『孟子』注解3
(内容:『孟子』で、教科書によく採用される「湍水の説」の文章の文法解説。)
『孟子』注解3(以下 京都教育大学附属高等学校 研究紀要98号 2025.3 より)
■原文(1)
告子曰、「(2)
性猶湍水也。(3)
決諸東方則東流、決諸西方則西流。(4)
人性之無分於善不善也、(5)
猶水之無分於東西也。」孟子曰、「(6)
水信無分於東西、(7)
無分於上下乎。(8)
人性之善也、(9)
猶水之就下也。(10)
人無有不善、水無有不下。(11)
今夫(12)
水搏而躍之、(13)
可使過顙、(14)
激而行之、(15)
可使在山。(16)
是豈水之性哉。(17)
其勢則然也。(18)
人之可使為不善、(19)
其性亦猶是也。」(告子上)■訓読告子曰はく、「性は猶(な)ほ湍水(たんすゐ)のごときなり。諸(これ)を東方に決すれば則ち東流し、諸を西方に決すれば則ち西流す。人性の善不善を分かつこと無きや、猶ほ水の東西を分かつこと無きがごときなり。」と。孟子曰はく、「水は信(まこと)に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下に就(つ)くがごときなり。人は善ならざること有る無く、水は下らざること有る無し。今夫(そ)れ水は搏(う)ちて之を躍(をど)らせば、顙(ひたひ)を過ごさしむべく、激(げき)して之を行(や)れば、山に在らしむべし。是れ豈(あ)に水の性ならんや。其の勢然るなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦(また)猶ほ是(かく)のごときなり。」と。■訳告子が言うには、「(人の)性質は渦巻く水のようなものである。これを東の方角に堰切れば東に流れ、これを西の方角に堰切れば西に流れる。人の性質が善である不善であるを分かつことがないのは、水が東に流れる西に流れるを分かつことがないのと同じである。」と。孟子が言うには、「水は確かに東に流れる西に流れるを分かつことがないが、上に流れる下に流れるを分かつことがないだろうか。人の性質が善であるのは、水が下につくのと同じである。人は善でないことがあることはなく、水は下らないことがあることはない。今そもそも水は手で打ってこれを跳ね上がらせれば、額の高さを過ぎさせることができ、せきとめて(勢いを増して)これを流れさせれば、山にあらせることができる。これはどうして水の性質であろうか。(しかし)その打ったりせきとめたりする勢力それはそうなのである。人が不善をさせることができるのは、その性質もこれと同じである。」と。■注(1)【告子】戦国時代、孟子と同時代の人。
後漢の趙岐注(『十三経注疏』所収)によれば、姓は告、名は不害という。
しかし、これは趙岐の誤りであるらしい。
そのことについては、小林勝人『岩波文庫 孟子』に説明されているので、参照のこと。
それによれば、
「この告子は名も閲歴も判然とはしない、と言わざるをえない」
という。
一説に「こくし」ではなく「こうし」と読むとも(簡野道明『孟子通解』など)。告子は孟子と何度も議論しており、本文にあるように、人性には善不善の別はないと主張する。
(2)【性猶湍水也】「性」は、人の生まれもっての性質。
「湍水」は、『説文解字』には
「湍、疾瀬也」
(湍とは、早瀬の水である)
とあるが、趙岐は
「湍者圜也、謂湍湍瀠水也」
(瀠とは「圜」(めぐる)である、急速にめぐる水をいうのである)
と注する。
諸注釈本、趙岐の説をとる。
要するに、ぐるぐる渦巻く水のこと。
「猶」は、近似を表す動詞。
~に似る、~のようである、~と同じであるの意。
「也」は説明の語気を表す語気詞。
(3)【決諸東方則東流、決諸西方則西流】「決」は、堰を切って落とす。
「諸」は「之於」の兼詞(縮約語)。
「決諸東方」は「決之於東方」に同じ。
この場合、「之」は湍水を指す。
「則」は、原義が「刀で傷つける」(加藤常賢『漢字の起源』)とも、「器に刀を添える」(藤堂明保『漢字語源辞典』)意ともいわれ、刀で等分することから、「法則」「規則」の意に用いられる。
