『史記』「鴻門の会」注解8
(内容:『史記』「鴻門の会」の文法解説。その8。)
『史記』「鴻門の会」注解8■原文(1)
乃令張良留謝。良問曰、「(2)
大王来何操。」曰、「(3)
我持白璧一双、欲献項王、玉斗一双、欲与亜父、(4)
会其怒、(5)
不敢献。(6)
公為我献之。」張良曰、「(7)
謹諾。」(8)
当是時、(9)
項王軍在鴻門下、沛公軍在覇上、(10)
相去四十里。(11)
沛公則置車騎、(12)
脱身独騎、(13)
与樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持剣盾歩走、(14)
従酈山下、(15)
道芷陽間行。(16)
沛公謂張良曰、「(17)
従此道至吾軍、(18)
不過二十里耳。(19)
度我至軍中、(20)
公乃入。」■訓読乃ち張良をして留まり謝せしむ。良問ひて曰はく、「大王来たるに何をか操(と)る」と。曰はく、「我白璧(はくへき)一双を持し、項王に献ぜんと欲し、玉斗一双は亜父に与へんと欲するも、其の怒りに会ひて、敢へて献ぜず。公我が為に之を献ぜよ」と。張良曰はく、「謹みて諾(だく)す」と。是の時に当たり、項王の軍は鴻門の下(もと)に在り、沛公の軍は覇上(はじやう)に在り、相去ること四十里なり。沛公則ち車騎を置き、身を脱して独り騎し、樊噲(はんくわい)夏侯嬰(かこうえい)、靳彊(きんきやう)、紀信(きしん)等四人の剣盾(けんじゆん)を持し歩走するものと、酈山(りざん)の下より、芷陽(しやう)に道して間行す。沛公張良に謂ひて曰はく、「此の道より吾が軍に至るは、二十里を過ぎざるのみ。我の軍中に至るを度(はか)り、公乃ち入れ」と。■訳そこで張良に(その場に)留まり謝らせた。張良は、「大王が来られる時何を持参されましたか」と質問した。(沛公は)「私は白璧一対を持参し、項王に献上しようとし、玉斗一対は亜父に与えようとしたが、彼らの怒りにあい、献上できなかった。あなたは私に代わりそれを献上してくれ」と言った。張良は、「謹んで承諾します」と言った。この時、項王の軍は鴻門のもとにあり、沛公の軍は覇上にあり、互いに四十里離れていた。沛公はそこで車騎を置いて、脱出して単身馬に乗り、樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信ら四人の剣と盾を持って走るものと、酈山のふもとから、芷陽に道をとり抜け道を通った。沛公が張良に、「この道からわが軍に至るのは、二十里に満たない。私が軍中に到着する頃を見計らって、あなたは(宴会場に)入ってくれ」と言った。■注(1)【乃令張良留謝】「乃」は、前に述べた行為や事情を受けて、次の行為や事情との関係を述べる時に用いる副詞。
因果関係が密接ということから「そこで」と受けたり、逆の事情や対立があるために「かえって」、予想外の事態であるために「なんと、意外にも」等、前後の関係を見極めて意味を考えなければならない。
その働きからは連詞のようにも思え、そう説く学者もあるが、現在は概ね関連を表す副詞に分類されている。
「令張良留謝」は、「(沛公)令張良」(沛公が張良を使役する)と「張良留謝」(張良が留まり謝る)という2文が、兼語「張良」を介して1文になる使役の兼語文。
1の(9)参照。
「謝」は、1の(2)で述べた。
(2)【大王来何操】「来」は「来る」の意の動詞だが、ここでは謂語「操」(持つ)を連用修飾する副詞のように働いて、「来たとき」という意味を表している。
「何操」は、賓語「何」+謂語「操」の構造。
賓語が疑問代詞であるために、謂語の前に倒置されたもの。
「操」は、持つの意の動詞。ここでは持参するの意。
(3)【我持白璧一双、欲献項王、玉斗一双、欲与亜父】いうまでもなく「我持白璧一双、欲献項王、持玉斗一双、欲与亜父」の省略形である。
これだと「白璧一双」、「玉斗一双」は謂語「持」の賓語になる。
しかし、実際には「玉斗一双」には謂語がないのだから単独の賓語ということはできない。
この場合は、「欲与亜父」に対して主題主語となっているとでもいうほかはない。
「玉斗一双は」「玉斗一双については」とでも訳せばよい。
「璧」は、扁平な円形で中央に孔(あな)があいた玉器。
殷代にはすでにあり、主に白または緑の軟玉で作られ、祭器や身分の証や装飾等に用いられた。
