「故事五編」注解4・「漁父之利」(漁父の利/漁夫の利)

(内容:漢文由来の故事成語のうち、教科書によく掲載される「漁父の利」(漁夫の利)の文章の文法解説。)

『故事五編』・「漁父之利」注解

■本文
(1)趙且伐燕。(2)蘇代為燕謂恵王曰、「(3)今者臣来、過易水。(4)蚌方出曝。(5)而鷸啄其肉。(6)蚌合而拑其喙。鷸曰、『(7)今日不雨、明日不雨、(8)即有死蚌。』(9)蚌亦謂鷸曰、『(10)今日不出、明日不出、(11)即有死鷸。』(12)両者不肯相舎、(13)漁者得而并禽之。(14)今趙且伐燕。(15)燕趙久相支、(16)以弊大衆、(17)臣恐強秦之爲漁父也。(18)故願王之熟計之也。」恵王曰、「(19)善。」(20)乃止。

■出典
『戦国策』燕二(底本:重刻剡川姚氏本)

■書き下し文
趙且に燕を伐たんとす。蘇代燕の為に恵王に謂ひて曰はく、「今者(いま)臣来たり、易水(えきすい)を過ぐ。蚌(ばう)方に出でて曝(さら)す。而して鷸(いつ)其の肉を啄(ついば)む。蚌合して其の喙(くちばし)を拑(はさ)む。鷸曰はく、『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん。』と。蚌も亦(ま)た鷸に謂ひて曰はく、『今日出ださず、明日出ださずんば、即ち死鷸有らん。』と。両者相舎(す)つるを肯(がへん)ぜず。漁者(ぎよしや)得て之を并(あは)せ禽(とら)ふ。今趙且に燕を伐たんとす。燕趙久しく相支へて、以て大衆を弊(つか)れしめば、臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。故に王の之を熟計せんことを願ふなり。」と。恵王曰はく、「善し。」と。乃ち止(や)む。

■口語訳
趙の国が燕の国を攻めようとした。蘇代が燕の国のために恵王に言ったことには、「今わたくしが(ここへ)来ました折、易水を通りがかりました。どぶ貝がちょうど(水から)出て日に当たっていました。そしてしぎがその肉をついばみました。どぶ貝は(殻を)閉じてそのくちばしをはさみました。しぎが言うことには、『今日雨が降らず、明日雨が降らなければ、死んだどぶ貝ができあがるぞ。』と。どぶ貝もまたしぎに言うことには、『今日(お前を)放さず、明日放さなければ、死んだしぎができあがるぞ。』と。双方とも互いに放そうとせず、漁師がこれを両方捕まえることができました。さて、燕の国と趙の国が久しく対抗し合って、それによって民衆を疲弊させたら、わたくしは強い秦の国が漁師のおやじとなることを心配するのです。ですから、王様がこのことをよくお考えになることを希望するのです。」と。恵王が言うことには、「わかった。」と。そこで(恵王は燕の国を攻めようとするのを)取りやめた。

■注
(1)【趙】
戦国時代の国の名で、戦国の七雄の一つ。
紀元前453年に、晋の三大夫、韓氏・魏氏・趙氏が分立して三晋と称し、その後紀元前403年に周王から諸侯として認められた。
通常この年をもって戦国時代の始まりとする。
趙は初め晋陽(現在の山西省太原市)に都を置き、後に邯鄲(かんたん)(現在の河北省邯鄲市)に遷都した。
現在の山西省と河北省のあたりを領土としたが、紀元前228年に秦の始皇帝に滅ぼされた。


(1)【燕】
周の時代から春秋時代、戦国時代にかけて存在した国の名。
もとは周の諸侯の国だったが、戦国時代には戦国の七雄の一つに数えられた。
都は薊(けい)(現在の北京市)で、今の河北省と遼寧省のあたりを領土とした。
つまり燕と趙は東西に国土を接する関係にあったのである。
なお戦国時代末に、燕の太子丹が、秦の始皇帝暗殺のために荊軻(けいか)という刺客を送り失敗したことが契機で、紀元前222年に燕は攻め滅ぼされた。


