『史記』「鴻門の会」注解1
『史記』「鴻門の会」注解1■原文(1)
沛公旦日従百余騎来見項王、至鴻門、(2)
謝曰、「(3)
臣与将軍勠力而攻秦、(4)
将軍戦河北、臣戦河南、(5)
然不自意(6)
能先入関破秦、(7)
得復見将軍於此。(8)
今者有小人之言、(9)
令将軍与臣有卻。」項王曰、「(10)
此沛公左司馬曹無傷言之、(11)
不然、(12)
籍何以至此。」■訓読沛公(はいこう)旦日百余騎を従へ来たり項王に見(まみ)えんとして、鴻門(こうもん)に至り、謝して曰はく、「臣将軍と力を勠(あ)はせて秦を攻め、将軍は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふに、然れども自らは能(よ)く先づ関に入り秦を破り、復た将軍に此(ここ)に見ゆるを得(う)とは意(おも)はず。今者小人(せうじん)の言有り、将軍をして臣と卻(げき)有らしむ」と。項王曰はく、「此れ沛公の左司馬(さしば)曹無傷(さうむしやう)之を言ふ、然(しか)らずんば、籍(せき)何を以て此(ここ)に至らん」と。
■訳沛公は翌朝百騎あまりを従え項王に会いに来ようとして、鴻門に着き、謝って「私めは将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は黄河の北で戦われ、私めは黄河の南で戦いましたが、よもや先に函谷関に入り秦を破ることができ、また将軍にここでお目にかかれるとは自分では思いませんでした。今つまらぬ者の言があり、将軍に私めに対して隙間をもたせました(=仲違いをさせました)」と言った。項王は「これは沛公の左司馬の曹無傷がそのことを言ったのであって、そうでなければ、私はどうしてこんなことになろうぞ(=このように激怒したりはしない)」と言った。■注(1)【沛公旦日従百余騎来見項王】主語「沛公」+謂語(述語)「来見」+賓語(目的語)「項王」の構造。
「従百余騎」は介詞句(前置詞句)として謂語を修飾する。
「A従BC」の形をとっても、「AがBを従えてCする」と「AがBに従ってCする」の両義をもつ。
介詞「従」にはさまざまな意味があるが、動詞「従う」の意味からの引申義として、この義は比較的動詞に近いものである。「旦日」は、本来「旦」の字義が地平線に太陽の出づる時刻を指すものであることから「夜明け」を指す語だが、翌日、翌朝の意味を表すこともある。ここはそれ。
先行する部分で、項伯が「旦日不可不蚤自來謝項王」(明日早々に自分で項王に謝りに来なければならない)と述べていることから、翌日というよりは、早朝であろう。
さて、「旦日」はもちろん名詞であるが、動詞謂語「来見」を連用修飾しているので、副詞のように働いているのである。
このように品詞の働きが転じることを中国では活用という。
ただ、活用説がたとえば名詞が動詞に活用するなどと、あたかも品詞そのものが変わってしまうごとく説明するのに対して、筆者は言語環境、構造の型がそのように働かせているのであって、品詞そのものがにわかに変化するとまでは思っていない。
「余」は常用漢字に改めてあるが、もとは「餘」に作る。
我々は「百騎あまり」という表現の仕方をするが、古典中国語では「百餘」のように単位になる数の後に付け加えて、単位数以下の端数を表す。
ここでは「百」の単位以下の数十が含まれるわけで、「百餘騎」で百数十騎である。
「来見」は、「来たり(て)~に見ゆ」と分けて読んでいるが、「来」は後に動詞を伴って、その動作の方向性を表す動詞であり、「来て、そして会う」の意ではなく、「会いに来る」の意である。他に「来朝」(朝見に来る)、「来救」(救いに来る)などがある。
「見」は、会う。
訓読で目上の者に会う際には「まみユ」と読むのは周知のことだが、別に「お目にかかる」というへりくだった意味はない。
訓読の習慣であり、日本語側の事情に過ぎない。
(2)【謝曰】「謝」は、あやまる。
ことばの意を表す「言」と、音「射」からなる形声字だが、「射」は「去る」の意を表し、「ことばを述べて去る」が「謝」の原義である。
その引申義として「断る、辞退する」の意を表したり、「罪を認めて謝る」、「いとまごいをする」などの意味を表すようになったもの。
「感謝する」は、本来「贈り物を辞退する」から転じたもの。
多義語であるが、そのような演変がある。(3)【臣与将軍勠力而攻秦】この句の主語を「臣」のみとするか、「臣与将軍」とするかは解釈の分かれるところ。
どちらでも解せるが、前者なら「与将軍」は介詞句で「将軍と(ともに)」の意で、「勠力而攻秦」を連用修飾する構造、後者なら「与」は連詞(接続詞)となる。
