『論語』注解8
(内容:『論語』で、教科書によく採用される「長沮桀溺耦而耕」の文章の文法解説。)
『論語』注解8 ■原文(1)
長沮桀溺(2)
耦而耕。(3)
孔子過之、(4)
使子路問津焉。長沮曰、「(5)
夫執輿者為誰。」子路曰、「(6)
為孔丘。」曰、「(7)
是魯孔丘与。」曰、「(8)
是也。」曰、「(9)
是知津矣。」(10)
問於桀溺。桀溺曰、「(11)
子為誰。」曰、「(12)
為仲由。」曰、「(13)
是魯孔丘之徒与。」(14)
対曰、「(15)
然。」曰、「(16)
滔滔者天下皆是也。(17)
而誰以易之。(18)
且而(19)
与其従辟人之士也、(20)
豈若従辟世之士哉。」(21)
耰而不輟。(22)
子路行以告。(23)
夫子憮然曰、「(24)
鳥獣不可与同群。(25)
吾非斯人之徒与而誰与。(26)
天下有道、丘不与易也。」(微子)
■訓読長沮(ちゃうそ)桀溺(けつでき)耦(ぐう)して耕す。孔子之に過(よぎ)り、子路をして津(しん)を問はしむ。長沮曰はく、「夫(か)の輿(よ)を執(と)る者は誰(たれ)たる。」と。子路曰はく、「孔丘(こうきう)たり。」と。曰はく、「是れ魯(ろ)の孔丘か。」と。曰はく、「是れなり。」と。曰はく、「是れ津を知る。」と。桀溺に問ふ。桀溺曰はく、「子は誰たる。」と。曰はく、「仲由(ちゆういう)たり。」と。曰はく、「是れ魯の孔丘の徒(と)か。」と。対(こた)へて曰はく、「然(しか)り。」と。曰はく、「滔滔(たうたう)たる者は天下皆是れなり。而(しか)るに誰か以て之を易(か)へん。且つ而(なんぢ)其の人を辟(さ)くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若(し)かんや。」と。耰(いう)して輟(や)めず。子路行きて以て告ぐ。夫子憮然(ぶぜん)として曰はく、「鳥獣は与(とも)に群れを同じくすべからず。吾斯(こ)の人の徒と与(とも)にするに非ずして誰と与にせん。天下に道有らば、丘与に易へざるなり。」と。■訳長沮、桀溺が並んで耕していた。孔子がそこに通りがかり、子路に渡し場を問わせた。長沮は言った、「あの手綱をとるものは誰だ。」子路が言う、「孔丘です。」(長沮が)言った、「それは魯の孔丘か。」(子路が答えて)言う、「そうです。」(長沮が)言った、「それなら渡し場を知っているよ。」(それ以上長沮に問うのを諦めて、子路が)桀溺に問うた。桀溺が言う、「おまえは誰だ。」(子路が)言った、「仲由です。」(桀溺が)言う、「それは魯の孔丘の門弟か。」(子路が)お答えした、「そうです。」(桀溺が)言った、「とうとうと(洪水のように)流れているものは天下がみなそれだ。そんなありさまで誰がそれを変えるであろう。(変えられはしない。)それにおまえは人を避ける人物(=孔子)に従うより、どうであろう世を避ける人物(=自分たち)に従うに及ぶかね。」まいた種に土をかぶせて止めなかった。子路が(孔子のもとに)行きそれを告げた。先生ががっかりしておっしゃった、「鳥や獣はともに群れを同じにすることはできない。私はこの人間の仲間とともにするのでなくて、誰とともにしようか。(=人間とともに生きるのでなければ、誰とともに生きようか。)天下に道があれば、私は(これらの人間と)ともに(世を)変えたりはしないのだ。」■注(1)【長沮桀溺】
ともに隠者。
ただし、実名ではなくその風貌から名付けたものと考えられている。
元の金履祥が『論語集注考証』で、
「其一長而沮洳、其一人桀然高大而塗足、故因以其物色名之」
(その一人は背が高くて湿地、その一人は体がでかくて泥足、ゆえにその風貌で名付けた)
と述べている。
要するに湿地を耕すのっぽ(長沮)、足が泥だらけのでか男(桀溺)ということか。
清の劉宝楠もこれを是とする。
世を避けた知識人がそのような風貌で水辺の耕作をしていたと思い描けば味わい深い。
(2)【耦而耕】
「耦」とは、鄭玄によれば、広さ5寸の「耜」を2つ並べること。
したがって、長沮と桀溺が耜を並べて耕していたということ。
湯浅邦弘は
「私は『ならんで耕す』のではなくて、一人は鋤をあやつり、もう一人は、それを引っぱる(たとえば鋤につけたなわを引っぱる)という形ではなかったかと考える。つまり、一人は動力役であり、牛や馬を使わないで、牛馬のようにひく農耕の方法で、いま一人は操作役である。『耦』はそういうペアの意味ではないかと推測している。」(『鑑賞中国の古典・論語』角川書店)
と独自の見解を示している。
「耦而」の「而」は「耕」(耕す)の方法を示す。
「耦(2人耜を並べ)、して」だ。
「耦」と「耕」が対等に並んでいるのではない。
「耕」は、田を耕すなどのように、本来賓語をとる動詞だが、ここは耕すものが田と決まっていてあえて注意されないので、非帰着化している。
耕す客体である田の観念は「耕」の中に含まれているのである。