(1)【趙且伐燕】
《趙の国が燕の国を攻めようとした》
「且」は、行為や状況が近い将来行われたり実現しそうであることを表す副詞。
訓読では再読文字として「まさニ~(せ)ントス。」と読み、「~しようとする・~しそうである。」と訳す。
「将」も同様の意味を表す副詞だ。
訓読において「且」や「将」を再読文字として扱うために、口語訳にあたって「今にも」「ちょうど」を訳の先頭につけなければならぬように思い込みがちだが、その必要はなく、訳がかえっておかしくなる時にはむしろつけてはいけない。


「伐」は、兵力を用いて攻めるの意の動詞。

この文の構造は、

主語(趙)+述部【連用修飾語〈副詞(且)〉+述語(伐)】+目的語(燕)

の形である。

(2)【蘇代】
戦国時代の遊説家で、合従策(がっしょうさく)で有名な蘇秦(そしん)の弟。
蘇代も兄と同じく合従策を唱え、燕や斉の国に仕えて活躍した。


(2)【為】
《~(の)ために》
前置詞で、ここでは利益が与えられる対象を示す。
「為~」の形で前置詞句を作り、「~(の)ために」という意味になる。
ここでは蘇代が恵王に言う行為が燕のために行われる、燕の利になるということである。


(2)【恵王】
趙の恵文王(紀元前310年~紀元前266年)のこと。
(いみな)は何。
在位期間は紀元前298年~紀元前266年。
死後に恵文王と諡(おくりな)された。
完璧の逸話や、刎頸の交わりで有名な廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)は、この王の臣である。


(2)【蘇代為燕謂恵王曰】
《蘇代が燕の国のために恵王に言ったことには》
「謂」は、相手に対して話しかける意味を表し、通常「A謂B曰」の形をとって「AがBに言う」の意味を表す。
この時「謂」の目的語Bは話しかける対象を表し、「曰」以下は述べる内容を表す。


この文の構造は、

主語(蘇代)+述部【前置詞句〈前置詞(為)+目的語(燕)〉+述語(謂)+目的語(恵王)】+述語(曰)

のように、前置詞句が述語を連用修飾する形で用いられている。
主語(蘇代)に対して、2つの述語(謂)(曰)が用いられているので、連動文(注1)のひとつと考えられるだろう。


(注1)連動文
動詞述語文の1つの形式で、主語に対して複数の動詞が何らかの関連をもって述語として用いられる文をいう。それぞれの述語には目的語を伴うこともある。最初の述語構造(述語+目的語)と後に続く述語構造が動作の行われる順の場合もあれば、前者が後者の手段や方法を表す場合もある。

(3)【今者】
《いま》
「者」は時を表す語につく接尾語。
他に「昔者」(むかし)がよく用いられ、「古者」(いにしへ)、「嚮者」(さきニ)、「向者」(さきニ)、「曩者」(さきニ)、頃者(このごろ)、「昨者」(きのふ)などもある。


さて、この「今者」は、「いま」と訓読しても、指す時期に幅がある。

a. 初時相持年小、今者且三十矣。(『三国志・呉書』宗室)
 ▼初時年小に相持するも、今者且に三十ならんとす。
 ▽(私はお前が)初め年少なので多めにみてきたが、(お前は)今三十になろうとしているのだ。

b. 吾聞見両頭蛇者死。今者出遊見之。(『列女伝』仁智)
 ▼吾聞く両頭の蛇を見る者は死すと。今者出遊して之を見る。
 ▽私は頭が二つある蛇を見たものは死ぬと聞いている。さっき出かけてこれを見た。