「則」が連詞として「~する場合」という意味を表すのはこの引申義であろう。
ここでは、前句「決諸東方(西方)」(これを東(西)の方角に堰切って落とせば)を受けて、「その場合は、東(西)に流れる」と示す。
この項、次句も同じだが、湍水はもともと堰の内側にあり、堰に阻まれていればどこへ流れるとも決まらない。
一部を切って落とせば、そこから流れるだけだということだ。
(4)【人性之無分於善不善也】後の謂部(述部)「猶水之無分於東西也」に対して、主部になる。
「人性無分於善不善」であれば、主語「人性」+謂語「無」+賓語「分於善不善」の構造の独立した文になるが、結構助詞「之」が主語と謂語の間に置かれることで、文の独立性が取り消されて名詞句となる。
すなわち「人の性質が善である不善であるを分かつことがない」という文が「人の性質が善である不善であるを分かつことがないこと」という名詞句になる。
結構助詞「之」の働きとしてこのように中国の語法学では説明されるが、そもそもそれは「之」が体を修飾する働きがあるためであろう。「人性之」は後の部分に対して作用の主体ではあっても、主語ではなく定語(連体語)になるからだ。
「無分於善不善」については、いくつか問題点があるまず、中国の語法学では、「無」が存在文や所有文の謂語動詞ではない時、副詞として謂語を連用修飾して「~しない」という意味を表すと説明されることがある。
「無」が副詞「不」と同等の働きをするとするものだ。
私的には「無分於善不善」のような形も「無」は謂語動詞だと思うが、これを「不分於善不善」と同義だとするわけ。
古くは馬建忠が『馬氏文通・同動助動四之四』で
「<無>字作<不>字解者常也」
(「無」字は「不」字と解するのが常である)
と述べている。
しかし、「不分」と「無分」では「分かつ」あるいは「分かれる」ことの否定の中身が異なると思う。
たとえば「太郎不往」(太郎往かず)と「太郎無往」(太郎往く無し)では、表す意味が違う。
「太郎不往」は、太郎の「往く」という動作の否定を表すとともに、場合によっては太郎の意志・決意がこもる。
それに対して、「太郎無往」は、太郎について「往く」という動作が客観的にないことを示す。
本文も人性について善である不善であるに分かつことがないことの客観的描写なのであって、分かたないと言い切っているのではない。
次に、「分於善不善」の訓読である。
管見の限りでは、「善不善を分かつ」と読まれ、「善不善に分かる」と読まれることはない。
この句、謂語「分」+介詞句「於善不善」の構造をとっており、私的には後者の読みがよいとこれまで考えていた。
介詞「於」は依拠の対象を表して、つまり、人の性質が善であるか不善であるかに分かれると解するわけである。
次項の水と東西の例で考えると、水が東に流れるか西に流れるかに分かれるということになるが、「分於」に対して「東西」はその依拠性に対する語であり、他動性に対するものではない。
東西という方角そのものを真っ二つにするのではなく、東西どちらかに流れるのである。
その意味で「分かつ」ではなく「分かる」であろうと考えていたわけである。
しかし、ここの「分」は両断することではなく区別することを指していると考えれば、「分かる」と読めば東西どちらかに分かれて流れるの印象あり、それを「分かつ」と読むことでそもそも「東に流れるか西に流れるか」という性質そのものを区別しないという意味だと、誤解を避けようとした読みなのかもしれぬという気もしてきた。
その辺の事情はよくわからぬが、「於」は「分」の依拠性を明示するのだから、「~に分かる」あるいは「~に分かつ」と読むべきかと思う。
「分於善不善」は謂語「無」の賓語であり、「善不善を分かつこと」あるいは「善不善に分かれること」という名詞句である。
「也」は語気詞。
名詞句「人性之無分於善不善」の後に用いてその意味を提示し、ポーズする。
(5)【猶水之無分於東西也】「猶」については(2)で述べた。
「人性之無分於善不善」が「水之無分於東西」に似ることを表す。