(3)【孔子過之】
「過」は、通りがかる。
訓読では、立ち寄る、訪れるの意味の場合は「よぎる」と読んでいたが、最近はその意味の場合でも「すぐ」と読む傾向がある。
日本語の「よぎる」はもと清音「よきる」で、「避ける・よける」の意で、まっすぐ行かずに立ち寄るのである。
「過之」の「之」は、前句の「長沮桀溺耦而耕」から「長沮桀溺」あるいは、「耦して耕している長沮桀溺」を補充語として実質化している。
つまりそれを指す。
近称の「これ」ではない。
『史記・孔子世家』によれば、孔子が楚の葉を去り、蔡に向かう途中の出来事だという。
(4)【使子路問津焉】
使役の兼語文。
主語「孔子」+謂語「使」+賓語「子路」、すなわち「孔子が子路を使役する」という文と、主語「子路」+謂語「問」+賓語「津」、すなわち「(使役される)子路が津を問う」という2つの文が、兼語「子路」を介して1つになったものとされる。
兼語とは、この「子路」のように、前文の賓語と後文の「主語」を兼ねる語の意。
これがこの形式をとる使役文に対する、現在の語法学の主流の解釈である。
今これに従うが、使役文を兼語文とする説には異論がないわけではない。
そもそも1文の中で途中で主語が転じるという理屈は不自然の感あり、筆者は「使子路」(子路に・子路して)とあるために、後の「問」が使動態になるのではないかと考えつつある。
たとえば「孔子命子路問津」(孔子子路に命じて津を問はしむ)の場合も、子路に命じることによって後の「問」が使動態になるのと同じく、「使」は「しむ」と読んでも「させる」の意味で用いられているわけではない。
「津」は渡し場。
「問津」とは、渡し場の場所がどこにあるかを問うの意。
おそらく孔子は川沿いに道をとり、道に迷っているのであろう。
なお、宮崎市定は
「孔子がそこを通りかかり、(常人でないのを察し、用もないのにわざと)子路に命つけて渡し場のありかを尋ねさせた」(『論語の新研究』岩波書店)
とするが、いかがであろうか。
「焉」は語気詞で、強意断定とも、語調を緩やかにするともいう。
しかし、句末に用いられる「焉」は「於是」と同義とされ、「これ(に)」と読まれることも多い。
つまり、「使子路問津焉」は「子路に渡し場の場所をこれ(=焉)に問わせた」とも読めるわけで、「焉」は長沮と桀溺を指す。
ひとまず「焉」を「於是」として、特に読まない場合においても、前の語を指して「これにね」「このことに対してね」と示しているものではないかと思う。
たとえば、陶淵明の『五柳先生伝』の「宅辺有五柳樹、因以為号焉」も、「家のそばに五本の柳の木があり、それにちなんで(五柳を彼の)号としたのである、これにね」と解せるが、そのようにだ。
「使子路問津焉」の場合なら、「子路に渡し場の場所を問わせた、彼らにね」だ。
これが文末にあれば強意断定ともいえるし、句末にあって次の句につながれば、「焉」の字の分、語調が緩やかになるともいえるのではないか。
ただ、「焉」は「之」と同じく「これ」と読んでもそれ自体が実質的な意味を有さず、あくまでも他の語を指して自己を実質化する形式的な語なので、「於是」とはやはり違う。
働きとしては「於之」といえればよいのだが、「於之」などという形はない。
(5)【夫執輿者為誰】
「夫」は、あの。
自分にとって遠いものを指す指示代詞。
「執輿」は、轡をとる。
「執輿者」は、孔子を指す。
朱注に
「執輿、執轡在車也。蓋本子路御而執轡、今下問津、故夫子代之也」
(執輿とは、轡をとって車にいるのである。思うに、もともと子路が車を御して轡をとっていたが、今渡し場の場所を問いにいったので、夫子がこれに代わっているのである)
とあるのに従い、諸本おおむねこの説に従う。
「輿」は本来乗り物の車の意の語だから、中井履軒は「轡」の誤りとする(『論語逢原』)。
また、東條一堂は、「執車」「執輿」という表現があることを指摘してそれを否定し、子路に代わって孔子が轡をとっていたとする朱熹の説も、子路は孔子に「従行」していたのであって、孔子の乗る車を御していたわけではないとして、「恐らくは非なり」とする(『論語知言』)。
これに従えば、「轡をとっているもの」ではなくて、「車に乗っているもの」という意味になる。
「執輿者」の「者」は、現在の語法学では、名詞句を作り出す結構助詞とされる。
しかし、本来は形式的な意義をもつ名詞である。
それ自体は実質的な意味をもたず、先行する語により実質的な意味が補充される。
ここでは「執輿」により補充され、「轡をとるひと」という動作の主体を表す。
「為誰」は、誰であるか。
「誰たる」とも「誰と為す」とも読まれるが、「為」自体は形式的な意義しかもたぬ生産性の動詞で、後の「為孔丘」(孔丘たり・孔丘と為す)も同じく、「誰」「孔丘」だけでも「誰であるか」「孔丘である」という意味を表しうるうちの、「である」の意味だけを引き取っているのである。
