「故事五編」注解3・「助長」

(内容:漢文由来の故事成語のうち、教科書によく掲載される「助長」の文章の文法解説。)

『故事五編』・「助長」注解

■本文
(1)宋人有閔其苗之不長而揠之者。(2)芒芒然帰、(3)謂其人曰、「(4)今日病矣。(5)予助苗長矣。」(6)其子趨而往視之、(7)苗則槁矣。(8)天下之不助苗長者寡矣。

■出典
『孟子』公孫丑上(底本:清、阮元『十三経注疏』)

■書き下し文
宋人に其の苗の長ぜざるを閔(うれ)へて之を揠(ぬ)く者有り。芒芒然として帰り、其の人に謂ひて曰はく、「今日病(つか)れたり。予苗を助けて長ぜしむ。」と。其の子趨(はし)りて往き之を視るに、苗則ち槁(か)れたり。天下の苗を助けて長ぜしめざる者寡(すくな)し。

■口語訳
宋の国の人に自分の苗が成長しないのを憂えてこれを引っ張るものがいた。ぐったりとして帰り、自分の家族に言うには、「今日はくたくただ。わたしは苗の成長を助けてやった。」と。その人の子が走って行ってこれを見ると、苗は枯れていた。世の中の苗の成長を助けないものは少ないのだ。

■注
(1)【宋人】
《宋の国の人》
「守株」の条を参照。

(1)【
《憂える。心配する。》
楊伯峻は『春秋左氏伝』宣公十二年の「寡君少遭閔凶。」(▼寡君少くして閔凶に遭ふ。)の杜預の注「閔、憂也。」(▽閔は、憂えるの意である。)を引き、古い書では「閔」と「愍」の二字は通用するとし、『説文解字』に「愍、痛也。」(▽愍は、痛むの意である。)とあるのを踏まえて、「痛」も「憂傷」の意とする(『孟子訳注』)。
朱熹も「閔、憂也。」とする(『孟子集注』)。
要するに、「閔」と「愍」は音が同じで「憂える」の意で通用するというのだ。


(1)【其苗】
《自分の苗》
「其」は指示代詞で所有を表し、ここでは「彼の(=宋人の)」の意なので、自分のと訳した。

「苗」は、畑の作物の苗。
中国では、「禾苗」または「秧苗」と訳している(『孟子訳注』、『孟子今註今訳』等)。
稲を意識した解釈のようにも思える(もっとも、「禾苗」がそのまま稲を指すとは限らないが)。
『稲作の起源を探る』(藤原宏志)によれば、最古の稲作遺跡を約8000年前の浙江省河姆渡(かもと)遺跡、また最古の水田を約6000年前の草鞋山(そうあいざん)遺跡に遡るにしても、稲作の起源はいずれも長江の下流域、江南デルタに位置する。
それらに対して、黄河流域は緯度が高く、黄土に覆われた乾燥台地が多いので、水田稲作には不向きである。
したがって、黄河文明を支えた農耕は畑作であり、主要な作物はアワ・ムギであったとのこと。
かりに「宋人」という孟子のことばを真に受けて宋の国を舞台と考えた時、黄河文明の中心地であったこの地方は、長江文明のように水田耕作が行われていたとは考えにくいだろう。
したがって、「苗」はあるいは粟や麦を指すのかもしれぬが、ここでは畑の作物の苗とした。


(1)【不長】
《成長しない》
「不」は、謂語の前に置き動作や状態を否定する副詞。
ここでは動詞「長」(成長する)を否定している。

「長」は動詞で、訓読でもサ変動詞「長ズ」と読む。


(1)【其苗之不長】
《自分の苗が成長しないこと》
「之」は、本来主謂関係(主述関係)にある主語Aと謂語Bの間に置いて、「A之B」(AがBすること)という句を作る働きの結構助詞。
「之」が置かれることで、主謂関係の独立性が失われて、名詞または名詞句でなければならない主語や賓語になりやすくなる。
この働きは、そもそも「之」がそれに先行する語と共に、名詞を修飾して、名詞の意義を限定する働きをもつ語であるためだ。