「水之無分於東西」についても、前項と同様の名詞句である。
謂語「猶」+賓語「水之無分於東西」の構造。
「也」は説明の語気を表す語気詞。
(6)【水信無分於東西】「信」は副詞。まことに、たしかに。
告子の言を受け入れ、水の東西に関する性質の主張についてはその通りだと是認したもの。
このような「信」は「たしかに~だが」「本当に~なら」という意味の仮設連詞であると説明されることもあるが、文の構造がそうさせているのであって、あえて連詞とする必要はあるまい。
ここも「(君の言うとおり)水はたしかに東西を分かつことはないが」と解せるが、「信」があるから後文に続くわけではない。
本邦の中村惕斎『孟子示蒙』、簡野道明『孟子通解』など古くはこの箇所で切って読んでいるものもある。
「水はたしかに東西を分かつことはない」とするわけだ。
「無分於東西」は、前項、前々項参照。客観的に見て東西を分かつことはないとの意。
(7)【無分於上下乎】「上下を分かたないだろうか」ではなく「上下を分かつことがないだろうか」の意。水の本来もつ性質として、東西を分かつことはないにしても、上に流れる、下に流れるの別はあるといいたいのである。
「於」は介詞。
「分」に対して、何に依拠するかを明確にする。
「分かつ(分かるる)こと上下に於てす」と読むと、わかりやすい。
「上下」という点において「分」するのである。
「乎」は反語の語気詞。
現在は「無~乎」で「~無からんや」と読むのが普通だが、「なし」の古い未然形「なけ」を用いて「~無けんや」と読むこともある。
孟子の切り返しは、この後の弁論展開も含めて、「孟子の得意の論法、思うべきである」(宇野精一『全釈漢文大系』)、「その当否は別として、孟子の駁論の巧妙さには、舌を巻かせるものがある」(内野熊一郎『新釈漢文大系』)などと高く評価するものもあるが、私的はいささか強弁に過ぎようかと思う。
(8)【人性之善也】(4)に同じく、「人性善」であれば「人の性質は善である」という文だが、主語「人性」と謂語「善」の間に結構助詞「之」を置き、「人の性質の善であること」という名詞句としたもの。
「也」は(4)と同じく、名詞句「人性之善」の後に用いてその意味を提示し、ポーズする。
(9)【猶水之就下也】これも構造的には(5)と同じく、謂語「猶」+賓語「水之就下」の構造。
「也」も説明の語気詞。
「就」は、おもむくの意。
「水之就下」は、「水就下」(水が下(低い方)に流れる)という文の、主語「水」と謂語「就」の間に結構助詞「之」を置いて「水が下に流れること」という名詞句にしたもの。
水が低い方に流れるとは、一般に自然の性質を述べたものと捉えてよいと思うが、中村惕斎は
「蓋しその決(さく)る方ひきければ流る、たかければ流れず、これその上下は、必わかれてさだまれるなり」(『孟子示蒙』)
とし、簡野道明は
「其の之を東に決して東方に流れしむべきものは、必ず東方の地勢低下なるが故なり、之を決して西方に流れしむべきものは、必ず西方の地勢低下なるが故なり」(『孟子通解』)
と述べ、告子の堰を切って落とした結果として東流し西流するの言と絡めて解釈している。
(10)【人無有不善、水無有不下】いわゆる二重否定の句で、結果的に強い肯定を表し、意味的には「人はみな善であり、水はみな下る」の意になる。
しかし、この句、わざわざ「有」が用いられているのが気になるところ。
「人無不善、水無不下」(人善ならざる無く、水下らざる無し)でも普通に通るだからだ。
「無有」の形式について、楚永安『文言复式虚词』は次のように述べる。
「“无”本身就是个否定性的动词,相当于“没有”,可是古汉语中又常常习惯于“无有”连用。这样,“无”就起着副词的作用了。“无有”一般是对存在进行否定,可译为“没有”」(「無」自体はもともと否定性の動詞で、「没有(もたない・ない)」に相当するが、古漢語ではよく「無有」と続けて用いられる習慣がある。このように、「無」は副詞の働きになっている。「無有」は一般的に存在していることに対して否定し、「没有」と訳すことができる)