ところで、古典中国語においては、賓語が疑問を表す代詞の時には必ず倒置されると説明する向きがあるが、この例を見てもわかるように、必ずしもそうではない。
「誰であるか」の意の「為誰」が「誰為」の語順をとることはない。
(6)【為孔丘】
「為」については前項で述べた。
「孔丘」は孔子のこと。
孔が姓、丘が名。
子路が、通常呼ぶべからざる孔子の名をもって答えたのは、一般人から問われた際の礼である。
(7)【是魯孔丘与】
「是」は、子路が述べた「孔丘」を指していう。
「これ」と読むが近称ではなく、むしろ中称の代詞である。
前言に述べられた内容を指す。
だから「それ」と訳す方がよい場合が多い。
「与」は疑問の語気詞。
孔子の時代にはこの字が用いられたが、戦国から秦漢期には「歟」の字が用いられるようになった。
「是魯孔丘与」は、子路の答えに対して、それはあの有名な魯の国の孔丘かと確認したもの。
(8)【是也】
「是」は、長沮の「是魯孔丘与」の言を受け、「その魯の孔丘である」と言ったもの。
「それです」から「そうです・その通りです」と訳す。
正しいの意とする説もあるが、そうではあるまい。
「也」は、説明の語気を表す語気詞。
(9)【是知津矣】
この「是」も、子路の「是也」の言を受けるもの。
長沮が「是魯孔丘与」と問うたのに対して、子路が「魯孔丘」を中称の代詞「是」で受け、さらに長沮が子路の「是」を指して代詞「是」で示したわけだ。
したがって当然孔子を指す。
諸本みな「是ならば」と仮定に訓じる。
「その孔子ならば」の意に解しているわけ。
吉川幸次郎は
「是れ津を知れり」
と訓じ、
「あれが渡し場を知っているよ」
と訳す(『中国古典選・論語』)。
筆者は「そいつが渡し場のありかを知っているよ」の意ではないかと思う。
「矣」は確認の語気を表す語気詞。
「知っているよ」「知っているはずだよ」の意。
この「是知津矣」の句、古注、後漢の馬融は
「言数周流、自知津処」
(孔子がしばしばめぐり流れているので、自然と渡し場の場所を知ることをいう)
と解している。
つまり孔子が天下をめぐり歩いているので地理はわかっているはずだというのである。
東條一堂は、孔子は博学であるから当然渡し場の場所ぐらい知っているはずだの意に解する(『論語知言』)。
また、「津」を渡し場としつつも、平岡武夫は
「渡し場は人生を乗り切って行くための要所を喩えていう」(『全釈漢文大系・論語』集英社)
とし、また、吉川幸次郎も
「あちこちめぐり歩いて、いろいろ経験を重ねている。渡し場を、ここの渡し場だけでなく、人生のいろんな渡し場を、知っている筈だ」(『中国古典選・論語』)
とするが、そこまで深読みする必要があるかは疑問。
いずれにしても、長沮の言は、自分たちのように隠れずに世を周遊する孔子を暗に謗ったものである。
(10)【問於桀溺】
謂語「問」+介詞句「於桀溺」の構造。
「問」は依拠兼他動の動詞。
すなわち「誰に」と「何を」の2種の賓語をとる動詞である。
ここでは依拠性に対する賓語「桀溺」をとり、「問桀溺」でも「桀溺に問う」という意味を表し得る。
それなのに「於」が用いられているのは、その依拠性を明確にするのである。
子路が桀溺に問うたのは、もちろん長沮のにべもない態度に諦めたから。
(11)【子為誰】
「子」は二人称代詞。あなた。
なお、太田辰夫は
「『子』は二人称のごとく用いるが否定文の賓語となっても倒置しないから名詞とする」(『古典中国語文法 改訂版』汲古書院)
と述べている。
「為誰」は(5)で述べた。
(12)【為仲由】
「為」は(5)参照。
「仲由」は、子路の姓名。
姓が仲、名が由。
子路は字、季路ともいう。
子路が姓名をもって答えたのは、(6)と同じで、一般人に自分が誰であるかを述べる時の礼である。
(13)【是魯孔丘之徒与】
「是」は(7)に同じく中称の代詞。
「それは」と子路の前言「仲由」を指していう。
「孔丘之徒」の「之」は、いわば「それの」にあたる語だが、「それの」のような実質的な意義はなく形式的な意義だけをもち、常にそれに先行する名詞または名詞句(ここでは「孔丘」)によって実質的な意義が補充されて、「孔丘之」(孔丘、それの)として後の名詞の意義を限定修飾し、「孔丘の弟子」という名詞句を作る。
中国の語法学では結構助詞とされる。
「与」については、(7)で述べた。
(14)【対曰】
「対」は、上位の者からの問いかけに対して答えるの意の動詞。
子路は長沮や桀溺に対して礼を尽くしており、このような表現になったものか。
「曰」は1の(1)で述べたように、形式的な動詞で、具体的な「言う」という意味に重きを置かず、後の内容により実質的な意味が補充される。
「対曰」で、「お答えした」の意。
(15)【然】
「そうである」の意。
相手の問いに対して肯定する意の形容詞。
(16)【滔滔者天下皆是也】
「滔滔」は、許慎『説文解字』に
