『史記』「鴻門の会」注解6

(内容:『史記』「鴻門の会」の文法解説。その6。)

『史記』「鴻門の会」注解6

■原文
項王曰、「(1)壮士、能復飲乎。」樊噲曰、「(2)臣死且不避、卮酒安足辞。(3)夫秦王有虎狼之心、(4)殺人如不能挙、刑人如恐不勝、(5)天下皆叛之。(6)懐王与諸将約曰、『(7)先破秦入咸陽者王之』。今沛公先破秦入咸陽、(8)豪毛不敢有所近、(9)封閉宮室、(10)還軍覇上、(11)以待大王来。(12)故遣将守関者、(13)備他盗出入与非常也。(14)労苦而功高如此、(15)未有封侯之賞、(16)而聴細説、(17)欲誅有功之人。(18)此亡秦之続耳、(19)窃為大王不取也。」(20)項王未有以応、曰、「坐。」(21)樊噲従良坐。(22)坐須臾、(23)沛公起如廁、因招樊噲出。

■訓読
項王曰はく、「壮士なり、能(よ)く復(ま)た飲むか」と。樊噲(はんくわい)曰はく、「臣死すら且つ避けざるに、卮酒(ししゆ)(いづ)くんぞ辞するに足らん。夫(そ)れ秦王虎狼の心有り、人を殺すこと挙ぐる能(あた)はざるがごとく、人を刑すること勝(た)へざるを恐るるがごとく、天下皆之に叛(そむ)く。懐王(くわいわう)諸将と約して曰はく、『先(ま)づ秦を破りて咸陽(かんやう)に入(い)る者之に王とす』と。今沛公(はいこう)先づ秦を破りて咸陽に入るに、豪毛(がうもう)も敢へて近づくる所有らず、宮室を封閉し、軍を覇上(はじやう)に還(かへ)して、以て大王の来たるを待つ。将を遣(つか)はし関を守らしむる故(ゆゑん)は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。労苦(はなは)だしくして功高きこと此(か)くのごときに、未だ封侯(ほうこう)の賞有らずして、細説を聴きて、有功の人を誅(ちゆう)せんと欲す。此れ亡秦の続(ぞく)のみ。窃(ひそ)かに大王の為(ため)に取らざるなり」と。項王未だ以て応(こた)ふる有らず、曰はく、「坐せよ」と。樊噲良に従ひて坐す。坐すること須臾(しゆゆ)にして、沛公起(た)ちて廁(かはや)に如(ゆ)き、因(よ)りて樊噲を招きて出づ。

■訳
項王は、「意気盛んな男だ、さらに飲むことができるか」と言った。樊噲は、「私めは死すら避けませんのに、卮酒はどうして断るほどのものでしょうか。そもそも秦王には虎狼の心があり、数え切れないほど人を殺し、しつくせないほど人を処刑したので、天下はみな彼にそむきました。懐王は諸将に約束して『真っ先に秦を破り(都の)咸陽に入ったものは王とする』と言いました。今沛公は真っ先に秦を破って咸陽に入りましたのに、いささかも私物化したものをもとうとせず、宮殿を閉鎖し、軍を覇上に戻して、大王のいらっしゃるのを待っていました。将軍を派遣して関を守らせたのは、他の盗賊の出入りと非常事態に備えるためです。こんなにも苦労して功績が高いのに、まだ封侯の賞もないばかりか、つまらぬ讒言を聞いて、手柄のある人を誅殺しようとなさる。これは滅んだ秦の延長に他なりません。はばかりながら大王様のために賛成いたしません」と言った。項王は答えるすべがなく、「座れ」と言った。樊噲は張良に従い座った。(樊噲は)しばらく座り、沛公は立ち上がり厠へ行き、その機に樊噲を呼び(部屋を)出た。