この句は、

謂語(閔)+賓語【其苗之不長】

の形をとっている。

この「A之B」の形については、次のような用いられ方がある。

a. 孤之有孔明、猶魚之有水也。(『三国志・蜀書』諸葛亮伝)
 ▼孤の孔明有るは、猶ほ魚の水有るがごときなり。
 ▽私に孔明がいるのは、魚に水があるのと同じである。

b. 燕君臣皆恐禍之至。(『史記』刺客列伝)
 ▼燕の君臣皆禍(わざわひ)の至らんことを恐る。
 ▽燕の国の君臣はみな禍いがふりかかることを心配した。

c. 武王之伐殷也、革車三百両、虎賁三千人。(『孟子』尽心下)
 ▼武王の殷を伐つや、革車三百両、虎賁三千人なり。
 ▽(周の)武王が殷の国を征伐した時、兵車は三百台、兵士は三千人であった。

aは、「孤有孔明」(▼孤に孔明有り)、「魚有水」(▼魚に水有り)が、それぞれ存在文の構造で本来独立した文だが、「之」を用いることで主語「孤」と「魚」、謂語「有」のそれぞれの主謂関係の独立性が失われ、「孤之有孔明」が主語、「魚之有水」が謂語動詞「猶」に対して賓語になっている。

bは、「禍至」(▼禍至る)が独立した主謂構造だが、「之」が置かれることで独立性を失い、謂語動詞「恐」の賓語になっている。

cは、「武王伐殷」(▼武王殷を伐つ)が独立した「主語+謂語+賓語」の構造だが、主語「武王」と謂語「伐」の間に「之」が置かれたことで独立性を失って名詞句となり、文頭に置かれて副詞のように時を提示する形。
この時「也」を伴うことが多く、「A之B也、~」(AのB(スル)や、~)の形で、「AがBする時、~」という意味を表す。
この「A之B也」は、謂語(述語)に対してそれが行われた時を提示しているのだ。
なお、「也」は「武王之伐殷」を提示して強調の語気を表す助詞。

これらの「之」は、訓読上「の」と読むが、もちろん日本語の助詞「の」の意味をもつわけではなく、上記に述べたような働きをもつ虚詞である。


(1)【而】
連詞(接続詞)。
ここでは原因に対して結果を表す。
つまり、「閔其苗之不長(=原因)」→「揠之(=結果)」という関係で、自分の苗が成長しないためにこれを引っ張るという意味になる。


(1)【揠之】
《これを引っ張る》
「揠」は、「引っ張る・抜く」の意。
「之」の指示内容は苗。
「之」は「これ」と読んでも近称を表す指示代詞「此」とは異なり、前後の内容、ここでは前に述べられた「苗」を指す形式的な名詞、「此」ではないから「それ」と訳してもよい。
後漢の趙岐は「揠、挺抜之、欲亟長也。」(▼揠は、之を挺抜して、亟(すみや)かに長ぜんことを欲するなり。▽揠は、これを引っ張って、早く成長することを望むのである。)と注している。
また、『説文解字』には、「揠、抜也。」(▽揠は抜くの意である。)とある。
中国の注釈書は、概ねこれらに従って、「抜」と解している。

一方、日本の注釈書は、「苗のしんを引き伸ばした」(『漢文の教材研究』、『全釈漢文大系』)、「その芯を引っ張り上げた」(『漢詩漢文解釈講座』)、「心を引き抜き引き伸ばした」(『新釈漢文大系』)と解釈しているが、これは清の焦循の『孟子正義』の説によったものであろう。
焦循は、『方言』巻三の「揠」に施された郭璞(かくはく)の注「今呼抜草心為揠。」(▼今草の心を抜くを呼びて揠と為す。▽今草の心を抜くことを揠という。)を指摘してる。
ここで郭璞が用いた「草心」、諸注釈書の「苗のしん」とは、おそらく苗の地上部の茎と地下の根の境目を指しているものと思われる。

さらに焦循は、『呂氏春秋』仲冬紀の「荔挺出。」(▽荔が芽を出す。)に施された高誘の注「挺、生出也。」(▽挺は、芽を出すの意である。)を引用して、趙岐の「挺抜」を、根がつながったまま抜くことの意味に解釈している。
つまり、根を切らないように引き抜くことで丈が伸びたようにしたということ。