「水漫漫大皃」
(水漫漫として大なるの皃(=貌))
とある。
水が広く一面にみなぎる様子を表す。
前漢の孔安国は
「滔滔、周流之貌」
(滔滔とは、巡り流れるさまである)
とする。
「者」は(5)に同じく結構助詞。
ここでは状態を指す。
「滔滔」は形容詞だが、結構助詞とされても、「者」は本来形式的な名詞で「滔滔」によって意味が補充される語だから、「滔滔者」は名詞句になる。
「天下皆是也」とは、天下がみなそれであるの意。
「是」は「滔滔」を指す。
したがって、この句は主語「滔滔者」+謂語「天下是」の構造で、謂語の部分は主語「天下」+謂語「是」になるので、いわゆる主謂謂語になる。
「也」は説明の語気詞。
この句、「滔滔」は前述した水の様子だが、それが天下の状況そのものであることをいう。
したがって、世はひろく乱れている、もしくは世が悪や乱に走ることを水で喩えているのだ。
いかにも水辺で耕作する隠者らしい比喩である。
(17)【而誰以易之】
「而」は連詞。
逆接の用法として「それなのに」などと訳されているが、「そんなありさまで」の意味で後にかかる。
前句の内容を経由して自己を実質化し、「して」と後に続けるのである。
「誰以易之」は、朱熹が
「言天下皆乱、将誰与変易之」
(天下はみな乱れ、誰とこれを変えようとするのかの意)
と注したことにより、現行の解説諸本多くがこれに従って、「誰以」を「誰与」に解している。
「以」が「与」に近い意味で用いられる例はないわけではなく、たとえば梁上の君子で有名な『後漢書・陳寔伝』の「習以性成」は、古来「習ひ性と成り」と読まれているが、『書経・太甲』に「習与性成」という同様の表現がある。
この「以」は「与」の意で、「習以性成」「習与性成」は「習慣が性質と(ともに)完成し」の意であるとされている。
これは「以」の原義「用いる」からの引申義で「率いる」の意味があるからだ。
つまり、「習慣が性質を率きつれて完成する」からこの意になるわけである。
しかし、それは「以」を通常の意では解せない場合での話であって、「誰以易之」は「以」を「与」に置き換えなければ解釈できない表現であろうか。
筆者はこの「以」の義として、3つの可能性があると思う。
まず、「易」を世の中を変易するの意であるという前提で、「誰以A易之」という「以A」の省略形と考えてみれば、「之」が世の中を指すのは自明であるから、「以A」を「世の中を」と解することはできない。
また何かを用いてや、何かを理由にというのも考えにくい。
しかし、「以」を状態を表すと捉えて、「このような状態で世の中を変える」という表現は可能であろうと思う。
つまり、解釈の1つめの提案は「誰か以て之を易へん」と読んで、「誰がこんな状態で世の中を変えようか」と解釈するものである。
次に、「誰以」を介詞句とみなすことはできないかと考えた。
つまり「誰によって」と解するわけである。
しかし今のところ「誰以」が介詞句である用例を見いだせない。
ただ、わずかに『墨子・魯問』に、
「我有二子、一人者好学、一人者好分人財。孰以為太子而可」
(私には二人の子があり、一人は学問を好み、一人は人に財を分け与えるのが好きである。どちらを太子としてよいだろう)
という例がある。
きわめて例が少ないのでどうかとも思うが、「誰以」を同様の表現とみなせる可能性はあろう。
つまり、「誰を以てか之を易へん」と読んで、「誰によって世の中を変えようか」と解釈するものである。
中井履軒は『論語逢原』で
「以如字。如以其君覇之以。与下文不与易之与、不同。以者拠人君而言。与者、泛以衆人而言。不当相混」
(「以」は字の通り。「以其君覇」(その君によって覇者となる)の「以」と同じ。下文の「不与易」の「与」と同じではない。「以」は君主をよりどころとして言う。「与」は広く衆人ともって言う。混同するべきではない)
とするが、この考え方に近いだろうか。
さらに、そもそも「易」を世の中を変えるの意ではなく、人を代えるという意で捉える場合について考える。
「誰以」をやはり介詞句と捉えて、「誰を」の意とする。
すなわち「誰をこれに代えようか」と解釈するわけだ。
孔子が諸国を周流して理想を実現できる君主を探していることをすでに長沮が皮肉っているが、桀溺がそれを受けて、どこもかしこも乱れきった世の中で、そんな君主はあろうはずもなく、誰をだめな君主に代えられようかというわけだ。
しかしこの解釈は「之」をむりやり乱れた世の君主を指すと説明することになり、少し無理な感じはする。
ただ、旧注で孔安国は
「当今天下治乱同。空舎此適彼。故曰誰以易之也」
(今の世にあたり天下の治乱は(どこも)同じ。むなしくこの地を捨てて彼の地に行く。だから「誰以易之」というのである)
と注するが、この「誰以易之」は「誰をこれに代えようか」という意味だと思う。
結論として3つの解釈のうち、筆者は「誰以」という介詞句を認めうるなら、2つめの解釈が無理のないものではないかと考える。
