李漁『十便十宜』詩 注解・「伊園十便8・防夜便」
李漁『十便十宜』詩
8.防夜便(夜の安全の便利さ)■原文寒素人家冷落邨祇憑泌水護衡門抽橋断却黄昏路山犬高眠古樹根■書き下し文寒素(かんそ)
の人家冷落(れいらく)
の邨(むら)
祇(た)
だ泌水(ひすい)
の衡門(かうもん)
を護(まも)
るに憑(よ)
るのみ橋を抽(ひ)
きて黄昏(くわうこん)
の路を断却(だんきやく)
すれば山犬(さんけん)
も高眠す古樹の根■口語訳貧しくつつましやかな家に落ちぶれ寂しい村
ただ小川が横木一本の門を守ってくれるのに頼るだけ
橋を引き上げて夕暮れの道を断ち切ってしまえば
古樹の根本に山犬もこころよく眠れる■注【寒素】《貧しいが穢れがない》「清貧」に同じだが、ここでは「つつましやかな」ぐらいの意か。【冷落】《落ちぶれて寂しい》「零落」に同じ。【邨】《村ざと》「邨」は、「村」の本字。【祇】限定の範囲副詞。「まさしく~だけであってそれ以外ではないこと」を表す。「李漁全集」には「只」に作る。【憑】《たのむ、頼る》【泌水】《流れる小川》「泌」の音は「ヒ」、「ヒツ」ではない。「泌」は泉の流れるさまを表し、泉や川そのものではないが、南宋朱熹(しゅき)
が『詩集伝』に、次項に述べる『詩経』の一節に誤って注して「泌は泉水なり」としたため、この詩の作者もそれによって「泌」を泉水と解して「泌水」と表現したものと思われる。【衡門】《木を一本横たえた一本木の門》作者の家に実際にこのような門があったとは考えにくく、これは『詩経・衡門』の次の一節を踏まえたものである。衡門之下、可以棲遅。泌之洋洋、可以楽飢。(衡門の下、以て棲遅すべし。泌の洋洋たる、以て飢ゑを楽しむべし。)(横木一本の門の家でも、ゆったりと暮らすことができる。洋々と流れる小川のあたり、飢えても道を楽しむことができる。)『詩経』においては、泉水は防犯の役目を果たしているわけではないが、次の句から察するに、衡門に喩えられた門の前を流れる川によって、夜は外界を遮断しようというのである。【祇憑泌水護衡門】この句は、謂語「憑」+賓語「泌水護衡門」の構造。賓語が主語「泌水」+謂語「護」+賓語「衡門」の構造をとる。このような構造だと、一見「浣濯便」に見られた「滄浪引我濯冠纓」(滄浪我を引きて冠の纓を濯はしむ)という兼語文とどう違うのか、つまり「祇だ泌水に憑り衡門を護るのみ」と読んではいけないのかという疑問が生じるかもしれない。読みについてはそう読んでもかまわぬが、これは兼語文ではない。兼語文というのは、前文「滄浪引我」(滄浪が私を導く)の結果として、後文「我濯冠纓」(私が冠のひもを洗う)という行為が生まれるのであり、ここは「泌水に頼る」ことによって「泌水が衡門を護る」わけではないからだ。【抽】《引き出す、抜き出す》川にかかっている橋を取り外すのであろう。【断却】《断ち切ってしまう》「却」は、動作を表す語につけて「~しおわる」「~してしまう」という気持ちを添える結果補語。「売却」「忘却」などがその例。【高眠】《こころよく眠る、安心して眠る、安眠する》【山犬高眠古樹根】詩の読みということで、「山犬も高眠す古樹の根」と読んだが、主語「山犬」+謂語「高眠」+処所賓語「古樹根」の構造で、「山犬古樹の根に高眠す」と読むのが正しい。山犬も安心して眠れるということから、もとより家の主人も枕を高くして眠れるという気持ちを暗示する。