c. 老臣今者殊不欲食、乃自強歩日三四里、少益耆食、和於身也。(『戦国策』趙策四)
 ▼老臣今者殊(こと)に食を欲せず。乃ち自ら強ひて歩くこと日に三四里、少しく食を耆(たしな)むを益(ま)し、身を和(やわら)ぐるなり。
 ▽老臣は近頃めっきり食欲がありませんので、自らしいて一日に三四里歩くようにしましたところ、少し食が進むようになり、体調もよくなりました。

aは、幼少時に対して「今は」と、現在そのものを指している。
bは、少し前の外出を指しているので、「先ほど」「さっき」ぐらいの意、本文の意味はこれにあたる。
cは、最近の食欲不振をいうのであり、「近頃」「この頃」ぐらいの意味になる。
このように、「今者」は必ずしも現在そのものをいうわけではなく、比較的最近を指す時間的な幅のある語である。

(3)【臣】
《わたくし》
君主や諸侯に対する時の、自己の謙称。
必ずしも直接の臣下でなくても用いる。


(3)【過易水】
《易水を通りがかる》
「過」は、「通る」、「通りがかる」、「立ち寄る」「訪問する」など、意味に幅がある動詞。
ここでは実際に易水を通過してはいるが、通過すること自体を言おうとしているのではなく、易水を通過する際にということなので、「通りがかる」と訳した。


「易水」は、燕と趙の二国の間を流れる河川の名。
上流は趙、下流は燕を流れ、蘇代が燕の国から趙の国へ来るためには、東から西へ易水を渡らなければならない。


(3)【今者臣来、過易水】
《今わたくしが(ここへ)来ました折、易水を通りがかりました》
この文の構造は、

連用修飾語〈名詞(今者)〉+主語(臣)+述語(来)、述語(過)+目的語(易水)

の形になっている。
前述したように、1つの主語「臣」に対して、2つの述語「来」と「過」が置かれる連動文である。


「今者」は名詞の副詞的用法で、後の述語を修飾しているが、このように文頭に置かれることもあるのだ。

(4)【蚌】
《どぶ貝》
諸説あり、ハマグリともマテガイという注もあるが(『全釈漢文大系』、『新釈漢文大系』『漢文名作選』)、海水に棲む貝ではあり得ない。
『漢字源』などの辞書はイシガイ科の二枚貝とし、ドブガイ、カラスガイなどとしている。
淡水に棲む大型の二枚貝であることは、易水のほとりに棲息し、鷸のくちばしをはさんだこと、鷸が身動きならなかったことから明らか。


(4)【方】
《ちょうど(~している・していた)》
ここでは、行為が現在進行形で行われていることを表す副詞。

a. 是時項羽方与漢王相距滎陽、天下未有所定。(『史記』外戚世家)
 ▼是の時項羽方に漢王と滎陽(けいやう)に相距(ふせ)ぎ、天下未だ定まる所有らず。
 ▽この時項羽はちょうど漢王と滎陽で攻防し合っていて、天下はまだ定まることがなかった。

b. 晏子賢人也。今方来。欲辱之、何以也。(『説苑』奉使)
 ▼晏子は賢人なり。今方に来たる。之を辱(はづかし)めんと欲するに、何を以てせんや。
 ▽晏子は賢人である。まもなくやって来る。こいつを辱めてやろうと思うが、どうすればよかろう。

aは、「ちょうど攻防中であった」の意で、本文の意味と同じ。
bは、現在ではなく近い将来を表し、「まもなく~しようとする・しそうである」の意。
このように「まさニ」と読んでも、意味の異なることがあるので注意が必要だ。

(4)【出曝】
《(水から)出て日に当たっていた》
「出」は、川の水から出るの意。
泥から出ると解して、水から出るを一説とする解説書もある(『研究資料漢文学』)
しかし、実際には日本及び中国の注釈書や訳本はほとんどが水から出ると解している。
いずれにせよ確定する根拠はない。

なお、常石茂は「蚌が肉を出して」と訳している(東洋文庫『戦国策』)
これも「出」を他動詞だとするには、その目的語が置かれていないことが不自然である上に、根拠も定かではない。