「誰とともに」という朱熹の説はいささか強引の感が否めない。
(18)【且而】
「且」は、「積み重ねて作った墓」、あるいは「お供えの肉を積み重ねたもの」が原義とされ、要するに「積み重ねること」を意味する語だ。
さらにもう一つと積み重ねる義が連詞の用法。
「而」は、朱熹が
「而、汝也」
(「而」は、「汝」である)
と注したことにより、これまた解説諸本のほぼすべてがそれに従っている。
確かに「而」が二人称代詞として用いられる用法はある。
しかし『論語』ではこの1例のみである。
また、「而」は後の『史記』などではもっぱら定語として、「而父」(なんぢの父)、「而国」(なんぢの国)などのように名詞や名詞句を修飾する形で用いられるのが普通で、主語の例は稀である。
ただ、『春秋左氏伝・定公14』に
「夫差、而忘越王之殺而父乎」
(夫差よ、おまえは越王のお前の父を殺したことを忘れるか)
の例もあり、まったく主語に用いられないわけでもない。
とはいえ、『論語』のこの箇所の「而」をただちに二人称代詞とみなすことにはもう少し慎重でありたい。
太田辰夫は
「『而』は論語では1例をみるのみで,異質の方言としての記載であろう」(『古典中国語文法 改訂版』)
とするが、根拠が不明である。
北宋の邢昺が『論語注疏』で
「且而皆語辞、与猶等也」
(「且而」はみな語辞(いわゆる助字)で、「猶」と同じである)
とするが、『論語証解』は「非なり」と否定だけして、その根拠は示さない。
筆者はむしろ『論語』の他の箇所には用いられないのに、この「而」を「汝」と解する朱熹の解釈の方には少々疑問を感じないでもない。
「且而」は、『荘子・徳充符』に
「和而不唱、知不出乎四域、且而雌雄合乎前」
((哀駘它という醜男は)他人に同調して自分の意見を唱えず、知識は四方の村里から出ず、「且而」(なぜか多くの)男女が(彼の)前に集まってくる)
という例が見える。
この「且而」は明らかに「語辞」であって、「汝」の意味では解せまい。
「且つして」であって、「それでいて」ぐらいの意味だ。
『論語』の本文に立ち返って、この「而」が「汝」の意味でなければ通らないのならともかく、「且而」を「且つして」すなわち「それにそして」と解することはそれほど不自然ではないと思う。
(19)【与其従辟人之士也】
「辟人之士」とは、人を避ける人物、孔子を指す。
「辟」は「避」の古字という。
孔子が徳のない君主を不可として避けるからそう言ったもの。
「辟人之士」の「之」は(13)に既出。
「辟人」により実質的な意味が補われ、「人」を限定修飾する。
「与其~」は、本文その後の句と共に「与其~、豈若~哉」の形で取捨選択を表す形式。
他にも「与(其)A、寧B」(Aするより、Bする方がよい)や、「与(其)A、孰若B」(Aするのは、Bするのと比べてどうか」などの形式がある。
現在の語法学では「与其」で一つの連詞として、「其」には特に意味がないとされるが、筆者はもともと「其A」(其のAする)で、「それがAすること」という意味をもっていたと思う。
「其」はAの主語ではないが、Aの作用の主体を表し、Aは叙述性はあっても謂語ではないが、Aすることという体言の概念をもっている。
つまり、「与其A」は、「与其+A」ではなく、「与+其A」であって、「与其」を1つの連詞とみなすのは適切ではない。
この「与」という字は、もともと「仲間になる・仲間にする」という意味の語で、そこから現在、連詞や介詞として用いられる「与」の用法が生まれたものだ。
この「与其A」も、その用法の中にあって、「よりは」と読んではいるが、本来「~とは」の意、すなわち「それがAすることとは」、「それがAすることとくらべて」という比較対象を示すもの。
したがって、「与其従辟人之士」は、「それが人を避ける人物に従うこととは・~従うこととくらべて」の意だ。
この用法の「与」は現在の語法学では連詞に分類されているが、むしろ介詞の働きのままというべきであろう。
たとえば『論衡・卜筮』の
「占夢与占亀同」
(占夢は占亀と同じ)
は、「夢占いは亀占いと同じである」という意味で、この場合の「与」は介詞とされるが、比較の対象を表している点では同じであろう。
「其」はあえていえば、桀溺の目の前にいる子路を指すが、もはやそこまで強く意識はされていないのであろう。
「也」は語気詞。
その前の「与其従辟人之士」を受けてその意味を提示し、語調をいったん休止して後の叙述を待つ働きがある。
「や」と読むこともあるが、特には訳さない。
(20)【豈若従辟世之士哉】
「辟世之士」は、世を避ける人物、隠者、桀溺自らをいう。
「豈」は、反語の語気副詞とされるが、「どうであろう?」と疑いを設けてみる語。
これをふつう「なぜ・どうして」と訳すから文意がわからなくなるのだ。
この句も「どうであろう?世を避ける我々に及ぶか?」の意。
