「故事五編」注解2・「蛇足」

(内容:漢文由来の故事成語のうち、教科書によく掲載される「蛇足」の文章の文法解説。)

『故事五編』・「蛇足」注解

■本文
(1)楚有祠者。(2)賜其舍人巵酒。(3)舍人相謂曰、「(4)数人飲之不足、(5)一人飲之有餘。(6)請画地為蛇、先成者飲酒。」(7)一人蛇先成。(8)引酒且飲之。(9)乃左手持巵、右手画蛇曰、「(10)吾能為之足。」(11)未成、(12)一人之蛇成。(13)奪其巵曰、「(14)蛇固無足。(15)子安能為之足。」(16)遂飲其酒。(17)為蛇足者、(18)終亡其酒。

■出典
『戦国策』斉二(底本:重刻剡川姚氏本)

■書き下し文
楚に祠(まつ)る者有り。其の舎人に巵酒(ししゆ)を賜ふ。舎人相謂(い)ひて曰はく、「数人之を飲めば足らず、一人之を飲めば餘り有り。請ふ地に画(ゑが)き蛇を為(な)し、先づ成る者酒を飲まん。」と。一人(いちにん)の蛇先づ成る。酒を引き且(まさ)に之を飲まんとす。乃ち左手(さしゆ)に巵を持ち、右手(いうしゆ)に蛇を画き曰はく、「吾能(よ)く之(これ)に足を為す。」と。未だ成らざるに、一人の蛇成る。其の巵を奪ひて曰はく、「蛇固(もと)より足無し。子安(いづ)くんぞ能く之に足を為さん。」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為す者、終(つひ)に其の酒を亡(うしな)ふ。

■口語訳
楚の国に祭りをした人がいた。その近侍の従者に酒器に入った酒をふるまった。近侍の従者たちが互いに言い合うことには、「数人がこれを飲めば足りないし、一人がこれを飲めばあり余る。地面に蛇を描いて、先にできあがったひとが酒を飲むことにしよう。」と。一人が、蛇が先にできあがった。酒を手に取り、これを飲もうとした。そこで左手で酒器を持ち、右手で蛇を描いて言うことには、「私はこれに足を描くことができる。」と。まだできあがらないうちに、一人の蛇ができあがった。彼の酒器を奪って言うことには、「蛇にはもともと足がない。あなたはどうしてこれに足を描くことができようか。」と。そのままその酒を飲んでしまった。蛇の足を描いたひとは、結局自分の酒を失った。

■注
(1)【楚】
戦国時代の国の名、戦国の七雄の1つで大国。
長江中流域に勢力を張り、春秋時代中頃から周辺の小国を併呑して勢力を拡大し、大国の斉や晋、秦と覇権を争った。
第6代の荘王は「鳴かず飛ばず」のエピソードで有名な名君で、春秋の五覇の1人に数えられる。

ここで、楚の国が話の舞台になっているのは、「蛇足」の話をしている遊説者陳軫が、斉の国を攻めようとしている楚の将軍昭陽を説得しようとしているためで、いわばお国の話として蛇足のたとえ話を作ったのである。
なお、この話は紀元前323年の出来事。


(1)【祠者】
《祭りをした人》
後漢の高誘の注には、「祠、祭。」(▼祠は、祭なり。)とある。
「祭りを司る人」の意とも、「祭りを執り行った人」とも解釈することができる。
南宋の鮑彪は、「祠、春祭。」(▼祠は、春祭なり。)とする。
鮑氏の解釈は『説文解字』に「春祭曰祠。」(▼春の祭りを祠と曰ふ。)とあるのによったもので、これだと陰暦二月の春祭をするの意になる。
舎人に酒がふるまわれているので、祭りを司る人とするより、実際に祭りを行った人と解釈する方が場面としては自然であろう。

「者」は、動詞「祠」の後に置いて、名詞化する働きがある結構助詞。
ここでは作られた名詞句が人を指す。


(1)【楚有祠者】
《楚の国に祭りをした人がいた。》
存在文の形式で、「守株」の項の「宋人有耕田者」と同じ。
「楚」は存在主語だが、意味上の主語になる賓語「祠者」のいる場所を示す。