古くは無地であったが、戦国時代には穀粒文(穀物の粒状の文様、臥蚕紋ともいう)が施されたものが多く、沛公が持参したものもそれらの可能性がある。
「玉斗」は、玉製の酒びしゃく。
「双」は、2つで1つのものを数える量詞。
「一双」は、一対。
「欲」は、意志や願望を表す助動詞。~しようとする。~したいと思う。
ちなみにこの箇所、梁玉縄『史記志疑』は、白璧と玉斗の出どころに疑義を呈している。
つまり、沛公が項伯に述べ、また樊噲が項王に述べた「豪毛不敢有所近」(秦の宝物をいささかも私物化しようとはしなかった)というのが事実であれば、白璧と玉斗を沛公がもっているはずがなく、その出どころが秦の宝物であれば、曹無傷の中傷は嘘ではなかったことになるというわけだ。
(4)【会其怒】「其」は、人称代詞。彼、または彼ら。
項王、または項王と范増を指す。
鴻門の会の前夜に、項伯はかつての命の恩人張良を訪ね、その機に沛公とも義兄弟の契りを結び、項王にとりなしを行っている。
沛公が先に関中に入ったおかげで項王も中に入れたのに、かえって大功のある沛公を攻撃するのは不義であるというもっともな言い分で、項王は「許諾」している。
項王の怒りはこれにより沈静化したと思われるが、「会其怒」という以上は、まだ怒りの態度を示したいたということであろうか。
あるいは、項王はともかく、この機に沛公を殲滅したい范増が態度に示していたということか。
なお、『会注考証』は、項伯が張良や沛公とのやりとりをつぶさに項王に述べて説得したことについて、項王の命なく勝手に張良や沛公に会うこと自体が軍事機密の漏洩にあたる重罪であり、そんなことを項王に言えるはずもなく、『史記』の記述のすべてを信じるわけにはいかないと述べている。
どうあれ、沛公が白璧玉斗を渡せなかったのは、項王方の激しい剣幕のためだったということになり、鴻門の会の冒頭から見られるような沛公方の論理的な優勢のみではなかったことになる。
(5)【不敢献】「不敢」については、6の(8)で述べた。
項王方の怒りをおしてまで献上する勇気はなかったということ。
日本語の自然な訳として、「献上できなかった」としたが、別に不可能を表すわけではない。
(6)【公為我献之】主語「公」+謂語「献」+賓語「之」の構造。介詞句「為我」は謂語を連用修飾する。
「公」は、あなた。
もとは爵位の第一の地位を表すことばで、諸侯に対しても用いた語。
ここでは他者に敬意をこめて呼ぶ時に用いる用法。
「お前は」などと訳してある本があるが、沛公はそのような無礼な言い方をしていない。
介詞「為」は、さまざまな意味を表すが、ここでは受益の対象を表し、~のためにの意。
白璧玉斗を項王と范増に献上することは、沛公のためになることであり、沛公になりかわっての行いになるので、~に代わってと訳しておいた。
(7)【謹諾】「謹」は、会話や手紙文、上奏文に用いて、相手への敬意を表す副詞。つつしんで、うやうやしく。
「諾」は、単に返事や承諾で「はい」ぐらいの意味で用いられることがあり、その場合は嘆詞に分類されるが、ここでは副詞の「謹」の修飾を受けていることもあり、「承諾する」の意の動詞とする。
(8)【当是時】介詞「当」は、「当~」、「当~(之)時」などの形で用いられ、動作行為が発生する時間を表す。~する時に、~の時に。
ここでは「是時」を介詞の賓語に伴っているので、「この時に」と訳せばよい。
なお、通常は謂語を修飾する副詞が、文頭に置かれて文全体を修飾することがあるように、この介詞句「当是時」も文頭に置かれて、後の文全体を修飾している。
「是」は近称の指示代詞。沛公たちが脱出をはかっている時点を指す。
(9)【項王軍在鴻門下、沛公軍在覇上】「在」が、存在することに重点が置かれる「有」とは異なり、どこに存在するかに重点が置かれる語であることは前に述べた。
「下」は、方位詞で名詞に含まれる。
いわゆる「した」ではなく、名詞の後に置かれ、ここでは「付近、あたり」ぐらいの意。
(10)【相去四十里】「相」は、ここでは「互いに」の意の副詞。
ただし、「相」にはそれ以外に、「次々に、あとからあとから」と続く意味、また、「相思」(あなたを思う)のように動作行為の対象を示す働きもあり、「相」とあるからすぐさま「互いに」の意だと思い込んではならぬ。
