『中山狼伝』注解3
『中山狼伝』注解3■原文(1)已而簡子至、(2)求狼弗得、(3)盛怒。(4)抜剣斬轅端、示先生罵曰、「(5)敢諱狼方向者、(6)有如此轅。」(7)先生伏躓就地、(8)匍匐以進、(9)跪而言曰、「(10)鄙人不慧、(11)将有志於世、(12)奔走遐方、(13)自迷正途、(14)又安能発狼蹤以指示夫子之鷹犬也。(15)然嘗聞之、(16)大道以多岐亡羊。(17)夫羊一童子可制之、(18)如是其馴也、(19)尚以多岐而亡。(20)狼非羊比、(21)而中山之岐、可以亡羊者、何限。(22)乃区区循大道以求之、(23)不幾於守株縁木乎。(24)況田猟虞人之所事也。(25)君請問諸皮冠。(26)行道之人、(27)何罪哉。(28)且鄙人雖愚、(29)独不知夫狼乎。(30)性貪而狠、(31)党豺為虐。(32)君能除之、(33)固当窺左足以効微労。(34)又肯諱之而不言哉。」(35)簡子黙然、(36)回車就道。(37)先生亦駆驢、(38)兼程而進。■訓読已(すで)にして簡子至り、狼を求むるも得ず、盛んに怒る。剣を抜き轅(ながえ)の端を斬り、先生に示し罵りて曰はく、「敢へて狼の方向を諱(い)まば、此の轅のごときこと有らん。」と。先生伏し躓(つまづ)いて地に就き、匍匐(ほふく)して以て進み、跪(ひざまづ)きて言ひて曰はく、「鄙人(ひじん)慧(けい)ならざるも、将に世に志有らんとし、遐方(かはう)を奔走し、自(おのづか)ら正途(せいと)に迷ふに、又た安くんぞ能く狼の蹤(あと)を発(ひら)きて以て夫子(ふうし)の鷹犬(ようけん)に指示せんや。然れども嘗て之を聞く、大道は多岐(たき)を以て羊を亡(うしな)ふと。夫(そ)れ羊は一童子之を制すべく、是(か)くのごとく其れ馴るるすら、尚ほ多岐を以て亡ふ。今、狼は羊の比に非ずして、中山の岐は、以て羊を亡ふべき者(こと)、何ぞ限りあらん。乃ち区区として大道に循(したが)ひて以て之を求むるも、株を守り木に縁(よ)るに幾(ちか)からずや。況(いは)んや田猟(でんれふ)は虞人の事とする所なり。君請ふ諸(これ)を皮冠(ひくわん)に問へ。行道(かうだう)の人、何ぞ罪あらんや。且つ鄙人愚なりと雖も、独(ひと)り夫(か)の狼を知らざらんや。性貪(たん)にして狠(こん)、豺(さい)と党(たう)して虐(ぎやく)を為す。君能く之を除かば、固より当に左足(さそく)を窺(き)して微労(びらう)を効(いた)すべきなり。又た肯(あ)へて之を諱みて言はざらんや。」と。簡子黙然として、車を回(かへ)し道に就く。先生も亦(ま)た驢を駆り程(てい)を兼ねて進む。
■訳やがて簡子がやってきて、狼を探し得られず、非常に怒った。剣を抜いて轅の端を斬って、先生に示して罵った、「狼の行き先を隠そうとすれば、この轅のようになるぞ。」先生はつまづき伏してひれ臥し、腹ばいで進み、ひざまずいて言った、「私めは愚か者ですが、世に志を得ようとして、遠方まで走り回り、自然と正しい道を見失ってしまいましたのに、いったいどうして狼の行方を明らかにしてあなたさまの鷹や犬に指し示すことができましょうか。しかしながらこんなことを聞いたことがあります、大道は分かれ道が多いことによって羊を見失うと。そもそも子供一人がこれを制することができ、あんなにも従順であってさえ、分かれ道が多いと見失ってしまいます。今、狼は羊と同列ではない上に、中山の分かれ道は、狼を見失ってしまう可能性が、どうして限りがありましょうや。それなのに狭い範囲にこだわって大道沿いにこれを探しても、株を守り木に縁るということになりはしませんか。