(2)【賜】
《ふるまう。くださる。》
格上のものが格下のものに金品等を与えることをいう。

(2)【其舍人】
《その近侍の従者》
「其」は指示代詞で、「祠者」を指す。

「舎人」は、王や貴人に招かれた食客を指すが、ここでは祠者に近く仕える従者の意味であろう。
鮑本(鮑彪が大幅に改訂した戦国策の別本)に校注を施した元の呉師道が、『漢書』高帝紀上の顔師古の注「舎人、親近左右之通称也。後遂以為私属官號。」(▼舎人は、親近左右の通称なり。後遂に以て私属の官號と為す。▽舎人は、親しい側近の通称である。後に私的な官職となった。)を引用している。
今それに従う。


(2)【巵酒】
《酒器に入った酒》
「巵」は「卮」と同じ。
鮑彪は「巵、器也。」(▼巵は、器なり。)とする。

范祥雍は、『太平御覧』巻933に引用される注「巵、酒器也。受四升。」(▼巵は、酒器なり。四升を受く。)を引き、高誘注の佚文であろうとする(『戦国策箋証』)。
巵が四升入る器であることについては、南北朝梁の顧野王の『玉篇』にも「酒漿飲器也。可受四升。』(▼酒漿の飲器なり。四升を受くべし。▽酒を飲むための器。四升が入る。)と記載されているので、日本の諸注釈が巵を四升入る器とするのは、これらによったものであろう。

1972年以降の馬王堆漢墓の発掘調査により、大量の副葬品が発見されたが、その漆器の中に巵が含まれ、底に容量が書かれており、斗巵、七升巵、二升巵等が見られた。
四升では800ml弱、二升では400ml弱となり、後文の「数人飲之不足、一人飲之有餘。」を踏まえると、当時のアルコール度数の低さからしても、400mlでは一人でも「有餘」となるかどうかやや怪しいように思う。
馬王堆漢墓では四升巵は出土していないようだが、結論として容量についてははっきりしない。

なお、巵は円筒形のジョッキ、またはピッチャーのようなもので、我々がイメージするような「さかずき」ではない。
後文の「左手持巵、右手画蛇」でわかるように、巵には持ち手がついていて、まさにジョッキ片手に絵を描く姿を思い浮かべればよかろう。

王念孫は『読書雑志』で、次のように指摘する。
「巵上当有『一』字。以酒僅一巵、故下文曰、数人飲之不足、一人飲之有餘也。若無『一』字、則文義不明。」(▽「巵」の上に「一」の字があるべきである。わずか一つの巵に入った酒だからこそ、後文に「数人飲之不足、一人飲之有餘」というのである。もし「一」の字がなければ、文意がはっきりしない。)
例証として、『芸文類聚』雑器物部と鱗介部、『太平御覧』器物部、『漢書』袁紹伝に引用された注が「酒一巵」とするのと、『史記』楚世家も「一巵酒」としていることを挙げている。

それに対して范祥雍は、定語(連体修飾語)の数詞「一」は省略することができ、「酒一巵」と「巵酒」は同じであり、こだわる必要はないとする(『戦国策箋証』)。


(2)【賜其舍人巵酒】
双賓文(賓語を2つとる文)の構造。
日本では二重目的語の文とも呼ばれる。

この構造を理解するには、動詞に「他動性動詞」「依拠性動詞」「生産性動詞」の3種類あることを知らなければならない。

まず、「食桃」(桃を食らふ)の「食」は、他動性の動詞だ。
他動性とは、動作主の意図的な動作の結果、対象を変化させる性質をいう。
桃は動作主によって食べられてしまうわけだ。

「登山」(山に登る)の「登」は、依拠性の動詞。
依拠性とは、その作用が他の物をよりどころとして行われる性質をいう。
「登る」という行為は、「山」をよりどころとして行われるわけだ。