「与其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉」を、訓読や学校漢文の句法にしたがって、「人を避ける孔子に従うより、どうして世を避ける我々に従うに及ぼうか」などと訳すと、よく意味がわからぬが、「人を避ける孔子に従うのと比べてな、どうだ?世を避ける我々に及ぶかい?」とでも訳せば、文意は明瞭になる。
「若」は「しなやかで言いつけに従順である」が原義の字。
言いつけ通りにするから「似る」の意味をもつ。
「如」も同じだ。
さらにその似た状態に及ぶという意味を派生した。
ここはそれ。
「哉」は、疑問や反語を表す語気詞。
(21)【耰而不輟】
鄭玄は
「耰、覆種也。輟、止也。覆種不止、不以津告也」
(「耰」とは、種を覆うのである。「輟」とは、止めるである。種を覆って止めないのは、渡し場の在処を告げないのである)
という。
種を覆うとは、まいた種に土をかぶせるという。
「而」は連詞だが、「種を覆う、そして止めない」ではなく、種を覆い続けて止めないの意。
むしろ方策を表す。
(22)【子路行以告】
主語「子路」+謂語「行」+介詞「以」+謂語「告」の構造。
介詞「以」はその賓語が省略されているが、長沮桀溺とのやりとりいきさつ、あるいは彼らの言葉がその内容。
つまり「子路は孔子のところへ行って『そのことを』告げた」の意。
(23)【夫子憮然曰】
「夫子」は年長者への敬称。
孔子の弟子が孔子を「夫子」と呼んだために、先生の意味で用いられるようになったという。
「憮然」は、失意のさま、がっかりして。
朱注では
「憮然、猶悵然。惜其不喩己意也」
(「憮然」は、悵然と同じ。その自分の気持ちを悟らないことを惜しむのである)
とする。
「悵然」とは思い切れず恨めしげなさまを表す語だが、朱熹がこの注をつけたのは、「憮然」があまり用いられない語であるためか。
邢昺は
「憮、失意貌」
(「憮」とは失意の様子)
とする。
これは何晏の『論語集解』の
「為其不達己意而便非己也」
(その自分の思いに達せずに自分を謗ったためである)
という解釈を是としたもの。
微妙に感情の解釈が異なるが、中井履軒は
「此憮然、是傷悼之意。故与悵然相近。然亦傷世之感已、非傷彼之不喩」
(この「憮然」は、悲しみいたむ気持ち。ゆえに「悵然」と近い。しかし世をいたむ思いであって、彼らが悟らないのをいたむのではない)
とし、朱熹の「悵然」を受け入れつつも、真意は異なるとする。
清の焦循が『孟子正義』で「夷子憮然」の句に対してつけた注に、「憮」を『説文解字』や『爾雅釈言』『広雅釈詁』の記述をもとに、安定不動の義として、この箇所を
「蓋夫子聞子路述沮溺之言、寂然不動、久而乃有鳥獣不可同群之言」
(思うに、夫子は子路が長沮と桀溺の言を述べるのを聞き、黙ったまま動かず、しばらくして「鳥獣は群れを同じくすべからず」の言があったのであろう)
とした。
清の劉宝楠はこれを受けて、『論語正義』で
「蓋人失意、毎致寂然不動。如有所失然也。沮溺不達己意、而妄非己、故夫子有此容」
(思うに、人は思うようにならぬ時は、黙って動かぬようになるものだ。何かを失った場合もそうである。長沮と桀溺が自分の思いに達せずに、みだりに自分を誹謗したので、夫子はこの様子になった)
とする。
いずれが是かは判じかねるが、清代の考証学に基づく解釈はおもしろい。
子路の報告を聞く孔子が、一瞬ことばを失い、ややあって「鳥獣…」と述べ始める姿を想像してみると、なんとも味わい深い。
(24)【鳥獣不可与同群】
2の(2)でも述べたように、「可」は助動詞に分類されるが、もともとは形容詞であり、「A可B」(ABすべし)は「AはBすることについて可である」、「A不可B」(ABすべからず)は「AはBすることについて不可である」の意だ。
すなわち「鳥獣不可与同群」は、「鳥獣は、それと群れを同じくするものとして不可である」という意味である。
したがって「与」は本来後に「それ」にあたる賓語をとる介詞だが、この場合の賓語は具体的な何かに確定されない。
鳥獣ではもちろんない。
つまり、鳥獣は「(人が)何らかのそれと群れを同じくするもの」として不可だからである。
「何らかのそれ」は色々考えられるはずだ。
(25)【吾非斯人之徒与而誰与】
諸本みな「吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん」と訓じ、概ね「私はこの人間の仲間とともにするのでなくて誰とともにしようか」の意に解している。
ただ宮崎市定のみ
「吾は斯の人の徒に非ず。而と与に誰に与せん」
と句読した上で訓じ、この句以下を含めて
「私はあの人たちと仲間になりたくてもなれない。古い言葉に、而とともに誰の仲間になろうか、とあるが、(私は人間ぎらいどころではない。)天下の有道者からは、私は決して離れて行かぬつもりだ」(『論語の新研究』岩波書店)