これが中国の語法学の一般的な解釈だと思う。
『漢語大詞典』にも「無」について、
「副詞。表示否定,相當於“不”」
(副詞。否定を表す。「不」に相当する)
とある。
それなら理屈の上では「人無有不善、水無有不下」は「人不有不善、水下有不下」と同じということになってしまうが、「不有不~」という形の文はそもそも見たことがない。
この表現について、太田辰夫『古典中国語文法 改訂版』は、
「『無有』は論語にはないが孟子に5例ある。このばあいは「有」とそれ以下を名詞的なものと解すべきである」
と述べている。
この考えによれば、「無」はあくまで謂語動詞で、「有不善」は名詞句で「無」の賓語ということになる。
私的には、「人無有不善、水無有不下」は、「人は善でないものはなく、水は下に流れないものはない」という意味ではなく、あくまで「不善」「不下」は「有」の賓語であり、また、「有不善」「有不下」は「無」の賓語ではないかと考える。
つまり、「人に善でないということがあることはなく、水に下に流れないということがあることはない」という意味だ。
(4)で述べたように、「有」や「無」は動詞句を賓語にとる時、そのような状況・事態が客観的にあるかないかを述べる。
人の性質に、「善でないという事実が客観的に存在する」という事実が客観的に「ない」のであり、水の性質に「下に流れないという事実が客観的に存在する」という事実が客観的に「ない」のではないか。
このような解釈は当然くどいので、日本語訳自体はもっとスマートでよいと思うが、「有」にはそんな働きがある。
ちなみに、太田辰夫は『中国語歴史文法』の「没」の項で、
「《無有》とはがんらい所有・存在するという事実がないということかとおもわれるが,實際はそれほど深い意味で使われるのではなく,単に《無》を口調の関係で二音節にのばしたに過ぎないとおもう」
とも述べていることを付記しておく。
(11)【今夫】「今夫」は、「いまそれ」と読んで、「(ところが)今、そもそもその水も」ぐらいの意味。
この「今夫」について、『研究資料漢文学』は、
「今かりに。『今』は、今かりに、今もし。仮定を表す。梁恵王上の『今王、発政施仁、』の『今』の用法と同じ。『夫』は、文頭に置いて、文章を強める助字」
と述べる。
『漢詩・漢文解釈講座』にも
「『今夫れ』と読み、今かりにの意。『今』は仮定の意を有することがある。たとえば『今王、発政施仁…』(梁恵王上第七章・第十段落)の『今』がこれに当たる。『夫』は普通文頭にあって発語の辞となり、以下に続く語句、文章を強調する働きを持つ」
とあるのは前書の内容をほぼそのまま受けたものであろうか。
しかし筆者としては、「今」を「今かりに」であれ、品詞を連詞とすること、「夫」を文章を強める助字とすること、いずれにおいても、少々疑問を感じる。
先に「夫」について述べる。
「夫」が「成年男子・一人前の男子」が本義であることは、諸本おおむね同じであるが、三人称代詞や指示代詞として用いられるのはそれとは関係なく、音が近かったための借用義であるらしい。
いわゆる発語の辞としての「夫」は、この代詞の働き「あの」の意味が虚化して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものであろう。
だから、議論開始の語気を表す「夫」も、指示代詞としての働きを残している場合があると思う。
つまり、「今夫」の意味を「今夫(そ)レ」と読んで「今そもそも水は」と解す、もしくは「今夫(か)ノ」と読んで「今あの水は」と解するも、根は通じるものである。
しかし、いずれにしても「夫」が文頭に置いて文意を強める助字という説明はいかがであろうか。
何楽士の『古代汉语虚词词典』には、文頭で用いられる「夫」について、次のように述べられている。
