『論語』注解6

(内容:『論語』で、教科書によく採用される「吾十有五而志于学」の文章の文法解説。)

『論語』注解6 (以下 京都教育大学附属高等学校 研究紀要96号 2023.3 より)

■原文

(1)子曰、「(2)吾十有五而志于学。(3)三十而立。(4)四十而不惑。(5)五十而知天命。(6)六十而耳順。(7)七十而従心所欲、不踰矩。」(為政)

■訓読
子曰はく、「吾十有(いふ)五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑(まど)はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰(こ)えず。」と。

■訳
先生がおっしゃった、「私は十五歳になって学問に志した。三十歳で自立した。四十歳で迷わなくなった。五十歳で天命を知った。六十歳で耳が順った。七十歳になって心の望むことに従い規範を越えなかった。」

■注
(1)【子曰】
 拙前稿(本稿研究紀要第95号)において、「『いはく』と読むのは、訓読上のこと。日本語の『言ふ』のク語法に過ぎず、当たり前のことだが、『~と曰ふ』が構造的には正しい」などと軽率なことを述べた。
本稿1項目でいきなり訂正から始めるのは慚愧の念にたえぬが、同じように思っている人もあるかもしれぬので、あらためて述べ直し訂正しておく。

「曰」は帰着性を有する動詞で、本来後に賓語をとる。
たとえば、『孟子・梁恵王下』の

「幼而無父曰孤」
(幼くして父無きは孤と曰ふ)

などは、同様の表現がよく見られるが、「孤」は「曰」の生産性に対する賓語であり、「孤」は「曰」の生産物である。

また、「曰」は「いう」という意味ではあるが「言う」という具体的な動作に重きを置く語ではない。
後に置かれる賓語によって、具体的に「~という」という実質的な意味が補充される。
だから単に「発言しない」という意味で「不曰」などとは言わない。
したがって、「曰~」とあって、はじめて「~」により実質的な意味が補充された表現になる。

ところが、では「子曰~」は「子~と曰ふ」が構造的に正しいかといえば、おそらくそうではなく、この場合の「曰」は非帰着化していて、「先生がおっしゃった、~」の意であろう。
つまり、帰着性をもつ動詞「曰」が非帰着化して、「いうよう」「いうこととして」と、副詞のように後の発言内容を修飾するのである。
これを古代の日本人はク語法をもって「いはく」と訓じた。
このことについて松下大三郎は

「『曰』を『いはく』と讀むのは真の直譯ではないが非常に巧妙な和譯である」とし、古代中国の人が「『曰』を用ゐた心持に實に髣髴たるものが有る」(『標準漢文法』紀元社)

と述べている。

このように考えれば、「曰」の後に何百、何千文字がその発言内容として置かれても、矛盾なく説明することができる。
まさか、何千文字も後から「~と曰ふ」が本来だと解して、~は賓語であると説明するわけにもいくまい。

(2)【吾十有五而志于学】
「吾」は、一人称代詞、われ。
「我」と同義のようにも見えるが、用いられ方には差があり、古来その使い分けについて論議がなされてきた。
詳細を述べることは避けるが、馬建忠が『馬氏文通』において、用いられる格に違いがあり、「吾」が主格・修飾格に用いられ「我」はすべての格に用いられると文法的な差異を述べたことを初めとして、胡適やカールグレンによりその研究が推し進められた。
しかし、その結論には例外も多くいささか首肯しかねる。
こうと断じることは難しいが、私的には鈴木直治の「『我』『吾』について」(『中国古代語法の研究』汲古書院)に述べる

「話し手が,強く自分を指示しようとする場合には,『我』を用い,然らざる場合には,『吾』を用いる」

とする説が妥当かと思う、参照されたい。
この部分も、孔子が自己の学を振り返っているのであり、他者を念頭において強く自分を指示する必要がなく、単に「私は」と述べるだけであるから「吾」を用いているのである。

「十有五」は15歳。「有」は「又」に通じ、はしたのあることを示す。連詞としておく。

「十有五而」の「而」は連詞。
「十有五」でまだ意義の切れない句の後に置かれて、後へ続く働きを明瞭にする。
「而」については、学校漢文では順接と逆接の2つの意味があると説明するが、その語自体に実質的な意味はなく、前句の意義を借りて実質化し、それを経由して後に続ける働きが基本である。
したがって、「て」「して」、あるいは「で」に相当する。
必ずしも「(~して、)そして」という意味を表すとは限らず、たとえば、『春秋左氏伝・僖公4年』の

「循海而帰」
(海に循(したが)ひて帰る)

は、「海に沿うて帰る」、つまり「海沿いに」という方法を示しており、「海に従う」という行為の後で「そして」帰るわけではない。
「而」のこのような用法は頻繁に見られ、状語(連用修飾句)の働きともいえる。

「十有五而」の場合、「十有五」は単に15歳という意味以上に、「15歳になる」もしくは「15歳で」という叙述態になっており、単独で「志」を修飾しうるが、「して」の働きを「而」が引き受けて、15歳であるという事象を経由して後にかかる働きを明確にして、つまりは「15歳になって」「15歳で」という意味を表しているのである。

なお、漢文で名詞やそれに準じる語が叙述態となるのはごく普通のことであり、たとえば『論語・顔淵』の

「君君、臣臣、父父、子子」
(君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしくある)