「曝」は、日に当たるの意。
『列子』楊朱に、「曁春東作、自曝於日。」(▼春に曁(およ)び東作し、自ら日に曝す。▽春になると耕作し、自分の体を太陽にさらす。)とある。
太陽光線を浴びるの意だ。

上記『研究資料漢文学』は、「『曝』は、殻を開ける。二枚貝が殻を開いて腹を日の光に当てていた。」としている。
行為自体は同じでも、「曝」を殻を開けるの意とするのはいかがであろうか。


(5)【而】
《そして》
前で述べられた内容を承けて、後の内容が展開することを示す接続詞。
ここでは単純に時間の前後関係を表すとも、「蚌が自ら出て日に当たっていた」から「鷸がその肉をついばんだ」と、原因に対する結果を表すとも考えられる。

訓読では、本文のように文頭に「而」が置かれている時は置き字とせず、順接の場合「しかうシテ・しかシテ」、逆接の場合「しかルニ・しかレドモ」などと読む習慣がある。
ここでは順接なので「しかシテ」と読んだ。


(5)【鷸】
《しぎ》
水辺に棲む鳥の名。
くちばしが長く、小魚や小動物、貝類を食べる。
ここでは先に蚌を食べようと攻撃を加えているので、趙の国を喩えたもの。
『説文解字』に「鷸、知天将雨鳥也。」(▼鷸は、天将に雨ふらんとするを知る鳥なり。▽鷸は、雨が降ろうとするのを知る鳥である。)とあり、南宋の鮑彪(ほうひゅう)がこれを引用している。
後文の鷸の「今日不雨、明日不雨、即有死蚌。」ということばの裏付けとするためだろうが、蘇代がこれを意図して述べたのかどうか定かではない。


(5)【啄其肉】
《その肉をついばんだ》
「啄」は、鳥がくちばしでつついて食べるの意の動詞。

「其肉」は、「蚌の肉」。
「其」は指示代詞である。


(6)【蚌合而拑其喙】
《どぶ貝は(殻を)閉じてそのくちばしをはさんだ》
主語「蚌」に対して、述語「合」と「拑」が置かれる連動文。

「合」は、ここでは殻を合わせるの意の動詞。

「而」は、ここでは順接の接続詞ですが、前半部が後半部の方法を表している。
つまり、「合することで」→「くちばしをはさむ」の関係だ。


「拑」は、鮑本(鮑彪が大幅に改訂した戦国策の別本)では「箝」となっている。
どちらもはさむの意の動詞である。


「其喙」は、「鷸の喙」で、「其」は指示代詞。

(7)【不雨】
《雨が降らず》
「不」は連用修飾語として述語の前に置き動作や状態を否定する副詞。
ここでは動詞「雨」(雨が降る)を否定している。


「雨」は、雨が降るの意の動詞。
「あめフル」と訓読する。
単独で用いられる時は「雨が降る」ことを表すが、目的語として「雪」「雹」(ひょう)「雷」などが伴うと、「降る」の意を表し、「ふル」と訓読する。


a. 自十月不雨、至於夏。(『三国志・呉書』呉主伝)
 ▼十月より雨ふらず、夏に至る。
 ▽十月から雨が降らず、夏に至った。

b. 天雨雪。(『漢書』蘇武伝)
 ▼天雪雨(ふ)る。
 ▽(天は)雪が降った。

c. 十一月、大雨雪。(『北斉書』帝紀・後主幼主)
 ▼十一月、大いに雪雨(ふ)る。
 ▽十一月、大いに雪が降った。

d. 夏寒雨霜。(『淮南子』天文訓)
 ▼夏寒く霜雨(ふ)る。
 ▽夏が寒く霜が降りる。

aは、本文と同じ用法で、「雨が降る」の意。

bとcは、動詞「雨」の目的語に「雪」が伴った形である。

dは、「ふル」と読みますが、目的語が「霜」なので「降りる」と訳す。

これらは、ある現象が発生することを表す現象文である。
「宋有耕田者。」(▼宋に田を耕す者有り。▽宋の国に田を耕すひとがいた。)などの存在文と同様、目的語が意味上の主語になり、主語は現象文では現象の発生する範囲、存在文では存在する場所を表す。