「号武信君」(武信君と号す)の「号」は、生産性の動詞。
生産性とは、何かを作り出す性質をいう。
「武信君」は「号」(名づける)行為によって作り出されるものだ。

動詞の中には複数の性質を併せもつものがある。
たとえば、「与」(与える)なら、「与桃」(桃を与える)の「桃」は他動性に対する賓語だが、「与汝」(あなたに与える)の「汝」は依拠性に対する賓語になる。
これを同時に「与汝桃」とすれば、「汝に桃を与ふ」と読んで「あなたに桃を与える」という意味を表すことになる。
これが「双賓文」だ。
「与」や「賜」などの授与を表す動詞は、依拠性を第1の性質とし、他動性を第2の性質とするから、必ず「与汝桃」の語順になって、「与桃汝」という語順にはならない。

これらの動詞の他動性・依拠性・生産性という性質や、その賓語の用いられ方については、松下大三郎『標準漢文法』に詳しいので、ぜひ熟読されたい。

さて、「賜其舍人巵酒」の文は、「賜」が授与動詞であるために、依拠性を第1の性質とした双賓文となっている。
つまり、「授与動詞+A+B」の形をとるが、Aは依拠性に対する人物を表す賓語、Bは他動性に対する事物を表す賓語になり、「どうする+誰に+何を」の位置関係になる。
中国の古典中国語文法では、他動性に対する賓語を直接賓語、依拠性に対する賓語を間接賓語と呼んでいる。
その呼称にならえば、構造は次のようになる。

主語「祠者」+謂語「賜」+間接賓語「舎人」+直接賓語「巵酒」


この形をとる動詞には他に、「与」(あたふ)「予」(あたふ)「授」(さづク)「饋」(おくル)「貽」(おくル)「贈」(おくル)「遺」(おくル)「寄」(よス)などがある。


さて、この文は前述した通り、「賜巵酒其舍人」という語順をとれない。
動詞「賜」がもつ依拠性第1の性質のために、「賜巵酒」と表現された段階で、その後に「其舎人」という依拠性に対する賓語をとれず、文が終止してしまうからだ。
これを救済するためには、「於」を用いて、「於其舎人」の形で「賜巵酒」が失った依拠性を補充する。
つまり、「賜巵酒於其舍人」となり、この文は成立する。

「賜其舍人巵酒」も「賜巵酒於其舍人」も、指す意味は同じだが、語順の入れ替えによって、発話の重点は変わり、文のニュアンスは微妙に異なる。
したがって、どちらでもよいというわけにはいかない。
前者は「巵酒」に重点が置かれ、後者は「於其舍人」に重点が置かれる。
表現者が最初に祭りをした人(祠者)を紹介し、その近侍の従者(其舍人)に、「他ならぬ酒(巵酒)」を下さると述べた。
「他ならぬその従者に」ではないのだ。


(3)【相謂曰】
《互いに言い合うことには》
「相」は、互いに。動作が双方向に対等に及ぶ意味を表す副詞。

「謂」は、相手に対して話しかける意味を表し、通常「A謂B曰」の形をとって「AがBに言う」の意味を表す。ここでは舎人たちがそれぞれ他の舎人に話しかけているのである。


(4)【数人飲之不足】
《数人がこれを飲めば足りず》
「之」は指示代詞、指示内容は「酒」。
ただし、「之」は「此」「是」とは異なり、これらがもつような実質的な意味をもたない。
前に述べられた「酒」を借りて自己の意義を補充するのである。
それに対して、「此」「是」は近くにあるものを具体的に「これ」と指し、実質的な意味をもつ。
それは、「此」「是」が「これは」と指して主語となるのに対して、「之」が主語となり得ないことからもわかる。

「数」は名詞「人」を修飾して、「何人かの」という不特定な数を表す数詞。

「足」は、漢文訓読では上二段ではなくラ行四段動詞として読む。
訓読では動詞として読むが、本来は「十分である」という意味の形容詞である。

この文は語を補えば「数人飲之、酒不足。」となる複文の構造。
複文とは、文を構造から見た時、 1つの文の中に2つ以上の句が組み合わさっているものをいう。
これらの複数の句は並列や逆接、因果関係などさまざまな論理的関係をもつが、この文の場合は、前句「数人飲之」(数人がこれを飲めば)という条件で、後句「(酒)不足」という結果になることを表している。
複文の中では、それぞれの句はすでに独立性を失って、論理的な関係の中で意味をなすが、本来それぞれ文としての主謂構造などの構造自体は保っている。