■注
(1)【壮士、能復飲乎】
この句だけみれば、「壮士能復飲乎」と句読して、主語「壮士」+謂語「能復能」+語気詞「乎」の形で「意気盛んな男はさらに飲むことができるか」と解することもできる。
しかし、項王は上文において、「壮士、賜之卮酒」と述べており、この場合は「壮士」を「賜」の主語とみなすことはできない。
「壮士」は、ここでも樊噲に対する賛辞とみなす方が自然なので、単独の謂語とした。


「能」は1の(6)で述べた。可能の助動詞。
助動詞は動詞を賓語にとるが、その動詞は副詞や副詞に準じる語によって修飾されることがある。
ここはその形。副詞「復」に修飾された「飲」、すなわち「復飲」を賓語にとっているのだ。


「復」は、重複副詞。
同じ動作や状況がもう一度繰り返されることを表す場合と、動作や状況がさらに続くことを表す場合がある。
前者なら「もう一度」、後者なら「さらに」ぐらいに訳すことになるが、ここでは「もう一杯飲めるか」でも「さらに飲めるか」でも通じる。


「乎」は疑問を表す語気詞。


(2)【臣死且不避、卮酒安足辞】

日本では抑揚の形と呼ばれる進層表現。
連続する二つの文において、前文で「実現性の低そうな状況が意外にも成立する」ことを述べ、後文で「それよりも実現性の高い状況ならばなおさら成立する」ことを述べる形を抑揚の形という。


一般的には、前文で「A且B(または、A猶B)」(AでさえBする・Bである)の形をとり、後文で「況C乎」(ましてCはなおさらだ)で成立の当然を示す。
この「且」または「猶」は前文の謂語を修飾する副詞で、提示されたAについて、「それでもなお」Bする・Bであるという意味を添えて、後文を導く。


後文「況C乎」は、「況CD乎」の省略形で、連詞「況」が「まして」の意、「乎」が反語や詠嘆を表す語気詞なので、元の形をあえて訳せば「ましてCはDしようかなあ・Dであろうかなあ」ぐらいの意になる。
ちなみにDは意味的に「不B」に相当する。
省略された「況C乎」は「ましてCはなあ」ぐらいになろうか。
しかし、いわゆる抑揚表現は、この省略された形の方が圧倒的に用例が多い。


後文「況C乎」「況CD乎」が、もともと反語の意味をもつわけだから、さらに反語の語気副詞「安」や「豈」を用いてより語気を強めることもできるわけで、「況C安D」「況C豈D」などの表現もあるし、連詞「況」を用いずともわかるので、「C安D」「C豈D」と表現することもある。
本文の「卮酒安足辞」はこの形にあたる。


さて、後文「卮酒安足辞」は、反語の語気副詞を用いて表現されているが、最初に述べた抑揚の基本形に書き改めれば、「況卮酒乎」(まして卮酒はなあ)になる。


「足」は助動詞。可能の助動詞ではあるが、「~できる」と訳しても通る場合もあれば、「~するに十分である」「~する値打ちがある」ぐらいに解した方が自然な場合もある。
ここも「断るほどのことであろうか」ぐらいの意。


「辞」の本義は「罪を裁く」で、「断る、辞退する」は「辤」の借用義。
ちなみに「ことば」「別れを告げる」の意も別の「詞」の借用義である。


(3)【夫秦王有虎狼之心】

「夫」は、文頭に置かれて、話題を提示して議論を開始する時に用いる語気詞。発語の辞。「そもそも」などと訳す。
「夫」は「成年男子・一人前の男子」が本義の字だが、この字の音が三人称代詞や指示代詞の音に近かったため、借用されて「彼・彼ら」「あの・この」の意味で用いられるようになった。
発語の辞としての「夫」は、この代詞の働きが許可して、たとえば「あの→皆の常識の」のように転じたものであろう。