まして狩猟は虞人が職務とすることです。君どうかこれを狩猟担当のお役人にお問いください。道をゆくもの(=私)に、どうして罪があるでしょうか。それに私めは愚かではありますが、どうしてあの狼を知らないでしょうか。性質は貪欲で凶悪、山犬と徒党を組んで(=山犬と共謀して)残虐なことをします。わが君がこれ(=狼)を取り除くことがおできになるなら、当然(誰もが)左足を一歩踏み出して(=前向きに)わずかばかりの労力を尽くすでしょう。いったいその(=狼の)行方を包み隠して言わないでおこうとするものでしょうか。」簡子は黙って、車の向きを変えて道に出た。先生も亦た驢馬を駆り立て倍の早さで道を進んだ。■注(1)【已而簡子至】「已而」は、やがて、まもなくの意。「已」は時間副詞として通常完了を表すが、別義として比較的短い時間の経過を表すことがある。その場合、単独でも用いられるが、この例のように「已而」の形をとることが多い。「既而」も同じ。(2)【求狼弗得】謂語+賓語構造「求狼」の後に結果補語「弗得」をとる形。狼を探すという行為の結果を「弗得」が表すことになるので、「狼を探したが得られなかった」という解釈で誤りではないが、語法的には補語は謂語を補足説明する後置修飾語の成分なので、「狼を探し得られなかった」とするのが直訳にあたる。本来この例のように謂語に賓語が伴っている時は、結果補語はその後に置かれるが、宋代以降は謂語のすぐ後に置かれる形と混在するようになった。(3)【盛怒】「盛」は程度副詞。ひどく、とてもの意。古今説海本はこの箇所「不勝怒」に作る。「怒りに勝へず」(怒りに耐えきれず)の意。(4)【抜剣斬轅端】「轅端」は、ながえの端。「轅」は馬車の、馬に引かせるために前方に突き出している棒。ながえ。(5)【敢諱狼方向者】「敢」は、(無理をおして)~しようとするという意味を表す助動詞。動詞を賓語にとる。「敢諱」で、かばおうとする、包み隠そうとするの意。狼の行き先を包み隠す行為は簡子の怒りをかうおそれがあり、その危険をおしてというニュアンス。「者」はそこまでの部分を名詞句に変える結構助詞。「敢諱狼方向」は「狼の行き先を隠そうとする」という独立した文だが、「者」が後に置かれることで名詞句になり、主語になりやすくなっている。なお、「者」は「もの」と読んでも、それ自体が「人」を表すわけではなく、名詞句がどんな意味になるかは文脈による。(6)【有如此轅】「有如」は、存在を表す動詞と類似同等を表す動詞「如」からなるが、概ね中国では「~と同じである」ぐらいの意で訳されており、無理に「~と同じことがある」と訳す必要はない。「轅と同じことなるぞ(=轅のように真っ二つにされるぞ)」ぐらいのニュアンスだ。(7)【先生伏躓就地】「伏躓就地」は、ひれ伏すの意。「躓」は、つまずく、「就地」は地面につくの意。簡子の剣幕にいわばつまずくような形でひれ伏したのである。古今説海本は「伏質」に作る。(8)【匍匐以進】「匍匐」は、腹這いになるの意。「以」は連詞だが、その状態で、ここでは「腹這いになった状態で=腹這いで」という意味を表している。(9)【跪而言曰】「跪」は、ひざまずく。片膝または両膝を地面につけ、臀部を上げる所作。「而」は連用修飾を表す連詞。「跪而」が「言曰」を連用修飾する。ひざまずき「そして」言ったのではなく、「ひざまずいた状態で言った」のである。「言曰」は、「言」も「曰」も「いふ」と訓じているので重複ではないかと思われるかもしれないが、「言」は内容のあることばを述べる、「曰」は音声を発するが原義である。