「私めは将軍と」とするか「私めと将軍は」とするかであるが、前者の方が自然な表現かと思うが、どちらでもよい。
なお、前者なら「臣将軍と」と読み、後者なら「臣と将軍と」と読む。
「臣」は、本来主に仕える家来の意の名詞だが、ここでは上位の相手に対して一人称代詞「我」「吾」などが使いにくい状況で用いられる語。
すなわち「我」などを用いれば相手と対等の関係を示すことになるが、あえて「臣」を用いることで、相手に対して自分が下位であるという対人関係を作り出すことになるのだ。
「勠力而」は、「攻秦」を句が連用修飾する形とみる。
連詞「而」は、いわゆる順接・逆接以外に、このように句の後に置かれて謂語を修飾する連用修飾の働きもあるのだ。
「循海而帰」(春秋左氏伝・僖公四年)の例も、「(軍隊は)海に従って、そして帰る」の意ではなく「海沿いに帰る」の意だ。
(4)【将軍戦河北、臣戦河南】介詞「於」を用いた「将軍戦於河北、臣戦於河南」と同じ。
その意味で介詞の省略とみなすことができるが、場所を表す語の場合、このように介詞を用いずに謂語動詞の後に置くことはよくあることだ。
これを謂語「戦」の賓語とはみなさず、あくまで介賓構造の介詞の省略とする考えもあるが、処所賓語(場所を表す目的語)としても別によかろう。
(5)【然不自意】「然」は逆接の意の連詞。しかし。
「意」は、予想するの意の動詞。「自意」は自分で予想するの意になるため、否定副詞「不」の修飾を受けると、必然的に「自分では予想しない」という部分否定的な意味になる。
なお、この文、主語は沛公、謂語が「不自意」で、以下「能先入関破秦、得復見将軍於此」(先に函谷関に入り秦を破ることができ、また将軍にここでお目にかかれること)全部がその賓語となる。
訓読で「然れども自ら意はざりき」などと先に読んでしまっているのは、賓語、すなわち予想する内容が長すぎるためで、もちろん倒置文ではない。
念のため本来はどう読むかは訓読に示しておいた。
訓読の工夫なのであって、先に読んであるから強調表現だなどと勘違いをしてはならぬ。
(6)【能先入関破秦】「能」は能力的に可能であることを表す助動詞。
後に動詞を賓語にとり「~することができる」の意。
ここでは「入」「破」がその賓語。
助動詞の賓語は副詞の修飾を受けることがあるので、「先」が「入」の前に置かれている。
本稿は語法解説を旨として、事物や背景についての説明は他書に譲り事細かには触れないが、この「先入関破秦」については述べておくと、『高祖本紀』の「趙数請救、懐王乃以宋義為上将軍、項羽為次将、范増為末将、北救趙。令沛公西略地入関。与諸将約、先入定関中者王之」(趙が何度も救援を求めたので、懐王は宋義を上将軍とし、項羽を次将とし、范増を末将として、北方に趙を救援させた。沛公に西方土地を攻略して函谷関に攻め入らせようとした。諸将と、真っ先に入って関中を平定したものは王としようと約束した)に見られる楚の懐王のことばをあえて用いたもの。
終始へりくだる姿勢を見せる沛公だが、自己の正当性として言うべきことはしっかり押さえているのである。(7)【得復見将軍於此】「得」も可能の助動詞。
ただし「能」とは異なり、行為や状況の客観的な可能性を表す。
つまり客観的な状況が与えられ、機会があるために可能なのだ。
助動詞「得」の賓語は動詞「見」だが、これも副詞「復」の修飾を受けている。
この文は謂語「得復見」+賓語「将軍」+介詞句「於此」の構造。
介詞「於」は場所を表し、その賓語「此」は指示代詞として鴻門を指す。
「於此」(ここで)が補語(後置修飾語)の位置に置かれるため、謂語「得復見」を後置修飾する形をとる。
(8)【今者有小人之言】「今者」は、今。「者」は「今」「昔」「向」「曩」などの時間詞の後に置かれる助詞(語綴助詞)で働きを強めたり、複音節の名詞構造をつくる働きがある。
なお、「今」には「今もし」や「ところが今」などの意味を表す連詞の働きがあり、ここも後者の意味合いが含まれるように思うが、謂語「有」を修飾する時間副詞としておく。
「有小人之言」は、つまらぬ者のことばがあるの意。
謂語「有」+賓語「小人之言」からなる存在文。
「有」を謂語とすることで、「小人之言」の存在を客観的に表現している。
つまり沛公から見てあくまで客観的にそういう事実があると述べるだけの形をとった巧みな言い方をしているのだ。
「有小人之言、令将軍与臣有卻」は、実は存在の兼語文と使役の兼語文が合わさった複雑な構造になっている。
後者については次の項で説明するが、本来「有小人之言」(つまらぬ者のことばがある)と「小人之言令将軍与臣卻」(つまらぬ者のことばが将軍に私と仲違いさせる)の2句が「小人之言」を介して1文になっているわけだ。