「秦王有虎狼之心」は、主語「秦王」+謂語「有」+賓語「虎狼之心」の構造の存在文。
賓語は意味上の主語であり、存在主語はその意味上の主語が存在する範囲を示す。
つまり、意味上の主語「虎狼之心」が存在する範囲が「秦王」。
ただし、この句は「秦王は虎狼の心をもっている」という所有文と解してもよい。
もともと存在文は所有文から転じたものだからだ。


「之」は連体修飾の関係を示す結構助詞。


(4)【殺人如不能挙、刑人如恐不勝】

この二句、日本では「如不能挙」を数え切れない、「如恐不勝」を処罰しきれないと解するものが目立つ。
中国でも解釈に揺れがあるが、「挙」は「尽」として、殺し尽くすことができないの意、「勝」は「勝任」として、処刑の任にたえない、処刑しきれないとする解釈が多いように思う。

一方、王叔岷『史記斠証』では、「挙」と「勝」は互用で同義とし、「不勝」は「不尽」、「不能挙」も「不能尽」の意であるとする。
確かにいかにも互文の体をなす二句ではある。


構造的には、謂語「殺」+賓語「人」+補語「如不能挙」、謂語「刑」+賓語「人」+補語「如恐不勝」。
「如不能挙」「如恐不勝」は謂語を後置修飾しており、あくまで構造的には「殺人」「刑人」に対する謂語ではない。
また、「如」は4の(7)で述べたように、類似を表す動詞である。


(5)【天下皆叛之】

「皆」は範囲副詞で、すべて、みな。主語がすべて謂語で述べられる行為を行ったり、同じ状況になったりすることを示す。

「之」は人称代詞。彼。秦王を指す。


(6)【懐王与諸将約】

主語「懐王」+介詞句「与諸将」+謂語「約」の構造。
介詞句「与諸将」は、約束する対象を示す。
「諸将と」と訳してよいが、「諸将と一緒に」というよりは、「諸将に対して」という意味。


(7)【先破秦入咸陽者王之】

主語「先破秦入咸陽者」+謂語「王」+「之」の構造。

「者」は結構助詞で、そこまで示された内容を名詞化して人を指示する。
すなわち、「先破秦入咸陽」は、謂語「破」+賓語「秦」+謂語「入」+賓語「咸陽」で、「真っ先に秦を破って咸陽に入る」という文だが、「者」が置かれることで名詞句になるのだ。
その結果、「真っ先に秦を破って咸陽に入ったもの」と訳すのであって、「者」は人を指すが、「人・もの・こと」などの意味を直接表す名詞ではない。
一方で「者」は、主語となる名詞や名詞句の後に置いて語調をいったん停頓(ポーズ)し、主語を提示して、判断を明確にする働きもする。この働きもしていようか。


「王之」は、「之に王とす」とも「之を王とす」とも解せそうだが、「王」や「長」が代詞を賓語にとる時は、代詞が場所や対象を表す場合が多い。
ここでは「之」は「咸陽」を指す。
また、「王」は名詞であるが、賓語をとることで動詞のように働いている。


(8)【豪毛不敢有所近】

「豪毛」は「毫毛」に同じ。ほんのわずかもの意。
本稿が底本とする『会注考証』、中華書局『点校本二十四史修訂本』は金陵書局本を底本とするが、「豪毛」に作る。
宋版や元版、明版の中には「毫毛」に作るものも見られる。


「不敢」は、~しようとはしないの意。
「決して~しない」という意味ではない。
「敢」は助動詞で、「進んで取る」が原義。
勇気や度量があり、心理的に抵抗があるしにくいことを押し切ってしようという意志を表す。
したがって「不敢」はそれを打ち消すわけだから、無理してまでは~しようとはしない、危険をおしてまで~しようとはしないという消極的な態度を表すのだ。


「所近」は、近づけるもの。私物化するものの意。
「近」は形容詞だが、結構助詞「所」は動詞を後にとって名詞化する働きがあり、「近」はその型から動詞のように働いている。