と解している。
宮崎がこのように句読したのは、「斯人之徒」を
「いったい天下の大衆を斯人之徒などと呼ぶことができるものだろうか」
という疑問による。
宮崎は「斯人之徒」を
「自然のままに長沮桀溺とする」
と解している。
その上で、残った「与而誰与」について、
「このように第一字と第四字が同字であるのは、古語の引用である場合が多い」
として、
「而の讀み方が問題であるが、恰もよし、すぐ前に桀溺の言葉の中で而の字を用いて汝と讀ませているから、ここでも同じように汝と讀んでも唐突の感がない」
とする。
古語の引用というのも根拠からしていかがなものかと思うし、「而」を「汝」に解するのも(18)で述べたように不審であるが、句読を疑ってみるのは一つの見識であろう。
ところで、筆者もこの箇所を従来のように句読することについては疑念がないでもない。
宮崎が言うように「斯人之徒」を人類と解するのも違和感がある。
「斯」は近称の代詞であるから、「この人の仲間」と普通に解せば、確かに長沮と桀溺を指すとしてもおかしくはない。
しかし、筆者の違和感はむしろ「斯人之徒与」を「斯の人の徒と与にす」と読むことにある。
「誰与」なら、「誰」は介詞「与」の賓語であり、疑問代詞だから介詞の前に置かれるのは通常のことである。
しかし、疑問代詞ではない「斯人之徒」を「与」の前に置くであろうか。
太田辰夫は
「介詞賓語を介詞のまえにおく用法がある」
として、
「一以貫之」(一以て之を貫く)などの例を挙げ、
「疑問代名詞でない介詞賓語を倒置する例としては介訶『以』『用』によるもの以外は論語には見えない」(『古典中国語文法 改訂版』汲古書院)
としながらも、一方で同じ書の中で「斯人之徒与」はその語順であると述べる記述の矛盾をおかしている。
介詞「与」の賓語の倒装は、「以」とは違い、「之」を用いて示す必要がある。
劉景農が『漢語文言語法』(中華書局)で
「“爲”“與”“自”三個介詞也有放在賓語後的,不過這個介詞前必須有“之”纔成;同是倒装,在形式上都跟“以”不一樣。」
(「為」「与」「自」3つの介詞も賓語の後に置かれるが、この介詞は「之」の前に置かれなければならない。同じ倒装でも、「以」とは形式が違う)
と述べている通りだ。
つまり、「斯人之徒」が「与」の賓語で倒装されているなら、「斯人之徒之与」となるはずだということ。
たとえば『春秋左氏伝・昭公15」の
「晋居深山、戎狄之与隣、而遠於王室」
(晋は深い山の中におり、戎狄と隣り合わせて、王室から遠ざかっていた)
などがその例だ。
このことについて、現行の『論語』の解説書が一切疑問を呈していないこと自体が不思議である。
さて、この推論が成立すれば、「吾は斯の人の徒に非ず」と句を切って「私はこの人たちの仲間ではない」と解することになる。
ただ、1の(2)で述べたように、「吾」が強く自分を指示しようとする場合には用いられず、そういう場合は「我」を用いる傾向からすると、この場合は長沮・桀溺を強く意識して自分はそれとは違うというのだから、「吾」ではなく「我」を用いるはずだという疑問は残る。
しかし、それは従来通りの句読でも、背景にある長沮・桀溺への意識は似通ったものだと思う。
仮に「吾は斯の人の徒に非ず」で句を切るとすると、やはり「与而誰与」の四字が問題となる。
「誰与」は「誰と与にする」で間違いないとして、「与而」をどう考えるかであるが、筆者はこの四字を「与にするとして誰と与にせん」または「与するとして誰にか与せん」と読むことはできないかと考える。
「仲間になるとして、誰と仲間になろうか」と解するわけである。
介詞「与」がこのような用いられ方をするだろうかという疑問はあるが、前の「与」はその原義「仲間にする・仲間になる」を色濃く残した動詞的な用いられ方ではないかと思うのだ。一つの試論として示しておく。
(26)【天下有道、丘不与易也】
「天下有道」は、諸本「天下(に)道有らば」と読む。
「天下に道があれば」「天下に道が行われていれば」と解する。
ただ、前出『論語の新研究』で宮崎市定は
「論語の中ではこれを有道者の意味に、名詞として用いることが二囘」あるとして、「この場合も名詞として解釋すれば通りがよくなる。前文に天下滔滔者とあるのも事實だが、一方天下に有道者がいるのも事實で、それがいる限り、孔子はその仲間に留まるのである」
とする。
なお、宮崎は「天下有道、丘不与易也」を「天下の有道には、丘は與し易わざるなり」と、「易」を「違う」の意で解する。
もちろん「天下有道」を「天下の有道」として「天下の有道者」の意味で読めないことはないが、果たしていかがであろうか。
筆者は通説どおり「天下に道有らば」で十分通ると思う。
「丘」は(6)で既出、孔子の名。
自分を示すので名を用いる。
「不与易也」は、「与」を「以」の意に解して「与て易へざるなり」と読むものがいくつか見られる。
