ユーティリティ

プロフィール

管理者へメール

過去ログ

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

エントリー

「莫」はなぜ無指代詞(無定代詞・不定代詞)なのか?

(内容:「莫」がなぜ無指代詞(無定代詞・不定代詞)なのかについて考察する。)

前エントリーを書いていて、自分がいわば中国の語法学の受け売りで「莫」を無指代詞(無定代詞,不定代詞)と考えていることに疑問を感じました。
本場の中国でそう説かれている、あるいはそれに基づく辞書にそう説明されている、だからそうなのだと即断することは、そこに思考の入り込む余地がありません。

実際、私は授業で、たとえば『史記・項羽本紀』の四面楚歌の場面、「左右皆泣、莫能仰視。」などを、「莫」は無指代詞で、いわば英語の「nobody」に相当する、つまり「存在しない人が仰ぎ見ることができる」から「誰も仰ぎ見ることができなかった」と解釈するんだ、などと当たり前のように説明しています。
しかし、「莫」がなぜ無指代詞で主語に相当するのか、きちんと考え、謎を解き、理解した上で教えているわけではない、ただの受け売りです。
清末の馬建忠以降、ヨーロッパの文法学を基礎に打ち立てられ、現代に脈々と至る中国近代語法学で、そう述べているから従っているだけのことです。
もし向学心のある生徒に「先生、『莫』はなぜ無指代詞なのですか?」と質問されたら、私は答えられるでしょうか。

「莫」を無指代詞と解する説はいったいいつから始まるのか気になりました。
そもそも、「莫」を無指代詞と考えるなどという発想は、西洋の言語学の影響なくしてはあり得ないところですから、すなわち近代の所産であろうと容易に想像がつきます。

この「莫」を無指代詞と明確に示したのは、楊樹達の『詞詮』だろうと思います。


(一)無指代名詞 為「無人」「無地」「無物」之義。
(無指代名詞 「人がいない」「場所がない」「物がない」の義である。)

(二)同動詞 無也。
(同動詞(「有・無・似・在」など、動作を表さず、不動な状態を表し、使い方が動詞と同じもの) 無である。)

として、それぞれいくつも例が挙げられています。
(一)の例としては、

・子曰、「莫我知也夫」(論語・憲問)
(先生が「私を理解するものがいないなあ」とおっしゃった。)

・仲尼問其故、対曰、「吾有老父、身死、莫之養也」(韓非子・五蠹)
(仲尼(=孔子)がその理由を問うと、「私には老いた父がいますが、私が死ぬと、これを養うものがいなくなるのです」とお答えした。)

これらは「指人」(人を指す)の多くの例の一部になります。

・晋国、天下莫強焉。(孟子・梁恵王上)
(晋国は、天下にこれより強いものはない。)

これは、楊樹達によれば「指地」(場所を指す)の例です。

・莫非命也、順受其正。(孟子・尽心上)
(天命でないものはない。その正しい命を受け入れ従う。)

これは「指物」(物を指す)の例です。

なるほどこうして見れば、これらの例は確かに無指代詞と考えればわかりやすくなります。
個人的には「指地」というのは、果たしてそう言えるだろうかと疑問には感じますが。
「莫」を無指代詞と説明する流れは、ここから脈々と現在に至っているわけです。

しかし、楊樹達が(二)で説明する「無」に同じとする例も、やはりあるわけです。

・及平長、可娶妻、富人莫肯与者、貧者平亦恥之。(史記・陳丞相世家)
(陳平が大人になって、妻を娶るべきだが、金持ちは与えようとするものはなく、貧しいものは陳平がこれを恥じた。)

楊樹達は他にも例を挙げていますが、この「莫」を無指代詞とみなすことは当然無理なのであって、「無」と同じと処理されたものです。

楊樹達は「莫」を無指代詞としながらも、なぜ「莫」が無指代詞といえるのか、あるいはなぜそのような働きをするようになったのかについては、述べていません。

「莫」の後に動作や状況を表す句が置かれた時、無指代詞とみなす、「~者」の句が置かれた時は「無」に同じとみなすという話なら、これはおかしなことになってしまいます。
なぜなら、それは「無」でも同じだからです。

そう思って『詞詮』の「無」の項を見てみると、8つの分類の一番最初に次のように書かれています。

(一)無指指示代名詞。

・相人多矣、無如季相。(史記・高祖本紀)
(人相をみることは多かった、(しかし)季(=高祖)に及ぶものはいない。)

挙げられたこの例は、「~者」の形をとらない点において、見かけ上は「莫~」と変わりません。
「無」のこのような用法を、楊樹達は無指代詞とみなしていたわけで、その意味では公平な判断をしていたことになります。

そして何楽士『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社2006)など、いくつかの虚詞詞典もこの流れをくんで、「無」の義に「無指代詞」の項を設けています。

一方、「莫」が「~者」をとる構造については、さすがに無指代詞とはできず、韓崢嶸『古漢語虚詞手冊』(吉林人民出版社1984)や、尹君『文言虚詞通釈』(広西人民出版社1984)では動詞、王政白『古漢語虚詞詞典(増訂本)』(黄山書社2001)、『古代漢語虚詞詞典』(語文出版社)では副詞、最もよく読まれているのではないかと思う『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999)では、いわゆる無指代詞の用法も含めて副詞とし、分類が分かれています。

分類が分かれるというのは、それだけ「莫」をどう捉えるべきか考え方が分かれているということだと思いますが、困りものです。

さて、「無」にも「莫」にも無指代詞と説明し得る用例があり、また、「~者」を伴う用例があるというのは事実ですが、だから同じだとはいえません。
多くの学者が指摘しているように、「無」は「~者」の構造をとることが多く、「莫」は用例は見られるものの、「莫~者」の用例数は、「無」とは比べものにならないほど少ない、それはなぜなのでしょうか。