「不敢有所近」は、謂語「不敢有」+賓語「所近」の構造。
私物化したものをもとうとしないの意。


(9)【封閉宮室】

「封」は、漢音が「ホウ」、呉音が「フウ」、漢字自体には意味による読み分けはないが、日本では「閉じる」の意味の時は「フウ」と読み(封鎖・封印など)、領土や領土を与えるの意では「ホウ」と読み分けている(封土・封建など)。
「封」の本義は、土を盛り植樹して土地の境界を作るの意。
土地を与えて諸侯にするの意はその引申義。
境界を示すことからの引申義が閉じ込めるだ。


「宮室」は御殿、宮殿の意。ここでは秦の王宮のこと。


(10)【還軍覇上】

謂語「還」+賓語「軍」+賓語「覇上」の構造。
「還軍於覇上」と同じで、介詞が用いられない表現。
5の(17)で述べたように、いわゆる双賓文とは異なるこの形式の場合、後の賓語は場所や対象を表す語であることが多い。
ここでも「覇上」は地名である。


なお、「還りて覇上に軍す」と読まれることもある。
状況としては同じことなのだが、「還軍」の用例を見る限り、「還軍(地名)」「還軍於(地名)」のほか、単独で「還軍」が用いられることもあり、やはり「軍」は謂語「還」の賓語と考える方が自然だと思われる。


(11)【以待大王来】

「以」は連詞。
介詞の働きとして「そうすることで、その状態で」という意味を残しているかもしれないが、連詞と考えてよい。


謂語「待」+賓語「大王来」の構造。
「大王来」は賓語なので、名詞句である。
名詞句を作る結構助詞「之」を用いて「大王之来」と表現することもできる。
『説苑・善説』に、「荘周貧者、往貸粟於魏。文侯曰、『待吾邑粟之来而献之』」(荘周が貧しかった時、魏に食糧を借りに行った。文侯は「わが村の年貢が来るのを待って貸してさしあげよう)という用例もある。


(12)【故遣将守関者】

一般に「故」は「ことさらニ」と読まれ、「わざわざ、故意に」と解されている。

王叔岷『史記斠証』は、上文に沛公が「所以遣将守関」と項伯に述べていること、留侯世家に「所以距関」とあることから、「故」は「所以」と同義であるとする。
通常、「だから」の意の「故」は、前文前句の内容を原因として、後文後句の先頭や主語の後に置かれて結果を導く連詞である。
つまり因果式の偏正複文(前半が従属節で後半が主節の文)で、後句に置かれるのが「故」の一般的な用法である。
ところが、中国の『史記』の訳本などの解釈を見ると、「ことさらニ」の意で解するものもある一方、「~理由は」の方向で訳してあるものが多い。


韓崢嶸の『古漢語虚詞手冊』(吉林人民出版社1984)には、「故」の連詞の用法として、
「有时还可用在偏句的开头,引起解释原因的正句」(偏句の句頭で用いて、原因を説明する正句を導くこともある)
として、「故遣将守関者、備他盗出入与非常也」を引用し、
「所以派遣将领把守关口,是〔为了〕防备别的寇盗出入和意外事故」(将を派遣して関所の入り口を守備させた理由は、別の盗賊の出入りと予想外の事故を防備するためである)
と訳している。

尹君の『文言虚詞通釈』(広西人民出版社1984)、王政白『古漢語虚詞詞典(増訂本)』(黄山書社2002)も項羽本紀の例を引き同様の説明である。
別の例として、晁錯『論貴粟疏』の「故堯禹有九年之水、湯有七年之旱、而国亡捐瘠者、以畜積多而備先具也」(尭帝と禹帝の世に九年にわたる洪水があり、湯王の世に七年にわたる干ばつがあったのに、国に見捨てられた人も痩せ衰えた人もいなかった理由は穀物の蓄積が多く将来への備えがなされていたからである)が挙げられている。