「语首助词。常用于句首,表示一种要作出判断或抒发议论的语气。“夫”位于被判断或被议论的对象(人、事、物或动作行为)前头,对这一对象起标志作用,强调这一对象的概括性和普遍性,对它的判断和议论也常带规律性和概括性。同时也有引出下文的语气和作用」(語首助詞。多く文頭に用いられ,一種の、判断や議論を述べる語気を作り出したいことを表す。「夫」が判断されたり議論されたりする対象(人、事、物や動作行為)の前にあるとき、この一対象に対して標識の働きをし、この一対象の概括性や普遍性を強調し、その判断と議論も常に規律性と概括性を帯びる。同時に下文を引き出す語気と働きもある)
ここに確かに「強調」という文字は出てくるが、「夫」の後の語句の概括性や普遍性を強めているというのであって、「文意を強める」と述べているわけではない。
孟子の湍水の説も、外的力を加えられた水がどうなるかについての一般的な状況を概括的、普遍的に述べるのであって、「夫」があることで、文意が強まっているとは思えない。
それとも文意を強めるとは、これらの働きをいったつもりであろうか。
松下大三郎は『標準漢文法』で、「夫」について次のように述べる。
「これから自分が言はうと思ふことを提出して之を豫示する語である。日本語で言へば『いや何だよ』位な意だ。文の途中にも使ふが往々劈頭に用ゐる。(例文略)断句の始で『夫』だけならば『いや何だよ』と解し、『且夫』は『其れに何だよ』と解すれば善い。日本語で『何だよ』と云ふのはこれから云はうとする所のものを暗示するのである」
語気という言い方はされていないが、これから自分が言おうと思うことを提出するときに用いる語として、さしずめ日本語なら「いや何だよ」に相当するものとして示したのである。
筆者は「今夫」の「夫」も文意を強める語ではなく、議論提出の際に用いる語だと思う。
次に「今」について。
「今」は、先に引用した解説書のみならず、虚詞詞典などでも、「今かりに」と仮定を表すとされる。
つまり仮設連詞とみなす考え方である。
また、「ところが今」と、前述した内容と現状が異なることを示す働きなども紹介されている。
これも連詞としての働きと説明される。
いささか横道に逸れるが、日本語にその「今かりに」とか「ところが今」という言葉があるように、「今現在もしこのような状況であるとすれば」、あるいは、「ところが今現在こうなっている」という文脈上のつながりというのは、古典中国語の「今」にも見られるというだけのことではないか。
「今」はやはり現時点を指す今であって、それが文脈上、副詞的に用いられたり、連詞的に用いられたりもすると考えてはいけないものであろうか。
ところで、先に引用した『研究資料漢文学』、『漢詩・漢文解釈講座』は、この「今」を「今かりに」と解しているが、あえて連詞のように解するなら、「今かりに」よりは「ところが今」であろう。
孟子はまず水の本来の性質を上から下へ流れるものと示し、その直後に「今夫」とあり、水に外的な力を加えると、下から上へ流れることもあるということが述べられる。
この流れを自然に訳すなら、「今かりに」ではなく、やはり「ところが今」になろう。
そして、その「ところが」は「今」がもつ意味ではなく、「今」が用いられる状況から生まれてくる文脈上補われる意味に過ぎないと思う。
楚永安は『文言复式虚词』の「今夫」の項目において、次のように述べる。
「句首语气词的连用形式。“今”本来是时间名词,“夫”本来是指示代词,可是当其结合起来用于句首的时候,一般则虚化为语气词。“今夫”一般用于一段话的开头,表示要发表议论。如果它后面紧跟的是名词,“夫”字还带有轻微的指代意味。从前后文的关系来看,“今夫”所引出的话有时带有进层的性质,有时带有举例的性质,有时带有转折的性质,有时表示列举,等等」(文頭の語気詞の連続して用いる形式。「今」はもともと時間名詞であり,「夫」はもともと指示代詞であるが,それらが結合して文頭で用いられる時,一般には虚化して語気詞となる。「今夫」は一般に一つの話の最初で用いられ,議論を発表したいことを表す。もしそのすぐ後が名詞であれば、「夫」字はなお軽微な指示代詞の意味を帯びる。前後の文の関係から見ると,「今夫」が引き出す話は、進層的な性質を帯びたり、例を挙げる性質を帯びたり、逆接の性質を帯びたり、列挙を表示したりする、等々)