それぞれ単独でも用いられるが厳密にはそのような違いがあるのだ。(10)【鄙人不慧】「鄙人」は、田舎者。「鄙」は、もと「都」に対する語で、地方すなわち辺鄙の地を指す。形容詞に転じて、ひなびた、頑なななどの意を表す。東郭先生は簡子に対してへりくだって自分を表現しているのだ。「不慧」は、聡明でない。「慧」は聡明であるの意の形容詞。これも東郭先生がわざと卑下して言うのであって、一種の礼儀。(11)【将有志於世】「将」は将来を表す時間副詞。ここでは、~しようとする・~しようと思うの意。再読文字だが、「今にも」「ちょうど」などの語を前につけるとかえっておかしな日本語になる。「有志於世」は、謂語「有」+賓語「志」+介詞句「於世」の構造。これは所有文で存在文ではない。「志を世に対してもつ」が本来の意味。古今説海本は「於」を「于」に作る。(12)【奔走遐方】「奔走」は、走る。「奔」も「走」も走るの意。「遐方」は、遠方。「遐」は遠いという意味の形容詞。古今説海本は「四方」に作る。(13)【自迷正途】「自」はおのずから。自然と。遠方まで足をのばした結果、自然との意。自分で、自分からの意ではあるまい。「正途」は、正しい道。「途」は道、道すじ。「途方」や「前途」「途中」などがその意味で用いられる熟語。古今説海本は、この箇所「寔迷其途」に作る。「寔(まこと)に其の途に迷ひ」(まことにその道に迷い)の意。(14)【又安能発狼蹤以指示夫子之鷹犬也】「又」は、副詞。ここでは反語文の文頭に置いて、反詰の語気を強める働き。いったい(何だって)ぐらいの意味。「安」は反語の語気副詞。どうして~しようかなどと訳す。「能」は可能の助動詞。動詞を賓語にとって、~できるという意味を表す。「発」は、明らかにするの意の動詞。「狼蹤」は、狼の行き先。「蹤」は足跡の意。「以」は連詞。「夫子」は、大夫や師、長者を呼ぶ尊称。あなたさま。「也」は、反語の語気詞。「発狼蹤以指示夫子之鷹犬」は、「狼の足跡を明らかにしてあなたさまの鷹や犬に指示する」というもってまわった表現だが、要するに「狼の行き先をあなたさまに教える」ということを言いたいのだ。古今説海本は、この句を「又安能指迷于夫子也」に作る。「又た安くんぞ能く夫子に指迷せんや」(いったいどうしてあなたさまに対して迷いを解き明かせましょうか)の意。(15)【然嘗聞之】「然」は連詞。ここでは前の内容を受けて、反する内容をこれから述べる時に用いる。しかし。「嘗」は過去の経験を表す時間副詞。「以前」と訳したり、~したことがあると訳したりする。古今説海本は「嘗」を欠く。「聞之」は、このことを聞く。指示代詞「之」は、直後に述べる「大道以多岐亡羊」という内容を指す。(16)【大道以多岐亡羊】主語「大道」+介詞句「以多岐」+謂語「亡」+賓語「羊」の構造。介詞句「以多岐」は、多い分かれ道によっての意。「岐」は、枝道、分かれ道。「亡」の本義は「逃げる」の意。「なくす・うしなう」「滅ぶ」などの意味はそこからの引申義である。羊を見失うのも、羊が逃げるからだ。このことば、「多岐を以て羊を亡(の)がす」と読んでもよい。「大道以多岐亡羊」は、『列子・説符』に見えることば。分かれ道が多いがゆえに逃がした羊を見つけられぬことを、学問の末節にこだわって本質を見失うことにつなげて論じてある。(17)【夫羊一童子可制之】「夫羊」が主題主語。「夫」は指示代詞で遠指(指す対象が話者から遠い)を表し、「かノ」と読む。「一童子可制之」は、主題主語「夫羊」に対して、主謂謂語にあたる。すなわち「一童子」が主語、「可制」が謂語だ。「可」は可能を表す助動詞で動詞「制」を賓語にとっている。