すなわち、

前句【主語「数人」+謂語「飲」+賓語「之」】→後句【主語「酒」+謂語「不足」】

という構造になる。

この文では前句の条件の場合、後句の結果となることを表している。
このような場合、連詞「則」等が後句の先頭に置かれることがあるが、このように何も置かれずに文脈から判断しなければならないことも、ごく普通にある。


(5)【一人飲之有餘】
《一人がこれを飲めばあり余る》
「之」の指示内容は(4)と同じで「酒」。

「有餘」は、主語を補えば「酒有餘」となる存在文で、意味上の主語は構造上の賓語「餘」。
「余剰が酒にある」(←酒が余剰を有す)の意から、酒が十分にあり余るの意味を表す。

この文も(4)と同じく複文で、

前句【主語「一人」+謂語「飲」+賓語「之」】→後句【主語「酒」+謂語「有」+賓語「餘」】

の構造で、条件に応じた結果を表している。


(6)【請】
「請」は、相手に対して丁重に自分の行為の容認を求めたり、相手に行為を促したりする敬謙副詞。
もとは「相手に求める」意の動詞であるが、会話文や手紙文で用いられ、いわば下手に出て相手に敬意を表す語として謂語動詞を修飾するものとみなし、現在の古典中国語文法では副詞に分類されている。

訓読では動詞「こフ」として読み、次のように読み分けている。

a.「請ふ~(せ)ん。」→「~させてください。」(自行為の容認を求める)
b.「請ふ~(せよ)。」→「~してください。」(相手への行為の促し)

ここではaで読み、後の「画地為蛇、先成者飲酒」という自分の考えを周りに提案し、その容認を求めているのだが、同時にその行動への参加を周りに促してもいて、a、bのどちらの意味であるかが判然としない。
このような場合は「~しましょう。・~してはどうでしょう。」ぐらいの意味になり、いつでも必ず2つの意味のどちらか一方に分類しきれるわけではない。


(6)【画地為蛇】
《地面に蛇を描いて》
「画」は、図や絵を描くの意。
「画~為―。」の形で、「~に描いて―をつくる」の意から「~に―を描く。」と意訳してもよい。

・画腹為射的。(『南史』斉本紀上)
 ▼腹に画きて射的を為す。
 ▽腹に射的を描く。

などの例がある。

『後漢書』袁譚列伝の「妄画蛇足」に、唐の李賢らにより施された注は『戦国策』を引用して「各画地為蛇」とし、「各」一字が加わっている。


(6)【先成者】
《先にできあがったひと》
「成」は、できあがる、完成するの意。
「先成之者」の形をとっていないこと、また、後文の「一人蛇先成」から見ても、「なス」と読むべきではなかろう。

「者」は、結構助詞。
動詞(「成」)の後に置いて名詞句をつくる働きで、ここでは「~する人」と、人を指す。


(6)【請画地為蛇、先成者飲酒】
《地面に蛇を描いて、先にできあがったひとが酒を飲むことにしよう。》
前半部が、

(副詞「請」)+謂語「画」+賓語「地」、+謂語「為」+賓語「蛇」

後半部が、

主語「先成者」+謂語「飲」+賓語「酒」

の構造をとっている。

もし「請」を動詞とみなした場合、「画地為蛇」が賓語に相当し、「地面に描いて蛇をなすこと」を「請い求める」の意になり、本来はそういう構造であったというべきだが、そのように重々しい意味ではなく、謂語動詞「画・為」に意味を添えていると判断されるがゆえに副詞扱いにされているのであろう。
中国の主流の語法学においては品詞分類が働きに応じてなされるために、このようになるのだが、合理的解釈の姿勢に疑問を感じないでもない。