「去」は、離れるの意。
「里」は、当時の1里は、415.8m、40里だと約16.6kmになる。
この句の構造は、謂語「去」+補語「四十里」。
互いに四十里離れていたということ。
さて、この鴻門と覇上が四十里離れていたということについては、梁玉縄『史記志疑』が疑義を呈している。
鴻門が鴻門亭で新豊の東方十七里にあり、覇上が覇水のほとりであるとすれば、七十七里離れていたはずで、里数が合わないとする。
(11)【沛公則置車騎】「則」は「そこで」の意。3の(9)で述べた。
前の内容を受けて、後に続ける働きで、前の内容を踏まえれば、こうなると法則の働きで示す。
張良に後を任せ、脱出の準備が整い、四十里の道を一刻も早く走破するために、必然的に車騎を置くわけである。
「即」に通じて「すぐに」と解する説もあるが、そうではあるまい。
「置」は、留めるの意。
「車騎」は、車馬。謝罪に訪れている以上、戦車であろうはずもない。
(12)【脱身独騎】「脱身」は、危機的状況から抜け出すの意。脱出する。
「独」は、限定の副詞。ここでは、一人だけ、単身の意。
「騎」は、馬に乗るの意の動詞。
(13)【与樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持剣盾歩走】介詞句で、謂語「(間)行」(ひそかに行く)を連用修飾する。
「与」は、動作行為をともにする対象を表す介詞。~と。
「樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持剣盾歩走」は、「樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信ら四人が剣と盾を持って徒歩で行く」という意味だが、介詞の賓語であるため、「~剣と盾をもって徒歩で行くもの」という名詞句になっている。
「歩走」は、沛公の「独騎」に対する表現で、馬に乗らず徒歩で行くの意。
必ずしも走るに限定されないが、ここは沛公を護衛しているわけだから、当然走ることになる。
(14)【従酈山下】これも介詞句で、謂語「(間)行」を連用修飾する。
「従」は、場所の起点を表す。~から。
(15)【道芷陽間行】「道」は、道をとる、経由するの意の動詞。
本来は名詞だが、「芷陽」を賓語にとることで動詞のように働いているのだ。
「間行」は、抜け道をひそかに行くの意。
「間」の原義は「門を閉じた隙間」。引申義で、こっそり、秘密裏にの意の副詞として用いる。
また「間」自体を「近道、抜け道を通って」の意とする説もある。
(16)【沛公謂張良曰】 「謂~曰」の用法については、3の(1)に述べた。
(17)【従此道至吾軍】「従此道」は介詞句で、謂語「至」を連用修飾する。
介詞「従」は場所の起点を表す(14)の用法とは異なり、動作行為の拠り所を表す。
ここでは「この道を通って」の意。
なお、この句は、後の「不過二十里耳」に対して主語の関係としたが、複文の前句として、「この道を通ってわが軍に至らば」という仮定を表しているとも解せる。
(18)【不過二十里耳】「不過~」は、「~を上回らない、~に満たない」の意。
つまり、「不過二十里」は二十里未満である。
日本語で「二十里に過ぎず」といえば、「二十里である」と受け取られるが、そういう意味ではない。
そこで誤解を招かぬよう「二十里を過ぎず」と読んでおいた。
なお、「二十里」は8.3km。
歩走する四人に合わせて馬が走る速度として時速40kmを想定した場合、12分かかる距離。
ここでは二十里に満たないわけだから、10分ぐらいで覇上に到着するものと思われる。
「耳」は限定の語気詞。6の(18)参照。
(19)【度我至軍中】謂語「度」+賓語「我至軍中」の構造。
「我至軍中」は、「私が軍中に到着する」の意だが、ここは名詞化している。
結構助詞「之」を用いて「我之至軍中」とすれば、より明確になる。
「度」は、推し量る。この意味の時の音は「タク」。「忖度(そんたく)」がその例。
(20)【公乃入】「公」は(6)に既出。
「乃」は、前の行為を受けて、後に述べることが起こる意味を表す副詞。
「~してはじめて、やっと」の意だが、ここでは「私が軍中に到着した頃を見計らった上で」ぐらいの意。【文の成分および品詞分解】(←クリックしてください)