『論語』注解7

(内容:『論語』で、教科書によく採用される「温故而知新」の文章の文法解説。)

『論語』注解7 

■原文

子曰、「(1)温故而知新、(2)可以為師矣。」(為政)

■訓読
子曰はく、「故(ふる)きを温(たづ)ねて新しきを知れば、以て師と為(な)るべし。」と。

■訳
先生がおっしゃった、「古聞いたことを尋ねて新しいものを悟るようになれば、人の師となることができる。」

■注
(1)【温故而知新】
「温故」は、日本では「ふるきをたづねて」と読みならわし、高等学校の教科書でも概ねその読み方である。
これは朱熹の新注以降の解釈。
朱熹は『四書集注』で

「温、尋繹也。故者、旧所聞」
(温は、尋ねるである。故とは、昔聞いたことである)

と説く。昔聞いたこととは先人や師、古典より学び得たことを指すのであろう。
一方古注では、「温」は「燖温」「温燖」の「温」で、あたためるの意とする。
それに従えば「ふるきをあたためて」と読むことになる。
これは鄭玄が『礼記・中庸』につけた注に従うもの。
昔学んだものをじっくりあたためるように習熟することを言う。
新注に従って訓読したので、訳もそれに揃えておいた。

「温故」と「知新」が連詞「而」によってつながっているが、それぞれが対等なのではない。
6の(2)でも述べたように、「而」は「ふるきをたずねる(あるいはあたためる)」という行為を経由して「新しきを知る」ことを示すのである。
「故きを温ぬ」シテ「新しきを知る」と読んでみると、「而」方策の働きがよくわかる。

(2)【可以為師矣】
「為師」は、「師と為る」(師となる)とも「師たり」とも読めるし解せる。
ただ、前者は「為」が生産性の本動詞だが、後者は同じ生産性でも形式的な動詞になる。
いわば「である」の意を受け持っていると思えばよい。

「可以」は、これが一つのまとまりと捉えるのはよろしくない。
介詞「以」は本来後の「為」を修飾する語である。
つまり、「可以+為師」ではなく、「可+以為師」のように見る。
「可」は本来形容詞で、「よろしい」という許可の義が基本。
許可してよいから、できるという可能の意にもなる。

この「可」は「A可B」(ABすべし)の形をとる時は、AがBという行為の客体を表すのが一般的だ。
たとえば、『韓非子・説難』の

「胡可伐」
(胡伐つべし)

なら、「胡は攻めてよい」という意味だが、胡は攻める対象すなわち客体だ。
「胡は伐つに可なり」(胡は攻めるによい)と読めば、わかりやすいだろう。
これは違う言い方をすれば、「誰が伐つのか」という「伐」の主体を明示しない表現ともいえる。
すなわち「A可B」(ABすべし)は、もともとBという行為の主体を問題としない表現なのである。
したがって用例の数としては少なくなるが、AがBの客体ではなく主体を表す例もないわけではない。
しかし、AがBの主体なのか客体なのかが不明瞭というのは、いささか不便なことであり、そうした事情から「A可以B」(A以てBすべし)の形が、Bの主体がAである場合を引き受けていったのではないかというのが筆者の推論である。

これに対して、「A可以B」は、本来「以」がBを修飾し、「それを用いてBする」「それを理由にBする」「その状態・立場でBする」など、AそのものやAの性質や事情・立場が「以」の賓語の内容になっているため、結果的にAがBの主体を表すことになる。
すでに古代の例から「以」の具体的な意味が虚化して、それと明確に示せないものも見られるのだが、文の構造の性質としてはそのままAが主体として受け継がれているのであろう。
したがって、「A可以B」は、「Aは『それでBする』に可なり」である。
この文の場合、「温故而知新」という行為、あるいはそれを行う人が、「その行為で人の師となるに可なり」だと考えればよい。

文末の「矣」は確認の語気を表す語気詞。
用いられ方から、完了・将来的判断・必然的判断など色々に説明されるが、「~したのだよ」「~してしまうぞ」と完了したことすることの確認、「将来きっとそうなるであろうぞ」という将来への判断確認、必ずそうなるぞ・そうであるぞという確認だ。
ここではその必然的判断に相当する。

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