「之」は主題主語で示された「夫羊」を改めて指示して「可制」の賓語になっている。「制」は、掌握する、制御するの意の動詞。「一童子」は、単に「童子」という以上に、「子供一人でも」ぐらいの意味をこめるために敢えて「一」を添えているのだ。(18)【如是其馴也】「如是」(若此、若是 など)+(其)+形容詞+語気詞(也・乎)の形式。こんなにも(あんなにも)~だぐらいの意。「馴」は動詞で訓じているが、「従順である」の意の形容詞。「其」は強調の語気詞で、指示代詞ではない。この形の例には、『孟子・離婁下』の、「待先生、如此其忠且敬也」(先生を待遇するのに、あんなにも心をこめ敬意を払っているのだ)などがある。古今説海本はこの句を欠く。(19)【尚以多岐而亡】「尚」は様態副詞で、後に急転を表す「況」「而況」などの連詞と呼応して、いわゆる抑揚表現をとることが多い。ここではそれを用いず、後文がやや説明口調で流れてしまっているが、文意は抑揚であって、いわば「況狼之於中山之岐乎」(まして分かれ道の多い中山での狼はなおさらだ)ぐらいの後文が考えられる。(20)【狼非羊比】「非」は名詞謂語を修飾する否定副詞。ここでは判断文に用いられて、~ではないの意を表す。「比」は、並べる、類似するの意の動詞。「比翼」「比肩」などがその意味の熟語。ここでは「羊比」で羊の同列ぐらいの意の名詞句に転じている。「狼は羊と同列ではない」という意味。古今説海本は「今狼非羊比也」に作る。(21)【而中山之岐、可以亡羊者、何限】「而」は連詞。ここでは前に述べた内容よりもさらに事情が進展することを表す。その上に、さらにの意。「中山之岐」の「之」は結構助詞で、連体修飾の関係で「中山之」が「岐」を修飾することを示す。「可以」は可能を表す複合助動詞。助動詞「可」と介詞「以」からなるが、介詞の働きを残している場合と、すでに虚化してしまっている場合とがある。ここでは「その複雑な分かれ道によって」という意味を残しているであろう。「者」は前の部分、すなわち「中山之岐、可以亡羊」(中山の分かれ道は、羊を見失い得る)を名詞句にしてしまう結構助詞。「もの・こと」という具体的な意味があるわけではない。名詞句にすることによって文の主語にしやすくする働き。「何限」は、反語の語気副詞「何」、制限するの意の動詞「限」で、どうして制限しようかの意。なお、古今説海本は、この句を「況中山之岐、可以亡狼者、何限」に作る。(22)【乃区区循大道以求之】「乃」は、ここでは前に述べたことに対して転接した内容を続けることを表す。それなのに、意外にもぐらいの意。「区区」は、狭い範囲にこだわるさまを表す副詞。「循」は、道やものに沿って行くの意。分かれ道が多いのに、大道にのみ沿うことを言う。「以」は連詞。「求之」の「之」は狼を指す。(23)【不幾於守株縁木乎】「幾」は近似を表す副詞であるが、ここでは介詞句を伴っているので副詞ではあり得ず、「接近する」の意の動詞と考えられる。「不幾~乎」で、「接近しないか・近づかないか」という反問を表す。「守株」は、『韓非子・五蠹』に「宋人有耕田者。田中有株、兎走、触株折頸而死。因釈其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身為宋国笑」(宋の国の人に畑を耕す人がいた。畑の中に木の切り株があり、兎が走ってきて、切り株にぶつかり首の骨を折って死んだ。そこで自分の耒を放り出して切り株を見守り、さらに兎を得ることを望んだ。兎はもう得られず、身は宋の国の笑いものになった)に基づく。