用例が少なく判断の難しいところだが、「故」が「ことさらニ」と読まれているのは、置かれた位置から「ゆゑニ」と読んで「だから」と解することができず、「ことさらニ」と読めば意味が通じるからである。
意味は通じるにしても、他の箇所で「故」ではなく「所以」が用いられている以上、この箇所のみ「ことさらニ」の「故」とするのは違和感を感じないでもない。
本稿では、中国でこのように解釈されているという紹介を目的として、あえて「故」を「ゆゑん」と読んでおく。


「遣将守関」は、「遣将」(将を遣わす)と「将守関」(将が関を守る)の二文が、「将」を兼語として一文化した使役の兼語文。1の(9)参照。


「者」は、語気詞。
複文前句の末尾に置かれて、いったん語気を停頓し、後句を導く働きをする。
「~者、…也」という形で用いられることが多く、ここでもその例。
一方で理由を指す結構助詞としての働きも兼ねていよう。


(13)【備他盗出入与非常也】

謂語「備」+賓語「他盗出入与非常」の構造。

「与」は連詞で、「A与B」で「AとB」という意味だが、訓読では「AとBと」と読まれている。
ここでは「他の盗賊が出入りすること」と「非常事態」の意。
もちろん「他盗出入与非常」で名詞句である。
高等学校の漢文では多く「与」を並列・従属の二用法で説明されるが、前者は連詞、後者は介詞の用法であり、全く品詞が異なる。
また、介詞の用法は従属だけで説明されるものではない。


「也」は、前項で述べたように、「~者、…也」の形をとって、前句で述べられたことの理由を後句で述べ、最後に確認の語気を表す語気詞。


(14)【労苦而功高如此】

「如此」は補語として、謂語「労苦」と「高」を後置修飾する。
連詞「而」を介するが、「高」だけを修飾するわけではないと思う。


この句、「労苦(はなは)だしく功高きこと」と読まれることがあり、「労苦」と「功高」を名詞+形容詞の対構造とみなした解釈であろうが、中国では『漢語大詞典』に「勤労辛苦」とあるように、「労苦」は苦労するの意で解されている。


(15)【未有封侯之賞】

「未」は未実現を表す否定副詞。
「未有」で、まだないという存在文の形式をとる。


「封侯之賞」は、謂語+賓語の関係の「封侯」(侯に封ずる)という句が、「賞」を連体修飾する構造。5の(1)参照。

「封」は家臣に土地や爵位を授けるの意。
「封侯」で、土地を与えて諸侯にするということ。(9)参照。


(16)【而聴細説】

「而」は連詞。
いわゆる順接、逆接ではなく、前句で述べた内容よりもさらに深まる内容を後句で述べる働き。
その上、さらに。訓読では通常文中にある「而」は置き字として読まず、直前に読む語に「テ・シテ」「ドモ・モ」などを送るのに、この箇所がよくあえて「しかモ」と読まれているのは、単なる順接、逆接とは異なるニュアンスであると感じるためであろう。


「細説」は、小人の言。曹無傷による讒言のこと。
ただし、樊噲がこの時点で讒言の主が曹無傷だと知っていたどうかは不明。


(17)【欲誅有功之人】

この「有功之人」も、(14)に同じく謂語+賓語の関係の「有功」が「人」を連体修飾する関係。もとより沛公を指す。

「欲」は助動詞。5の(1)で述べた。


「誅」は、罪をとがめて殺すの意の動詞。


(18)【此亡秦之続耳】

主語「此」+謂語「亡秦之続」という構造の判断文。

「此」は近称の代詞。
直前に自分が述べた、功績に応じた賞を与えず、讒言をいれて手柄のある人を殺そうとする項王の理不尽な行為を指す。


「続」は、継承、継続。秦王が虎狼の心をもち、し尽くせないほどの殺人や処刑を行ったことの継続だというのである。
あえて「亡秦」と言うことで、そのような行いをした秦が滅んだように、項王の行為もその継続で、そんなことをすれば「亡」につながることを暗示したのかも知れぬ。


