおもしろい文章です。
盧文弨の『抱経堂文集』が出典ということなので、原典にあたり、前後カットされた部分を補って読んでみました。
大学入試センターの読み方とは異なる部分もありますし、前後の省略部分については私なりの読みなので、誤りもあるかもしれません。
誤りはご教示いただければ幸いです。
【原文】
「張荷宇夢母図記」
始余未識荷宇。時有客持一巻文示余。即荷宇自叙其夢母事。其言悲悄乎。不忍卒読也。異日有介友人来余門受業者。識其姓名、即曩之夢母者也。因又見所為図焉。時当世公卿大夫下至韋布之士、工於言者、咸嘉其至性冥感、相与詠歌其事。荷宇悉取、而綴図之後。余亦五歳失母、此情人所同也。感荷宇之事、而因為記之。
(↓ここからセンター試験出題範囲)
荷宇生十月而喪其母。及有知、即時時念母不置。弥久弥篤。哀其身不能一日事乎母也。哀母之言語動作亦未能識也。
荷宇香河人、嘗南遊而反、至乎銭唐、夢母来前。夢中即知其為母也。既覚、乃噭然以哭曰、「此真吾母也。母胡為乎使我至今日乃得見也。母又何去之速也。母其可使我継此而得見也。」於是即夢所見為之図。此図、吾不之見也。今之図、吾見之、則其夢母之境而已。
余因語之曰、「夫人精誠所感無幽明死生之隔。此理之可信、不誣者。況子之於親、其喘息呼吸相通、本無有間之者乎。
(↑ここまでセンター試験出題範囲)人死則形亡、形亡則気散。而有不散者、在其精神。即附麗於其子孫之身。故先王為之立廟以聚之、祭祀以事之。笑語嗜好以思之、於此於彼以求之。又非但此也。一出言而不敢忘。一跬歩而不敢忘。故孝子之事父母、終其身。非徒終父母之身也。今子之母、不幸蚤歿。然子在、固不可謂亡焉。夫自香河以至銭唐三千里而遥。子之母、生時固未嘗至其地也。而胡為於此而夢。於此而夢者、子之所至、親亦至焉。然則子之身、親之身也。子求所以不死、其母者其必有在矣。」
【書き下し文】
「張荷宇母を夢みるの図の記」
始め余未だ荷宇を識(し)らず。時に客の一巻の文を持ちて余に示す有り。即ち荷宇自ら其の母を夢みるの事を叙す。其の言悲悄なるかな。読むを卒(を)ふるに忍びざるなり。異日友人を介して余の門に来たり業を受くるを請ふ者有り。其の姓名を識るに、即ち曩(さき)の母を夢みる者なり。因りて又た為(つく)る所の図を見る。当世の公卿大夫より下りて韋布の士に至るまで、言に工(たく)みなる者は、咸(みな)其の至性の冥感するを嘉(よみ)し、相与(とも)に其の事を詠歌す。荷宇悉(ことごと)く取りて、図の後に綴る。余も亦た五歳にして母を失ふ、此の情は人の同じくする所なり。荷宇の事に感じて、因りて為(ため)に之を記す。
荷宇は生まれて十月にして其の母を喪(うしな)ふ。知有るに及び、即ち時時母を念(おも)ひて置かず。弥(いよいよ)久しく弥篤し。其の身の一日として母に事(つか)ふること能はざるを哀しむなり。母の言語動作も亦た未だ識ること能はざるを哀しむなり。
荷宇は香河の人なり、嘗て南遊して反(かへ)り、銭唐に至り、母の来前するを夢みる。夢中に即ち其の母たるを知るなり。既に覚め、乃ち噭(けう)然として以て哭して曰はく、「此れ真に吾が母なり。母胡為(なんす)れぞ(注1)我をして今日に至りて乃ち見(まみ)ゆるを得しむるや。母又た何ぞ我を去ることの速かなるや。母其れ我をして此に継ぎて見ゆるを得しむべきや。」と。是(ここ)に於て即ち夢の見る所は之を図と為す(注2)。此の図は、吾之を見ざるなり。今の図は、吾之を見れば、則ち其の母を夢みるの境のみ。
余因りて之に語りて曰はく、「夫れ人の精誠の感ずる所に幽明死生の隔て無し。此の理の信ずべきは、誣(し)ひざる者なり(注3)。況んや子の親に於ける、其の喘息呼吸相通じ、本より之を間つる者有る無きをや。人は死すれば則ち形亡び、形亡べば則ち気散ず。而るに散ぜざる者有るは、其の精神に在り。即ち其の子孫の身に附麗す。故に先王之が為に廟を立てて以て之を聚め、祭祀して以て之に事ふ。笑語嗜好して以て之を思ひ、此に於て彼に於て以て之を求む。又た但(た)だに此のみに非ざるなり。一たび言を出だしては敢へて忘れず、一たび跬(き)歩しては敢へて忘れず。故に孝子の父母に事ふるは、其の身を終ふるまです。徒(た)だに父母の身を終ふるまでするに非ざるなり。今、子の母は不幸にして蚤(つと)に歿す。然れども子は在れば、固(もと)より亡ぶと謂ふべからず。夫れ香河より以て銭唐に至ること三千里にして遥かなり。子の母は、生時固より未だ嘗て其の地に至らざるなり。而るに胡為れぞ此に於てか夢みる。此に於て夢みるは、子の至る所、親も亦た至ればなり。然らば則ち子の身は親の身なり。子死せざる所以(ゆゑん)を求むれば、其の母なる者も其れ必ず在る有らん。」と。