つまり、bの場合、

主語(天)+述語(雨)+目的語(雪)。

の形だが、「雪」が意味上の主語であり、降るという現象の発生する範囲が「天」である。

存在文が「有人。」のように無主語であることが多いように、現象文でもa、c、dの文のように主語が置かれないことが多く、このような文を無主語文という。

(7)【今日不雨、明日不雨】
《今日雨が降らず、明日雨が降らなければ》
姚宏(ようこう)(姚氏本の校訂者)が、宋の陸佃(りくでん)の説を引用して、本文は「今日不両、明日不両、必有死蚌。」であるべきで、「両」とは口を開けるの意味である、一本に「雨」とするのは間違っている、としている。
さらに毛扆(もうい)の説を引用して、「両」の字は「蚌」の字と韻を踏んでおり、蚌が口を開けなければ殻を合わせてひとつとなるので「両」といい、口を開けることをいうのである、としている。
要するに「不雨」ではなくて「不両」であるとするのが、この二者の説だが、これに対しては、清の王念孫が『読書雑志』で、「両」と読んで口を開くの意とするなどは何の根拠もないとし、押韻についても詳細に調べた上で否定している。

(8)【即有死蚌】
《死んだどぶ貝ができあがるぞ》
「即」は副詞。前に述べたことに接着して次の事が起きることを表す。
あえて訳せば「とりもなおさず・必ず」などとなるが、無理に訳す必要はない。
ここでは、今日明日雨が降らなければ、必ずどぶ貝が死ぬことをいう。
『新釈漢文大系』が「間違いなく・必定だ」と訳しているのは、この解釈によるのであろう。

なお、即時の意味に解して、「見る間に」(『全釈漢文大系』)、「たちまち」(『漢文の教材研究』)、「すぐに」(『漢詩・漢文解釈講座』)、「たちどころに」(『研究資料漢文学』)とするものがあり、日本の注釈書の主流の解釈である。
なお、この「即」を「則」と同じとして「その時には」と解する説もあるようだが、この説はとらない。

王念孫は『読書雑志』で、「即有死蚌」は「蚌将為脯」(▼蚌将に脯(ほじし)と為らんとす。▽どぶ貝は干し肉になるだろう。)に改めるべきだとしている。
『芸文類聚』人部9、『太平御覧』人事部97・諫諍6と、人事部101遊説上ともに『戦国策』を引用した文が「蜯将為脯」となっていることを根拠として、下文に「即有死鷸」とあるために誤ったものであろうとしている。

水中に棲むどぶ貝が2日にわたり水のない状態にあれば干からびるのは必定であって、本文がもと「蚌将為脯」であった可能性は十分にあると思う。

なお、この文の構造は、

述部【連用修飾語〈副詞(即)〉+述語(有)】+目的語(死蚌)

の形の存在文で、無主語文である。

(9)【蚌亦謂鷸曰】
《どぶ貝もまたしぎに言うことには》
「A謂B曰」の形については(2)を参照のこと。

「亦」は、前に述べた行為と同じことが繰り返されることを表す副詞。
「A亦B。」(Aモ亦タB(ス)。)の形で、「AもまたBする。」という意味を表す。


(10)【今日不出、明日不出】
《今日(お前を)放さず、明日放さなければ》
「不出」は、「出(い)でず」と「出(い)ださず」の二訓がある。
安井衡は「出、開口出其喙也。」(▼出は、口を開きて其の喙を出だすなり。)と注している(『戦国策補正』)
これだと「出ださず」と読むことになる。

