『史記』「鴻門の会」注解2

(内容:『史記』「鴻門の会」の文法解説。その2。)

『史記』「鴻門の会」注解2

■原文
(1)項王即日因留沛公与飲。(2)項王、項伯東嚮坐。亜父南嚮坐。(3)亜父者、范増也。沛公北嚮坐、張良西嚮侍。(4)范増数目項王、(5)挙所佩玉玦以示之者三、(6)項王黙然不応。

■訓読
項王即日因(よ)りて沛公を留めて与(とも)に飲む。項王、項伯は東嚮(とうきやう)して坐す。亜父(あほ)は南嚮して坐す。亜父とは范増(はんぞう)なり。沛公は北嚮して坐し、張良は西嚮して侍す。范増数(しばしば)項王に目し、佩(お)ぶる所の玉玦(ぎよくけつ)を挙げて以て之に示すこと三たびするも、項王黙然(もくぜん)として応ぜず。

■訳
項王はその日そこで沛公を引き留め彼と(酒を)飲んだ。項王、項伯は東向きに座った。亜父は南向きに座った。亜父とは范増である。沛公は北向きに座り、張良は西向きに控えた。范増は何度も項王に目配せし、身につけているおび玉を持ち上げて彼(=項王)に示すことが何度もあったが、項王は黙ったまま応じなかった。

■注
(1)【項王即日因留沛公与飲】
「即日」は、その日、その日のうち。

「因」は副詞。
この箇所、日本の参考書、教科書指導書等で解釈が揺れる。
「誤解が解けたこと、和解がなったことを理由に」と解するものが多く、「沛公が訪問した機会に」と解するものも見られる。
そもそも「因」は前段で述べられたことを受け、その因果関係から次に述べる行為事実が導かれることを示し、その働きから連詞とされることもある。
しかし、臆断ではあるが、誤解が解けた、あるいは和解がなったためにという意味であれば、なんとなく「因」の置かれた位置が不自然な気がする。
「項王因即日留沛公与飲」もしくは「因項王即日留沛公与飲」が自然ではなかろうか。
つまり因果関係からその日のうちに酒宴を開いたというのなら、即日は「因」の後に置かれるべきではと考えるのだ。
よくわからないが、『漢語大詞典』が「副詞。就;於是」としてこの例を引いていること、中国の訳本がおおむね同様の解釈をしていることから、一応「そこで」と訳しておいた。

なお、『英房史記抄』、元版の『楓山文庫旧蔵宮内庁書陵部蔵本』、『三條西実隆公自筆宮内庁書陵部蔵本』は「即日」の二字を欠き、また、『漢書・高帝紀』は「羽因留沛公飲」に作り、やはり「即日」を欠く。
これならば「そのため」と訳しても不自然ではない。


「与飲」は「与沛公飲」の省略形。
介詞「与」の賓語「沛公」が、「留沛公」と先に述べられているので、省略されたもの。
「与」は行為を共にする相手を示す介詞で、賓語が明らかな場合、あるいは先に示されている場合、「与之」(之と)と代詞で示すこともあれば、この例のように賓語を省略することもあるのだ。
省略されてしまうと、まさか「と」と訓読するわけにもいかぬから、「ともニ」と読むのであって、そう読んだから「一緒に」という意味を表すわけではない。

(2)【項王、項伯東嚮坐】
「東嚮」は、東に向く。「坐」を連用修飾して「東向きに」の意の副詞にように働いている。
この項以降、鴻門宴の座席の位置については、諸本、中井積徳の説を引用するなどさまざまに論じていておもしろいが、そちらをみていただくとして、ここでは触れない。

「坐」は、両膝を曲げて地につけ座る。
今の正座だが、膝を揃えたかどうかは不明。
『釈名』に「坐、挫也、骨節挫詘也」(坐は、挫(くずれる)である、骨節がくずれるのである)とある。
膝の関節を折り曲げ、臀部で脛を圧迫する座り方をいう。


(3)【亜父者、范増也】

「亜父」は、父についで尊敬する人。
「亜」はもと形容詞で、二番目のの意。
『史記集解』に「亜、次也。尊敬之次父。猶管仲為仲父」(亜は、次である。父についで尊敬する。管仲を仲父とするのと同じ)とある。


「者」は、ここでは判断文の主語の後に置かれる語気詞。
主語を提示すると共に停頓(ポーズ)し、間を設けて後句を導く働きがある。
この例のように句末の「也」と併用する判断文によく用いられる。


「也」は、判断の語気を表す語気詞。


(4)【范増数目項王】

「数」は、しばしば、たびたび、何度も。頻度を表す副詞。

「目」は、もちろん「目」の意の名詞であるが、賓語に「項王」をとるという構造の型により、謂語動詞のように働いている。
文脈により「見る」という意味であったり、「にらむ」という意味を表すこともあるが、ここでは「目配せする」の意。

(5)【挙所佩玉玦以示之者三】
「范増」を主語として、この句全体が主謂謂語になる。
「范増は~であった」の「~であった」にあたる部分と考えればわかりやすい。
この主謂謂語は、主語「挙所佩玉玦以示之者」+謂語「三」の構造である。
「挙所佩玉玦以示之」(身につけているおび玉を持ち上げて彼に示す)は独立した文だが、結構助詞「者」により「身につけているおび玉を持ち上げて彼に示すこと」という名詞句になっているのだ。
そのため、「三」は補語ではなく、単独で謂語になっている。
つまり、「示之三」であれば「何度も彼に示した」という謂語「示」+賓語「之」+補語「三」の構造になるが、結構助詞「者」により名詞化されているため、「三」は謂語を後置修飾する補語とはみなせないのである。


「所」は後に動詞や介詞をとり、その客体を表す名詞句をつくる結構助詞。
「所佩」で「身につけるもの」の意の名詞句。
「所」が「
佩」の客体を表すから、かりに「所」をソレだとすると、「所佩」は「ソレを身につけるソレ」、つまり「身につけるソレ」の意味になる。
それが「玉玦」を連体修飾して「所佩玉玦」で「身につけるソレであるおび玉」、つまり「身につけるものである→おび玉」から「身につけているおび玉」の意の名詞句になるのだ。
それが謂語「挙」の賓語になっている。


「以」は介詞であり、ここも「持ち上げたおび玉を」という意味合いを残しているかもしれぬが、連詞と考えてよい。


「三」は、数詞。ここでは「三」の意味ではなく、数が多いことを表す。
実際には305篇ある詩経の詩の数を孔子は「詩三百」と述べたが、このような大体の数を約数というのに対して、「三」や「九」などがその字の示す具体的な数値を離れて多数を表すものを虚数という。


「玦」は、おび玉の名。扁平な円形で、一箇所に切れ目がはいる形状。
范増が「玉玦」を挙げたのは、諸本述べるように、「玦」に「決」の意をこめて項王に決行を決断させるため。


(6)【項王黙然不応】

「黙然」は黙るさま。「然」は、形容詞や副詞、動詞の後について事物の動作や状態を表す語をつくる語綴助詞。
「卒然」「悠然」などがそれ。ここでは副詞として謂語「不応」を修飾している。


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