いずれにしても、いくら愚かな宋人でも、苗を根もろとも引き抜いてしまっては苗が枯れてしまうことぐらいわかったであろうし、またそれでは倒れてしまって丈を伸ばすことにはならない。
「揠之」とは、茎を引っ張って根を切らないように持ち上げ、土ごともちあげて立てた状態で丈を高くしたということになろうか。


(1)【宋人有閔其苗之不長而揠之者】
《宋の国の人に自分の苗が成長しないのを憂えてこれを引っ張るものがいた》
存在文の形式で、「守株」の項の「宋人有耕田者」と同じ。
「宋人」は主語だが、賓語「閔其苗之不長而揠之者」の存在する範囲を示している。

「者」は、ここでは、「閔其苗之不長而揠之」という連接する2つの述語+目的語の構造の後に置かれて、それを受け「自分の苗が成長しないのを憂えてこれを引っ張るもの」という名詞句を作り、人物を指す。


(2)【芒芒然】
《ぐったりと。へとへとで。》
趙岐は「芒芒然、罷倦之貌。」(▽芒芒然とは、疲れ切った様子である。)とし、諸注みなこれに従っている。
朱熹は『孟子集注』で「芒芒、無知之貌。」(▽芒芒とは、愚かな様子である。)と注しているが、この説はとらない。
「芒」は、はっきりしない、ぼやけたさまを表す語、その意味から朱熹の説も出たのだろうが、ここでは趙岐がいうように、疲れ切ってぼうっとした状態を指しているのだ。

「然」は、形容詞や副詞につく接尾語。
ここでは形容詞「芒芒」について、状態を表す。


(2)【帰】
《帰り》
「自分の家に」帰ったのです。
主語をあえていえば、苗を引っ張った宋人ですが、すでに前文で提示されているため、あえて表現していません。主語を省略したというより、いう必要がないから置かないのであって、これが普通の表現です。

(3)【謂其人曰】
《自分の家族に言うには》
「謂」は、相手に対して話しかける意味を表し、「A謂B曰」の形をとって「AがBに言う」の意味を表す。

「其人」は、自分の家族の意。
「其」の指示内容は苗を引っ張った宋人。
趙岐は「其人、家人也。」(▼其の人は、家人なり。)と注している。
少なくとも息子がいることは、後の「其子」でわかる。

この句も、「帰」と同じく主語を置かない句だ。


(4)【今日病矣】
《今日はくたくただ。》
「病」は、疲労するさまを表す形容詞だが、「つかル」と動詞で訓読する。
趙岐は「病、罷也。」(▽病は、疲れるさまである。)と注している。
焦循は、「今日病、謂今日労苦疲憊也。」(▼今日病は、今日労苦疲憊するを謂ふなり。▽今日病とは、今日疲労困憊であることをいうのである。)とする。

「矣」は語気詞で、確認の語気を表すのが基本。
「疲れた」と確認することが完了を表すことにもなるのだ。

この文は次のような構造。

主語(吾)+謂語【状語〈名詞(今日)〉+謂詞(病)+語気詞(矣)】

主語は「吾」だが、家人に対して自分が疲れたことを表現するのに、いう必要がないために表現されていない。
これも省略したというより、むしろ自然な表現。
「今日」は名詞だが、副詞のように働いて、状語(連用修飾語)として謂詞「病」を修飾している。


※謂詞…述部のことを謂語といい、述部の中心になる述語のことを謂詞という。つまり、謂詞とは述語の中心語である。

a. 今日何日兮 得与王子同舟(「越人歌」)
 ▼今日何の日ぞ 王子と舟を同じくするを得たり
 ▽今日は何という日か 王子とともに舟に乗ることができた

b. 今日非昨日(李白「攜妓登梁王棲霞山孟氏桃園中」)
 ▼今日は昨日に非ず
 ▽今日は昨日ではない

c. 今日風日好(李白「擬古」其五」)
 ▼今日風日好(よ)
 ▽今日は天気がよい

d. 今日固決死。(『史記』項羽本紀)
 ▼今日固より死を決す。
 ▽今日はもちろん死を覚悟している。

aとbは、いずれも判断文で「今日」が主語。

cは、主謂謂語(主語+述語の形が述語になる)の主謂文で、

主語(今日)+謂語【主語(風日)+謂語(好)】

の形をとっているが、「今日」は文全体の主語だ。

しかし、dは主語「吾」が表現されない文で、「今日」が状語として、謂語「決」を修飾している形で、本文はこれに相当する。

主語(吾)+謂語【状語〈名詞(今日)+副詞(固)〉+謂詞(決)】+賓語(死)