日本の注釈書は概ね「出ださず」と読んでいる。
中国でも「不放你」として「お前を放さず」と解するもの(『戦国策全訳』、『戦国策研究与選訳』)、「你今天不抽嘴出来」として「お前が今日くちばしを抜き出さなければ」と解するもの(『中華経典蔵書戦国策』)がある。


(11)【即有死鷸】
《死んだしぎができあがるぞ》
「即」の意味および文の構造は(8)と同じ。

(12)【両者不肯相舎】
《双方とも互いに放そうとせず》
「両者」は、蚌と鷸を指す。

「肯」は助動詞で、助動詞の目的語にあたる述語(A)の前に置かれて、「肯A」の形で用い、前向きに肯定して行動しようという気持ちを表す。
「あヘテA(ス)」、または「A(スル)ヲがへンず」と訓読して、「A(し)ようとする」と訳す。
同じ「あヘテ」と読む「敢」が、無理や危険を冒してでも思い切って~しようとするという意味を表すのに対して、「肯」はそれとは異なり、納得しあるいは喜んで~しようとするという意味を表す。

否定した形「不肯A」もよく用いられ、「あヘテA(セ)ず」、または「A(スル)ヲがへンゼず」と読む。
なお、「がへんず」という訓については、「かへにす」という古語の撥音便で、「に」はは打消の助動詞「ず」の連用形の古い形であるという。
もともと「かへにす」自体が打消を表していたのが、忘れ去られて肯定を表すようになったため、否定を表すにはさらに助動詞「ず」で打ち消して「がへんぜず」と表現するようになった。

「がへんず」という訓みについては、山田孝雄の『漢文の訓讀によりて傳へられたる語法』に詳しい。

「舎」は、放棄する、捨てるの意の動詞で、「捨」に通じる。

この文の構造は、

主語(両者)+述部【連用修飾語〈副詞(不)〉+助動詞(肯)+助動詞の目的語(相舎)】

という形になる。

(13)【漁者】
《漁師》
「ぎよしや」(ぎょしゃ)と読む。

(13)【得而】
《~できる》
「得而」は、助動詞「得」と接続詞「而」からなるもので、『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館1999年版)によれば、「動詞の前に置かれて、“而”は助動詞と動詞と接続する役割をする」とある。
「得而A」の形で「得テA(ス)」と読むが、意味は「得A」(A(スル)ヲ得)と同じと考えてよかろう。


(13)【并禽之】
《これを両方捕まえた》
「并」は「あはス」と動詞として訓読したが、「ともに、ならびに」等の意味を表す副詞。

「禽」は「擒」と同じで、「捕らえる」の意の動詞。

「之」は指示代詞で、蚌と鷸を指す。

(13)【漁者得而并禽之】
《漁師がこれを両方捕まえることができた》
しぎがどぶ貝の肉をついばみ、どぶ貝がしぎのくちばしを挟んでいるために、しぎはどぶ貝の重さで飛び立つことができず、漁師は容易に捕らえることができたのだ。

なお、この文の構造は、

主語(漁者)+述部【助動詞(得而)+助動詞の目的語[連用修飾語〈副詞(并)〉+述語(禽)]】+目的語(之)

となる。

(14)【今】
《ところで、さて》
「現在」と解しても通るが、発語として話題を転じ、「ところで・さて」などの意を表すともいう。

(15)【燕趙久相支】
《燕の国と趙の国が久しく対抗し合って》
「久」は、時間が長いことを表す形容詞で、述語「支」を連用修飾している。

「支」は、対抗するの意、鮑本では「攻」になっている。
清末民初の考証学者劉師培は、『芸文類聚』巻25の引用に「燕趙久相交兵」(▼燕趙久しく兵を相交ふ。▽燕と趙が久しく兵を交え合う。)とあることを指摘している(『左菴集』巻五)。
もしこれに従えば、「支」の下に脱字があるかもしれず、さらには「相支」という本文も誤りである可能性が出てくる。