「無」は一般に名詞を後にとり、「~がない・~がいない」という意味を表します。
そういう意味では人や事物の存在を否定するといえますが、以前のエントリーでも紹介したように、

・志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。(論語・衛霊公)
(志士仁人は、生を求めて仁を害することはなく、身を殺して仁をなすことがある。)

の例のように、句を後にとって、動作や状態がないことを述べることもあります。
この場合も「求生以害仁」は「生を求めて仁を害すること」を事物のように捉えて、客観的かつ肯定的にその存在のないことを描写するのが「無」の働きで、「不」によって打ち消される場合とは本質的に語義が異なります。
それは、「有」が「殺身以成仁」の存在を客観的に肯定描写しているのと見比べるとよくわかると思います。

したがって、「無」は名詞であらわされるものの存在のないこと、動作や状態がないことを示す動詞だといえます。

しかし、「莫」が名詞によって表されるものを目的語にはとらず、一般に動作や状態を表す句が後に置かれるというのは、「無」と決定的に異なる点だと思います。
もちろん「莫~者」の形はあるのですが。

ここへ来て、「莫」と「無」がなにゆえこのような使い分けをするのか、考えあぐねてしまいました。
あるいは、かつてのエントリーで書いたように、「盍」が「何不」と「何」の二様に用いられるような特殊な事情があるのではないかとも考えてみたのですが。
つまり、「莫」が無指代詞として機能するための、古音の発音上の問題がそこにあるのではないかと疑ってみたのです。
しかし、これはもう私の力量を越えたもので、ここまで止まりかと断念しかけるところでした。

せめてもう少し「無」と「莫」の違いについて論じられたものがないか、手元の書籍を片っ端からあたっていたところ、鈴木直治氏の『古代漢語における否定詞について』(1975)という論文を見つけました。

氏は「無」と「莫」の用いられ方の差を詳細に分析した上で、私が前述したような違いが明確にあることを押さえた上で、非常に興味深い仮説を提示しています。

それでは,この「莫」の本質は,いったい,どのように見るべきものであろうか。このことについては,これまで,まだよく解明されていない。しかし,釈大典が,その《文語解》の中に,次の例の文を引用して,その「莫」は,「毋或」の2音の合したものであると説いていることは,きわめて注目すべきことと考える。

莫如楚共王庶子囲,弑其君兄之子員,而代之立。(史記・楚世家)
(楚の共王の庶子囲が、その主君であり兄の子である員を殺して、これに代わって即位したようにしてはならない。)
〔釈大典は,この文の「莫如」は,《左伝》(昭公4年21-13)には,「毋或如」となっていることをあげている。なお,その「毋」の字は,「唐石経」や「漢文大系本」では,ともに「無」となっている。〕

氏が引用した《文語解》の説明は、「莫」が禁止を表すものについてのものですが、氏はさらに一歩進めて、

上例のような禁止の場合だけではなく,「莫」は,もともと「無(毋)」と「或」の合音のものと見るべきものであって,それが,否定詞として用いられる「莫」の本質であると見るべきもののように考えられる。

と推論を述べています。
さらに、『書経』や『左伝』の古例を調査した上で、

この「無(毋)或」という言いかたは,西周以来,かなりよく用いられていた言いかたであったろうと考えられる。また,このような言いかたが多く用いられている中に,その「無」(muїag)と「或」(ĥuək)とが,一つに結合して「莫」(mak)というように変化して来る可能性は,十分にありうることであろうと考えられる。

とし、

注意しなければならないことは,「或」は,(中略)「有」と通じてもちいられることも多いのではあるが,また,ある不定の人物を表すのに多く用いられるものであり,これが,「或」における主たる用法であるということである。これは,「有」の人物化の用法であるともいうことができるものである。(中略)

「或」は,(中略)不定の人物を表すことが多いものであり,それは,「有人」ともいうことができたものである。これが「或」の主たる用法であり,「有」に対しての「或」の特徴的な用法であるということができる。それで,「無」とこの「或」との結合による「莫」も,当然,「無有人」の意味に用いられることが多いわけであり,これが,「莫」の主たる用法であり,また,「無」に対しての特徴的な用法であるともいうことができるわけである。

あくまでも鈴木氏の推論ではありますが、「莫」が「無或」の合音であったかもしれないという考え方は、「莫」が「~者」をあまりとらず、動作や状態を表す句を後にとり、その点で「無」と働きを異にする説明になるかもしれません。

「莫」の中に「或」が含まれているとすれば、「莫~」は、「不定のある人(もの)が~することがない」となり、「莫」自体がまず不定の人や事物の存在を否定することになります。
そして「莫」が「~者」を伴う例は、「莫」が「無或」の義を失い、「無」の意味で用いられているのでしょうか。
あるいは、前エントリーで解恵全の解釈として紹介したように、「存在しない人が、~する者である」という判断文なのでしょうか。

しかし、もし鈴木氏の推論が妥当であるとすれば、「莫」は人や事物の存在を否定する「無」と不定代詞の「或」が合わさって機能する語であって、つまりそれは働きであって、「nobody」や「nothing」とは本質的に異なるものというべきでしょう。
果たして無指代詞と呼んでいいものなのでしょうか?

私は、品詞を確定して「莫」を無指代詞と名付けることの意味がしだいにわからないというか、本当に必要なことなのだろうかという気がしてきました。
語に品詞を与えるということは、同時に隠された語の様々な性質を押し隠すことにつながりやすいという懸念を抱くとともに、また、文意をそのように解せるということから品詞を与えてしまうという危険があるのではないでしょうか。
その語の本来の性質はもっと別のところにあるかもしれないのに。

ページ移動