李漁『十便十宜』詩 注解・「伊園十便9・吟便」

(内容:清の劇作家である李漁(李笠翁)の有名な「十便十宜詩」の注解。「吟便」。)

李漁『十便十宜』詩
9.吟便(詩を吟じる便利さ)

■原文
両扉無意対山開
不去尋詩詩自来
莫怪嚢慳題詠富
只因家住小蓬莱

■書き下し文
両扉(りやうひ)意無く山に対(むか)ひて開かれ
(ゆ)きて詩を尋ねざるも詩は自(おのづか)ら来たる
怪しむ莫(な)かれ嚢(なう)は慳(けん)なるも題詠の富めるを
(た)だ家の小蓬莱(せうほうらい)に住めるに因(よ)

■口語訳
両の扉は特に意図もなく山に向かって開かれ
わざわざ詩の題材を探しにでかけていかなくても詩は自然と浮かんでくる
しみったれなのに題を設けて歌う詩が豊かなのを不思議に思いなさんな
ただ住んでいる家が蓬莱のような仙境だからなのだ


■注
【無意】
《意志がなく、意図がなく》
「意」は「意味」ではなく、「意志」や「気持ち」を表す。特に何らかの意図があって山にむかって扉を開いているのではないということ。

【対山】
《山に向かって》
「対」は一般に「~に対して」というよりは、「~に向かって」という意味合いを強くもつ。

【両扉無意対山開】
この句は主語「両扉」+謂語「開」の構造。「開かれ」と訳しはしたが、「両の扉は開く」の意。
「無意」「対山」は、いずれも謂語+賓語の構造だが、ここでは謂語「開」に対して副詞句となり連用修飾している。

【不去尋詩】
《行って詩を探さなくても》
「去」は、行くの意。いわゆる「去る」という意味ではない。
否定副詞「不」によって「去尋詩」が否定されているので、詩の題材を探しに行くという行為全体が否定されているのだ。

【莫怪】
《不思議に思うな》
「莫」は、禁止を表す否定副詞。

【嚢慳】
《ものおしみをする》
「嚢」は袋、「慳」はけち、しみったれ、ものおしみをすること。「慳嚢」という熟語で、しみったれが金を嚢中に蓄えて、出し惜しみをする意味を表す。したがって、ここでは、おそらく経済的に豊かではないゆえに金を出し渋ることをいうのであろう。詩の題材を豊かにするには、詩を作りたくなる環境に身をおかねばならず、それに要する費用も普通はかなりかかるということが背景にあるものか。

【題詠】
《題を設けて歌う》
「詠」は、声を長くひっぱって詩歌を歌うこと。「吟便」ということから考えても、単に詩の題材が豊富という意味ではないだろう。でなければ、詩中に「吟」について述べられた部分がひとつもないことになってしまう。「題詠」は、題を設けて吟じることをさすと考えるのが妥当と考える。

【莫怪嚢慳題詠富】
この句、詩にふさわしい読み方として「怪しむ莫かれ嚢は慳なるも題詠の富めるを」を読んだが、もちろん倒置文ではない。謂語「莫怪」+賓語「嚢慳題詠富」の構造である。

【只】

《ただ》
限定の範囲副詞。

【小蓬莱】
「小」は接頭語で、わずか、とか、へりくだる気持ちを表し、日本でも「小京都」などと用いられるが、漢文にもある用法。「蓬莱」は、中国の伝説上の仙山で、東海の東にあって、仙人が住んでいたという山。『山海経(せんがいきょう)』にも「蓬莱山在海中。」(蓬莱山海中に在り。)とあり、海中にある仙山として古くから名高い。『山海経』の古注には、「上有仙人宮室、皆以金玉為之。」(上に仙人の宮室有り、皆金玉を以て之を為る。)とあり、蓬莱山が金玉によって作られた輝く宮殿をもつまばゆいばかりの世界であったことを示す。したがって、本来大自然に包まれた作者の環境を蓬莱に喩えるのは、用法としてもあまり適切でなく、むしろ「桃源郷」に比した方がよいのではと考えるが、蓬莱に見られるまばゆさ、輝きをとっぱらった上で、単なる仙境としてイメージされた結果の表現なのであろう。