(16)【以弊大衆】
《それによって民衆を疲弊させたら》
「以」は、前の「燕趙久相支」を受けて、「そのために・それによって」などの意を表す。
ここでは燕と趙が久しく対抗し合うことによって引き起こされる事態「弊大衆」を示す。


「弊」は、疲れるの意の動詞。
本来は自動詞だが、後に目的語(大衆)を伴うことで「疲れさせる」という使役の意味をもつ。
訓読では「弊れしむ」と使役の意味を補って読む。
なお鮑本では「敝」になっている。

両国の戦闘状態が長引けば、国家経済は当然逼迫し、国民の生活にも多大な影響が及ぶことになり、長期間にわたって苛酷な生活や精神状態を強いることになることをいう。

「大衆」は、民衆、燕と趙の国民を指す。

(17)【恐】
《心配する》
「おそル」と読むが、心配するの意の動詞である。

(17)【強秦】
《強い秦の国》
「秦」は、春秋時代から戦国時代、さらには始皇帝によって王朝ともなった大国で、戦国の七雄の一つ。
首都は咸陽(かんよう)で、この話の当時の王は昭襄王(在位紀元前306年~紀元前251年)。
陝西省中部にあった大国で、他の六国を脅かす強大な存在になっていた。


(17)【漁父】
《漁師のおやじ》
「父」は年老いた男性に対する尊称で、「ちち」ではない。
訓読の習慣として、父親や親族の年長者を指す時は「フ」、男子の美称や老年の男性に対する尊称としては「ホ」と読まれてきた。
しかし、読み分けなければならない根拠があるわけではないので、「ギョホ」と読んでも「ギョフ」と読んでも構わない。


(17)【強秦之爲漁父】
《強い秦の国が漁師のおやじとなること》
「之」は、本来主述関係にある主語Aと述語Bの間に置いて、「A之B」(AがBすること)という句を作る働きの構造助詞。「之」が置かれることで、主述関係の独立性が失われて、文の主語や目的語になる。
「助長」の条を参照のこと。


(17)【臣恐強秦之爲漁父也】
《わたくしは強い秦の国が漁師のおやじとなることを心配するのです》
「也」は、文末に置かれて、述べた内容を強調する働きの語気詞。

この文の構造は、

主語(臣)+述語(恐)+目的語【主語(強秦)+構造助詞(之)+述語(為)+目的語(漁父)】+語気詞(也)

である。

(18)【故】
《ですから。それゆえ》
前に述べたことが理由となることを表す。
なお、鮑本には「故」の字がない。

(18)【願】
《希望する》
「願」は「~したい」という意味の助動詞としての用法もあるが、ここでは動詞。
目的語「王之熟計之」をとり、自分が他者の行為を望むという意味を表すため、「願」は動詞と考えるべきだろう。


a.願大王急渡。(『史記』項羽本紀)
 ▼願はくは大王急ぎ渡れ。
 ▽どうか大王急いでお渡りください。

b.願聞罪而死。(『史記』始皇本紀)
 ▼願はくは罪を聞きて死せん。
 ▽どうか(自分の)罪過を聞いて死にたいものだ。

a、bともに、「願ハクハ」と訓読するが、aは動詞で、目的語「大王急渡」(大王が急いで渡る)ことを希望するという意味を表すのに対して、bは助動詞で「~したい」という意味を表している。
「願」の助動詞としての用法は、もともと動詞としての意味から生まれたものなので、動詞の場合も助動詞の場合も同様に目的語をとり、どちらか判断が難しい場合も多いのだが、概ね動詞の直前に置かれて「~したい」という自分の希望を表す場合は、助動詞、目的語が「AがBすること」という内容を表し、他者の行為を望むという意味で用いられている時は、動詞と考えていいだろう。