(7)【一人蛇先成】
《一人が、蛇が先にできあがった。》
「一人」を主語、「蛇先成」を謂語として解した。
謂語はまた、主語「蛇」+謂語「先成」の主謂構造をとっている。
このように解釈したのは後文の「一人之蛇成」との違いを意識したからだが、「一人」を「蛇」を修飾する定語(連体修飾語)と解して、「一人の蛇」の意と考えることもできる。
なお、「一人」は「ひとり」ではなく「いちにん」と読むのが普通。
訓読では熟語は音読みする習慣があるからだ。


(8)【引酒】
《酒を手に取り》
「引」は、取る、持つ、つかむの意。
日本の注釈書は概ね「酒を引き寄せて」と訳しているが、何建章は『国語』晋語八の「引党以封己」の韋昭の注「引、取也」を引用して、「取る」の意に解している(『戦国策注釈』)。
また、『中華経典蔵書・戦国策』や『文白対照全訳戦国策』も「拿」(もつ、取る)と訳している。
「引」は、「弓を引き開く」が原義の字であるから、持っていなかった酒に手を伸ばし引き寄せる行為が、巵を手にする「取る」という行為にみなされるのであろうか。


(8)【且飲之】
《これを飲もうとした。》
「且」は、行為や状況が近い将来行われたり実現しそうであることを表す時間副詞。
訓読では再読文字として「まさニ~(せ)ントス。」と読み、「~(し)ようとする・~(し)そうである。」と訳す。
「将」も同様の意味を表す時間副詞である。

「之」は指示代詞で、指示内容は「手にした酒」。


(9)【乃】
《そこで》
前の行為や状況を受けて、後の行為や状況がどうするか、どうなるかを示す副詞。
ここでは「酒を飲もうとして、[そこでどうしたかというと]左手で巵を手にし右手で蛇を描いた」わけだから、「そこで」と訳す。
しかし、前の行為や状況を受けて、そこでどうするか、どうなるかが、予想とは逆の行為や状況になる場合も当然あって、その場合は「意外にも・それなのに・かえって」などと訳すことになる。
したがって、すでに蛇の絵は完成して酒を飲む権利を得ているのに、「そこでどうしたかというと」意外にもまだ蛇の絵を描き続けようとする(=足を描き足そうとする)の意味に解釈することもできるだろう。


(9)【左手】
《左手で》
「さしゆ」(さしゅ)と読む。
前にも述べた通り、訓読では熟語は音読みする習慣があるからだ。


(9)【右手】
《右手で》
「いうしゆ」(ゆうしゅ)と読む。

(10)【吾】
《わたし》
一人称の人称代詞。

(10)【能】
《~できる》
能力的に可能であることを表す助動詞で、「~(することが)できる」と訳す。
「よク~(ス)」と訓読し、「不能」の時のみ「~(スル(コト))あたハず」と読む。
よく否定文では「あたハず」と読むと説明されたりするが、否定文でも「無能」「莫能」は「よク~(スル)なシ」、「非能」は「よク~(スル)ニあらズ」と読んで、「あたフ」と読むことはない。


(10)【為之足】
《これに足を描く》
双賓文だ。
古典中国語文法の説明に従えば、構造は次の通り。

謂語「為」+間接賓語「之」+直接賓語「足」

双賓文については、(2)で詳述した。

「為」(つくる)は生産性の動詞だ。
だから通常は「為足」(足を描く)となる。
これが依拠性を帯びると、依拠性に対する賓語は必ず前に置かれて、「為蛇足」の語順になる。
ここでは「為之足」であるが、この「之」は形式的な指示代詞で、前に述べられた「蛇」を借りて自己の意義を補充しているのである

つまり「為之足」は双賓文で、「これに足を描く」という意味になる。
これを「之が足を為る」と読むことがあるが、語法的には誤りであろう。


(11)【未成】
《まだできあがらないうちに》
「未」は、行為や状況がまだ完了していない意を表す副詞。
再読文字として、「いまダ~(セ)ず」と読み、「まだ~(し)ない」と訳す。

清末民初の考証学者劉師培は、『芸文類聚』巻25の引用に「吾能為足。為足未成。」、巻73の引用に「吾能為之足。足未成。一人蛇先成。」とあるのを根拠に、「未成」の上に「足」の字を加えるべきだと述べている(『左菴集』巻五)。

