『史記』「鴻門の会」注解7

(内容:『史記』「鴻門の会」の文法解説。その7。)

『史記』「鴻門の会」注解7

■原文
(1)沛公已出、(2)項王使都尉陳平召沛公。沛公曰、「(3)今者出、(4)未辞也、(5)為之奈何。」樊噲曰、「(6)大行不顧細謹、大礼不辞小譲。(7)如今(8)人方為刀俎、我為魚肉、(9)何辞為。」(10)於是遂去。

■訓読
沛公(はいこう)(すで)に出づるに、項王都尉(とゐ)陳平(ちんぺい)をして沛公を召さしむ。沛公曰はく、「今者(いま)出づるに、未だ辞せざるなり、之を為すこと奈何(いかん)せん」と。樊噲(はんくわい)曰はく、「大行(たいかう)は細謹を顧(かへり)みず、大礼は小譲を辞せず。如今(いま)人は方(まさ)に刀俎(たうそ)たり、我は魚肉たり、何ぞ辞せんや」と。是(ここ)に於て遂(つひ)に去る。

■訳
沛公はすでに(宴会場を)出てしまったが、項王は都尉の陳平に沛公を呼ばせた。沛公は、「今(宴会場を)出て、まだ別れの言葉を述べていないのだが、これをすることはどうすればよいか」と言った。樊噲は、「大きな行いは細かい謹みは気にせず、大きな礼は小さな謹みは気にかけない(と言います)。今、相手はちょうど庖丁とまな板で、我々は魚と肉なのであって、どうして別れの言葉を述べましょうか」と言った。そこでそのまま去った。

■注
(1)【沛公已出】
「已」は、動作行為がすでに完了してしまっていることを表す時間副詞。もう、とっくに、すでに。

(2)【項王使都尉陳平召沛公】

「項王使都尉陳平」(項王が都尉の陳平を使役する)と「都尉陳平召沛公」(都尉の陳平が沛公を呼ぶ)という2つの文が、兼語「都尉陳平」を介して1つになった使役の兼語文。
「使」は動詞である。
使役の兼語文は1の(9)に既出。


「召」は、3の(1)参照。


「都尉」について。
『史記・集解』に、ある本には「都」の字がないとの徐広の説を引用している。
このことについて、梁玉縄『史記志疑』は、『史記・陳丞相世家』では、陳平が都尉に任命されたのは漢が三秦を平定した後で、漢の元年八月であり、この時まだ都尉にはなっていないことから、徐広の説を是として、「都尉」は「尉」の誤りであるとする。
なお、尉は軍事をつかさどる役職だが、都尉は、将軍に次ぐ地位にある。


(3)【今者出】

「今者」は既出。1の(8)参照。

(4)【未辞也】

「未」は、動作、行為や現象がまだ生起しないことを表す否定副詞。まだ~しない。

「辞」は、別れの言葉を告げる。6の(2)参照。


「也」は、語気詞。陳述の語気を表す。


(5)【為之奈何】

「之」は代詞。「辞」(別れの挨拶)を指す。

この文のように、「奈何」や「如何」「若何」が単独で謂語となる場合は、通常動詞性の疑問「どうすればよいか」という意味を表す。
しかし、形容詞性の疑問「どうであるか」の意の「何如」や「何若」と使用法が混乱して、「奈何」「如何」「若何」で「どうであるか」という意味を表していると考えられる例も多い。
この例もあるいは、「別れの言葉を告げるのは、どうであるか」の意かもしれぬ。


(6)【大行不顧細謹、大礼不辞小譲】

『史記・李斯列伝』にも「大行不小謹、盛徳不辞譲」(大事には小さな謹みはせず、徳あるものはへりくだらない)という類似の表現があり、当時の慣用表現と思われる。
「大礼不辞小譲」は、日本では「大きな礼のためには小さな慎みを気にかけない」の方向で解されているが、中国では「不辞」を「拒まない、恐れない」、「小譲」を「小さな責め」として、「小さな責めを恐れない」の意とするものもある。


(7)【如今】

「如今」は、今、現在、目下の意。どのような成り立ちの語かは不明。

(8)【人方為刀俎、我為魚肉】

主語「人」+謂語「為」+賓語「刀俎」、主語「我」+謂語「為」+賓語「魚肉」の構造。
「為」は繋辞で、英語のbe動詞にあたる動詞。
判断文に用いられ、~であるの意を表す。
同じ繋辞の「是」が一般に用いられるようになるのが魏晋以降であるのに対し(ただし古くにも少し用例はみられる)、「為」は早くから用いられていた。動詞の「~となる・担う」の意からの引申義であろう。