本来、旧習にこだわって新しい時代が理解できないことの喩えとして用いられるが、ここでは適切に対応できていないことをいうのであろうか。「縁木」は、『孟子・梁恵王上』の「以若所為求若所欲、猶縁木而求魚也」(このようなやり方(=戦争によって臣下や人民を危険にさらし、諸侯に恨まれること)でこのような望み(=諸侯の上に立って蛮族を帰順させること)を求めるのは、木によじ登って魚を探すようなものだ)に基づく。目的と手段が一致しないことの喩え。要するに、分かれ道の多い中山において、大通りだけに狭く限って狼を探すのは無理なことで、手法が誤っていると言いたいのである。なお、古今説海本は「不幾於守株縁木者乎」に作る。(24)【況田猟虞人之所事也】「況」は、連詞。その上、さらにの意。前に述べたことに加えて、進んだ内容を補足する。「況」とくれば、すぐ抑揚の形と思い込んではいけない。「田猟」は、狩り、狩猟。「虞人之所事」は、虞人が職務とすること。「虞人」は既出。1の(2)参照のこと。「所」は結構助詞。「A所B」または「A之所B」で、AがBすること・ものの意。動詞Bを名詞化する働きがある。「事」は、「職務」の意の名詞が結構助詞「所」の後に置かれることにより動詞に活用したもの。ここでは「職務とする・担当する」の意。「也」は語気詞。強意を表す。なお、古今説海本は「況田猟虞人之所有事也」に作る。(25)【君請問諸皮冠】「君」は二人称の敬称。あなたさま。「請」は敬謙副詞。どうか~してくださいの意。いわば英語のpleaseに相当する。「諸」は「之於」の兼詞(縮約語。漢字二字を一字で表記したもの)。「問諸皮冠」は「問之於皮冠」と同じである。「皮冠」は、古代、狩猟の際にかぶる帽子。それにより雨雪や塵を防ぐ。ここでは狩猟を専門に司る役人のこと。虞人を指すか。古今説海本は「今茲之失、君請問諸皮冠」に作る。「今茲(こ)の失は、君請ふ諸(これ)を皮冠に問へ」(今この過失は、あなたさまはどうかこれを皮冠にお問いください)の意。(26)【行道之人】道をゆく人。「之」は連体修飾を表す。「之」の前には名詞、形容詞、動詞、数量詞などさまざまな語が置かれ、後の中心語を連体修飾する。ここでは動詞句「行道」が「人」を連体修飾している。(27)【何罪哉】「何~哉」は、反語の語気副詞「何」と反語の語気詞「哉」の呼応で、どうして~かという反語を表す。「罪」は過失、罪。ここでは動詞に活用して、過失がある、罪があるの意。(28)【且鄙人雖愚】「且」は、連詞。その上にの意。前文で述べられた内容からさらに進んだ内容を次に示す働き。「鄙人」は既出。(10)参照。「雖」は譲歩連詞。ここでは、~ではあるがの意。他に、たとえ~ても・~でさえもという意味を表すことがある。(29)【独不知夫狼乎】「独」は反語の語気副詞。反語の語気詞「乎」と呼応して「独~乎(哉)」の形で、どうして~かという意味を表す。「独」は本来単独を表し、範囲副詞として用いられるが、「余人はともかく自分だけがどうして」というように反語を表すようになったものであろう。この例がそうであるように、多くの場合譲歩した内容が前句となる場合に用いられ、前句に「縦」(たとヒ)・「雖」(いへどモ)などの譲歩連詞が伴うことが多い。「夫」は既出。(17)参照。なお、古今説海本はこの句を「亦熟知夫狼矣」に作る。「亦た夫の狼を熟知す」(また、あの狼をよく存じております)の意。(30)【性貪而狠】「性」は性質の意。「貪」は形容詞。貪欲である、欲深いの意。訓読では通常「タン」と漢音で読む。「而」は連詞。