「耳」は、語気詞。もとはいわゆる「耳」の象形文字だが、「而已」二音の兼詞(縮約語)で、一字で同じ意味を表すようになったもの。
「~だけだ」「~に過ぎない」という限定や、「~に他ならない」から「~だ・~なのだ」という肯定的判断や断定の語気を表す。
ここでは後者。


(19)【窃為大王不取也】

「窃」は敬謙副詞。はばかりながら、私見ながらの意。
もと、盗むの意からの引申義で、こっそり、ひそかにの意の副詞として用いられるが、家臣などの目下の立場から上位のものに自分の意見を申し述べる際に、謙辞として用いるのである。
もちろん会話文、手紙文、またそれに準じる文で用いる。


この句、文の構造的には、「窃かに大王の為に取らざるなり」とも「窃かに大王の取らざることと為す」とも読めてしまう。
すなわち「為」を「~のために、~に対して」の意の介詞とするか、「みなす、思う」の意の動詞とするかであるが、いずれが是であろうか。

先秦及び同時代の用例を見ると、どちらの構造でも解せるものもあるが、次の例が見られた。


①丘窃為将軍恥不取焉。(荘子・盗跖)

②今大王有天子之位而好庶人之剣、臣窃為大王薄之。(荘子・説剣)

①「恥」(恥じる)、②「薄」(軽んじる)は、いずれも感情的なことばである。
①の場合はまだ、将軍が本来恥じてなさないことと解せないこともないが、②は、天子の位にありながら庶民の剣を好んでいる王なのであって、そもそもあり得ない行為なのだから王が軽んじるべきことではない。


『史記』の例を見てみると、


③子不疾反国、報労臣、而懐女徳、臣窃為子羞之。(史記・晋世家)

④今兵不如楚精、而将不能及、而挙兵攻之、是趣之戦也、窃為陛下危之。(史記・陳丞相世家)

③は、早く帰国して苦労している家臣に報いず、女への情に引かれる重耳に対して、恥ずかしいと思っているのであって、重耳の気持ちにまで踏み込んで重耳自身が恥じるとは解しにくい。
④も、戦力的に及ぶべくもない楚王韓信に戦い促すような行為を危険と感じるのは話者陳平であって、漢王ではあり得ない。


以上のことから、少なくともこの時代、「窃為AB」の形式は、Bの動作行為は話者のものであり、話者がAがBすることだと思うという意味ではないことがわかる。
したがって、「窃為大王不取也」は、話者樊噲が、「私見ながら大王のために不賛成です」と述べたと考えてよいと思う。


「為」は、介詞。
「為AB」(Aの為にBす)の形で、謂語Bを修飾し、さまざまな働きをするが、ここでは、④の例などもあり、単なる対象(~に対して)というよりは、動作行為が利益を与える関係(~のために)の意とすべきであろう。


「不取」は、取らない、採用しないから、「賛成しない」の意。


「也」は、判断の語気を表す語気詞。


(20)【項王未有以応】

この箇所を「項王はまだ(それによって)応じることばがなかった」と訳すのはじゃっかん不自然な日本語で、「(それによって)応じることばがなかった」と訳せばよいのだが、ここの「未」を「不」と同義で「まだ~ない」という未了の意は含まないと判断するのはどうかと思う。
実際、未了の意をもたない「未」の用法はあるのだが、単に「(それによって)応ずることばがない」のなら、「無以応」と表現することもできる。先秦や同時代の「未有以」の用例のほとんどが未了の意を含まないのであればともかくとして、たとえば、