いずれも「今日は」と訳すが、構造はこのように異なる。


(5)【予】
《わたし》
一人称の人称代詞。
『王力古漢語辞典』によると「予」と「余」は同音同義。
いずれも「わたし」と訳す。


(5)【予助苗長矣】
《わたしは苗の成長を助けてやった》
古来の読みに従って「苗を助けて長ぜしむ」と読んだ。
この読みは、苗を兼語とする兼語文として解釈したもの。
楊伯峻は『文言文法』で「“苗”は、“助”の目的語であり、“長”の主語であるので、やはり兼語である。」と述べている。
つまり、次のような構造だ。

主語(予)+謂語(助)+賓語(苗)
            主語(苗)+謂語(長)

「苗」は「助」の賓語であると同時に、「長」の主語をも兼ねている語なので兼語という。
この兼語「苗」を介して2つの文が1文化していると考えるわけだ。
使役の形はこの兼語式の構造をとる。

しかし、『文言文法』にこのように説かれる一方で、中国の訳書は、「我幇助禾苗生長了。」(楊伯峻『孟子訳注』、金良『孟子訳注』)、「我幇助禾苗長高了。」(『中華経典蔵書孟子』)、「我幇助秧苗長大了。」(『孟子今註今訳』)と訳し、いずれも「苗の成長を助ける」として、使役の意味には解釈していない。
その意味では、「苗の長ずるを助く」または「苗の長を助く」と読んでもいいのかもしれぬ。


※兼語文…たとえば「A使BC。」という使役の文の場合、「A使B。」(AがBを使役する。)と「BC。」((使役される)BがCする。)という2つの文が合わさった形になっている。つまり、Aが使役する対象Bが、同時にCに対して主語でもある形。このように、1文の中で、Bが賓語でもあり、同時に主語にもなる文を兼語文といい、Bを兼語という。しかし、兼語文という考え方に対しては、1文の途中で成分が入れ替わることの不自然があり、否定的な説もある。筆者も違和感を感じ、「使B」(Bして)の結果として、Cが使役態になるのでないかと思いつつある。

(6)【其子】
《その(人の)子》
「其」は、苗を引っ張った人を指す。

「其子」については、趙岐は「其子、揠苗者之子也。」(▼其の子は、苗を揠く者の子なり。)と注している。
焦循も上文の「其人」を苗を引っ張った人の家人とした上で、「家人中之一人也。」(▼家人の中の一人なり。)としている(『孟子正義』)。


(6)【趨】
《走り》
早足で駆けるの意。
『説文解字』に「趨、走也。」(▽趨は、走の意である。)とある。
父親のことばに驚いて畑に駆けつけたという意味だろう。


(6)【趨而往視之】
《走って行ってこれを見ると》
「而」は連詞で、「趨」と「往視之」を時間列でつなぐ働き。
順接の関係なので、訓読では「テ」をつけて「趨りテ」と読む。

「視」は、詳しく見るの意。

「之」の指示内容は苗。
「視之」で、苗の様子を見るの意。

この部分の息子の行動については、諸注釈書に若干解釈の揺れがある。
「せがれが驚いて走って行って」(『全釈漢文大系』)、「その子がびっくりして走っていって」(『鑑賞中国の古典』)などは、驚いたためと解しているが、「その子は不審に思い、走って往って見ると」(『新釈漢文大系』)は、父の言動を不審に思ったためである。
一方、『孟子注疏』は、「其宋人之子見父云助苗長而罷倦成病、乃趨走而往視其苗還助得其長否。」(▽その宋人の子は、父が苗の成長を助けたと言って疲れ切っているのを見て、走って行ってその苗が果たしてその成長を助けられたどうかを見た。)と解している。
私見としては、父のとんでもない行動を聞かされた息子がびっくりしてと考えるのが自然だと思うが、いかがであろう。