范祥雍も『芸文類聚』巻25、巻73、巻96、『太平御覧』巻460、巻933の引用に「未成」の上に「為足」の2字があり、『太平御覧』巻761、『長短経』に「足」の1字があることを指摘している(『戦国策箋証』)。

「為足未成」であれば「足を為すこと未だ成らざるに」と読み、「足未成」であれば「足未だ成らざるに」と読むことになる。


(12)【一人之蛇】
《一人の蛇》
「之」は、「一人」が「蛇」を連体修飾する関係であることを示す結構助詞。

(13)【其巵】
《彼の酒器》
「其」は、指示代詞で、先に述べられた人や物・事を指す。
ここでは蛇を書いた人を指すので「彼」と訳した。


(14)【固】
《もともと。本来》
副詞で、本来的に性質として備わっていることをいう。

(14)【蛇固無足】
《蛇にはもともと足がない。》
存在文の形式だが、この「無」は所有の否定を表す動詞なので、所有文といってもよい。

主語「蛇」+(副詞「固」)+謂語「無」+賓語「足」

という構造。


(15)【子】
《あなた》
人称代詞で、男子に対する尊称。
「し」と読んで、この意味の場合「こ」とは読まない。


(15)【安能為之足】
《どうしてこれに足を描くことができようか。》
「安」は、反語を表す副詞。
「いづクンゾ~(セ)ンヤ」と読んで、「どうして~(し)ようか。(いや、~(し)ない。」という意味を表す。
「いづくんぞ」という訓は、「いづくにぞ」の音便化したものだ。
『平安時代の漢文訓読語につきての研究』(築島裕)によれば、「いづく」「いづくにか」という訓が場所を指示するのに用いられるのに対して、「いづくんぞ」という訓には場所を示す用法はなく、もっぱら陳述の副詞のように用いられているという。

「能」が能力的な可能を表すので、「安能~」で「どうして~(することが)できようか。」という意味になり、内容的には「不能」と同義になる。
したがって、「子安能為之足」は「子不能為之足」(▼子之が足を為すこと能はず。▽あなたはこれの足を描くことはできない。)と、内容的には同じになる。


(16)【遂】
《そのまま》
前に述べられた内容に引き続いて次の内容が起こることを表す。
ここでは先に蛇を完成した人の巵酒を奪い取ったまま、そのままの意。
文脈によっては「結局、とうとう」という意味を表すこともあるが、ここではその意味ではない。
「つひに」という訓に引きずられて日本語的に解釈してはならぬ。


(16)【其酒】
《その酒》
奪い取った彼の酒の意だ。

(17)【為蛇足者】
《蛇の足を描いたひと》
「者」は、名詞句を作る働きの結構助詞だ。
「者」自体は具体的な意味のない形式的な名詞ともいえるが、それに先行する部分を受けて具体的な意味が補われた名詞句をつくり、それを指示する働きがある。
ここでは、「動詞(為)+目的語(蛇足)」の後に置いて体言化して人物を指す働き。
その結果、名詞化した「為蛇足者」が、謂語「亡」の主語となるのだ。


(18)【終】
《しまいには。とうとう》
最終的にはの意で、結局と訳してもかまわない。
「終」は途中を見すえつつ最終的な結末を表す副詞だ。
本文の意味とは別に、次のように「最後まで」という意味を表すことがある。

a. 太后日夜涕泣、幸大王自改、而大王終不覚寤。(『史記』韓長孺列伝)
 ▼太后日夜涕泣し、大王の自ら改むるを幸(ねが)ふも、大王終に覚寤せず。
 ▽太后は日夜泣いて、大王が自分を改めることを願っておられるが、大王は結局目をおさましにならなかった。

b. 魯仲連辞譲者三、終不肯受。(『戦国策』趙三)
 ▼魯仲連辞譲する者(こと)三たび、終に受くるを肯(がへん)ぜず。
 ▽魯仲連は三たび辞退し、最後まで受けようとしなかった。

aは、結局と訳してはいるが、太后が日夜涕泣している間、終始自分を改めることがなかったのであり、意味的には最初から最後までの意だ。
bも、魯仲連は終始一貫して受けようとしていない。