つまり、「今かりに」という意味を表したり、「ところが今」という意味を表したりすると見られるものも、あくまで文脈上そう解釈し得る、そう解釈した方がすんなり理解できるということであって、「今」そのものが仮定や逆接の意味を有しているわけではない。
あくまで用いられる環境の問題なのではないか。
また、「夫」は語気詞として「そもそも」などと訳したりもするが、楚永安が指摘しているように、指示代詞としての機能はやはり残っていて、「今夫水」が「今あの水(は)」という意味を表すことも十分考えられる。
(12)【水搏而躍之】「搏」は、手でうつの意。
水面を素手でたたくのである。
「搏而」は、手でうって。
「而」は方法格が本来で、「躍之」(これを跳び上がらせる)という作用は、「手でうって・手でうつことによって」という作用を経由して成立するのである。
状語(連用修飾)的な用法で、いわゆる順接・逆接では片付かない。
「躍」は、跳び上がる。
自動詞であるが、本来主語である「水」を指す「之」を賓語にとることによって、跳び上がらせるという他動詞の意味を生じる使動用法である。
(13)【可使過顙】「顙」は、額。
「過顙」とは、手でうって跳ね上がった水が、人の額の高さを越えることをいう。
この句、語を補い書き改めると、前句の「水」を主語にとって、「(跳び上がらせた)水可使之過額」となるが、普通は「之」を置かないことが多い。
たとえば「胡可伐」(胡の国は攻めてよい 韓非子・説難)などがそれであるが、「治天下可運之掌上」(天下を治めることはそれを手のひらの上で転がすことができる 孟子・公孫丑上)のような例もある。
「使之過額」は使役の兼語文とされる構造なので、それに従えば、「之を使役し、(使役される)之が額を過ぎる」という構造で説明される。
すなわち、謂語「使」+賓語「之」(それを使役する)における賓語「之」が、次に主語に転じて、主語「之」+謂語「過」(それが過ぎる)となる。
指示代詞「之」は兼語文以外では通常主語にはならない語なので疑問を感じないでもないが、現在の語法学ではこのように説明されよう。
あるいは、松下大三郎の説くように、「使」は「して」であって、「之使(し)て」であるがゆえに、後の「過」が使役の意味を帯びると解する方が無理のない説明かもしれない。
「(水)可使過額」は、主語の「水」が「使過額」(額の高さを過ぎさせる)ということについて「可」(よろしい・できる)という意味である。
「可」は助動詞とされるが、もとは「よろしい」という意味の形容詞であり、「A可B」(ABすべし)の形をとって、Aが「Bする」ということについて可であるの意を表す。
つまり、「Bする」を基準としてAがそれにかなうから、Bしてよい、Bすることができるという意味になるのだ。
(14)【激而行之】句の構造は(12)と同じ。
「激」は、突き当たる。
水が障害物にあたって勢いを増すことを言う。
せき止めて水の勢いをつけることをいうか。
「激而」は「搏而」と同じ構造で、せき止めて。
せき止めることによっての意を含む。
「行」は、ここでは流れるの意の自動詞だが、水を指す「之」を賓語にとることで、「行かせる・流れさせる」の意の使動態になっている。
(15)【可使在山】(13)と同じ構造。
この句も語を補い書き改めると、「水」を主語にとって、「(跳び上がらせた)水可使之在山」となる。
現在の語法学によって兼語文と解せば、「之を使役し、(使役される)之が山に在る」という構造になり、結果的に使役を表す。
「(水)可使在山」も、主語の「水」が「使在山」(山に在らせる)ということについて「可」であるという意味。
(11)以降、この句まで、本来上から下に流れる性質をもつ水に、搏激の力を加えることで、真逆の上に流れるという現象を生じさせることが可能であることをいう。
(16)【是豈水之性哉】「是」は、中称の代詞。
ここまでに述べられた、外的な力を加えた際の水が上に流れる現象を指す。
「豈」は推定疑問の副詞。
「どうであろう?」と疑いを設けてみるのである。