「方」は、多く適時を表し、行為や状況がまさに生起していること、しつつあることを表すが、ここでは、置かれた状況がまさしく~であるという判断を表す。


「刀俎」が包丁とまな板を指すように、「魚肉」も魚と肉。
魚の肉ではない。


(9)【何辞為】

「何」は反語の語気副詞。
「何」「豈」「安」などの反語の語気副詞を用いた表現、たとえば「何A」を、我々は「どうしてAするだろうか(いや、Aしない)」などと訳すが、ニュアンスとしては、「どう?Aする?」するわけないだろう!のような表現である。
ここも、「どう?挨拶しますか?」そんなことするわけないでしょう!と樊噲は述べているのである。


「何――為」の「為」を語法的にどう解釈するかは難しい。
漢文の教科書でも古くは「何辞為」を「何ぞ辞するを為さん」と読み慣わしてきたものを、最近は「為」を疑問の文末助字として「何ぞ辞せんや」などと読んでいるのは、中国の虚詞解釈の流れの中にあるもので、近頃は本邦の漢和辞典にも記載が見られる。
すなわち「為」は疑問の語気詞とするのが主流の解釈だということである。


しかし、実はこの「為」についてはさまざまな説がある。清の劉淇『助字弁略』や王念孫『読書雑志』、その子王引之『経伝釈詞』は語助、すなわち口調の上で用いられる意味のない字とする。

語気を表すとする流れの中で、楊樹達『詞詮』、裴学海『古書虚字集釈』、楊伯峻『文言虚詞』は疑問を表す語末助詞とする。
張志明『論在古代漢語中為不能作語気詞』において、語気詞を否定し動詞とする。

本邦でも、太田辰夫は動詞としつつなおも疑問が残るとする。

それぞれの説について述べるのはここでは控えるが、簡単に文末に用いられる疑問の語気詞と結論づけられるものではない。

牛島徳次は「『何以為』の『為』について」(「中国語学」115号1961)において、上記の中国の説および太田辰夫の説を詳細に比較検討し、語気詞や介詞とする説を語法的に否定、特定の『史記』『漢書』に見える文例にしぼって考察し、「何――為」の「――」が動詞の場合、「何」が状語で、意味的には「――」が謂語動詞「為」の賓語または補語に相当すると結論づけた。
つまり「なぜ――をなすのか」の意である。そもそも「何――為」という反語文は「無――為」の意であるが、『史記』に引用される『春秋左氏伝・哀公十五年』の「公孫敢門焉、曰、無入為也」(公孫敢が門を閉じていて、(入ろうとする子路に)中に入ってはいけないと言った)に晋初の杜預が「言輒已出、無為復入」(衛の出公である輒はもう出国した、もう入ることをしてはいけないというのである)という注をつけ、この箇所を描いた『史記・衛康叔世家』の「公孫敢闔門、曰、毋入為也」に対する『集解』に後漢の服虔の解として同じ注があることなどが論拠の一つで、「為」を動詞として「――」がその賓語の可能性を認めたものである。
つまり、後漢末、晋初という古い時代の学者の解釈に従えば、「何――為」は「なぜ――をなすのか」と解するのが妥当ということになるわけだ。


また西田太一郎氏は『漢文の語法』(角川書店1980)で、劉淇や王念孫、王引之の語助とする説に従い、また同氏は『漢文教室138号』(大修館1981)で、136号における戸川芳郎氏の「何…為」を「無…為」「亡…為(也)」をも含めて一つのまとまったニュアンスを表す反詰の文型として「…する必要があろうか(いまさら…するに及ばぬ)」としてまとめられるとする説を否定して論争になった。


この問題はとうてい解決したものとは考えられず、なおも解明が必要であろう。
私的には牛島氏の説が妥当かと思うが、本稿、現在主流の説により、とりあえず反語の語気詞としておく。


(10)【於是遂去】

「於是」は、もともと介詞と指示代詞からなる介詞句で、行為や事象の発生する場所や時を表し、「この時・その時」「この場所で・その場所で」などの意味を表す。
しかし、この例のように前節の内容を受けて、「そこで」ぐらいの意味で用いられる場合は、連詞とみなしてよい。


「遂」は、5の(4)参照。


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