一方、本文は最初に蛇を描き上げた舎人が酒を失ったのは、最終的な結末であり、最初から最後まで失い続けたわけではない。
このように「とうとう」「結局」と訳せても、実は意味の異なることがある。


(18)【亡其酒】
《自分の酒を失った。》
「亡」は、なくす、失うの意。

「其」は、「彼の」の意。
蛇を書いた人が飲むはずだった酒を失ったので、ここでは「彼自身の」の意味を表すことになる。


■補説
「蛇足」ということばのもとになった話。

紀元前323年、楚の将軍昭陽が魏の国を攻め魏軍を殲滅、八城を攻め落とすという破竹の進撃をして、さらに斉の国を攻めようとした。
そこで斉王が起用したのが陳軫である。
陳軫はかつて張儀とともに秦の恵王に仕えたこともある遊説家で、使者として昭陽に会い弁を振るうことになった。

「楚の国の法では、敵軍を倒し敵将を殺した功績に対して与えられる官爵は何でしょうか。」
昭陽いわく、「官は上柱国で、爵は上執珪だ。」

柱国は軍功のあった者に授けられる官名で上柱国はその最上位、執珪は功臣に対する爵位で上執珪はもちろんその最上位だ。

陳軫はさらに「それ以上の貴いものは何がありますか。」と問いかける。
「ただ令尹だけだ。」

令尹とはいわば総理大臣で、人臣の最高位である。

「楚の王は二人も令尹を置くわけにはいきません。」

これによればすでに令尹がいたということになるが、それが誰かはわかっていない。
『史記』では昭陽がすでに令尹であり、これ以上の出世はあり得ないという話になっている。

「臣、窃かに公のために譬へん。」私は、はばかりながらあなたさまにたとえ話をしましょう。

説客陳軫が内密の話として昭陽の置かれた立場を喩えた話が「蛇足」である。
すでに十分に軍功のある昭陽が、この先斉の国を攻めて手柄を立てたとしても、今以上に加えうる官爵はない。
それならば、兵を引いて斉に恩を売った方が得策。

「止まることを知らざる者は、身まさに死せんとし、爵まさに後に帰せんとす。なほ蛇足を為すがごときなり。」
進むことばかりを考えて足るを知らない者は、いずれ身は死し、爵位は後進に譲ることになる、それは蛇に余計な足を描くようなもの。
陳軫のことばになるほどと思った昭陽は、軍を撤退させることになった。

なくてよいはずの余計なもの、あるいは余計なことをすることを「蛇足」というが、舎人などは酒を飲みそこなっただけで済むが、将軍ともなると判断を一歩間違えば身の破滅につながる。
だからこそ、このたわいないたとえ話が効果をもつのであって、また、その現実を十分に見極めていたからこそ、陳軫のような遊説家は、機を見るや巧みに寓話を用いて説得し、戦況までをも変えてしまうことができたのである。



■参考文献
〔日本〕
・横田惟孝『戦国策正解』(冨山房「漢文大系19」)
・林秀一『新釈漢文大系 戦国策』(明治書院)
・近藤光男『全釈漢文大系 戦国策』(集英社)
・細谷美代子『研究資料漢文学 歴史3』(明治書院)
・合山究『漢詩・漢文解釈講座 故事・寓話1 故事成語』(昌平社)
・常石茂『東洋文庫 戦国策』(平凡社)
・森野繁夫『漢文の教材研究 第1冊 故事成語篇』(溪水社)
・小川環樹、西田太一郎『岩波全書 漢文入門』(岩波書店)

〔中国〕
・『戦国策』(上海古籍出版社)
・范祥雍『戰國策箋證』(上海古籍出版社)
・『二十五別史』(斉魯書社)
・缪文远・罗永莲・缪伟『中华经典藏书 战国策』(中華書局)
・何建章『戦国策注釈』(中華書局)
・孟明・王扶汉『文白对照全译战国策』(中央民族大学)