これを「豈」とあれば反語の副詞と思い込み、「何」と同じなどと考えると、誤訳しやすい。
「豈」に「どうであろう?」を置いて訳してみれば、文意は明瞭になる。
本来は上から下に流れる水を、外的な力を加えて上に流れさせることはできるが、「それはどうであろう?水の(本来の)性質か?」となる。
もちろんそうではないから、結果的に反語になるわけだ。
それに対して、「荊卿豈有意哉」(荊卿豈に意有りや 史記・刺客列伝)の場合なら、「荊軻殿はどうであろう?考えがあるか?」で、つまり「荊軻殿は何か考えがおありか」という推定疑問になる。
また、「世皆争為之、豈不悲哉」(世皆争ひて之を為す、豈に悲しからずや 呂氏春秋・孟冬紀)なら、「世の人は争ってこれをするが、どうであろう?悲しくないか?」で、「なんとも悲しいではないか」となるわけだ。
「豈」の働きを知るべきである。
「水之性」は、水の本来の性質。
「哉」は語気詞。疑問、反語の語気を表す。
(17)【其勢則然也】「勢」は、「外から加わる勢(ある力)である」(『新釈漢文大系』)、「(外から加わった)勢いが。ここでは、水を手でたたいたり、強い力でせきとめたりすること」(『研究資料漢文学』)とされ、最近の参考書では、外的な力と一般化した上で、この箇所では前述された行為を指すように説明されている印象がある。
古くは『孟子示蒙』が「その搏激せらるゝ勢は」と訳し、『孟子通解』は「搏激の勢力なり」とする。
「其」は「勢」の所有者を表しているのだから、前述された「搏而躍之」「激而行之」という行為を指していると考えるのが自然であろう。
つまり、「手でうったり」「せきとめたり」する行為により増した水の勢い。外的な力と一般化されたものではあるまい。
「則」は法則を原義として、ここでは分説を表し、「は」、「それは」の意。
前句で、上から下に流れるはずの水が逆に上へと流れる現象を生じているのは水の本来の性質ではないことを述べ、しかし、「搏激の勢、それは」と水とは分けて説く。
もし合説であれば、「其勢亦然也」で、「搏激の勢もそうであるのだ」で、水の本来の性質と同じく下へ流れる力となるが、そうではなく真逆だから、「則」を用いて、水とは別だと分けて説くのだ。
日本語の「は」に通じるが、あえて「則」を用いているのは、それより強いことを示す。
「然」は、代詞。
前述された水が上へ流れる現象を指す。
その意味で「(水の本来の性質とは逆に)上へ流れさせる」という使役の内容にとるとわかりやすいが、「然」が使役を表すわけではないし、「搏激の勢、それはそうなのだ」でも通る。
「也」は、説明の語気を表す語気詞。
(18)【人之可使為不善】 この句、宇野精一は『全釈漢文大系・孟子』で、次のように述べている。
「なお、終わりの『人之可使為不善』の句は、通常『人の不善を為さしむ可き』と読むが、この『之』は強めの助辞で倒装法とみられるから、『人をして不善を……』、または『人にして不善を……』と読みたい。『可使為』は『させることができる』の意だが、今、通釈のように表現しておいた」
そしてその通釈は「人間も不善をなすことがあるのは」となっている。
また、『研究資料漢文学』は次のように述べる。
「(人間の本性は善でありながら、時として)人間に不善をさせることができるというのは。『可使人為不善』(人をして不善を為さしむべきは)の倒置形。句勢の強調をはかる。『之』は、倒置形の時に用いる強調の助字。したがって『人に之れ不善を……』と読む方がよいのだが、慣用的な読み方に従っておいた」
さらに、『漢詩・漢文解釈講座』も次のように述べる。
「『人の不善を為さしむべし』と読む。普通なら『可使人為不善』(人をして不善を為さしむべし)となるところであるが、「人」を強めるために前に出し、倒置形としたのである。「之」は倒置形で用いる強調の助字。したがって『人に之れ不善を……』と訓読する方が理にかなっているのであるが、ここでは慣用的な読み方に従って『人の不善を……』と読んだ。「人に不善をなさせるのは』の意」
先に引用した前田康晴の『研究資料漢文学』と、この項でもほぼ同内容である。