①吾不忘也、抑未有以致罪焉。(私は忘れてはいないのだが、まだ(あいつに)罪をきせる方法がないのだ。)(国語・晋語二)
②暴見於王、王語暴以好楽、暴未有以対也。(私(荘暴)が王に謁見した時、王は私に音楽を好むと告げられたが、私はまだ何ともお答えすることばがなかった。)(孟子・梁恵王下)
③以秦与趙敵衡、加以斉、今又背韓、而未有以堅荊魏之心。(思うに秦は趙と互角に張り合い、そこに斉も加わり、今また韓に背かれて、まだ楚と魏の心を取り結ぶすべがない。)(韓非子・存韓)
④丞相申屠嘉心弗便、力未有以傷。(丞相の申屠嘉は心中おだやかではなかったが、力はまだ晁錯を中傷するほどのものはなかった。)(史記・袁盎晁錯列伝)

などの例を見るに、「まだ~ない」と解釈しない方がよいとは思えない。
そもそも、「有」は存在、所有の客観的な判断を表し、「有以A」はそれによってAするもの・ことの存在を客観的に叙述するものである。
それを打ち消す場合、「不有以A」という表現はこの時代はなされず、「無以A」とするか「未有以A」になる。
「無以」ではなく「未有以」と表現するのは、何らかの言語的な事情があるからであろう。
「不」と同じとするのはより慎重であるべきだ。


項王は、樊噲の言に対して何か応じることばを持ちたいところである。
しかし、正論ゆえにそれが出てこない。
懐王との約束「先破秦入咸陽者王之」に該当するのは自分ではなく沛公であり、それに対して激怒し責める行為が亡秦の継承であるという指摘は、表面上は論駁できるものではない。
応じたいが適切に言い返す言葉が出てこない状態を、項王はまだ適切な反論で応じることばがないと書き手が客観的に表現することは、別に不自然なことではあるまい。
考えても出てこなければ、そこには間が生じる。
「未」は「已」の否定であって、時間的要素の含まれた否定概念だからである。
筆者は、この「未」が宴会場に流れた気まずい沈黙を表す効果をも併せ持つと思うが、いかがであろうか。


(21)【樊噲従良坐】

主語「樊噲」+介詞句「従良」+謂語「坐」の構造。

介詞「従」については、1の(1)で述べた。
ここでは、張良に随行する形で、従っての意。
「従」が、主語が介詞の賓語を従えるのか、主語が介詞の賓語に従うのかは、主語と介詞の賓語との立場関係に左右される。


(22)【坐須臾】

謂語「坐」+補語「須臾」の構造。

「須臾」は、少しの間。短時間を表し、謂語を後置修飾する。
しばらくの間座るの意。
「しばらく座って」が日本語として不自然なら、「座ってしばらくして」と訳してもかまわない。


(23)【沛公起如廁、因招樊噲出】

主語「沛公」に対して、謂語「起」「如」「招」「出」が時間軸に置かれる連動文。

「因」は、その機にの意の副詞。


「招樊噲出」は、「樊噲を招きて出づ」と読み、「出」を沛公の動作とするのが通説。
「樊噲を招きて出でしむ」と読んで、「出」の主語を樊噲とする説もある。
これは同場面を描く『史記・樊酈滕灌列伝』の「沛公如廁、麾樊噲去」の後句が使役の兼語文(樊噲を麾
(さしまね)きて去らしむ)なので、同様に兼語文とみなしたものである。
同場面を同様に解する合理的な判断で、構造的にはこれも説明がつく。
しかし、退去命令を表し得る「去」とは異なり「出」が用いられていること、樊噲を描く列伝ではないことが気になる。

私見ながら、この箇所、沛公の宴会場脱出を描くことに主意があり、気まずい沈黙の中、タイミングよく便所へ行くと立ち上がる行為、敵の陣中なのだから護衛として樊噲の随行を命じる行為、いずれも項王方の差し止めようのないものである。
沛公の機を見るに敏、さすがの老獪さを描いており、樊噲を宴会場から立ち去らせることを描こうとしたのではないのではと思う。


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