すなわち、「小人之言」は前句の賓語だが、同時に後句の主語を兼ねており、ゆえに兼語という。
そしてこのような構造の文を兼語文というのだ。
『論語・学而』の「有朋自遠方来」が「有朋」(友が存在する)と「朋自遠方来」(友が遠方から来る)の2文からなり、兼語「朋」を介して1文化しているのと同じ構造。
ちなみにこの例のように「有」が無主語文の形をとり、存在する範囲を示す存在主語を「有」の前に取らない時は「ある~」ぐらいの意味を表すと説明されることもあるが、漢文に多く見られるこの形式が、まず客観的に「小人之言」の存在を示した上で、その「小人之言」がどうしたのかを説明する兼語文であることには変わりがない。
「小人」は「君子」の対義語。つまらぬもの。
もちろん項王に中傷した曹無傷のことを指すが、沛公が曹無傷であると知っていたかどうかは不明。
「之」は連体修飾の関係を作る結構助詞(構造助詞)。
「A之B」の形で、Aには名詞や形容詞、動詞、数量詞、句などさまざまな語が置かれるが、中心語であるBは名詞であることが多い。
ここでは名詞「小人」が中心語「言」を連体修飾する。
(9)【令将軍与臣有卻】これは「(小人之言)令将軍」(つまらぬものの言葉が将軍を使役する)と「将軍与臣有卻」(将軍が私めに対して隙間をもつ)の2句が兼語「将軍」を介して1文になる使役の兼語文。
「将軍」は前句の賓語だが、同時に後句の主語を兼ねる兼語になる。「令」は「しム」と訓読するが、それは日本語の話であって、古典中国語では使役するの意の動詞である。
「与臣」は介詞句。私めに対しての意。
「与」は俗に並列だの従属だのと言われるが、前者は連詞、後者は介詞であって品詞そのものが異なる。
介詞の「与」はいわゆる「AがBと共に」の「と」以外にもさまざまな働きがある。
ここでは行為の関与する対象を表す。
すなわち「隙間をもつ=仲違いをする」対象が「臣」であることを示しているわけで、将軍が私と一緒に仲違いするわけではない。
「卻」は、日本の教科書、参考書の類はことごとく「郤」に作るが、別字である。
ただし、「卻」は「却」の異体字で、退く・退ける等の意を表すが、ここでは「郤」(隙間)の意味で用いられているものと考えられる。
『漢書・高帝紀』は「隙」に作る。
(10)【此沛公左司馬曹無傷言之】「此」は近称の代詞。これ。
沛公が述べた「小人之言」を指す。
この文、代詞「此」が主語に置かれる関係から、後の「沛公左司馬曹無傷言之」全体が謂語になる。
いわゆる判断文である。
その謂語自体が、主語「沛公左司馬曹無傷」+謂語「言」+賓語「之」と説明されるので、主謂謂語(主語+謂語の構造になる謂語)という。
「言之」の「之」も指示代詞で、あえて指示内容を示せば中傷内容になるが、「言」が名詞でなく、賓語を伴う動詞であることを示す働きもあり、無理に訳す必要はない。
項王がこの言葉を発したのは、沛公が「今者有小人之言、令将軍与臣有卻」と述べたことで、項王がつまらぬ者の言を真に受けたという指摘になるため、それは君の部下だと弁明したのである。
(11)【不然】否定副詞「不」と「そのようであること」の意の代詞「然」からなる慣用表現。
そのようでないという意味だが、この例のように「そうでなければ」の意で連詞的に用いられることがある。
ここでは沛公の左司馬の曹無傷が言ったことでなければの意。
余人ならともかく沛公直属の部下である曹無傷が言ったことだから信じたのだと言いたいのである。
(12)【籍何以至此】「何以」は介詞句。介詞「以」の賓語が疑問代詞であるため倒置したもの。
「何を理由に」の意。
「至此」は、このような状況になるの意。
「此」が近称の代詞なので、「ここに至る」が具体的なこの場所に至るという意味を表すことももちろんあるのだが、疑問や反語文において「どうしてこんなことになったのか」の意で「至此」が用いられることが多い。
ここでは項王自身が激怒することになったことをいう。
なおこの「至此」の文字が、景祐本南宋補版、黄善夫本では、高祖本紀ともに「生此」に作ることについて、王叔岷は『史記斠証』(中華書局2007)で、『広雅・釈詁』に「生、出也」(生は、出るである)とあるのをもとに、「生此」と「出此」は同義で、「至此」もこの意味も近いとする。
景祐本南宋補版、黄善夫本は、いずれも『史記』の最も古い版本で、もとは「生此」の文字であった可能性が高いが、それだと「この問題を生じる」と解すべきで、やはり「至此」は「この場所に至る」という意味ではないだろう。【文の成分および品詞分解】(←クリックしてください)