(注1)「母、胡為乎~」
センター試験では「母よ、~」と呼びかけに解して読んでいますが、これは普通に施事主語として読めばよいと思います。
(注2)「即夢所見為之図。」
センター試験では「夢に見る所に即して之が図を為る。」と読んでいます。この読みの方があるいは語法的に正しいかもしれません。「即」には介詞(前置詞)として時間(~に)・場所(~で)・よりどころ(~に基づき・~に照らして)という意味を表す介詞句(前置詞句)をつくり、述語を連用修飾することがあるからです。ここでは即時を表す副詞として読めないかと考えて読んでみました。
(注3)「此理之可信、不誣者。」
センター試験では「此れ理の信ずべく誣ひざる者なり。」と読んでいます。あるいはそれで正しいかもしれません。しかし、構造助詞「之」「者」の位置づけがいかにも不審です。ここでは「此理可信」(此の理信ずべし。)が主語になるにあたり、「之」が主語「此理」と述語「可信」の間に置かれて主述関係を取り消し、名詞句になる用法で、それにより述語「不誣者」に対して主語という成分になりやすくなっているのではと考えました。ただし、自信があるわけではありません。
【口語訳】
「張荷宇の母を夢に見る絵の記」
初め私は荷宇のことを知らなかった。ある時、一巻の書を私に示した人がいた。そこには荷宇が自ら母を夢で見たことが述べてあった。そのことばのなんとも悲痛であることよ。(あまりの悲痛さに私は)すべてを読み通すことができなかった。別の日、友人を通じてわが門に教えを受けに来たものがいたが、そのものの姓名を見ると、以前母を夢に見た人物であった。そこでさらに彼の描いた絵を見せてもらった。今の世の公卿大夫から以下一般庶民に至るまで、詩文に巧みな者は、みな優れた精神が神霊に通じることを善しとして、そのことを詩歌に詠み合っている。荷宇はそれらを取り集めて、すべて絵の後に書き綴っていた。私も五歳で母を失ったが、(親を思う)この思いはだれもが同じである。荷宇のことに感じ入ったので、彼のためにこれを書く。
荷宇は生まれて十ヶ月でその母に先立たれた。物心がつくとすぐいつも母を思ってやまず、その思いは時とともに募っていった。自分がほんの一日たりとも母に仕えられなかったことを悲しみ、母のことばや物腰を知ることができないことを悲しんでいた。
荷宇は香河の人である。かつて南に旅して、帰りに銭唐に立ち寄ったことがあり、その地で母が目の前に現れる夢を見た。夢の中ですぐにそれが母であることがわかった。目覚めてから声をあげて泣いて言うには、「これはまことに私のお母様だ。お母様はなぜ私に今日になってお会いくださったのでしょう。お母様はまたなんとこのように早く私のもとを去っていかれたのでしょう。お母様はこの後もまた私にお会いいただけるでしょうか。」と。そこですぐに夢で見た姿は、それを絵にかきとめた。(彼がその時に描いた)この絵は私は見ていない。今の絵は見たが、彼が母を夢に見た様子(が描かれたもの)であった。私はそこで彼に語った。
「そもそも人のまごころが感ぜしめるものは、あの世とこの世、生きる死ぬの隔てなどはありません。この道理が信じてよいのは、いつわりのないことです。ましてや子の親に対する思いは、その息づかいまでが通じ合い、本来それを隔てるものなどありはしません。人は死ねば形が滅び、形が滅べば気は失われてしまいます。でも(気が)失われないことがあるとすれば、その精神(のもちよう)にあるのです。つまり(失われぬ親の気は)その子孫の身に宿ります。ですから、昔の王はそのために廟を立ててそれを集め、霊をまつってお仕えしたのです。(子は)笑い喜んでは亡くなった親を思い、ここでかしこで親を求めるのです。さらにそれだけではありません。ひとたび言葉を発しては親を忘れようとせず、一足踏み出しては忘れようとしない。だから孝子の父母にお仕えするのは、一生涯のことなのです。ただ父母がお亡くなりになるまでだけではありません。今、あなたの母上は不幸にして早くに亡くなりましたが、あなた自身は生きているのですから、(母上の気は)もとより滅びたとはいえません。そもそも香河から銭唐までは三千里と遥かな道のりです。あなたの母上はご存命中その地に行かれたことはないはずです。それなのに(あなたは)どうしてそこで(母上の)夢を見たのでしょうか。そこで夢を見たのは、あなたの行くところには、親もいらっしゃるからなのです。だとすれば、あなたの身は、ほかならぬ親の身でもあります。あなたが(母上は)亡くなっていないというよりどころを求めれば、あなたの母上もきっといらっしゃるでしょう。」と。
いかがでしょうか?