ここでは語と語を並列する働き。「狠」は形容詞。残忍であるの意。(31)【党豺為虐】「党」は仲間になる、徒党を組む。本来「ともがら、仲間」という名詞だが、「豺」という名詞を賓語にとることで動詞に活用しているのだ。「豺」は山犬。イヌ科の哺乳類。獰猛な性質をもつ。「為虐」は、残虐なことをする。古今説海本は「助豺為虐」に作る。「豺を助けて虐を為す」(山犬を助けて残虐なことをする)の意。(32)【君能除之】後句の「固当窺左足以効微労」に対して仮定を表す複文の前句。漢文では仮定を表す時には「如」「若」などの仮定の連詞を用いるのが普通だが、用いずに文意から仮定を表す複文形式をとることも多いのだ。『史記・廉頗藺相如列伝』の「城不入、臣請完璧帰趙」(町が手に入らなければ、私どうか璧玉を完全な形で趙に持ち帰らせてください)などが、その例。「能」は既出。(14)参照。「除之」は、狼を取り除くの意。「除」は、取り除くの意の動詞。「之」は指示代詞で、狼を指す。(33)【固当窺左足以効微労】「固」は、必ず、当然の意の語気副詞。本来的に必ずそうすることになるというニュアンス。「当」は、推定の副詞。~だろう・~はずだの意。助動詞として、~べきだという意味を表すこともあるが、働きに応じて品詞が与えられていると考えればよい。「窺左足」は、左足を踏み出す。積極的に行動することをいう。「窺」は足を一歩踏み出すことの意の名詞だが、「左足」を賓語にとることで動詞に活用している。『漢書・息夫躬伝』に「京師雖有武蜂精兵、未有能窺左足而先応者也」(都には精鋭部隊がいるが、だれも左足を踏み出し率先して応じるものはいなかった)に基づく表現か。「効微労」は、わずかばかりの労力を尽くす。「効」は、差し出すの意から、尽くす。古今説海本は「固当窺左足以効微労也」に作る。(34)【又肯諱之而不言哉】「又」は、反語文の前において、語気を強める働きをする副詞。3の(14)参照。「肯」は、~しようとするの意の助動詞。心から進んで実現を望んだり、前向きに納得して行動しようとする意志を表す。多くの場合、「不肯~」の形で用いられるが、この例では反語文で、「不肯諱之而不言」と意味的には同じになる。「諱之」は、これを包み隠す。「諱」は、かばい隠すの意の動詞。「之」は指示代詞で、狼、または狼の行方を指す。「而」は句「諱之」と共に、「不言」を連用修飾する用法の連詞。なお、古今説海本は、この句を「又安敢諱匿其蹤跡哉」に作る。「又た安くんぞ敢へて其の蹤跡を諱匿せんや」(いったいどうしてその行方を包み隠したりしようとするでしょうか)の意。(35)【簡子黙然】「黙然」は、だまるさま。口を閉じて何も言わないさま。「然」は「―然」の形で、形容詞や副詞、動詞の後において、ものの状態や様子を表すことばを作る助詞。東郭先生の筋の通った訴えに、返すことばがなかったのである。(36)【回車就道】「回車」は、車の向きを変えるの意。「就道」は、道に出るの意。東郭先生のことばをもっともと思い、この者は狼の行方を知らないのだと信じて、別途狼の捜索に出たのである。(37)【先生亦駆驢】「亦」は重複副詞。~もまたの意。前に述べられた動作と同様の動作が行われることを表す。簡子が車を返して去ったように、東郭先生もまた移動を開始するのである。「駆」は、駆り立てるの意の動詞。簡子がまた戻ってこないうちに、逃げようとしたわけだ。(38)【兼程而進】「兼程」は、進む距離を倍にしての意。「兼」は、時間や距離を倍にするという意味の動詞。「程」は進度の意。「而」は「兼程」という句と共に、謂語「進」を連用修飾する連詞。