いずれも「之」を倒置の助字として、この句を倒置形とみなしているが、疑わしい。
まず、「之」は結構助詞で、この字自体にはたしかに倒置構造を示す働きはあるが、この句での用法はそうではない。
この句は本来「人可使為不善。」(人不善を為さしむべし。)という独立した文の、主語「人」と謂部「可使為不善」の間に「之」を置いたもので、(4)で述べた構造である。
それにより名詞句となり、文の主語として、後の謂部「其性亦猶是也」に対するものとなっているのである。
倒置の助字なのではないし、「人之可使為不善」は倒置文でもない。
では、「之」の置かれぬもとの句「人可使為不善」はどういう構造であるかというと、(12)~(15)で述べたのと同じで、「人」が「使為不善」(不善をなさせる)ということに照らして可であるというに過ぎない。
前述したように「可」は助動詞とされるが、もとは「よろしい」という意味の形容詞であり、「A可B」(ABすべし)は、「AはBすることに対して可である」から「AはBしてよい」「AはBすることができる」という意味になるからだ。
引用した3書はいずれも倒置でない形が「可使人為不善」であると説くが、それも疑わしい。
「人可使為不善」であれば、「使為不善」(不善をなさせる)ことに対して可であるのが「人」であり、すなわち「人」は主語である。
これは「人については不善をなさせることができる」と訳してみれば文の成り立ちがよくわかる。
しかし、「可使人為不善」であれば、「使人為不善」(人に不善をなさせる)ことに対して可であるのは何か。
明示されない主語は少なくとも「人」ではない。
あるいは天か。
たとえば「胡可伐」(胡の国は攻めてよい)という文は、「胡」については「伐」(攻める)対象として可であるという意味である。
そのため、「胡」は関係上「伐」の客体になるが、あくまで主題として示された主語である。
受事主語というべきではなかろう。
「A可B」(ABすべし)の形が多くの場合、AがBするという行為の客体になるのは、Bするという他動の対象としてふさわしいからだ。
しかし、仮に「可伐胡」(胡を伐つべし。)という文があるとした場合、「胡を攻める」のにふさわしいものは決して「胡」ではなく、何か別のものになる。
結論として、「人可使為不善」と「可使人為不善」とでは、まったく意図の異なる文になってしまう。
前者は「人については、不善をなさせることができる」だが、後者は「何かについては、人に不善をなさせることができる」となる。
なお、「A可B」(ABすべし)の形は、通常行為主を問題としない。
つまり、「胡可伐」という表現自体は「胡」が攻めるにふさわしいかだけに焦点があり、誰が攻めるかという行為主を問題としていない。
同様に、「人可使為不善」は、何が人に不善をなさせることができるかということには触れていない。
もし行為主を明示するとなれば、普通は「A可以B」(A以てBすべし)の形をとる。
「Aは(その立場)で、Bすることができる」という意味を表しうるからだ。
「初心不可忘」(初心忘るべからず)と「人不可以忘初心」(人以て初心を忘るべからず)の違いを考えてみればわかるはずだ。
(19)【其性亦猶是也】「其性」は、人の性質。
指示代詞「其」は「性」の所有者を表す。
「亦」は、~もまたの意。
合説を表す。
水の性質が本来下へ流れるのに、搏激の勢により上へながれることもあると述べた上で、「人の性質も」と合わせて説くのだ。
「猶」は近似を表す動詞。
「猶是」で、それに似る、それと同じだの意。
「是」は中称の代詞。
「それ」に近い。
ここでは水の性質が搏激の勢により本来の性質とは異なる動きをすることを指す。
「也」は説明の語気を表す語気詞。
なお、「猶是也」の部分、最近の教科書や参考書では「なほかくのごとければなり」と読まれることがあるが、日本語の助動詞「ごとし」に已然形「ごとけれ」はないので、よろしくない。
ただ、近世の訓読における特殊な活用として許容されることもあるのやもしれぬ。
【文の成分および品詞分解】(←クリックしてください)