(18)【王之熟計之】
《王様がこのことをよくお考えになること》
「王之」の「之」は、(17)で述べたように、本来主述関係にある主語Aと述語Bの間に置いて「A之B」(AがBすること)という句を作る働きの構造助詞。
「之」が置かれることで、主述関係の独立性が失われて、文の主語や目的語になる。
「王熟計之」であれば、主語(王)+述語(熟計)+目的語(之)の形で「王がこれを熟計する」という意味になるが、主語と述語の間に「之」が置かれることで、「王がこれを熟計すること」という意味になり、「願」の目的語となっているのだ。

なお、鮑本には「之」の字がない。

「熟計」は、じっくり考えるの意。

「之」は指示代詞で、蘇代が述べた事情、すなわち燕と趙の二国が争っていると秦が漁父の利を得てしまう事態を指す。

(18)【願王之熟計之也】
《王様がこのことをよくお考えになることを希望するのです》
この文の構造は、

述語(願)+目的語【主語(王)+助詞(之)+述語(熟計)+目的語(之)】+語気助詞(也)

である。

(19)【善】
《よい。結構だ。わかった》
形容詞だが、話し手の同意が強く示される語である。
牛島徳次は「話し手の主観的な判断が特に著しく強調される場合用いられる詞」として、普通形容詞に対して特別形容詞として判断詞に分類している(『漢語文法論(古代編)』)

いずれにしても、蘇代が述べたことに対する趙の恵文王の強い同意が示されているのだ。

(20)【乃】
《そこで》
前の行為や状況を受けて、後の行為や状況が起こることを表す副詞。
ここでは燕の国を攻めようと考えていた趙の恵文王が、蘇代の説得を受けて考えを変えたという前後の曲折を表す。


(20)【乃止】
《そこで(恵王は燕の国を攻めようとするのを)取りやめた》
主語のない文。
直前に「恵王曰」とあるため、主語「恵王」を置かない。
省略したというより、置く必要がないのである。


■補説
「漁父の利(漁夫の利)」ということばのもとになった話。
戦国時代末期には、いわゆる戦国の七雄の中でも秦が強大化し、他の六国は常に秦の脅威にさらされていた。
縦横家として名高い蘇秦は、劣勢にある六国が秦に対等に渡り合うために南北に同盟を結ぶことを説いた。
これが合従策である。
ちなみに「従」は「縦」の意であり、縦に合する、すなわち南北同盟を合従という。
この話の弁者蘇代は蘇秦の弟で、兄と同じく合従策を説いて、趙が燕を攻めようとする事態を回避すべく立ち回った。

大国秦が虎視眈々と隙を狙っている中に、六国が相争っている場合ではない。
趙と燕の長引く戦乱に人民は疲弊し、国家経済は破綻する、労せずして秦が二国を併呑する。
どぶ貝が日光浴をしてしぎがその肉をついばむ、お互いに譲らないために漁父に捕まってしまう、ごくたわいないたとえ話のようだが、趙の恵文王には現実味を帯びて突き刺さったことだろう。


■参考文献
〔日本〕
・横田惟孝『戦国策正解』(冨山房「漢文大系19」)
・福田襄之介、森熊男『新釈漢文大系 戦国策』(明治書院)
・近藤光男『全釈漢文大系 戦国策』(集英社)
・細谷美代子『研究資料漢文学 歴史3』(明治書院)
・合山究『漢詩・漢文解釈講座 故事・寓話1 故事成語』(昌平社)
・常石茂『東洋文庫 戦国策』(平凡社)
・渡辺雅之『漢文名作選 第2集6 故事と語録』(大修館)
・森野繁夫『漢文の教材研究 第1冊 故事成語篇』(溪水社)

〔中国〕
・『戦国策』(上海古籍出版社)
・范祥雍『戦国策箋証』(上海古籍出版社)
・『二十五別史』(斉魯書社)
・繆文遠・羅永蓮・繆偉『中華経典蔵書 戦国策』(中華書局)
・何建章『戦国策注釈』(中華書局)
・王守謙等『戦国策全訳』(貴州人民出版社)
・熊憲光『戦国策研究与選訳』(重慶出版社)
・孟明・王扶漢『文白対照全訳戦国策』(中央民族大学)