(7)【苗則槁矣】
《苗は枯れていた》
「則」は、法則を原義とする連詞として「その場合は」という意味で用いられることが多いが、この箇所の「則」は副詞として用いられ、「苗、それは」という意味合いで後の「槁」を修飾している。

「槁」は、枯れた状態を表す形容詞だが、動詞「かル」と訓読する。
趙岐は「槁、乾枯也。」(▽槁は、乾き枯れるの意である。)と注している。
地面から根ごと持ち上げられたために、しおれてしまったのであろう。

「矣」は語気詞。
(5)に同じく確認の語気を表し、確認することが完了を表すことにもなるのだ。


(8)【天下】
《世の中》

(8)【不助苗長者】
《苗の成長を助けないもの》
「不」は前出。動詞「助」(助ける)を否定している。

「者」は、形式的な名詞の働きをする結構助詞で、「不助苗長」(苗の成長を助けない)という謂語+賓語の構造の後に置かれて名詞句を作り、ここでは人を指す。

この句は、

状語〈副詞(不)〉+謂語(助)+賓語【主語(苗)+謂語(長)】+結構助詞(者)

という構造。
そして、この句が後の述語「寡矣」に対して主部になっている。


(8)【天下之不助苗長者】
《世の中の苗の成長を助けないもの》
「之」は、定語「天下」と被修飾句「不助苗長者」の間において、「天下」が「不助苗長者」を修飾する関係であることを示す結構助詞。

定語〈名詞(天下)+結構助詞(之)〉+被修飾句【不助苗長者】

の構造だが、このような働きの「之」は、特に置かれない場合もある。
なお、『漢詩・漢文解釈講座』は、この「之」を「天下に於いて」の意であると説明している。
しかし、文意としてそのように受け取ることはできても、この箇所の「之」を語法的に「於」と解するのは妥当ではない。

a. 人之其所親愛而辟焉。(『礼記』大学)
 ▼人は其の親愛する所に之(おい)て辟す。
 ▽人は自分が親愛するものに対して偏愛する。

b. 莫宜之此鼎矣。(『呂氏春秋』応言)
 ▼此の鼎より宜しきは莫し。
 ▽この鼎よりふさわしいものはない。

いずれも『詞詮』に引かれる用例で、「之」は「於」の意味で用いられているとする。
aは行為の対象、bは比較の対象を表しているというわけだ。
この解釈が正しいかどうかという検証も必要だが、少なくとも「之」が「於」の意味で用いられると言いうるのはこのような形に限られる。
「天下之」の「之」が語法的に「天下に於いて」の意味であるとはとうてい考えられない。


(8)【寡矣】
《少ないのだ》
「寡」は、少ないの意の形容詞です。

「矣」は、やはり確認の語気を表す語気詞だが、「少ないのだ」と確認することが、必然的判断になるのだ。


(8)【天下之不助苗長者寡矣】
《世の中の苗の成長を助けないものは少ないのだ》
形容詞を謂語とする文。

主部【天下之不助苗長者】+謂語【謂詞(寡)+語気詞(矣)】

の構造をとっている。

「苗の成長を助けないものが少ない」とは、言い換えれば「苗の成長を助けるものが多い」ということ。
世の中には苗がなかなか成長しないことを憂えて無理に苗のしんを引っ張るような愚か者が多いと言いたいのだ。
孟子がこのたとえ話で何を述べようとしたのかについては、補説を参照されたい。


■補説
「助長」という故事成語の出典となった話。
出典は『孟子』の中でも最も長い、「浩然の気」について語られた有名な章段である。


斉の国を訪れていた孟子が、弟子の公孫丑に、「もし先生が斉王を輔佐する立場に立たれたなら、さすがに責任の重さに動揺されるのではありませんか?」と質問され、「いや、私は四十歳で、どんな時も心を動揺させることはなくなったのだよ。」と答えたことから、孟子の精神修養論が始まる。
どんな時にも心を動かさないでいるためには勇気が必要だが、それでは昔の勇士孟賁(もうほん)よりはるかにすぐれていると驚く弟子に、孟子は不動心の修養は決して難しいものではないと説く。


