李漁『十便十宜』詩 注解・「伊園十宜6・宜晩」

(内容:清の劇作家である李漁(李笠翁)の有名な「十便十宜詩」の注解。「宜晩」。)

李漁『十便十宜』詩
6.宜晩(晩によろし)

■原文
牧児皈去釣翁休
画上無人分外幽
対面好山纔別去
当頭明月又相留

■書き下し文
牧児(ぼくじ)は皈去(ききよ)し釣翁(てうをう)は休(や)めたり
画上に人無く分外(ぶんぐわい)に幽(いう)なり
好山(かうざん)に対面して纔(わづ)かに別れ去れば
当頭(たうとう)の明月又た相留まる

■口語訳
牧童は帰りゆき釣翁も釣りをおしまいにする
画中人もなくことのほかぼんやりとしている
美しい山に向かい(しだいに山が)見えなくなっていくと
頭上の明月がまた留まって照らしてくれる


■注
【牧児】
《牧童》

【皈去】
《帰りゆく》
「皈」は「帰」の俗字。

【釣翁】
《釣りをしている老人》

【休】
《やめる、おしまいにする》
「やすむ」の意味ではない。

【画上】
《絵の中》
「上」は名詞(ここでは「画」)について範囲を表し、「~の中」の意。
絵のような光景と言いたいのであろうか。

【分外】
《格別に、とりわけ》
「浣濯便」注参照。

【幽】
《かすか、はっきりしない》
夕暮れの光が次第に失われ、ものがはっきりと見えなくなる光景をさしているものと思われる。いわゆる「たそがれ」の時である。「幽」には「暗い」という意味もあるが、第一句が牧童、釣翁の帰りゆく時刻、第三句が山の姿が消えゆく時刻ということを考えると、時間的経過からこの第二句はその境と考えられ、「暗い」と解するのは妥当ではない。

【好山】
《美しい山》

【纔別去】
《別れるとすぐ》
「纔」は、行為がある範囲に限られることを表す範囲副詞で、「今しがた、たった今、~したばかり」の意。
夕闇迫る山の美しさにみとれていると、次第に山は見えなくなり、それを「別去」と表現しているが、それと入れ替わりに月光が鮮やかになるのである。

【当頭】
《頭の上、頭上》

【又】
《また、さらに》
重複を表す副詞。
見とれていた山は見えなくなったが、それに代わって明月がまたの意。

【相留】
単に月が留まるというのでなく、私のために留まるという意味合いをもつ。副詞「相」については、「宜春」注参照。