のうち、後の「君・臣・父・子」はみな叙述態になっている。

「志于学」は、学問に志す。
動詞「志」だけでも何に志すのかという依拠性をもつが、介詞「于」を置くことでその意を明確にしている。

なお、漢の石経などに「于」を「乎」に作るのを、特に理由を説明せずに、「従ふべし」(簡野道明『論語解義』)、「この方がよい」(吉田賢抗『新釈漢文大系1 論語』)とするものが散見するが、清の翟灝が『四書考異』で、この箇所の「于」は「乎」の誤写であろうと考証したことに拠るものか。
桂五十郎は、翟灝の考証の矛盾を指摘してこれを否定している(『論語証解』早稲田大学出版部)。
「于」でも「乎」でも語法的には異ならない。

「吾十有五而志于学」が具体的に孔子の生涯のどのような場面を指すのかについて、さまざまに研究はなされているが、本稿の目的はその言及にはない。
ただ、15歳が古代中国における最高学府である大学への入学を指すという説明もなされているようだが、貧賤な生まれの孔子がそうであったとはとうてい考えにくい。
卑賤の生活にありながら、地方の郷党の中でさまざまな物事を学び取り、世界に目を向け始めたのが15歳であったというのではないかと思う。
孔子の少年、壮年期は謎に包まれている。

(3)【三十而立】
「三十而」は、30歳になって、もしくは30歳で。
名詞の叙述態、「而」の働きについては(2)を参照のこと。

「立」とは、己の立場をもって確固不動のものとするの意。
15年の研鑽の結果、学問への志向が道に根ざした状態になることをいうのであろう。
伊藤仁斎が『論語古義』に

「立者、自立于道也。学既為己有、而不為利禄邪説所変移揺動也」
(立とは、自ら道に立つのである。学がすでにおのれのものとなって、利や俸禄、邪説に動かされないのである)

と述べているのがわかりやすい。
諸本概ねこの意に解するが、「学問の基礎ができあがる」と説くものもある(吉川幸次郎『中国古典選・論語』朝日新聞社,吉田賢抗『新釈漢文大系1 論語』明治書院など)。
これも基礎の確立の上で独自の立場をもつということであろう。

(4)【四十而不惑】
「四十而」についても、(2)参照。

「不惑」は、迷わない。
何に迷わないのか不明瞭な表現だが、自己の学問への自信と説くもの、道理が明らかになって諸事に迷わないと説くものなどがある。

(5)【五十而知天命】
「五十而」は、(2)参照。

「知天命」は、天命を知る。
「天命」とは天の命じるところで、天の与えた使命とも、天の与える運命ともとれ、諸本さまざまに論じている。

(6)【六十而耳順】
「六十而」は、(2)参照。

「耳順」は、文字通り耳が順う。
何を聞いてもすらすらわかるとも、自己と異なる見解を耳にしても反発を感じないとも、色々説かれている。

この「耳順」は、主語「吾」に対して、謂語に相当するが、それ自体が主語「耳」と謂語「順」から構成され、このような謂語を主謂謂語という。
いわば「象は鼻が長い」に似た構造。

「不惑」「知天命」「耳順」、いずれも短い言葉であるがゆえにさまざまに解することが可能で、孔子の思想や生涯をどう捉えるかで、当然解釈は異なってくる。
語法的な問題ではないので、ここでは論じない。

(7)【七十而従心所欲、不踰矩】
「七十而」は、(2)参照。

「従心所欲」は、心の望むことに従うの意。欲望のままに行動するということ。
「心所欲」は1つの名詞句で、謂語「従」の賓語となっている。
すなわち、謂語「従」+賓語「心所欲」の構造。

「所」の用法については、前稿「己所不欲、勿施於人」の項で詳述したが、学校現場の教員も生徒にも今ひとつ理解の足らない部分だと思うので、改めて述べておく。

「所」は中国の語法学では結構助詞とされ、後に伴う動詞(ここでは「欲」)の不定の客体を表す名詞句を作る働きがある。
「欲」は「ソレを欲する」という他動性に対する客体をとる動詞だから、「所欲」(欲する所)の場合、「所」はその客体「ソレ」になる。
これが「欲桃」(桃を欲す)という句なら、「欲」の客体「桃」は、桃と限定されたものになるが、「所欲」((ソレを)欲するソレ)は、何かに限定されない不定の客体を表す名詞句になる。
これが「心」の修飾を受けて、「心の『欲するソレ』」となるのだ。
「心所欲」は不定のものを表すから、「心の欲するソレは、桃だ」とも、「心の欲するソレは、出世することだ」などと、さまざまに言えるわけだ。
この「ソレ(所)」を形式名詞「もの」「こと」に置き換えた表現が「欲するもの・欲すること」だ。
この意味もわからずに、「所A」(Aする所)は「Aするもの・Aすること」という意味を表すと丸覚えしたところで、真に理解したことにはならない。
孔子は「心所欲」(心の欲するソレ)が何であるかを限定してはいない。
それがなんであろうと、それに従っても道理に背くことはないというのである。

「不踰矩」は、道理の基準を越えないの意。
「矩」は大工の用いる曲尺のことで、転じて法度、規範を表す。
欲望のままに行動すれば往々にして人の道に反する行為につながるものだが、孔子は七十年学び続けて、おのれの望む行為がそのまま道にかなうようになったというのである。

ところで、この「七十而従心所欲不踰矩」は、従来このように句読されているが、楊伯峻は皇侃が『論語義疏』において「従」を「縦」(はなつ)の意に解しているのを踏まえ、「七十而従心、所欲不踰矩」(七十にして心を従(はな)つ、欲する所矩を踰えず)と読む可能性を示した(『論語訳注』中華書局)。

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