真の勇気とは、かつて孔子の弟子曾子(そうし)が「自ら反(かへり)みて縮(なほ)くんば、千万人と雖(いへど)も、吾往かん。」(自分で反省してみて正しければ、たとえ相手が千万人いようとも、私は恐れず突き進むだろう。)と述べたような心の強さだ。
このような心の強さ、すなわち勇気をもって、理性的な善悪の判断のもとに正しいことを貫いていこうという姿勢が必要。
その姿勢を通して不動心は得られるのである。


孟子はこの不動心を「浩然の気」を養うことによって身につけることができたという。
「浩然の気」とは何かと公孫丑に問われて、彼自身が言葉で説明するのは難しいと言っているように、なかなかうまく説明できるものではないが、人間の生命力や活力を作り出すエネルギーのようなものだろうか。
この気は至大至剛、この上もなく大きく強いものであって、人が道徳的に正しい行動を積み重ね損なうことがなければ、やがてこの気が体内に充ち満ちて、ついには天地の間にも溢れ出るほどの強いエネルギーだ。
これを自ら養うことでいかなるものにも屈することのない道徳的勇気に支えられた不動心が得られるのである。
しかし、一方でもし道義を欠いた行いをすれば、たちまちしぼんでしまう。


孟子は言う、だからこそ「浩然の気を養うことに努めなければならない。決していつまでに修得して成果を上げようなどと心づもりしてはならない。また、無理に早く養おうと無理をしてはならない。そう、あの宋の国の人のようであってはならない。」
こうして語られたのが、無理に苗を引っ張ったあの宋人の話である。


浩然の気を養うことなど何の益もないと放っておくような人は、ちょうど苗の周囲の雑草も抜かず苗に手をかけない者と同じで、それでは苗も浩然の気も成長のしようがない。
これは、孟子の同時代人である告子が、「他人のことばに納得がいかないことがあっても、それを気にまで及ぼしてはならない」すなわち苛立ったり怒気を発してはいけないと言ったことを意識したもので、心を乱すことを恐れるばかりで、積極的に道徳的善行によって気そのものを養おうとしないことを批判したものだと言われている。

しかし、一方で少しでも早く浩然の気を養おうと無理する人は、苗を引っ張った宋人と同じである。
これはもう益がないだけでは済まず、かえって害にさえなると孟子は言う。
内面的な充実こそが大切なのに、ただむやみに勇気や不動心を求めていこうとする態度は、血気さかんな人物は作り上げても、真の意味の正しい人間にはほど遠い存在になるだろう。

人は、一つひとつ道徳的な行いを積み重ねていくことによって、少しずつ浩然の気は養われ、いかなることにも揺るがない不動心が身についていくのである。

これが、孟子が修養すべきだとする「浩然の気」の概略だ。
ここで「助長」ということばは、「無理に力を加えたためにかえって害を与える」の意味で用いられている。
したがって、本来は「助けたり力を加えることが、結果として悪い状態を導いてしまう」という意味で用いられるべきことばだが、現在では「物事の成長発展に外部から力を加える」という意味でも用いられている。


■参考文献
〔日本〕
・安井衡『孟子定本』(冨山房「漢文大系1」)
・内野熊一郎『新釈漢文大系 孟子』(明治書院)
・宇野精一『全釈漢文大系 孟子』(集英社)
・村山吉廣『漢詩・漢文解釈講座 故事・寓話2 寓話・逸話』(昌平社)
・森野繁夫『漢文の教材研究 第1冊 故事成語篇』(溪水社)
・高森哲男『鑑賞中国の古典 孟子・墨子』(角川書店)

〔中国〕
・孫奭『孟子注疏(十三経注疏)』(北京大学出版社)
・焦循『孟子正義(十三経清人注疏)』(中華書局)
・楊伯峻『孟子訳注』(中華書局)
・楊伯峻『孟子選訳』(人民出版社)
・楊伯峻・楊逢彬『孟子訳注』(岳麓書社)
・史次耘『孟子今註今訳』(台湾商務印書館)
・万麗華麗・藍旭『中華経典蔵書 孟子』(中華書局)
・金良『孟子訳注(十三経訳注)』(上海古籍出版社)
・劉聿鑫・劉暁東『孟子選訳』(巴蜀書社)