吉川幸次郎は
「もし道理のある世界であるならば、私はそれを改革しようと、しないであろう」
と訳し、
「『与』は、『以』の字に近いものとして読んだ」(『中国古典選・論語』)
とする。
朱熹が『四書集注』で
「天下若已平治、則我無用変易之」
(天下がもし治まっていれば、私はそれを変えることはない)
とするのに基づくものか。
「与」を「以」の義に解するのは(17)にも見られるが、すぐ前に「吾非斯人之徒与而誰与」に「与」が2字も用いてあるのに、あえて別義で「与」を用いるであろうか、疑問を感じる。
筆者はこの「与」もやはり「~とともに」の意で、前に述べた「誰与」(誰と与にせん)が暗示する、「人」もしくは「理想を実現できる君」を指して、「探し求めるその人と」という意味を表しているのではないかと思う。
「天下有道、不与易也」は、天下に道がないからこそ、その人とともに世を変えようと諸国を周流するのだと言いたいのではないか。
「也」は説明の語気を表す語気詞。
【文の成分および品詞分解】(←クリックしてください)
※最後に、この条、筆者が従来の解釈とは異なる句読と読みを試論として述べているので、それに従った該当箇所を以下に示しておく。
■訓読(筆者の試論)
…曰はく、「滔滔たる者は天下皆是れなり。而るに誰を以てか之を易へん。且つして其の人を辟くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや。」と。耰して輟めず。子路行きて以て告ぐ。夫子憮然として曰はく、「鳥獣は与に群れを同じくすべからず。吾斯の人の徒に非ず。与にするとして誰と与にせん。天下に道有らば、丘与に易へざるなり。」と。
■訳(筆者の試論)
…(桀溺が)言った、「とうとうと(洪水のように)流れているものは天下がみなそれだ。そんなありさまで誰によってそれを変えようか。(誰によっても変えられはしない。)それに人を避ける人物(=孔子)に従うより、どうであろう世を避ける人物(=自分たち)に従うに及ぶかね。」(二人は種を(土で)覆い続けて止めない。子路が行きそれを告げた。先生は気落ちしておっしゃった、「鳥や獣は(人は)群れを同じにすることはできない。私はこの人たちの仲間ではない。ともにするとして誰とともにしようか(理想の人を見つけてその人とともに世を変えたい)。天下に道があれば、私はその人と(世を)変えたりはしないのである。」
【文の成分および品詞分解】(筆者の試論)(←クリックしてください)
※参考文献
・邢昺『論語注疏』[十三経注疏](北京大学出版社)
・朱熹『四書章句集注』[新編諸子集成 第一輯](中華書局)
・皇侃『論語集解義疏』(早稲田大学図書館)
・劉宝楠『論語正義』[十三経清人注疏](中華書局)
・楊伯峻『論語訳注』(中華書局)
・毛子水『論語今註今訳』台湾商務印書館
・伊藤仁斎『論語古義』(日本名家四書註釈全書)
・荻生徂徠『論語徴』(日本名家四書註釈全書)
・東条一堂『論語知言』(日本名家四書註釈全書)
・中井履軒『論語逢原』(日本名家四書註釈全書)
・安井息軒『論語集説』[漢文大系](冨山房)
・簡野道明『論語解義(増訂版)』(明治書院)
・桂五十郎『先哲遺著追補 漢籍国字解全書 28 論語証解』(早稲田大学出版部)
・吉田賢抗『新釈漢文大系1 論語』(明治書院)
・宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)
・諸橋轍次『論語の講義』(大修館書店)
・平岡武夫『全釈漢文大系1 論語』(集英社)
・吉川幸次郎『論語』[中国古典選](朝日新聞社)
・加地伸行,宇佐美一博,湯浅邦弘,小川環樹,本田済『鑑賞 中国の古典2 論語』(角川書店)
・宇野哲人『論語新釈』[講談社学術文庫](講談社)
・謡口明,加藤實,前田康晴,工藤潔『研究資料漢文学1 思想Ⅰ』(明治書院)
・漢詩・漢文教材研究会『漢詩・漢文解釈講座5 思想Ⅰ 論語上/6 思想Ⅱ 論語下』(昌平社)
・江連隆『論語と孔子の事典』(大修館書店)
・馬建忠『馬氏文通』(商務印書館)
・楚永安『文言复式虚词』(中国人民大学出版社)
・劉景農『漢語文言語法』(中華書局)
・中国社会科学院语言研究所古代汉语研究室『古代汉语虚词词典』(商务印书馆)
・何乐士『古代汉语虚词词典』(语文出版社)
・解惠全等『古书虚词通解』(中华书局)
・松下大三郎『標準漢文法』(紀元社)
・牛島徳次『漢語文法論(古代編)』(大修館書店)
・西田太一郎『新訂 漢文法要説』(朋友書店)
・西田太一郎『漢文の語法』(角川書店)
・鈴木直治『中国古代語法の研究』(汲古書院)
・太田辰夫『古典中国語文法 改訂版』(汲古書院)
・加藤常賢『漢字の起源』(角川書店)
・藤堂明保『漢字語源辞典』(學燈社)
・白川静『字統』(平凡社)
・李学勤『字源』(天津古籍出版社) 等